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禁色と雨音




ぱたぱたぱたん。


雨樋から窓の上の屋根に落ちるその音が響き始めたのは、ネア達がこちらの部屋に通されたつい先ほどからだ。


窓の外は白くけぶり、ざあっと激しく降る雨のヴェールが波打つのが見えた。

青白いそのヴェールの向こう側に立つのは、この屋敷の衛兵だろうか。

それとも、過去の亡霊達だろうか。




雨の向こうに霞むガゼボには、この雨の影で白っぽく見えるような淡いアプリコット色の薔薇が咲いていて、それはどこか、ジョーンズワースの庭にはもう咲かなくなった家族の形見の薔薇を思わせた。


だがそれは、ただの偶然に過ぎず、同じような光景などこの世界には幾らでもあるだろう。



「ガーウィン女伯爵、サザランド・ハウバー様にございます」

「本日はお招きいただき、有難うございました。ハウバーというご称号を得られているという事は、あなたは魔術師なのですね」

「ええ、そうですよ。ですから、国の新たな歌乞いとなったあなたとは、一度話しておきたいと思ったのです。随分と苦労しましたけれどね」

「そのご苦労は、正式な召喚依頼を通せないようなものだったのでしょうか?こちらにお伺いしたのは私の意思でもありますが、そこ迄のご手段はいささか乱暴だったと言わざるを得ません」





その日、仕事を終えたネアは、リーエンベルクにいた。

ガーウィンの教え子からウィーム大聖堂に急な通達があり、エーダリアに、何かきな臭い執務が入っていたのは知っている。

そちらの案件に、エーダリアとノアが携わり、ダリルも参加していたのだと思う。


そして更にここで、リーエンベルク前広場で、土地の魔術活性により暴れ出した魔術書の対処が必要になり、リーエンベルクの騎士に助けを求めた観光客がいた。


たまたま、禁足地の森の方で困った証跡があり、グラストとゼノーシュは不在にしていた時の事だ。

なので、ここは致し方ないと、その対処に当たったアメリアにはディノが同行する事になり、ネアは騎士棟に残ったのだった。


何しろ、暴れたのは、ご婦人を食べるという節制の魔術書である。


観光客はアクス商会と繋がりがあり、観光がてら、その魔術書を管理に長けたアクスの貸金庫に収めようとしての道中だったのだそうだ。

だが、ウィームに到着してから約束まで時間があったのでと、ついつい出来心で馬車でリーエンベルク前を経由してしまったらしい。


その結果、土地の魔術にあてられて、魔術書が暴れ出したのだとか。



(そこからの流れは、判を押したように月並みな展開で…………)



騎士棟に残ったネアのところに、ヒルドが来てくれてすぐ、ガーウィンの女伯爵からの招待状が届けられた。


招待状と言えば聞こえはいいが、その実は、分を弁えない召喚状のようなものである。

そんな中身が何となく分かっていたからこそ、ヒルドはその場で開封したのだろう。

厄介な手紙だと察した誰かが、中身の魔術が変質しない内にと内容を確認するために開封する事もまた、計画の上だったのかもしれない。



魔物達は偶然か必然かその場にはおらず、招待券の魔物などという魔物がいる事は、ネアもヒルドも知らなかった。


体裁はあくまでも招待状であったし、その手の魔術効果を排除するような守護を持つ、エーダリアやグラストもその場にはいなかった。

手紙を確かめる側の立場であるヒルドは、敢えてそのような守護は持たなかったのだ。



だからもし、全てがこの女伯爵の手の内であれば、それは、どれほど緻密な計画だったのだろう。


ネアはその鮮やかな手際に感心しつつ、とは言えこれからの不愉快な時間についても考える。

あの瞬間、招待状を開いたヒルドが魔物の領域に捕らわれ、ネアは選択を迫られた。


その場で、同居の方々にはご内密にという注意書きに触れぬようにヒルドを助ける為に招待に応じるか、招待に応じず、半ば取り込まれかけていたヒルドがどうなるのか分からないまま、その手を放してしまうか。



(この手を離すという選択肢はなかった)



それが、ちょっとした知り合いくらいの誰かであれば、ネアは、容易く犠牲にしただろう。

所詮自分が可愛い身勝手な人間であるし、ネアの一番はディノなのだ。

だからネアは、自分が脅かされず、ディノが悲しまないという選択をする。

だが、ヒルドはその例外となる数少ない人物で、ネアの大事な家族だった。


ましてや彼は、自由に羽ばたける妖精ではない。

かつてはこの国の王妃の持ち物であり、第一王子の従者だった。

そして今は、ウィーム領主館在籍となっているものの、それでもやはり、この国に仕える妖精のままなのだ。


勿論、そうして国に属するからこそ、ヒルドは、エーダリアとどこまでも行ける。

共に儀式や会議に同席し、大事な子供の為にその隣にいることが出来る。

だがそれは、彼に本来の階位を損なわせるような鎖をかける行為でもあり、このような場合はとても不利に働きかねないのだ。



何しろこのガーウィンの女伯爵は、実質ガーウィンの第五席だというではないか。

女性では、女公爵と呼ばれるご婦人が一席だが、それに準じる女性の権力者として、少なからず様々な決定権を持つ人だ。

中でも教会とのパイプはこの人物が一任されているといっても過言ではなく、代々、この伯爵家の中でハウバーの称号を持つ魔術師が仲介人となってきたという。



(つまり、席次の低さよりも大きな役割を持つ人なのだ)


尤も、教会側との縁の深い人物を、領地の最上位にしなかったのはガーウィン領主側の思惑なのだろう。

教会勢力こそがガーウィンの主力ではあるが、とは言え、領地経営とは別物だとしっかり線引きをしているのである。


だが今回は、散々しでかしてきたガーウィンの一派の中で初めて、教会勢力に属していない重要人物からの接触であった。



(ヴェルクレア国では、規制はあれど、国の中で独立した権力を有する組織が二つある…………)



それは、ガレンと教会だ。


なのでこれ迄は、ガーウィンの引き起こす問題は、どちらかというと、その好き勝手に出来る教会の勢力に依るところが大きかった。

一概にガーウィン貴族と言えども、教会関係者を身内に持つ者など、しっかりとした教会派の証を持つ者だからこそ、問題を引き起こせていたのである。



(でも、今回のひとは違うのだ。…………この人は、教会との橋渡し役を兼ねていても、あくまでも、ガーウィンの領主側、そして旧王家側に縁る人。そんな人が、己の立場を危うくしかねないだけの暴挙で私達を呼び寄せたのであれば、それなりの対応策も備えているのだろう)




「そうですね。乱暴だったかもしれませんが、正式な手順を踏んでおりますよ。リーエンベルクに正式な承認と書式を踏んだ招待状をお送りしましたし、ガーウィン領主にも、ウィームの歌乞いとの対談を要請し、承認されております。つまり私は、正式な手順の下であなたにお会いしたいという手紙を送り、その承認が得られれば、お忙しい国の歌乞いの活動を妨げぬよう、すぐにお招き出来るような状態に整えていたというだけなのですから。元より、招待状に招待客の移動の手間を緩和する為に、魔術の道や転移門を同封する事は禁じられておりませんからね。招待状の封の部分に魔術変質があり、手紙を開いた者が僅かに取り込まれてしまったのは、我々の手落ちではございません」



淀み無い声でそう告げた伯爵に、ヒルドが浮かべる微笑みは鋭い。

この招待が半ば強引だった事は、誰よりもヒルドがよく知るところなのだから。



「…………あのリーエンベルク前広場での騒動が、あなた方の思惑だったのかは、追及せずにおきましょう。ですが、ウィーム大聖堂になされた提言については、あなたも承知の上だったのでは?そのような重大な会談が予定されている日に、招待状を送りつけるのは無粋だとは思いますが」

「あら、私はあくまでも教会側との交渉役で、あちらの細かな意図や、突発的な行動までは把握しておりませんよ。お恥ずかしい話ではありますが、我が国では、教会組織はある程度の独立した権限を認められております。国家に仇なすような計画でもない限りは、彼等とて私達にも話したくない事はあるでしょう」



ヒルドの冷ややかな指摘にそう返答し、ガーウィンの女伯爵は嫣然と微笑んだ。


けぶるような金髪はゆるやかな巻き髪で、その髪を丁寧に結い上げている。

はっとする程に美しい緑色の瞳を持ち、蠱惑的で美しい面立ちのこのご婦人には、聡明な猫のような魅力があった。



(…………ディノには声をかけてある。広場での問題を解決したら、こちらに来てくれるとは思うけれど…………)



また、今回は、幸いにもヒルドが一緒だ。

そして、大事を取って騎士役も一人、同行してくれた。


あの招待状には、同居の者達には内密にとあったが、それ以上の条件指定はなかった。

内密にするも何も、既に人質に取られたようになっているヒルドは、こちら側も招き入れるしかなかったし、他にも一人の騎士を伴って現れたネアに、サザランド伯爵は多少なりとも表情を崩してはいたようだ。


特に、本来なら騎士か文官の仕事である、封筒を開ける役割がヒルドだったのが、想定外だったらしい。



「今回のご招待は、私の同居人の方々には内密でのご相談があるという事でしたが、内容をお伺いしても宜しいでしょうか?」

「困ったわね。………本当は、あなただけに話したい事だったのよ。少し個人的な事情も含みますから、国の歌乞いであるあなたへの相談としたかったのだけれど」



ネアが、さっさと要件を済ませてしまおうとそう尋ねても、サザランド伯爵は女性らしい仕草で首を傾げるばかりだ。


そこまでヒルドには聞かれたくない内容とは何だろうと、眉を顰め、ネアは内心の溜め息を噛み殺す。



実は、先程、ディノがそっと頭を撫でるような感覚があった。

であれば、ネアの大事な魔物はもう、何某かの対応を取ってくれているのだろう。



(とは言え、……………不愉快だわ)



こんな招き方に、不愉快以外の感想など抱きようもないではないか。


例え、何の悪意もない迂闊なばかりの招待であったとしても、ネアは帰った後に、きっと怖がっているに違いないディノを慰めるだろうし、ヒルドとて責任を感じてしまうだろう。

そんなこちらの損失をどうしてくれるのだと言いたかったが、相手の出方を見る迄は動けない部分もある。



ネアは国の歌乞いで、招待状をリーエンベルクに送りつけてこられた以上、この問題は既にウィーム領も無関係ではない。

遺憾ながらも、浅慮な振る舞いで壊してはいけないものもあるのだった。



「であれば、私はまだ若輩者です。歌乞いとして招かれたのであれば、私の魔物のいないままにその役割を果たす事は出来ません」

「いいえ、私はあくまでも歌乞いとしての役目を持つ、あなたに話がしたかったの。契約の魔物はあなたの良き相棒だとしても、やはり魔物には違いないのだわ。用意しているのが人間の事情に基づく相談である以上、あなただけに聞いていただくのが最良というもの。…………そのような意味でも、ヒルド様にまで同席いただくのはご遠慮願いたいのですわ。だって、私の相談の内容は、女性の秘密に纏わるもの。それにあなたは、第一王子派から切り離せない方。私はまだ、第一王子派であるという立場を取ってはおりません。あの方に通じるかもしれない代理妖精の前では、思うままに言葉にし難い部分もあるのをお察し下さい」



ここで政治的な事情を盾に取るのかと、ネアは、頭が痛くなった。


第一王子派に与するか分からないので、そちらには共有したくないのだと言われてしまえば、第一王子からの着任命令でウィームに在籍しているヒルドには手痛い指摘だろう。


だが、そう言われたヒルドは、ふっと刃物のような怜悧な微笑みを浮かべ、サザランド伯爵の懸念をばっさりと切り捨てた。



「おや、であれば出直されては如何ですか?正式な書状を持ち、正式な訪問をお待ちいたしましょう。ウィーム領内の然るべき施設であれば、お二人での会談の許可が得られるかもしれません。………ですが、宜しいですか?ここはウィームを離れたガーウィンで、この方はウィーム領に預けられた国の歌乞いです。契約されている魔物の方の不在時にこれだけの距離を動かしたのですから、私は、この国の為にも彼女の傍を離れる訳にはゆきません」

「まぁ、それはあなたが、その魔物の信頼を得ているからこそ、護衛代わりになるということかしら?」

「そのようにご認識下さい。あまりにも不自然なご招待ですので、さすがに警戒を怠る事は出来ませんね」



冷ややかにそう言いきったヒルドに、同席していた屋敷の使用人達がざわめくのが分かった。

ヒルドの言葉は、明らかにこの状態が不手際であると指摘しての事なので、形式的には手順を踏んだという建前がある以上、その反応はわざとらしくても仕方ない。



(……………ここで、この人達を振り切って帰るとして、)



でもネアは、とても我が儘な人間であったので、それはさて置き不愉快だという結論も出しているのであった。


その騒めきを不愉快がるように室内を見回し、それとなく、この部屋にいる伯爵家側の人員などを確認しておく。



(家令風の男性が一人、侍女が三人。そして、従者らしき役割だけどよく分からない、けれども使用人風の装いの男性が一人。……………それから、サザランド伯爵の契約の魔物が一人)



護衛騎士などの姿はないが、このご婦人自身が高位の魔術師なのだ。

武装しているように見えない使用人達が魔術師でも驚かないし、そもそも、サザランド婦人は歌乞いでもある。


契約の魔物は綺麗な金髪の少女で、特にこちらを威嚇するような事はなく、静かに佇んでいる。




「…………サザランド伯爵は、歌乞いでいらっしゃるのですよね」

「ええ、そうよ。だからこそ、あなたと話をしてみたかったの」

「契約の魔物さんがいらっしゃるのに、私だけを召喚しても構わないと思われたのが、正直、意外でなりません」

「あら、でもあなたの魔物は、自らの意思であなたの側を離れていたのでしょう?それに、あなたは自分の意思でこちらを訪れたのだから、私は何の無理強いもしていないわ」

「さて、それはどうでしょう。魔物は、我々人間とは違う価値観を持つ生き物です。また、あなたの魔物がそれを良しとしたのであれ、系譜ごとにその資質が違う以上、私の魔物はそれを許さないかもしれません。そして、私とて大事な魔物に嫌われたくないので、こう言うでしょうね。……………ヒルドさんが連れてゆかれそうになってしまったので、他の選択肢がなかったのだと」

「あら、それでもと言うかもしれないわ。魔物が、あなたの言うように狭量なものであるのなら、それでも自分を不愉快にしたのは許し難いと言うかもしれない。………でも、大丈夫ですよ。こちらのご相談を終えたら、私からあなたの魔物にもきちんと招待の事情をご説明しましょう。きっとあなたの魔物は、我々の提案を歓迎してくれるでしょうから」

「つまり、私が友好的にあなた方のご招待に応じれば、私がうっかりこの招待に応じてしまった事で生じる私の魔物との調停も、お土産に含めていただけるということですか?」



その問いかけに、サザランド伯爵は微笑んだ。


目の前のテーブルには華やかな絵付けのカップが置かれ、香り高い珈琲が用意されている。

珈琲の上にはちょこんとクリームまでが載っていたが、残念ながらネアは、この黒々としたしっかり苦めな珈琲はあまり得意ではないのだ。




「申し訳ありませんが、そのご提案はお受け出来ませんね。私は、ウィーム領主の代理人として、ウィームで預かる歌乞いを指導する立場にもあります」

「相変わらず、そのような事を仰られるのね。でも、ヒルド様には、どうしても歌乞いの事情は分かりませんわ。それに、私の相談事は、決してあなたにとっての不利益とも言えないでしょう。………ただ、この段階では、そちらに失礼のないようにと正式な書状の手順を踏んだだけで、まだ個人的なご相談でもあります。女性の尊厳に関わる事ですから、あなたには外していただきたいの」

「だとしても、私を排除する事は叶わないという前提で、どうなされるのかを決めていただきましょう」

「困った妖精だこと。………では、これではどう?あなたではなく、その騎士を同席させましょう。あくまでも、預かり物である彼女が、身の危険を感じない状態であれば問題はないのでしょう?」



その提案に、ネアはヒルドと顔を見合わせた。

この女性の目的が相談であるのなら、それさえ済ませれば、状態に応じた目的は果たしたとこの場から退出する事も出来る。


何しろネア達が転移で強引に帰れないのは、招待状を受け取り、この地を訪れてしまったからでもあるのだ。



(それが、招待状の魔物さんの手による招待状だからこそ、尚更に…………)



きっとこの女性の力は、交渉相手と同じテーブルに着けるという強みなのだろう。

交渉そのものは自分でこなし、或いは誰かに譲り、契約の魔物はその為の会談の場を整える。

教会側との橋渡しとしての存在感を示せるのも、その力があってこそなのかもしれなかった。


政治的な場面に於いて、交渉したい相手に会えるというのも、なかなかに得難い能力に違いない。




「…………結果として、あなたの思惑に乗るという事が、心の狭い私は面白くないかもしれません」

「まぁ、今代の歌乞いは、随分とあけすけな物言いをするのね?ですが、契約の魔物と引き離されて気が立っているのでしょう。そこは私のような者が大目に見て差し上げないとね」

「……………ヒルドさん、どうされますか?」

「あなたを、必要以上に長くこちらに留めたくはありませんね。ウィームとガーウィンの不必要な交渉となれば、王都から問題視される可能性もある。…………もし、その相談事とやらが、結界などで会話を漏れ聞こえなくする事で私への遮蔽とし、この部屋で行う事が可能であればという条件でなら、許可いたしましょう」

「唇の動きを読まれては堪らないわ。背中を向けていて下さるのかしら?」

「ええ。であれば構いませんよ。ですが、彼女が常に私が側にいる事を確認出来ている事が条件です。部屋を分け、どちらかを人質に取り交渉するという、古くからの常套手段がありますからね」

「失礼ではありませんか!」



飄々とそう言ってのけたヒルドに、家令が声を上げたが、サザランド伯爵は片手を上げてそれを制した。

にっこりと微笑み、それで構わないわと、少女のように手を打つ。




「では、彼女とその騎士。そして公平さを重んじまして、私とこの屋敷の家令が入ります。私の契約の魔物は、結界の外でお留守番にしましょう。これなら、不公平ではないでしょう?」

「構いません」



ここで、くれぐれもヒルドに危害を加えないようにという条件を付けると、場合によってはこちらにも似たような条件設定がなされる。

魔術師が言葉による交渉を持ちかける場合、その手札を譲る訳にはいかない。


以前にダリルに教えられたように、そこはぐぐっと堪えて言葉を飲み込むと、サザランド伯爵は少しだけ意外そうに瞳を細めた。



(恐らく、私がヒルドさんの安全についても保証させると思ったのだろう。その為に、少しだけ強気にしていたのだ…………)



愚鈍さを装うのは簡単だが、ある程度の自己主張を必要としたこの場所では、そちらの仮面はかけられない。

であればせめて、そんな事を言い出すくらいには、賢いと思わせなければならなかった。


ネアが演じきれる役回りは、二つしかないのだ。

愚鈍な傀儡か、程よく頭が回るが策士ではない程度の小賢しさか。




「ふぅ。これでやっとあなたと話が出来るわ。…………正直なところ、もう少し大人しいお嬢さんかと思っていたの」



すぐに遮蔽結界で箱型の入れ物を作り、ネアと伯爵の座るテーブルが区切られた。

ネアの背後には騎士が立ち、伯爵の背後には家令が立っている。


ヒルドは結界を背に立ち、ネアからはすぐ近くにその背中が見えている状態だ。

正直なところ、この屋敷の使用人達はこちらを見ているので、監視している人間の数では不公平ではないかと言いたいくらいではないか。



「それは、ご期待に添えなくて申し訳ありません。私は、私や、私の大切な方々に降りかかる不利益がどうしても我慢ならないのです」

「ヒルド様の事も、信頼されていらっしゃるのかしらね?」



珈琲を一口飲み、伯爵はネアが飲み物に手をつけていない事に気付いたのか苦笑する。

とは言えこちらは、苦手な飲み物を飲まないだけなのだが。


「ええ。…………それは嘆かわしい事だと、あなたはそう思われるのですか?」

「どうでしょう。私も少しばかり無作法な質なので、敢えて言葉を選ばずに言わせて貰えば、彼は、エーダリア様を快く思わない王妃様の愛玩品であったのよ。奴隷としてその閨に侍って階位を上げた妖精が、長く情を交わし肌を許した相手に対してそこまで無関心になれるかしら?あなたが、エーダリア様と良い関係を築かれているのは知っているわ。何しろ今のウィームは、様々な政が盤石。寧ろ、問題を起こしているのは王都の方ですもの」

「私の信頼と、あなたのご想像は別のものでしょう。私には私なりの理由と経験があり、その上でヒルドさんを信頼しています。ヒルドさんがあなたを警戒するように言われた事で、私があなたのご相談に耳を傾けないと思われているのですか?」

「ええ、それが心配なのよ。そして、あなたがウィームという不安定な土地で、王都の第一王子派に取り込まれて偏った視点を持たないかどうかも」



緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ、ネアは、目の前の美しい人に苦笑してみせた。

そんな事はないのだと忠告を軽視してみせれば、このご婦人は、もう一歩踏み込んでみせるのではないだろうか。



「あなたは勤勉かもしれないけれど、政治の暗闇を歩いた事はないでしょう。たかが意見の相違程度の事でもこの身を狙われる覚悟や、そうして道を踏み外した者達を、国や民の為に葬る覚悟も」

「…………確かに、あなたと私は違います。私は政治には明るくありませんし、それ故に、私と私の魔物は薬作りを仕事としています」

「ふふ、それもとても大切な仕事よ。他の誰がどう言おうと、あなたに微笑みかけている人達が影でどんな噂を立てようと、あなたは与えられた役目を果たしている。私のゆく泥沼を歩いた事がないとしても、それはあなたの領分ではないのだから気負う事もないでしょう。…………そして、ここから先は、泥沼を歩く私の、私なりにこの国の未来を、そしてあの方の事を案じての提案と相談なの」



明朗できびきびとしていて、凛としていて揺るぎない。

だが、そこには残忍さがほんのひと匙加わり、敵に回さずに味方として引き込んだ方が得策だという雰囲気を作る。


その微笑みは強引で洗練されていて、ふとした折に、どきりとするような温かな目をするのだ。



(……………全く印象は違うけれど、魔術師の目をした人だわ。魔術師で、そしてザルツで遭遇した人達のように、貴族としての矜恃や傲慢さも持っている)




ネアは、この人の微笑みは何と巧みなのだろうと考えながら、けれどもここにいる人間はとても狭量で、尚且つ、簡単に他者の腕を掴めるような社交的な人間でもないのだと心の中で溜め息を吐いた。


ただ、圧倒されずにこんな風に分析出来るという事は、ザルツでのダリルの仕事に同行させられた意味は確かにあったのだ。

もしここが初回であれば、慣れない言葉の温度に振り回されたかもしれない。



「あの方というのは、どなたの事でしょう?」

「エーダリア様よ」

「……………エーダリア様、ですか?」

「ええ。私の父は、ガレンに属していた魔術師でした。私は、この伯爵家を継いで女伯爵となりましたので、貴族の約定上ガレンには所属出来ませんでしたが、それでも、歌乞いとしての登録などであの方にはお世話になっています。…………だからこそ、あまりにも王妃様の影が濃い、今のウィームを案じてならない」

「私はウィームで暮らしていますが、王妃様の影に触れた事はないのですが………」

「あなたも自分で話していたでしょう?この国の政治的な駆け引きと、あなたの関わる作業は重ならないわ。あの方はお優しいから、あなたの立場や自由をしっかりと守っているのでしょう。……………仮にも、元婚約者ですものね?」

「ええ。ですが今は…」

「知っているわ。あなたは、契約の魔物を伴侶とした。だからこそ、これからの私の提案と相談は、あなたの魔物を脅かさないし、エーダリア様の助けにもなるでしょう」



ネアは生真面目な表情で頷いたが、何となく会話の行き着く先が窺えてしまった。



一般的な見方で考えれば、確かにディノは荒ぶらないだろう。

だが、魔物は思っている以上に狭量なので、今の家族の輪に誰かを加えるとなれば、かなりの摩擦となるのは避けようもない。

そもそも、お腹を出してムギャワーと荒れ狂う銀狐が真っ先に想像出来てしまう。



(それがエーダリア様の願いでなければ、誰もこんな提案を受け入れはしないだろう。あの場所にそんなお相手を迎え入れるのだとすれば、その方が、エーダリア様の特別に大事な方でなければならないのだ)



反対に言えば、それがどんな相手でも、エーダリアがその人でなければと言えば、皆は力を貸すだろう。

ネアだって、同性の友達は喉から手が出る程に欲しいのだ。




「私を、エーダリア様の伴侶候補として考えていただけないかしら?ガーウィンでの思想や人脈をウィームに取り入れる良い機会になるし、そうする事で、あの方は、王都に対してもそれなりの発言力を得るでしょう。そうして、ガーウィンと王都の間のウィームで均衡が取れれば、実質的に限りない自由と相違ない。…………そして何よりも、私は、あの方をお慕いしているの。だからこそ、この秘密は私の弱味になる。王妃様の手駒かもしれないヒルド様にだけは、絶対に知られたくなかったのよ」

「なぜ、それを私にお話されたのですか?」

「同じ女性で、率直に言えば、リーエンベルク内に味方が欲しかったから。………いえ、味方ではなくてもいいの。平等な目で私を候補として認めてくれる人が、あの人の側にいて欲しかったのだわ。…………と、ここ迄は私個人の身勝手な要求だけれど、私だからこそのあなたへの利点もあるわ」

「あなたが、エーダリア様のお相手になる事で、私にも得るものがあるのですか?」



そう問いかけたネアに、サザランド伯爵は、決して慈悲深い微笑みを浮かべはしなかった。

ここで情に訴えかけない賢い人だと思い、ネアは、そんな人がこのような手段を取るくらいに焦ったのはなぜだろうかとも考える。


(もしかするとこの提案は、サザランド伯爵側にとって、残された期限が短いものなのかもしれない………)



でなければやはり、もう少し他にやりようがあった筈だ。



「第一に、元婚約者が伴侶を得れば、あなたの魔物はとても安心するでしょう。…………魔物が、伴侶の側にそのような相手を生かしておくのは特例に近い事なのよ。それに私は、あなたの前任者だったアリステルが、どのような誤ちを犯し、どのように利用されたのかを知っています。それは、あなたがどれだけ国政に携わらない階位の低い歌乞いであれ、いつ何時訪れるか分からない陰謀からその身を守るのには必要な知識だわ」



ふつりと言葉が途切れ、ネアは、ふうと息を吐いた。

伯爵側の主張は、ここ迄だなと考えたのだ。

寧ろ、これ以上は知らなくてもいいだろう。



「…………あなたのご意見は伺いました。ご相談については、お受け致しかねます。どう考えても、あなたの目的に対して私は当事者ではありませんし、それなのにこのような形で取り込まれるのは御免です。エーダリア様を慕われているのであれば、そのようにご本人に伝えるべきです。政治的な立場からの提案であれば、代理妖精であるダリルさんにお話しするべきでしょう」

「そのどちらもが悪手となりかねないからこそ、あなたに話したのよ。私は歌乞いだわ。これから、同じ歌乞いとして共に手を携えてゆける相手として、まずはあなたとお友達になりたかった。……………ええ、そんな言い分が稚拙なのは分かっています。けれども、正攻法で近付けないくらいに、あの方の周囲には茨の柵が張り巡らせてあるの」

「もし、私達が歌乞い同士だからと、それだけでこのご提案をされたのであれば、あなたはあまりにも魔物を知らないのでしょう。私は歌乞いですから、私の魔物の心を慮ります。それが、私の歌乞いとしての仕事でもあるからですね。だからこそ、その段階でもう、あなたの提案はお受け出来ないのです」



きっぱりとそう言えば、伯爵は静かに目を伏せてどこか悲しげに微笑み、そして凛とした面持ちでこちらを見た。



「…………私にも信念があります。先程、私には泥沼を歩く覚悟があると言いましたね」

「ええ。手段を選ばないと、そう仰りたいのですか?」

「さて、それはどうでしょう。ですが、…………あの方を取り巻く環境にこそ毒があるのだと判断すれば、私は、私の信念の為にも強硬策に出るかもしれません。………信念と言うのはそのようなものでしょう?」

「私を脅迫されても、ない袖は振れませんよ。そして、このようなお話の進め方は、あなたにとっては良い結果を生まないでしょう」

「あら、あなたは、私の秘密を一つ得てしまわれたのですよ。であればこちらには、もう退路などないのです。その覚悟を持ってお招きしましたから。………………でも、破談ですわね。………帰りは、馬車を手配いたしますわ。このような雨ですから、………そうですわね。どうぞお足元にお気を付けてお帰り下さい。決して事故などに遭われませんよう」




もしこの一言がなければ、ネアはきっと、むしゃくしゃしながらも無言で立ち上がっただろう。

立場によって正義が違うのは承知の上であるし、それぞれの立場に応じた闇くらいあるだろう。



だが、そんな事はどうでもよくて、たった一つだけの禁色、そして禁足地のような言葉というのもまた、誰しもが持つものかもしれない。




「……………サザランド伯爵、あなたが泥沼を歩かれたと言うのならば、私もまた、その中を歩いた事があるのかもしれません。そしてそこは、あなたが私を見てこんなものかしらと考えられるよりも、ずっと深い場所である可能性もあるのです」

「まぁ、今度は私を脅されるおつもり?」

「……………あなたが結びで使われた言葉と同じ色の毒で、かつての私は、とある交渉の場に赴いた愛する家族を殺されました。どんな事も自分ごとではないのだと聞き流せても、こればかりは、………どうしても無関係だと捨て置けない言葉なのです。……………あなたは、私に対して、私の家族のようになるかもしれないので気を付けて帰れと仰るのですね?私の記憶の中にあの日の事を引き摺り出し、その苦しみを知っているだろうと、それで苦しめと、そう私に突き付けていらっしゃる?」

「……………ま、待って頂戴、」

「あなたは身勝手で、私には関係のない問題に私を引き込みました。であれば私も身勝手に、私の事情で、あなたを断罪して当たり散らしても良いのでしょう。目の前に座っている相手が、こうしてたかが同じ形をした生き物だというだけで、同じように言葉を汲むと思ったら大間違いなのです」



ネアは立ち上がらなかったし、言葉を荒げはしなかった。


だが、主人の身の危険を感じたのだろう。

短く息を呑んだ家令が動こうとし、けれどもその瞬間、かつんと、杖の先が床石を鳴らす音がした。




「……………ここ迄でいいな?」

「……………ええ。もう充分です。ヒルドさんと、リーエンベルクに帰ります」

「シルハーンが迎えに来ている。お前はそちらと一緒に帰れ」

「アルテアさんは、どうされるのですか?…………そして私は、帰る前にまず、この部屋にいる方達の口を塞がねばなりません」

「………おい、なんでお前がこいつらを消す気満々なんだよ」

「相応の事をしでかされたからなのですよ。自分で自分を我が儘だと言うくらいであれば、同じように手段を厭わない相手がいると、どうして考えられなかったのでしょうね」

「いいか、既に過去形になってるぞ」

「む?」




部屋は、全ての明かりが消えて暗い影の中に沈んでいた。


伯爵も使用人達も、そして、招待状の魔物とやらも含めた全員が意識を失って崩れ落ち、ヒルドだけが何事かとこちらを振り返っている。


だがヒルドは、あの場で咄嗟にネアが召喚し、騎士に擬態して付き添って貰う事にした使い魔が、魔物としての姿に戻っている事に気付くと、安堵したように息を吐く。


すぐに、ふつりと遮蔽結界が解け、ネアは、しっかりとヒルドに抱き締められた。



「こいつをどうしたい?」

「可能であれば逃げ沼案件ですが、この方の役割は、私には分からないところで必要なのかもしれません。それに、エーダリア様に対する働きかけには、恐らく期限があります」

「エーダリア様に?」


冷ややかに目を細めたヒルドに、ネアは、サザランド伯爵の提案の全てを話してしまう。

ついでに、ネアが癇癪を起こした言葉とその言葉と己の過去の因果関係も言いつけてしまうと、ヒルドは凍えるような目を、意識を失っている伯爵に向けた。



「……………この方は今、ジュリアン王子との縁談が持ち上がっております」

「なぬ。………ろくでもない組み合わせなのでは」

「ええ。ですが、ジュリアン王子の持つ祝福が結ぶのであれば、あの方の周囲に毒を集めつつ、尚且つそれを成就させないという廃棄箱のような役割を果たしますからね。とは言えまだ、国王派の調整中と聞いておりますが」

「そちらに結ばれるよりは、ウィームの方がいいと考えられるくらいには頭が回ったんだろうが、まぁ、ここまでだな」

「アルテア様は、この方をどうされるおつもりですか?私個人的にはここで廃棄しておきたいところですが、教会との橋渡しが可能であり、アリステル派でもないとなると、確かに必要な役割でもある。出来れば、役割は残しておいていただきたい」

「適当に削いでおくさ。要は役割を果たすだけの機能が残っていれば構わないんだろ。新しく加わる要素で、あの王子の派閥の均衡が変わらないかどうかの、いい監視手段にもなるだろうよ」

「ふむ。悪い魔物さんにあれこれされてしまうと判明したので、心穏やかに帰路に就きますね」

「そういうお前は、逃げ沼に放り込もうとしたがな」

「あら、私はとても心が狭い人間なのですよ?」




こつりと鳴らされた杖の音に、しゅわんと帰り道が現れた。


飛び出してきたディノにぎゅうっと抱き締められているネアがそう言えば、背中を向けたアルテアは肩を竦めただろうか。




「帰ったら、好きなパイを焼いてやる。何にするか考えておけ」

「パイ様!!」

「ネア、怖い思いをさせてしまったね」

「むむ、ヒルドさんがいてくれましたし、アルテアさんも側にいてくれたのですよ。なのでディノには、困った魔術書の対処を優先させて下さいと言えたのです」

「うん……」

「ディノ様、この度はご迷惑をおかけしました」

「ネアから事情は聞いているよ。であれば、君のせいではないだろう。…………アルテア、こちらは任せてもいいかい?」

「ああ。寧ろこれは、俺に対する越権行為でもあるからな」




白い手袋に包まれた手がひらりと翻るのが見え、魔術の道が閉じた。



どこかでまだ雨音は聞こえていたが、帰り道は伴侶の腕の中なので、馬車でもなければ、この世界にはない黒い車でもない。


とても邪悪な人間は、それでも、あの屋敷いっぱいに豆の精を詰め込み、この人々が阿鼻叫喚になる光景を見られなかったのはとても残念だと、そんな残虐な事を考えてしまうのだった。




なお、リーエンベルクに戻ってサザランド伯爵について尋ねられたエーダリアは、会ったこともない女性だと首を横に振ったので、ヒルドとノアが無言で頷き合っていた。


二人によれば、アルテアが先に手を打ってしまった事は、とても残念だったそうだ。











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