夏休みと見知らぬお城 4
翌日は、昨晩の嵐の気配をどこにも残さない晴天であった。
とは言えウィームの影絵らしく、朝には濃い霧が立ち籠め、木々の枝葉や花々をしっとり濡らす。
伴侶とゆっくり過ごし、真夜中にのんびりお風呂に入ったりしていたネア達も、遅くまで躾け絵本の解析を行っていたらしいエーダリア達も、この日ばかりは朝寝坊を決め込み、休暇の二日目の朝食は昼食と一緒にされる事になった。
ネアはもう、この小さなお城の寝台と部屋の居心地が素晴らし過ぎると讃えるしかないくらいに、ふかふかでいい匂いのする枕に顔を埋め、幸せな眠りに溺れていた。
だが、お休みの日の時間とて有限である。
どれだけ素敵な経験を重ねるのかは、自分のやる気次第だ。
「……………むぐ。……………ぐぅ」
「可愛い、沢山動いてる…………」
残念ながら怠惰さに磨きをかけた人間は、しゃきんと起き上がろうとしたはずなのに、くたりと倒れてまた寝台に溺れてしまった。
もがもが暴れているので、伴侶の動きの多さに、ディノは喜んでくれているらしい。
ご満足いただけたのなら幸いであるが、最終目的は起き上がってお散歩に出る事なのだ。
心ゆくまで眠るのも贅沢さだと心得ているが、それはせめて、いつものお家での休日に行うべきだろう。
きらきら光る澄明な湖にかかる朝霧や、まだぎりぎり朝露が残る花々を楽しむつもりで朝のお散歩用のサンダルを用意してきたのだから、ここで負けてはならない。
サンダルは、海遊び用にアルテアが作ってくれた物なのだが、最近、朝露に濡れた草地を歩くのも気持ち良いと知ったばかりだ。
湖に足を浸けたりも出来るので、しゃばりと水遊びをしたいときにすぐに挑めるよう、予め履いておくのがいいだろう。
「……………おきまふ」
「目は閉じたままなのかい?」
「むぐぅ。…………このまま、こてんと倒れてしまわないよう、伴侶は支えてくれるのです?」
「背中でいいかい?」
「ふぁい。顔を洗うと思うと挫けてしまうので、まずは立ち上がる事を任務としますね」
「立ち上がるのだね」
かくしてネアは、ディノの助けを得ながら何とか魅惑の寝台から起き上がり、頑張って顔を洗った。
その頃には朝霧が薄れかけてしまっており、少し慌ててしゅばっと階段を駆け下りて庭に出る。
幸い、庭にはまだひんやりとした空気が残っていた。
森の方には乳白色の霧が立ち籠めており、庭の紫陽花の葉には、朝露が宝石のようにきらきらと輝いている。
僅かな風に揺れる花々には、この影絵の中に住んでいる妖精達のぽわぽわした影もあるようだ。
「…………ふぁ。何て気持ちいいのでしょう!頑張って、あの素敵な寝台から起き上がった甲斐がありました。………ディノ?」
「三つ編みにしようか」
「…………手を素早く引っ込められてしまいましたが、昨日は繋いでくれましたよね?」
「………うん」
「なのに、今朝は三つ編みなのです?」
「昨日は、…………頑張ったからね」
「なぜにそんな覚悟が必要なのだ…………」
とは言えネア達は、朝霧の残る庭園をゆっくりと散歩し、湖畔で朝の湖の色を紡いでいたヒルドに出会ったり、一仕事終えた感じで腕捲りをしてどこかから帰ってきたアルテアに遭遇したりした。
アルテアについては、何やらとても満足げなので、いい収穫があったのかもしれない。
何を収穫したのだろうと口をむぐむぐさせて見上げると、唇を指先で摘まれてしまい、ネアは怒り狂った。
避暑地の遅い朝は、清々しくうっとりするような美しさで、星の光を湛えた湖の畔には、沢山の花が咲いていた。
ネアは、昨晩の嵐の副産物として、綺麗な紫陽花結晶と薔薇の香りの結晶石を収穫し、どこか秘密めいていて、どこか長閑な時間を終える。
ヒルドによると、夜が明けたばかりの時間には沢山の霧が鹿の姿を模したものが駆けていたそうで、そちらも、この土地の魔術基盤が姿を取ったものであるらしい。
「さて、いよいよですね!」
「…………虐待」
「ぎゅっとくっついて耳打ちしただけなのに、なぜ息も絶え絶えになってしまうのでしょう………」
散歩が終わると、いよいよ、楽しみにしていた食事の時間である。
搾りたての牛乳などのこの影絵の中で集められた新鮮な素材も美味しい朝食兼昼食は、ネアが挑んだ焼き立てスコーンと、アルテアが心を無にした表情で搾乳から挑まされたクロテッドクリームが添えられ、そこにはたっぷりの果実のジャムも並ぶ。
森苺に星林檎、お酒の風味のあるマーマレードは、鐘楼オレンジというウィームでは珍しいオレンジを使ってあるのだそうだ。
だが、甘いだけでは立ち行かないのが食事である。
そこに添えられたのは、たっぷりのローストビーフと、香草焼きの鶏肉、そして白葡萄酒で煮込んだ塩棘豚のパイだった。
その豪華さから察せる通り、即ち、この食事こそがヒルドの誕生日会なのである。
「ありゃ、今年はケーキじゃなかったんだね」
「ええ。ネア様の祖国の味だと聞き、私がスコーンをとお願いしました」
「あ、そっか。妖精は、愛し子や庇護を与えた人間の、家庭の味や祖国の味が好きだったっけ」
ネアは、本当に素朴なばかりのスコーンでいいのかと、思わず何回かヒルドに確認してしまったが、そんな理由があったらしい。
種族性の嗜好であれば一安心だと、ほっと胸を撫で下ろした。
馬車の呪いなど、近々で色々な事件があったので、手のかからないお菓子を指定してくれたのかと考えたが、主賓の要望をむげにも出来ず少しだけ心配していたのだ。
「妖精さんは、そうした料理を喜んでくれるのです?」
「おや、ネア様には話しておりませんでしたか。我々妖精は、心を傾けた者の家庭の味や祖国の味を好みます。料理というのは、愛情に纏わる贈り物ですからね。相手を育んだ料理に触れるという事が、即ち、こちらの庇護や守護を受け入れられるという行為として見做されるからでしょう」
「スコーンは、簡単に焼けてしまうので、少しだけ、はらはらしていたのです。…………ただ、我が家のスコーンは、もそもそしないふっくら仕上げを意識した、ふかふかさっくりの特別レシピなのですよ!母の音楽の師や養父がたいへんな美食家だったそうで、何度か改善を重ねて行き着いたレシピなのだとか」
後半からついつい熱が入ってしまったネアがそう説明すると、ヒルドは、どきりとするような美しい微笑みで頷いてくれる。
自分が愛する料理をこうして受け入れてくれる姿は、なんて柔らかく温かいのだろう。
だからこそ妖精達は、大事な相手の心に残る料理を喜ぶのかもしれない。
思えばヒルドは、エーダリアが気に入っているリーエンベルクの料理をとても評価している。
そこにも、もしかしたら、この妖精種の嗜好が影響していたのかもしれない。
(…………リーエンベルクの料理人さんに、今年の誕生日のご馳走としてお願いした中に、鶏の香草焼きがあるし…………)
スープや前菜も含めた料理は、リーエンベルクから持ち込まれたものだ。
そんなリーエンベルクの厨房では、誕生日会の料理への注文を取ったようだが、ヒルドが選んだ料理はどれも、エーダリアやネアが好きな料理ばかりではないか。
パイはアルテアの料理だが、他にもウィームの伝統料理である、牛コンソメの琥珀色のスープなども揃い、美味しそうな揃えの素晴らしさに、ネアはむふんと口元を緩ませてしまう。
当初は今夜の晩餐をヒルドの誕生日会に充てる予定であったが、月光鱒釣りで毎年波乱の展開となっている事を踏まえ、今年は朝食兼昼食が誕生日会となった。
また、これは急遽提案された躾け絵本対策でもある。
統計上、躾け絵本は夜に現れる事が多いので、もし他にも取り逃がしている個体がいた場合、彼らに誕生日会の邪魔をされないようにと開催時間の変更となった次第だ。
「よいしょ。今年のとっておきはこれだよ」
「…………ネイ」
「ヒルドは、僕の友達だからさ。それに、森と流星の酒探しって、意外に楽しいし」
「まぁ、ヒルドさんの大好きなお酒ですね。また見付けられたのですか?」
湖の湖畔の、木陰が綺麗なレース模様のように落ちる場所に、夜結晶のテーブルが出された。
そこに皆で集まり、お祝いの準備をする。
ネアは、もきゅもきゅとご馳走を狙ってやってきた毛玉妖精を、拾い上げて遠くに投げておいた。
そんな中、ノアがテーブルに置いたのは、ヒルドが好きだという特別なお酒だ。
今はもう作る者達がおらず、残されている物を探すのは大変な筈なのに。
「うん。探せばあるもんだよね。それに今回の物は、コルクが結晶化してるくらいに状態がいいんだ。期待していてよ」
「………成る程な。アイザックが秘蔵の酒を取られたと話していたが、お前だったか」
「ありゃ。前から彼が欲しがっていた、古い魔術式できちんと対価は支払ったよ。ただ、それが固有魔術ではなくて一般的な術式を何層かに重ねた物だったっていうのは、アイザックの側の認識が誤っていただけだからね」
青紫色の瞳を細めてにんまりと笑ったノアが対価にしたのは、販路という物を増強する為に有効な、古い街道の祝福と呼ばれる魔術なのだそうだ。
実際の道だけではなく、概念的なものにまで効力があるので、例えばお得意や小売店との繋がりを維持する為にも有益である。
思っていた物とは違えど効果は変わらないのだから、今後、アクス商会の助けにはなるだろう。
「ヒルド。今年も本来の日にちからは遅れての開催となってしまったが、こうして皆でお前の誕生日を祝えるのは幸せな事だ。…………おめでとう」
「あら、エーダリア様はちょっぴり涙目なのです?」
「………っ、気のせいだろう」
エイコーンの府王候補の事件以来、少しだけヒルドへの愛情表現が深くなってしまったエーダリアは、おめでとうという短い言葉に万感の思いを込めたようだ。
ぐっと言葉に詰まって涙目になってしまい、意地悪にそれを指摘したネアのせいで視線を彷徨わせる。
そんなエーダリアを微笑んで見つめているノアも優しい眼差しだが、ヒルドも、恥じらうエーダリアにふっと、愛おしくて堪らない相手を見るような慈愛に満ちた眼差しを見せた。
ネアは、そんなヒルドの表情の美しさにぎゃっとなってしまったが、ここで過剰に反応すると伴侶な魔物が拗ねるかもしれない。
すかさずディノの手をぎゅむっと握ってしまい、何とか堪える。
だが、通り魔的にいきなり手を掴まれた魔物は、きゃっとなって弱ってしまった。
綺麗なミモザ色の布ナプキンに、淡い水色の取り皿。
並んだ料理は、ご馳走ではあるがどれも慣れ親しんだものばかりで、だからこそ家族の誕生日会への期待を高めてくれる。
「グラスはさ、これを使おうよ」
「おや、流星水晶のグラスだね」
「そうそう。ウィームの王朝時代の物らしいんだけど、本当にウィームの職人が作ったのかなって試しにリーエンベルクに持ち込んだら、反応的に間違いなさそうだね」
「という事は、最近の買い物なのだな」
「この前、出先で見付けたんだよね。この表面の細工の細かさが、いい仕事だよね。古いウィーム王家の紋章に少し似てるかな」
「…………そうなのか」
そんな一言でエーダリアも目をきらきらさせてしまい、ネアは、素敵なグラスのセットが、どこかのお店に残されていてくれた事に感謝した。
全体的に模様を彫ってあるのではなく、繊細な花輪模様の中に紋章めいた枠取りがあり、その中に咲いた薔薇がこぼれ出るようなデザインだ。
紋章部分の上に表現されたのは、どこか十字架のような信仰や荘厳さを思わせる精緻な雪の結晶を模した宝飾品めいた絵柄で、今のウィーム領の紋章にも通じる物がある。
そんな特別なグラスに注がれたのは、森と流星の酒だ。
幸せな食卓の始まりの合図のように、柔らかな湖畔の木漏れ日を映して、きらきらと輝いた。
「え、ジャムもネアの手作りなの?」
「はい。マーマレードはザハの新商品ですが、森苺と星林檎は私が作ったのですよ。クロテッドクリームは、こちらの牛さんの牛乳がとても美味しかったので、是非にこちらで作ろうと思ってアルテアさんに相談していたのです」
「アルテアが、乳搾りをしてくれたのだよね」
「わーお。ある種、僕のお酒よりも希少なんじゃないかな…………」
「………こいつ等に任せられると思うか?」
暗い目でそう言われ、ノア達がネアとディノを見る。
乳搾りくらいは出来る筈だと自負していた淑女は、相変わらず、やってみるとさして上手ではなかったのでさっと視線を逸らした。
ディノについては、双方が怖がってしまい乳搾りにはならない。
ほかほかと湯気を立てている焼き立てのスコーンは、中央から手で割って、クロテッドクリームとジャムをたっぷりと。
祖国では様々な議論や信仰があったが、ネアは、クロテッドクリームを先に塗る派だ。
ジャムの上に塗ろうとしてより高価なクリームをぽたんと落とした事があるので、ここばかりは譲れない。
「とは言え、こちらに来てから、やっと懐かしいレシピを取り戻せたのです。美味しいスコーンは、バターやクリームなど高価な素材を使いますから。………むぐ!」
「ネア。バターやクリームくらい、幾らでも買ってあげるよ」
「ふふ。こんなに頼もしい伴侶がいるので、またスコーンも焼きましょうね」
「ご主人様!」
古くなったパンを安価に購入して作れるフレンチトーストよりも、スコーンは、いつだって憧れのお菓子であった。
紅茶のスコーンやクリスマススコーンはより材料にお金がかかるし、ネアの一番のお気に入りはスパイスの効いたクリスマススコーンなのだ。
なので今回は、季節外れなのを伏せてクリスマススコーンとプレーンスコーンを焼いてしまい、こっそり憧れを叶えている。
(こうして、…………また家族とスコーンが食べたかった)
美味しいものを分け合い、たくさんお喋りして誰かの誕生日を祝う。
自分の誕生日を祝ってくれる人がいなくなるより、こうして誰かの誕生日を祝えない日々が続いたのはやはり堪えた。
つくづくネアは、大事な物を抱え込む方が好きなのだろう。
「………これは美味しいですね。スコーンそのものに素朴な甘みがあって、ザハやジッタのパン屋で売っているスコーンより、しっとりしているのでしょうか。森苺のジャムがとても合う」
前菜となるゼリー寄せやサラダもあるのに、焼き立てだからと早速スコーンから食べてくれたヒルドが、目を丸くする。
薔薇の祝祭などでお馴染みのウィームのスコーンは小ぶりで表面をしっかり焼いた、さっくりした食感の物が多いので、こちらのふかふかスコーンは珍しいのだろう。
ネアは以前にもスコーンを焼いた事はあるものの、お菓子感を目指してウィームのスコーンに寄せたので、このジョーンズワース家の特製レシピで焼くのは初めてである。
ウィーム風のスコーンより焼き色は淡く、手で割ってももろもろと崩れない。
固めのスコーンよりは、マフィン寄りの柔らかさだ。
「ヒルドさんのお口に合って良かったです!いつものスコーンをお菓子寄りとすると、少し、マフィンやパンに近い食感ですよね」
「ええ。これなら、他の食事とも良く合いますね。私は、今迄のスコーンよりもこちらの方が好きかもしれません」
「これさ、塩気のあるクリームチーズを塗っても美味しいかもね。ヒルドのお蔭で妹の手料理まで楽しめるんだからさ、やっぱり家族の誕生日っていいなぁ………」
「私は、こちらの白いスコーンの方が好きだろうか。どちらも美味しいが、素朴な味わいがいい」
「僕は、こっちのシナモンの香りのする方かな。勿論、どっちも凄く美味しいけどね」
「………全部美味しい…………」
クリスマススコーンに票を入れてくれたノアに対し、アルテアもそちらを支持した。
対するエーダリアとヒルドは、牛乳やクリームたっぷりのプレーンスコーンを支持し、ネアはどちらにも支持者が付いてくれたことに安堵する。
ディノについては、相変わらずご主人様の手料理という区分なので、どちらかは悲しくて選べないようだ。
「むぐ。…………ローストビーフ様です」
「可愛い、弾んでる…………」
「ヒルドが、鶏肉の香草焼きというのは珍しいのではないか…………?」
「おや、私は以前から好きですよ。ただ、リーエンベルクでは比較的多く出される料理ですので、敢えてオーダーをする必要がなかったのでしょう」
「…………アルテアってさ、リーエンベルクの牛コンソメのスープ好きだよね?」
「…………なんだ、いきなり」
「そのスープを飲んでる間って、いつも無言でゆっくり飲むんだよね。相当気に入ってると思うよ」
ノアにそんな指摘をされてしまったアルテアはどこか不本意そうだったが、否定をしないのだからお気に入りなのだろう。
「ヒルドさん、この前、ゼベルさんに妖精の竪琴のお話を聞いたのです」
「おや、あの話を聞きましたか。あまり褒められた腕ではないとは思いますが、他に奏でられる者がおりませんでしたからね」
「…………妖精の竪琴?」
ネアの出したその話題に、エーダリアが目を瞬く。
何の事だろうと無垢に見つめられ、苦笑したヒルドが、一月ほど前に起きた妖精の竪琴に纏わる一件について教えてくれた。
「入領者の申請にない呪いの品として、妖精の竪琴が発見されたと、ゼベルから一報が入りましてね。妖精の竪琴は、代々その家に受け継がれる事が多く、他者に譲られる事や、長い時間放置される事を好みません。また、第三者に存在を明かされる事を好まない竪琴も多い。ですので、持ち主は、旅行にもその竪琴を持参しており、尚且つ申請が出来なかったという事でした」
「あ、そっか。だからヒルドが、申告がなかった理由が本当かどうか、確かめたんだ」
「ええ。持ち主以外で、竪琴を奏でて妖精の道具かどうかを確かめられる者は他におりませんでしたし、幸いにも楡の木の竪琴でしたので、私の手で足りました」
「妖精の竪琴…………」
「むむ、エーダリア様ががっかりしたお顔になってしまいました…………」
「おや、あの日は、ダリルと共にガーウィンとの会談中だったでしょう」
「…………あの日だったのだな」
誰かの家に受け継がれるような妖精の竪琴が表に出るのは、非常に珍しい事なのだそうだ。
そもそも、妖精の楽器は作れる職人が限られているだけでなく、祝福や呪いなどを齎す稀有な道具にあたる。
その中でも妖精の竪琴は、持ち主である妖精自身が音楽家や吟遊詩人として外にでていない限りは、人目につかない事を好む傾向が高いのだとか。
「その場合は、どのように扱うのですか?」
「屋敷の中で管理し、家族の集まりや親族の集まりの時に奏でるのが好ましいですね。親しい客人や隣人であれば招いても構いませんが、その一族に害を成す者が混ざっていると呪われると言われています。得てして、妖精の竪琴を人間に授ける理由は、守護が殆どですから」
「だが、その竪琴は呪いを宿していたのだな?」
首を傾げたエーダリアに、ヒルドがくすりと笑った。
ネアも、その顛末はゼベルから聞いている。
寧ろ、ゼベルはその顛末こそを語る為に、妖精の竪琴をヒルドが奏でた話をしてくれたのだろう。
「確かに呪いの道具としての認識を得ていましたが、結果として、多くの呪いを齎したというだけでしたよ。だからこそ持ち主も、長期の旅行で竪琴の手入れを欠かさぬよう、荷物を増やすのを承知の上でウィームまで持って来たのでしょう。………あの竪琴には、継承する一族を損なう者を排除する祝福がかけられていました。…………ですが、その一族の男達は、…………どうも女難の傾向にあったようですね。あまりにも恋人達が死ぬので呪いの竪琴と呼ばれてはいるものの、だいたいが、一族の財産を狙った者や、詐欺師、人格や素行に問題のある女性だったようですよ」
「ですが、申請はなされていなかったのですよね?その結果、何か罪に問われてしまったりはしないのですか?」
「いえ、ウィームへの入領申請では、品物の名前や所在を明かす事が出来ない持ち込み品は、特別措置がありますからね。正当な理由での申告漏れであれば、特別措置が取られ、その品物を利用してウィームを損なわないという誓約の下、申告漏れと持ち込みが許可されます。妖精の楽器はその中でも、最も多く持ち込まれる品物ですよ」
それはやはり、ウィームが音楽の都でもあるからなのだろう。
ガーウィンも独自の音楽文化を持つが、純粋な娯楽としての音楽がさかんなのは、やはりウィームである。
ザルツの国際的に有名な音楽院だけではなく、国内最高峰の演目や演奏を揃えるウィーム中央の歌劇場は言うまでもないし、街角やカフェでの演奏、野外劇場に野外演奏会等で奏でられる音楽の質も高い。
結果として、妖精の楽器を持つ者達の訪れも多いのだった。
「お前と気が合うんじゃないのか?」
「え、僕もさすがに、詐欺師や財産狙いの女の子には引っかからないけど…………」
「だが、妖精の楽器は呪いという名称を嫌う筈だ。呪いとしての称号や名称が宛てられるとなると、少なくとも十人以上は犠牲者が出ているのだね」
「その者はマグダリからの観光客だったのですが、ディノ様の言う通り、現在の持ち主が把握しているだけでも、何世代かに渡り五十人は犠牲者が出ているようですよ。今回は、その家族にウィームの歌劇場でどうしても観たい演目があり、合わせて、樫の木の竪琴にウィームの森を見せてやる為の訪問だったようです」
「ご、五十人もなのだな…………」
「わーお…………」
ネアは、あんまりにも女性を見る目がないその一族の男性が心配になったが、とは言え、そこは妖精の竪琴がしっかり守っているのだろう。
美味しいパイをもぐもぐして椅子の上で小さく弾み、呆れた目をしたアルテアに、食べ過ぎるなよと念を押される。
やがて、皆がご馳走をお腹に収めてしまい、食後の冷たい紅茶などがふるまわれ始めた頃。
「ヒルド、今年の贈り物だ。使ってくれると嬉しい」
そう言ってふくよかな青緑色のシルクの袋を差し出したエーダリアに、森と湖のシーの羽が僅かに揺れた。
薄く開いた羽にさあっと細やかな煌めきが落ちるのは、何かを感じ取ってくれたからだろうか。
しっとりとしたぶ厚いシルクの袋は、ウィームでは、様々な魔術的な効果を付与された衣料品などを収納する時に使う。
服地を傷付けず、状態保存の魔術のかけられた高価な保存用袋なのだ。
「…………開けさせていただいても?」
「ああ。…………その、お前のようにはいかなかったのだが…………」
緊張したような面持ちでそう呟いたエーダリアに、ヒルドは無言のまま袋を開いた。
巾着型の袋のリボンをしゅるりと解き、中から取り出されたのは淡い水色の毛糸のガウンだ。
ウィームの冬に、自室でのんびり過ごす時にはこの上なく重宝するだろうという形のもので、丁寧に編まれた毛糸の編み模様には、光の角度によっては僅かにミントグリーンに見える部分もある。
目を丸くしたヒルドはどこか無防備な目をしていて、そっと毛糸のガウンに触れた。
「…………あなたが、編まれたのですか?」
「ああ。毛糸を紡ぐ作業は、ネアとディノがやってくれたのだ。祝福や守護を編み込めるよう、編み柄はノアベルトが一緒に考えてくれた」
「…………これだけの物となると、時間がかかったでしょう」
「ああ。だが、お前が私に様々な物を編んでくれただろう?妖精の編み物は、本来は家族で贈り合う物だ。私からも、お前に何か贈りたかったのだが、慣れない作業なので皆に協力して貰う事にした」
これ迄に、ネアだけでなくエーダリアもヒルドから編み物を教わった事がある。
その頃からずっと、エーダリアにはこの贈り物の構想があったのだろう。
ヒルドにはもう、妖精の編み物を贈ってくれる同族はいない。
だからこそ、誰よりもヒルドに編み物を贈りたかったのは、間違いなくその最も近くにいたエーダリアなのであった。
編み模様は合わせの部分と襟元に細めに入れられており、エーダリアの技量でぎりぎり可能な範囲に収められていたが、控えめな編み模様のデザインは、却ってヒルドに良く似合うだろう。
「…………また一つ、宝物が増えましたね」
大切に大切に、指先でそっとそのガウンに触れ、ヒルドははっとする程に穏やかに微笑んだ。
思いを込めた感想に、エーダリアの表情がぱっと明るくなる。
エーダリアの立場で、ヒルドに隠れての編み物はなかなか大変だったのだ。
それでも、時間のやり繰りや魔術調整をしながら、丁寧に丁寧に編み進めて漸くの完成となった。
艶やかな織り布のくるみボタンは、祝福や守護をもっと高めよう作戦で、ネアが作った物である。
中に入っているのは森結晶であるし、織布の柄でもぎゅぎゅっと魔術の叡智が詰め込まれている。
だから勿論、ヒルドが喜んでくれるとネアもとても嬉しい。
エーダリアと顔を見合わせ、互いににっこりと微笑む。
「間に合って良かった…………。今はまだこのガウンが必要となる時期ではないが、寒くなってから部屋で使ってくれると嬉しい」
「ふふ。エーダリア様は、カーディガンでもいいのだという皆の意見に対し、ヒルドさんの為に絶対にガウンにするのだと譲らなかったのですよ」
「ネ、ネア………!」
「ウィームで共に過ごす冬を、せめてお休みの日はのんびり温かく過ごして欲しいと、ずっと思っていたのだとか。ヒルドさんの事が大好きなのです」
「ネア?!」
「ありゃ、エーダリアが照れたぞ。…………でも、僕だってヒルドの事は好きだからね」
「…………ネイ」
ちょっぴりほろ酔いで真っすぐに好意を伝えてしまった塩の魔物に、そしてエーダリアの思いに、ヒルドが僅かに目元を染める。
邪悪な部下に色々明かされてしまったエーダリアは、その表情に眩しそうな顔をし、おろおろと視線を彷徨わせていた。
(紡いだのは、ウィームの朝霧の森の色。前日の夜に霧雨を降らせて、朝の森に素敵な霧を育ててくれたのはイーザさんなのだけれど…………)
イーザは、どうかこの助力はご内密にと話していたが、ノア曰く、ヒルドなら気付くだろうと言う事だった。
森と湖のシーだからこそ、紡がれた毛糸に宿る霧雨の僅かな祝福から、友人の気配を感じ取るだろう。
それはきっと、ヒルドがこのウィームで育んできたものが、新しく紡がれた色なのだ。
「大切に、着させていただきます。……………それと、ネイ、私は結構ですよ」
「ありゃ。放り投げようとしたのに気付かれたぞ…………」
「回すだけで良いのではないか?」
「……………エーダリア様」
途方に暮れたような目をしたヒルドが、その後、家族にウィーム流のお祝いをされてしまったのかは秘密である。
ネアは、なんだなんだと集まってきたふわふわ兎妖精達がテーブルの上に登場した使い魔作のレモンケーキに目を付けたのに気付き、片っ端から森の中に投げ込んでおいたのだった。




