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奇妙なお城と姿のないお客




大きな木の根の門をくぐって外に出ると、煉瓦造りの古い坑道のようなものがあった。


下草は綺麗な緑の牧草のようなもので、時折、葉先に淡い光を灯らせているものがある。

見上げた天井をぱたぱたと飛ぶのは蝙蝠の形をした影で、ぴしゃんと水音が響けば、天井に波紋の影が広がった。




「不思議なところですね…………」

「古い魔術が宿る場所だ。山ムクムグリスが多く生息しているのは、この土地の魔術がとても古く、不変のものだからでもあるのだろう」



ざりりと響く靴音に目を瞬き、ネアは、柔らかな草地の筈の道を歩いた。


手の中にはディノの真珠色の三つ編みがあって、ここでは擬態をしないのかなと首を傾げる。

そうしていると、こちらを見た魔物が薄く微笑み、薄闇の中で光るような水紺色の瞳を見上げれば、そっと腕の中に収められてしまう。



「捕獲されてしまうのです?」

「この辺りは、少し魔術の基盤が不安定なんだ。何か異変があるのではなく、潮流の交わる場所のようなものだと思えばいい。持ち上げるよ」


事前に申請があったのでネアはじたばたせず、大人しく魔物の乗り物の上から、この不思議な空間を見回した。



(風があるのだわ………)



古い魔術の影響なのかもしれないが、そよそよと涼しい風が吹いていて、見た事のないような不思議な植物がそこかしこに生えている。


内側が燃える山葡萄のようなものや、色鮮やかなキノコは光る水が凝ったようだ。

小さな百合に似たピンク色の花は結晶石から生えていて、煉瓦の壁がごつごつとした木の幹のようになっていたりする。


暗がりでずぞぞっと動いたのは、大きな蜥蜴のようなものだろうか。

思わず息を詰めたネアに、ディノがくすりと笑う。

だが、そんな通路はあっという間に通り抜けてしまい、ネア達は大きな石門から外に出た。



「まぁ…………」



ざあっと強い風が吹き抜け、いつの間にか深い森の中に立っている。


細い筋になった木漏れ日が落ち、ウィームの森のような妖精の光はないが、代わりに植物や鉱物の放つ不思議な光が溢れていた。

ぱたぱたと飛んでいるのは光る水色の蝶で、どの木々も枝葉を豊かに伸ばし、どっしりとした幹の太さは住居にでも出来そうな程ではないか。


深い森は色鮮やかで美しいが、ウィームの森のような繊細さや細やかな煌めきではなく、力強くごつごつとした魔術に溢れているように思えた。



(まるで、悪い魔法使いの住んでいる森みたいだ…………)



そんな感想を抱いてしまい、ネアは、久し振りにこの世界の不思議を、幼い頃に見た絵本の場面に置き換える。


なぜだか分からないのだが、この森に溢れる不思議は、あのウィームの森とは明らかに質が違うような気がして、それどころか、これ迄に触れてきたどんな土地の魔術とも違うような気がする。

少しだけ緊張してしまったネアは、ディノの肩にしっかり掴まった。


(……………あ、)



やがて、木立の向こうに黒い建物が見えてきた。

力強い木々の天蓋の中にあっても尚、きらきらと鈍く光っている。



「あのお城のようなものが、私達が泊るホテルでしょうか」

「うん。あの建物だろう。左手を見てご覧、急な傾斜になっていて、その下に街があるだろう?」

「霧の向こうなのです?…………は!ほ、本当です。街がありました!」



ずっと周囲は深い森の中だとばかり思っていたネアは、すぐ左手が崖のようになっている事にも驚いたし、乳白色の霧に隠された向こうに、随分と大きな街がある事にも驚いてしまった。


気付かずに自分の足で歩いていたら転げ落ちていたかもしれないと、ほっと胸を撫で下ろす。


「この国は、職人と魔術師が多いところなんだ。魔術の特性が違うし、困った事になるといけないから街には下りられないけれど、とても豊かなとこだよ」

「表面的な要素だけを聞いているとウィームのようでもあるのですが、ここまで違うものなのですね………」

「土地の気質や魔術の質が違うからだろうね。では、ホテルに入ってしまおうか」

「はい!」


まるで森の中にひっそりと佇んでいるようなそのお城は、指輪の避暑地の中にあるどちらのお城とも、そして勿論リーエンベルクとも違う。


艶々とした結晶化の進む黒い木で出来ていて、細く鋭い尖塔になった屋根の部分は、淡い水色の不思議な結晶石になっている。

その屋根が木々の間から陽光を集めるようで、きらきらとした不思議な光を湛え、森の中の奇妙で美しい怪物のようだ。


ますます悪い魔法使いの住むお城のようではないかと目を瞠り、ネアは、凝った造りの鉄門を抜け、その奥に広がる美しい薔薇園にまた目を丸くした。


「ほわ………」

「おや、ここは随分と雰囲気が変わるね」



(先程迄の森の様相と、あまりにも違うのだわ…………)



力強い太古の森といった具合の外側と、繊細で、どこか詩的ですらあるこの薔薇園の違いは何だろう。

魔物な乗り物から降り、三つ編みを持たされてその中を抜けると、美しいが排他的にも見えるお城の印象からは想像出来なかったような可愛らしい玄関があった。


淡い砂色の石造りのアプローチには、色とりどりの鉢が置かれてクロッカスのような可憐な花が咲いている。

菫や鈴蘭のような可愛らしい花々がアプローチを囲むように満開になっており、玄関を覆うように枝を下げて咲いているミモザの黄色花は、まるでエントランスの屋根のよう。



(…………そうか、ちぐはぐなのだ)



そう思い、ふすんと頷けば、この土地のあれこれは、美しいものと力強く不思議なものをコラージュした絵のような奇妙な彩りに思えた。


だがきっと、ディノが古い魔術の土地なのだと言うからには、ネアの目にはちぐはぐに見えるこの揃えが、こちらでは正解なのかもしれない。

そんな事を考えながら扉を開くと、扉に吊るされた古びた水晶のベルがちりんと鳴った。


扉の向こうに広がるホテルの玄関ホールは、お城という建物の特性上当然なのだが、吹き抜けになった広い空間で、大きなシャンデリアが下がっていた。

石床は複雑なモザイク模様になっており、城内の壁は外側より幾分か柔らかな色の黒い木で出来ている。

こちらもやはり結晶化しているが、そのせいで、墨色がかった灰色のような不思議な光沢を持つ石材にも見え、雰囲気も柔らかい。


調度品は深い飴色の木製が多く、どこか温かな風合いを添えていて、更に、床に敷かれた色鮮やかな絨毯が異国風の趣を際立たせていた。



(可愛い…………)



怪物のような力強いお城の外観に見合わず、ホテルの内観を見たネアは真っ先にそう思ってしまう。

繊細で色鮮やかで、とにかく可愛い雰囲気なのだ。



「ご宿泊のお客様ですか?」


ネア達に気付き、カウンターの向こうから従業員が顔を出した。


「こちらに宿泊券がある。予約は、先週入れてあるよ」

「拝見いたしましょう。………おや、あの方のお客ですな」



ホテルの受付に控えていたのは、背の高い黒髪の男性だ。


漆黒の髪はオールバックになっていて、涼やかで優美な美貌には、黒い燕尾服のような装いが良く似合っている。

だがネアは、その頭にぴょこんと生えた黒い兎耳が気になってならず、そわそわしてしまう。

魔物的にはこれは合成獣になるのだろうかとディノの表情を窺ったが、幸い、怯えている様子はなかった。



魔術金庫に全てを収めてしまうので荷物などを預ける必要はなく、ネア達はその男性に案内されて三階にある部屋に向かう。

余分なお喋りがないのは、ディノが擬態もしておらず、高位の魔物だと隠していないからだろうか。

怯えたり卑屈になる様子は見えないが、部屋の扉を開いて恭しく頭を下げた仕草は、洗練されていて美しい。


玄関ホールでも思ったが、城内には、そこかしこに花瓶や水盆があり、庭で摘んだと思われる薔薇がふんだんに飾られている。

お城そのものが持つどこか冷たい雰囲気を、調度品や花々が何とも温かく彩る事で、可憐な印象になるのだろう。



「…………はふ。ここは、不思議なところですね。壁に飾られた絵の全てがお花の絵で、何とも優しい雰囲気なのですが、お城や森の雰囲気がどこか厳しいものなので、その差分がくっきりとしているような気がします」

「この辺りは、新月期と呼ばれる深い夜に包まれる季節がある。その季節に耐え抜く為に、家や城などの建材は、夜霧杉で出来ているのだそうだ。石材に見える部分も、その杉の木を結晶化させたものを切り出しているようだよ」

「新月期という期間は、暮らす方達にとっては厳しいものなのですか?」 



部屋に入ると少しほっとしてしまい、ネアは、この国やこのホテルの不思議な造形について、ディノに尋ねてみた。


部屋の中は、ふかふかとした鮮やかな青い絨毯が美しく、壁には見事な薔薇の絵がかけられているが、庭園の風景を切り取ったような絵は決して仰々しい物ではない。


寝台は青と淡いミントグリーンを基調とした花模様の寝具で、浴室は真っ白な雪結晶のバスタブに艶消しの金色の猫足が何とも可愛らしいではないか。

窓枠の装飾は葡萄の蔓を表現した彫刻があり、天井には星結晶の入った美しいシャンデリアがかかっている。


天井が高くとても広い部屋なのだが、寝室などで空間が分かれてはおらず、一部屋となっていた。

ネア達はまず、窓辺に近い長椅子にゆったりと腰掛けて、用意されたお茶を飲む事にした。



がおん、がおん。

窓の向こうのどこかで、聞き慣れない鐘の音が響いた。


この土地の魔術が特殊な事は予め聞いていて、滞在は、本日の午後から明日の朝迄と限られている。

決して居心地が悪い訳ではないのだが、独特な空気感にそわりとしたネアは、昼食までリーエンベルクにいる事にして良かったなと思ってしまった。


ふかりとした極上の座り心地の長椅子は、綺麗な水色で、その色の明るさはけれども、青い絨毯から浮かずに部屋にしっとりと馴染んでいる。

周囲を見回したネアは、部屋の中にも飾られた薔薇の花の瑞々しさと、青い絨毯の鮮やかだが不思議に落ち着く絶妙な色合いが、全てを纏め上げているのだと結論付けた。



「新月期には、森の獣達が大きな力を持つ。山ムクムグリスもその一種なのだろう」

「むむむ、もふふかの愛くるしい獣さんだとばかり思っていましたが、この辺りでは力のある生き物なのですねぇ」

「この辺りでは、人型の生き物達よりも、森で生きてゆくことに長けている獣型の者達の方が階位が高いんだ。ホテルの従業員も、黒兎の妖精だっただろう?」

「く、くろうさぎさん!!」

「…………あんな妖精なんて…………」



黒兎という言葉の響きにうっかりはしゃいでしまったご主人様に、ディノは少しだけ拗ねていたが、とは言え先程の男性はどこか鋭い印象であったので、求めている黒兎感はなかったと申告すれば、無事に鎮まったようだ。


「もふもふの、愛くるしい系の黒兎さんが良いのです。あの方はちょっと、………何というか、色めいた男性感がありますものね」

「黒兎は、魔術階位が高くとても獰猛な妖精だから、あのような者が多いのではないかな」

「…………まぁ、うささん感が台無しなのでは…………」


であればせめて、死者の国の掃除婦のような雰囲気であるべきだと思ったが、おまけに男性が多いらしい。

身勝手な人間は理想を裏切られてしょんぼりしてしまい、ディノは安堵したように微笑みを浮かべた。



「ほら、山ムクムグリスを見るのだろう?」

「むむ。もう見られてしまうのです?」

「うん。部屋からも見られると、グレアムが話していたよ」

「み、見ます!」


まさかそんなお手軽に見えるとは思わなかったので、紅茶のカップを受け皿に戻したネアは、ぴょいっと弾むと立ち上がった。


隣にいたディノの手をむんずと掴んで引っ張ると、恥じらってしまった魔物がへなへなになったが、大急ぎで窓辺に向かう。



しかしそこでネアを待っていたのは、悲しく生々しい、現実の洗礼であった。




「…………ほわ、あれが山ムクムグリス」

「沢山いるね…………」



お城の庭園はこちら側にはないのか、窓の向こうはすぐに深い森の景色になっていて、そんな森の中には思っていた以上の数の緑色のムクムグリスがひしめき合っていた。


少なくとも二十頭はいるので、群れが来ているのかなとも思ったが、何よりもネアを打ちのめしたのは、山ムクムグリスの毛並みが思っていた程にふかふかではなかった事だ。


恐らく、元はふかふかだったのだろう。


だが、長い時間を山の中で生きて来たムクムグリスの毛並みは、当然ながら野生の獣らしいごわごわ感が出てしまい、それどころか、一部は鋭く結晶化していたりもする。

不思議な生き物という意味では、これ以上ない圧巻さとも言えるが、愛くるしい巨大もふもふを見ようとしたネアにとっては、明らかに思っていたのと違うと言わざるを得ない光景であった。



(………とは言えここで、思っていたのとは違うとも言い難い…………)



何しろこの宿泊券はディノの誕生日の贈り物であるし、そもそも、今日はまだディノのお誕生日なのだ。

となると、大事な魔物の気持ちを引き下げてしまうような発言は出来ず、けれども失望を隠しきれない人間は無言でわなわなした。


けれど、こちらを見たディノは、澄明な瞳をふっと細めるとどこか気遣わしげに微笑むではないか。



「…………あまり、気に入らなかったかい?」

「そ、そんなことはありません!ひとまず、むくむくしてはいますし、大きなムグリスです!!」

「ご主人様!」

「なぬ、なぜに私の失望感を汲み取って、その上で大喜びなのだ?!」



ネアはここで、ぱっと水紺色の瞳を輝かせた魔物にぎゅうぎゅうと抱き締められてしまい、困惑に目を瞠るばかりとなる。


とは言えお誕生日の魔物が大喜びなのだから良い事なのだが、少しだけ好きにさせてから事情を聞けば、この魔物は、伴侶が大きな毛皮の生き物に浮気をする心配がなくなったと分かり、安堵したようだ。



「………という事は、折角のお誕生日なのに、私が浮気をするかもしれないと不安に思いながら、それでも一緒に来てくれたのですか?」

「でも、あのムグリスは、そこまで良くなかったのだろう?」

「ムグリスディノのふかふかの愛くるしさには、世界中のどんなムグリスも敵いませんよ。…………ですがディノ、お誕生日は、ディノにとって素敵な日であるべきなのです。私が喜ぶと思ってくれての事だとしても、不安があるような事はしなくてもいいのですよ?」

「そうなのかい?」

「ええ。今回は幸いにも、山ムクムグリスはあんまりでしたが、ここで私の特別なお気に入りのもふもふが現れたら、ディノはしょんぼりしてしまうのでしょう?」

「…………けれど、君が嬉しそうにしていると、それもとても嬉しいんだ」

「まぁ…………。そんな優しい伴侶はこうです!」



困惑したようにそんなことを言うので、ネアは、首を傾げた魔物の鼻先に口付け、にっこりと微笑んでしまう。


しかし、いきなり珍しい場所に口付けされてしまった魔物は、目を瞬いてぽぽんと頬を染めると、どこからか、持って来てしまったらしい贈り物のキルトを取り出して包まってしまった。



「…………ネアが、かわいい」

「あら、キルトの中に隠れてしまうのです?」

「こんなに懐いてくるなんて…………」

「…………むぅ。いつか、別の言い方に直してゆきましょうね」

「ずるい……………」




とは言え今回の旅の目的は、ムクムグリスの観察である。



ネアは、ムグリスとしての需要で勝利し、どこか誇らしげにしている伴侶の腕の中から、なかなかに野性的な山ムクムグリスをじっと観察してみた。


今更ホテルの宿泊客の目などは気にならないのか、或いは、こちらの姿は見えていないのかもしれない。

木の実を食べていたり、ごろんと寝そべったりしている山ムクムグリス達は、思いのままにのんびりと過ごしているようだ。


話に聞いていた赤ちゃん山ムクムグリスの姿もあったが、残念ながら、ネアの目には、苔色の毛玉にしか見えなかった。

もふもふ具合で言えば最良であったが、手足が埋没してしまい、この斜面も多い山で無事に生きてゆけるのだろうかという丸さではないか。

何となく、脱脂綿妖精を彷彿させる輪郭に、ネアはそっと視線を外した。



「あの、大毛玉の傍にいるムクムグリスのどちらからが、一時期はココグリスと駆け落ちせんとした、山ムクムグリスのお嬢さんなのですね…………」

「うん…………」

「赤ちゃん山ムクムグリスは、どうやって移動するのでしょう。まさか、…………転がって?」

「ご主人様…………」



ネアは、これ迄にも図鑑などでムクムグリスの絵を拝見してきたが、そのムクムグリス達は皆、もふふかの愛くるしい巨大毛皮であった。


思い描いていたムクムグリス種とはだいぶ違うような気がすると思い窓の向こうを見ればやはり、ここにいる山ムクムグリスは、そんな他の個体よりも、体つきがしっかりしているように見える。



(これからは、安易にムクムグリス一般に興味があると言うのはやめよう…………)



そう考えたネアは、今回の事件を己の成長に繋げんとしてきりりと頷き、とは言え折角の旅行なのでと、ディノとゆっくりと過ごす事にする。


土地の魔術の傾向からホテルを出るのも少し危ぶまれるのでと、前の世界で暮らしていた頃の旅行の思い出などを2人で話していると、ずっと一緒にいても寛げるようになったディノとのお喋りは、あっという間に時間が経ってしまう。



いつもとは違うお喋りが出来てとても楽しい時間に、こうして、気負わず自然に一緒に過ごせるというのは素敵な事だなとほこほこしていたネアを脅かしたのは、またしても、思わぬ生態を持っていた山ムクムグリスであった。



「ぎゃ?!」


うぉぉぉぉんと、突然、凄まじい雄叫びが聞こえてきて、ネアは、びゃんと垂直飛びしてしまう。


震えながらディノにぴったり体を寄せると、森の中にいた山ムクムグリス達が、一斉に空を見上げて遠吠えのような事を始めるではないか。


ディノも目を瞠って不安そうにしているが、紅茶の準備のあったテーブルの上に置かれた、山ムクムグリスについてという小さな冊子を取り上げてくれる。

すっかり山ムクムグリスへの興味がなくなってしまい開いていなかったが、そこに何かヒントがあるのかもしれない。


慌てて一緒に覗き込むと、そこには、恐ろしい事が書かれていた。



「…………むむ、夜行性なので、夜が近くなると遠吠えします。…………お、おかしいです。先程までも、食べたり寝転んだりしながら普通に動いていた筈なのです。それなのに、夜行性………?」

「夜行性なのだね…………」

「獣さんだと思えば不思議はありませんが、………ま、まさか、これからの方が活動的になるのです?」



ネアは、とても嫌な予感がした。

あれだけの質量のものがどのように活動時間を迎えるのだろうかと考えれば、寧ろ、嫌な予感しかしない。

だが幸いにも、ここで晩餐の時間となり、ネア達はホテルのレストランへの移動となる。



レストランの窓からはライトアップされた庭園が見えると聞いていたので、せめてこれからの時間くらいは、心穏やかに美味しい食事をいただけそうだ。




「…………ぐぬ、…………ぐぬぅ」



だが、結論から言えば、晩餐も心穏やかには過ごせなかった。


天井が高い小さな礼拝堂のような造りで、可愛らしいチューリップ型のランプが下がったレストランはとてもいい雰囲気だったし、ぼんやりとオレンジ色に輝く篝火の結晶石で照らされた庭園はロマンティックで、その奥に広がる暗い森の向こうには、遠い街並みの夜景がきらきらと光る。


ここを高級ホテルたらしめる、充分に素晴らしい景観だったと言えよう。


だが、前菜で美味しそうだなと思った透けるように薄く切られた燻製ハムが、ボラボラの燻製、林檎の香り付けだった段階でネアの心は死んでしまったし、庭園をちょこまか走り抜ける緑の毛玉的な山ムクムグリスの赤ちゃんが気になってしまい、少しも落ち着けなかった。


赤ちゃんムクムグリス達はまだほこりサイズなので、ぎりぎり走り回っていても構わない大きさなのだが、子供達を追いかけて親山ムクムグリスが来たらどうしようと思うと、落ち着いて食事も出来ない。


あの大きな毛皮の生き物が庭園に入り込んだら、丁寧に育てられたに違いない薔薇園はぺしゃんこになってしまうだろう。


だが、親山ムクムグリスが庭に入り込みませんかと給仕に問いかけるのは、山ムクムグリスが見られることを売りにしたホテルに対しては、失礼かもしれない。

そう考えたネアは、はらはらしながら砂を噛むような思いでいたが、とは言え、思っていた以上に美味しく素晴らしかった食事を終えた。



(………これだけ上の空で食事を終えたのに、美味しかったという記憶があるなんて…………!!)



となれば間違いなく、心穏やかに食事をすれば、きっと美味しい晩餐だったに違いない。

そう思うと、美味しい食事を楽しむ事を人生の喜びとしてるネアは、口惜しさに心の中で地団太を踏んでしまう。


最後に出て来た、赤い何かでコーティングされた、林檎とお酒の香るデザートの記憶が特に鮮烈で、口に入れて美味しいぞと目を瞠った迄は良かったのだが、そのタイミングで、赤ちゃん山ムクムグリスが薔薇のアーチにぶつかっているのを見て、心臓がきゅっとなったその後の記憶がないではないか。



(落ち着こう。落ち着いて、最優先にするべき事を思い出すのだ…………)



部屋への帰り道で、ネアはそう自分に言い聞かせた。

今日は、何をさておき、ディノにとってどんな一日になるかこそを考えたい。


では、お誕生日のディノにとってはどんな晩餐だったのだろうと不安に思いながら顔を上げると、どこからか雄叫びが聞こえる度にネアがびゃっとなるので、魔物はご主人様が沢山動くと幸せそうだ。


ディノの方も山ムクムグリスの遠吠えは少し怖いようだが、とは言え、ある程度は事前知識があったのか、ネア程に過敏な反応ではない。


飛び上がったり、慌ててディノの腕の中にぎゅうぎゅうと入り込んだりするご主人様を堪能出来るくらいには、余裕があるように見える。


折角のお誕生日旅行でディノがしょげてしまわないのはいい事だが、ネアの心は、すり減りにすり減っていた。



「ぎゅ、ぎゅむ!」



そして部屋に帰れば、窓硝子一枚を隔てた向こう側は夜の森で、よりにもよって、山ムクムグリスは夜になると目が光る系の生き物だったのだ。


暗闇に光る無数の目と、黒っぽいもさもさした輪郭しか見えない夜の森の景色にぴしゃんと背筋を伸ばして硬直したネアは、ささっとディノの背中の後ろに隠れ、なぜカーテンを閉めずに食事に出たのだろうと、過去の自分を放り投げたくなる。


だが、記憶を辿ってみれば、あの時ですらもう、窓辺に近付くのが恐ろしかったのだ。



「…………随分、素早く動くのだね」

「………おまけに、素早く動いているのですね?穏やかで優しい生き物だと聞いていましたが、詳しい生態について調べておかなかった事を心から後悔していまふ。………そ、その、頑張ってカーテンを閉めますね」

「おや、カーテンなら閉めてあげようか?…………もう、窓の外の生き物はいいのかな」

「せっかくなのにこんな反応になってしまっても、ディノが喜んでくれているのがせめてもの救いでした…………むぎゅ」

「可愛い。後ろに隠れてしまうのかい?」

「なぜ、あの巨大な黒い影の中で、目がきらんと光るのだ。…………もっと愛くるしいファンシーなやつだと思っていたのに、酷い裏切りなのです………」

「ふぁんし、…………。カーテンは閉めたから、安心していいよ」

「ふぁい。ディノが、とても頼もしくて恰好いいです…………」

「ずるい…………」




結論から言えば、夜行性の山ムクムグリス達は一晩中、大賑わいであった。


遠吠えこそ収まったものの、どすんばすんと森の中を駆け巡り、時折、勢いがついてしまったものか、がつんとお城にぶつかってくる。

ネアが怪物のような力強さを感じたこのお城は、そんな森の生き物達が荒れ狂う新月期にも耐えられる頑丈な建材なので、山ムクムグリスが体当たりしたくらいではびくともしない。


だが、どすんだとか、どかんという音が響けば、やはり繊細でか弱い乙女は何事だと驚いて飛び起きてしまうのだった。


一晩中ぴったりディノにへばりつき、片時も三つ編みを離さなかった伴侶に、ディノは目元を染めてたいそう恥じらい続けた。

こんなにもご主人様がどこにもいかないのは初めてだと満足気にしていたので、お風呂まで一緒に入ってしまったのは失敗だったかもしれない。




「昨晩は、猪型の大型精霊の狂乱があったようなのですが、問題なく終わって幸いでした」


だが、朝食の席でそんな事を給仕が話してくれれば、ネアは、一緒のお風呂も決してやり過ぎではなかったと息を呑まざるをえなくなる。


あの山ムクムグリスの巨体がぶつかってもびくともしないお城だが、その精霊が暴れると、さすがに壁にひびが入ったりはするらしい。

そのせいで一昨年にこのお城の修繕作業があったと聞けば、ネアは、一体どんな大型精霊なのだろうと無言で震え上がるしかない。



このホテルには、ネア達の他に二組のお客が泊まっていると聞いている。

だが、晩餐の時間がずれていたのかどちらにも遭遇しなかった。


そして、そんな別の宿泊客のひと組が、夜のお散歩でその大型精霊と遭遇し、楽しみにしていた木の実を他の獣に食べられて狂乱した獣を狩り滅ぼしてくれたのだと言う。


ネアは、そんな誰かに心から感謝し、今朝も遅めの朝食でゆっくりと寝ていると聞けば、疲労回復の魔物の薬を届けてあげたくなってしまったが、チェックアウトするまで他の宿泊客の姿を見る事はないままだった。




ホテルの従業員によると、美しい灰色の瞳の男性だという。

ネアは少しだけグレアムを思い浮かべてしまったが、まさかここにはいないだろうと苦笑した。



帰り道のディノは、伴侶とべったりの旅行が楽しかったようで、沢山くっついたと幸せそうに微笑んでいる。

良いお誕生日旅行になったのは間違いなく、ネアは、儚く微笑みかけ、そんな伴侶を撫でてやった。







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