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ちびころと予防接種



「ふぇぐ…………」


その日は朝から薄曇りの予防接種日和だが、リーエンベルクには自業自得の罪に喘ぐ哀れな人間がいた。


もそもそと起き出してから、なぜかにこやかに微笑んだ森と湖のシーに大事に面倒を見られての朝食の時間を過ごし、エーダリアには肩を優しくぽんと叩かれた。

そうして、自分の両手を見つめてぷるぷるしていると、こちらを見上げた銀狐がけばけばになっている。



いつもなら、無邪気に遊んでいる銀狐を何とか捕獲してお散歩気分にさせ、予防接種会場に向かうのだ。



だが今回に限っては、涙目で怒りのあまりにじたばたするネアの前に、ふかふか冬毛疑惑の銀狐がちょこんと座り、尻尾をけばけばにしてこちらを見ている。


青紫色の綺麗な目は真ん丸になり、そろりとこちらに近付いてくるとすりりと体を押し付けてくれた。

ネアがあまりにも絶望しているので、何とかして慰めようとしてくれているらしい。

ふわふわな毛皮に心は少しだけ軽くなったが、その温もりが離れて目を瞬くと、やはりまだちびころだという現実がいっそうに重くのし掛かる。



「なぜ、まだ効果が解けないのだ…………。これでは、森の祟りものも狩れません!」



小さな小さな手を見下ろし、ネアは地団太を踏んだ。

昨晩から、連れ戻された後のお説教を何とか乗り越え、心を無にして可愛がってくる家族の攻撃を乗り越えたばかり。

ガーウィンでの枢機卿の難関も含め、三つもの試練を乗り越えた事になる。


それだけ頑張ったのだから、元より丸一日程度は効果が続くかもしれないと言われてきたものの、さすがに一晩寝て目を覚ませば効果は切れているだろうと甘く見ていた。



しかし、朝起きても体はそのままだったのである。




茫然としたまま朝食の時間を終え、ご主人様が減ったままだとめそめそする魔物の代わりに、髪の毛を結ってくれたのも、着替えを手伝ってくれたのもヒルドであった。


とは言えきっと、銀狐の予防接種に出かけるまでには元に戻る筈だと考えていたが、残念ながらネアの手はまだ小さなまま。

ヒルドが用意してくれた、白と水色のふりふりのドレスを着て、髪の毛はリボンを結んだツインテールである。



(……………なぜ、ふりふりなのだ)



大人の女性である事を自負しているネアにとって、その装いで街に繰り出すのは耐え難い屈辱であった。

おまけに、この歩幅では、予防接種会場までどれだけの時間がかかるだろう。

その間に我に返った銀狐がムギャワーと暴れ出せば、簡単に引き摺られてしまうではないか。



「ぐるる…………」

「ネアが…………」

「ったく。丸一日は続くと言っただろうが。少なくとも午後過ぎまではこのままだろうな。…………貸せ、散歩なら俺が行っておいてやる」

「わ、私のお役目なのです。この程度の事では挫けません!」

「言っておくが、子守りと散歩は一緒に出来ないからな?散歩後の食事目当てなら、留守番していろ」

「ぐ、ぐぬぅ!」



呆れたようにこちらを見下ろしたのは、昨日は桃の盗み食いをしたご主人様を厳しく叱った使い魔である。

予防接種の為にこの時間の集合を約束していたのだが、今の発言からすると、ネアが参加出来ないのは想定済みだったようだ。


(狐さんの予防接種の後は、運河沿いのお店で美味しいグラタンホットサンドをいただく予定だったのに…………!!)



そんな計画を立てて季節の任務をこなす予定であった人間にとって、お留守番を申し付けられるのも限りない屈辱であった。


おまけにここにいるのは、未だに塩の魔物が正体である事を告白出来ずにいる銀狐だ。

脱走の為に元の姿に戻ってしまうという事故もないとはいえないので、アルテアだけに予防接種を任せるのは、やはり危険過ぎる。


となると、悲し気に項垂れている伴侶な魔物を乗り物にし、銀狐のリードはアルテアに任せるしかないのだろうが、ご主人様のちびこさに既に涙目のディノが、朗らかさを装ったお散歩に耐えられるだろうか。


ただでさえ伴侶が減った悲しみに暮れているところを、予防接種だという事に気付いて飛び上がる銀狐の姿も見なければならないのは必定である。

いつも、真っ先に悲しくなってしまう優しい魔物が、そんな予防接種行脚に耐えられるかどうかも見極めねばならない。



「ディノ、お散歩の間の持ち運びをお願いしてもいいですか?」

「…………うん。君は小さくなってしまっているから、攫われないようにするのだよね」

「ヒルドさんは大真面目でしたが、そうそう攫われたりはしないと思うのです。…………むぐ、そしてなぜ、私は狐さんにボールで囲まれたのだ…………」

「君を慰めようとしているのではないかな…………」

「ボールの結界ではなく…………」

「結界なのかい?」



ディノにそう尋ねられ、銀狐はぶんぶんと首を横に振っている。

前足でそそっとボールを押し出し、項垂れるネアに差し出してくれるのはいいが、それを投げるとなると、結局は銀狐が大はしゃぎなのではないだろうか。

なんという計算し尽くされた慰めだろうと慄きつつ、ネアは、試しに赤い房飾りのあるボールを手に取ってみる。


案の定、銀狐はムギーと尻尾を振り回してしまい、ネアは、アルテアから興奮させるなと叱られる羽目になってしまった。



「解せぬ…………」

「おいで、持ち上げるよ」

「ふぁい。世間の目にこの無力な姿を晒す辱めを甘んじて受け入れ、狐さんのお散歩に同行しますね」



すっかりボール気分でムギムギと弾んでいた銀狐は、アルテアに青い革のリードを付けて貰い我に返ったようだ。


お散歩に行くのだったと尻尾を振り回し、ちびころのままの義妹を慰めていた事はすっかり忘れてしまっている。

ネアは、現実とはこんなものであるという儚い微笑みを浮かべ、結界を構築していたボールを片付けるアルテアを見ていた。


そんなアルテアは、本日も銀狐の換毛期の抜け毛を警戒し、白っぽい服装での参加である。

白灰色の装いは珍しいが、同系色のカジュアルなパンツに、この季節用の薄手のセーターをざっくり羽織った姿は、貴族めいた上品さだ。

擬態をしている髪色は珍しい銀髪で、瞳の色はそのままにしてあるので、統一された色合いの中で赤紫色の瞳がはっとする程に鮮やかであった。



(………色合い的に、如何にも狐さんの飼い主という感じがする…………)



なお、既に、暴れても抜け毛が飛び散らないよう丁寧にブラッシングまでされてしまった銀狐は、この季節なのにふっくら冬毛な状態を選択の魔物からとても訝しまれている。

真実を告白出来ていない内は危険を回避するべきなのだが、銀狐としては、ふかふか冬毛だけは譲れないらしい。




かくして、今年の銀狐の予防接種への旅が始まった。





リーエンベルクを出る際に、門の周辺に立っていた騎士達が心なしかいつもよりにっこりしていた事にぐぬぬとなりつつ、ネアは、乗り物な魔物にぎゅっとしがみつく。


昨晩から、グラストとゼノーシュの姿は見ていないので、クッキーモンスターはとても警戒しているのだろう。



(後で、ゼノには美味しいクッキーの差し入れをしないと………!)



「むぐぐ…………」

「ネア、私がいるから大丈夫だよ」

「なぜみんな、私を見てにこにこするのだ…………」




リーエンベルクを出て、並木道を街の方へ。

柔らかな風の吹くこの季節らしいお天気のウィームは、少しだけいつもとは違う匂いがした。

風の匂いの変化に慄いた人間は、お気に入りのホットサンドに使われているルッコラやチーズが口に合わなくなっていたり、いつものようにぺろりと平らげられなかったらどうしようと胸を痛める。


とは言えこの姿だからこそ得るものがあるかと言えば、小さな子供が好きなもこもこ毛皮の妖精達が、木の上から尻尾をふりふりしてくれる光景は変わらない。

残念ながらこの種の妖精達は、見た目ではなく可動域で区別をするのだ。



「むぅ、狐さんのお尻が見えません」

「この角度からだと、君に見えるのは背中だけになってしまうのかな。ごめんね、ネア。危ないから下ろしてはあげられないんだ」

「ふぎゅう…………」



いつもなら、銀狐のお散歩時には、ムギムギとご機嫌で歩く銀狐のもふもふお尻を堪能出来るのだが、ちびころになり魔物を乗り物にしていると、その姿を堪能する事も出来ない。

大切な楽しみを奪われてむしゃくしゃしたネアが低く唸っていると、擦れ違った男性がなぜか目元を染めている。


またしてもちびこさの弊害が出ていると考えたネアは、悲しみを堪え、二度と誰が置いたのか分からない桃には手を出さないと誓った。



因みに、あの桃を放置した犯人は義兄であるノアで、仕入れたのはヒルドだと言う。


桃の持つ祝福を使い近日中に実用化したい魔術があるのだと聞けば、勘のいい人間はエーダリアの誕生日用かなと思うのだが、ノアが元恋人からとても怖い手紙が届いたと相談した事により一時的にとは言え、二人揃って危険物から目を離した責任はそちらにもあるのではないだろうか。


そう考えてしまうのは、今後、ちびころ化に見舞われた場合は、すぐに近くにいる家族に報告する事が義務付けられたからなのかもしれないし、なぜかヒルドにお風呂に入れられたからかもしれない。


リーエンベルク内には残念ながら子供が一人で入浴出来る浴室はなく、また、ディノに子供の入浴の手伝いは難しいのは分かるが、淑女の矜恃は粉々であるし、美しい妖精の入浴姿はちょっぴり目の毒であった。


入浴後に、エーダリアの気遣いで厨房からのバニラアイスなる差し入れがなければ、ネアは幼児化された淑女の扱い方がよく分かっているグラフィーツを頼って家出したかもしれない。



(ノアとヒルドさんは着せ替え人形にするし、ディノは泣いてしまうし、アルテアさんは揶揄ってくるし、エーダリア様はおろおろしてしまうしで、普通に接してくれたのはグラフィーツさんだけだった…………)



今回は接触のないウィリアムについては、前回に散々抱っこされたので信用してはならない側のリストに名前が入っている。

だが、もう二度と遭遇したくないのが、昨日の事故でそのリストの筆頭に躍り出たリシャードだ。

とても心を脅かされたので、今度、ギードに言いつけておこう。

 


ネアが、可愛いお嬢さんですねという眼差しを向けてくる通行人達の微笑みから心を逃避させる為にそんな事を考えていられたのは、むくむく鳥の大群に囲まれる迄であった。



「…………む?ぱたぱたした生き物がやって来ました」

「竜かな………」

「竜なのです?むくむくした鳥にしか見えませんが、…………ぎゃ?!群れが来ました!!」

「おい、妙なものを呼び寄せるな…………」

「なぜ私の責任になっているのだ…………」



むくむくぱたぱた。

そんな表現しかしようのない生き物の到来は、最初の一羽がネア達の頭上を旋回してから、群れの到着迄が一瞬だったように思う。



「ぎゅわ…………」

「ご主人様…………」

「お、おのれ、ちびころだと思って甘く見ると、酷い目に遭うのですよ!」



ネアが初めて見るクリームイエローなむくむく鳥は、正式には綿星竜という名称があるらしい。

だが、むくむくした毛玉に真ん丸目玉と鳥類風の足、ぱたぱたするちびこい翼にちびこい嘴という特徴なので、ネアにはどうしても鳥類にしか見えない。

よって、むくむく鳥と呼ぶしかないのだが、そんな生き物がなぜか、ぶんぶんとネア達の周辺を飛び交い出したのだ。


隙があればネアの頭やディノの頭に止まろうとするので、ネアの大事な魔物はすっかり怯えてしまったではないか。

怒り狂ったネアが暴れても、鳥達はピュイピイュイ鳴いてぶんぶん飛び交うばかり。



「小さな子供を好む竜だからな。…………ったく、余計な手間をかけさせやがって。…………シルハーン、交代した方がいいだろう」

「この子が、攫われてしまわないかい?」

「安心しろ。…………それと、この狐を逃がすなよ」

「ぐるるる!なぜ、私が怒ると大喜びなのだ、むくむく鳥め!!」

「お前が大喜びしてると勘違いしているんだろうよ。おい、こいつに近寄るな。契約枠は、俺で上限まで使用済みだ」

「…………む」



なぜか、ネアの持ち上げ係りがアルテアに代わり、渋面な選択の魔物がそう言えば、ぶんぶん飛び交っていた綿星竜はさあっと姿を消してしまった。

ネアは目を瞬き、なぜいなくなってしまったのだろうと首を傾げる。



「むくむく鳥めが、いなくなりました…………」

「あれは、人間の子供との契約を好む竜種だからな。小さな子供と契約をして生涯を共にする事が多いが、稀に成人した者の元にも現れるのは、可動域ではなく、形状で大人と子供の区別をしているからだろう」

「…………なので、使い魔さんが登場する事で、ここは無理だと立ち去ってくれるのです?」

「私では駄目なのだね………伴侶なのに…………」

「あくまでも、契約を欲する連中だからな。人間の生活圏にしか派生しない竜だが、本来は希少種だ。あの竜との契約を手に入れた人間の子供は、生涯着る物には困らなくなる」

「着る物…………」



ネアは、それはいいものだろうかと少しだけ考えたが、目を離すとすぐに見知らぬ服が増えてしまう衣裳部屋を思えば、あの竜との契約の利点はないだろう。

ぶんぶんむくむくしているだけなので、ネアの思うような竜らしさも皆無である。


もし竜枠が解放されるのならば、その時はやはり、好みの竜で吟味させていただきたいのだ。



「浮気…………する」

「あら、あの竜さんは、あんまり好きではありませんから、浮気はしませんよ?」

「そうなのかい?」

「幸いにも、こちらの世界では服には困っていませんし、竜さんはもっと、がおーという感じに恰好いい生き物でこそ、私の憧れなのです」

「浮気…………」

「ほお、まさかとは思うが、まだ余分を増やそうとしているんじゃないだろうな?」



ネアは、嗜好を語っただけなのに少しだけ荒ぶり始めた魔物達に遠い目になり、竜枠は、お友達のダナエや、竜枠中一番騎士風な感じであるベージなどが正統派路線なのだとは口にしなかった。


飼えるならダナエがいいし、契約するならベージかなと思う次第だが、乙女のそんな可愛らしい夢が叶う事はないだろう。

とは言えベージとの間には氷狼事件で結ばれた魔術の繋ぎが僅かにあるので、そちらを竜枠の上限として大事に噛み締めるしかない。


ダナエは一番綺麗だと思う竜だし、残念ながらこの世界の氷竜はとげとげしていないが、とは言えベージも、美しく恰好いい竜ではあると思う。

ベージについては、少しばかり容姿の美麗さが勝るものの、あの穏やかで温かな気質などはネアの憧れていた騎士そのものという素敵ポイントもある。


決して、先程の竜詐欺なむくむく鳥如きが、現在の上位者達を上回る事はないし、人間は、そうして心の順位を設けて取捨選択をする残酷な生き物なのだった。



「うむ。先程の鳥さんもどきな竜などではなく、もしいつか竜さんを飼えるのであれば、もっと恰好いい竜さんがいいですね」

「ほお?まだ諦めていなかったようだな」

「ぎゃ!なぜか声に出ています!!」

「ネアが竜に浮気する…………」

「お、おのれ、これもちびころ化の副作用なのでしょうか。一刻も早く、元の姿に戻らねばなりません…………」



今回、今まで以上に長いちびころ時間を経て、ネアは、この祝福の恐ろしさに気付きつつあった。


むちむちのちびこさによって淑女としての威厳や気品が損なわれるのは勿論であるし、体が小さくなって動きが制限されるのが一番の難点ではあるが、この姿で長時間を過ごすと、感覚や意識などにも少しだけ緩みが出る。


美味しいお菓子を手に近寄られるとふらふらと歩み寄って着せ替え人形にされてしまうし、思っている事がうっかり声に出ている頻度も高くなるような気がするので要注意だ。


そしてなぜか、周囲の人達が、何とも言えないお子様用の優しい顔で微笑みかけてくるのだから、周辺にも魔術汚染のような効果が現れているに違いない。


このままでは、失うばかりではないかとじたばたしたネアは、うんざり顔の使い魔にほっぺたを摘ままれてしまった。



「やめるのだ…………」

「大人しくしていろ。その姿で暴れると、おかしな誤解を受けかねん」

「淑女姿でもちびころでも、どっちもどっちだという気がしますし、使い魔さんは、ご主人様の繊細な心が傷付いている事を察し、もっと優しく接するべきなのですよ?」

「それなら、昼食は子供用のセットメニューにしてやる」

「お、おのれ、ゆるすまじ…………」



だがここで、銀狐専門店の前を通りかかったネアは、お子様用に配っていた銀狐シールを貰ってしまい、ぴたりと黙った。



(子供姿だからこその恩恵を、初めて手にする事が出来た!!)



それを勝利と言わずして、何と言うだろう。

誇らしさにふんすと胸を張り、手にした戦利品の可愛さににんまりと笑顔になると、貰った銀狐シールをじゃじゃんと掲げる。



「見て下さい、狐さんシールです!お腹を出しての大暴れで、なんて可愛いのでしょう!」

「…………シールが配られてしまうのだね」

「どう考えても、今日だから配られた絵柄だな…………」

「む、…………これはまさか………」

「あまり下に向けるなよ」

「…………はい」



自分のシールが配布されていると知り、銀狐はけばけばになっていたが、幸いにも、アルテアがすぐに気付いてネアの手の角度を調整してくれたので、その絵柄が予防接種仕様だとは気付かなかったようだ。


シールシートには三つの絵柄のシールがあり、お腹を出して大暴れ銀狐と、注射器との組み合わせで尻尾けばけばの銀狐、そして、予防接種を受けなかった場合の末路を語る、踊り去るさよなら狐である。


どうやらこれは、獣医師会との予防接種推進を兼ねた配布物であるらしく、このシールを子供達に配る事で、獣達の予防接種というものの認知を高めているのだろう。

銀狐シールが貰えるとあって子供達は大はしゃぎなので、ウィームっ子に人気の銀狐専門店を利用した良い認識活動であるのは間違いない。



なお、ここで本日の目的に気付いてしまう事が懸念された銀狐は、すっかりお散歩に夢中ですぐにシールへの興味を失ってしまい、街角をもさもさと歩いてゆくパンの魔物にびょいんと弾んでいる。

齧られるといけないと思ったのか、びくりと体を揺らしたパンの魔物は、しゃっと路地裏に走り去った。


ネアは、すぐに馬車に轢かれてしまうパンの魔物の思わぬ素早さにぎょっとしたが、周囲の人達に驚く様子がないので、元々素早く動く事もあるのだろうか。

モスモスだけの個性だと思っていたが、パンの魔物達は、あのもそもそした体に思わぬ身体能力を秘めているのかもしれない。



しかし、そう考えて冷静さを取り戻そうとしていたネアを待ち受けていたのは、次なる試練であった。



突然、ぎゃおんという凄まじい悲鳴が聞こえ、そろりと反対側の歩道を見ると、石畳の上にひっくり返ったまま容赦なく引き摺られてゆく狼の姿がある。

飼い主らしい男性は無の表情でリードを引っ張っており、立派な体躯を持つ黒い狼が必死に抵抗しているようだ。



(……………しまった!)



そんな様子を見てしまい、楽しいお散歩気分に戻ってふりふりしていた銀狐の尻尾が、ぱさりと力なく落ちる。


「…………シルハーン、交代するぞ」

「うん。…………気付いてしまったのだね」

「ほわ、狐さんが…………」



ここで、魔物達は素早く互いの担当を代わり、ネアは再び伴侶の腕に戻された。

とは言え、大騒ぎ一歩手前の涙目でぶるぶる震えている状態の銀狐も、本来は公爵位の塩の魔物である。

どうか少しでも長くその事を意識していて欲しかったが、どうやら、今この瞬間は期待出来なさそうだ。


そうして、お腹の下に手を入れたアルテアにひょいと小脇に抱えられた途端、ムギャーと恒例の大騒ぎが始まった。



「くそ、今年は早いな…………」

「あの狼さんは、狐さんのシールを見て気付いてしまったようでしたね…………」

「尻尾が…………」



ディノは毎回、ムギャムギャ大騒ぎの銀狐が尻尾を振り回すと、千切れ飛んでしまいそうではらはらするらしい。


すっかり悲しげな眼差しになってしまい、表情を失くしたアルテアが無言で運ぶ銀狐を見ている。

気付かれてしまったからには急いで会場に向かうのが一番なので、必然的に移動は早足になった。




「つ、着きました!!近くの列に並びますか?」

「少し待て。手際のいい獣医を探す」

「はい!」



今年の予防接種会場は、封印庫前の会場になる。

よりにもよってという感じなのだが、いつもお世話になっている凄腕獣医師なシヴァルは、アルバン近くで発生している牛のごろごろ病の治療の為、ウィーム中央を空けているのだそうだ。


つまり、一番の腕利きを欠いた今年の予防接種は、最初から困難が想定されていたのである。



(あ、……………)



ネア達は、アルテアが全ての列をじっと見た上で選び抜いた一番左端の列に並んだのだが、その直後、会場では大きな騒ぎが起こった。


男性二人がかりで連れてこられていた足に鱗のある狼のような生き物が、注射を打たれた途端にギャワンと悲鳴を上げて失神してしまったのだ。


飛び抜けて大きな体を持ち、なかなか猛々しい雰囲気だったその獣が失神した事で、会場に集められた獣達は、どれほどの恐怖を感じてしまったことか。

一瞬、ぴたりと静まり返った会場は、その直後から、怯えた獣達の悲痛な鳴き声でいっぱいになってしまう。


勿論、銀狐も例外なくその余波を受けてしまい、ムギャーと声の限りに悲鳴を上げ、アルテアに抱えられたまま大暴れしている。

おろおろするディノが、ネアを抱えたままそっと撫でてやると、ぴたりと動きを止め一時的に虚無の眼差しになったが、またすぐにムギャムギャ大騒ぎが再開された。




「ほお、妙な生き物を抱えていますね」



そんな声が落ちたのは、銀狐の順番まではあと四人という、あとちょっとという感じもしないし、とは言え、ここまで並んでおいて今更列を抜けるのは絶対に御免だという絶妙なタイミングであった。



「……………おい、何の用だ」 

「目の前の通りの裏手にある、従魔の礼拝堂への訪問の帰りですよ。ガーウィンからの派遣の司祭が諸事情で参加出来なくなりましてね。たまたま手の空いていた私が代わりに。………これはこれは、まだその姿とは労しい」

「ぎゃ!なぜいるのだ!!」



そこに立っていたのは、事もあろうに、昨日おさらばしたばかりのリシャード枢機卿ではないか。

言葉遣いも柔和であるし、枢機卿としての装いで背後にお付きだと思われる聖職者達と護衛の教会騎士を付き従えているので、公務の帰りに立ち寄ったというのは本当なのだろう。


だが、思わぬ天敵の出現にネアは怒り狂うしかない。

そんな姿を見て、なぜかリシャードがご機嫌なのも、激昂している人間の憎悪をいっそうに掻き立てた。



「この子には近付かないようにと、言わなかったかな」

「ええ。従魔の礼拝堂への祈りを終え、その流れからウィームでの予防接種の会場を覗いてみようと思っただけですので、勿論、すぐに退出いたしましょう」

「立ち去り給え!」

「はは、その屈辱に満ちた表情が、堪らないな」

「ぐるるる!」



ネアは、その怜悧な美貌を飾る片眼鏡などは毟り取ってやると大暴れしたが、小さくなった伴侶が精霊に触る事を良しとしなかったディノに、しっかりと抱き締められてしまった。


とても上機嫌になった枢機卿に、困惑を隠しきれずに同行して立ち去ってゆく教会騎士達の背後には、突然、代役でガーウィンから来てしまった枢機卿が問題を起こさないようにと見張る、ウィームの街の騎士達の姿もある。


天敵にきりんボールを投げつけてやろうとしたネアはその姿に我に返り、ここでガーウィンの枢機卿を殺してしまう訳にはいかないのだと、悔しさに歯噛みした。




「あやつめは、いつかぎゃふんと言わせてやります!!」

「もう会わなくていいのではないかな。無事に、予防接種も終わったようだね」

「……………なぬ?もう、終わってしまったのです?」

「お前がリシャードへの呪詛を吐いている間に、終わったな」

「まぁ。……………狐さん、お疲れ様でした」



注射の瞬間を全く見ていなかったネアに、涙目でけばけばになった銀狐は、一番の苦しみのその時に寄り添ってくれなかったではないかと、絶望と落胆の目をこちらに向ける。


家族の苦しみに寄り添えなかったネアは、ますます死の精霊な枢機卿への復讐心を育てる羽目になった。

ディノにお願いしてけばけばの銀狐を撫でさせて貰い、運河沿いのお店では狐用のサンドイッチも注文出来るのだと伝えて何とか信頼を取り戻せたが、人間がどれだけ執念深い生き物なのかを、あの精霊はいつか知るだろう。




残念ながら昼食時にはまだ体が元に戻らず、ネアは大人用のサンドイッチではなく、少し小さめのホットサンドをいただくことになった。



お目当てのグラタンサンドイッチに加え、組み合わせで選んだのは、ぶ厚いハムと蕩けるチーズにルッコラのもので、パンに薄く塗られたバターとマスタードの香りが堪らない。

ネアはいつも、この組み合わせを選ぶのだ。



「むぐ!」


そんな美味しいホットサンドをあむりと噛み締めれば、この姿になって受けた屈辱の数々もほんの少し和らいだような気がした。

いつもよりルッコラを苦く感じるのはたいへん遺憾な事だが、予定通りの昼食を美味しくいただけたので何とかの及第点である。



だが、満腹になったネアは、呆れ顔の使い魔にお口を拭いて貰っている間に、その膝の上で寝落ちするという屈辱を重ねる羽目になってしまった。


お昼寝から目を覚ます頃には元の姿に戻っていたが、長椅子の上で使い魔を下敷きにしてすやすや眠っており、向かいの長椅子には銀狐を膝の上に抱いたディノが座ったまま居眠りしている。


このちびころ化の唯一善良なところは、服が合わなくなって布の中で溺れてしまったり、元に戻った際に着ていた服を破いたりする事がなく、その時の着衣や装飾品が体に合わせて大きさを変化させてくれる点と言えよう。


そこはやはり、祝福だからこその効果が現れるのだが、ネアはその時、自分がツインテールにされてふりふりドレスを着させられていたのをすっかり失念していた。



漸く取り戻した淑女の体を尊び、目を覚さないアルテアの前髪を手持ちの髪紐でちび結びにして鬱憤を晴らしていたのだが、晩餐前に手を洗いに行き、鏡の中の自分を見て失神しそうになってしまった。


なお、前髪をちび結びにされたアルテアからは、またちびころ化したらリシャード枢機卿に託児するというあんまりな脅しを受けたので、ネアはすぐさまウィリアムに言いつけておいた。













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