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171. 誕生日には気球に乗ります(本編)



シュタルトにあるという星の森は、小高い丘の上にある、小さな粉挽き小屋が入り口になっている。

これは、元々は見事な星の木を表現した彫刻の素晴らしい聖堂があったものを、統一戦争の開戦直後に取り払った後の目隠しの名残だという。


その他の高価な結晶石の中でも、上質な銀水晶は、海の都である王都でも重宝される素材だ。

特に星の系譜の銀水晶は、船乗りたちにとっても大事な守護を蓄えられる装飾品になる。

けれども、だからこそ星の森への道は閉ざしてしまおうと、そう微笑んで道そのものを隠してしまったのは誰だったのだろう。


そうしてこの入り口は、統一戦争の間、道その物をシカトラームに預けるという特殊な管理を行った。

終戦後には開放されたと聞けば、恐らく手を下したのは高位の人外者だったのだろう。

ウィーム中央駅のシャンデリアといい、そうして小さく切り分けられ、あちこちに隠された品物は多い。

統一戦争でウィームは全ての王族達を無残に喪いはしたものの、その悲劇の影に残された物が多いのも特徴的であった。



丘の上には様々な野の花が咲いていて、ネアはふと、そんな遺産の全てがまるで人外者のように思えた。

じたばたともがく人間を睥睨し、冷ややかに笑って、その手の平で恩寵を隠されてしまう。

どれだけ足掻いても全てを奪えはしないのだと突き放されるように、ウィームは少しずつ欠けたものを取り戻してゆき、今はリーエンベルクにエーダリアが暮らすまでになった。


あのリーエンベルク一つを見るだけでも、ヴェルリア軍が、そこに暮らした人々の命以外の殆どを奪えなかったのは明白で。

それがどんな惨い粛清であろうと、結局のところ誰にもウィームは損なわれなかったのだと、凛とした佇まいが示してくれる。



「ここから入るのかな」

「ええ。この小屋が入り口になっているので、係の方にチケットを渡すのですよ。そしてこれが、今年のお誕生日優待のチケットです!」


ネアが、じゃじゃんと若草色の封筒から綺麗なチケットを取り出すと、ディノは水紺色の瞳を輝かせた。

瑠璃色の少しでこぼこした紙の手触りがあたたかな印象のチケットは、銀色の繊細な妖精印字で、星の木と気球の絵が描かれた可愛いらしいものだ。

優美な妖精の装飾文字を使ってお誕生日優待券と書かれており、実は、ここで妖精文字が使われているのには理由がある。



星の森への道を特定の空間として切り取り囲い、そこに誰も近付けないようにと門扉を取り付けたのは、戦後に誰かからこの入り口を任された妖精達だった。

敢えて管理者も妖精としてしまう事で、星の森は、ますます人間達が損なえない場所になっている。



「妖精の目晦ましが、あちこちに敷かれているね」

「ここは、今はもう妖精さん達が管理されているのですよね。昔は、ウィーム王家の系譜の方が門番をしていたのだそうですよ」

「ノアベルトが話していたね。シュタルトの固有種である、花の妖精達が守っているようだよ」

「ええ。その方達が特別な魔術を敷き、ノアの呪いが生きているからと、ウィームに暮らしていない方は入れないようになっているのです。また、採掘された銀水晶やお土産の銀水晶も、ヴェルリアの方は手にする事が出来ないようですね」

「呪いをかけ触れられなくしておけば、ヴェルリアの人間達が食指を伸ばさないと踏んだのだろう。ヴェルリア王家を呪うノアベルトの名前を使えば、王には忠実なあの国の人間達がこの地を侵略する事もない」



ふむふむと頷き、ネアはまた考える。


ヴェルリアは、船乗りと商人の国だ。

そんな商人達の気質と折り合わないようでずっと意外だったのだが、時に利益の為に天秤を傾ける事もある彼等が、ヴェルリアの絶対的な王政に従ってきたのは、ヴェルリア王家の者達が持つ特別な王の質が、他の誰にも取って代われないようなものだったからなのだそうだ。


それは時に、誰にも落とせないと言われてきた美しい雪の国を取り込む為の動かせない時代の流れを作り、気位が高く誰にも膝を折らないと言われてきた、火竜や海竜達との揺るぎない連携を今日まで維持させてきた。


あるべくしてあるというのは、ヴェルリア王家にも言える事なのだろう。

だからこそヴェルリアの商人達は、王を損なってまで、シュタルトの銀水晶を奪おうとは思わないらしい。



真鍮のノッカーを鳴らし、正方形の粉挽き小屋の扉を開くと、小さな空間の中が居心地よく整えられていることに驚く。


内側の壁を天井まで使って描かれた星の木の壁画は、掠れたような色合いが何とも儚げで美しい。

そして、そんな粉挽き小屋の揺り椅子に座っているジレにクラヴァット姿の青い瞳のご老人は、ネア達を見るといらっしゃいと微笑んでくれた。


「まぁ、まるでどなたかのお家のような温かい空間ですね。…………本日は、お誕生日のチケットで気球に乗りに来たのです。こちらが、優待チケットになるのですが………」

「ああ、お待ちしておりましたよ。本日は、一番人気の流星とエーデリアの気球が修理から戻ったばかりですので、そちらをご用意しましょう」

「ディノ、一番人気の気球に乗れるようですよ!」

「弾んでる…………」

「しかも、エーデリアの気球と聞けば、こんなお祝いの飛行にぴったりですね」



ここだけの秘密なのだが、エーデリアの花は、万象の魔物の足跡から生まれた花なのだ。

まさにディノの為のお祝い気球ではないかと、ネアは、うきうきしてしまう。


立ち上がった老人がチケットの半券をもぎ取ると、ディノは悲しそうに眉を下げていたが、残りのチケットがこちらに戻されると、それを受け取り、大事そうに指先で撫でていた。



「チケット風の銀水晶の記念品を注文したいのですが、それは、乗り場でお願いすればいいのでしょうか」

「ああ、記念日ならおすすめだよ。帰りだと忘れてしまうだろうから、乗る前に注文を済ませた方がいい。それと、魔術金庫を持っているのなら、土産物も気球に乗る前がいいだろうね」

「はい。ではそうしますね」


老人の背中には羽は見えなかったが、擬態で隠しているのだろうか。

案内されて向かったのは、どう考えてもこの小さな粉挽き小屋を出てしまうような反対側の扉で、けれども、その扉を開くと、鬱蒼と生い茂る深い森がどこまでも広がっているのだ。



「ほわ、…………」

「これは見事な銀水晶だね。古い時代の物だ」

「木々の幹も、枝も、葉っぱやお花も、全ての結晶の中に星空が詰まっています…………」



(銀水晶が発掘される洞窟に、森があるという事ではないのだ……………)



この洞窟内の全てが、銀水晶の結晶が見事な木の形に育った森なのである。


ネアは目を瞬き、爪先でそうっと扉の向こうの地面を踏んだ。

しゃりんと音を立て淡く光った洞窟の岩は、既に足元から銀水晶のような輝きを帯びている。



この土地で採掘される銀水晶には、深い深い夜が内包されているのだという。


そしてその中に眠る星々の記憶がぴかぴか光り、プラネタリウムのような不思議で美しい光を森全体に湛えるのだそうだ。

小さな扉の向こうに見上げる程に広大な洞窟が広がっているのも驚きだが、気球に乗るのは、空に近付く為ではなく、この美しい森を見下ろす為なのだと理解するといっそうに感慨深かった。


入り口のご老人に見送られ、煉瓦造りの可愛らしい小道を歩き、銀水晶の枝葉のアーチをくぐるだけでもう、ネアは胸がいっぱいになってしまう。

けれども、今いる場所が小高い丘のようなところで、目の前に現れた硝子張りの温室のような気球乗り場の向こうはぐっと土地が低くなっていると知ると、興奮のあまりにはぁはぁしてしまい、荒ぶる人間に三つ編みを引っ張られた魔物もぺそりと傾いている。


この高台から気球に乗り、ぐっと深くなった洞窟の下に広がる、銀水晶の森を見下ろす事が出来るのだ。


こんなに素晴らしい場所がまだあったのだと思えば、ネアは、これから過ごす伴侶のお誕生日が素晴らしいものになるだろうという確信を抱く。



「ディノ、み、見て下さい!!あんなに深く、あんなに広い森がどこまでも広がっていますよ!」

「ずるい、…………掴まってくるなんて…………」

「星の森という言葉通り、この銀水晶の森の全てが、星空が木になっているように見えるのですね」



興奮の収まらないネアは、ディノの腕を掴んで弾み回り、魔物はすっかり弱ってしまったが、それでも何とか一緒に気球乗り場に辿り着いてくれた。


気球乗り場の中は洒落たバーのような造りになっていて、入り口を入ってすぐの場所には、小さな丸テーブルの上に置かれたウィームの伝統の焼き物の大きな花瓶に、星紫陽花が生けられている。


柔らかなオレンジ色の明かりに照らされた室内は、飴色の木のカウンターの向こうに、陽気そうな微笑みの青年と落ち着いた微笑みが美しい初老の女性がいて、気球選びから始まり、気球の乗り方までを教えてくれた。


なお、こちらの二人には妖精の羽があり、綺麗な深緑色の羽にはこの洞窟内部を照らしている星の木の輝きが映り込んでいる。

それがまた、何とも言えずに素敵なのだ。



「エーデリアの気球になさるのですね。お二人のような素晴らしいお客を乗せるとなれば、きっとあの気球も張り切るでしょう」

「土産物が欲しければ、先に買っておいた方がいいと思いますよ。あの気球は、リーエンベルクからのお客様にとても喜ぶでしょうから」



そんな二人の言葉を訝しむべきだったのだが、ネアは、桟橋の向こうに並んだ色とりどりの気球にすっかり夢中になってしまい、命運を分かつ大事な言葉を聞き逃していた。

更には、この温室のような気球乗り場の中にある小さな売店に並ぶ、素晴らしい銀水晶の細工物からも目が離せなくなる。



(きれい…………)



温かな風合いの木の棚には、大小様々な銀水晶の細工物が並んでいた。

小さな置物として飾れるような品物が多く、装飾品や時計などもあるようだ。

上に飾られた額縁の中の説明書きには、折れた枝や自然に割れた星の木を利用したもので、決して、伐採などはしていないと書かれている。



「ディノ、何か一つ欲しい物を決めて下さい。それを私が買い上げますので、今日のお土産にしましょう」

「欲しい物があるのなら、幾つでも買ってあげるよ?」

「あら、ディノのお誕生日なのですよ?なので、今日は私が、大事な伴侶に贈り物をする日なのです」

「…………ずるい」


お土産を買って貰える事になった魔物はまたしても弱ってしまい、散々悩んでから小さな星の木の形をした置物を選んだ。

葉っぱの葉脈までが細やかに彫り込まれた置物は美しく、部屋の明かりを消して小さな星の木の輝きを楽しむ事も出来そうで、ネアもその置物が一番気に入っていた。


だがしかし、同じ置物が幾つかある上に、天然の銀水晶で作られているので個体差がかなりある。

ディノにはその中から一つに絞るという事が難しかったらしく、そこから先はネアが引き受ける事になった。


ネアは、値札はこの際見ない事にして、同じ形の物の中から一番美しく中の星が煌めく一つを選び出し、それをお会計に持って行った。

一緒に購入するのは、綺麗な透かし彫りのある栞を家族相当な人達分と、特別にグレアムとギードにも。

ここは、ウィリアムにも買うのなら、グレアムとギードにも必要だと考えたのだ。


ヨシュアとほこりについても思案したのだが、ディノに相談したところ、魔術の繋ぎ的にやはり難しいという事で購入は見送った。


なお、ヨシュアについては完全に線引きの外側の魔物だが、ウィームにとってはもはや隣人のようなものである。

一人だけ貰えないと仲間外れのようかなと思って思案したのだが、ここは我慢して貰うしかない。



(…………あの小箱や、小さな額縁も可愛いな)


他にも素敵な置物が沢山あるので、ネア自身も欲しい物は幾つかあったのだが、今日はディノのお誕生日なのだ。

即ち、持ち帰る置物は、ディノが目元を染めて選び出したこの星の木だけでいいのである。


買い上げた置物を丁寧に魔術綿で包んで木箱に入れて貰い、こちらのお土産はディノに渡して魔物をいっそうにへなへなにすると、家族へのお土産はネアの金庫に仕舞い込んだ。



そしていよいよ、気球に乗る時が来た。



「ようこそ、気球乗り場へ。エーデリアの気球は、半年前に修復に出されてから戻って来たばかりなんだ。白い花の染色模様が星の光を透かして、気球の中にも青白い流星の祝福が集まってとても綺麗だよ」



銀水晶で出来た桟橋を渡れば、そこで待っていてくれる乗り場担当の妖精がにっこり微笑みかけてくれる。

妖精らしい華奢さよりも、職人めいた味のある面立ちが際立つ男性だが、そんな雰囲気がとても魅力的ではないか。


ディノと出会う前だったならきっと、ネアはこんな笑い方をする人をと望んだのだろう。

だが、今はもう隣に大切な伴侶がいる。



「た、楽しみ過ぎてどきどきしてきました。乗り方に注意点などはありますか?」

「お客様だけで乗るようになりますが、この籠からは絶対に落ちないようになっているので安心して下さい。ただし、気球が森に近付いてくれた時に、森の銀水晶を盗もうとする輩は放り出されるって仕組みなのでご注意を」

「ふふ。頼もしい気球さんなのですね。…………ささ、ディノ、籠の扉を開いて貰いましたよ」

「…………歌っているのだね」

「歌、…………なのです?」

「君の可動域でも、籠に乗れば聞こえるようになると思うよ。この気球は、客を乗せて飛ぶ事が余程嬉しいらしい」



ディノは折角そんな風に教えてくれたのに、ネアは、残念ながらここでも大事なヒントを聞き逃してしまった。


それよりも、籠の中に置かれた二人掛けの椅子の可愛らしさに笑顔になり、ふかふかのクッションが張られた素晴らしい座り心地にむふんと頬を緩めてしまう。

特に飛び出し防止のベルトなどはなく、椅子は絶妙な高さになっており、椅子に座って籠の縁に取り付けられた持ち手を掴めば、立っていなくても眼下の星の森が良く見えた。


かちゃりと音を立てて籠の扉が閉められ、ぷかぷかと浮かぶ気球を係留していたロープが外される。

そのロープがやけに物々しい太さであった事も、後に思い返せば、ちゃんと意味があったのだ。



「う、動きました!」

「ネアが可愛い…………」

「見て下さい、ディノ。どこまでも星の森が広がっていますよ!…………物凄く広いのですねぇ。空気は少しだけひんやりしていますが気持ちいいくらいで、確かにどこかから、優しい歌声が聞こえます」

「この気球が歌っているんだ。…………ああ、流星の祝福が、もう集まってきたようだね」

「気球が…………?…………む!銀色のしゅわりとしたきらきらが、気球の中に集まってきています。星雲のようで、なんて綺麗なのでしょう…………」



ネア達を乗せた気球は、火を入れずに、膨らませた気球の中に取り付けた台座に、夜風の祝福石を置いて浮かせているのだそうだ。

そんな夜風の祝福石と、ぱつんと広がった気球の布の美しいエーデリアの染色模様を好んで、どこからともなく流星の祝福が集まってくる。



そうするとネア達は、星屑の夜空の中を漂うようになり、眼下にどこまでも広がるような星の森を見ながら空中散歩をしているようではないか。


あまりにも素晴らしい体験にネアは溜め息しか吐けなくなってしまい、そんな風に夢中になって目を輝かせているご主人様に、魔物は嬉しそうにもぞもぞしている。



「むむ、ディノはちゃんと星の森を見ていますか?こんなに、こんなに綺麗なのですよ」

「ネアが可愛い………」

「星の森がきらきらで、夜の中にぷかりと浮いているみたいですね」

「とても美しい場所だね。………それに、祝福や深い愛着などが凝った土地だ。この場所に蓄えられた魔術はどれも、とても質の良いものばかりだよ」

「やはり、星の系譜の土地なのですか?」

「いや、どちらかといえば夜だろう。真夜中の座の領域だね。夜の安らぎや美しさが集まり易い場所に、流星の系譜の銀水晶が木々の形に育ち、この森が出来たんだ」

「…………ふぁ」



ぷかぷかと、けれどもちゃんと前に進む気球は、森の上をぐぐっと進んでゆき、折り返し地点から桟橋に戻ってくるのだそうだ。

勿論、乗っている間に何かまずい事があれば、羽を持つ係員たちが助けに来てくれるし、そもそも籠からは落ちないようになっているそうなので、落下事故はないだろう。


そう考えたネアが、なんとも安らかな気分で星の森の景色を楽しんでいた時の事だった。



「……………むぐ?!」


ぎゃぎゃんと、少しだけ激しめに、気球が動いた。

目を丸くしてぴしりと固まったネアは、思わず隣のディノを見上げてしまう。



「突風が吹いたのですか?」

「気球が、はしゃいでいるのではないかな…………」

「気球が、…………はしゃぐ」

「この気球は、精霊のようなものだからね」

「…………となると、生きているのです?」

「うん。けれど、この椅子はただの椅子だからね」


ご主人様の座る物に拘りのある魔物は、そんな事を誇らしげに教えてくれたが、ネアはそれどころではなかった。

ここにきて漸く、乗り場の妖精達がくれた助言が、不穏な翳りを帯びてその輪郭を結び始めたのだ。



「…………皆さん、お土産やチケットの申し込みは、気球さんに乗る前がいいと言っていたのです………」

「うん。そう言っていたね」

「そしてこの気球さんだけ、やけに頑丈なロープで係留されていました。四人乗りの大きな気球よりもですよ?」

「暴れるのかな…………」

「あばれるききゅうさん…………」



ネアがそう呟いた直後、エーデリアの花の気球は、承認を得たとでも思ってしまったのか、ぎゅわんと光の速さで飛行を始めた。



「みぎゃ!!」

「ネア、落ち着いて、落ちないからね」

「のんびりたのしいききゅうあそびが、い、いのちがけののりものにかわりました!!!」



恐らく体感速度からすると、竜などより余程危険な乗り物だったに違いない。

これでもネアは、シュタルトのブランコや、岩塩坑の滑り台も楽しんできた。

だがしかし、それは安全を確保した上で誰かが作った乗り物や施設だからで、お尻を預けているのが生き物となってくると話が違ってくる。



おまけにこれは、精霊のようなものだと言うではないか。



「ぎゃむふ!!!!」

「ネアが沢山動いてる………。可愛い…………」


ばびゅんばびゅんと、星の森の上を縦横無尽に飛び回る気球であったが、なぜかディノは平気だったようだ。


なぜこんな事になったのだろうと、籠に取り付けられた持ち手をしっかりと掴んだまま風になっているネアは、時間いっぱいまで荒ぶる気球の乗り心地を堪能させられてしまい、よれよれになって解放された。



「ネアが可愛かった…………あんなに掴まってくるなんて…………」

「よ、よろこんでいただけたようで、…………よかったでふ…………」



儚い乙女の膝はがくがくだが、今日の主賓が目元を染めて嬉しそうにしているので、涙を呑んで良しとしよう。


ネアは、ディノのお誕生日飛行でなければ、あんな気球めは躾け直してやると思いながら、今度は伴侶を乗り物にして気球乗り場を後にした。

生まれて初めて使う、地面に戻れて良かったという感動を噛み締めつつ、簡素な粉挽き小屋を出て帰路に就く。


あの乱気流飛行の後で昼食を食べられるだろうかと、己の繊細な心を案じたが、幸いにも、悲鳴を上げたりしていたのでお腹は空いてきたようだ。



「ディノは、先程の飛行状況でも、落ち着いていましたね…………」

「うん。ずっと昔に、ヨシュアによく似た物に乗せられた事があったからね。その時のようにひっくり返ったりはしなかったので、あのくらいであれば大丈夫かな」

「は、背面飛行をされたら心が死んでしまいまふ…………」



リーエンベルクに戻ると、なぜかよれよれになっているネアに、エーダリアは驚いたようだが、エーデリアの花の気球は暴れん坊だと話すと目を輝かせていた。

ノア達の方を振り返っているので、いずれは誰かが同乗させられてしまうのかもしれない。


まだドリー達は来ていないと知ると、ネアはここで家族へのお土産を配ってしまい、大事そうに星の木の置物の入った木箱を抱き締めている魔物を連れて、その置物をディノの宝物部屋に置いてくる事にした。



(ヴェルリアの人達には、渡さないと決められた物だから…………)



その銀水晶の置物を、ヴェンツェルやドリーの前に飾っておくのは酷なことだろう。

また、ネアの一存で、お土産ならばとそんな銀水晶を渡してしまう訳にもいかない。

偶然にでも贔屓にでも、誰かが手にすれば、そこから私もという者が現れ、あれだけ素晴らしい銀水晶の森を守っている人々の努力が無駄になってしまうかもしれないではないか。


ディノは少しだけ離れ難そうにしていたが、また夜には取り出せると知って安心したのか、星の木の置物の入った箱を宝物部屋に戻し、会食堂に戻ってくる。


すると、丁度、ドリー達がこちらに着いたと一報が入った。



「ディノ、一人客人が増えてしまったのだが……………」

「もしかして、オフェトリウスかな……………」

「ああ。一報が入っていたのなら良かった」



ディノのお誕生日なので、エーダリアはお客が完全に予約なしの訪問ではなかったと知り、ほっとしたようだ。


だが、ディノ曰く、オフェトリウスからの連絡は、今年はウィーム側と連携を取る事が多かったので、ご挨拶にだけ伺わせていただきますというような言い方だったのだそうだ。

そんな言葉の響きだと、まるでちょっと顔を出すだけのようにも感じられるが、ドリー達と一緒に来てしまったのなら、卵揚げを食べてゆくつもりなのだろうか。



「個人的に、すぐに追い出してもいいかなって思うけど、今回第一王子に同行したってなると、王都でも内々に、オフェトリウスがウィーム寄りでもいいって判断になったのかなぁ。あの王なら、オフェトリウスの正体くらい知ってるだろうし…………」

「かもしれないな。案外、王都の事情に明るい者を、橋渡し役としてウィームに置こうという算段かもしれないぞ。……………何だ?」

「……………え、何でアルテアがもういるのさ」



呆然とした顔で振り返ったノアに、ネアは、こちらの選択の魔物は、昨晩の夜カフェの帰り道で遭遇したままリーエンベルクに付いて来てしまい、そのまま泊まったのだと説明する。


朝食の時に姿を見せなかったのは、元々、外部通信での商談があるので朝食は不要だという事だったからだ。

室内で手早く済ませてしまったらしい。




「朝食は、ネアの手作りのフレンチトーストだったんだけど、アルテアがそういうの断るのって、珍しいよね」

「……………は?」

「なぜこちらを見るのだ。朝食は、美味しいフレンチトーストですがいいのですねと聞いたではありませんか」



ネアは直後、なぜか顔を顰めた使い魔から頬っぺたを摘ままれるという暴行を受け、そんなところに到着してしまったドリーは、アルテアに頬っぺたを伸ばされているネアを見て目を丸くしている。




「……………喧嘩は良くない」

「放っておけ、こちらの問題だ」

「喧嘩ではないのですが、いじめられていまふ。おのれ、その手を離すのだ!!」

「いいか、二度と言葉足らずな説明はするなよ」

「わーお、懐いたなぁ……………」



少しだけおろおろしているドリーに対し、ヴェンツェルは面白がるようにこちらを見ると、ディノにお祝いを渡してくれている。

氷河の酒という言葉が聞こえてきたので、ネアは荒ぶる使い魔の手から逃れて、慌ててそちらに向かった。


残念ながらお祝いのやり取りは既に終わってしまっていたが、ネアが使い魔に頬っぺたを伸ばされている間は、ヒルドがディノに付いていてくれたらしい。

目元を染めた魔物は、氷河のお酒を貰ったと報告しつつ、またしてもネアの後ろに隠れてしまう。



「では、昼食にいたしましょうか」

「ヒルド、毎年世話になるな。今年は、オフェトリウスも来てしまって問題なかっただろうか……」



そう尋ねたドリーにくすりと笑い、背後に立っていた剣の魔物が、ネアが背中の後ろから引っ張り出した魔物に、胸に手を当てて優雅にお辞儀をする。

高位の魔物同士で、守護や祝福に相当する祝いの言葉を安易に贈り合う事はないが、オフェトリウスはそのお辞儀だけで見事にお祝いの気持ちを示してみせた。


その辺りの巧みさはやはり、王都でそれなりの役職に就いている者らしい。

また、向けられたエーダリアの視線に気付き、輝くような華やかさで淡く微笑む姿は凛々しくも魅力的で、多くの女性達に人気のある人物である事が頷ける。



「ご安心を、僕はすぐに帰りますよ。シルハーンにご挨拶をと思っただけですから。…………ヒルド、そう訝しげにこちらを見ないでくれ」

「おや、いけませんでしたか。最近は随分と積極的にこちらに来られているようですからね」

「はは、先日の訪問申請は、仮にも騎士団にも籍を置く者が粗相をしたからだよ。今の直属の上司がしっかり躾けてくれたようだけれど、僕の方でも他に問題を起こしていないか調べておかないとね」

「……む?」



ここで、ふわりと頭の上に手を載せられ、ネアは眉を寄せる。

青緑の瞳を細めてこちらを見たオフェトリウスが、あの男が君に迷惑をかける事は二度とないよと微笑んだので、こくりと頷いておいた。



「ふざけるな、その手をさっさとどけろ」

「はは、これは狭量だなぁ。…………ではシルハーン、僕はこれで失礼いたします。このような日にご挨拶する事を許していただきました事、感謝いたします」



そのお礼にとオフェトリウスが置いていったのは、年代物の魔物の蜂蜜酒であった。

魔物達だけでなく、そんなお酒を探させていたというヴェンツェルが目を丸くしてしまうくらいに、珍しい物であるらしい。


あくまでも訪問の対価としての贈り物なので、余分な魔術は紐付かない。

魔物としての名前で来てしまっていたが、この辺りは、王都の騎士としての立場を考慮しているのだろう。



「凄いお酒なのです?」

「…………勝利の祝福を授けられた物だからね。一部の蜂蜜酒には、その黄金の色から、戦勝の祝福が宿る事がある。これは、そのようなものだ。今は飲まず、必要な時の為に残しておいた方が良いかな」

「そうしておいた方がいいだろうな。いつか、こいつに必要になるぞ」

「…………なぜ私を見るのでしょう。解せぬ」



ネアはこちらを見たアルテアにぎりりと眉を寄せたが、そこで、全員が席に着いたのでと、お昼のお祝いが始まった。

オフェトリウスは、予め先の退出を伝えてリーエンベルクの騎士を一人同行させていたので、そうして同行してくれていたアメリアに案内され、そのまま帰路に就いている。




「ふふ、卵揚げがありますよ」

「……………うん」



テーブルの上には真っ白なウィームの雪陶器の花瓶が並び、ふんだんに花が飾られている。

昨晩のディノの大喜びで結晶化したばかりの薄紫色のライラックと白薔薇の組み合わせは、柔らかく繊細な美しさだ。


リーエンベルクで良く使われる、絵付けではなく凹凸のある模様で花輪のようにお皿の縁を飾った白いお皿の真ん中には、ディノの好物の一つである卵揚げが鎮座している。

ほかほかと湯気を上げるこの揚げ物は、細やかな衣をつけて揚げたとろとろ半熟卵で、卵そのものにも味がついているのでそのまま食べても美味しい。


添えられたのはトマトの酢漬けや、魚卵の燻製のような濃厚な味わいがある金鴉のコンソメジュレを載せた、小さなグラス入りの秋野菜のムース。


ちびタルトのようで可愛らしいのは、きゅっと絞ったマッシュポテトの中にとろとろチーズの入った一品で、かりりとした雪菓子が砕いて振りかけられている。

これは、手で取り、ひょいとお口に入れられる仕様になっていた。



「…………鴨様」

「ネアは、鴨が好きなんだな。俺とヴェンツェルも好物なんだ」

「まぁ、お揃いですね。実は、このお料理はディノも大好物なのです」

「お揃いなのは、ネアだけでいいかな………」

「あら、美味しい物はみんなでいただいてこそなのですよ?」

「ご主人様………」

「ふむふむ、では早速…………あぐ!」



皮目をこんがりと焼いた鴨にはネアも心が蕩けてしまい、そんなご主人様を見たディノも目元を染めている。

これは、ネアの大好物としてリーエンベルクでも良く出てくる料理の中で、ディノがとても気に入っていたものの一つだ。


塩と香草だけでシンプルに焼いたものだが、その際に葡萄の茎と一緒にグリルする事で、アーモンドのような素晴らしい香りが鴨に移る。

皮の塩味がくっきりとしたアクセントになり、甘酸っぱい森黒スグリのソースと合わせていただく。


美味しい鴨の脂と香ばしい香り。

塩味と、そこに添えた果実のソースの奥深い甘酸っぱさ。

これ以上の幸せがあるだろうかと、ネアは、自分のお皿の上の鴨をあっという間に半分にしてしまう。


勿論、鶏皮大好きっ子なエーダリアもこの食べ方を気に入っており、密かに目を輝かせてヴェンツェルにじっと見られていた。



「あぐ!」

「………美味しい」

「ふふ、このお料理は、ディノもお気に入りですものね」

「僕も好きだよ。………はぁ、シュプリに合うよね。因みにこれは、シュタルトの湖水メゾンと並ぶ、新しいメゾンのものなんだ。ここは花の香りを移したシュプリが特徴なんだけど、香ばしさのある料理にぴったりだと思わないかい?」

「むむ!これは合いますね」

「……………美味しい」

「そしてディノは、お気に入りの卵揚げを堪能しています」



さくとろの卵揚げには、リーエンベルク特製のタルタルソースと、燻製鮭とマスタードに、フェンネルとケッパーのタルタル風ソースという新しいソースが添えられていた。

どちらも堪らなく美味しくて、ネアは、ご新規のソースもお気に召したらしい伴侶の幸せそうな姿を更なるおかずとし、至福の思いに頬を緩める。


本来なら鮭のタルタルは主役でもいい料理なのだが、敢えてソースとして使う事で、卵揚げを更なる高みに押し上げる一工夫であった。



「ネア…………?」

「私の大事な魔物のお誕生日は、もう四回目なのですね。これからもずっとずっと大切にするので、また来年も、私と一緒に卵揚げを食べて下さいね」

「……………ずるい」

「ありゃ、シルが死んだぞ…………」

「やれやれだな…………」

「なんと儚いのだ…………」




両手で顔を覆ってしまった主賓に王都からのお客様は驚いていたが、微笑んで見ているエーダリアとヒルドを見て気を取り直したようだ。


そんな風に和やかな昼食の時間が続けば、また新しいお酒の瓶のコルクが抜かれてしまうのも致し方ない。


きゅぽんと響いた気持ちのいい音に、ネアは、使い魔のお皿に残っている鴨を凝視したのであった。






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