夜の森とご主人様の領域
「ったく、何でお前と…………」
そう呟けば、擬態した灰色の髪の男がひっそりと微笑んだ。
「利害の一致というところだろう。………それにしても、思っていたよりシルハーンの魔術の影響が出ないな。………やはりこの辺りの土地には、旧世界の魔術基盤が埋もれているとみて間違いなさそうだ」
「あいつの為だとか言いながら、その確認も目的の内だとはな」
「たまたま、その反応も見られたというだけだ」
グレアムはそう言ったが、それが偶然であれば、土地の魔術変化を計る為の術陣などは敷かないだろう。
恐らくこの男は、周到な計画を立てた上で、馴染みのない魔術基盤の上でもあの二人が安全に過ごせるかどうかを、様々な角度から調べ上げているに違いない。
ここは、森と渓谷の国のダンローラドだ。
あの宿泊券が用意された時から仕組まれた事だと思えば、随分と気の長い計画だ。
だが、そう思って溜め息を吐くには、犠牲という魔物はいつだって慎重で狡猾なのであった。
「奥の席は、ミカと…………誰だ?」
「霧雨の精霊王だ。あの二人は、会の活動ではなく、個人的な付き合いがあるからな」
「まさかとは思うが、霧雨の方は入会していないだろうな?」
「彼にそういう嗜好はない。ただ、息子が心を傾ける人間は、大事にしようと思っているようだ。元々霧雨の系譜の精霊や妖精達は、気にかける人間を育む事が好きだからな」
「…………だといいがな。さすがに、あいつはない」
「はは、俺としても、さすがに旧知の彼に加わられるとやり難い」
そう笑ったグレアムは、窓の向こうで跳ね回る緑の毛玉のようなものを目を細めて見ている。
ムクムグリスには様々な個体があるが、まさかここまで本気で愛らしいと思うのは想定外だったが、グレアム曰くこの生き物達はとても誠実で素直なのだそうだ。
先程まで夜の鳴き交わしの意味について真剣に語られて辟易としていたが、これもムクムグリスとは言え、こちらの種までをネアが気に入るかどうかは疑問だ。
(だが、…………合成獣ですら、可愛いと言うような奴だからな)
因みに、このホテルの管理と運営を任されている黒兎達を見た時には嫌な予感がしたが、幸いにもあまり興味を示さなかったのだそうだ。
あれほど、獣の耳のある人型の生き物に拘っておきながら、どこに線引きがあるのかはよく分からない。
柔らかな音楽が耳朶に触れ、その魔術の宿す祝福が細やかな魔術の煌めきになってさらさらと落ちた。
成る程この土地の魔術は潤沢で、ウィーム程ではないにせよ、近しいだけの膨大な土地の備蓄が、大きく育った獣達を育むだけの森や湖の恵みを維持している。
またどこか遠くで、山ムクムグリスの遠吠えが聞こえ、グレアムが可愛いなと微笑む。
今夜、このホテルに泊まっているのは二組限りだが、森の中に併設空間を設けて土地の魔術に変化がないかどうかを調べている連中もいるらしい。
あの会の会員達の執念深さに驚くばかりだと思えば、純粋に、土地の魔術変化を知りたい連中も混ざっているのだそうだ。
(霧雨の精霊王は、そちら側か…………)
会に属していない精霊王までを招き寄せたのは驚くべき事だが、言われてみて観察すれば確かに、たまたま友人と旅の目的が一致したものの、個人的な訪問といったところだろう。
思索と創作を好む霧雨の系譜は、古い魔術基盤や、旧世界の魔術への調査を、随分昔から行っている。
決して大きな騒乱や災厄の表舞台に出る者達ではないが、世界の均衡を保つ事を好むという意味では、あの王は指折りの一人だ。
今は、背の高い銀髪の男に擬態しており、栗色の髪の青年姿ではなく、本来の姿に程近い年齢の男に擬態した真夜中の座の精霊王とは、共に観劇に行くほどの親しさであるらしい。
創作や思索に向いた時間を司る夜のあわいの王ともなれば、確かにその子供達を育むあの霧雨の精霊王と相性がいいのかもしれなかった。
「こちらは、ボラボラの燻製、夜の喝采と林檎の薫香付けとなります」
給仕妖精が持ってきた料理に、これかという思いで眉を顰める。
薄く削ぎ落とした生ハムのように見えるが、何を材料にしたものなのかは既に言葉になされているではないか。
精霊以外でボラボラを食用とする文化のあるこの土地ならではの伝統料理だが、とてもではないが口にする気にはなれない。
「…………よく食えたものだな」
「珍味だが、珍しくはない。ザハでも、一部のお客の為に、メニューにはないが季節限定で用意している食材だ。とは言え君は、系譜の王だからな。確かに好ましいものではないかもしれないな」
夏までの料理であれば、恐らく、この土地の郷土料理の鱒の冷製タルタルが出ただろう。
よりにもよってなぜ、季節の料理が切り替わり、前菜がボラボラの燻製なのかと思わないでもない。
視線の先のテーブルでは、精霊達が季節の珍味が食べられると嬉しそうにしている。
あちらは、ボラボラを鍋にして毎年食べている連中なので、魔物でも気にせずボラボラを口に出来るグレアムとは違い、当然そのような反応にはなるだろう。
幸いにも事前にメニューの確認はしてあったので、その際に他の物に取り換えるように注文しておいたが、ネアはそのまま食べたようだ。
どんな顔をして食べたのか気になりはしたものの、同じ時間に食事を食べる危険は冒せない。
なぜだかあの人間は、どれだけ擬態をしてもこちらに気付いてしまうのだ。
(…………使い魔としての魔術の繋ぎかもしれないが、…………)
奇妙な事に、そうして毎回見付け出される事に計画を邪魔される煩わしさはあっても、それ以上の不快感はなかった。
あの人間ならやりかねないなとは思っていたし、その結果を見る度に、さもありなんと頷くばかり。
そういうものだからこそ、使い魔にまでなってやったのだと思えば、あれはやはり、他のものには成り得ない唯一なのだった。
またどこかで、山ムクムグリスの遠吠えが聞こえた。
今夜はよく鳴くなとグレアムが苦笑していたが、そもそもあの生き物の生態など知らないので、顔を顰めておく。
この土地では、新月期になると森の獣達が獰猛になる。
元よりここは彼等の土地で、人型よりも獣達の方が階位が高いのは、土地に残る古い魔術との親和性が高いからだ。
だからこそ、夜になると獣達の動きは活発になり、鋭い爪と牙を持たない生き物達は家々の中に引き籠る。
魔術師や職人の多い土地だが、言葉を返せばそれは、生き抜くための術を持たない人間は皆淘汰されたという事なのだ。
これだけ魔術が豊かでありながらも、大国間の街道拠点に選ばれない理由は、それなりにある。
ここは、生き残る為の才能が問われる土地で、渓谷の下に広がる僅かな土地に暮らす人々の暮らしは豊かだが、誰にでも手に入れられるものではない。
この地に生まれても適性がなく、成人前に家を出る子供達は毎年いる。
「森に入った者達が、何かしでかしたんじゃないのか?」
「そうではないといいんだが…………。山ムクムグリスは穏やかな気質である代わりに、繊細だからな」
「繊細…………?」
日が落ちてから狂ったように鳴き、時折このホテルの壁に体当たりしている生き物のどこが繊細なのだろうと眉を持ち上げたが、どうやらグレアムは本気でそう思っているらしい。
「子供達が生まれたばかりで良かった。ネアも喜んだだろう」
「あいつが喜んだのかどうかはさて置き、土地の魔術変動を見に来ているのは、大方、アクスや山猫あたりだろう。引き込むのは構わないし、奴等も他に代用品のない畑を荒らす程に愚かではないだろうが、それでも線引きは見極めておけよ」
「そうだな。…………彼等は確かに抜け目ないが、彼等の目でなければ持ち帰れないものも多い。幾層にも幾層にも潤沢な備えであり、尚且つそれぞれの特性が違う方がいいからな」
さらりとそんな事を言ってのけるグレアムは、飄々とした面持ちで、そんな商売目当ての連中も取り纏めている。
過ぎたる執着を持たない事でこの組織の統括に指名されたと聞いているが、何しろこれは願い事の魔物なのだ。
どのような経緯で今の立場を手に入れたのかは、決して明かされている通りとは限らない。
口元を歪めてナイフを取り上げると、なかなか趣味のいい皿の上の前菜を口に運ぶ。
前菜をふた皿出すのも、この国独自の習慣だった。
(本来なら、もう少し塩味の強かっただろうボラボラに合わせて、もう少し野菜の甘みを感じられる筈だったんだろうが、代わりに合わせた食材としては、まぁ及第点だな……………)
グレアムが見付け出してきただけあり、このホテルは、料理の味もそれなりにしっかりしているようだ。
外にいるムクムグリスさえいなければと思わざるを得なかったが、グレアム的にはあの生き物がいてこそなのだろう。
ふと、奥にいる二人の客が気になった。
料理人にとって、食楽を有する真夜中の座に、思索の夜に美味い酒を飲む事を至上としている霧雨の精霊王という客が揃う事は、滅多にないだろう。
質の悪い料理でも出そうものなら何らかの障りが残りかねない精霊達だが、事前に彼等が何を治める者なのかを知らせておいたのだろうかと考える。
料理人は、客の顔ぶれを知らない方が寧ろ幸せだろうが、腕に自信があるのなら、あの精霊達を喜ばせておいた方が得だろう。
真夜中の座も霧雨も、得難いとされる料理や食の周りの祝福を持っている。
「お前らしい慎重さというところか。だが、駒は揃え過ぎると手に余るぞ」
「そうか、………君はそこが気になるんだな。確かにこれは、有り体に言えば道楽だ。彼等にとってここは、定められていない役割があり、見慣れていないものが集まり、………きっと、その身一つで成り立っていた者達にとっては、自分によく似た他の誰かと初めて関わる場所でもあるんだろう。だから君は、常にその畑や談話室の手入れが行き届いているかどうかを確認する為に、後援者となってくれたんだろうな」
「さてな。まぁ、あいつの信奉者どもは…」
その言葉を断ち切るように、グレアムはゆったりと微笑んだ。
銀器に触れる優美に伸びた指先は、多くの高位の者達を見てきた目にも尚、洗練され隙が無いように見える。
この男は、ずっと昔からそうであった。
穏やかに微笑み、決して言葉を荒げるような事はないが、しかし、自分の願いの為だけにヴェルクレアやカルウィよりも遥かに広大な大国を一つ魔術の贄にしてのけた、世界史至上最も甚大な被害を出した災厄のひと柱。
選び取る選択肢を並べて見せる時、その手元にあるカードは大抵、眉を顰める程に苛烈なものばかり。
もしここで、かつてのクライメルと、この男のどちらを敵に回したくないかと問われれば、真っ先に犠牲を選ぶだろう。
クライメルは、どれだけ悪辣な仕掛けを用意してもまだ想像がつく。
だが、グレアムの真意程に読み難いものはない。
この男が狂乱した時に滅ぼす事が出来たのは、その時の犠牲の魔物が正気ではなかったからだ。
だが、そんな中でも、こうして舞い戻る為の方策を敷いていたのだから、今のグレアムが、この世界にどれだけの仕掛けを作っているかは想像するのも億劫な程だった。
カルウィで犠牲の魔物が敷いている冷酷で享楽的な統括は、何もあの国の国民に合わせたばかりの装いではない。
魔物は人間達とは違い、その資質を永劫に変えない生き物だ。
それを可能にするのであれば、その資質はずっとこの男の中にあったものに他ならない。
「俺は、彼等は私兵のようなものだと思っている。確かに信奉者という側面もあるが、とは言え、信徒ではなく教会兵のようなものだ。商人達もいるが、彼等もまた、自身の取引の為に剣を手に取る事を厭わない」
「ほお、敢えてその表現を選んだからには、お前は、その側面の維持こそをこの組織に見ているのか」
「はは、というばかりでもないさ。俺もこの会に属する事で、得難い友人達に恵まれた。だが、ここが信徒の集まりのような無垢なだけの組織でもない事を、そろそろ、互いの共通認識として備えておこうと思ったんだ」
その言葉に無言で眉を持ち上げる。
続きを促され、グレアムは几帳面に頷いたが、給仕が来たので料理の交換を待った。
灰色の瞳にランプの明かりを映し、次の料理に備える葡萄酒について、短く意見を交わしている。
その会話の中から、初めて耳にする夜スグリの酒を知り、記憶の中に書き留めておいた。
「…………例えば、この土地のような場所に迷い込めば、ネアの手にある守護では不足が出るかもしれない。そう思わないか?……………だが、例えば、ミカにとっては力を振るい易い土地であるし、あの組織には他にもそのような独自の魔術資質を持つ者がいる。今後の彼女は、知識や力を充足させてゆく事で、属する組織から任される仕事も増えるだろう。家を出てより遠くまで出かけてゆくようになれば、…………いつかきっと、身内の助力だけでは間に合わない事が出てくる。そしてその時、いつでも、俺やイーザが会員達の配置を手配出来るとは限らないからな」
グレアムは恐らく、ここが見慣れた土地とは違う魔術で成り立つ国である事や、この土地の特性や歴史などを、今回の旅行でネア達が自然に話すようにも仕向けたかったのだろう。
ネアに、より多くの物を自由に見せようとすることに心を傾けるシルハーンが、平常時に、自分からこの世界の危うさや歪さを示す事はない筈だ。
だからこそ議論の機会を与え、その中で育ませてゆくやり方は、かつて一つの国を育てる事に尽力したグレアムらしいやり口とも言える。
(だがそれは全て、……………)
「シルハーンの為に、か」
「言葉を選ばずに言えばそうだな。俺はどうしても、視点がシルハーンに偏る。だからこそ、ネアに執着をかける組織に属せている事で、彼女を守る為の、俺には足りない視点を与えて貰えるんだ。その上で、だからこそ君の力も借りたいと思う。…………シルハーンを見ている俺の目には、ネアが人間だからこそ届かないものが見えないのかもしれない。…………率直に言えば、あの方を何よりも苦しめるのはきっと、己の死よりも伴侶の死だろう。そのような事だけは避けたい」
その言葉はグレアムの感傷であったが、耳にするには不愉快な一言であった。
顔を顰めると、薄く苦笑する気配がある。
「君は、……………変わったな。あくまでも、俺の印象がだが」
「俺自身は、さして変わりはしていない。変わりようもないしな。ただ、あいつが、その選択をするだけだ」
「ああ。そうなんだろう。君が選択である限り、君には常に両方の可能性がある筈だからな。それがただ、今迄は偏った側面を引き出す者が多かったというだけで」
「…………お前が気負ってあれこれ手を回さずとも、あいつは勝手に事故るだろうし、その程度で退場する程に脆弱でもない。お前はせいぜい、あの連中の暴走を抑えて自分の領域を見張っていろ」
「成る程、ネアの問題は、君の領域だからという訳か」
「お前があいつの問題に介入するのは勝手だが、俺の選択には口出しするな。何を選び、何を選ばないのかは俺の問題だ」
「参ったな。叱られてしまったか。……………それと、食事を終えたら、森の捜索に付き合ってくれないか?何かよからぬものの気配があるらしい」
「やれやれだな……………」
案の定、また何か起きたかと思えば、ネアにはこの世界の運命がない事を思い出す。
もしかするとだからこそ、あの人間に魅せられ、彼女の私兵だと言わしめるだけの執着をかける者が多いのだろうか。
そこに集う者達が持つ、定められ変えられない資質を変えられるのは、そのたった一つしかないのだから。
「…………狂乱しかけている、獣がいるそうだ」
食事を終えて森に出ると、グレアムは、そんな事を淡々と告げた。
森にもある程度の手勢が入り込んでいる事を思えば、その連中では手に負えなかったという事なのだろうか。
「アイザックがいるんじゃなかったのか」
「魔術の緻密さもなく、単純な力押しの相手は性に合わないそうだ」
「ウィリアムでも呼んで来いよ。あいつなら喜んで相手にするだろうが」
「ウィリアムは、……………あの音楽の調律の仕上げに入っているところだからな。その獣に関しては、俺がどうにかしよう。一つ、別の懸案事項を任せても構わないか?」
「そんなものがあるのなら、予め手を打っておけ」
「確かにその通りなんだが、……………この土地に、先程、陽の魔術師達が入ったそうだ。アイザックは協定があるので手が出せない。ジルクは相性が悪い。ワイアートでは経験値が足りないだろう。不安要因がある状態では、あまり向かわせたくはないな」
「それなら、ミカを使え。あれは、夜あわいの王だ。寧ろそこまで相性がいい相手もそうそういない」
「彼には、あの城の守りを任せたい。……………もしもがあってからでは、取り返しがつかなくなる」
(……………もしも、)
もし、ネアの持つ運命の欠如が何らかの形で作用し、陽の魔術師達がそこに現れたなら。
あの魔術師達は、前世界の信奉者だ。
世界の枠を限定し、前世界の遺産を残された傷跡のように扱う今代の高位者を、その教えの悪としている。
筆頭は万象だが、公爵位の魔物は全て、あの連中の経典の悪に該当するに違いない。
自分達はより深い世界の歴史を受け継ぐという選民意識からなる思想だが、せいぜいが、ゴーモントが起源というところだろうか。
(前世界の流れを汲む正当な者達は寧ろ、あの魔術師達とは違い、それが失われゆくものだとよく理解している)
ランシーンの民然り、影の国の、その成り立ちを知る者達然り。
あるがままを受け入れるからこそ、彼等はその流れを汲む土地に産まれても、新しい世界の流れに削ぎ落されずに残ったのだ。
でなければとうに排除されている。
万象がではなく、その他の誰かがでもなく、この世界の魔術の理こそがそれを許しはしない。
「偶然居合わせたのか?」
「どうだろうな。今回、土地の難しい特性を考慮して、シルハーンは擬態をしていない。ある程度の距離であれば、万象の気配を掴むことは出来るだろう」
「あのホテルの従業員達は、問題ないんだろうな?」
「真夜中の座の系譜だ。他の時間の座と違って、あの系譜の者達の結束は固い」
「……………真夜中の座か。それなら問題はないだろうな」
奇妙な事だが、時間の座のあわいの最高位である真夜中こそが、全ての時間の座の中で最も安定した結束を見せていた。
気質的には黎明などの方が同族の管理に向きそうなものだが、真夜中の座の系譜の者達は、それぞれの王を、そして真夜中の座の精霊王を、例外なくこの上なく敬愛している。
夜を愛する者達は、必然的にそうなるのだと話していたのは、シルハーンだっただろうか。
夜の子供達は、夜以外のものをそれ以上に愛する事がないというのは、もはや必定なのだと。
(偶然にせよ、狙いを定めていたにせよ、目の前に現れるようであれば選定をしておくか)
肩を竦め、その場を離れようとした時の事だった。
轟音を上げ地面の中から飛び出してきたのは、小屋程もあろうかという猪だ。
ばらばらと土塊を撒き散らし、その瞳は正気が失われつつある。
「……………困ったものだな」
そう呟き薄く微笑んだグレアムが、愛用の大剣を取り出すのを確認し、離脱しようとしたところで眉を寄せた。
「……………ほお。どうやら、陽動のようだな。この意図的な狂乱の匂いには覚えがある」
「という事は、獣の狂乱は魔術師達の仕掛けなんだな……………」
すっと瞳を細めたグレアムが、凄惨な微笑みを浮かべた。
この手法は、ラエタの頃より使われる古い仕掛けで、特殊な香を使って、恐怖や苦痛、怒りなどを引き金に狂乱させた生き物を囮にする古典的なものだ。
魔物も似たような仕掛けを好みはするが、この手法に於いては、人間しか扱わないものである。
生成過程で多くの障りを出すので、身の内に元より魔術を持つ生き物には、不利益の方が大きい。
(だが、運が悪かったと言うしかないな……………)
今夜に限って、この森にはかつてない程に高位の人外者達が集まっている。
それは、好機だと勘違いした魔術師達にとって、大きな誤算だろう。
グレアムがどれだけ不機嫌なのかは、剣の扱いを見ていれば容易く分かる。
いつもならしっかりと握って振り捌く剣を、指先だけを使い、遠心力で回すようにしてぞんざいに扱っている時の犠牲の魔物は、ウィリアム寄りの判断力だと見做した方がいい。
何しろその扱い方では、振り上げた剣は振り下ろすしかなくなる。
どのような相手であれ、生かして帰すつもりがない時の扱いなのだ。
その後、あっさり大猪も魔術師達も片付いてしまい、森の中は静かになった。
否、これだけ血生臭い戦闘があってもそんな事は気に留めないのか、山ムクムグリス達は、相変わらず賑やかにしている。
「……………この動きだと、明らかに指揮系統になる導師がいないな。一人、取り逃がしたかもしれないのか……………」
「殲滅が目的じゃないなら、深追いをするだけ無駄足だ。こいつ等の襲撃は、殆ど無差別だからな」
「認識しているのがシルハーンだけなら、時間を置いてまた襲撃してくる可能性もあるだろう」
「それはその時に対処すればいい。それよりも、子熊の足とやらをさっさと探せ」
「ああ、昼に星の木の森に入り込まないように捕獲した際に、もげたんだろう。……………まさか、そのままポケットに入ったままだったとは思わなかったが……………」
こんな時は、不機嫌さに刃物のように鋭くなる灰色の瞳を眇めて、ポケットの中に残っていたという子熊の足を会員に手渡したグレアムは、首を落としたばかりの大猪を、森の奥に転がしている。
この森なのだ。
森の奥に投げ込んでおけば、他の獣達が食べてしまうだろう。
取り逃がした魔術師は引き続きシルハーンを狙うかもしれないが、とは言え、巡礼者達程の実力を有している集団ではない。
その教えの中で、どれだけ害悪だと喚いたとて、さすがに相手が万象では勝ち目はない。
せいぜい、シルハーンや外周の魔物達の気分を損ねるくらいだ。
しかし、そんな夜が明け、朝食を食べ終えたネア達が帰路に就く頃、こちらの予想に反して、狩り損ねていた陽の魔術師が、無謀にも万象の魔物を襲おうとした。
身に持つ白の分量や虹の色相を見ても、それが手に負えない階位である事が理解出来ないのか、それとも、弟子たちを失い自暴自棄になったものか。
大きな木の影に身を沈めて機会を待ち、森を抜けて魔術の道に繋がる坑道に向かうネア達を狙う魔術師は、色鮮やかな羽飾りのケープを羽織り、針のように細い金色の剣を持っている。
当然、本人が気付いていないだけで、その剣先がシルハーンに向けられた途端に凍えるような目をしたグレアムや、他の会員達がすぐ近くに控えていたし、シルハーン自身も気付いていただろう。
だが、その襲撃に誰よりも腹を立てたのは、土筆程度の可動域しか持たない筈の、一人の人間であった。
「……………ディノ、見て下さい、おかしな木の実がありますよ」
「……………これは、何だろう?」
「手のひら大の団栗が、ちび蜥蜴さんの集合住宅になっているようですね……………」
そんな会話の合間に鋭い視線をこちらに投げたネアは、伴侶に悟られないようにしたものか、僅かに体を後方に下げ、何かを木の影に潜んだ魔術師に向かって放り投げた。
その途端、ぎゃーっと凄まじい悲鳴が上がり、シルハーンが慌てたように振り返る。
ネアは、そんな伴侶に柔らかく微笑みかけると、三つ編みを握ったままそちらに近付き、例のボールを拾い上げて回収しながら、影の中に身を潜めることも出来なくなって倒れている導師階級の陽の魔術師を、何の躊躇もなく力いっぱい踏みつけた。
「愚かな鳥頭ですね。私の大事な魔物を狙うだなんて」
「ご主人様……………」
「このカササギ頭の何者かは、ディノに悪さをしようとしたのですよ。勿論、私は伴侶を狙われて大人しく見過ごすような善良な人間ではないので、私の伴侶を狙った段階で即刻有罪とし、速やかに滅ぼしました」
「陽の魔術師かな。…………古くから、高位の魔物を世界の害悪とする、前世界の魔術を信奉する者達だよ。私が白持ちの魔物だと知って、可能であれば損なおうとしたのだろう」
「……………まぁ。魔術師という事は、こやつめは、区分的には人間なのです?」
「ネア、……………足を見せてご覧。どこも痛めていないかい?」
それが人間だったと知ってしまった伴侶の為に、シルハーンは、そんな風にネアを抱き上げようとした。
しかし、その伴侶は落ち込むどころかいっそうに冷ややかな眼差しになり、鮮やかな緑の下草の上でさらさらと灰になってゆく魔術師を見下ろす。
「鳥さんであれば、許さないにせよ、本能的に獰猛なのかもしれないとも思いましたが、中身が人間なのだとしたら、通り魔行為が倫理に反する事は知っている筈なのです。いっそうに許し難い行為なので、形の残っている今の内に、あちらにある沼のようなところに放り込んでおきましょうか」
「ご主人様……………」
「ディノ、怖いものはいなくなりましたからね。もう大丈夫ですよ?」
手を伸ばし、どこか途方に暮れたようにしているシルハーンの頭を撫でてやっているネアの様子に、嫌な予感がして隣を見ると、グレアムは静かにハンカチで目元を覆っていた。
さすがにアイザックやジルクは落ち着いているだろうが、ミカも目元を押さえている。
嬉しそうに目元を染めた万象の三つ編みを引っ張り、その伴侶が魔術の道への入り口に消えてゆく。
二人が立ち去った瞬間に、その森には、わぁっという会員達の歓喜の声が響いた。
耐えられず、すかさず転移を踏んだのは言うまでもない。




