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24. 境界のどちら側か知りたいです(本編)



リィーンと鈴が鳴った。


それに合わせて鐘の音が鳴り響き、煙をたなびかせる香炉が回される。

鎖に繋がれて天井から下がった香炉は、振り子のようにぎゅんと神父達の手から手に投げ渡され、描かれる煙の筋にはどうやら規則性があるようだ。



レイノはその聖堂に、デュノル司教と共に向かった。

そこには、デュノル司教の衛兵達に加え、聴取に来たザンスタ司祭も加わり、物々しい行進となってしまう。


ひそひそと声を立てこそはしないものの、そんなレイノの姿に眉を顰め合う者達がいる。

見知らぬ迷い子が外様の司教と歩いているのだから、それは気にもなるだろうと考え、レイノはあまり気にしない事にした。



(でも、…………一月前に保護された迷い子という言葉があちこちから聞こえるけれど、私が保護されたのは昨日だから、私のことではないのかもしれないわ……………)




「これはこれは、デュノル司教様」



そこで、前を歩くデュノル司教に、いかにも厄介そうな声をかけた人物がいる。

ザンスタが頭を恭しく下げたので、階位的にはそちらの人物の方が上なのだろう。



橙色のストラのような布を下げた、深い緑色の聖衣を着た聖職者で、デュノル司教やザンスタとは聖衣のデザインが少し違う。



この教会の勢力図を図形化したものが欲しいと、レイノは切に思った。

ザンスタ司祭は、迷い子の管理に於いての権限は持つものの、教会そのものの階位ではこちらの司教に劣るようだ。

けれども恐らく、この教区の中での主軸はその迷い子の運用にこそある気がする。



(だからこそ、…………私はここに来なければならなかったのではないかしら……………)



ちらりと声をかけてきた司教を見たデュノル司教は、この薄暗い聖堂に散らばるステンドグラスの光の筋の中でぞくりとする程に際立つ美貌をそちらに向け、淡く微笑んでいるようにも見える無機質な表情を浮かべた。



(……………なんという表情だろう……)



その凄艶さを見ているのに、どうして絶望せずに済むのだろうと、レイノは、声をかけてきたこちらもそれなりに美麗な男性聖職者に感動すら覚えてしまう。



「……………トエルノ司教」

「ウィームから放逐され、さっそくこちらの流儀で地固めですかな。………ですが、ふむ。デュノル司教の迷い子は、いささか…………」



ここでわざとらしく悲しげに微笑んでみせたトエルノ司教とやらに、レイノは、頭頂部から毛根が死に絶える呪いを使えないことを悔やんだ。



(でも、……………魔法が使える世界なのだから…………)



しかし、こちらの世界では言葉が魔術を孕むというので、口に出しておけば叶うかもしれない。

これから可動域とやらを増やす予定なので、今は出来なくとも、すぐに扱えるようになるだろう。



(何となくだけれど、再生となると難しいだろうけれど、滅ぼす系の魔法なら習得が可能そう…………)



レイノは視線でデュノル司教に無言の訴えをかけ、おやっとこちらを見たその動きを承認として捉えた事にして、にっこり微笑んだ。



「レイノと申します、トエルノ司教様。今は毛根を滅ぼす修行を嗜んでおります」

「………………毛根、だと?」

「はい。中央からずばっと滅ぼすと、お日様のような頭頂部になるのでとても素敵ですよね。信仰と言えばの形ですので、剃毛だけではと思われる皆さんの役に立てるよう、日々精進して参ります」



そう挨拶を締めくくったレイノに、トエルノ司教は返答を組み立てられなかったのか、視線を彷徨わせた。

にっこりと微笑んで拳を握ってみせたレイノを不敬とするには、迷い子というものの本質上、本気なのかどうかの判断が付かないに違いない。



「…………それは、良い事なのかい?」



ところが、そこで思いがけない反応を示したのは、デュノル司教だ。


困惑したようにそう尋ねられ、レイノも凍りつきそうになったが、それよりも激しく反応したのはトエルノ司教の取り巻きである。

絶望にも近しい表情で首を振っている女性聖職者にとって、あまり関係は良くなさそうとは言え、デュノル司教の髪の毛はとても大切なものなのだろう。



「以前のことを覚えてはいないのでぼんやりですが、朧げな記憶でそうに違いないと思うので、推奨してゆく所存です。…………ただ、そのような髪型が相応しいのはお日様の色に近しい瞳の色を持つ男性の方のみという記憶ですので、デュル………デュノル司教様にはして差し上げられないんですよ」

「…………私は、違うのだね」



生真面目にそう頷いたデュノル司教に、まさか本気で受け取られてしまうとは思わなかったレイノは、ほっと胸をなで下ろす。


トエルノ司教の瞳は、オレンジがかった琥珀色なのだ。



無事に説明責任を果たしたレイノが視線を戻すと、トエルノ司教はとてもそわそわした後、そそくさと立ち去ってしまった。


図らずもデュノル司教が真に受けてくれたのでとても効果が出たが、後でこの後見人には、頭頂部の毛を滅ぼすという風習など存在せず、これは脅しだったのだと説明しておかなければいけないようだ。



(……………そのような素振りをしているだけではなくて、…………本当に信じてしまったのよね…………?)



トエルノ司教が立ち去ったので、再び歩き始めたデュノル司教の背中を見上げ、レイノはとても分かり難いこの人物の気質について考える。


あの朝食の席で交わした言葉や表情を踏まえると、デュノル司教は、怜悧な美貌に情報が偏るものの、その裏側にはしっかりとした感情の揺らぎを持つ人のようだ。


コツコツと歩く靴音が響き、濃紺の聖衣が揺れる背中に流れた長い髪を見ていると、レイノは、その髪の毛を結んでやりたくなってしまう。



(でも、それはあまりにも親密…………だもの)



それとも、そんな事が許されるくらいに近しかったのだろうかと考えると、本来はどんな関係性だったのかというとても大きな謎が立ち塞がる。




「レイノ……………!」


階位の高い聖職者達の席の並びに入ると、先に来ていたアンセルムが待っていた。

レイノの前にデュノル司教が立っているので、司教の横をすり抜ける事は出来ず、こちらを覗き込むようにして心配そうな顔をしてくれる。




(では、この人は誰なのだろう…………?)




デュノルは、彼をこの教区の体の一部と表現した。


なのだから、アンセルムはこちら側の要素ではないのだ。

来訪者という表現から、彼もまたこの教区に侵入した誰かなのかもしれない。




(デュル………デュノル司教のご友人の方が、素性に心当たりがありそうだったけれど…………)




「アンセルム神父、ご心配をおかけしました」

「…………怪我はしていませんね?」

「はい。デュノル司教様の衛兵の方々が助けて下さったので、何とかお部屋に入るのが間に合いました」

「…………良かった。…………デュノル司教、レイノを保護して下さって有難うございます」

「あの領域は、私の管轄下にあった。障りがあるものが踏み込んだ以上は、それを排除するのも私の役目だからね」



その声音は突き放すような冷ややかさではあるが、これが司教としての立場を示す言葉であるのだろう。

あの領域での騒ぎは、デュノルの司教としての権威を傷付けるものでもあるのだ。



ここが、他の高位の聖職者達が集まる席並びだからこそ、そのような発言をする必要があるに違いない。



そこで、後ろの席からデュノル司教に声をかけたのは、迷い子になったレイノをこの教区に迎え入れてくれた女性司祭だ。



「デュノル司教、わたくし共の管理の不十分さで、お手を煩わせました。ザンスタ、不幸な事故で命を落としたタルボットの弔いも含め、ミサが終わったらシュミックと話をしておいてくれますか」

「御意。……筆頭司祭様、教区主様は…………」

「このミサにいらっしゃるそうです。きっと、タルボットの死に心を痛めておられるのでしょう」

「朝のミサに、教区主様がいらっしゃるんですか。それは珍しいですね…………」



そう目を丸くしてみせたアンセルムに、レイノは、その人物こそが、現在の迷い子達の運用を固めた人物であることを思い出した。

こんなに早く、その姿を見られる機会があるとは思っていなかった。



(先の不幸をその近くで見てしまい、政治的な盤石さを持つ迷い子を育てようとしているひと……………)



ゴォーンと、一際大きな鐘の音が鳴った。




遠くから詠唱が聞こえてきて、レイノは慌てて、デュノル司教越しにアンセルムと会話をする為に傾けていた体を真っ直ぐに伸ばす。


レイノ達の席は右翼側の集会席と対面になっているので、そうすると向かいに座った人達の顔を正面から見据えることになる。




(あ、…………)




そこには、昨日遭遇したユビアチェの姿があり、やはり隣には美しい妖精が控えていた。

他にも、見目麗しい少女や女性、更には少女達よりも美しい少年の姿までがあり、何とも華々しい集まりではないか。



(となると、あちら側が迷い子の席なのではないのかな……………)



ではなぜ自分はこちら側なのだろうと不思議に思っているのは、どうやらレイノだけではないらしい。


他の迷い子達も訝しげにこちらを見ているので、まだ人外者との契約を得ていないから席が分かれているという事でもなさそうだ。



黎明の光がステンドグラスから差し込み、鮮やかな薔薇窓の模様を床に落とす。

またどこかで鐘の音が鳴り響き、詠唱の声が近付けば、聖衣を纏った男達が儀式に使う道具を手に持ち、ゆっくりと進み出て来る。




ミサが始まろうとしていた。




こちらの世界のミサは、レイノがよく知る元の世界の教会のミサとは随分と勝手が違い、魔術の儀式としての側面をより強く持つものなのだそうだ。



まずは供物となる祝福を湛えた花を咲かせた木の枝を祭壇に置き、香炉の煙で丹念に空中に魔術陣を描いてゆく。

供物が必要なのは、土地の魔術を補う為なのだそうだ。


その後に儀式で使う道具を持ち、祭壇へ向かう神父達が詠唱の声を揃えるのも、ミサの為に展開する魔術を育てる為であるらしい。

この手順については、魔術が潤沢な土地であるウィームでは必要がないのだとか。

かの地では、領主である人物が国の魔術の塔の長という事もあり、その後の儀式においても他の土地とは随分と手順が変わってくる。


五年ほど前にウィームでの祝祭の儀式を見た事があるというアンセルムは、あれだけ無駄を省ける儀式の場には初めて立ち会ったと話していた。




(………………え?)




やがて、一人の少女が祭壇の奥にある扉から出てくると、一斉に周囲の人々が一礼した。


この合図は教区主への挨拶だったと記憶しているので、今のレイノよりも幼く見えるかもしれないあの砂色の髪の少女が、この教区を治めているらしい。




(とても綺麗な子だけれど、まだ幼く見える……………。とても優秀で、誰かのあとつぎとして大抜擢されたのだろうか…………)





「子供たち」




そう思ってはらはらしていたレイノは、教区主の最初の一言で考えを改めた。



そこに宿る厳しさと豊かさは、決して幼い子供のそれではない。

魔法が宿る世界なのでそのような事もあるだろうが、あの少女は、きっと見た目通りの年齢ではないのだ。




「…………可哀想なタルボットが、契約の儀で命を落としました。まずは、彼の為に祈りを捧げましょう」




厳かな声でそう言い渡し、教区主は睥睨と言うに相応しい眼差しで揃った人々を見渡し、儀式用とおぼしき書物を手に取る。



儀式用の魔術が扱えないレイノは、ただ立っているだけでいいと言われていたが、複数の聖職者達がばらばらと詠唱を始めると、自分だけが取り残されているような焦燥感に途方に暮れて俯いた。


そんな様子に気付いたものか、デュノル司教が僅かにこちらを見たような気がする。




それは、不思議なばかりのミサの光景であった。




詠唱に合わせてステンドグラスから差し込む光の筋の中に、詠唱の音をそのまま光の粒に変えたようなきらきらしたものが集まり始める。

息を殺して見守っていると、その光はやがて、ばさりと翼を広げた鳥の姿に転じた。



ざあっと、一斉に飛び立つ鳥の姿の光の影に、ステンドグラスがまた色を変えた光を重ねる。

鳥達の羽ばたきに合わせて聖歌にも似た詠唱が始まれば、各所に設けられた小さな祭壇のあちこちで、しゅわしゅわと星屑のような不思議で美しい光が踊るのだ。




(なんて綺麗なのかしら……………)




重なりながら引き絞られてゆく詠唱と光と魔法が、目には見えない奔流のように一点に収束するのを肌で感じた。

その刹那、教区主の少女がすっと両手を持ち上げ、そこに鮮やかな金色の光が弾ける。



ゴーン、ゴーンと鐘が鳴り、集まった光がさらりと大気に崩れて消えてゆくところまでを見届け、レイノは震える吐息を吐き出した。



(あ、…………リシャード枢機卿は、祭壇の横に立っていたのだわ…………)




そこで漸く、漆黒の聖衣姿の枢機卿の姿を見付け、レイノはその横顔に目を凝らす。


デュノル司教と同じような冷ややかな美貌ではあるが、同じ冷たい美貌の中にも、枢機卿のような温度を感じる冷たさと、デュノル司教のような人間離れした体温を全く感じさせない冷たさがあるようだ。


区分は同じなのに、全く受ける印象が違う美貌というのも何だか面白い。




ことりと書物を祭壇に置いた教区主に、そんなリシャードが頷きかけ、お互いの立ち位置を入れ替えると、今度は彼が儀式を主導し始める。


続いて響いた詠唱の朗々たる美しさに、レイノはうっとりと聴き入り、祈りの場には相応しくないかもしれない楽しい時間を過ごした。




「これで、儀式としてのミサは終わりだよ」



数分後にそう教えてくれたのはデュノル司教で、うっとり耳を傾けている間にあっさり終わってしまった祈りの時間に、レイノは目を丸くする。



「思っていたよりも、随分と早く終わりました…………」

「成すものがある儀式とは違い、これは日々の祈りだからだろう。信仰の魔術は気紛れなものでもある。日々の祈りであまり長く拘束されることを望まないようだ」



低く透き通った声でそう説明され、レイノはこくりと頷いた。


こちらの世界の信仰は、そもそも魔物であるという鹿角の聖女への思いを基盤としており、そこに更に他の人外者達の祝福や守護を重ねるものだと言う。

在り方としての根本からが違うものなのだ。




そんな事を考え、ミサは終わったもののまだ朝儀としては解散ではないらしいぞと大人しくしていたレイノは、闇を切り取ったよりも艶やかな漆黒の聖衣を翻した枢機卿が、アンセルムの隣の空き席にやって来た事で生まれた騒めきを聞いた。



その殆どが驚きに満ちていて、はっきりと驚愕に満ちた眼差しをレイノに向ける者や、興奮したように近くの席の仲間達と囁きを交わす者。

加えて、ぴりっとするような鋭い目でレイノを見据える者もいる。



特に、迷い子達が集まった席の辺りにいる者達からの視線はかなり険しく、レイノはおやっと心の中で首を傾げた。



(どうして、あの辺りの人達の反応がより激しいのかしら。…………アンセルム神父から教えて貰ったことによると、契約を済ませた迷い子は、全員が既に後見人を決めているという事だった筈なのに…………)



後見人として狙いをつけていた相手が奪われたとなれば、これだけ強い視線を向けられることも納得出来る。

しかし、彼等にはもう後見人がおり、この教区には過去に記録にないくらいの数の迷い子が揃っているとは言え、迷い子という存在の希少さを考えるとその後見人の交代は有り得ない。



後見人として、自分の庇護する迷い子を得られない者が殆どなのだ。



この教区という場所は、レイノが思っているよりも随分と広いようで、現在ここにいる迷い子に必要なだけの後見人よりも多くの階位ある聖職者がこの教区には存在している。


その立場を欲する者達が控える中、いずれ聖人となるかもしれない者を自ら手放す後見人がいないからか、無用な争いを防ぐ意味合いもあり、迷い子の後見人の交代は認められていない。



(その決まりは、迷い子が聖人としての発言権を得た後に、後見人となった人を蔑ろにしないようにという意味もあるのだろうけれど…………。でも、………あの反応の強さを見ていると、思っていたよりも迷い子という存在の競争も苛烈なのかもしれない……………)




教会が組織である以上、迷い子達の処遇を左右するのは、己の肩書きだけでもない筈だ。

アンセルムが切符と話したように、後見人の階位はその活動の重要な助けとなる。



(だとすれば、あの視線は私が自分達の狙う椅子を奪うかもしれないという警戒なのかも……………?)



レイノが求められる立場的にそれはないのだが、まさかそう説明して回るわけにもいかないだろう。

当分は風当たりが強くなるのだろうかと、清く正しい一般市民であるレイノは気持ちが重くなる。


もし、デュノル司教と話をする前のように、ここでずっと暮らしてゆくのかもしれないと考えていたら、この反応で胃をやられたかもしれない。



(それに、猊下やデュルノ…………デュノル司教様の後見をいただいているらしいとは伝わっても、あの迷い子は凄いぞという視線にならないのが釈然としない…………)



周囲からの冷たい視線の多くは、不相応な者が評価されているのはなぜだろうという、蔑みや疑惑に満ちたものが多い。

やはり、こちらの世界では今のレイノの容姿は評価が低いようだ。



そろりと視線を下げ、アンセルムの方を見ようとしたところで、レイノはすぐ近くで揺れた砂色の長い髪にぎくりとした。



(いつの間に………………)



いつの間にここに来たものか、祭壇の所にいた筈の教区主がふた席隣のアンセルムの前に立っている。




「気難しいあなたが、こうして迷い子を得るとは思いませんでした」

「おや、随分前からご存知なのに、僕はそんな風に思われていたんですか?レイノは可愛い子でしょう?あまり外には出したくないので、虐めないであげて下さいね」

「アンセルム!」


ほんわり微笑んでそう言ったアンセルムに、筆頭司祭が鋭く名前を呼ぶ。

けれども、教区主は僅かに微笑むと、片手を上げてそれを制した。



「構いませんよ。彼は昔からこうなのです。教え子を得たのなら、少しは変わってくれるかもしれませんが」

「そしてアリスフィア様は、いつも僕に手厳しいですね」



そう言った教区主に、アンセルムは眉を下げて頼りなく微笑み、筆頭司祭はほっとしたように肩の力を抜いていた。


少女の姿に見えはしても、やはりこの教区主は自身の力でしっかりとこの教区を治めているのだろう。

少し離れた位置にいたビスクート司教も、幼い教区主を軽んじるような気配はない。



「…………そうですね、確かに外に出すには、魔術の気配が薄い子供のようです。契約はまだですが、あなたの迷い子が教区の外で働く程の重責を担う事はないでしょう。………猊下のご期待には添えないかもしれませんが」



そう会話を振られたリシャード枢機卿は、ふっと唇の端を歪めた美しい微笑みを浮かべ、鮮やかな青緑色の瞳を細める。




「俺が望んだ通りの、出来のいい迷い子だろう?」

「…………成る程、中央へ紹介するには相応しいのかもしれません。然し乍ら、信仰の徒として、私はそのような王家の在り方を憂いているのです」

「であるならいっそうに、中央にはただ微笑んでおけ。饒舌の刻が巡るのなら、それは必要な沈黙だろう」

「…………猊下は、とても恐ろしい方ですね。猊下がこの地に課そうとしておられることは、私の信仰より大きな対価を必要としているのかもしれません」

「さてな。そもそも、こちらの益を損なわないものであれば、信仰の形は多様で構わない」

「であれば、我々の祈りが猊下の改革のお邪魔にならぬよう、アンセルムにはしっかりと言い聞かせておきましょう」



少女らしい声音でありながらも、その儚さや甘さの全てを削ぎ落としたような静謐さでそう結び、アリスフィアと呼ばれた教区主は僅かに目を伏せてリシャード枢機卿に頭を下げた。




(……………この人は、かつて誰かをとても愛していた人だわ…………)




そんなアリスフィアの瞳に、レイノはかつての鏡の中の自分を見たような気がした。



大切なものがなくなってしまって、がらんどうの胸の中に、やらなくてはいけない事をせっせと詰め込んでいた頃の自分は、こんな目をしてはいなかっただろうか。



(……………それならきっと、この人には明確な目的があって、けれどもそれはあまり良くない事なのだと思う…………)




会話の内容からすると、リシャード枢機卿は、そんなアリスフィアの目的を知っているのだろうか。

尋ねてみても教えてくれるようには思えない人だが、デュノル司教は彼を信じて構わないと教えてくれた。



(それに、……………こうして揃えば、明確な差が現れてしまうものなのだわ…………)



誰が誰の味方でどんな企みがあるのかを見通す程の慧眼ではないが、それでも人々の立ち振る舞いや言動には、僅かばかりの色がつく。


レイノにその違いが見えたのは、デュノル司教がリシャード枢機卿を信用して良いと教えてくれたからで、そうすると、彼と教区主のアリスフィアの纏う空気の色の差が、こんなにも際立つのだ。



もしかすると、リシャード枢機卿の方が悪辣で残忍で、アリスフィアの方が清廉で無垢なのかもしれない。

けれども、その二人が持つ色は全く違う色の層に見えた。

この二人はきっぱりと違う区分の二人で、それを基準に周囲を見渡せば、そちら側とこちら側の境界がそこかしこに浮かび上がる。



(筆頭司祭様は教区主様の側、先程の失礼な司教様は寧ろ、教区主様の思惑には全く触れられていない気がする…………)



そんなアリスフィアが、こちらを見た。

前髪の影になってその色を特定しかねていた瞳は、森狼のような斑らの灰黒であるようだ。


淡い色の髪にその眼差しが力強いコントラストを描き、ぐっと胸を押されるような不思議な精神圧を感じてしまう。



この人は何をなくしたのだろうと思い、レイノは、その答えはきっと彼女が見たという、先代の国の歌乞いの事件にあるのではないかと思う。



「レイノと言いましたね。アンセルムは頼りなくも見えるかもしれませんが、優しくてとても頼りになる子です。彼の教えに真摯に向き合い、契約の相手を得られるように努力するのですよ」



その言葉に深々と一礼し、レイノは教区主に向けるものはこれと教えられた深い礼で答える。



司教以上の階位の相手に対しては、不用意に声を発して自分から語ることを良しとしない戒律があってくれたお陰で、声に出して了承し、魔術の繋ぎとやらを作らずに済むのは僥倖だ。



よく分からないものには触れず、そして、こんな目をするひとの思惑には、決して触れたくはない。


幸い、レイノのその返答はそのまま受け入れられ、アリスフィアはデュノル司教にも一声かけた後、他の司教や司祭達の方へ移動してくれた。



ほうっと深い息を吐き、レイノは、あんまり後見人という感じではない眼差しでこちらを一瞥したリシャード枢機卿に、ぺこりとお辞儀をする。




「早々に妙な事に巻き込まれたようだな。多少欠けるのは構わないが、くれぐれもそれ以上の手間をかけさせるなよ」

「お騒がせしまして、申し訳ありません」

「猊下、聖堂の中庭で契約召喚が行われ失敗していたことも、あの部屋にその儀式で招かれた病魔が入り込んでいた事も、レイノには想定しようがない事故です」



すかさずアンセルムが庇ってくれたが、リシャード枢機卿は特にレイノを気の毒そうに扱う素振りはない。



「それについては、その迷い子の後見人達の問題ではあるな。もしあの病魔が教区から出るような事があれば、中央からの疑惑の目は俺にも向きかねない。病変や呪毒などの可能性も踏まえて、きっちり査問会は開く予定だ」



そう微笑んだリシャード枢機卿の言葉が聞こえたものか、近くの席に残っていた聖職者達の表情が揺れたのが見えた。



(もしかして、私を叱る体で、査問会が行われることを周囲に知らしめようとしている………?)




だとすれば、デュノル司教が指摘してたのは、このような部分なのだろうか。

レイノがある程度のことはざっくりと流れに任せられる慈悲深く寛容な気質でなければ、今のやり取りの思惑に気付いて、利用されているように感じたかもしれない。




(でも、私が対処出来ないような場面で上手く転がしてくれるのなら、利用される身の上も決して悪くないわ……………)




事勿れ主義のレイノはそう考えてしまっていたのだが、レイノよりは繊細だったらしいアンセルムからは、工房への帰り道にとても心配されてしまった。




「それぞれの利権や思惑も絡みますが、レイノにとっては、決して害のある人ではありませんからね」



熱心にそう教えてくれるアンセルムに、言葉も飾らず疑問に思っていることをそのまま尋ねたなら、果たしてどう答えてくれるのだろう。




(あなたは、アリスフィアという少女の目的を知り、そちら側に立つ人なのかと聞いたら、アンセルム神父は答えてくれるのかしら…………?)




中庭を抜ける外回廊に出ると、春の雨の匂いがした。



そんな予定など覚えていないのに、ドレスの準備をしなければと考えてしまうのだから、レイノはこの世界で自分がどんな風に暮らしていたのかが、何よりも不思議でならなかった。







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