170. 誕生日はその香りで始めます(本編)
今年の、ディノの誕生日前夜は、とんでもない荒れ模様から始まった。
「ネアが浮気した」
「お、おのれ、通りすがりの旅鼠蝶に、素敵な毛皮ですねと話しかけただけではないですか!」
「浮気………」
「おまけにあやつは、どこに鼠や蝶の要素があるのか分からない、旅する細長手帳でしたので、せめて素敵な毛皮ですねと言うしかなかったのです」
「あんな毛皮を褒めるなんて………」
「むぅ、これはもう、分かりやすいくらいに拗ねていますねぇ………」
「気を付けてと言うなんて………」
「私の大事な魔物に、べしんとぶつかったので、これは私の宝物なのでぶつかってはならぬという意味だったのですよ?」
「……………可愛い」
「ふむ。落ち着きましたね」
実は先程まで、ネアは伴侶と一緒にお誕生日前夜を楽しむべく、ウィームの街で夜カフェなどを楽しんでいたのだ。
その帰り道で前方不注意でディノにぶつかった謎生物は、帽子を取って紳士的な謝罪をしてくれつつ、ネアの装いを褒めてくれたので、つられたネアも社交辞令で毛皮を褒めてしまった。
その結果こちらの魔物は、浮気だと思い荒ぶっているのである。
だが、今回の事はネアにも言い分がある。
あまりにも謎な生き物の姿に、たいへん混乱していたという事もあるので、本当は大目に見て欲しかった。
(……………細長手帳が、シルクハットをかぶってちびこい革のトランクを持っていたのだもの………)
だがネアは、巣の中に引き篭もってめそめそしている伴侶に、あんな毛皮手帳には興味ないと心にもない説得を繰り返した。
実際には、なぜ細長手帳が旅をしているのかがとても知りたかったし、どうして鼠で蝶なのかを、すぐにでも誰かに教えてほしい。
それはとても切実な疑問だったが、大切な伴侶はこれから一年に一度のお誕生日を控えているのだ。
この謎がもう二度と解けないまま残るのだとしても、伴侶の心の平安の為にはそのまま放置するしかない。
「……………浮気はしないのかな」
「ディノ、一つだけ私の新しい秘密を教えてあげますね」
「秘密、………なのかい?」
「ええ。私は、とても身勝手な人間なので、本来は、自分以外の誰かの機嫌を取るのは御免なのです」
「うん…………」
「あらあら、しょぼくれてしまいましたが、それなのにディノだけは別なのですよ?」
「ご主人様…………」
「それが、私の最近の秘密なのです。こんなに身勝手で面倒臭がりな私が、なぜかディノの事は、比較的出会ってすぐの頃から無性に大事にしたくなっていました。今だってしょんぼりのディノと早く一緒にお誕生日を楽しみたいなと思っているのです。となるともう、やはり伴侶になるだけはある特別な特別な魔物だったのだなと………まぁ、死んでしまうのです?」
「……………ネアが、凄い懐いてた……………」
「なんと儚いのだ」
「…………特別だって、二回も言ってくれた」
「そこなのですね…………」
真珠色の髪の毛をくしゃくしゃにした美しい魔物は、巣の中できゅっと丸まってしまい、目元を染めてじたばたしている。
ネアは、伴侶になってから四度目の誕生日前夜なのに、特別なという言葉を重ねただけできゃっとなってしまう魔物を、巣の中に手を差し込んでそっと撫でてやる。
撫でれば撫でる程に魔物は弱ってしまうが、ご主人様にだって伴侶を甘やかしたい夜があるのだ。
宝石を紡いだような艶々さらりとした長い髪には優美な曲線がついていて、この手触りがまた素晴らしい。
余談だが、宝石を紡いだような髪質なのだが、とは言えぎらぎら光らないこの髪の毛は、けぶるような柔らかな光を宿す。
ネアは、そんな美しい魔物の髪の毛を見ているだけでもう、とても幸せなのだった。
「ディノ、巣から少しだけ顔を出してくれませんか?」
「…………ネア?」
「もうすぐ、ディノのお誕生日になりますよ?」
「…………うん。君を、捕まえた日だね」
「少しぞわっとしたので、私と出会った日だと言い換えましょうか」
「君を見付けたのは、もっと前だったけれど、それでもいいのかい?」
「はい。実際に顔を合わせてお喋りした日こそ、私がディノと出会った日なのです」
カーテンを開けた窓の向こうで、青くふくよかな夜が美しい光を帯びる。
夏至祭の夜程ではないが、禁足地の森が少しばかり賑やかなのは、祝福が満ちる、このウィームに暮らす万象の魔物の慶事を待っているからだろうか。
ネアは、この世界に来たばかりの頃は、美しくも恐ろしい森だったその景色の向こうを、いつの間にか目を閉じるだけでも思い描けるようになっていた事に驚く。
あの森の中に、ポケットに入っていた手鏡を握り締めて向かった夜は、孤独で焦燥感に脅かされていたけれど、生まれ育った世界で沈み込んでいた閉塞感のようなものはなかった。
(…………それは、初めて見るような、美しい夜の森だった)
あちこちに妖精の光が揺れ、花蜜がぼうっと青白く燃える初秋の森には、ネアが見知ったような茶色や黄色、橙色や黄色がかった赤色はない。
それは、土地の系譜的に黄色や橙色のものがあまり自生しないウィームの土地柄だからこそなのだが、そのせいで夜の森は、いっそうに不可思議な絵画のように見えた。
気の早い落ち葉と下草を踏み、秋告げの舞踏会の前でも、この季節にはもうひんやりとする夜の森の中で歌乞いの儀式をしたあの日。
この魔物はまだ、髪の毛を三つ編みにしていなかったし、お気に入りのリボンも持っていなかった。
美味しいと思う食べ物も知らず、毛布に触れる温かさや、誕生日を祝われる事も知らなかったが、それでも嬉しそうに瞳をきらきらさせて、こちらを見ていた。
そんな、美しく恐ろしく、一人ぼっちだったネアの大事な魔物に出会った日。
「あの日は、綺麗な綺麗な夜でしたね。とは言えきっと、ただのいつもと同じウィームの夜だった筈なのです。それでも私には、なんて美しく不思議な世界なのだろうと、見る物全てが驚きや感動に満ち溢れていました。………あの頃はまだ、今のように喜びに弾んだり、リズモを追いまわしたりする事を知りませんでしたが、何だか分からない綺麗な物を、根こそぎ拾い集めてポケットに入れたいような、弾むような思いだったのですよ」
「…………君は、少しだけ腹を立てていたね」
「ふふ。あの頃はまだ、エーダリア様が抱えているものを知りませんでしたし、北の離宮と呼ばれるリーエンベルクには、もっと大勢の騎士さんや侍女さんがいるべきだと思っていましたから」
ネアの言葉にこくりと頷いたディノも、その頃はきっと、なぜネアがむしゃくしゃしているのかの、本当のところ迄は理解出来なかっただろう。
ネアはこの世界の殆どの事に無知だったし、ディノはまだ、心の動かし方や共感の作法に慣れていなかった。
「この部屋に帰ってきた君は、やはり誰もいないと寂しそうにしていたね………」
「まぁ、懐かしいですねぇ。………あの時は、何も知らないからこそ、理不尽に軽視されているような寂しさを感じてしまっていたのです。けれど、あの方達はただ、可動域もさして高くなさそうな私が、一人で部屋を抜け出して森に入れるとは思っていなかっただけなのでしょう。現に、ディノの気配に気付けば、すぐにグラストさんとゼノに、おまけに領主様なエーダリア様迄もが駆け付けてくれましたものね」
今思えば、エーダリアはあの時、騎士の誰かに任せずに自ら駆け付けてくれた。
最初から彼は優しい上司だったのに、心がかちこちだったネアがその事に気付く迄には、随分と時間がかかってしまった。
とは言えエーダリアもまだ、少しだけつんつんとこちらを警戒していた頃だ。
「あの日、君がここから誰にも気付かれずに外に出られたのは、君が好きな事を出来るようにある程度の目隠しはかけておいたからだろう。けれども、確かにリーエンベルクはまだ、あちこちの守護が足りていなかった」
「なぬ…………。ディノは、その間ずっと傍に居てくれたのです?」
ネアがそう問いかけると、なぜか魔物は少しだけ困惑したように視線を彷徨わせ、悲し気に項垂れてしまう。
毛布の巣の中でそれをされても、真珠色の長い髪が光を孕むので表情は見えるのだが、もうすぐお誕生日なので元気を出して欲しい。
「…………ディノ?」
「もっと早く、君を安心させてあげれば良かった」
「…………まぁ。でも、その時のディノには、そういう事が分からなかったのでしょう?」
「うん………。でも君は、寂しかったり怖かったりしたのだろう?」
「そうではないとは言いません。ですが、あの時に寄る辺なさや無力感を味わっておかなければ、頑固な私は、ディノの手を取らなかったかもしれませんよ?」
「…………ネアが虐待する」
「それもまた、向かう事のなかった私の人生の分岐点なのですね。ですが、そんなもしもはたいへん不愉快なので、くしゃぼろにしてぽいです。私には絶対にこの家族が必要ですし、あの夜にディノに出会い、ディノが私の契約の魔物になってくれなければならなかったのですから」
ネアが厳かにそう宣言すると、万象を司る魔物の王は、胸を押さえて儚く倒れてしまった。
ぽすんと毛布の巣の中に転がり動かなくなった魔物の代わりに、窓の外の夜空には見事なオーロラがかかっている。
近年では、この潤沢で稀有な祝福目当てに、ウィームの人々は、ディノの誕生日の前夜には夜更かしをするようになったらしい。
だからこそ、今夜は夜遅くまでカフェが開いていて、ネア達はそれを楽しめたのだ。
ウィームの人々は今夜、魔術書や魔術具を外に出したテーブルに並べて祝福を宿したり、この夜に咲いた花から貰った新鮮な花蜜でお茶を飲んだりもするのだという。
一番大賑わいなのは魔術学院で、生徒たちを総動員して、様々な書物や薬品、道具などを祝福に触れさせるのだとか。
であれば職人街でもそんな感じなのかなと思ったネアはふと、その場を離れて、香水などを収めている棚に懐かしい宝物を取りに向かった。
「…………ネアが逃げた」
「あら、追いかけてきてくれたのですか?もうすぐ日付の変わる時間なので、もう巣には帰しませんよ!」
「…………ネアが、…………可愛い」
「むむぅ、なぜに片言なのだ。ささ、今はまだ、死んでしまわないで下さいね」
「何かを探しているのかい?」
「ふふ。こちら側の引き出しの中にある、私の宝物なのです」
この夜結晶の棚には、買った物や拾い集めた物、貰い物などの様々な物の中から、クリームや香水や、香り付きのカードや付箋などの香りのある物を収めてある。
ディノに、リーエンベルクの紅茶部屋の固有魔術を真似て、大切な香りが劣化しないようにと特別な状態保存の魔術をかけて貰い、少しずつ中身を増やしている。
そんな棚の上段にある硝子戸ではなく、お目当ての抽斗からネアが取り出したしっとりざらりとした上質な紙の小箱は、角が少しだけへしゃげていた。
「これです!」
初めて過ごすウィームの冬に、郵便でリーエンベルクに届けられたこの箱の中には、ネアが今でも大事にしている香水の小瓶が入っている。
足繁く工房に通い、幾度となく話し合いや調整を重ねて作られたその香りは、後にも先にも、ネアがディノを思い描いて作った唯一の香りである。
二度と再現出来ない物だと考えているので、使い過ぎないように、普段は抽斗の方にしまい込んであった。
「…………ああ、調香の魔物が作ったものだね」
「ええ。ディノに贈るイブメリアカードの、飾り木の星の部分の香りをお願いし、同じ香りをこうして私の分も香水にして貰いました。…………これは、あの方の最後の仕事の一つでしたから、二度と再現できないであろう香りを残すべく香水もとお願いしていたのですが、なぜか今夜は、このお気に入りの香りをくんくんしたくなったのです」
「君が、………カードをくれたんだ」
そう呟いたディノの水紺色の瞳は、星を浮かべた湖のようにきらきらしている。
ネアからの贈り物はどれも大事にしてくれているし、一緒に出掛けた先で貰ったチケットや、贈り物の包装紙までをせっせと溜め込む魔物だが、そんなディノにとっても特別な品物はあるらしく、初期の頃の贈り物はその並びにあたる。
ネアは、ディノが、時折あのカードを開いて指先で触れたカードが奏でるオルゴールの音を聞いているのを知っているし、もそもそと寝台に入ってくるディノから、あのカードに忍ばせた香りが漂う事もある。
それは、ネアにとっての魔物の指輪や、首飾りの大切さで、何でもない日に真珠の首飾りの小箱を開けて、美しい真珠を眺めてにんまりしているのと同じこと。
そして、ネアの仕事用の手帳にひっそり挟まれている、初めて訪れたイブメリアの夜の歌劇場のチケットのようなものなのだろう。
慎重に小瓶を取り出し、少し考えてから手首にしゅわんと吹きかけた香水は、今も変わらぬ素晴らしい香りを漂わせた。
檸檬のような香りの香木に、夜の系譜の青い林檎の香り。
静謐な森を思わせる僅かな夜霧の香りと、ほんの少しだけ、イブメリアの祝祭の気配を感じる、微かな瑞々しい薔薇の香りと他の何か。
その清しい果実の香りが主軸となる素晴らしい香りが、大切な伴侶の誕生日を控えて昂る胸をそっと満たしてくれる。
ネアは大事な伴侶を見上げて微笑み、ちらりと時計を一瞥すると、真夜中の鐘の音が鳴り響くよりも先に、えいっと伸び上がって伴侶の唇に口付けした。
「まぁ、死んでしまいました…………」
「ネアが…………虐待した」
「ディノ、お誕生日おめでとうございます。今年もこれからもずっと、仲良くして下さいね」
「…………ずっと」
「ええ。私はもう、問題が起こるまではずっとディノの傍に居るのだと決めましたので、ここで贅沢に、ずっとという言葉を乱用してしまいます」
「…………ずっと、…………君が」
そう呟き、ディノはなぜかおろおろすると、既に何度か聞いた事がある言葉の筈なのに、ふにゃりと幸せそうに微笑んだ。
絨毯には真珠色の鉱石の花が咲いてしまっているし、何なら、庭園から禁足地の森の方まで、今は季節ではない筈の花までもが満開になってしまったが、ネアは嬉しそうにしている魔物を撫でる方を優先した。
(だって、ディノのお誕生日なのだもの!)
それはきっと、願い事が叶う日。
そして、今迄は得られなかったとしても、これからはずっと誰よりも幸福であるべき日なのだ。
だからこそ、大事な魔物には、こんな風に目をきらきらさせていて欲しい。
「…………む」
「誕生日は、何度でもして貰えるのだろう?」
「ふふ。特別ですよ?私は伴侶が大好きなので、お誕生日になると、特別に沢山の祝福を贈りたくなってしまうのです」
そろりと向けられた頬に口付けを落とし、きゃっとなった魔物が、一度、巣の方まで逃げていってしまうのを静観する。
もう伴侶になったのだし、その先の作法にはより難易度が高いものもある筈なのだが、どうしてだかディノは、未だにこういう事に慣れないのだ。
すぐによろよろしながら戻ってきて、いつかの贈り物のカードと同じ香りを纏ったネアに、ずるいと目元を染めている。
「あのカードと同じ香りがする………」
「お誕生日なので、もう一度してしまいます?」
「…………大胆過ぎる」
「まぁ、大事な伴侶なので、何度だってお祝いしたくなってしまうのですよ?」
「ネア、…………有難う」
「…………む」
ここで、嬉しそうにお礼を言った魔物にひょいと持ち上げられ、ネアは、ひたりと滲み落ちるような男性的な色香に、はっと目を瞠る。
これはまさかとじたばたすると、沢山動いて可愛いねと、目を細めて愛おし気に微笑んだ魔物から、そっと口付けが落とされた。
その先はもう、にゃむなる儀式が待ち受けるばかりだったので、ネアは、真珠色の髪の毛をぎゅっと掴んだりするしかなかった。
(きらきらと、……………どこまでも、どこまでも)
美しい夜の光に、ダイヤモンドダストのような、祝福の煌めきが落ちる。
真珠色のヴェールに閉ざされ、その中で触れるのは胸が痛くなる程に大切なたった一つのもの。
やがて、窓から夜空のオーロラを楽しんだり、きらきらとあちこちに咲いた結晶石の花を愛でる間もなく、ネアはこてんと眠ってしまい、目が覚めるともう、伴侶のお誕生日の朝になっていた。
「…………は!」
「おはよう、ネア」
「…………にゃむって、…………むぐ、眠ってしまいました。もう朝なのです?」
ぱちりと目を開くと、口元をむずむずさせた魔物が頬を擦り寄せてくるので、その頬にまた口付けてやる。
今日は大事な日なので、そのままぱたりと寝台に倒れた魔物が目を覚ます迄の間にと素早く顔を洗ってしまい、窓の向こうの庭に深く立ち籠めた霧が、今も尚美しい虹色を宿している様子に、ふぁっと目を輝かせる。
夜の中で輝く様は見逃してしまったが、幸いにも、庭木に咲いた鉱石の花はそのままだ。
そんな鉱石の花や、いつもよりも瑞々しく咲き誇る花々が、霧の中でゆらりと複雑な光を宿した虹にきらきらと光る様に、ネアは暫し、うっとりと見惚れてしまう。
あの美しい夜を堪能し切れずにいた事を勿体なく思ったが、ここで取り戻しておけそうだ。
(…………ああ、この色がいいのだわ。空は、天鵞絨のような上等な灰色の雲に覆われていて、その隙間から差し込む夜明けの光に、霧が立ち篭めた禁足地の森の組み合わせが例えようもなく美しくて。夜明けの内から強い光で鮮やかに輝く木々の葉影も素敵だけれど、私はやっぱり、このウィームの景色が一番好きだな………)
まだ秋告げの舞踏会になっておらず、夏の系譜の名残があるとはいえ、ウィームの秋は早い。
最近、ほんの少しだけ変わってきた森の色や空の色に、ネアは、ぱりぱりと落ち葉を踏んで歩く森や、ほこほこと湯気を立てるメランジェ、きらきらぴかぴかと輝く飾り木の立ち並ぶ、物語のように美しいウィームのこれからの季節を思った。
決して感傷的になるような場面ではない筈なのだが、からからと音を立てて回る万華鏡のように、胸の中に様々な思いや記憶が投影される。
幸せなばかりなのに、その安堵に胸がいっぱいになると、なぜだか目の奥が少しだけ熱くなった。
その内にディノが息を吹き返し、ネアは、お誕生日の魔物の髪を梳かして、今日は絶対にこれだと言い張る最初のリボンの一つを真珠色の髪に添える。
「今日は、ラベンダー色のリボンなのですね」
「君が最初にくれたものだし、君からはまだ、仄かにあのカードの香りがするからね」
「一年目の思い出の品で、お揃いですね」
「…………うん」
ふくふくとした天鵞絨のリボンは、今も尚、しっとりとした手触りが素晴らしい現役の品だ。
状態保存の魔術をかけ、きっとこの先もずっと二人の宝物であるリボンが結ばれた三つ編みに口付けを落とすと、ふるふるしているディノから、あまりにも虐待が続くと弱々しく抗議が届く。
くすりと微笑んだネアは、すっかりへなへなの魔物を連れて、家族の待っている会食堂に向かった。
しかし、会食堂で待っていたエーダリアの顔を見て、ネアは目を瞠ってしまう。
エーダリアはしゃんとしているつもりのようだが、これはもう明らかに、徹夜をした人の目ではないか。
「まぁ、エーダリア様のお顔が…………」
「い、いや、…………昨晩は、ついな。…………ディノ、誕生日おめでとう」
「有難う」
「おめでとう、シル!エーダリアは、中庭の薔薇が宿した祝福結晶を採取するのに、夜明け近くまでかかったんだよね」
「あなたも付き合うからですよ。おめでとうございます、ディノ様」
「有難う。…………ネア、」
「ふふ、まだ少しだけ慣れなくて、そわそわしてしまうのですね?」
「ご主人様………」
お礼を言うまではスマートなのだが、言い終えるとぴゃっとなってしまう魔物に背中の後ろに隠れられながら、ネアも朝食の席に着く。
テーブルの上に置かれたお皿に鎮座しているのは、ディノの楽しみにしていたフレンチトーストだ。
そろりと自分の席に座り、目をきらきらさせてお皿の上を見ている魔物に、ヒルドが優しい微笑みを浮かべている。
「ああ、グラスト達も間に合ったようですね」
「わぁ、ネアのフレンチトーストだ」
「おめでとうございます、ディノ殿」
「有難う………」
そこに、遅れて到着したグラストとゼノーシュも席に着き、まずは、お誕生日の朝食から始まる。
ディノの好物ばかりを選ぶ為に、メニューはもう定番のものになりつつあるが、そんないつもの形が定まるのも、何だか嬉しい。
「ネアの手作り………」
「ふふ。今年は、アルバンの雪花牛さんの牛乳を使いましたので、より美味しくなっていますよ。厨房の料理人さんから、フレンチトーストにぴったりの牛乳だと教えて貰ったのです」
給仕妖精が持って来てくれたグヤーシュは、ほんわり開いたばかりのカップ咲きの白薔薇のような形状の、スープボウルに注がれている。
スープボウルの縁の微かな曲線が、繊細な花びらのような艶やかさで何とも美しい。
勿論ディノのグヤーシュには、生クリームでお誕生日のメッセージが入っている。
この演出が毎年秀逸で、今年はなんと、リボンで囲まれたリースの中にそのメッセージが描かれていた。
「…………リボン」
「まぁ、なんて可愛いのでしょう!リボンの額縁ですね」
「…………リボンなのに…………崩してしまうのかな………」
「ですが、グヤーシュは、美味しく飲んでこそですからね?」
「………うん」
すっかりそのメッセージが気に入ってしまった魔物は、スプーンを持ったまま悲し気にしていたが、やがて意を決したように飲み始め、またその美味しさにくしゃりとなる。
そんな様子を部屋の隅で見届け、満足気に戻ってゆく給仕妖精は、毎年、このディノの反応を楽しみにしているらしい。
はっとする程に美しい魔物が、大事に大事にお祝いのメッセージの描かれたグヤーシュを飲む姿は、胸がほんわりするような微笑ましさなのだ。
フレンチトーストには、林檎のような香りのする、たっぷりのニワトコ生クリームと、杏のジャムを添えて。
お食事フレンチトーストにする為に、かりりと焼いた林檎と雪菓子の燻製ベーコンに、野菜やチーズの彩りが華やかな薄切りのボロニアソーセージ。
更には、茹で上げたばかりで肉汁がじゅわっと美味しいソーセージは、マスタードを添えて食べるのがいいだろう。
酸味の効いたさっぱりドレッシングのサラダには、キッシュが薄めに切られて添えられており、酢漬けのトマトの彩りも鮮やかだ。
ジャガイモとチーズとアスパラのキッシュは、サラダに温かな物を添えて楽しむウィーム流サラダの新しい挑戦なのかもしれない。
ぱらりとかけられているのは、砕いた木の実と細かく刻んだ干し葡萄だろうか。
干し葡萄の仄かな甘みが、酸味の効いたさっぱりドレッシングに良く合い、ネアは、この葉っぱだけでもずっと食べられるぞという美味しさの不思議に目を瞠る。
「ネアの手料理…………」
「うん。こりゃ美味しいや。スコーンも美味しかったけど、フレンチトーストもいいよね」
「僕ね、このジャムとの組み合わせ大好き!」
「ゼノにも喜んで貰えて良かったです。………ディノ?」
「…………減ってしまうのだね」
「あら、食べたお料理が減ってゆくのは世の理なのですよ。また何度でも作るので、今日は、お口に入れてあげて下さいね」
「ずっと、…………かい?」
「ええ。ずっと作りますからね」
「ご主人様!」
「…………またそちらに行くのはなぜなのだ」
みんなからお祝いの言葉を貰ってからずっと、嬉しそうに目元を染めているディノはこくりと頷き、おずおずと、また一口、フレンチトーストを口に入れる。
幸せそうにふしゅんと頬を緩める魔物の姿を見ているだけで、ネアは、今日はなんて幸せな日だろうと思ってしまった。
「シル、今日は、どこに行くんだい?」
「シュタルトにある、星の木の森なのだそうだ。ネアが、予約を入れてくれたからね」
「今年のお誕生日チケットは、シュタルトの観光気球に乗る事にしました。ある鉱山の、星の森の中を飛ぶのだとか」
「ああ、あの森は一度見ておくといい。銀水晶中に眠る星の記憶を映すのだが、星雲の中のような星々の煌めきが圧巻なのだ」
「エーダリア様は、確か、視察の際に少しだけ乗った事があるのですよね。グレアムさんに教えて貰ったのですが、オフェトリウスさんもおすすめの乗り物なのだとか」
「ありゃ、何でだろう。そこでオフェトリウスの名前が出てくると、素直な気持ちになれないんだけど…………」
「シュタルトなので、ノアも知っています?」
「うん。気球に乗った事はないけど、あの星の森では、質のいい流星銀水晶が採取出来るんだ」
そう教えてくれたノアに、檸檬色の瞳をきらんと輝かせたゼノーシュが、耳寄りな情報を教えてくれる。
「あのね、僕もグラストとあの気球に乗ったの。気球乗り場で、その日に乗った気球の絵と日付を入れた、銀水晶のチケット風の記念品を作ってくれるんだよ。僕の宝物なんだ」
「まぁ、それは知りませんでした!これはもう、絶対に注文しなければいけませんね」
拳を握ってそう宣言したネアに、ディノもきりりと頷いた。
口元をむずむずさせているので、早くもそのカードの到着を心待ちにしているのだろう。
受注生産の細工物なので、十日程で送られてくると聞けば、そんな時差式の誕生日の贈り物も素敵ではないか。
(お昼には、ドリーさん達が来てくれて、夕方にはイーザさんとヨシュアさんも来てくれる)
今年もカードバトルが予定されているので、ヨシュア達は夕方からの訪問に切り替えたようだ。
ヒルドから、イーザが、他にもお客があるのであまり長く滞在し過ぎてもと気を遣ってくれたのだと聞けば、そうしてディノの事を考えてくれている様子に、何だか嬉しくなってしまう。
勿論、ウィリアムとアルテアに、グレアムとギードも来てくれる予定なので、夜は賑やかな時間になるだろう。
ディノの誕生日は、まだまだ始まったばかりなのだ。
「まずは、シュタルトの気球でお誕生日気分を高めましょうね」
「普通のチケットも、貰えるのかな………」
「そちらも、持ち帰れるのだそうですよ。楽しみですね」
「うん」
ネアはここで、ちらりとノアの方を見た。
微笑んで頷いてくれたノアには、シュタルトの湖水メゾンの入り口にある聖堂の壁画の、脱走小熊情報を調べて貰っている。
あの小熊が星の森の中に逃げ込み、気球が飛ばせなくなった日があると聞いてから、ネア達は小熊の動向を欠かさずチェックしてきたのだ。
一昨日脱走して捕らえられたばかりであるので、きっと今日はまだ大丈夫だろう。
だが、万が一今日も脱走してしまった場合は、ノアが、星の森には近付かないようにしてくれるらしい。
ふんわりと膨らんだスカートは、気球に乗ると決めてから選んだ装いなので、この計画を邪魔するようならこちらにも相応の覚悟がある。
絶対に星の森には近付けまいと、ネアは鋭く目を細めた。
なお、せっかくのディノの誕生日なのにいつもネアのドレスを増やされていたので、今年は早々に、こちらの装いにするのだと宣言してそれを阻止しておいた。
図らずも、この世界に来たばかりの頃にディノがくれたドレスの一つなので、伴侶のリボンとお揃いの年代の物である。
ディノは、思い出のドレスを着てくれたのだと嬉しそうにしていた。
エーダリアは、昼食前まで仮眠を取るように叱られており、ノアは、アルテア達が来る前に銀狐姿の日課を済ませておくのだそうだ。
さてそろそろと伴侶の手を握ろうとしたネアは、さっと手の中に設置された三つ編みを儚い眼差しで見つめる。
手を繋ぐ方がいいのにと言いたかったが、価値観というのは人それぞれであるし、もじもじと恥じらう魔物から水紺色の瞳を向けられてしまえば、今日はどんな願い事も叶ってしまうお誕生日なのだ。
ネアは、これはもう諦めるしかないなと、ぎゅむっと三つ編みを掴んだのだった。
本日で、薬の魔物も四周年を迎えました!
ネア達の、そして魔物やその他の奇妙で困った生き物達の日々にお付き合いいただき、有難うございました。
これからも、薬の魔物の物語を宜しくお願いいたします!




