アンと不滅の音楽
ぱらぱらと落ちる鍵盤の煌めきに、雨音が重なる。
深い森に囲まれた小さな国の中を、今日は朝から深い霧が覆っている。
時折、霧の向こうに見える大聖堂の屋根には灰色の雨のヴェールがかかり、広がり、散らばり、煌めいては砕けるピアノの音の中にぼんやり浮かび上がっていた。
どこかに、青白く月の光が落ちる。
こんな雨の夜に月明かりなどと思うだろうが、霧と雨に閉ざされた空の向こうには、確かに淡い月の影があった。
空の上の風が強く、薄い雲間からけぶる月光は、不可思議なシャンデリアのようにディアニムスの街を照らしている。
霊堂のような冷たい石の床の上に、その人の影が伸びていた。
窓辺に置かれた古い夜水晶と月光真珠のピアノの鍵盤に指先を打ち付け、誰もいない暗い大広間でピアノを弾いている人ならざるもの。
その凍えるような美しさに胸が潰れそうになり、アンは生まれて初めての恋を知った。
「アン・リーイン、君もいつまでたっても子供気分かい?」
「夢を見ていたと思う?」
「だって、そうじゃないか。ましてや、この元王宮に白い亡霊だなんて。そんなものが現れたなら、旧王族の方々が大騒ぎだよ」
「でも、雨の日や霧の日、嵐の日になると、大広間にあの亡霊が現れるのよ。…………もう、一年近くになるわ」
「それはつまり………そんな天気の度に、君が部屋を抜け出しているって事だね」
呆れたようにこちらを見たのは、幼馴染のフィリップだ。
アンという名前が隠し扉であるように、このフィリップという名前も同じ仮初のもの。
この魔術音楽の都である、ディアニムスの街の住人は、誰もが偽りの名前で暮らしている。
本物の名前を堂々と名乗れるのは音楽に従事しない者達ばかりで、魔術の色濃く流れる音楽を扱う者達は、音楽の中に棲み付いた妖精や魔物に魂を取られないように、本当の名前を家族以外には明かさないのだ。
(それでも、バーサのお家の女の子のように、名前を明かして亡霊にされてしまう子もいる…………)
アンの屋敷の使用人の末娘は、夏至祭の夜に出会った美しい男性に名前を捧げ、内側を失くしてしまった。
教会の司祭によれば、音楽の妖精に魂を食べられてしまったらしい。
バイオリンの名手で、成人したら大聖堂で演奏会を開けるとまで言われていたのに、恋で身を滅ぼしたのだ。
だから、アンは幼馴染のフィリップの本当の名前は知らないし、彼も、アンの本来の名前は知らない。
二人の家が子供達に幼い頃からの交流を持たせたのは、ゆくゆくは夫婦にと思っているのかもしれない。
であればいつかは、互いの名前を明かすかもしれないが、今はまだ、ただの幼馴染だ。
「でも、旧王家の方々からは、夜もあの王宮を散策していいと言われているもの」
「そりゃ、君は、素晴らしいチェロを弾くからね。君は、次の白銀の楽譜継承者だ。作曲の為の思索を妨げはしないだろう」
かつての王宮だった建物に、アンは暮らしている。
音楽魔術の構築に長け、王宮に仕える音楽家を白銀の楽譜持ちと言い、音楽魔術の封印に長け、聖堂に属する者達を黄金の楽譜持ちと言う。
白銀の楽譜持ち、或いは白銀の楽譜候補の音楽家は、四年前までは王宮だった建物に暮らしている。
封印に長けた聖堂の音楽家達とは違い、白銀候補は人ならざる者達を招き入れるのは得意でも、その影響を排除するのは不得手だ。
よって、白銀の楽譜持ち及び白銀候補生は、遮蔽魔術に守られたかつての王宮で保護されて暮らしていた。
「そう言うフィリップは、聖堂音楽に進むの?王家と聖堂とに分かれたら、違う楽団になってしまうのね」
「僕はその方がいいと思うよ。どちらが時代の流行りになるのかは、誰にも読めないだろう?どちらかが力を有する楽団に所属していれば、色々と融通が利く」
「………それは、友達として?」
思わずそう尋ねてしまったアンに、フィリップは少し困ったような、けれども悪戯っぽい微笑みを見せた。
「どうだろう。未来の家族として、でもいいよ。君の家と僕の家はそのつもりだし、僕達は仲良しだからね。…………ただ、ちょっと上手く言えないけれど、恋だの愛だのではないかなって思う。……君は嫌かい?」
「…………ううん。今更、フィリップではない誰かと言われても、困惑するだけだと思う。でも、確かに恋ではないわね」
ほんの少しだけ躊躇したが、アンがそう言えば、琥珀色の瞳をした幼馴染はほっとしたように微笑んだ気がした。
だからアンは、真夜中の大広間に現れる亡霊に恋をしたのだと言わずにいた事に、密かに安堵する。
なぜだかこの会話の流れでは、これ迄はどんな秘密も持たずにいたフィリップにさえ、明かしてはいけない気がしたのだ。
多分彼は、恋人と言うよりは兄弟のような存在だから。
(…………美しい指先で奏でる、悲しくて恐ろしくて、堪らなく美しい旋律…………)
なぜだかその亡霊の奏でる音楽を聞けば、いつも、暗い暗い夜を眩く照らす白い月光が思い浮かんだ。
あの窓の向こうには見た事もない壮麗な夜の都が広がるようで、アンは、その都に落ちる月の光を見ている。
そうしてなぜか、大切な家族や友人達の全てを置き去りにして、見た事もない夜の都に行きたいと痛切に願うのだ。
目を閉じる。
僅かに乱れた白い髪は決して長くはないのに、その瞳はよく見えない。
だが、顎先や鼻筋の輪郭を辿れば、恐ろしい程に美しい男性であるのは分かっていた。
骨ばった大きな手は指が長く、音楽家のような繊細さよりは、剣を手に戦う騎士のようであった。
それでいて、はっとする程に優美に鮮やかに鍵盤に触れる。
震える程に美しい音楽は酷薄で冷淡で、魂ごと引き摺り込まれるよう。
けれども、演奏が終わってその人の姿が消えると、アンの手のひらや背中はびっしょりと冷や汗で濡れていて、とんでもなく悍ましい者に出会ったような気がするのだ。
それなのに、何度も何度も、あの男性の横顔を思い出すのはなぜだろう。
どんなに素晴らしい演奏会を訪れても、白銀の楽譜を持つ者の演奏に耳を傾けても、あの夜の音楽のように魂を掻き毟る旋律は現れない。
旧王家の美しい王子とお茶をしても、ディアニムスの真珠姫と呼ばれる王女様が微笑みかけてくれて、あなたは恋をしていないの?と親しげにお喋りを持ちかけられても、あの人程に美しいとは思えない。
空が雲を湛え、雨が地面を濡らせば、アンはもうその日の夜の事しか考えられなくなる。
また、あの白い亡霊の奏でるピアノを聴く事が出来るのだと思えば、胸が熱くなった。
心が震え、甘く熱い吐息をほうと吐き、アンはこれが恋だと知った。
「アン、………あの楽譜を破いてしまったというのは本当かい?」
ある日、学院の廊下を歩いているアンを呼び止め、そう尋ねたのはフィリップだった。
その隣には、アンも良く知る旧王家の王子様がいて、どこか案じるような眼差しをこちらに向ける。
フィリップの髪は秋の気配のする涼やかな青空に良く似合う苺色だが、王子様の髪は深い夜の色だ。
青みがかった黒髪は宝石のようだと、同じクラスを選択している女子生徒達がよく噂している。
淡い水色の瞳は、フィリップのように意地悪な輝きを帯びることはなく、いつだって優しい。
(皆がよく、アンはお気に入りで良いわねって言うけれど、気さくな方なのだから自分で話しかけてみればいいのに)
そう思うのだが、四年前に王家が潰えても尚、その階位の差は確かに残り続けている。
ましてやこの国の王家は、王家の者達が持つ音楽の指先を狙った魔物の目を晦ます為に一時的に潰えているだけで、迂闊な誰かがその魔物と交わした六年の約束の時間が終われば、再興される予定であった。
(まぁ、王家滅亡という宣伝の仕方はちょっとやり過ぎという気もしたけれど、そのくらい派手にしないと魔物の目を誤魔化せないのかもしれないわ)
つまりのところ、この国はそうなのだ。
音楽に生き、音楽に生かされ、音楽を中心に回り、音楽の障りを受ける。
芸術の祝福を授けるという霧雨の妖精の愛し子となった王女と騎士から始まったその恩寵は、この国の音楽の魔術を花開かせ、今日にまでその祝福の枝葉を伸ばしていた。
勿論、音楽と共に生きるディアニムスの民はよく知っていた。
人ならざるものの授けた祝福は、幸運にも災いにもなる。
左右に大きく揺れる天秤を上手く釣り合わせながら、自分の才能が自分を生かすように才能を育むのだ。
大陸の方には、より人ならざる者達との関係を深くし、潤沢で完成された音楽を育むザルツがあるが、ディアニムスの人々の暮らし方は人間に偏る。
だからこそ、様々な手立てが必要となるのだった。
「…………ええ。あまり良くない音楽になりかけていたの。………壮絶で、美しくて優美だったけれど、…………そちら側に行ってはいけないと、誰かに私の旋律を調律されたような気がして」
「ええと、…………だとしても、白銀の楽譜の誰かに、魔術的な障りがないかどうか、調べて貰ってからでは駄目だったのかい?」
呆れた目をしてそう言うフィリップに、どう言えば伝わるのかしらとアンは首を傾げる。
これでも、アンなりに言葉を巧みに組み立て、形のない確信を伝えようと頑張ったのだが。
「私の言葉だと抽象的に感じるかもしれないけれど、それは良くないものだと、私は知っていたのよ。…………私の中に流れ続けている、途方もなく美しい音楽がずっとあって、でも、それによく似たもっと悍ましく美しい音楽を奏でるひとを、私は知っているの。………上手く言葉に出来ないけれど、私が作り出す音楽があちら側に傾いてしまったなら、この国にはとても良くない事が起こるような気がするの」
「…………それって、君が見たと言う白い亡霊の事かい?」
「白い亡霊?」
「ああ、エミディアンは知らないよね。…………アン、彼に話しても?」
「ええ。殿下はフィリップの親友ですもの。構わないわ」
「アン、殿下と呼ぶのはやめてくれ。あと二年間は、私は王族ではないのだから。それと、私は君とも友達のつもりなのだけれど」
「まぁ、そうでしたわ。馴染んだ音階でしたので、つい」
「…………アンらしいな」
余談ではあるが、王族の名前というのは、王族の呼称との音の響き合わせが良くなるように考え抜かれている。
そんな響きの一部を捥ぎ取られてしまうと、途端にその名前は魅力的な響きを失ってしまうのだ。
それが例え隠し扉の名前に過ぎずとも、音階というのはそのようなものなのである。
そんな事を考えているアンの隣で、フィリップは、エミディアンにアンのよく見る白い亡霊の話をしていた。
顎先に手を当てて考え込むように頷いていたこの国の元第二王子は、僅かに形のいい眉を顰めている。
確かに、同級生達が騒ぐだけある美しい人だ。
なお、フィリップはちょっと意地悪そうな顔をしている。
「………そう言えば、私の代理妖精から雨の夜と嵐の夜の大広間には、あまり近付かない方がいいと言われた事がある。春先の頃だったと思うが、死者の音階が僅かに揺蕩っていたそうだ。………もし、私達が死者の王のバイオリンを聴いてしまうような事があれば、気が触れると言うからな」
「うーん、周辺諸国でも大きな戦乱はないし、疫病などの気配もない。さすがに、死者の王は現れないのでは?」
「どうだろう。一説によれば、死者の王は音楽をこよなく愛するお方のようだ。…………現に、音楽の魔術には、終焉の系譜のものも多い。もし、終焉の系譜の祝福を誰かが授かるような事があれば…………」
そんな言葉がふつりと途切れ、フィリップとエミディアンがこちらを見る。
アンは目を丸くしてぶんぶんと首を横に振ったが、二人はなぜか、訝しむような目をするではないか。
「…………アン、終焉の系譜の音楽を宿す者は、少なくはない。個人的には、是非白銀の楽譜を継いで欲しかったが、…………もしこちらでの音楽が君に合わないのであれば、聖堂音楽で学んだ方がいいのではないか?………君に何かがあっては困る」
「うん。僕も何だか、そう思えてきたよ。もし、君が広間で見ている白い亡霊が、終焉の系譜の人ならざるものであれば、君はその系譜の音楽の祝福を授かったのかもしれないよ」
このあたりは、学年随一の音楽の才を持つ二人らしい。
ここで、自分達も広間の亡霊を見に行ってみようというような事を軽々しく提案したりはしない。
その者の持つ才能にもよるが、音楽の祝福を持ち生まれた子供の多くは、必ず、どこかで人ならざる者達の祝福を授かる。
それは、歌声に集まる美しい小鳥かもしれないし、笛の音に集まる小さな妖精達かもしれない。
或いは、練習場の壁を覆ってしまうような美しい花や、家の扉の前に毎日届けられる団栗の山かもしれない。
その訪れがどんな形であれ、この国で音楽に携わる者の多くは、そうしてある日突然授けられる祝福を知っている。
そしてそれは、決して選ばれていない他の誰かが踏み荒らしていい領域ではないのだ。
誰だって、お気に入りの音楽家の演奏会に、見知らぬ人が乱入したら嫌だろう。
「…………それは、違うような気がするわ。あれは、祝福というよりも、…………戒めのような気がする。扉の向こうの大広間からその演奏を聴かせ、あの旋律が、…………生れ落ちないようにと警告しているような感じと言えばいいのかしら」
「…………それは、君の中にある音楽に似ているんだね?」
「ええ。よく似た旋律が、私の中にあるの。でも、あの完成された音楽を聴いてしまったら、それがどれだけ…………こちら側からかけ離れた旋律なのかがよく分かる。美しく、震える程に素晴らしいのに、悍ましくて恐ろしくてならない。…………そんな音楽なのよ」
「父上に相談してみよう。アンが、その徴が警告だと感じたのなら、そしてそれを理解しているのに亡霊がまだ現れるのなら、何か受け取るべきメッセージを理解しきれていないのかもしれない。父上なら、この国で起きた様々な障りや祝福の記録に触れる事が出来るから」
「…………いいのですか?」
「勿論だよ。…………その顔だと、君は、聖堂の記録庫への閲覧申請を出すつもりだったのではないかな?」
「ええ、司祭様のフィリップへのご寵愛を利用して」
「…………そこさ、ご寵愛って言わないで欲しいな。僕の祖父だからね…………」
「あら、変わらないでしょ?おじい様は、それはもうフィリップを溺愛なされているのだもの」
アンがそう笑うと、フィリップは拗ねたような目をした。
だが、どこか飄々とした雰囲気の楽聖であるフィリップが、孫を溺愛してやまない祖父にたじたじなのは、親しい仲間内では有名な話であった。
フィリップとその弟は、司祭の娘夫婦に遅くに出来た子供である。
子供を授かる事を諦めていた夫婦にとっての宝物であるのと同時に、その吉報を待ち詫びていた司祭にとっては、生きているだけで可愛いので会うと様子がおかしくなってしまうくらいに大事な孫なのだ。
(フィリップのご両親に祝福を授けた妖精は、子育てでその音楽が鈍るのではないかと、長らく子供を許してくれなかったらしい…………)
名のある音楽家であればある程、そのような話は珍しくない。
特に女性の音楽家は、子育てで、楽器を扱う指先を思うように温められなくなるのではと、祝福を与える人外者に警戒されがちなのだ。
その辺りは人それぞれなのだが、人外者にはよく分からないのだろう。
とは言え、逆にアンの母のように、素晴らしい音楽のお礼に家族を増やしてあげようと、子沢山にされてしまう音楽家もいる。
アンの母親の場合は、守護を与えてくれたのが群れで暮らすムグリスの女王だったからだろう。
でも、そうして皆が、様々な祝福や人ならざる者達のお気に入りとなり、授けられるものと上手く折り合って生きてゆくのだ。
災いを授かった者は祝福で緩和し、時には王家ですら、王家と名乗る事すら許されない程の厄介な執着を背負う。
それでもこの国の民は、音楽が大好きだから。
「…………やれやれ…………他の祝福が複雑に入り込んできたか」
それなのにアンは、夏の終わりの嵐の日の夜に、その亡霊の声を聞いてしまった。
冷ややかな冬の夜のような美しい声は、低く甘く、けれども絶望的な程に乾いている。
いつもは、黒いジレに白いシャツの音楽家のような装いだった亡霊は、その日に限り、暗闇を切り取るような白い軍服姿であった。
床に触れるくらいに長い白いケープに、やはり今日も目元を影で覆ってしまう白い軍帽。
アンは名前も知らない様々な装飾品が鈍く輝き、その胸元でじゃらりと音を立てる。
ぞんざいな仕草で雨に濡れた手袋を外す仕草が、なぜだか、赤面してしまいそうになる程に色めいていて、アンはごくりと息を呑んだ。
触れてはいけないその先の、人間ではないものの領域に立つ男性は、これまでは温度のない冷ややかなばかりの美貌であった。
それなのになぜか、今夜ばかりは、ぞくりとするような体温を感じさせる生身の男性に思えたのだ。
(人ならざるものなのだから、雨になど濡れない筈なのに…………)
ましてやその人が身に纏うのは、暗闇を鮮やかに切り取る純白の軍服。
元々白い髪を持つ男性は、亡霊と言いつつも高位の存在だとは思っていたが、これ程までに階位が高いものだとは思わなかった。
それなのになぜ、雨に重たく濡れた帽子をピアノの蓋の上に置き、濡れた髪を片手で掻き上げるのだろう。
避けられない雨だったのか、雨に濡れたいような事があったのか。
雷光が鮮やかな光で暗闇を切り裂けば、初めて見るその瞳は、彼の演奏に満ちていた夜の中の月光のような色に見えた。
ひゅーひゅーと、喘鳴のような音が喉から零れ、アンは慌てて口を両手で覆った。
遭遇すれば魂ごと壊れると言われている白持ちの人外者の、その中でも特等の存在がそこにいる。
白い軍服の高位の人外者など、どう考えても一人しかいない。
そこにいるのは、死者の王その人なのだ。
だからきっと、彼が姿を現す夜の大広間は、扉の外と中とが違う空間になっているに違いない。
フィリップ達が祝福ではと言った時にすぐに否定したのは、そうして感じる、あちら側とこちら側の明瞭な程の線引きであった。
(…………覗き窓のよう)
そうだ。
この扉は、死者の王のいる向こう側を覗かせている、覗き窓のようなもの。
扉一枚どころか、その扉はアンが広間の白い亡霊を充分に覗き見られるくらいには開いていたけれど、そこにはきっと、決してこの先には進めないような目に見えない境界があるのだろう。
その向こう側で奏でられる音楽は、人間が触れていいものではないのだ。
(もし、私が、浅慮で愚かな音楽家であったなら………)
或いは、アンが音楽に魂を捧げる事を厭わず、後先を考えない衝動的な人間であったなら。
そうしたならアンはきっと、この境界を踏み越え、広間の向こうで流れる音楽こそをと、その再現に取り組んだだろう。
頭の中で、魂の中で鳴り響いている旋律を追いかけ、破滅も恐れるに足りぬと楽譜に音階を刻んだだろう。
でもアンは、どれだけ音楽を愛していても、その為に喪う訳にはいかないものが沢山あった。
家族や友人達を愛しているし、この国や、この国に溢れる音楽を、一人の国民として愛している。
この境界の向こうにある旋律をこちら側に顕現させれば、確証はないものの、恐らくその全てを滅ぼす事になるだろう。
(だから私は、あなた方の領域から、その音楽を持ち出したりはしないわ…………)
本当は声を出してそう告げたいのだけれど、多分、あの男性とはそうして接触してはならないのだろう。
上手く言えないけれど、向こう側とこちら側を繋げてしまえば、アンはもう、生きてはいられないような気がした。
(…………ああ、それでも)
それなのになぜ、あの人は、あんなにも美しいのだろう。
顎先から滴り落ちる雨の雫を、この指先で拭ってみたい。
あの胸にそっと手を当て、その鼓動に耳を押し当ててみたい。
頬に、髪に、その唇に。
あの肌に触れ、体温を感じてみたい。
(あの音楽を奏でるひとの呼吸を乱し、あの月の光のような瞳をけぶらせてみたい)
この身を滅ぼしてもいいから。
たった一度触れるだけでもいいから。
そう考えたのは、音楽家としてのアンだったのだろうか。
それとも、一人の女として、その恐ろしいまでの美貌に魅了されたのだろうか。
自分は何を馬鹿な事を考えているのだろうとぐっと指先を握り込み、アンはどこか茫然としていた。
こんな耐え難いまでの衝動を感じたのは初めてで、まさかそんな感覚に、演奏や作曲以外の事で触れるとは思ってもいなかったのだ。
だが、いつもはただの幻のような美しさであったその人には、今夜ばかりは温度があった。
疲弊し、孤独に眉を顰め、静謐な眼差しは残忍な程であったとしても、苦悩や苦痛のような翳りがあった。
その全てを、この命をずた布のようにしてでもいいから拭い去ってあげたいと、そう思った。
(…………あ、)
真っ白な鍵盤に、指先が触れる。
それは震える程に官能的な光景で、けれどもなぜか、がくがくと震えるような恐ろしさがあった。
音楽がこぼれ落ち、ばらばらと散らばる。
降りしきる雨音に似て、夜の中に滴り落ちてゆく月の光に似て。
濡れた髪を乱し、静かに、そして情熱的にピアノを弾き始めた死者の王の横顔に、アンは、筆舌に尽くし難い程の絶望的な恋をした。
狂おしく悲しく、美しく獰猛な音楽の波間に、ぶくぶくと泡を吐いて沈んでゆくような気がする。
手を伸ばして悲鳴を上げても、あの人は視線すらこちらに向けないだろう。
その肌の温度を知りたいと思う愚かな小娘の姿など、そもそも最初から見えていないに違いない。
それでもアンは、踏み止まりながらももがいていて、狂おしい程に美しい人に触れたくて震えていた。
ぎゅうっと体を縮こまらせ、暴力的なまでの衝動と、ああ、求めていた音楽はこれだったのだと思うような旋律に横たわる。
この夜が明けたらもう、二度と音楽を奏でる事は出来ないかもしれない。
そう思うと堪らなく悲しくて、涙が零れた。
「…………アン、…………アン」
「…………エミディアン、…………でんか」
「…………殿下じゃないよ。少なくとも、あと二年はね」
体を揺さぶる温かな手に、アンが目を覚ましたのは翌朝の事だった。
昨晩の酷い雨は上がり、窓の向こうには青空が見える。
扉が開いた大広間はがらんとしていて、そこには勿論ピアノなど置いていなかったし、死者の王の姿もなかった。
どうやらアンは、部屋に戻る事も出来ないまま、この広間の前の廊下で倒れていたらしい。
王宮とついつい言ってしまうが、今は霧雨の回廊と呼ばれるこの建物の警備をしている、旧王家の騎士がアンを発見してくれたらしい。
この王宮だった建物に住んでいるのはアンだけではないが、エミディアン王子の住まいは、違う棟だった筈だ。
「…………もしかして、大騒ぎになっているのでしょうか?」
不安になってそう尋ねると、心配そうにこちらを見ていた淡い空色の瞳が、ふっと甘く微笑む。
その微笑みの色になぜか、アンはどきりとした。
いつも優しいばかりのエミディアン王子の美しい面立ちのどこかに、酷く男性的な気配を見たのだ。
「白い亡霊の話を聞いてから、朝一番で、この広間の前の廊下の見回りをしてくれるよう、頼んでおいたんだ。そして、もし君に何かがあって、その時に私が不在にしていなければ、私を呼ぶようにとね」
「………それは、…………ご迷惑をおかけしました」
「君がかけたのは、心配だけだよ。…………フロイド、どうだい?」
「…………言葉にする迄もありませんね。これは、死者の王の証跡だ。当分の間、この広間は使わない方がいいでしょう」
振り返ったエミディアンが尋ねたのは、綺麗な葡萄色の長い髪を持つ代理妖精だ。
エミディアン元王子の代理妖精は、女性と見紛う程に美しい夜の系譜の妖精である。
その背にある羽は、王子の髪色と同じだ。
「…………アン、大丈夫かい?無理に立たなくてもいい。…………ほら、水を飲むといい」
「有難うございます。…………ええ。…………私が見たのも、死者の王でした。昨晩は、いつもの服装ではなく、初めて白い軍服姿で…………」
「アン?!」
説明をしながら、なぜエミディアンは驚いているのだろうと目を瞠る。
そうして初めて、アンは自分が泣いているのだと気付いた。
また、寒くはないなと思えば、毛布のようなもので体を覆われている。
誰かが持ってきてくれたのだろう。
「…………いえ、…………よく分からないのですが、…………私は、あの方か、…………或いは、ここではない向こう側に流れている音楽に、………恋をしたのです」
ぽたぽたと零れ落ちた涙を、自分の袖口で拭い、アンはそう告白した。
本当は誰にも言いたくなかったけれど、あまりにも心配そうにエミディアンがこちらを見るから、彼がハンカチを探せずにあわあわしているから、なぜだか口が滑ったのだ。
昨晩に感じた狂おしいまでの恋情は、全て覚えている。
それをはしたなくも口にする事はなかったが、あの夜が明けてしまったと思うと、なぜだか悲しくて堪らなかった。
アンがそう伝えると、なぜかエミディアン王子の代理妖精が頭を抱えてしまった。
「………エミディアン様、…………これは苦労されますよ。人間どころか、この世界で死者の王と張り合うとなると、相当に分が悪い」
「…………フロイド、黙れ」
「はは、落ち込んでいらっしゃる。あの幼馴染のご友人どころか、比べ物にならないくらいの恋敵が現れてしまいましたね」
「フロイド…………」
「はいはい。ですが、そろそろご主張しませんと、あちらの家でも、婚約なり何なり、決め事を進めてしまいますよ?ご子息殿は満更でもなさそうですからね」
「…………今夜にも、父上に話をする」
「ええ。そうするのが宜しいでしょう。それに、彼女の魂をこちらに繋ぎ止める為にも、契約の体裁を成すものが必要になるでしょう。意図せずとも、死者の王は特等の魔物だ。そこに存在するだけで人間の心など容易く奪い取ってしまう。…………どのような目的にせよ、あの方が誘惑や侵食に長けた音楽に触れているのであれば、いっそうに」
(……………誘惑)
そうだ。
音楽には、愛情や欲望を司る側面がある。
昨晩感じた欲求と甘美なる苦悩を思い、アンはわずかに目元を染めた。
「死者の王の音楽を、これ以上、彼女に聞かせて大丈夫だろうか」
「あの方が奏でたのは、バイオリンではありませんね。…………残された魔術証跡が違う。正直、バイオリンを持ち出されたら、命や正気の保証は出来ませんでしたが、…………違う楽器のようだ。何か、…………魔術的な調整を行われているようですね」
「ピアノです。…………私には、あの方がここで、何らかの調律を行っているように思えました。そして、警告でもあるように感じます。…………それと、お二人がその前に話しておられたのは、何の話なのです?」
アンは決して勘が悪い方ではなかったが、念の為にとそう尋ねれば、エミディアンがくすりと笑う。
ずっと幼馴染の親友だとしか思っていなかったけれど、そう言えば彼は、ずっとアンの良き相談相手でもあった人だ。
つい四年前までは王子様であったので、なかなか恐れ多くてそのままに理解出来ずにいたけれど。
「そうだね、その前にフロイドが口を滑らせていた事については、明日にでも君の家に打診がいくだろう。けれど、形式上の物よりも先に、私の言葉で伝えておきたいな。…………とは言え君は、大変な夜を過ごしたばかりだから、今日はひとまず、部屋でゆっくり休むように。私とは、…………そうだね、午後にお茶をしようか」
「まぁ。…………お誘いにしては、少し強引過ぎやしませんか?」
「おや、君を二人きりのお茶会に誘うのはこれで五回目だよ?…………それと、個人的にも、君の状態としても、時間の猶予がなさそうだ。今で良ければ言ってしまうけれど、それはさすがに性急だろう」
「…………午後のお茶に伺います」
「うん。…………それと、君の部屋に、念の為に魔術洗浄の音楽師を向かわせよう」
「俺が引き受けますよ。大事なエミディアン様の、大事な方ですからね」
「…………フロイド、いいのか?」
「滅多な事ではあなた以外の者の為には吹きませんが、相手が死者の王となると、人間の持つ音楽では力不足でしょう。アン様、お部屋までご一緒しても?」
「…………まぁ、フロイド様の笛を聴けるのですか?」
フロイドが扱うのは、フルートによく似た妖精の横笛だ。
硝子の楽器のような透明で繊細な音色は、一度耳にするだけで夢見心地になるような旋律である。
思わず目を輝かせてしまえば、顔色が良くなったねとエミディアンが微笑む。
立ち上がるのに手を貸して貰い、固い石の床に倒れていたせいかぎしりと痛む背中に顔を顰める。
ふと、仲のいい幼馴染の顔を思い出したが、こうして、この朝にふらつく体を支えて欲しいのは、彼ではないような気がした。
あの旋律に触れ、あの欲求を知った今、ただの親しみとそれ以上の恋の熱情とでは、愛おしさが違うのだと分かる。
それを欲する程には近しくはなかったから望まなかったものの、もしかしたら、アンに必要なのは、エミディアンとのこれからなのかもしれない。
(…………そうか、私は恋を知らなかったのだわ)
あの音楽に触れ、狂おしいまでの願いに心を震わせるまで、アンはその欲求には無縁であったらしい。
目を閉じるだけでも美しいあのひとの姿を思い出せたけれど、明るい朝陽の中では、昨晩のような欲求は感じられなかった。
その後、アンはエミディアンから求婚され、それを受けた。
死者の王の訪れとアンの話を聞いた元国王は、早急にエミディアンとアンの婚約の手筈を整え、アンの両親と話をした上で婚約証明書を魔術刻印付きでその日の内に発行してくれた。
婚姻には及ばずとも、婚約の契約は、魂をこちら側に引き留める約定になる。
ましてや相手は、元とは言え、この土地を治める王族の一人なので、係留の効果はより大きいのだそうだ。
アンの婚約を知ったフィリップは愕然としていたし、にこにこ笑う友人に、お前は腹黒過ぎると文句を言っていたが、幸いにも思った程に拗れはしなかった。
結局のところ、アンが恋を知らなかったように、フィリップがアンに向ける親愛もまた、最後まで男女のそれではなかったのだろう。
とは言え、何か禍根が残ると嫌なので本音を引き摺り出してみたところ、フィリップの中に、夫婦になればアンの音楽を家でも聴けるようになると思ったのにという以上の結婚の利点はなかったので、少なからずほっとした。
二人が夫婦になるという未来はなくなっても、アンにとって、フィリップは家族のように大事な友人だったのだ。
さり気なく、以前から美人だねと話していた姉との縁談を示唆してみたところ、フィリップは耳を赤くしていた。
寧ろ、最初からそちらだったのではないかと、アンはにやりとした。
アンが、大広間の前で死者の王のピアノを聴く夜は、それからも二度あった。
だが、婚約の契約が何かしらの守護になってくれたものか、あの夜程の狂おしい衝動に駆られる事はなかったような気がする。
最後の夜以降、雨の日や嵐の日に大広間に行かなければと思う事はなくなり、アンの中にあった、美しく恐ろしい音楽はいつの間にか消えていた。
それでも、あれから何年も経った今でも、真夜中に目を閉じると、身を引き裂くような美しい音楽がどこからともなく聞こえてくる。
大広間には見知らぬピアノが置かれていて、その白い鍵盤に指先を躍らせる、美しい死者の王がいた。
目を開くとどんな旋律だったかすら思い出せないけれど、アンの魂のどこかにはずっと、あの旋律があり、あの官能が揺蕩い続けるのだろう。
不滅の音楽に狂おしい程の恋をしたあの夜の記憶は、生涯、アンの傍らに寄り添うに違いない。




