169. 試練の多い一日でした(本編)
がたがたと、重たい荷物が揺れるような音を聞いている。
ウィームの街はどこもかしこも石畳なので、街角のどこかでクッキー缶が荒ぶっているに違いないのだが、川沿いを抜けて路地に入ったネア達から見える場所ではないようだ。
ネアは、いつもの運河沿いのコースはゼベルに譲り、本日は毎年激戦区になる街中を抜けて、博物館通りに出る事にした。
クッキーを滅ぼしながら歩くので、勿論、転移などは使わない。
びゅんと飛び込んでくる固焼きクッキーや、ぼろぼろと崩れるのが曲者なほろほろバタークッキーなどと戦いながら、着実に前進してゆく。
「ヒルドさんは、無事にエーダリア様達と合流出来たでしょうか…………」
「あの周辺に困ったものはいないようだったから、大丈夫だと思うよ」
途中まで一緒だったヒルドは、街の救護施設に王都から無謀にもやって来てしまった妖精の騎士を預けているところだ。
そこからは、転移門を使い、エーダリア達と合流するらしい。
意識を失った長身男性を肩に担いでいたので、ネア達が救護施設の前までは同行したのだが、お迎えのイーザになかなか合流出来ないヨシュアがぎゃん泣きしてしまうような襲撃が、既に何回かあった。
中でも苦戦したのは、私の愛を受け取ってのメッセージクッキーで、割れたら不吉だとでも思ったのか、渾身の固焼きにされていたクッキーは、選択の魔物がどこかしらの骨を損傷した程の頑強さだった。
受け止めきれずに胸を押さえて咳込んだアルテアを見て、ヨシュアはすっかり怯えてしまった。
へばりつかれたネアは危うく動きを封じられるところだったので、グレアムが応戦してくれなければあのクッキーに真っ二つにされていただろう。
「今年は、竜さん用のクッキーはあまり見かけませんね」
「街の聖堂側に集まっているらしい。誰かが追い込んだようだな」
そう教えてくれたのはグレアムで、擬態して勤めている勤務先のザハの情報網が余程凄いのか、ワンポイントのリーエンベルク刺繍のある真珠色の革の手帳には、逐一ウィーム各所からの情報が入ってくるらしい。
「それならほこりだろうな。ゼノーシュ達とあの辺りで大物を片付けると聞いている」
「そんなアルテアさんは、可愛いほこりと合流しなくても良いのですか?」
「ゼノーシュ達がその場を離れる迄は、このままで構わん。どうせお前が、あの薬箱のクッキー缶を引き当てるんだろうからな」
「なぬ。私の持つ収穫の祝福の偉大さを崇めるのは良い事ですが、まるで事故のように言うのはやめるのだ…………」
「ほぇ、僕はそんな缶には遭遇したくないんだよ。…………イーザに会いたい」
そんなイーザは、リノアール前の通りを抜けるのに苦戦しているようだ。
友人達と共にその後ろの路地に入ろうとしたところ、膨大な数のお徳用一口バタークッキーの群れに囲まれてしまったのだ。
友人達と連携して数を減らしているようで、ヨシュアには、待機命令が出ている。
足並みを揃えた防御が勝敗を握っている状況下で、どのように動くのか分からないヨシュアを招き入れるのは危険だと判断したのだろう。
(…………でも、それが正しい判断だと思う)
ネアは何度か、ちび雲を作ってクッキー達を雨で濡らしてしまえばどうだろうと提案したのだが、ヨシュアは荒ぶるクッキーが怖いらしい。
開戦当初から缶に攫われかけていたくらいなので、本日はあまり戦力としては見込めない様子である。
さかんにイーザの名前を呼んでいるので、そんな現場にいたら戦うよりも甘えてしまいそうだ。
であればここで、いざという時にぴしりと命令の出来るディノの傍に居た方が、まだその力を生かせるのかもしれなかった。
「むぅ。水路がないと、思うように本領を発揮出来ません。そして、たった今とても不穏な物を見ましたが、大聖堂の方に向かうようなのでそっとしておきましょう」
「…………ご主人様」
「まぁ、ディノも見てしまったのです?」
「ほぇ、キノコの形をした大きなクッキーが歩いてる…………」
「ボラボラだろうな。夏前に、敢えてクッキーにして食べてしまう事で鬱憤を晴らそうと、竜用のボラボラ型のクッキーが売り出されたが、口の中が痒くなるような気がすると不評であまり売れなかったらしい」
「…………くそ。余計なものを作りやがって」
「まぁ、アルテアさんが真っ青なのです?」
「アルテアが…………」
幸い、そんな等身大ボラボラクッキーは、ネア達に気付かず、街の騎士達と交戦しながら大聖堂の方向へ押し出されていったようだ。
そちらにほこりがいるのなら、グラスト達が指揮を執って、ほこりの近くに大きなクッキーを誘導しているのかもしれない。
本来なら、クッキー祭りの開始前に少しだけ可愛い雛玉に会える予定だったネアは、お家型のクッキー缶に攫われた事を悔やむばかりだ。
ぽたん。
(……………む?)
ふと、どこかから、水滴のような物が落ちて来た。
ヨシュアがこれだけぎゃん泣きしているので、もしや雨が降るのかなと思い空を見上げたネアは、そのままぴしりと固まってしまう。
がくんと足を止めてしまったご主人様に、ディノが慌ててこちらを見た。
「…………ネア?」
「こ、この上の建物の雨樋飾りに、街の騎士さんが一人、引っ掛けられています」
「っ、…………おい、離れろ!」
「みぎゃ?!」
そんな場所に吊るされた時に、ポケットに入れておいた水薬か何かの入れ物が破損したのだろう。
胸元を濡らした何かの液体が、ぴしゃんと上から雫になって落ちてきていたのだ。
しかし、ネア達が思わずその犠牲者を見上げて固まってしまった瞬間、アルテアの鋭い声が響いた。
「ネア!」
「…………ぎゅむ?!」
咄嗟にディノに持ち上げられてその場を離脱出来たが、がこんという凄まじい音を立てて先程まで立っていた場所の石畳が割れ窪んだのを見てしまったネアは、茫然と目を瞠った。
そこには、どこからか飛来した銀色の正方形の缶の姿があるではないか。
少しだけ大きめな紅茶缶かなという綺麗な銀色の缶には、繊細なラベンダーと白い花の絵が描かれており、中央の檸檬の絵が何とも爽やかな印象を与えてくれる。
しかし、赤い木苺の実を模した宝石がきらりと光ると、ネアはとても嫌な予感がした。
ここまで繊細で高価な装飾のクッキー缶が、そうそうあるとは思えない。
「アルテア、あの缶だ」
「ああ。…………くそ、囲まれたか」
「ほぇ、ぼ、僕はここにいたくない!」
「ヨシュア、対空戦ならお前の方が慣れているだろう。何個か落としてこい」
「ふぇ、む、無理だよ!なんか早いんだ」
ここは、瀟洒な飲食店などのお店の並ぶ運河沿いの道から、三本程ウィームの街の中央に入った路地だ。
路地とは言え、馬車の一台くらいなら通れる車幅はあるが、歩道があるような広い道ではない。
看板を出した小さな隠れ家的な飲食店はあるものの、お客に扉を開くような店よりも、住居や事務所などの多い静かな通りである。
そしてそこに待ち構えていたのは、ネア達が探していた、シャルロウズのクッキー缶たちが結成した、白銀の騎士団であった。
ネア達のいる場所は程よく影になっているのだが、空中に円形の陣を組んだ白銀の騎士団は、そんな通り名に相応しい、暗い銀色の輝きを纏っている。
どうやら、全ての缶が銀色の地色で、そこに様々な装飾や絵付けがあるらしい。
「…………ディノ、」
「うん。私達は、このまま壁に背を預けていよう。排他結界で何重かに防壁をかけたけれど、妖精王の祝福を持つ缶があるね」
「…………なぜそんな缶を用意したのだ」
「花伯爵と呼ばれる魔物だけではなく、他にも高位の者達の祝福を集めた缶であるようだ。…………祟りものでもあるとなると、その複合的な祝福や資質が少し厄介かもしれないね」
「缶めは、どうやって倒すのが正解なのでしょう?ぺたんこに押し潰してしまえばいいのでしょうか…………」
「クッキーは、欠片になっても動いたね…………」
「ぎゅわ…………」
だが、どうやらアルテアとグレアムは、クッキー缶の動きの止め方は承知しているようだ。
視線で何か合図を交わし、どうやら、雨樋に引っ掛けた騎士を囮にして一瞬の隙を狙って包囲する作戦を立てていたらしい白銀の騎士団と向かい合う。
かつては、滅ぼす者と滅ぼされた者であった二人の関係を考えれば、選択の魔物と犠牲の魔物が、背中合わせに戦う姿は胸が熱くなるような光景だろう。
だが、そんな風に心を緩める余裕がないくらいに、辺りは、ただならぬ緊張感に包まれていた。
(…………攻撃の機会を窺っている)
シャルロウズのクッキー缶は、積み重ねて薬棚のようにするだけあり、どれも同じ正方形の紅茶缶のような形をしていた。
大きさ的にここからでは細部迄は見えないが、その内の左右と上部、正面には素敵な絵付けがあり、まるで宝石箱のような素晴らしい装飾が施されている。
だが、この缶はラベンダーと檸檬に木苺のクッキーだったのだなとか、こちらは薔薇と夜の雫のクッキーなのだなとか、どんな味のクッキーが入っていたのかが分かるデザインが、可憐な趣も備えていた。
ネアは、その繊細な箱の絵付けに思わず心を弾ませてしまい、けれども、彼等は不幸な運命に翻弄され、敵になったのだと唇を噛む。
偶然にも小さな会計事務所の家壁にぴったり背中を寄せられたネア達は包囲網を抜けられたが、アルテア達は完全に囲まれている。
上空にぷかりと浮かんだ銀色の缶たちは、どこか冷ややかさすら感じる気配を漂わせ、その瞬間を待っていた。
かしゃーん。
その音が響いたのは、次の瞬間だ。
それまで、抽斗のように蓋の持ち手に指をかけ、前に引き出す造りの缶の蓋は閉じていたが、白銀の騎士団の団員達が、その蓋を一斉に開けたのだ。
見事に統一された動きが一つの音楽のように響き、直後、銀色の弾丸のように缶達が襲い掛かってきた。
「………っ!!!」
「ネア、しっかり掴まっておいで」
「は、はい!」
その戦いの壮絶さは、ネアが今迄見た事がないようなものだった。
アルテアが取り出したのは、杖ではなく上部が鋭く尖ったような形の長方形の盾のような不可思議な道具で、グレアムが持つのは、いつもの両刃の大剣だ。
二人は即座に、それぞれ一つずつのクッキー缶を見事に叩き潰したが、四方八方から襲い掛かるクッキー缶との交戦は、到底ただの人間が目で追い切れるような物ではなかった。
ヨシュアはよろよろとクッキー缶の攻撃を躱しつつも、ばしんと背中に体当たりされて悲鳴を上げながら、近くの建物の軒下に逃げ込む。
その直後、がつっと嫌な音がして、グレアムが僅かに体を揺らした。
ひゅっと息を呑んだネアが体を強張らせている間に、今度は、シナモンと林檎の絵が描かれたクッキー缶が箱の角の部分で、鋭くアルテアを切りつけたではないか。
顔を顰めたアルテアにその傷はすぐに塞がれてしまったが、一筋の深紅の線が頬に走ったというのは、衝撃の事態だろう。
何しろアルテアは、この缶達が現れた時から擬態を解き、公爵の魔物として全力で戦っているように見える。
それでも、呪われてしまったとは言え、一介のクッキー缶がその体に傷を付けたのだ。
「…………ディノ、結界が破られてしまっているのです?」
「いや、あの缶達の属性が複雑過ぎるんだ。………結界を外して攻撃しないと、魔術複数属性を利用されてこちらの打撃を中和されてしまうのだろう」
「誰がそんな缶を作ってしまったのだ…………」
後に、ジッタの従兄のクッキー職人が、リノアールからの注文販売で入れ物の缶までを自分で作ってしまった商品なのだと聞けば、さもありなんという思いになったが、その時のネアは、これだけ高位の魔物達に苦戦を強いるクッキー缶の存在に不安でいっぱいになっていた。
だが、じっとその戦いの様子を見守っていたディノは、どうすればあの白銀の騎士団を墜とせるのかを考えてくれていたらしい。
「ヨシュア」
「………ほえ」
そう呼びかけられたヨシュアは、建物の壁伝いにこちらに避難して来ていた。
戦いには参加せずに、がたがたと震えている。
「私が合図をしたら、この一帯にだけ強い雨を降らせられるかい?」
「が、頑張る…………」
「では、頼んだよ」
「グレアム、アルテア、雨が降ったら、足を踏み替えて身を置く層を変えておくれ」
激しい交戦の中でも、ディノの声はよく通った。
その指示が何を示し、どんな作戦を描いているのかはネアには分からない。
だが、未だに殆どの騎士達を残したこの難敵を、ディノがどうにかしてくれようとしているのは分かった。
ネアは、このやり取りをクッキー缶達が理解してしまわないかはらはらしたが、こちらの会話は理解出来ないのか、聞かれても構わない内容なのだろう。
(きっと、ディノがいれば大丈夫…………)
この最大の危機を齎した相手がクッキー缶なのが若干解せないが、祈るような思いで伴侶の作戦が決行されるのを待ち、ネアはその瞬間を待った。
「ヨシュア!」
ディノが作戦開始の合図を告げたのは、飛び抜けて身体能力の高い二つの缶が、協力してアルテアを襲おうとした瞬間の事だった。
白銀の騎士団も仲間を欠く事なく戦っていたが、同時に、魔物達を切り崩す事も出来ずにいた。
業を煮やした缶達は、まずはどちらか一人を倒そうと思ったのだろう。
連携してアルテアを襲おうとしたその時、もうもうと水煙が上がるような凄まじい豪雨が降り注いだ。
ネアは、息が出来なくなるような水の勢いにぎゃっとなってしまい、思わず目を閉じてしまう。
ディノの腕の中にいて雨に濡れてしまう事はないのだが、それでも、怖いくらいの雨量にすっかり震え上がってしまった。
「…………ほわ、」
「捕まえたかな。後は、付与された祝福を削ぎ落してしまおう」
雨は一瞬で降り止み、ネアが恐る恐る目を開くと、そこには、水溜りの出来た石畳の道の上に転がるクッキー缶達の姿がある。
なんと彼等は、攻撃に転じようと蓋を開いたところで降り注いだ雨に、抽斗部分に溜まった水の重さで地面に落ちてしまったのだ。
だが、そこで行動不能になるのではなく、すぐさま体を振るって水を吐き出し再び空に舞い上がろうとしたクッキー缶達は、ざあっと足元を走った淡い魔術の光に縛られたように動きを止める。
ざざんと、森の木々を強い風が揺らすような音がした。
(…………あ!)
石畳の道には、万象の魔物の力を映した真珠色の花々が咲き乱れ、その中に転がったクッキー缶達に描かれた模様や嵌め込まれた祝福石や宝石が、ぱりんと弾ける。
宝石の中から芽吹いた枝が、その宝石そのものを粉々に砕いてしまうかと思えば、缶に描かれた絵の中で薔薇の花が次々と蕾をつけて重ねて咲き乱れてゆき、一緒に描かれていたシナモンを飲み込んでしまう。
その途端、その缶にはびしりとひび割れが走った。
じゅわっと溶け落ちるように装飾が流れ出した缶もあれば、さあっと灰になって崩れ落ちてしまう物もあった。
ほんのひと時の幻のように咲き誇っていた花々が枯れて消えてしまうと、そこには、先程の俊敏さや獰猛さを失った缶達が転がっている。
「……………凄いです」
「ほぇ…………」
姿を残してまだ動いている物もあったが、再び飛び上がる事は出来ないようだ。
ディノの指示通り、花々を踏まないようにそれぞれに足場を作っていたアルテアとグレアムが、残った缶達を素早く破壊した。
「…………お、終わりました」
「ふぇぇぇぇ!!」
「なぜここでぎゃん泣きなのだ…………」
「…………シルハーン、お手を煩わせてしまいました」
「いや。君達が注意を引き付けてくれていたお蔭で、私には観察をする時間があっただけだよ。二人とも、大丈夫かい?」
「……あの精緻な組み合わせを歪める事で、自壊させたのか…………」
「ここまで魔術を複雑に織り上げた装飾を可能とする者が、人間にいるというのも驚きだね。けれども、在り得ないくらいの精緻で複雑な均衡でなされた装飾だったからこそ、どこかを崩してしまえば成り立たないかなと思ったんだ」
辺りには静けさが戻り、通りを隔てたどこかから、クッキーと戦う人々の鬨の声が聞こえてくる。
きっと今も、このウィームの街のそこかしこで、領民達が荒ぶるクッキーやクッキー缶と戦っているのだろう。
だが、最悪の敵はここで撃破した。
おまけに一人の犠牲も出ていないのだから、大勝利と言えるだろう。
ネアは、ピンブローチの通信端末からエーダリアに連絡をし、無事に、シャルロウズのクッキー缶達を沈黙させた事を告げた。
通信の向こうでわあっと騎士達の歓喜の声が聞こえた後にエーダリアが教えてくれた事によると、そちらにも、同じクッキー缶のはぐれの一個が現れたのだそうだ。
一つだけでも騎士の二人が負傷し、ノアすらも負傷しながら戦い、何とか勝利を収めたのだと聞けば、騎士達の喜びも尤もだ。
だがネアは、その缶にとどめを刺したのが、通りすがりの市場のおかみさんだと聞き、何とも言えない気持ちになってしまう。
今は、無事にそちらに合流したヒルドが、負傷者達の手当てをしてくれているらしい。
「後は、…………まだ缶も混ざっておりますが、ここ迄厄介な物はないかと」
ふうっと息を吐き、そう微笑んだグレアムに、ディノが頷く。
余程、白銀の騎士団が怖かったのかまだ少し泣いていたヨシュアが、ふっと顔を上げた。
「シルハーン、イーザが呼んだから僕は行くよ」
「うん。そうするといい」
そのまますぐに転移で姿を消してしまったヨシュアに、グレアムは、そちらの戦いも終わったのだろうと苦笑している。
ここで、ぎゃおおおと、どこからか怪物の咆哮のようなものが聞こえてきた。
慌てて周囲を見回すと、クッキー祭りの最後に現れる、呪いのクッキー達の集合体でもある巨大な怪物が立ち上がるところではないか。
今年はなぜか可愛いうささん型ではあるが、それでも、クッキー達が集まりながら巨大化してゆき、ずぞぞっと立ち上がる姿は禍々しい。
だがそちらには、最後に大物を食べるのを楽しみにしている、かわいいほこりがいる。
毎年の事なので安心して任せておけそうだと思えば、ネアは、今年はまだ殆ど活躍していない己の不甲斐なさに儚い微笑みを浮かべた。
水路がなければ活躍出来ないなど、言い訳にしかならない。
この有様では、まだまだ若輩者ではないか。
来年からは、持ち場が変わっても活躍出来るような戦い方を模索しなければならない。
(でも、無事に終わりそうで良かった…………)
「…………む」
そんな事を考えていると、ずしゃりと不穏な音がして、曲がり角の向こうから姿を現した子犬くらいの塊がある。
そちらを見たアルテアがそのまま動かなくなり、続けてグレアムが、同じように目を瞠ったまま蒼白になって動きを止める。
「ご主人様…………」
「む、ディノも弱ってしまいました。さては、あの形状がいけないのですね?」
次に、ネアを持ち上げていたディノがへなへなになってしまったので、ネアは、素早く伴侶な乗り物から下り、恐らく最後の敵となるであろう、その塊と対峙する。
「ふむ。おでこ部分に、アイシングで私を食べてと書いてありますので、贈り物のクッキーのようです。そして、…………絶望的に造形力と絵心のない方が、何某かのファンシーな動物さんを作ろうとして失敗したクッキーに違いありません」
大きさ的には、お祝いクッキーなどと同じプレート型の作品だったのだろう。
呪いのクッキーになって動き始めた事以外の変化はない筈なのに、とんでもない災いが凝って生まれた祟りものかなというくらいに禍々しい姿をしている。
耳だか崩れかけた肉片だか分からない謎の部位を頭部に備え、目だけは可愛らしくきらきらとしていて、恐らくは服を着せようとしたのだが結果としては混沌を生み出したのであろう胴体部分は、この世の苦しみを表現したかのようなおどろおどろしい有様だ。
合成獣などが苦手な魔物達がうっとなってしまうのも当然の形状だが、幸いにして、こうして装着しているゴーグルの専門店の主人が怖いと思うネアにとっては、こちらはまだ、絵心のない作者がいたのだろうなという範疇の歪さに留まってくれているように思えた。
勝因は、市販品を使ったと思われる顔パーツの歪みのなさで、ここが歪だったら、完全にホラーの中の呪いのクッキーになり、ネアもお手上げだっただろう。
「ふむ。これなら戦えます!最近、禁足地の森から狐さんが拾ってきてくれた握りのしっくり感が素晴らしいこの枝で、粉々にしてくれる!!」
「……っ、おい!あまり小さな破片にはするなよ!」
「はい。ちょっぴりばりんとやって、皆さんが合成獣として認識しない程度の解体を行いますね」
流石に、固焼きクッキーに属する獲物は、ネアの力だけでは完全撃破出来ない。
であれば、魔物達が直視出来るような姿にしてしまえばいいのだ。
ネアは、思うように動けない魔物達を背後に庇いつつ、握り締めたすりこぎのような枝を構え、人間など許すものかと飛び掛かってきた異形のクッキーに襲い掛かった。
「てやっ!」
力いっぱい棒を振り下ろし、初撃でばりんとやってしまうと、何とか動けるようになったグレアムが、素早く大剣を振るいその破片を更に何分割かにする。
そして、その時の事だった。
「ぱおーん」
「があ!」
どこからか、懐かしい鳴き声が聞こえてきて、ネアは目を瞠った。
ネアよりも早くそちらを振り返ってしまったアルテアが、片手で口元を押さえて蹲ってしまったが、ネアは、現れた懐かしい仲間達の姿に顔を輝かせる。
この細い道の側溝沿いに歩いてきたのか、そこには、毎年水路でクッキーを美味しくいただいてくれる生き物達の姿があった。
さすがに、水路に集まる程に多くはないが、その中の一部の者達が、こちらに出てきてネアを見付けてくれたようだ。
「まぁ、みなさん、こちらにも来てくれたのですね!」
「ギャア!」
「がう!」
「パオーン!」
「……………っ、」
動けるようになったばかりのグレアムが、ここでがくりと地面に膝を突いてしまったのが気掛かりだったが、きっと、先程の白銀の騎士団との戦いの疲労が現れたのだろう。
援軍を得たネアは、この場は任せ給えとふんすと胸を張る。
「では、こちらのクッキーを分配してしまいますね!」
「があ!!」
とは言え、もうクッキー祭りも終盤である。
この仲間たちを満足させられるだけの餌はないかもしれないと懸念していたが、先程の絵心皆無のプレートクッキーを作ってしまった誰かは、随分と試行錯誤を繰り返したようだ。
同じクッキーの試作品と思われる者達が、ぞろりと曲がり角の向こうから現れ、ネアは、にんまりと微笑んだ。
獰猛な狩りの女王は、手にした木の棒を振り上げ、その集団に襲い掛かってゆくと、一個ずつばらばらにしては、側溝の方へと叩き出してしまう。
クッキーの欠片のシャワーを浴び、大歓喜の仲間たちは、待っていましたとばかりに、もぐもぐむしゃむしゃと大喜びだ。
ネアは、うっかりその作業に夢中になってしまい、全てが終わった後で振り返り、通りすがりのジッタに介抱されている魔物達に目を丸くした。
疲労が膝にきたのであろうグレアム以外にも、ディノやアルテアまでが、蹲って動けなくなってしまっている。
「まぁ、皆さん弱ってしまったのです?………ジッタさん、有難うございます!」
「ああ。心因的な苦痛を取り除く紅茶パンを食べさせたところなので、すぐに回復すると思いますよ」
「売り物のパンを分けていただいたのですね。待って下さい、すぐにお代を………」
「いえ、従兄の娘が作ったあの悍ましいクッキー達を片付けてくださったお礼だと思って下さい」
「なぬ。先程のクッキーはまさか…………」
どうやら絵心皆無の先程のクッキーは、白銀の騎士団の生みの親でもあるクッキー職人な、ジッタの従兄のお宅で生まれたらしい。
そのお宅のお嬢さんが、恋人に贈ろうと頑張ってメッセージクッキーを作ったのだが、どうしても上手くいかず、材料を無駄にした事を父親に知られないようにと、家の食糧庫の甕の中に隠しておいたらしい。
そのままクッキー祭りを迎えてしまい、今朝になって、何かが食料庫で暴れていると両親が気付いた時にはもう、クッキー達は逃げ出した後だったのだそうだ。
「ご主人様…………」
「まぁ、すっかりしょんぼりですね。もう怖いものはいなくなりましたよ?」
「…………おい、なんだあの連中は!」
「む。あのクッキーめは、私の仲間達が、美味しく平らげてくれたので…」
「そいつ等の方だ!殆どが悪食か祟りものか合成獣だったろうが!」
「なぬ。一年に一度しか共闘しませんが、良い仲間達なのです」
ネアはそう主張したが、アルテアはすっかり立てなくなってしまい、回復を見せたのは、ジッタが特製のパンを分け与えてくれたディノだけだった。
ジッタはそれを見て頷くと満足げに立ち去ってゆき、ネアは、抱えて帰れない大きさのアルテアは、仕方なくちびふわにしてしまい、そんなちびちびふわふわの使い魔を抱っこさせて貰った事で、グレアムも何とか持ち直したようだ。
「ネアはやはり凄いな。君が、シルハーンの隣に居てくれて良かった。…………俺たちが対処出来ない相手は、皆、君が滅ぼしてしまうものな」
「ふむ。私の大事な伴侶を襲うものは許さないのです!」
「フキュフ…………」
「ウィーミアは最高だな……………」
「アルテアが……………」
振り返ればもう、クッキーの集合体である巨大な兎怪物の姿はない。
ネアは折角なので近くにいるほこりに会ってゆこうとしたが、ちびふわが震えてしまうのでそのままリーエンベルクに戻る事にした。
とは言え、見通しのいい十字路のところで、ほこりに手を振る事は出来たので、雛玉の元気な姿を見れて満足だ。
エーダリアからは、ゼベルが通路側のクッキーをエアリエル達を使って一掃してしまうと、いつもとは違う手法でクッキーを貰った通路の生き物達が、ご主人様を探して街に彷徨い出たようだと伝えられた。
来年はまた、水路沿いでいつもの戦いに戻れるだろうかと考え、ネアは、こうして地元の生き物達と深めてゆく絆について思いを馳せる。
あの薬棚になるクッキー缶について、皆が楽しみにしていた再販については議論を呼んだようだが、バンルが、缶とクッキーを個別販売する意見を出し、無事に着地したようだ。
一個でもいいので入手したいと考えたネアは、今から予約開始の日を心待ちにしている。
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