23. それはペットではありません(本編)
ピチチと鳥の鳴く声に、レイノはぱちりと目を覚ました。
いつものように朝食を食べに行こうとして起き上がり、まだ暗い部屋を見てここはどこだろうときょろきょろする。
「むぐ。ディ……………む?」
大切な誰かの名前を呼ぼうとして、レイノは小さく息を飲んだ。
意識が目覚めるのと同時に大切な名前は記憶の手のひらからさらりとこぼれ落ち、レイノはその優しい温もりに触れられなかったことが悔しくて、大切な誰かの名前を取り戻す前に覚醒したことを悔やんでじたばたした。
(誰だろう。ディで始まる名前…………?)
不思議な夢を見ていた気がする。
その夢の中でレイノは、見た事がないのになぜか懐かしい部屋に居て、その厨房ではしゅんしゅんとお湯が沸いていた。
レイノは、背後からへばりついてめそめそしている誰かを撫でてやり、あたたかなお茶を淹れて、フレンチトーストを焼いてあげるのだ。
(幸せな夢…………?)
それともそれは、レイノがあの門をくぐり抜けた時に失ってしまった大切なものなのだろうか。
こつこつとノックの音が響き、レイノはよろよろしながら扉に向かった。
思っていたよりもおかしな姿勢で眠っていたらしく、足が痺れていたのだ。
「おはようございますレイノ。……おっと」
慣れない場所なので慌ててしまい、扉を開けた勢いで前のめりに体が傾いてしまう。
足首を捻るかと思ってひやりとしたが、すかさずアンセルムが抱きとめてくれた。
「…………むぐ、ごめんなさい。膝がくしゃっとなりました」
「情熱的なおはようの挨拶かと思い、驚きましたよ」
「たいへんお騒がせしましたが、自らの意思では人様の腕の中には飛び込みません………」
「はは、レイノは相変わらず程よく冷たいですねぇ………」
アンセルムはそう笑っていたが、不本意ながら人様の腕の中に飛び込んでしまったレイノは、無様な己の膝を呪った。
どれだけ事故だと口にしても、場合によっては故意だと誤解されかねない状況ではないか。
望まないところで、余計なトラブルを引き寄せたかもしれないのだ。
「今日は朝のミサがあるので、早めに支度をしましょうね」
「ふぁい。………顔を洗ってきますね」
「朝食は軽いものにして、…………レイノ、夜寝る前にギモーブを食べましたか?」
「……………む。たべておりません」
「歯は磨いたようですが、ギモーブの粉が落ちたからか、………木苺かな。甘いお菓子の香りがしますよ」
「………………黙秘権を行使します」
ここでつんと澄ましてみせたレイノは、寝る前におやつなど食べていない風の気品を装い、顔を洗いに行った。
冷たい水で顔を洗うと、タオルで顔を拭いているレイノに、アンセルムがラベンダー水を差し出してくれる。
化粧水のようなものは持っていないので、昨晩慌てて作ってくれたらしい。
魔術を使ってさらりと作れると知り、レイノはそんな技術があるのなら、是非に魔術を習得したいと悲しい願いを抱いた。
(可動域の弱点だって、いつか克服してみせる。きっと、修行をしたり竜を倒したりすれば上がる筈だもの…………)
寝間着は支給されていたので、膝下までのパジャマのようなそれを着ていたが、肌触りは何の混じりけもない木綿のそれだ。
こわこわしないこともなかった寝間着は、早々にくしゃくしゃと揉み込んで柔らかくしたいと考えながら、レイノはアンセルムを部屋から追い出して手早く着替える。
(私はぱりっとパジャマよりも、柔らかい布地のパジャマが好きだわ…………)
またここでふと、ぱりっとしたパジャマを好んでいたのは誰だったろうと首を傾げた。
レイノの家族は皆、柔らかい寝間着を好んでいた筈なのだ。
「…………レイノ」
「はい!もう着替えましたので、すぐにそちらに行きますね」
「いえ、…………デュノル司教からの、使者が来ました。ミサの前に君と話をしておきたいということで、本日の朝食をご一緒にというご提案………というより、招聘ですね」
「…………デュノル司教様が…………」
思いがけない展開に目を瞠り、レイノは鏡の中の自分を見返した。
同じ色の瞳をしていた美しい人を思い出し、なぜか、ふつりと心が緩む。
手に持っていたブラシを置き、木製のハンガーにかけておいたローブを素早く羽織る。
かちゃりと扉を開けると、心配そうな顔をしたアンセルムが立っていた。
「ミサまでの時間は限られているからと、僕は、猊下から呼ばれているんです。どうやら、デュノル司教と猊下は、それぞれに時間を分け合うお話をされたようですね。………君一人でとのお話ではありますが、僕も同行しましょうか?」
「…………アンセルム神父は、リシャード枢機卿のところで、私がデュルノ……デュノル司教のところなのですね?」
「ええ。しかし、まだ二日目の朝ですからね、君一人を伺わせるのは難しいとお返事をする事も出来ますが………」
「…………いえ。これでも立派な大人ですので、一人でも問題ありません。お二方は後見人となって下さるのですから、それぞれお話をしておいた方がいい事情があるのでしょう。それに、司教様からはお話をしたいと昨日にも伺っていましたし」
レイノがそう言えば、アンセルムはふわりとレイノの頭に片手を乗せた。
「…………昨晩、君が部屋に入った後で僕は出かけたでしょう?」
「はい。デュノル司教様とお話をされてきたのですよね」
「ええ。デュノル司教とはこれからの事を話しました。…………聡明な方ではありますが、冷淡なところもおありになる。レイノには僕がいますから、あの方が無理を言われた場合も、怖がらなくていいですからね。君は勘が良さそうですから、不安に思った事は了承せずに僕と相談すると答えて構いません。その場合、僕からそう言われていると言っていいですからね」
まだ夜明け前の淡い藤色の光の中で、そう微笑んだアンセルムは、過保護な兄弟のようだ。
(けれども、私はまだこの人を信じるのかどうかを決めきれていない…………)
レイノとしては、アンセルムとデュノル司教の昨晩の話の内容を知りたかったが、特にその共有はないままに、頭を撫でられ、迎えに来てくれていた教会兵の下に送り出される。
本人が案じてみせるよりも、レイノを送り出すことに躊躇いはなさそうだ。
寧ろ、そちらにレイノを預けられることにほっとしている様子すらある気がする。
(…………と言うことは、デュノル司教と二人にすることを心配はしてくれてはいるけれど、何か他に、優先しなければいけないような心配事があるのかしら………)
こちらの世界には電話のようなものはなく、代わりに連絡事項などは、魔術の通信端末を介してやり取りされるようだ。
複数の連絡先を打ち込めるものではなく、予め登録した幾つかの連絡先にしか繋げないのだが、それを持っているということは、かなりのステータスでもあるらしい。
アンセルムの様子を見ていると、起こされてから、レイノが身支度を整えるまでの時間の内に、その魔術道具を通して何らかの連絡が入ったのだろう。
扉を開けて、廊下に繋がる階段の下まで送って貰い、そこで待っていたデュノル司教の衛兵の一人に引き渡されると、少しだけ捕まえられるような感じがして緊張したが、迎えてくれた兵士はとても礼儀正しかった。
「では、デュノル司教様のお部屋にご案内いたします」
「はい。どうぞ宜しくお願いいたします」
きりきりと螺子巻きのような規則正しさで一礼したデュノル司教付きの衛兵に、レイノは慌ててこちらの世界の挨拶を返した。
胸に片手を当てて軽く一礼するのが形式ばった正式な挨拶で、スカートの裾を摘んで優雅にお辞儀をするのが、親しげに話しかけてくれるような人や、お世話になった人などへの挨拶になる。
元より、アンセルムから微笑みかけてくれるシスター達や、後見人になる司教には後者の挨拶で、廊下ですれ違う見知らぬ人達や、教会兵などには前者の挨拶をと教えて貰っていた。
(でも、猊下については、階位の差があり過ぎるから、胸に手を当ててのご挨拶になって、同じ迷い子の人に出会ったら、普通に頭を下げるだけのお辞儀でいい…………)
仕損じないように頭の中で教えられたことを繰り返し、これも教えられたように、教会兵の男性の後ろを三歩程下がってついてゆく。
これは、司教の護衛官としての役割が大きい専任衛兵の前に出てしまうと、護衛対象に危害を加える恐れありとして、排除されてしまうからだ。
夜明けの微かな光の差し込む外廊下を抜け、石造りの高い天井を見上げる聖堂の外周廊下を歩く。
この教区が春の終わりの季節を常に閉じ込めているにせよ、あまり太陽の光が差し込まない造りの屋内では、やはりこの時間は少しだけ肌寒く感じた。
ちらほらと、朝のミサの準備なのか聖衣を纏った聖職者達の姿があり、レイノは何度かすれ違って挨拶をした。
司教の衛兵が案内しているのは誰だろうという好奇の視線を感じないでもなかったが、この時間にミサの準備をしているのは、修道士達が多いようで、レイノに話しかけてくるような人はいなかった。
(……………きれい)
まだ薄暗い聖堂に香炉から煙がたなびき、柱ごとに設けられた小さな祭壇からは、火を灯されたばかりの蝋燭の蝋が溶ける香りがする。
水を取り替えたからなのか、生けられた花の香りも瑞々しく、連なる柱の向こうでは、レイノが見たことのない、花の部分が宝石になったミモザの枝のようなものを祭壇に乗せている人影が見えた。
ぱたぱたと音が聞こえ顔を上げれば、驚く程に高い位置にある天窓のステンドグラスの影に、妖精が腰掛けていた。
逆光になっていてよく見えなかったが、置物ではないことは分かったので、レイノはまた妖精を見られたことに嬉しくなる。
こつこつと鳴る靴音にどこか清しい気持ちも育てながら聖堂を抜け、デュノル司教の部屋のある区画に入らんとした時のことだった。
「…………………狼さん」
扉が開け放たれた部屋の一つから、ずしりと床を鳴らして大きな漆黒の狼が現れた。
馬ほどの大きさがあるので、レイノは目を丸くし、こちらの教会ではこんな素敵なペットがいるのかと唇の端を持ち上げる。
(あの胸毛にぼふんと顔を埋められたなら、どれだけ幸せかしら…………)
けれども、そんな事を呑気に考えていられたのも、前を歩く衛兵が素早く剣を抜くまでの事だった。
「これより、侵入者の殲滅に入る。退避していただきたい」
「………………ペットではないのですね」
「これは病魔の障りの一種だ。教区に住む者ではない」
その直後、がきんと音がして、ここまで案内してくれた衛兵の剣先が、飛びかかってきた狼の爪を弾いた。
攻撃を防がれた狼が体を捻って着地した振動の重さに、レイノは上手く反応出来ずに呆然としてしまう。
(…………これは、………とても良くないこと、…………みたいだわ)
慌てて壁沿いに体を寄せ、素早く前後左右に視線を巡らせる。
先程の狼が出てきた部屋からは、もう一匹の狼が顔を出していて、ぞっとしたレイノは、誰かを呼ぼうとして開きかけた唇を閉ざした。
ふんふんと空気の匂いを嗅ぎ、仲間と睨み合っている衛兵を視界に収めたその狼の表情は、やけに人間的に見える。
薄く削いで鋭くした悪意にも似た眼差しに、その狼を刺激してしまうことの方が怖くなったのだ。
(…………後ろ)
来た道を逃げ帰り、他の人々のいる聖堂に辿り着いてから、アンセルムの名前を呼ぶ事も出来るだろう。
恐らくその方が簡単であるし、退路としては手堅い気がする。
(それとも、前に進む…………?)
この廊下を真っ直ぐ駆け抜け、右に曲がれば、デュノル司教の部屋の前だ。
そこには司教の部屋を守る衛兵達がいるに違いないのだが、守るべき司教を放り出してレイノを助けてくれるとはどうしても思えない。
もし、逃げるレイノをこの獣達が追いかけてくるのなら、司教を守る為にレイノが見捨てられる可能性はより高くなるのではないだろうか。
「………っ、」
だから、レイノが走り出したその方向は、全くの誤算と言っても良かった。
見たこともない大きな獣に竦み上がりかけた体が咄嗟に目指したのは、なぜか、デュノル司教の部屋の方向だったのだ。
膝に力が入らず血の気が引くような一瞬の後、崩れかけた体をぐっとたわめて、転がるようにして走り出す。
その姿はきっと情けないものだった筈だが、幸いというか、不幸にもと言うべきか、ここにいるのは後方で狼の一匹と交戦中の衛兵だけだ。
だしんと、大きなものが弾み、床を蹴る音がする。
ぞわりと総毛立つその感覚から、もう一匹の狼がこちらを狙って走り出そうとしたのだと、見なくても分かった。
けれどもまた剣を振るう音がして、獣の唸り声が響いたので、あの衛兵が一度、狼を食い止めてくれたらしい。
「…………っ、誰か!」
ばくばくと刻む鼓動に胸が苦しくなりながら、レイノは必死に声を上げた。
背後に感じる恐怖で体は重くなり、走る為に踏み降ろす爪先がきちんと床を踏んでいないような頼りない感覚に、奥歯を噛み締めた。
(大丈夫、きちんと走れているから、このまま全速力で……………)
止まらず逃げ切るのだ。
そう思い縺れる足をまた持ち上げようとした時、ふわりと濃紺の聖衣が揺れた。
「…………………っく?!」
はっとして顔を上げたそこに、いつの間に目の前に立っていたものか、執務室にいる筈のデュノル司教の姿がある。
止まれずに飛び込むようになったレイノを軽やかに抱き止め、すっと持ち上げられた片手は、いっそ儀式めいて美しくもあった。
「…………対抗勢力かな。愚かなことをする者がいるようだ。………怪我はないかい?」
「…………………は、………はい」
そんな一瞬でもう廊下の向こうは静まり返ってしまい、レイノは、デュノル司教の腕の中で何とか声を絞り出して頷く。
こちらを見下ろした司教の瞳は、例えようもないくらいに澄明で息が止まりそうになる。
そっと頬に触れた片手の温度に、昨日に部屋を訪れた時にはしていた手袋をしていないのだなと、混乱が収まらない頭でレイノはそんな事を考えていた。
「あちらは排除したから問題ない。障りの浄化をする為の司祭達が来る前に、移動しよう」
「…………はい。…………むぐ?!」
ひょいと抱き上げられ、くるりと視界が暗転する。
驚き過ぎて変な声が出てしまったが、慌てて両手で自分の唇を押さえる間も無く、レイノはデュノル司教の部屋の中にいた。
空気の温度や香りが、唐突に変わった。
「……………場所が」
「ああ、君は忘れてしまっているのかな。魔術の転移を踏んだんだ。あの場所に長居しても良いことはないからね」
「あの衛兵の方はご無事でしょうか………」
「特に問題はないようだね。とは言え、あれは術式の影のようなものだ。生き物ではないから、壊れても問題はないよ」
「…………人間ではないのですか?」
びっくりしてそう尋ねてしまい、レイノは、自分がデュノル司教の腕の中にいる事を思い出した。
ぎょっとして体を強張らせると、慌てて片手をその肩に触れさせる。
そんな事で持ち上げられた重さが軽減出来る筈もないのだが、思わずそうしてしまったのだ。
「そうだね。あれは魔術で作り上げた人形に等しい。……………私に触れられるのは、不愉快だったかな。すぐに下ろすよ」
「い、いえ!そうではなく、司教様に私を抱えさせておく訳にはいきませんから……」
「その理由であっても、さして変わりはしないだろう」
そう淡く微笑んだデュノル司教は、どこか皮肉っぽい微笑みが余所余所しく、触れた手を引き剥がしてしまいたいくらいに冷ややかな目をしている。
けれども、この人がさっきは廊下まで助けに来てくれたのだ。
しっかりと受け止めてくれた時、レイノは心から安堵した。
それはまるで、こちらに逃げれば安全だと、そう思える筈がないのに確信していたあの瞬間のように。
「…………助けてくださって、有難うございました」
「私は、君の後見人となったのだからね。そうして手を伸ばしたものを、むざむざ病魔の障りに奪われたりはしないよ」
そう呟やき、レイノを下ろそうとしたデュノル司教は、ふっと瞳を揺らした。
どうしたのだろうとその視線を辿って、自分の手がしっかりと司教の肩の部分の聖衣を掴んでしまっている事に気付き、レイノはぎゃっとなる。
「………も、申し訳ありません!」
「…………いや、怖かったのだね。であれば、もう少しこうしていようか」
「…………………デュノル司教様?」
そんな事を言われるとは思っていなかったので、レイノは面食らったが、そのまましっかりと抱き上げられていると、強張ったままだった胸の奥がほろりと解けるような感じがする。
その柔らかな感覚をどうしても手放したくなくて、とんでもないと言って下りるべきのその腕の中に、図々しく居座ってしまう。
とは言え、握り締めたその温もりが不相応なものだと理解はしており、落ち着きなく視線を彷徨わせた後、静かな瞳でこちらを見ているデュノル司教に小さな言い訳をした。
「……………私は、ウィームの出身かもしれないのだそうです。だからなのでしょうか、………その、デュルノ司教の気配にほっとしてしまいました」
「それを君に言ったのは、アンセルム神父かな?」
「……………ええ。そう言えば、なぜそう考えられたのかを聞いていませんでしたが、そう仰っていました」
「彼は、…………君の良い後見人かい?君はこちらに来たばかりだが、彼とは相性が良さそうだ」
「………………分かりません。良くしていただいていますが、こちらに迷い込んだばかりの私はまだ、あの方の事をほとんど知りませんから」
「そうなのかい…………?」
そもそも、ほぼ初対面に近しい遥か上の階位の司教に抱えられているままの体勢がまず大問題なのだが、レイノはなぜか、そう尋ねたデュノル司教の瞳に、ひどく寄る辺ない孤独のようなものを見た気がした。
「……………む」
気付けば、レイノの片手はそんな司教の頭を撫でており、手のひらに触れた艶やかな髪の毛の感触を自覚した途端、レイノはさあっと青ざめた。
綺麗な水紺色の瞳が驚きに見開かれるのを、吐息が触れる程の近くで見てしまい、くらりと倒れそうになった。
「た、…………たいへん、失礼なことを……」
ぱくぱくと声にならない声を発した後、自分はどうしてしまったのだろうと呆然としながら謝ろうとしたレイノに、なぜだか、デュノル司教は微笑んだ。
(……………わ、)
その微笑みは、冷ややかな雪原が突如として花開いた満開の白い花で覆われたような、同じ色のものがまるで違う温度を纏うかのような、途方もない微笑みだった。
目を瞠ってその微笑みに見惚れてしまったレイノの髪を、今度はデュノル司教がさりさりと撫でる。
それはつまり、片腕でレイノを抱き上げているという事なので、この司教はかなりの力持ちなのかもしれない。
「君は、私にとても懐いているのかな」
「……………懐いて…………?」
「それとも、アンセルム神父にもこのように?」
「いえ、まさか」
反射的にそう答えてしまい、眉を持ち上げたデュノル司教の表情を見て、レイノは呻き声を上げたくなった。
否定するにしても、既にあれこれとお世話になっている人なのだ。
他に言いようがあるだろう。
「……………あの方はあくまでも教官ですので、このような事はありません。その、転びそうになって受け止めて貰ったことはありますが………」
「転びそうに、……………ね」
「わざとそうした訳ではありませんよ?アンセルム神父はとても優しい方ですが、そのような策略を練って距離を狭めたいと考えた事はありません」
むむっとなり思わずそう言い重ねてしまい、レイノはもはや取り返しのつかない己の無作法さにかくりと項垂れた。
と言うか、そろそろ、自分の足で床に立つべきなのは間違いない。
「では、君がここまで懐くのは、私だけなのかもしれないね」
「……………もはや、なぜこうなってしまったのかが皆目分かりません。そして、そろそろ司教様のお手を煩わせることを卒業するべきだと考えています」
「おや、私はもう暫くこのままでも構わないよ」
どこか老獪な甘さを滲ませたその言葉に、レイノはまたしても反応し損ねた。
怜悧な空気を纏う人が、そんな事を言うとは思わなかったのだ。
(なぜこうなってしまったのだ………)
どうにかして心象というものの可能性がまだ生き残っているのであれば挽回するべきだし、その気紛れに翻弄されているのであれば、ぴしゃりとお断りするべきだ。
そう自分に語りかけたのだが、なぜか、レイノの手はいっこうに司教の聖衣を離そうとしないまま。
思っていた以上に自分は打たれ弱いのだろうかと、眉を下げかけたところで、心の奥のその向こう側に揺れた誰かの面影を見た。
「…………もしかして、デュノル司教は、………私の事をご存知なのではないでしょうか?」
だから、そう尋ねてしまったのはやはり衝動的なことであった。
「さて、どうだろう。けれども、私のことは…………こう言えば君は警戒するだけかもしれないが、信用してくれても構わないよ。…………君は、もしかすると私の大切な存在かもしれないからね」
その言葉に、レイノは小さく息を飲んだ。
(多分、この人が話していることの中に、私が忘れてしまった大切な真実がある…………)
でも、それは果たしてレイノ自身のものなのだろうか。
例えば、この体の持ち主が得ていたものなのかもしれない。
(だって私は、………………)
そう考えかけ、レイノは自分の本来の名前を忘れかけていることに気付き、ぞっとした。
ばくんと胸が音を立てて、恐怖に指先まで冷たくなる。
「…………レイノ?」
「…………いえ。………その、思い出せないことが、ふと悲しくなっただけですから」
「であればそれは、この土地に敷かれた迷い子の魔術の一端だろう。あの門で展開し、そして日々の生活の中でより執拗に奪う。………けれども君は、例え失くしたように思えても君自身のものを奪われる事はないから安心しておいで」
「……………思い出せなくなりそうなのに、ですか?」
「思い出せないことと、奪われることは違う。覆いをかけられることは決して君にとって不利なことではない。…………だから君は、自分自身に向けるその名前を忘れてしまうかもしれないし、私は、君が森の女神であり聖人である者から貰った名前を呼ぶ事は出来ない。けれどそれこそが、守護の一つなのかもしれない」
「……………!」
(この人は、私の本当の名前を知っているのだわ…………………)
そうだったと、ネアは思う。
ネアハーレイは、両親がつけてくれた森の女神であり聖人でもあるひとの名前だ。
そしてネアが、その名前の由来を誰かに話すのだとしたら、それは余程親しくない限りあり得ない。
世間話に乗せて伝えるにはネアにとって意味深い名前だからこそ、さして近しくもない人に問われれば、曖昧に言葉を濁して終わらせるだろう。
「それと同じように、私の名前を君に教えてあげる事も出来ない。ここには、迷い子の契約に有用であれば、どのような矮小な生き物も逃さずに捕らえる為の、独特な魔術が溢れているから」
「……………あなたも、人間ではないのですか?」
「それも、どうだろうね。…………言葉は魔術の織りで、そして君の一部は既にあちらに結びついている。相応しい時が来るまでは、あまり私も自由ではないんだ。………ところで、私ではない誰かにも、それは人間ではないと感じたのかい?」
そう尋ねられ、レイノは僅かに躊躇った。
ここで自分の味方を取り違えれば、きっと取り返しのつかないことになる。
アンセルムが唯一の味方だった場合、レイノの返答は、彼が隠しているかもしれない秘密を明かしかねない。
(けれど、……………)
けれどもう、レイノは選んでいるのだ。
それは、もしかしたらデュノル司教の話すように、かけられた覆いの下のものが選んだのかもしれない。
「…………アンセルム神父にも、そう思ったことがあります」
「……………やはり、彼も来訪者のようだね。…………私の友人は、もう少し困った存在かもしれないと話していたが、…………生粋の教会の人間ではないのは確かなようだ」
「……………優しい方だとは思いますし、とても良くして下さいます。でも、」
そこで躊躇い、レイノは言葉を見失う。
それどころか、一緒にいると心が緩むし、確かにデュノル司教が言うように相性は悪くないのだろう。
それでもなぜか、完全に全てを預けてはいけない気がするのだと、どうすれば伝えられるのか。
(そして、たったこれっぽっちのやり取りで、私は、本当にこの人を信頼してしまっていいのかしら?)
「嗜好が合う者が、良き者だとは限らない。人間である君にとって、その誰かが向ける好意が確かであれ、それが良いものだとは言えないこともあるだろう。……………けれども、それがどうであれ、私は、君を誰かに預けることなんてしたくはなかったのかもしれないけれどね」
「………………デュノ…………デュルノ司教………デュノル司教様」
よりにもよってなところで名前が絡まってしまい、レイノはへにゃりと眉を下げた。
この腕の中にいるととても安心してしまい、そのまま肩の上に額を預けて眠ってしまいたくなる。
そんな感覚は、ネアハーレイの全く知らなかった筈のもので、途方に暮れてしまうのだ。
「…………君は、どこかで正しい名前を探してしまうのかな。でもそれは、君が帰る時の為に必要なものだから、夜の夢の中までは取っておくといい」
「夜の、夢の中までは…………?」
レイノがそう繰り返すと、デュノル司教は謎めいた微笑みを浮かべた。
それもまた、この教区に敷かれた魔術とやらのせいで話せない事なのだろうか。
「アンセルム神父については、…………あまり愉快ではないが、ひとまず信用していても構わないよ。彼が君に与えようとする物の中に望ましくないものが混ざっていた時には、私や、もう一人の後見人がそれを排除出来るようにしてある」
「……………リシャード枢機卿が、でしょうか?」
「彼についても、君はその答えを自分でも見付けるだろう。けれどそうだね、彼のことも信用して大丈夫だ。…………例え、彼が君にとって油断のならない敵に思える時もね」
時折、デュノル司教の視線が部屋に置かれた立派な装飾時計に向けられる。
その視線を追いかけ、レイノは、こうしていられる時間がもうあまりないことに気が付いた。
「……………私は、どうしてここに居るのでしょう?あなたの言葉を聞いていると、迷い込んだのではなくて、迷い込まされたかのように思えます」
「言葉が魔術である以上、私に教えてあげられることは少ない。…………けれども、とても厄介な毒が出来上がりつつあるその時、まだ未完成の毒を万全の守護の下であえて呷ることで、やがて完成するかもしれないものの抗体とするという、そんな試みはあるのかもしれないね」
「…………厄介な毒」
そう呟き、レイノはこちらを見ている美しい人の頬に触れたくてむずむずした指先を握り込んだ。
「君は、…………これ程の状態になっていてもまだ、…………術式のテーブルに着いただけなんだ。毒が与えられるのは、まだこれからなんだよ。…………だからこそ君はレイノである必要があるし、君に最も近しい後見人が、この教区がその体の一部だと判断した彼である必要がある。外からの者がその役割を得るのは、敷かれた術式上不可能な事だったからね」
「……………私にはよく分からないことばかりですが、これからも普通の迷い子としてここで生活をしてゆけば、目的が達成出来るのではないかという事だけは、理解できたような気がします…………」
眉を寄せたままそのように答えてみると、デュノル司教は、そうだねと優しく微笑んだ。
「君が契約の儀式を終える頃には、もう一つの、私達が得るべき成果も得られるだろう」
「抗体を得る事以外にも、目的があるのですね?」
そう尋ねたレイノに、デュノル司教は微笑んだだけで答えなかった。
どこか名残惜しそうにレイノを抱き締め、そっと床に下ろしてくれる。
「さて、朝食を食べてしまおう。外での騒ぎは、やがて君の教官にも伝わるだろう。それは必要なことではあるけれど、今はいささか煩わしくもあるね」
「…………一つお聞きしてもいいでしょうか?…………あなたは最初、私にここまでの事をお話ししてくれるつもりがなかったように思えたのですが、…………なぜ、それを変えたのですか?」
一人きりで立つと、急に肌寒く感じた。
その心細さに胸が締め付けられ、それでもこのままには出来なかった疑問を投げかける。
すると、部屋の奥にレイノを伴おうとしていたデュノル司教は、ふっと瞳を眇めて艶やかに微笑んだ。
「それは、君が私を選んだからだ。選ぶ事でまた一つこちらの守護が固まり、君はより安全に私のものになった。…………知っているかい?この世界ではね、受け取る事と望む事は、それぞれ魔術的な契約になる。その中でも、命運を預けることと、食事を受け取る事は大きな意味を持つ。…………君はあの時、衛兵でもなく、アンセルムでもなく、私を選んだだろう?君と話し、そうしてしまっただけということではなく、そちらを選んだと分かったから、こうして話せる事が広がった。…………この説明で足りるかな?」
「………………食事を与えられるのも、まずいことなのですか?」
ぎくりとしたレイノにまた微笑みを深め、ウィームから来たという司教は秘密を共有する儀式のように、人差し指をレイノの唇に触れさせた。
「安心するといい。望まない繋ぎなど、欠片も君に定着させるつもりはない。予めその多くは君自身には繋がらないようにしてある。だからこそ、君はレイノなんだよ」
その微笑みはいっそ残忍な程の凄艶さですらあったが、レイノは、それを聞いてなぜかとてもほっとした。
「けれど、私との食卓ではその限りではないけれどね。さぁ、朝食にしようか。君の好きなものばかり用意してあるよ」
そう言って連れて行かれた続き間のテーブルの上には、美味しそうな黄金色のフレンチトーストも置かれていた。
夢で見たものとお皿の形まで酷似していて驚いていると、デュノル司教から、これは昨晩大切な人が作ってくれたのだと教えられる。
「私も仕上げを手伝ったんだ」
そう微笑んだ後見人を見つめ、レイノは今夜はどんな夢を見るのだろうかと微かな期待に胸を膨らませた。
ミサまでの時間の人払いをしていたのは、デュノル司教に加え、レイノの後見人となったリシャード枢機卿の配慮であったらしく、襲撃についての聴取などが入ったのは、レイノが少し急ぎにはなったものの朝食を終えてからの事だった。
病魔と言われるあの獣を引き入れたのは、レイノの二人前にここに保護された迷い子だったようだ。
その少年は、召喚の直後に自らが呼び落とした病魔に食われてしまい、この一件は事故として片付けられた。
けれどももう、レイノにはそうは思えないのだ。
あの狼を退けた時、デュノル司教は、反対勢力によるものかもしれないと呟いたのだから。




