夏休みと見知らぬお城 5
「ふは、…………むふぅ!」
「…………ネア!」
その時、ネアは湖から顔を出したばかりだった。
ざぶんと浅瀬に飛び込み、湖底散歩を楽しんでいたのである。
しかし魔術仕掛けで全く濡れない筈だったのに、ここで思わぬ事があった。
魔術仕掛けでとぷんと入り込んでいたので、湖面も揺らしていなかっただろうか。
ネア達の浮上に気付かず、湖に飛び込んで遊ぼうとした毛玉猫のような不可思議な生き物がおり、その毛玉がじゃばんと水を跳ね上げたのだ。
湖面に出た瞬間に魔術が解けたのか、ネアはその水飛沫をもろに浴びてしまった。
そして勿論、ずぶ濡れになってしまったのである。
「…………なぬ。びしゃりとなりました。ふさふさ尻尾が見えたのですが、にゃんこですか?!」
「あんな毛皮の魔物なんて………」
「まぁ、しかも魔物さんなのですね。魔物なにゃんこに出会うのは初めてで、…………ディノ?」
ネアは、ずぶ濡れで肌に張り付く服裾を何とか引き剥がしながらも、慌ててその生き物の姿を見ようとしたのだが、さっと立ち塞がって隠してしまう悪い魔物がいるではないか。
何とかその隙間から覗こうとしゅっと動いてみたが、そもそもディノは手足の長い男性で、三つ編みがふわんと揺れるものだから、結局、お目当ての猫は全然見えないまま、湖面の揺らぎまで収まってしまった。
「あんな魔物なんて………」
「む、むぐぅ!!」
「おい、何をやって…………っ、」
そこに、運悪く通りかかってしまったのはアルテアだ。
ネアはぎくりとして振り返り、なぜか赤紫色の瞳を丸くしてこちらを見ている使い魔にこてんと首を傾げる。
「……………アルテアさん?」
「…………さっさと乾かせ!」
「むむ?びゅんとお洋服が乾きました!」
「…………あんな毛皮の魔物なんて………」
「そしてディノは、まだにゃんこさんが見えないようにしているのです…………」
荒ぶる伴侶は、猫姿の魔物が見えないように壁になるのが精いっぱいで、ご主人様を乾かす作業を忘れていたらしい。
首より下の全身がびしゃびしゃになって服も張り付くようになってしまっていたので、乾かして貰うと、スカートがふんわりして動きやすくなる。
そのままざぶざぶと湖から上がると、なぜかアルテアにおでこを叩かれたが、今回は乾燥を手伝ってくれたので低く唸る事しか出来ない。
「ディノ、湖の中は綺麗でしたね!」
「うん………。あんな魔物なんて…………」
「見て下さい、アルテアさん。こんなに綺麗な湖水結晶を拾ったのです。中には、星の輝きが閉じ込められていて、素敵なお土産になると思いませんか?」
「お前はいっそ、月光鱒も手掴みで取った方が早いんじゃないのか?」
「つ、つれます!!湖の中におかしなものはいませんでしたし、今回はきっと、伸び伸びと美味しい月光鱒を釣ってみせます!」
拳を握ってそう主張した人間に、アルテアはどこか懐疑的な眼差しを向けていたが、この水辺を通りかかる前に何か用事があったことを思い出したらしい。
我に返ったように目を瞬くと、二度と服を濡らしたままにするなと注意を重ね、立ち去ってゆく。
「……………釣り上げてみせるのですよ?」
「うん。きっと、良いものが釣れると思うよ」
「毛玉さん達の宴が、一晩限りで良かったですね」
「昨晩のあれは、何だったのかな…………」
「謎大会でした…………」
実は、昨晩は、月光鱒の釣りを断念せねばならなかった。
湖面に暮らす毛玉妖精達の、宴だか競技会だか分からない謎の祝典が行われており、さすがにその真ん中に船を出して毛玉達の特設会場を破壊する訳にはいかないと、今夜に予定を変更したのである。
それなら仕方ないと食糧庫から材料を集め、水牛のチーズをたっぷり使ったピザなどで美味しい晩餐をいただいたのだが、今夜はリベンジでもあるのだから、立派な月光鱒を釣り上げたいところだ。
ディノが少し震えているのは、昨晩の毛玉達の祝典の様子が怖かったかららしい。
もわもわした生き物がぴょいぴょい弾むだけで、脱脂綿妖精のような虚無感はないものの、ノアも苦手なのか真っ青な顔をしていた。
「…………アルテアさんに叱られてしまったのですが、服を濡らされてしまうのも、情緒が足りないのです?」
「情緒なのかな…………。でも、あの姿だと危ないから、早く乾かしてあげれば良かったね」
「確かに、足に布地が張り付いて歩き難かったので、あのまま沢山動いたら、ばしゃんと転んでいたかもしれません」
自分の言葉に、ネアは、コットン素材の白い寛ぎ避暑地用のワンピースを見下ろした。
ふと、そんなに濡れていたなら、透けたりしていたのかなと気付いたのだ。
(…………むぅ)
だが、乾いてしまうと分からないし、下着は着ているので、透けていたにせよ水着風の被害しか出ていないだろう。
人間を惑わせるような高位の魔物にとっては、さしたる光景でもないに違いない。
であれば、他にいたのは伴侶の魔物くらいなので構わないやと考え、ネアは、今回の魔物にゃんこ水ばしゃん事件を記憶の彼方にぽいする。
ヒルドに見られたら少し恥ずかしいが、それはもはや気分的な問題なのだ。
「湖の中に入ると、月光鱒が泳いでいるのが見えました。水の中から流星群を眺めているような、不思議で美しい光景だったのです」
「気に入ったのなら、また来年も歩いてみようか。明日、また来てもいいね」
「ふふ。そうしたら、またあのにゃんこにも会えるかもしれませんね」
「あんな魔物なんて…………」
伴侶は荒ぶっていたが、ネアは、この避暑地の影絵の中で魔物を見るのは珍しいなと考えた。
このままの情景を留めるように設定された影絵には、魚達や小さな妖精達はいるものの、他にどんな生き物がどこまで生息しているのかは未知数である。
以前、エーダリアと共に迷い込んだ古い森は、偶然繋がった別のあわいという訳ではなく、この影絵が元より内包している場所だと言う。
であれば、より不可思議な生き物や大きな存在が隠れていても不思議はない。
とは言え、ディノ曰く、この影絵の性質上、訪れる物達を脅かさないように人型の生き物は閉じ込められていないようだ。
「今年こそは、立派な月光鱒を釣り上げて、ディノにも食べさせてあげますね」
「ご主人様!」
「旨味をぎゅぎゅっと閉じ込めた香草塩釜焼に、塩を振って串焼きにしただけの素朴な美味しさの丸焼き。アクアパッツァ風の、トマトと貝とでいただくお料理も予定されているのだとか。濃厚なバターと酸味の林檎のソースも美味しそうですし、新鮮なので、ラディッシュとフェンネルでタルタル風にも出来るそうですよ!」
「弾んでしまうのかい?」
そんな問いかけをするディノは、眩しそうに瞳を細めて目元を染めていた。
アルテアはすぐに止めにかかるが、こちらの魔物は伴侶が喜びに弾むのを見るのが大好きなのだ。
普段はあまり見られない垂直上昇行動だからか、或いは、純粋にネアが喜ぶ姿を好んでくれているのか、どちらにせよ嬉しそうに微笑んでいる。
避暑地の時間は、ゆっくりと巡る。
この日の昼食は、濃厚な海老とトマトクリームのソースのパスタがふるまわれ、ヒルドのビシソワーズも添えられた。
ノアがなんだか癖になったというので、夜の紅茶と合わせるおやつ用に、ネアは、午後にもう一度スコーンを焼く事にする。
さっと仰ぎ見るととても儚く遠い目をしたアルテアが首を横に振ったので、搾乳まではお願いしたものの、クロテッドクリーム作りはネア達で行う事にしたのだが、いざ作ろうとすると、乳搾りをさせられた以上はもう最後まで引き受けても変わらないと、アルテアが作ってくれた。
(気持ちのいい午後だわ…………)
瑞々しい薔薇の花びらに触れ、庭園を歩く。
寝椅子を出して湖畔で読書をしているヒルドに、エーダリアは、ノアと森に採取に出かけるそうだ。
スコーン作りを終えたネア達は、また涼しい風の吹く湖畔に出てきて、のんびりとした時間を過ごした。
さわりと木々の枝が風に揺れ、テーブルの上には、作り立ての自家製のレモネードがピッチャーで置かれている。
美味しい、木苺とホワイトチョコレートのクッキーは、スコーンを焼いているネア達の横で、アルテアがささっと焼いてしまった物だ。
明日のおやつにとブルーベリーたっぷりのマフィンも焼いてくれたので、ネアは、焼き立てのマフィンを先行して頬張っていた。
塩気のあるおやつは薄く切ったばかりのサラミで、こちらは、ネアのお気に入りの専門店で買った美味しいサラミの持ち込みになる。
スコーンを先行でいただいて、伴侶の手料理にぽわぽわしているディノに、どんな冒険をしたのか、なぜか泥だらけで帰ってきたエーダリア達に瞠目しているヒルド。
慌てて洗いに出されてゆくエーダリア達は、森の中の湿地帯で、珍しい夜沼草の群生地を見付けたのだそうだ。
その花からは素晴らしい魔術香油が採れるらしく、とは言え、あまり周囲で魔術を展開すると変質してしまうので、最低限の魔術をかけ泥んこになりながら花を摘んだらしい。
その話を聞いたアルテアも目の色を変えていたので、かなり希少な花のようだ。
だが、使い魔が泥だらけになるのなら洗ってあげた方がいいのかなと思って待っていたネア達のところに戻って来たアルテアは、どうやら沼地には入らなかったらしい。
「あの花が咲いているとなると、岸辺にティーロリーの実がなるからな。結晶化したものまで収穫出来るとは、思ってもいなかった」
「まぁ。食糧庫のお茶もそうですが、この中には珍しい植物が沢山隠れているのですね…………」
「おや、ティーロリーの実という事は、夜歩きの薬を作るのかい?」
「むむ、夜歩きの薬となると、アルテアさんが、夜に徘徊してしまうのです?」
「なんでだよ」
「夜歩きの薬は、夜空を自在に歩けるものなんだ。不純物のない星の光を集めたり、夜空の森に入り、月光の帯を回収したりする為に使うらしい」
「…………ほわ!」
それは何て素敵な薬だろうかとネアは目をきらきらさせたが、残念ながら、系譜の権限を越えるような薬は扱いが難しく、今回の材料では一人分しか作成出来ないらしい。
分けて貰って、一緒に夜空の森に出かけてゆく事は出来ないようだ。
星の木が生い茂り、様々な夜の系譜の収穫が出来るその豊かな森は、地上の夜を雲が覆ってしまう日にのみ、雲の上に現れるのだとか。
あまりの素敵さにネアが足踏みしていると、いつか、真夜中の座の精霊王に頼んであげようと、ディノが慰めてくれた。
ミカは、その森への正規の立ち入り資格を持つ精霊で、謂わば土地の管理者の一人である。
対する夜歩きの薬は、そのような夜の系譜の者達の私有地に、特別に侵入を許可する薬といったところだった。
午後の遅くから、夕暮れまでの一刻程を、ネアは怠惰にお昼寝で費やした。
窓を開けて爽やかな風が吹き込む心地良さを楽しみながら、明るい内から寝台に転がって過ごす時間は至福とも言えよう。
そうして転がりながら、夜の月光鱒釣りの為に英気を養ったのである。
そして、そんな月光鱒釣りの舞台は、夕暮れの青さが空に滲み渡り、紫紺の夜色が溶け出す頃に開かれた。
しゃりんと音を立て、バケツいっぱいの水晶の歯車が、紫水晶の船に積み込まれる。
星の光の滲む湖に、紫水晶の船を浮かべるのだ。
(なんて綺麗な夜なのかしら…………)
湖面には星空が映り、ぽわぽわきらきらと光る水の中の植物や、湖底で揺らぐ花々がなんとも美しい。
さあっと群れになって泳いでゆく月光鱒は、淡い月色を宿し星の光を湛えた湖の中で淡く煌めく。
湖面に垂れ下がった柳の葉の上には、湖の中の煌めく魔術の祝福をすくおうとしている小さな毛玉栗鼠の姿がある。
その辺りは特に、湖が輝くようなエメラルドグリーンに染まっており、水色と、湖底の方の瑠璃色との色の重なり方が、ほうっと溜め息を吐きたくなる程の鮮やかさであった。
「今年は、立派な月光鱒を釣ってみせます!」
「いいか、お前はまず、船から落ちないようにしろ。おかしなものを釣らないように、糸を垂らす場所にも注意するんだぞ」
「…………お母さんです」
「やめろ…………」
「ありゃ、アルテアはかなり警戒してるなぁ。…………ええと、その必要はないかもだけど、エーダリアも落ちないようにね」
「あ、ああ。湖に落ちないようにする」
紫水晶の船には、船を漕ぐ為のオールはない。
ここで過ごした王族達が優雅に水遊びをした船なのかもしれないが、ネア達は毎年、食料を得る為の戦いの舞台にしてきた。
とは言え、なかなかに酷使されているものの損傷の気配はなく、水棲棘牛や躾け絵本にあれだけ激しく引き摺られても、転覆すると思った事は一度もない。
手厚くかけられた守護は精緻で巧妙で、かつて利用した人々がどれだけ大事に守られていたかが、こんなところからも透けて見える。
「歯車を針につけるのだよね」
「むむ、ディノの手際が良くなってきています…………」
「くるっと、…………するのだろう?」
「まぁ!完璧な準備ですね。負けませんよ!」
「可愛い…………回してる」
「よいしょと。これで僕も準備は万端だ。後は、月光鱒を釣るだけだね」
「…………事態が起こる前に、晩餐分は確保してしまおう」
「ありゃ、エーダリアも慎重だぞ…………」
「…………わたしは、おさかなをつるのですよ?」
「いいか、ここで互いの足を交差しておくぞ。俺より前に身を乗り出すなよ」
「…………お母さんめ!」
踏ん張ったり湖底を覗き込んだり、船の上でも乙女の両足の役割りは多い。
であればせめて、足の置き場は自由が約束されるべきである。
ネアはあまりにも横暴だとじたばたしたが、結局、アルテアは少しも譲らなかった。
「えいっ」
赤い羽根飾りをそっと撫で、針に通した水晶の歯車をぽしゃんと湖面に投げ入れると、朝靄を紡いだ銀色の釣り糸が細い放物線を描く。
睡蓮の葉の上にいた小さな妖精達が、何が行われているのだろうと葉っぱの縁に集まって湖を覗き込んでいて、遠くの湖岸にはずぶ濡れの毛皮の塊のような物が上がる姿が見えたが、すぐに夜闇に紛れて草地の中に見えなくなってしまった。
(昼間に見た、猫さんかしら…………)
そんな事を考えながら湖の底に揺れる花畑をうっとりと眺め、星空のように煌めく湖面に広がってゆく波紋を目で追った。
今回もヒルドは湖畔に待機し、もし船の事故などがあればすぐに対応出来るようにとこちらを見ていてくれる。
焼き場や調理器具の準備は整えられていて、こんな穏やかな夜なのだからと、今夜の晩餐も外でいただく事になった。
「うーん、今年は当たりが遅いね」
「もしや、昨晩の毛玉のお祭り騒ぎで、月光鱒がすっかり警戒しているのでは…………」
「特に問題のある泳ぎ方には見えないな。この位置だと、湖面の輝きで水晶の歯車が視認し難いのかもしれないが…………」
アルテアがそう呟き、ノア達が船を移動するかどうかで思案に入ろうとしたところで、まずはエーダリアの釣り竿に動きがあった。
(…………あ!)
赤い羽根がわさわさ揺れ、釣り糸がぴんと張る。
はっと息を呑んだエーダリアが、獲物を釣り上げる為にとリールを巻き始めるとすぐに、ノアがあっと声を上げた。
「こりゃ、満月鱒だね。わーお、ご馳走だぞ」
「満月鱒か!…………逃がさないように、慎重に釣り上げなければだな」
「ま、まんげつます!」
「おい、お前は何もかかってないだろうが。落ち着け」
「まんげつますは、ご馳走なのですか?」
「夜の食楽の祝福を持つ月光鱒の事だ。通常の月光鱒より遥かに美味だと言われているし、実際にこちらの方が断然美味い。とは言え、揚げ物にすると味が落ちるから、焼くか生で食べるかのどちらかだな」
「じゅるり…………」
ネアは自分の釣り竿の監視も忘れ、エーダリアと満月鱒の死闘を見守った。
固唾を呑んで見守るその先で、ざぶんと湖面が揺れ、糸がぎりぎりと張り詰める。
ネアは、どこかにいるかもしれない食楽の誰かに、満月鱒が食べられますようにと祈ってしまい、エーダリアの袖を捲った肘下の腕の筋肉に、ぐぐっと力が入る様に、負けないで欲しいと拳を握った。
ばしゃん。
その直後に水面に跳ねたのは、何とも立派な鱒の姿だ。
はっとする程に鮮やかな月光色で、背びれとお腹の下にだけ、鮮やかな瑠璃色の線が入っている。
「よーし、そのまま維持していてくれるかい?僕が、網で応戦するから」
「あ、…………ああ!頼む…………!!」
エーダリアが苦し気なのも、当然の事ではないか。
月光鱒にも大きな物がいるが、今回の満月鱒は、立派な鮭くらいの大きさである。
しっかりとした体に、力強い動きを見ていると、かなりの踏ん張りを有する獲物なのだろう。
その光景を見たネアは、たいへんに現実的な人間であったので、もし自分の針に満月鱒がかかったら、すぐさまアルテアに任せようと心に誓った。
自分の手柄にしたいという思いは当然あるものの、そんな自尊心の為に、美味しい時間を失いたくはない。
「よーし!」
「釣れた!!」
「まんげつます様!!」
程なくして、皆の待望の満月鱒が、網に入った。
びちびちと暴れる鱒を落とさないよう、ノアが魔術で網周りに覆いをかけてしまうと、素早くバケツに移動する。
大振りな月光鱒を何匹も入れられる筈だったそのバケツは、満月鱒一匹でもとても窮屈そうだ。
「…………鮮度を落としたくないな。活き〆にしておくか」
「いきじめ…………」
「ありゃ、アルテアが…………」
「アルテアが…………」
ノアやディノが茫然とする中、すっかり料理人の顔になってしまったアルテアが、どこからか取り出した道具で、満月鱒を手早く〆ている。
随分と最初に釣れてしまったこともあり、本来は湖の底の方で暮らす満月鱒は、早めに処置を施した方が鮮度が落ちないのだとか。
そして、そうこうしている内に、今度はノアの釣り竿にも動きがあり、こちらでは立派な月光鱒が釣り上げられた。
「…………おや、かかったようだね」
「ディノの羽も、わさわさしていますよ!」
「おい、お前の釣り竿にもかかってるぞ」
「ぎゃ!月光鱒!!」
ディノは、まだ釣りの初級者である。
自分の釣り竿に専念しなければならないので、アルテアが、自分の竿にかかっていた月光鱒を驚くべき早さで釣り上げてしまい、すぐにネアの釣りの補助をしてくれた。
そうして引き上げられたのは、見事な月光鱒である。
あまりにも見事な大きさなので、ネアは感動のあまり目頭が熱くなってしまったが、同じように立派な月光鱒を釣り上げた伴侶が誇らしげにしているので、まずはそちらを誉めてやった。
「これでもう、月光鱒釣りは会得したようなもの!これから、どんどん釣りますよ!!」
「ここでやめておいたらどうだ?お前がはしゃぐと、いい予感がしない」
「不吉な予言をするのはやめるのだ…………」
「おっと、またかかったぞ」
「…………私の方も、今度は普通の月光鱒だったか………」
二匹目の釣果に恵まれた家族とは違い、ネアの釣り竿には、なかなか二匹目がかからなかった。
その隙にエーダリアが二匹、ノアが三匹、アルテアが四匹のディノが一匹という、なかなか立派な結果が出てしまえば、食べる量的にはもういいかなという頃合いになる。
月光鱒は保存食にもなるので、沢山釣れた場合は処置をしてお土産にしていたのだが、今回はより大きな満月鱒があるので、このくらいでも充分なのだそうだ。
ネアがその間に釣り上げたのは、謎の手帳だったので頭に来て湖に投げ捨ててしまい、何かがびっしり書き込まれた手帳に興味があったらしいエーダリアとノアが、ああっと悲しげな声を上げる。
(確かにもう、立派な月光鱒は釣り上げたけれど…………)
それでも、皆が順調な成果を上げている中、一匹限りでは悔しいではないか。
そう思ったネアが、むぐぐっと眉を寄せた時の事だった。
がくんと、船が揺れたのだ。
「ぎゃ!釣り糸がびいんとなりました!!!」
「ネア、アルテアに代わって貰った方がいいのではないかい?」
「お前は、またなのか…………」
「ありゃ、なんか今迄にない動きだね………」
「…………こ、これは!!湖鱗竜ではないか!!」
まだまだ糸にゆとりがあるので、ぐいんと泳いで船の前側に向かった獲物を、ガレンの長でもあるエーダリアは見逃さなかったらしい。
弾むような興奮の声に、覆いかぶさるようにして釣り竿を引き継ごうとしてくれていたアルテアが、はっと息を呑む。
「…………いいか。絶対に離すなよ」
「むぐ!!」
ネアはどうやら、皆が大興奮してしまうような、素晴らしい獲物を引き当てたらしい。
以前に棘牛を釣り上げた際にだって美味しい特別さはあったものの、その時とは比べ物にならないくらいの熱い空気を、ひしひしと肌で感じる。
アルテアの腕の中できつく背後から抱き締められるようにして釣り竿を共に握り、ここだというところで、ネアは素早く手を放してその場から離脱する。
しゃがんで手の輪をくぐり、その場から離れると、周囲でおろおろしていたディノが、しっかりと抱き締めてくれた。
「ネア、怖くなかったかい?」
「はい。そこまで大きくはないようなのですが、しゅばんと左右に暴れる、力強い頭脳派の獲物でした」
「頭脳派の獲物…………」
「湖鱗竜は、結晶化して希少な資源となるのだ。血の結晶を溶かせば水辺の系譜の呪い封じになり、骨から作るペンは、魔術書を作る際には欠かせない。一年に数回、祝祭の後の夜にしか現れないとされる、珍しい竜なのだ」
「僕の妹は、いつも凄い物を釣るなぁ…………おっと、」
ぎゅんと、船がその獲物に引っ張られる形で激しく動く。
ネアは甲板に転がらないように、燭台立ての支柱を慌てて片手で握り締めたが、ディノにしっかり抱き込まれてほっと息を吐く。
船のへりに片足をかけて、荒れ狂う獲物と戦っている選択の魔物は、今迄の避暑地の湖での戦いとは比べ物にならないくらい、好戦的な眼差しをしていた。
拳を握って観戦しているエーダリアもだが、ノアまでもが一生懸命応援しているとなると、湖鱗竜釣りには、この世界なりの男の浪漫的なものが詰まっているのかもしれない。
また今年も、獲物に激しく湖を引き摺り回される紫水晶の船に、湖面の睡蓮や柳の葉に暮らす小さな生き物達が、目を丸くしてこちらを見ていた。
中には、あまりの荒々しさにこてんと気を失ってしまった毛玉妖精もおり、そよそよと夜風に揺れる柳の葉にハンモックをかけていた栗鼠は、慌てて大事な寝床が濡れないようにと持ち上げている。
じゃばん!
激しい水音と共に、とうとう湖鱗竜が釣り上げられたのは、長い戦いを経ての事であった。
晩餐用の獲物を入れたバケツは、ノアが湖畔に移動させてくれていたお蔭でひっくり返りはしなかったが、白い髪を乱した選択の魔物がぜいぜいしている様は、どこか無防備で色めいてすら見える。
額にうっすらと滲んだ汗が、この戦いがどれだけ厳しかったのかを物語っていた。
「本来はさ、祝祭の余韻を残して浮かれる人間達を、湖の底に引きずり込んで食べる竜なんだよね。だから、一人で釣り上げるのは、かなり難しいんだ」
「まぁ。………それなのに、アルテアさんは一本釣りだったのです?」
「うん。一応は第三席だし、どうにかなって良かったよ。…………わお、青藍がかった湖鱗竜となると、かなり上位だね。こりゃ貴重な資源になるぞ」
「尾びれを見てみろ。白持ちだ。…………この尾びれの結晶だけで、ひと財産だな」
「人間にしか接触しない竜だから、僕達だけじゃ出会えなかったね。うん。今夜は運が良かった!」
「昨晩の妖精達の宴が、祝祭の役割りを果たしたのだろう。三重属性というのは、随分と珍しいね」
「私も獲物を見ますね。……………なぬ」
わいわいしている男達の間から、甲板に上げられるなりぴしりと結晶化してしまった不思議な獲物を見下ろしたネアは、茫然と立ち竦んだ。
名前からして、小ぶりではあるが、きっと美しい竜なのだろうと思っていたが、甲板に転がっているのは鰻状の何かが結晶石の棒に成り果てたような物体でしかない。
釣りの最中は、あまりにも素早く動くので、星明りに煌めく鱗しか見えていなかったが、鋭い背びれや長い尾びれを持つ鰻と言うのが、この竜の形状のようだ。
「にょろにょろ系なのです…………?」
「これは、光竜や咎竜の系譜のものではないんだ。湖に差し込む、祝福の光の筋から派生するので、このような形状になるみたいだよ」
「そして、今や棒状です…………。水揚げされると、こんな風にぴーんとなってしまうのですね…………」
「ぴーんと…………」
思っていたものとは違う感に引き続き茫然としているネアに対し、船を船着き場に戻しつつ、皆は、この湖鱗竜の分配に大盛り上がりであった。
リーエンベルク側とアルテアで二等分する事になり、アルテアはお目当ての尾びれの方を、そしてエーダリアは、貴重な湖の瞳も手に入れる事が出来て、すっかり笑顔になっている。
「お前の分は、俺の取り分からペンを作っておいてやる」
「…………鰻ペン…………」
「何だ、あまり乗り気じゃないのか?」
「ネア、魔術記号や術式に触れる場合は、とても良い働きをする道具になるから、作って貰った方がいいと思うよ」
「…………ふぁい。では、アルテアさんにお願いしてしまいますね。…………うにゃぎ…………」
余談だが、ネアの祖国には鰻をぶつ切りにしたゼリー寄せがある。
今回の獲物はすっかり全身が結晶化しており、見様によっては綺麗なのだが、ネアはどうしてもそのゼリーを思い出してしまい、眉をへにゃりと下げた。
だが、思ってもいなかった獲物に恵まれ、仲間たちは大変活気づいている。
「…………むぐく。………良い獲物でした?」
「とても良いものを釣ったね。………ネア、満月鱒のタルタルを作るそうだよ」
「タルタル様!!」
「ったく、少し待て」
やがて、美味しい匂いがしてくると、白葡萄酒や杏の果実水などを用意しての晩餐の時間だ。
脂の乗ったタルタルを美味しくいただいて弾み、塩釜焼きを割る為に木槌を握らせて貰う。
はふはふと焼き月光鱒を齧っていた時に、ずぶ濡れの猫的なものが足元にごろにゃんとやって来たのだが、ネアはぐるると唸って威嚇すると、不埒な獣を手荒く追い払ってしまった。
「今年も、いいお休みになりましたね」
「うん。ゆっくり休めたかい?」
「ふふ。明日もまだあるので、一緒に、沢山お散歩して、ごろごろしましょうね」
「ご主人様!」
穏やかな夜の中で、家族でテーブルを囲み、美味しい料理を頬張る。
ネアは、この夜に、アクアパッツァには香り高い霧小麦と紅茶のパンが最適であるという歴史的な大発見をし、素晴らしい時間を過ごした。
ただし、後日届けられた美しい彫り物のある鰻ペンについては、必要とされる日まではと、そっと金庫の奥にしまわせて貰ったのだった。




