168. クッキー祭りで巻き込まれます(本編)
夏の休暇が終わるとすぐに、ウィームには過酷な祝祭の日がやって来る。
街のあちこちにかけられた案内ポスターが、どうしてもファンシーになってしまうのが初見の者達の覚悟を促せない敗因の一つなのだが、クッキー祭りという名前から、この世界に来たばかりの頃のネアは、なんて可愛いお祭りだろうとほっこりしたものだ。
だがしかし、実際には、ばびゅんと飛んでくる固焼きバタークッキーに体に大穴を空けられ、命の危険を伴う恐ろしいお祭りで、毎年多くの犠牲者が出る。
特に堅焼きのクッキーはたいへん凶悪で、力持ちである高位の竜達ですら全力で戦わなければならない。
開封されたまま食べ残されたクッキー達の憎しみは深く、その復讐の火はそうそう簡単に消えはしないのだ。
幸いにもネアは、今迄の参加では事なきをえてきた。
だがしかし、今年のクッキー祭りには、そんなネアですら一筋縄ではいかないと背筋を伸ばさざるをえない、特別な規則が追加される。
「ディノ、今年は、何年かに一度起こる、特殊なお祭り形態なのだそうです。我々も、心してかかりましょう。備えというものは、多めにしておくくらいがいいのですよ!」
「…………バタークッキーではなくなるのかな」
「いえ、荒ぶるのは引き続き、食べて貰えなかったクッキー及び、このウィームのクッキーの大多数を占めるバタークッキーですが、今年は缶も混ざるのだとか」
「…………クッキー缶も、なのだね」
「ええ。ですので、ほこりの力に頼ってばかりはいられないかもしれません」
「あいつなら、缶も食うだろ」
遠い目をしてそう呟いたのはアルテアで、今年は黒一色の戦闘服だ。
去年までのクッキー祭りで余程思う事があったのか、たまたま適した服をクローゼットの中から発見したものか、珍しい装いにネアはまだ目が慣れない。
細身の黒いパンツに、どこか異国風な詰襟の黒い上着を着ているのだが、ネアが初めて見るその上着は、神父服と騎士服を合わせたような独特なデザインだ。
聞けばこちらの装いは、ヴェルリアの方で以前に流行った魔術師服であるらしい。
そして、なぜにこれかと言えば、冬海での討伐を見越して作られた衣装であるので、襟元や袖口の遮蔽が徹底されており、よりクッキーの侵入を防ぐのに適した装いなのだそうだ。
撥水加工が素晴らしいので、ざぶんと水を浴びれば容易くクッキーの粉を落とせるし、髪の毛などは魔術で乾かせばいい。
つまり、ひとたび荒ぶれば国一つを滅ぼしかねない第三席の選択の魔物ですら、ここまでの備えを強いられる恐ろしいお祭りなのだ。
「…………まぁ。結界の中に、クッキーに侵入される前提なのですね?」
「放っておけ。今年はもう、俺は参加しなくても良かったんだぞ」
「む、むむぅ。実は、久し振りにクッキー祭りに参加してもいいかなと仰っていたオフェトリウスさんもいたのですが、やはりほこりがいる以上はアルテアさんがいいかなと思ったのです…………」
「は?…………オフェトリウスが、何の用だよ」
「クッキー祭りは、身体能力を鍛えるのにとても有効なのだとか。特に素早く飛んでくる堅焼きクッキーを何度も相手にしていると、ちょっとした敵などか弱く見えてくるそうですよ?」
「…………クッキーが?」
「因みに、その教えを聞いてこちらのお祭りを訪れたヴェルリアの騎士さんは、残念ながら帰らぬ人となりました」
静かな声でそう告げたネアに、魔物達はぴたりと黙った。
ディノは真っ青になって震えているので、開始前にすっかり怯えてしまったようだ。
ネアはその隙に首にかけたゴーグルが曇っていないかを調べ、袖周りにクッキーの粉が入り込むような隙間がないか確認する。
備えを怠れば、服の中でクッキーの粉が暴れるという悲劇に見舞われかねない。
「王都の騎士団の、あいつの直属の騎士ともなれば、この国の筆頭騎士団だろうが」
「その方は、結婚のお祝いの堅焼きメッセージクッキーによって、半分になってしまったそうなのです。なお、残りの半分は直撃の激しさで爆散しました」
「ご主人様………」
「まぁ、ディノはそんな儚くないでしょう?」
「今年は、缶もあるのだよね?」
「ふむ。缶については、素敵な祝福結晶が飾られていたり、祝祭模様が描かれていたりと、なかなかの難敵なのだとか」
ネアのその説明により、魔物達はまた黙り込んでしまう。
アルテアの瞳にも微かな慄きが見えたので、やはり今日のクッキー祭りは、かなりの覚悟が必要なのだろう。
事前に説明をしてくれたエーダリアによると、缶の装飾によって、妖精の魔術や魔物の魔術を帯びる物もある。
その手の缶が荒ぶると、たいへん危険な事になるらしい。
「ただ、エーダリア様達はこの缶も含むクッキー祭りを二年連続で経験された事があるので、決して、乗り越えられない条件ではないのですよ」
「いや、おかしいだろ。ヴェルリアの騎士が死んだのは、通常の祭りだろうが」
「はい。おまけに、さしたるクッキーの流行もなく、特別に厄介な敵のいなかった年のお祭りだったそうです」
「……………クッキーなんて」
「排他結界の層を、もう一層重ねておくか………」
そんなやり取りがあったのだから、勿論ネアとて用心はしていた。
それなのに、事件が起きたのはリーエンベルク前広場での事だったのだ。
「……………ほわ、ここはどこなのだ」
「ほぇ、………何でネアがいるの?」
「おのれ、クッキー缶に拐われていたヨシュアさんを助けようとして手を伸ばしたのですよ!」
「………ふぇ。イーザとはぐれた…………」
「私も、ディノ達とはぐれてしまいました。おまけに、ここはかなりリーエンベルクから離れています。どうにかしてディノ達と合流せねばなりません。…………む、こやつは何者なのだ」
草地に転がされ、ネアは、腰をさすりながらよろよろと立ち上がった。
今年に初めて遭遇したクッキー缶の暴挙により、ネアは今、見知らぬ土地に放り出されていた。
(…………拐われてゆくヨシュアさんを、助けようとしただけなのに…………)
ネアはその時、リーエンベルク前広場でエーダリア達と共に今後の作戦を含めた本日の情報を確認し合っていた。
そこに、祝祭に限定販売される可愛らしい家の形をしたクッキー缶に運ばれている雲の魔物を発見し、慌てて助けようと手を伸ばしてしまったのだ。
そしてだらんと下がった雲の魔物の手を掴んだ瞬間、重量制限を超えたものか、どこかの空き地にぺっと吐き落されたのだが、そこはもうリーエンベルク前ではなかった。
隣にはディノとアルテアがいたし、正面にはエーダリアとヒルドが立っていた。
それなのに訪れた思わぬ展開には、さすがのネアも驚きを隠しきれない。
どうやらここは、川沿いの森林部のようだ。
うっすら霧がかかり、けれども近くには舗装された遊歩道とウィームの街灯が見える。
先程までお尻に触れていたのは柔らかな白緑色の下草で、細やかな水色の花が咲いていた。
(あの時にヨシュアさんに触れた事で、こんな遠くに放り投げられたという事なのだろうか…………?)
それにしてもと首を傾げたネアは、強い視線を向けられ眉を寄せる。
おまけにこの場所には、ネアとヨシュア以外にもう一人、くすんだ青色の髪の男性がいた。
艶やかな背中の中央程迄の髪を横に流して一本に結んだその人物は、淡い琥珀色の瞳を細めて、訝しむようにこちらを見ているではないか。
これは、見ず知らずの者達と突然どこかに放り出されたという困惑の眼差しかもしれないし、たまたまこの辺りを歩いていたら、ネア達が放り込まれて驚いたのかもしれない。
だが、その眼差しがあまり好意的ではなかったので、ネアは即座に、必要以上には関わらないようにしようと決断した。
「僕は知らないよ。……人間風だね」
「…………風、なのです?………明らかに貴族かなという装いの見知らぬ方を見ると厄介な相手という感じしかしません。ここに捨て置きましょう」
「…………待て。お前達は何なのだ。私は、宿泊していたホテルの前の歩道に立っていた筈だが、私に何をした」
「ほぇ、いらないかな」
「…………若干、そうしてくれ給えな感じもしますが、少しだけ判断を保留して下さいね。…………ディノ」
ネアはまず、その見知らぬ人物に対応するよりも先にと、心配しているに違いない伴侶の名前を呼んだ。
しかしなぜだろう。
ここは、明らかに見慣れたウィームの一画であるのに、すぐに姿を現す筈のディノは現れない。
ぎりりと眉を寄せて小さく溜め息を吐くと、ネアは、どきりとするような冷ややかな目で青い髪の男性を見つめているヨシュアの袖を、ぐいぐいっと引っ張った。
「なぜか、私の伴侶が呼べません。もしやここは、特殊な土地なのでしょうか。何か分かりますか?」
「僕は知らないよ。君が住んでいる土地だろうから、何とかするといいよ」
「…………いいですか、私は魔術の素養が上品めなのです。元はと言えば、クッキー缶に攫われていたヨシュアさんを助けたのが原因なのですから、早々に状況を解析するのだ」
「僕はとても偉大なのに、それを忘れてしまったのかい?僕の力を借りたいのなら、相応の対価を支払うといいよ。ネアは友達だから、これでも譲歩しているんだよ。………ふぇ」
すぐ横に、一秒たりとも深く関わりたくない人物がいるのだ。
離脱に焦る邪悪な人間は、今日は何かあるといけないのでとポケットに忍ばせていたきりん札を取り出しかけ、じっと雲の魔物の銀灰色の瞳を見つめる。
じわっと涙目になったヨシュアにふと、今日はターバンではあるものの、本来より暗めの髪色に擬態し、尚且つ顔の白い模様を隠している事に気付いた。
そのままの姿でいれば、白持ちの魔物だ。
この男性を威嚇出来たかもしれないが、白持ちの魔物と知り合いだと認識されるのも面倒なのかもしれない。
(でも、造作の変化はかけてないのだから、これだけ美しい魔物が低階位ではない事くらいは、想像をつけて貰えるだろうか)
そこでネアが遠い目になってしまったのは、これ迄に見てきた他領の貴族達がちょっと迂闊な御仁ばかりだったからだ。
最初は例外的に困った人が現れたのだとばかり考えていたが、何度か重なるとなると、契約関係にない人外者達との共存がそこまで進んでいない土地の人々には、想像力が及ばない範囲なのだろうかと考えるようになった。
そもそも、ウィームの住人達の常識を基準値にするのがおかしいのかもしれない。
(そう言えばエーダリア様も、多くの人達は、野生の高位な人外者さんを見慣れていないから、階位は低いのに美しくて、愛玩雇用されている人外者に違いないだろうと考える人達が多いのだと話していたっけ)
そんな者達にとって、高階位の人外者達はおとぎ話の中の存在なのだと言う。
であれば、当たり前のように高位者が街中を歩いていると考えられる者達の方が少ないのかもしれない。
何しろ王都ですら、ヒルドがただの見目の良さだけで雇用された妖精だという建前が通じてしまうのだから。
(……………この人も、ヨシュアさんを恐れたり警戒したりする様子はない、…………かな)
「私の質問に答えろ。…………お前たちは何者だ」
「通りすがりのクッキー缶に攫われ、ご近所だと思われるのに、なぜか家族が迎えに来てくれないどこかに放り出された、地元住人に過ぎません。あなたも、あのクッキー缶に攫われてしまったのでしょうか?それにしては、先程は姿が見えませんでしたが」
その関わりたくない御仁は少しばかり声を平坦にしたので、ネアは、これ以上蔑ろにすると暴れそうだなと、渋々事情を説明してみる事にした。
すぐにでも別行動とさせていただきたいのだが、ここで誘拐犯疑惑をかけられても割に合わない。
必要な弁明はしておき、拗れるようであれば後で内々に処理すればいいだろう。
何しろここにいる人間は、決して清廉な人間ではないのだ。
「………… その言い分を、私に信じろというのか」
「その言い分も何も、我々もまだ、なぜここに放り出されたのかをこれから解明してゆくところなのです。正直にお伝えすれば、見ず知らずの方であるあなたの面倒までは見切れませんので、どうぞご自身で対処されて下さい」
「…………ウィームの民は、穏やかで理知的だと聞いていたが、随分と前評判と違う人種がいたようだな。見たところ、…………平民………いや、魔術師か何かか」
(…………おや、)
ネアはここで、目の前の男性の観察力にひやりとした。
本日はクッキー祭りなので、ネアは乗馬服の装いである。
首にかけたゴーグルや、クッキーに負けないようにとはめた手袋といい、今まで以上に庶民的な服装なので、一見してウィームの歌乞いだと判別出来る要素はない筈だ。
ヨシュアとは暗黙の了解というような連携は取れないので名前を出される事についてはもう諦めているが、とは言えこのまま、取るに足りない誰かだと興味を失って欲しかったのだが。
それなのに、一度は平民だろうと言いかけたところで、男はぴたりと言葉を止め、なぜだかネアの事を、魔術師かもしれないと考えたらしい。
であればきっと、身に着けている道具類や服を見て判断したのか、与えられた守護を嗅ぎ付けたものか。
どちらにせよ、その鋭敏さは、このまま振り切りたい今は邪魔でしかない。
「ネアは魔術師になれないよ。可動域が極端に低いからね」
「お、おのれ!上品な可動域なだけなのです!!」
「ほぇ、でも君は、可動域なんて十もないのに。殆どの虫にも勝てないし、抵抗値が高くなければすぐに魔術浸食が始まるくらいの低さだよ」
「…………十、…………十?!」
正式には十もないのだが、青い髪の男性は、ネアの可動域に過分なゼロを増やす事なく正確に受け止めたようだ。
ぎょっとしたようにこちらを見ると、短く鋭く息を呑み、ずざっと距離を取られる。
「…………なんだ、その可動域の低さは。…………まさか、亡霊か?!」
その上、未だかつてない疑いをかけられ、ネアは淡い琥珀色の瞳の男性ににっこり微笑みかけた。
なぜかぴっとなってしまったヨシュアが逃げ出そうとしたので、擬態をしたからかターバンの中に仕舞っていない三つ編みをわしりと掴み取る。
「ふ、ふぇぇ!怒ってる!!」
「…………私は、亡霊ではありませんし、あなたがお疑いになっているように、そちらの事情にも噛んでいません。ただ、可動域が上品めで、クッキー缶に誘拐されたばかりの罪のない乙女なのです」
「…………怒ってる…………」
「ヨシュアさん、あなたは、どうして私の伴侶が迎えに来れないのかを、少し調べてくれませんか?仮にも誘拐を阻止したのですから、それくらいの報酬は払っていただきましょう」
「ふぇ、…………怒ってる」
(…………私から距離を置いたのは、魔術浸食を避けようとしたからだろう)
三つ編みを掴まれたヨシュアはめそめそ泣いていたが、今はそれよりも、このどこぞの貴族かなという仕立てと装飾の上着を着た男性をどうするべきか考えよう。
完全な他人なのでこの場に捨て置きたいが、こうして会話を始めてしまった以上は、何となくもう簡単にさようならとはいかないような気がしている。
本来であれば、いつの間にかここに放り込まれていた被害者仲間の筈なのだが、まだそう思われていないようだ。
まずは犯人ではないという理解を促し、その上でおさらばさせていただこう。
(……服装的に貴族なのは間違いなさそうだけれど、ヴェルクレアの人なのか、他国からの観光客なのか、どちらだろう………?)
どこか軍服めいた服装に、クラヴァットを留めている装飾ブローチの細工の細かさを一瞥し、ネアは異国からのお客にしても戦闘経験がある人物なのだろうなと考えた。
こちらに来てから磨き抜かれた才能なのだが、素敵な騎士達を毎日目にしている内に、人間であれば武術の経験があるかどうかの見分けが付くようになったのだ。
何と言うか、身に纏う魔術の気配のようなものがぱきりと硬質なのが、武術経験者である。
「…………ああ。お前が、私をこの場に迷い込ませたのではない事は分かった。その可動域では、私が反撃した瞬間に死ぬだろう。それどころか、転移を展開しようとしても死ぬし、魔術の道に一人で入っても死ぬだろう。いや、………ウィームを歩いただけでも死ぬのか?寧ろ、なぜこの道の上で死なないんだ?!」
「…………さすがに死に過ぎですし、もう少し丈夫だとは思いますが、どちらかと言えば、同じ立場の被害者だとお伝えしておきます。…………そして、ご覧になっていれば分かるかと思いますが、こちらの知り合いがなかなか不規則な動きをする方で、尚且つ、一緒にいた筈の伴侶と早急に連絡を取りたいので、今は手一杯だと付け加えさせて下さい」
「………あ、ああ。確かにその…………魔物か、…………扱い難そうだな。おい、このおかしな道を開けられないのか?」
「…………ネア、この人間は壊そうか」
「折角互いに着地点を見付けたばかりなのに、ややこしくなるからやめるのだ。そして、ウィームのお祭りで事件を起こさないで下さい」
「偉大な僕に対して、不敬ではないのかい?」
すいと目を細めて不機嫌そうな表情になったヨシュアは明らかに高位の魔物であるという美貌であったが、目の前の青い髪の男性がさして警戒していないのであれば、施した擬態が邪魔になって、正確な階位を測れずにいるのだろう。
だが、言動からもしやと思うことは出来たのか、その淡い琥珀色の瞳に僅かな緊張が走った。
「…………擬態をされているようだが、あなたは高位の魔物なのか」
「僕が偉大だと言えば、それはもう偉大な魔物なんだよ。そもそも君は、自分の領域にないものを軽視し過ぎる傾向があるみたいだね。とても不愉快だから、少し、魂の輪郭を削り落としてしまった方がいいのかもしれないよ」
その冷ややかな言葉に、男性がさっとこちらを見たが、ネアは、たまたま今は視界のピントが合っていませんという体を装った。
祝祭の日に、後々に面倒に転ぶかもしれないような、高貴そうなお客が不慮の事故で命を落とすのはまずいと思ったのだが、良く考えれば、今日は領外のお客が儚くなりがちなクッキー祭りだ。
積極的な幇助はいたしませんものの、ちょっと現状を解析して欲しいヨシュアの機嫌を損ねてまで守ってやる必要はない。
(ましてや、ヨシュアさんの怒りは尤もではないか)
顔見知りであるネアが、救出に尽力した対価を労働として求めるのと、見ず知らずの人間が、種族的な階位の差が顕著でありながら軽視するのとは訳が違う。
目の前の男性も整った面立ちだが、ヨシュアの美貌は擬態をしていても明らかに高位者のそれだ。
この男性は、ネアの可動域を知って距離を取るという対応は出来ても、異種族なりの礼儀というものがある事については失念していたに違いない。
「お前の知り合いではないのか、どうにかしてくれ」
「まぁ。今の仰りようは、こちらの魔物さんが不機嫌になるのも当然な口調でしたよ。見ず知らずの私が、自身の不利益を覚悟の上で口を挟むような事ではないでしょう。人外者の方に失礼を働いてもいいのは、相手がとんでもなく悪い奴か、確実に狩れるという確信がある時ばかりです」
「…………狩る?」
「ふぇ。ぼ、僕を狩ろうとしたら、ヒルドに言いつけるんだ!」
「なぬ。いつの間にそんな身の守り方を覚えたのだ」
「…………ヒルド、だと?」
その名前に、男性がぴしゃんと背筋を伸ばした。
もしやと思いそちらに視線を向けると、琥珀色の瞳を瞠った男が、こちらを窺うような目をする。
「…………そう言えば、ウィームの歌乞いが、先程聞いたような名前であった。さして記憶に残らない地味な面立ちだというのも一致している」
「………私は、不必要な議論をする手間を惜しむ方ですので、淑女に対しての失礼な評価については聞き流しましょう。………あなたはどこから来られた方なのでしょうか?私の存じ上げている方のお知り合いであれば、身分を明かして下さると助かるのですが」
その言葉に男は少しだけ考える様子を見せ、早くこの男性の目のない場所でカードを開きたくて堪らない短気な淑女は苛々した。
「その男は、ヴェンツェル様の剣の一人ですよ。因みに人間に擬態しておりますが、妖精です」
「ヒルドさん!!」
思わぬ声が聞こえ、ネアは、安堵にぴょんと飛び跳ねてしまった。
なぜかヨシュアもぱっと笑顔になり、慌ててそちらに逃げてゆこうとする。
ネアはなぜか、ここでヨシュアに負けるものかと思ってしまい、握り締めていた三つ編みをぺっと捨てると、ててっと走り込んで手を伸ばしてくれたヒルドの腕の中にぽすんと収まる。
先を越されたヨシュアが悲しげな声を上げたが、ヒルドはすぐに、そんなネアをぎゅっと抱き締めてくれた。
「………ご無事で良かったです。ここは、妖精の通り道と呼ばれる妖精の国とのあわいでして、恐らく先程の缶には、高位の妖精の守護がかけられていたのでしょう」
「…………それで、ディノの名前を呼んでも届かなかったのですね」
「いえ、ディノ様には届いておりましたよ。ただ、返事をする事が出来ないのと、この辺りの妖精の道はとても場が不規則なので、私が代わりにお迎えに上がりました」
「そうだったのですね。こんなお忙しい日に、私の不手際でご迷惑をおかけしました」
忙しい日なのにこんな所まで足を運ばせてしまったとへにゃりと眉を下げたネアに、微笑んだヒルドが首を振る。
「それも、いいえと。あのクッキー缶に、ネア様方を引き摺り込むだけの力があると、大きな被害を出さない内に判明したのは幸運でした。今は、エーダリア様と騎士達、そしてネイが討伐に参加していますが、シーの祝福がかけられていた事が判明しております。恐らく、今年の祝祭の中でも最も危険な缶の一つでしょう」
「ほぇ、僕が先に見付けたんだよ。イーザに噛みつこうとしたから、壊そうとしたんだ」
「おや、それで拐われ、ネア様を巻き添えに?」
「ふぇ、…………」
ひんやりとしたヒルドの微笑みにヨシュアはおろおろしたが、とは言えなぜか、そんなヒルドの背中の後ろに回り込んでいる。
「ヨシュア様…………?」
「ネアが、僕を苛めるんだ。守るといいよ」
「むむ!救いの手を差し伸べた対価を貰っていませんので、逃亡を阻止しただけなのですよ?」
「おや、であれば当然の措置ですね。…………ネア様?」
「むぅ。こうなって初めて、ヨシュアさんの背面を見たのですが、明らかに先程の缶めに噛み付かれた風の跡が残っています。どこか痛かったりはしませんか?」
「ふぇ、……………噛まれているのかい?」
「服に痕が付いているだけなので、痛くなければ問題はないと思うのですが、怪我をしているようであれば、傷薬を飲みます?」
「ふぇぇぇ!!噛まれた!!」
「なぜその認識だけでぎゃん泣きなのだ…………」
ネアが、泣き出したヨシュアを仕方なく撫でていると、先程の男性が、茫然としたようにヒルドの名前を呼ぶ。
「…………ヒルド」
「なぜあなたが、ウィームに?」
「上官から、ウィームで行われる祭りの話を聞いて、鍛錬に向いていると考えてこちらに…」
「なぜあなたが、ウィームにいるのかと尋ねた意味を、理解出来ないようですね。ウィームでは、あなたの入領申請を受理しておりません。政治的な立場がある以上、そう容易くこちらへ来られない事くらいは承知しているとは思いますが、まさかそれすら理解出来ていないのですか?」
「………っ、祝祭に顔を出したくらいで大袈裟ではないか。休暇は取ってある」
「やれやれ、それだけでは足りないという事が分からないのであれば、エドラに再教育を徹底させましょう」
呆れ顔で溜め息を吐くと、ヒルドはもう、その男性には取り合わなかった。
ネアもそれに倣い、妖精の道からの離脱を優先する。
「ネア!」
「ディノ!突然拐われてしまって、ごめんなさい。怖かったですよね?」
「怪我はしていないかい?怖かっただろう」
少しだけ歩くと霧が濃くなり、その後ふっと周囲が明るくなった。
するとそこには、迎えに来てくれたディノ達の姿があった。
わあああという、クッキー祭りの喧噪が届けば、先程までいた場所の奇妙な静けさは異様だったのだと、今更ながらに気付く。
ネア達は、同じウィームの中のどこか違う層に迷い込んでいたのだろう。
「おい!さっさとしろ!!」
「むむ、アルテアさんが、長寿のお祝いクッキーと戦っています………」
「うん。あのクッキーが、飛び込んできたばかりなんだ。君が襲われてしまうといけないから、アルテアが押さえてくれているよ」
「……………そう言えばそちらの方は、お話を伺う限り、クッキーと戦ってみようとしてウィームに来たのでは?」
「おや、であればその辺りに置いてゆきましょうか。一度は救助したのですから、もう自分で自分の面倒くらいは見られますね?」
「っ、………当然だ。そもそも、先程の場所も魔術の隔離地である事は分かっていた」
「それなのに、脱出するでもなくその場に留まり続けていたとなると、ますます危機管理がなっておりませんね。あれは、シーの道です。早々に離脱せねばそのまま妖精の国に迷い込んで戻れなくなるような魔術の道の分岐点でしょうに」
容赦のないヒルドの指摘に、青い髪の男性はぐっと言葉を飲み込むようにして黙り込んでしまった。
ネアは、そちらはもういいやと、杖まで取り出してお祝いクッキーを滅ぼした選択の魔物がぜいぜいしているので、慌てて水筒のお水などを差し出してみる。
「…………ったく。どこも損なわれていないだろうな?」
「あちらの、ちょっと面倒そうな方と出会ってしまいましたし、ヨシュアさんはぎゃん泣きでしたが、概ね良好です」
「………あの妖精は、第一王子の代理妖精の一人だな。頭の回転はいまいちだが、剣の腕は立つ。騎士団からの派遣という形で第一王子の護衛に入っていた筈だが………」
「……………という事は、クッキー祭りを推奨したのは、オフェトリウスさんなのでは…………」
「やれやれだな。まずはあいつをどうにかしろ」
「……………むむ」
ここで、カンカンカンという凄まじい音が鳴り響き顔を上げると、四角いクッキー缶の一団が襲来したところであった。
蓋部分を本体に打ち付け騒々しい音を立て、空を飛び交い、愚かな人間達を威嚇しているようだ。
ネアはすっかり出遅れてしまったが、周囲はもう、襲いくるクッキーとクッキー缶とで阿鼻叫喚の有り様である。
特に川沿いは、街中を抜けて開けた場所で敵を見定めようとするクッキー達が、多くやって来る場所だったらしい。
ここで、ふんと鼻を鳴らしたのは先程の妖精だ。
しゅわんと魔術の擬態を解いて羽を現すと、ネアは、彼が六枚羽のシーであった事に目を丸くした。
髪と同じくすんだ青色の羽は、下半分が透けるような琥珀色になっており、本体の事を考えなければ純粋に美しい。
しかし、どこからともなくすらりと剣を抜いたその男性は、向かって来るクッキー缶以前に、それっと茂みから現れたバタークッキーに囲まれてあえなく討ち死にしてしまう。
ぎゃーっという悲鳴を聞いて所詮その程度かと遠い目をしたネアは、ゴーグルをしっかりと装着し、戦いに備えた。
まだめそめそしているヨシュアについては、ヒルドがどこかに連絡を入れているので、すぐにイーザが迎えに来てくれるだろう。
しかし、そんな事を考えていると、迫りくるクッキー缶の部隊を大剣の一撃で粉々にして現れた魔物に、ネアは再び目を丸くする事になった。
したんと、降り立ったのは白灰色の優美な装いの、犠牲の魔物である。
擬態もせず、魔物としての姿を見せているグレアムは、胸に片手を当ててディノに優雅に一礼した。
「おや、君も参加するのかい?」
「シルハーン、少し厄介な情報が入りまして、今年は俺が同行させていただきます」
「うん、助かるよ。アルテアはほこりの様子も見なければならないから、ずっとこちらには居られないからね」
「シャルロウズのクッキーの限定缶が、どうやら騎士団を結成しているようです。あの限定のセットを、それも全て、誰が無駄にしたのかは知りませんが、缶そのものの価値もそれなりのものでしたので、厄介な敵になりそうです」
「……………まさか、あの薬棚の限定缶か?」
「アルテアも知っていたのか」
「…………困りましたね。シャルロウズの記念品でもあるあの商品には、花伯爵の魔物の祝福がかけられていた筈ですので、購入者には必ず食べきるようにと店側からも案内をさせた筈なのですが…………」
眉を顰めてそう呟いたヒルドに、白灰色の髪を揺らし、夢見るような灰色の瞳を細めたグレアムが静かな溜め息を吐いた。
「どうやら持ち主の精霊は、棒祭りで人知れずに命を落としていたようだ。シャルロウズのクッキーの事を聞いていた知人が家を訪ね、事態が発覚したらしい」
「ほわ、…………その缶は幾つくらいあるのですか?」
「全部で二十四個セットだな。それぞれに精緻な祝福絵が描かれた缶は小さな引き出しのようになっていて、重ねて飾る事で薬棚のようにも使える。それを見越して作られているだけあって、……………缶の作りが丈夫なのは間違いない」
「……………ぎゅわ」
「ふぇぇぇ!!!」
「無言で話を聞いていたヨシュアさんが、また泣いてしまいました…………」
「ヨシュアが……………」
川沿いの草地でばたりと倒れているヴェンツェル王子の剣の妖精は、海嵐の妖精なのだそうだ。
街の騎士団の手を煩わせる訳にもいかないと、ヒルドがひょいと肩に担いでどこかの診療所に放り込んでくるらしい。
幸いにもまだ息はあるが、鼻の骨が折られているそうなので、他にも骨折しているかもしれない。
(……………シャルロウズのクッキー缶!!)
ネアは、そんなお客の事は早々に意識からぽいしてしまい、次なる難敵に備え、きりりと背筋を伸ばした。
そんな素敵なクッキーセットが売られていた事は知らなかったので、どんな素敵な缶なのだろうと少しだけわくわくしているのは内緒である。




