サムフェルと妖精の口付け 2
「ふぁ!」
昼食の為に訪れた店の複雑なモザイク模様の床石をこつりと踏み、ネアは小さく溜め息を吐いた。
このような意匠の建物はウィームにはあまりない。
それだけでも感嘆してしまうのに、おまけにここは、仮設の店舗に過ぎないのだという。
(多分、魔術で景色などを移築するのと同じような扱いなのだろうけれど…………)
とは言え、この素晴らしい店舗が恒常のものではないという事に変わりはないのだ。
通常時の店舗は別物なのだと聞けば、今回のサムフェルへの出店のように、どれだけ様々な場所へお店を出しているにせよ、この素晴らしい建物がどこかに仕舞われているばかりの日々もあるのだろう。
その勿体なさにじたばたしてしまうが、ネアは所詮、お客でしかないのだった。
なのでネアは、くすんと鼻を鳴らして、もう一度、独特なアーチ状を描く天井や入り口の内壁をじっくり観察しておく。
美術館や寺院のような静謐さが目に心地よく、尚且つ、異国風の造形は、どこか不可思議な切なさすら感じさせた。
この建物のアーチ状の構造は全て、ウィームの茶器のそれではなく、砂漠の都市で使われるような茶器の蓋のような独特の形をしている。
滑らかな曲線ではない蓋の取っ手のような独特な窪みは、風の祝福を通す為の複雑な魔術式の要なのだそうだ。
細やかな壁のタイルの模様や、床のモザイクを纏め上げる魔術の核として、その形状に落ち着いているらしい。
「綺麗な建物ですね。つやつやした半透明の薄緑色のタイルに、繊細な瑠璃色の花籠の模様が描かれています。入り込む光の影には、外の大きな木の葉っぱの形があって、ここを通る風は、なんて気持ちがいいのでしょう」
「オアシスを模した魔術なんだよね。その中でも、これはかなりのものだなぁ。現存する建物の影を借りたのかもしれないけれど、これだけの魔術式を構築したのは人間じゃないだろうね」
「………人間なのではないかな。先程、ウィームで見かける人間が、懐かしい手作りの我が家に思わぬところで再会したと話していたよ」
「…………え、誰それ」
「ハツ爺さんだな。…………是非に、この魔術の扱いについて話を聞きたい」
ノアは、自信満々に人間技ではないと断言したのだが、どうやらハツ爺さんのかつてのお家のようだ。
おまけに、自作のお宅であったらしい。
と言う事は、この建物が必要とされるような土地で暮らした事があるのだなと、ネアは、謎の多いダンスバトルの帝王の過去を思った。
「この建物に落ちる影の色は、どことなくヒルドさんを思わせてくれるのです。そのせいか、余計に心地良く感じてしまうのかもしれません」
「ああ、私もそう思っていたのだ。元の色彩は違う色相なのに、建物に入る木漏れ日や、落ちる影の色が重なるとヒルドの色になる」
ネアの言葉にエーダリアも熱心に頷き、ヒルドは淡く微笑む。
綺麗な妖精の羽は僅かに広げられ、そんな建物中でいっそうに美しい色を透かしていた。
羽の根元の僅かな菫色が、そこになんとも艶やかな彩りをつける。
(………綺麗。やっぱり、ヒルドさんは私が知っている妖精さんの中で、一番綺麗な妖精さんなのだわ)
そんな誇らしさにふんすと胸を張るネアに気付く事なく、ヒルドは、エーダリアが買った品物の確認を行なっていた。
リーエンベルクで過ごす時のヒルドは、執事服と騎士服の中間のような装いが多いが、こうしてウィームを離れて出かける際の装いは、最近になり、ほんの少しだけ変わってきていた。
袖口の広がった上着に裾広がりの上着を腰帯できゅっと引き締めると、何となくだが王様のようにも、神官のようにも感じられるので、ネアはこちらの装いのヒルドも大好きだ。
(そんなヒルドさんの装いの変化を、エーダリア様もとても喜んでいて…………)
以前のヒルドは、休日の服装など大して持たず、部屋から出ないか、休みなのに仕事をしているかのどちらかだったと言う。
前者は何かがあった場合に備えての待機も兼ねていたし、後者に至っては完全に休日を返上してしまっている。
だが今は、休みの日にリーエンベルクを空ける事もあり、そんな外出着として服を揃える際にはきっと、ヒルドの記憶にあるかつての一族の装いが反映されるのではないかと、エーダリアはそんな推理をしているらしい。
こっそりダリルにその装いがどのあたりの文化圏のものかを尋ねにゆき、ヒルドの一族が暮らした島のものではないかと言われてとても嬉しかったのだとか。
そして、そんな装いのヒルドがこの建物の中に立つと、まるで彼の為に誂えたような空間に感じられるのだ。
ネアは、サムフェルに買い物に来ただけなのに、極上の背景を得た家族の姿を贅沢に堪能させて貰ってしまい、お腹の前に胸がいっぱいになったと唇の端を持ち上げる。
するとなぜか、はっと息を呑んだディノが、ネアの手にしっかりと三つ編みを握らせてきた。
「ディノ?」
「…………ネアが、変な毛皮に浮気する」
「毛皮?…………さてはどこかに、毛皮生物がいるのですね?」
勘違いからうっかり伴侶に毛皮情報を与えてしまったディノは絶望の面持ちになったが、振り返ったネアは、もっさりした長老毛皮のような謎の生物を目に留め、そっと視線を戻すと厳しい面持ちで首を横に振った。
「わーお、お気に召さなかったみたいだぞ」
「ご主人様!」
「私の心を動かすのは、むくむくかふわふわ、そしてもこもこなのですよ。あやつの場合は、ぼさぼさです」
「ぼさぼさ…………は、好きではないのだね」
「もじゃもじゃちびふわは可愛いのですが、それはあくまでも、毛皮そのものに艶感があってこそなのです。あれはちょっと…………」
「ご主人様…………」
浮気対象の毛皮ではないと知り喜んだ魔物が、あまりにも冷酷な人間の評価と冷ややかな眼差しに怯えたように、自分の三つ編みを見下ろしている。
心配そうに震えているので、ネアは、こちらの髪の毛は大変素敵な艶やかさなので、大好きな質感であると伝えておいた。
「そう言えば、エーダリア様が仰っていたので気になったのですが、サムフェルでは、この場で食事を食べると得られる祝福もあるのですか?」
「ああ。魔術的な季節の市になるからな」
「食事というのはとても魔術的な行為だから、このような土地だからこそ得られる祝福がある。けれども、それとは別に、サムフェルに招かれるような店だからこその料理に付与された祝福もあるだろう。特に、この店のように、暮らしている土地にはない系譜の魔術は得ておくといいと思うよ」
「うん。だから今回はこの店にしたんだよね。ちょっと独特かなとも思ったけれど、今日の夕刻の執務では王都の連中と絡むから、この店の料理を知っておくのはいい事だと思うよ」
そう教えてくれたノア曰く、このお店はなんとカルウィの王都に本店があるのだそうだ。
そうなると、王都の貴族達との会話に料理についての知識などを忍ばせ、ちょっとした知見の豊かさを示すことも出来る。
ヴェルリア貴族達は商人としての側面も持つので、異国の情報にはとても敏感なのだ。
政治的な思惑の絡まない食事の話であれば、尚更に扱い易い。
「ちょっと慣れない味付けかもだけど、その分、ウィームでは得られない種の食べ物の祝福を、ここで安全に摂り入れられるのはいいよね」
「私は、この砂牛と茄子の胡椒炒めと、香辛料煮込みなシチュー風のものと薄焼きのパンにしますね!」
「ありゃ、もうメニューに夢中だぞ………」
「甘いミントティーに、デザートには檸檬のシャーベットなのです」
「香辛料煮込み…………」
「少しピリ辛で、グヤーシュやシチューのようにとろりとしているものを、窯の側面で焼いた薄焼きのパンでいただくのですよ。生クリームが入っているので、お味としてはそこまで刺激的ではないと思います」
「では、私もそれにしようかな…………」
準備が出来るまではと店の入り口のウェイティングルームにいたが、すぐに案内の女性がやってきて、席に通された。
あちらの文化圏であれば、床に敷物を敷いての食事が主流なのだが、この店では、敷物の上にテーブルと椅子を置き、サムフェルに集まった様々な国のお客達が過ごしやすいようにしてある。
待っている間に渡されていたメニューで既に料理を決めていたネアは、出されたおしぼりの花のような香りをくんくんし、また、石造りの高い天井をうっとりと見上げる。
はらりと風に舞うのは、店の床に敷き詰められた淡いピンク色の花びらだ。
石のモザイクの床に凝った織り模様の絨毯を敷き、その上に更に花びらを振り撒いてある。
何とも贅沢で祝祭のようなもてなしだが、あちらの国では珍しくないらしい。
「窓や扉がない空間が多いから、中階位の結界しかない屋敷には、どうしても屋内に砂が入り込むんだ。砂を片付けられていない部屋に通しても不作法とされないように、花びらで誤魔化すっていうけれどね…………」
「それだけではないのか?」
「敷き詰める花びらを一種類に限定しなければ、その足元には、複雑な系譜の魔術が入り乱れる事になる。客人をもてなす為に色々な種類の花びらを用意したんだっていう名目で、足元に術式を隠す事も出来ると思わないかい?」
「…………成る程、そのような役割もあったのだな………」
「うん。だからこそ、花びらを振り撒くのは大陸のあちら側ではもてなしの儀式の筈なのに、公式な行事や異国の大使連中との会合では、一切禁止されてるんだろうね」
そんなノアの説明を聞きながら、ネアは、少し離れた位置のテーブルでこちらに背中を向けているお客が気になって堪らず、じっとりとその背中を凝視していた。
背面しか見えないのにどこかで出会った事があるような気がしてならず、なぜだか分からないが、手にしたグラスをえいっと投げつけたい衝動に駆られる。
「ぐるる…………」
「ネア?」
「なぜでしょう。あの背中を見ていると、むしゃくしゃするのです」
「ありゃ、ナインかな…………」
「ぐる…………」
それならば、この理由がないかに思えた衝動も正当なものと言えよう。
ネアは、己の本能の賢さを称え、まずはとテーブルに出された前菜のようなものを検分する。
どうやら今日は、ナインの他にも、真夜中の座の精霊王であるミカもいるようだ。
それぞれの種族の選ばれた者達しか入れない夏市場なので、知り合いがいるのも当然なのかもしれない。
そんな事を考えていると、水色の小鉢で白緑色のタルタルソースのような物がどどんと出された。
「………これは、どうやっていただくのでしょう」
「蒸した野菜が出てくるから、それにつけて食べるんだ。クリームチーズと大蒜、フェンネルとカジャリムの実を乾燥させたものを細かく切って混ぜたディップみたいな感じかな。フェンネルがたっぷり入っているから、その香りが苦手だと厳しいけれど、みんな大丈夫だよね?」
「初めましてですが、組み合わせ的には美味しそうです!蒸し野菜が届いたので、早速いただいてみますね。………あぐ!」
あまり馴染みのない料理だったが、食べてみると、さっぱりとした酸味が美味しいではないか。
クリームチーズではあるのだが、しゅわんと口の中で溶けてしまうような軽い食感で、フェンネルの風味がなんとも爽やかだ。
チーズ以外の酸味もあるぞとディップを観察すると、僅かにではあるがグレープフルーツのような柑橘系の果物の果実が見える。
前菜として出されるものではあるが、塩味と大蒜の味がしっかりとあって、どちらかと言えば、葡萄酒のおつまみにしたいようなディップであった。
「おや、これは美味しいですね」
「ああ。カジャリムの実は、乾燥林檎のような甘さなのだな。確か、向こうでは果実酒に使われると聞いたが…………」
「うん。この料理は、果実酒に使うカジャリムの実の、規格外の小さな実を使った料理なんだよね。豆のペーストを食べる地方もあるけど、僕はこっちの方が好きかな」
蒸し野菜は、ジャガイモとパプリカのようなもの、そして南瓜だ。
現地の住人は、蒸したお肉にもかけて食べるそうだが、もてなし料理としては野菜を使って前菜にするのが正式なメニューであるらしい。
野菜よりは肉が安価な土地なので、こうして新鮮な香草や、瑞々しい彩りの野菜を贅沢に食べられるというのが好まれるのだそうだ。
「私が水竜さんを訪ねた時には、野菜が少ないという印象はなかったのですが、やはり、育ち難いのでしょうか」
「野菜の収穫が多い土地もあるし、海に面した土地もあるのだが、かつて国の中央だった土地はやはり砂漠に面しているからな。王都の価値観でもてなし料理が定められてゆく中で、このような料理が持て囃されたのだろう」
「あっちの人間は、あんまり野菜を食べないからね。上等な料理だっていうことにして、野菜を食べさせようっていう魂胆もあるんじゃないかな」
「…………まぁ。急に躾け絵本風になりましたね」
カルウィと言えば砂漠の民という認識が大きいが、謂われてみれば確かに、海沿いの街もあるし、豊かな森も有している。
だが、そんな広大な土地を収めるカルウィの人々の嗜好は、肉料理と、香辛料をたっぷり使った煮込み料理なのだそうだ。
戦乱などの多い土地では、簡単に食べられる料理が好まれ、そのような食嗜好を持つ男たちが中心の社会なので、どうしても栄養に偏りが出てしまう。
様々な食材から祝福を摂り込む為には、このような料理が素晴らしいと意識づける事も必要だったのだろうというのが、ノアの推理だ。
なお、魚料理が有名な土地もあり、酸っぱ辛い白身魚の蒸し料理は絶品なのだとか。
ネアは、すっかりそんなお料理が食べたくなってしまったが、残念ながらこの店のメニューにはなかった。
ディップを食べ終え、ジャガイモのスープを飲み終えると出てきた煮込み料理は、コルマと呼ばれる物らしいが、ネアの前世界の中の認識ではカレーに近いだろうか。
あつあつでテーブルに届けられ、薄焼きのパンと一緒にいただくのだが、ふわっと鼻に抜ける香辛料の香りの香ばしさが堪らない。
辛みが強い料理が苦手なディノも、生クリームをたっぷり使ったまろやかな味わいに、美味しく食べられたようだ。
エーダリアも同じ料理を選び、ノアとヒルドは、もう少し刺激の強い辛い煮込みを注文していた。
「美味しいでふ!」
「うん。この店なら、味的にも大丈夫かなと思ったけれど、当たりで良かったよ」
「揚げ物屋さんは目抜き通りの方にあったのですが、こちらにも飲食店があったのは知りませんでした」
「香辛料の香りが強いから、市場の外れにあるんだろうね」
とても美味しいが、とは言え、毎日こちらの料理をと言われると絶望してしまうだろう。
ネアは、食事の嗜好がぴったりであったウィームに暮らしているからこそ、時々いただく異国の料理がこんなに美味しくいただける事に感謝しながら、煮込み料理も、砂牛の炒め物もぺろりと平らげてしまい、口の中をさっぱりとさせてくれる檸檬のシャーベットと、食後に出される薔薇のお茶を楽しんだ。
「エーダリア様は、お買い物は終わったのですか?」
「後は、星蜜と砂孔雀の羽だけだな。ここに来る前に店は見付けておいたので、少し時間が余りそうだ」
「ヒルドは、もう終わったんだよね?」
「ええ。妙な精霊に声をかけられ、危うく頼まれた物を買い損ねるところでしたが、何とか一通りは終えましたね」
「じゃあさ、少しだけ僕は外してもいいかな。買っておきたいボールがあるんだよね」
「…………ネイ、チーズボールでしたら、既に幾つか予備があるのでは?買い物に出るのは構いませんが、あまりボールばかり増やすのは感心しませんよ?」
「…………ありゃ。………でもほら、消耗品だからね」
「ノアベルトが…………」
「まぁ、ディノがしょんぼりに…………」
ノアは、大真面目でチーズボールの備蓄の重要性について語り、ヒルドは片手で額を押さえてしまっている。
エーダリアも困ったように微笑んでいたが、今は、左側の唇の端が気になるようだ。
実は、ノアの食べている料理に興味を示して魔術の繋ぎを切りつつ一口貰っていたのだが、思っていたよりも辛くて唇の端がびりりとしているらしい。
だが、ネアが傷薬を飲むかなと思うよりも早く、気付いたヒルドが、どこからか取り出した軟膏のようなものを、指先でちょいっと塗ってあげていた。
しゅわんと肌に溶け込むように馴染んだ軟膏は、てかてかと光る事もなくあっという間に浸透し、ひりひり感がなくなったとエーダリアが目を瞬いている。
ヒルドの持っていた妖精の軟膏の効果の高さに驚きつつお礼を言いながらも、子供のように薬を塗られてしまったエーダリアは気恥ずかしいのか、僅かに目元を染めていた。
「では、帰りに入り口の前での集合でいいだろうか。…………ネア、お前達はもう少しゆっくりしていってもいいのだぞ?」
「いえ、折角家族で一緒にお買い物に来たのですから、帰りもご一緒しますね。ただ、どうしても残りたいというような事があれば、その場でお願いするかもしれません」
「ああ。そのあたりは、無理をしなくていい。折角来ているのだ、ゆっくりしていってくれ」
食事を終えると、ここからまた、残りの時間も別行動だ。
ネア達は、先程見送らざるを得なかった糸巻き屋に向かったのだが、悲しい事に、店頭にはまだアザミの精がいた。
何かをじっくりと吟味しているのか、ただならぬ気迫を感じさせる佇まいに、ネアは、じりりと後退りする。
「ネア、近付かないように見ていてあげるよ?」
「…………む、むぐ、お店の端っこだけささっと見てしまい、あの方には近付かないようにしてお買い物しますね」
「うん。追い払う事も出来るけれど、それはしない方がいいのだよね?」
「はい。お買い物を楽しむ時間は、皆平等なのです。これだけ長い時間糸を見ているのですから、きっとあの方も、妖精紡ぎの糸がお好きなのでしょう」
ネアは、店の前にいるアザミの精を刺激しないようにそろりと近付き、お店の中央部分に展示されている、夜想羊の毛糸が手に取れない事に絶望した。
買うかどうかは分からないのだが、初めて見る毛糸なので、触れてみたかったのだ。
だが、棘人間ことアザミの精は、どうやらその毛糸の吟味をしているらしい。
手染めなのでひと玉ごとに色合いが微妙に変わり、その選別をしているようだ。
「…………まぁ、綺麗な刺繍糸です」
だがネアは、銀灰色の雪雲と夜霞みの刺繍糸と、艶やかだが儚げな、くすんだ薔薇色の毛糸を買う事が出来た。
薔薇色の毛糸は、花の妖精の毛糸かと思えばそうではなく、なんと、紅茶の妖精が紡いだ色なのだという。
店の商品を全部見られた訳ではないのだが、満足のいく買い物を済ませて立ち上がったところで、ネアは斜め向かいの店にふらりと歩み寄る。
「ディノ、石鹸のお店です?」
「うん。石鹸と軟膏の店のようだね。…………おや、魔物の石鹸のようだ」
「もしや、石鹸の魔物さんがいるのでしょうか?」
「いるよ。階位は低いが、需要のある品物を司り、力を持つ魔物の一人だ。だが、石鹸作りに拘るあまり、あまり外には出てこないかな…………」
石鹸の魔物というだけあり、その女性は、放っておけば丸一日でも石鹸作りをしてしまうそうだ。
使う香油や祝福の雫など、確かに、拘るだけ新しいものが作れるのが石鹸のいいところでもある。
そんな新商品の開発にすっかり夢中で外には出てこないので、隠者の称号を得ている人外者の一人なのだという。
同じ系譜の妖精を伴侶にし、夫婦で仲睦まじく作っている石鹸は、人気が高くあまり多くは出回らない高級品だ。
だが、高位の魔物のお城などには常備されている事も多く、ディノのお城にも蓄えがあるらしい。
「少し見てみてもいいですか?」
「うん。欲しい物があれば買ってあげるよ。ただ、魔術洗浄の為に作られた物は、剥離効果が高いから、君は触れない方がいい」
「はい。そうしますね」
僅かに青みがかった、綺麗な檸檬色のテントのお店には、湖水結晶の商品棚が並んでいた。
そこに陳列された石鹸はどれもが木箱に入り、高価な石鹸であるのだなと一目で分かる。
石鹸類であればリーエンベルクにも充分に備えがあるのだが、それでもとネアがお店に入ってしまったのは、その香りの良さであった。
「どことなく、狐温泉を思い出します。空気の中に香草などの爽やかな香りがたっぷりと含まれていて、それでいて、瑞々しくて優しいのですね」
「ネア…………?」
「ふふ、あまりにも素敵な香りに、目を閉じてくんくんしてしまいました。誰かにぶつかるといけないので、ディノにくっついてから目を閉じたのですよ」
「虐待…………」
「解せぬ」
ネアはそのお店で、散々迷ってから、ヴァーベナの石鹸を買った。
ラベンダーとパチュリに冬杏の香りのする素敵な石鹸もあったのだが、そちらは、洗い上がりがしっとり過ぎてネアには合わなかったのだ。
さっぱりと洗い上げるものの、皮膚に滑らかな潤いの層を残してくれるヴァーベナの物が、一番、お試しでしっくりきたのだった。
透明な石鹸は小麦色の泡が立ち、新鮮なヴァーベナの香りは最後まで変わらないそうだ。
また、この石鹸は悪夢を見た場合の気分転換にもいいそうで、良くない夢を見た場合は、起きてこの石鹸で手を洗うと、夢に悪さする災いを追い払ってくれるらしい。
なお、お腹が空いて堪らなくなるという邪悪な石鹸もあるが、これは、静かに食事をさせたいお子さんがいる家庭など、様々な用途があるのだそうだ。
ちょっといけない気分になる媚薬石鹸もあったが、ネアは、一瞥しただけでぷいっとしてしまった。
「もう、他の買い物はいいのかい?」
「はい。ムグリスディノポーチを作ったお店も大好きなのですが、今新しい物を注文すると、ムグリスディノポーチを大事に使えなくなってしまいますから、このポーチが世代交代する時にまたお邪魔しようと思っています。ディノへの贈り物のキルトも、手直しや、新しい模様を入れる時に、あのお店で生地を買うのもいいかもしれませんね」
「…………手直しをする必要はないかな」
「むぅ。キルトは、少しくったりしたり、色が褪せてきての風合いもいいのですよ?」
「ネアが虐待する…………」
(まだまだ、素敵なお店はあるけれど…………)
勿論ネアも、星屑のランプのお店や、綺麗な便せんのお店などにも興味はある。
だが、見たら買ってしまうに違いない危険なお店には、必要な物がない限りは近付かないという防御策を取らせていただこう。
今日のお買い物は、陶器のお花と石鹸の魔物の石鹸で、なかなかに予算いっぱいであるのだ。
「…………では、紅茶をもう一杯飲むかい?」
「…………ふぁぐ。も、もういっぱい」
「君は、あの店のミルクティーが気に入ったのだよね。まだ、紅茶を買ってくる時間はあると思うよ」
「で、では、しゅばっとお店に寄って、お持ち帰りの紅茶をもう一度買ってきてもいいですか?」
「うん」
しかし、欲深い人間の願いを、伴侶な魔物はお見通しであった。
後は、ゆっくり待ち合わせの場所に向かうだけかなという雰囲気を装っていたネアが、頭の中で、もう一杯あの紅茶を飲むかどうかで議論していたことを看破したのだ。
思わず弾んでしまったネアに、ディノは、愛おし気に目を細めて微笑む。
その微笑みがとても幸せそうだったので、急ぎ足でそちらを経由しなければいけなくなるネアは、ほっとしてしまった。
「…………ありゃ」
「む、ここで揃ってしまいました」
「ああ、お前もこの店に来たのだな。ここの店の紅茶は、是非に飲んだ方がいい」
「にはいめです…………」
しかし、先程の紅茶のお店に戻ると、そこにいたのは、エーダリア達だった。
午後も少し回った時間になり、先程より、並んでいるお客は増えたようだ。
そんな中、お持ち帰り用の紅茶を飲み終えたエーダリアは、先程のネア達のように茶葉を買いに店に入るところだったらしい。
「定番の茶葉は、皆で飲むように大きな缶を買ってありますからね」
「では、こちらの茶葉の物を多めに買っておきましょうか。とは言え、ミルクティーのものも揃えたいですね」
「ああ。騎士棟への土産にもいいだろう。人気店なので、買える数に上限がないといいのだが…………」
「はは、ウィーム人らしいなぁ」
すっかり熱の入った様子に、ノアがそうくすりと笑うと、エーダリアは目を瞠り、少しだけ嬉しそうに目元を染めた。
ヒルドが気に入ったのはディノが飲んだ紅茶のようで、まだ手に持っているカップから一口飲み、淡く羽を光らせている。
その様子を見た通りすがりの客たちが、はっとしたように列に並び始めたので何事だろうかと思っていると、微笑んだノアがその理由を教えてくれた。
「妖精の口づけだね」
「妖精さんの、口付け、なのです?」
「うん。高位の妖精が授ける、無選別の祝福みたいなものだよ。ヒルドはほら、あの通り一目で高位だって分かるシーだし、色合い的に植物や森の系譜なのも分かるよね?そんな妖精が羽を光らせた茶葉だとなると、商人達にとってはこの上ない品質の保証になるんだ。商品保証の祝福に相当するって言えばいいのかな」
「ふむ。図らずも、このお店の紅茶は、ヒルドさん程の妖精さんの保証済の美味しさだという事になったのですね?」
「うん。そういう事。…………ありゃ、もしかしてシルも二杯目?」
「この店の紅茶は、美味しいと思うよ」
ネアが二杯目のミルクティーを飲むのはともかく、ディノまでが、二杯目を飲んでいるとなり、ノアは少しだけ驚いたようにしていた。
実はネアも、ディノも二杯目を注文すると知って驚いたのだが、大事な魔物がそんな風にお気に入りを見付けた事がとても嬉しかった。
買ったばかりの紅茶を一口飲み、水紺色の瞳をふにゃりと蕩かして幸せそうな顔をした美麗な魔物に、店に並んでいた商人達が、かっと目を見開いている。
中には、幸せそうに微笑む万象の魔物の姿に胸を押さえて倒れてしまった通行人もいたが、ここは、歴戦の商人達が集まるサムフェルなのだ。
殆どの者達は、血走った目で列を眺め、同行した仲間には茶葉の確保を急ぐようにと声をかけている。
ネアは、この狂乱の前にお店に入ったエーダリア達を案じていたが、どっと押し寄せた買い物客より一足先に、充分な量を買えたようだった。
後に、元々有名だったこの紅茶商は、缶のラベルを一新し、綺麗な青緑色の妖精の羽の模様をデザインに取り入れた。
妖精の口づけの称号にはそれだけ大きな意味があるらしく、リーエンベルクでの定期注文の相談を店にしていたヒルドは、その連絡先を通じてデザイン使用への打診を受け、謝礼代わりに、毎年の新商品を七缶も無料で送って貰えるようになる。
紅茶なので勿論個人の嗜好はあるものの、リーエンベルクで飲める特別な美味しい紅茶として、ディングスの紅茶目当てに会議に訪れるお客が増えたのは言うまでもない。
あのお店は、紅茶缶を買うのにも予約で半年待ちになってしまい、ネアは、リーエンベルクにそんな希少な紅茶の備蓄がある事に心から感謝したのだった。
なお、今回のサムフェルでネアが出会ったもう一つのお気に入りは、石鹸の魔物印の石鹸だ。
持ち帰って手を洗ってみると、お試し洗浄よりもずっといい香りが立ち、夢中になって三回も手を洗って指先をこわこわにしたネアは、その晩やって来た使い魔に、魔物印の石鹸は効果が高いので不必要に手を洗ってはならないと叱られる羽目になってしまった。
お気に入りのヴァーベナの石鹸は、石鹸の魔物の配下である美しい妖精が提案した香りのレシピを使った品物であるらしい。
その妖精のレシピには、感謝と尊敬しかないとうっかり口にしてしまったネアは、そんな一言が引き起こす問題に気付かずにいたのだ。
翌日の朝、なぜか荒ぶる魔物達に、その妖精をお気に入りにしてはならないという誓約書を書かされたネアは、遠い目をして窓の向こうのウィームの森を見つめるしかなかった。
だが、いい香りのヴァーベナの石鹸に罪はないので、ネアは、その後もこっそりに二度洗いなどを楽しんでしまうのであった。
因みに、洗剤の魔物と石鹸の魔物は競合相手であるので、どちらかに他方を褒める言葉を言うと消されてしまうそうだ。
その点に於いては、要注意である。




