夏休みと見知らぬお城 3
「そう言えば、今年のサムフェルは少し遅い時期にあるのですよね?」
「そうみたいだね。とは言っても、月の半ばにずれ込むだけなんだけど、星の託宣があったみたいでさ」
「星の託宣、なのですか?」
「うん。ああ見えても季節の市だから、商人絡みでその手の予防策はかなり神経質に行うんだ。中止になったり、時期がずれたりは多いよ。ほら、稀少な品物が集まる市で事件が起こると、損失も大きいからさ」
昨年はあると思っていたらなくてがっかりしたサムフェルなので、ネアはぐぐいと背筋を伸ばし、どうか中止になりませんようにと願いをかける。
買い物がなかったとしても、あの市場へのお出かけは特別な楽しさで、まるまるサラミや、銀狐のチーズボールとの出会いがあったり、大事なムグリスディノのポーチを作って貰ったりした。
夏は家族のお出かけの多い季節だが、その中でも特別な楽しみの一つなのだ。
「以前の岩魚の祟りものが現れた事で、より慎重になっているようだね」
「あ、あれも、事前に分かっていたら、延期になった事案だよね。祟りものの気配は、商品を変質させるからさ……………」
「蝕の次の年の開催がないのも、良くない物が紛れ込み易いからなのですよね」
「うん。去年は、会場だけ開いておいて、運営側で内部の見回りはしたみたいだよ。開催するかどうかや、出店するかどうかは参加する店側でも検討するけど、会場の管理は運営の仕事だからね」
そんな話を聞きながら、ネアは、衣を付けたコロッケをささっとアルテアの側に置いた陶器のバットに載せる。
何となくだが、嵐が来ているのでコロッケを食べようかという事になり、そちらの作業は、アルテアとネアが担当しているのだ。
ヒルドは、レシピを増やした夏茜のスープを作ってくれるようで、エーダリアは恒例のオムレツ担当である。
ディノは、作ったドレッシングを回しかけたサラダの葉っぱを和え、茹でたアスパラや素揚げした茄子などと一緒に各自のサラダボウルに盛り付ける係だ。
初めて一品を任された感じになり、かなりきりりとしているので、終わったら沢山褒めてやらなければと、ネアはほっこりする。
休暇中なのでサラダくらいは大皿で取り分けても良かったのだが、ウィーム流のサラダは、焼いたり揚げたりと手をかけた野菜と一緒にバランスよくいただくのが主流であった。
それは即ち、サラダですら手を抜かないという姿勢でもあり、その手法がここでも継承される事となった。
(コロッケは小さめで、自分の食べたい分量を調節出来るように。スープはごくごく飲めるので、お代わり自由で、チーズオムレツはアルテアさん特製の塩ラヴィゴットソースを添えて!)
ここまでだと野菜多めのメニューだと思うだろうが、何しろノアがこの日の為に用意していた、水棲棘牛のステーキを焼いているのだ。
お肉分は、そちらで充分に補う事が出来る。
また、塩ラヴィゴットソースはお肉とも合うので、タプナートソースと共にお肉の味わいは如何様にも変化出来るのであった。
ネアは幸せに心を緩め、笑顔でコロッケの準備をしつつ、上手に盛り付け出来た魔物を沢山褒めてやった。
「オリーブのソースを、一刻も早くいただきたいです。……………じゅるり」
「ったく。もう少し待て」
「細かく叩いてペースト風にしたソースなので、かりかりに焼いたバゲットに塗る事も出来ますね。お土産用に、沢山作ってくれてもいいのですよ?」
ネアがそう言えばアルテアは呆れたような目をしてこちらを見たが、じゅわっと揚げたあつあつコロッケに、黒オリーブと松の実、ケッパーと大蒜という素晴らしい組み合わせの生きるタプナートソースがあれば、そちらでも新しい組み合わせが生まれそうではないか。
何という素晴らしさだろうと小さく弾んだネアは、コロッケ班のお手伝いを終えて作業場を移動したアルテアの、デザートの仕上げを観覧しに行く事にした。
「濃厚な桃のジェラートに、オレンジタルトです。……………むぐ。一刻も早くお口に入れたいのですが、お料理も長らく楽しむ予定なので、私は一体どうすればいいのでしょう……………」
「……可愛い、回ってしまうのかい?」
「は!アルテアさんの周りをぐるぐるしてしまいました。ステーキの観覧に移動しますね!」
なお、ステーキ会場はオムレツや夏茜のスープの会場に隣接しており、一度に色々楽しめる素晴らしい立地であった。
ミディアムレアで焼き上げられた水棲棘牛は、オレガノの結晶石を錬成し直して作られた調理板の上で、巧みにカットされ、お皿に移動する。
ぱらりと振りかけられているのは塩の魔物特製の薔薇塩で、くすりと笑ったノアが、小さめになってしまった一切れをお口に入れてくれた。
「むぐ!!」
「おい、甘やかすなよ………」
「ありゃ、アルテアは意地悪だなぁ。休暇中なんだし、これくらいいいよね」
「……………お、美味しいでふ!ソースがなくてもこんなに美味しいとなると、私はどんな割り振りでお肉をいただけば…………」
「チーズオムレツもあるし、ヒルドのスープも美味しそうだなぁ。……………後は、とっておきの雨雲とラベンダーのシュプリも開けて……………」
「まぁ、素敵な名前のシュプリですね」
「うん。雨の多い土地で作られるシュプリなんだ。雨が降っている間は美味しく飲めるから、天気を見てそっちにしたんだよね。魔術基盤の動き方を見ていると、もう暫くはこの天気だろうしね」
ノアのお勧めの本日の一本は、遠雷と木苺という有名な白葡萄酒を出しているメゾンのものなのだとか。
土地の特性を生かして雨の日に美味しく飲めるお酒に特化しており、ファンも多い。
雨の蜂蜜ナッツは大ヒットおつまみとして有名で、殻ごと蜂蜜に漬け込んだナッツの瓶詰だ。
食べる際に中身を出すのだが、そんなちまりとした美味しいひと手間が、雨の日にじっくりお酒を飲みたいお客に受けるらしい。
余談だがネアは、以前の世界に住んでいた時に、森で拾い集めた木の実でひもじさを誤魔化そうとした期間があり、かりこりと美味しく香ばしい木の実類がそれだけではあまり食べられない。
塩っぽい味付けなら少しは進むのだが、良く分からない謎木の実までを食べ過ぎてお腹を壊した悲しい記憶が蘇るのだ。
焼き菓子に入った胡桃や、アーモンドタルトくらいの分量が丁度良く、沢山の食べ物の選択肢が得られた今は、好んで手を出す事はない。
アルテアの料理でもあまりごろりとした状態では現れないのでなぜかと思えば、ラエタの北西部にあった都市で文官として働いていた時に、主食で炒った木の実ばかりを食べる習慣にうんざりしたからなのだとか。
随分と昔の事なのに未だに影響しているとなると、相当な量の木の実を食べさせられたのだろう。
「さてと、僕のステーキはこれで出来上がりだ。食べるのも、こっちでいいかい?それとも、向こうの城に移動しようか」
「ないとは思うが、清掃区画がこちらに及んでも厄介だな。向こうの方がいいだろう」
「うん。じゃあ、向こうの食堂に運ぶよ。…………ありゃ、エーダリアはどうしたんだい?」
「ああ、……………いや。こちらのオムレツの方が色が濃いのは、なぜだろうと思ってな」
「……………卵そのものの個体差だ。問題ない」
振り返ったアルテアにそう言われ、深刻そうな顔をしていたエーダリアは、失敗ではないと知ってほっとしたようだ。
綺麗に並んだオムレツを見ると、既に料理人の仕上がりになっているので、こうして一つの作業を突き詰めてゆくのはやはり得意なのだろう。
作りたての料理は、転移を気軽に踏める魔物達がひょいひょいと運んでくれるので、別棟に移動する手間はさして感じられない。
隣の部屋に運ぶのとさして変わらないのは、公爵位以上の魔物が三人もいるからなのだろう。
「こうして転移でお料理を運べるのでしたら、食料庫に来る際にも転移は使えなかったのですか?」
「あの時は、まだ魔術の道を付けてなかったんだ。今はもう道を作ってあるから、先程歩いてきた場所までであれば、転移で移動出来るようになったよ」
「道を、作る必要があったのですね」
「うん。このような特殊な土地で、建物の中だからね。一度、直接繋げる必要があったんだ」
「……………本来は、魔術師が術式を敷いて転移を可能にするのだ。こうして、歩いただけで繋いでしまえるのは、人外者くらいだろうな」
苦笑したエーダリアの言葉に頷き、ネアは、おおっと目を瞠る。
そのお陰で作りたての食事をいただけるのだから、やはり、選択肢が多いのは幸せな事なのだろう。
がらがらぴしゃん。
ごうごう。
何だか嵐なままな窓の外のお天気は、伸びやかな夏休みの始まりという感じには程遠かったが、とは言え最初の夜の晩餐である。
みんなで料理をして、こんな夜こそ美味しく飲めるシュプリを開けようではないか。
きゅぽんとコルクを抜くと飲み口の薄い美しいグラスにシュプリが注がれ、しゅわしゅわと細やかな泡を立てる。
淡い水色のシュプリの中の泡を見ていると、雨の日の窓のような、どこか詩的な趣きがあった。
ほんの少し薄暗い食堂だが、この不思議な暗さが、シャンデリアの煌めきや魔物達の髪や瞳の色を際立たせる。
グラスの中のシュプリが丁寧にカットされた宝石のように光を集めるのも、こんな嵐の日でなければ気付かなかっただろう。
「……………まぁ、喉の奥がひんやりしゃりんとしますね」
「これは美味しいね……………」
早速シュプリを一口飲み、ネアは目を丸くした。
エシュカルと同じような、喉の奥が冷たくなるシュプリだ。
そのきりりとした冷たさが、ラベンダー畑に降る雨のように、瑞々しいラベンダーの香りを引き立ててくれる。
お酒にラベンダーの香りとなると、場合によっては香りが邪魔になってしまいそうだが、冷たさと香りの瑞々しさが全面に出る事で、雨上がりのラベンダー畑で果実のシュプリを飲んでいるような気分にさせてくれるではないか。
「今回はオリーブが多めだが、問題ないだろう」
「むぐ。大好きれふ!」
「言えてないぞ」
「大好きです。コロッケの中にも、ほんのり塩気の刻みオリーブが入っているものがあるのですよね。なお、揚げ立ては何もつけずにいただいても美味しいのですよ?」
「…………落ち着け」
ネアが美味しいコロッケについて力説すると、アルテアは呆れたような顔をする。
隣では、そんな揚げ立てコロッケがお気に入りな伴侶の魔物が、はふはふしながらさくりとコロッケを食べていた。
何でもないお喋りに、食事の音。
グラスに注がれるシュプリの煌めきと、雨音に遠雷。
食事の時間はゆっくりと過ぎてゆき、ネアは、多少額縁は違えど、いつもの休暇がここにある事の喜びを噛みしめた。
途中でまた違うお酒の瓶が開けられ、ノアはいつもより多く笑う。
窓の外で、展開された魔術にムラがあるそうで、またざあっと雨脚が強くなった。
「ああ、魔術が満ち始めたな。折角の休暇に嵐というのも残念だと思ったが、この光景を久し振りに見る事が出来るとは思わなかった…………」
「おや、魔術基盤の魚達のようですね。この場所の基盤にも同じ形が適用されているとなると、やはりリーエンベルクの建造に関わった者が、この土地の基盤を手掛けたのでしょうか」
「ありゃ。僕はこっちの城の建築については知らなかったけれど、…………基盤の魚が、こんな風に魔術を増やすのかぁ。反応したものを吸収して収めるのは、いい仕組みだなぁ」
そう微笑んだノアが、グラスを傾ける。
かつてノアの知人がいたという湖は、ここからでは角度的にあまりよく見えないが、先程本棟に行った際には、雨の中でも星の光を湛えていた。
エーダリアの言葉に視線を窓の方に向けたネアは、コロッケの載ったお皿を持ったまま、窓辺に駆け寄り、ぴょいんと跳ねる。
「お、お魚さんが…………!!」
そこには、ごうごうと吹きすさぶ風と雷雨の中を、ゆうゆうと泳ぐ美しい熱帯魚の姿があった。
よく見れば完全に実体を得ている訳ではなく、透き通るような光の尾を引いて空中を泳いでいる。
見た事もないような光景に目を丸くし、けれどもお口は忙しくコロッケをさくさくしながら、ネアはその幻想的な魚達に魅入られた。
(…………綺麗)
この世界に来て様々な物を見て来たが、こんな嵐の日に現れるもの達は、もう少し獰猛で力強い姿をしている事が多かった。
静謐さを湛えていても、揺るぎない力のようなものはそこにあって、こんな風に儚げで可憐な魚が空を泳ぐ姿は想像もしていなかったのだ。
よく見れば、ごうっと吹き抜ける突風に庭の紫陽花は揺れているが、その魚達は影響を受けていないようだ。
生き物というよりは、土地の魔術が反映されている、魔術の光の形のようなものなのだろうか。
「ネアが逃げた…………」
「ディノ、見て下さい。色とりどりのお魚さんが、あんなに沢山います!」
「この土地を構成する魔術が、生き物の形を持たせる事で自立稼働しているようだね。先程の本が呼び起こした嵐は、この中でもあまりない大きな魔術の錬成なのだろう。それをただやり過ごすのではなく、こうして姿を現して取り込む事で、より細部までの術式を豊かにしていくんだ」
「………風で吹き飛んだり、雨で地面に落ちてしまわないのが不思議ですが、綺麗ですねぇ…………あぐ」
「おい、お前は食うか見るかのどちらかにしろ」
「………ぎゅ。揚げ立てコロッケと、この素敵な風景との、どちらかを選べと言うのですか?」
あまりにも残酷な問いかけにふるふるしていたネアだったが、お皿の上のコロッケがなくなってしまうと、ささっとテーブルに戻った。
本来であれば食事中に席を立つのは褒められたことではないが、エーダリアもすっかり視線が窓に釘付けである。
家族の食卓の席、それも休暇中なので大目に見て貰おうぞと、ネアは次なる獲物に取り掛かった。
「ウィリアムさんも、来られれば良かったですね」
「漸く終わる仕事があるのだそうだ。惑わせる術界などの縛りがあって、とても手のかかる作業だったらしい。年明け頃から着手していて、やっとの幕引きなのだろう」
そう教えてくれたディノに、ネアは目を瞬いた。
勿論、ステーキと、オリーブなる素晴らしきソースをお皿に確保する事は忘れないが、視界に入った夏茜のスープのボウルがいつの間にか空になっている事に気付き、密かにぎくりとする。
その視線に気付いたヒルドが微笑み、お代わりされますかと尋ねてくれたので、目をきらきらさせて頷いた。
「有難うございます、ヒルドさん。適度に残しておいてお食事の途中でもいただく予定だったのですが、あまりの美味しさにそのまま消えてしまいました…………」
「気に入っていただけたようで、嬉しいですよ」
「エーダリア様の焼いたオムレツと、素敵な調和だったのです。さっぱりしたソースでいただく、濃厚なチーズオムレツのとろり具合と、ぎゅぎゅっと瑞々しくもしっかり濃厚な味わいのスープは、一瞬でお口の中に消えてしまう不動の組み合わせでした。ですが、いつものビシソワーズもとても素敵なので、この美味しさを主張し過ぎて、そちらがなくなってしまっても困るのです………」
悲しく眉を下げたネアに、ヒルドが瑠璃色の瞳を細める。
どきりとするような優しい微笑みを浮かべると、宝石を削ったような妖精の羽が淡く光を帯びた。
「愛情を受け取る存在を得るというのは、幸福な事ですね。…………ネイ?」
「よーし、僕もお代わりしちゃうぞ。友達が作ってくれたスープを飲むなんて、贅沢な休暇だよね」
ヒルドの示した愛情の輪に慌てて飛び込んできたノアは、銀狐の姿だったらびょいんと弾んでいたに違いない幸せそうな顔をしていて、その間にいるエーダリアは、いつの間にかちょっとだけ夏茜のスープをお代わりしている。
元々、お気に入りのスープなのだ。
だからこそヒルドは、このレシピを増やしたのだろう。
美味しいスープが注ぎ足され、唇の端を大満足の形に持ち上げたネアは、再び、先程の話題に戻ることにした。
「ディノ、ウィリアムさんのお仕事にも、そのようにして長期間携わる業務があるのですか?何となくですが、………どれだけ過酷でも、短期間でばっさりやってしまうような、そんな印象を持っていました」
「あまり頻繁にある事ではないけれど、終焉の規則に触れるような魔術を育んだ土地の浄化を行ったり、この先に理に触れるような魔術を育てると判断された土地で、その道筋を少しずつ変えてゆくような仕事もあるんだ。アルテアがよく行っているけれど、この世界の剪定のようなものだね」
「剪定…………」
「まぁ、アルテアの剪定は、災いとして記されるものが多いけどね。仮面の魔物としての役割りも、だいたいそんな感じでしょ。沈殿物の多い鍋の底を掻き混ぜる感じかな」
「むむ、そう言えば以前に、そんなお話を聞いた事があったような気がします」
例えば、高位の魔物が、突然に大勢の人間の命を奪ったとする。
人間からすればそれは理不尽で残虐な行為だが、魔物の側にしか見えない大局というものもあるのだろう。
とは言えそれも、魔物の側の理由である。
ちっぽけな人間からすれば、世界の成り行きなどどうなってもいいから、今を損なわないで欲しいと思うのは間違いない。
だが、自分達が生きたその先を、寿命の短い人間は、結局見なくても済むのだ。
自分事として遠い未来を見据える人外者達が、その住処である世界の剪定をするのは必定とも言えた。
(そう言えば、最初の仕事でアルテアさんが悪さをしていたのも、そのような理由があっての事だった)
暇潰しの駒の再配置や素材集めも兼ねていたそうだが、同時にそれは、必要な枝の剪定であった。
仮面の付け替えをすれば、守護が厚く手入れが面倒な人間の王族や貴族も配置換えが出来る。
そうして鍋の底を掻き混ぜ、灰汁が出ればそれは捨てるしかない。
大勢の魔物達の中で、なぜアルテアがそのような役割を引き受けがちなのかと最初は意外に思ったが、この甲斐甲斐しい魔物の本性を知ると、手入れそのものが選択の魔物の趣味の一環でもあるのだとよく分かる。
他の魔物達が責任を負わずに好き勝手に生きているという訳ではなく、アルテアこそが、その作業に向いていたという話なのだろう。
ネアはまだ、選択の魔物ほど、自身の棲家の手入れを欠かさない魔物は見た事がない。
「ディノも、そうして剪定をすることがあるのですか?」
「私の場合は、育むか壊すかのどちらかに偏ってしまうから、取り返しのつかなくなった土地を再建するという事くらいかな。…………私の資質には、相反する物も多くある。触れた物が壊れてしまう事も多いから、他の手段がなかった場合に手入れをするに留めているよ」
「ふむ。という事は、お仕事に駆り出されてしまう時間も短くて済み、それ以外の時間は一緒にいられますね」
「ご主人様!」
ディノが少しだけ悲しそうだったので、ネアは、うっかりそんな慰め方をしてしまった。
その結果、もじもじした魔物から爪先が差し出され、久し振りにこのご褒美が来たぞと戦慄しながらも、ぎゅむっと踏んでやる。
ウィリアムが現在取り掛かっている魔術の剪定は、とある天才作曲家が作り出そうとしている、音楽なのだそうだ。
その曲が完成してしまうと、心の動きを弱めたまま酩酊しながら終焉に誘うような、たいそう危険な固有魔術が生まれてしまうらしい。
とは言え音楽は、誰かが禁じても取り上げられるような娯楽ではない。
その音楽が人々の心を奪えば、譜面を取り上げても、誰かが口ずさみ、心の中で搔き鳴らし、脈々と継承されていってしまう恐ろしい媒体だ。
また、美しい音楽を作る者の近くには、高位の人ならざる支援者が集まる事もあり、彼等のお気に入りを壊して、狂乱や崩壊を呼ばないように慎重に対処しなければならない。
芸術家達は、思索を妨げられると簡単に心が折れてしまったりするので、扱いが難しいのだ。
なので今回のウィリアムは、魔術調律師として定期的にその土地に通い、生まれつつある新しい音楽の魔術を、都度、丁寧に剪定し調律しているのだとか。
その為に幾つかの対価を支払っていると聞けば心配になったが、その置き換えについてはグレアムが行ったのだそうだ。
へにゃりと眉を下げたネアに対し、ディノが心配ないよと安心させてくれる。
「意外だけどさ、ウィリアムは耳が良いんだよね。バイオリンも上手いって評判だしね」
「耳のいい音楽家が聴くと、狂死するおまけ付きだがな」
「まぁ。となると私も、聴く時には心を強く持たないといけないのです?」
「お前の場合は何の心配もないだろ。自分の歌を振り返ってみろ」
「わたしのうたごえだって、すばらしいのですよ!」
「確かに、周囲の生き物を殲滅するのには最適だな」
「せ、せんめつしません!」
「グラフィーツだけで間に合うものか。今度、音階の調整に付き合ってやる」
「ぐるるる!!!」
「ネア、落ち着いて。君の歌声は可愛いよ」
「…………おんちではありません?」
そう尋ねると、ディノは、とても可愛いよとおでこに口付けを落としてくれたが、ネアの欲しかった一言は巧妙に差し引かれていた。
悲しくなった人間は、桃のジェラートのお代わりをせっせと口に運び、心を慰めるより他にない。
その夜の豊かな時間の経過は、あっという間だったように思う。
二本目のお酒の瓶が空っぽになり、ネアが満腹になる頃には雨も上がり、避暑地の夜は美しい夜の光と魔術の煌めきに彩られた。
雨に打たれた花々がしっとりと咲き誇り、あれだけの風雨だったのに、地面には千切れ落ちた葉っぱや花びらはないようだ。
ディノと手を繋いで散歩していたネアは、この美しい夜をもっと楽しみたいのに、あの魅惑の客室と寝台の気持ちよさを思い出して心が傾いでしまう。
今頃、エーダリア達とアルテアは、斃れた躾け絵本の研究を行っているのだろう。
敵の残骸を解剖するような表現だが、何しろ相手は絵本なので、本来は何の凄惨さもない。
「星の光を蓄えた湖が、いつもよりもとぷんとした光を湛えていて、なんて綺麗なのでしょう」
「魔術をより潤沢にしたばかりだからね。……………ほらご覧、月光鱒の尾びれが青白く光を帯びているだろう?」
「まぁ!湖の中に星雲があるようですね。……………じゅるり」
「ご主人様……………」
不思議な事に、無人の筈の本棟には、明かりが灯っていた。
誰もいない筈のお城の明かりは、幼い頃に物語の中で触れた人ならざる者達の饗宴を思い出し、うっとりと魅入られてしまうような、僅かにひやりとするような相反する不思議な美しさがある。
ディノ曰く、どこからともなく聞こえてくるワルツの音楽は、影絵の層に残る遠い記憶なのだそうだ。
もし、今のお城にこっそり忍び込んだなら、その広間で踊っているのは誰なのだろうか。
そう考えると、今はいない誰かに会えそうな気がして胸がどきどきしたが、多くの物語の中で、そうして禁じられた場所に踏み込んでしまった者達は、しなくてもいいような苦労に見舞われる事が多い。
だからネアは、どれだけ興味津々でも、未だに清掃中の看板が出ているお城に忍び込もうとは思わなかった。
「うん。それがいいだろうね。ここは、とても好意的な隔離地だ。影絵の中ながらに祝福が豊かで、固定されて何も損なわれないようにと魔術の循環も敷かれている。だからこそ、望まない形で取り込まれてしまうと、剥離がとても困難なものになるかもしれない。念の為に、あちらに明かりが入っている事はノアベルトにも連絡しておいたから、彼からエーダリア達にも注意がいくだろう」
「明日の朝食で、食料庫に向かうのは大丈夫なのでしょうか?」
「それは平気ではないかな。この城も、我々が今夜はもうあちらに用がないと理解した上で、扉を閉ざしているのだからね」
そのような考え方は、この世界では決して特異なものではない。
人間が擬人化などに思い描くようなものではなくとも、土地や魔術は思考するものだというのが、この世界の普通なのだ。
だからここで、お城の意思のようなものについて深く考える事はなく、ただ、そういうものなのだと受け入れればいい。
(……………あ、)
ふと、左奥に見えるバルコニーの窓に、人影が見えたような気がした。
ちらちらと動くものが見えるので、あの部屋では幻のような舞踏会が行われているのかもしれない。
今はこの人数での訪れであるが、ウィームの全盛期には、王族だけでもかなりの人数がいたそうだ。
近年まで続いた王族と、カインに流れたというもう一つの王族が揃っていた時代もある。
彼等がどのようにこの場所を使っていたのかを思うと、この先はどうなってゆくのだろうと僅かな物悲しさもあるが、誰も訪れない日々の中でも、この指輪の中の影絵では、あんな風に今はいない人々の幸せな記憶が繰り返し映し出されているのかもしれなかった。
「私達が西棟もあるのだと知らずにいた間は、あちらのお城でも、あんな風に明かりが灯っていたのかもしれませんね」
「そうだね。……………人間は不思議なものだ。僅かな時間しか生きないのに、ああして強い証跡を残してゆく。だからこそ、死者の国での待機時間があるのだし、人間以外の種の者達より、人間の方がこうした影や跡を落としてゆく事が多いようだ」
不思議そうにそう呟いたディノに、ネアはその横顔を見上げて小さく微笑んだ。
本来なら、矮小な人間の触れる事の叶わないような存在である魔物の王様が、今は見上げる明かりの向こうではなく、手を繋いでネアの隣に立っている。
ちっぽけな人間にとっては、そちらの方が不思議でならないのに。
「ウィリアムが人間に憧れたのも、こうしたものを多く見てきたからかもしれないね」
「………ディノも、人間に興味を持った事があったのですよね?」
「何度かはね。…………でも、今はもう君がいるから、君だけでいいかな」
「あら、エーダリア様や騎士さん達のような、私達の生活を取り巻く大勢の人々もいるのに?」
「……………それでも私には、君だけなんだ。……………だからネア、ずっと、どこにも行かないでおくれ」
こちらを見た美しい魔物の静かな声に、それでもネアは人間なので、少しだけ考えた。
ディノの言うずっとという時間は、どれくらいのものなのだろう。
よく、物語の異種婚姻では、違う種族同士の時間の感覚の違いが悲劇に繋がる場面が描かれる。
人間のような短命の生き物は、長くを生きるのには向いていないのだとも。
「……………私は人間なので、色々と不都合も生じるかもしれません。ですが、ディノがその変化に追い詰められてしまったり、私達の在り方が不幸に傾かない限りは、……………有り体に言えば、私とディノや、私達の大事な人が不幸にならない限りは、多少歪であれ、異端であれ、私はずっとディノの傍に居ようと思います」
ネアはとても身勝手な人間だ。
強欲で、我が儘でもある。
こうして見る度に変化してゆく世界は、まだまだ見た事のないものが沢山あるのだろう。
となると、当分は飽きないかなと思ってそう言えば、ディノは、水紺色の瞳を瞠った。
(飽きてしまって、どこにも行けずに心が疲弊してしまえば、……………そこからの心の摩耗は早まるような気がする。けれど、そうなる迄は幾らでも元気にこの世界で過ごせるような気がするから、今はせめてこういう約束を残してあげよう)
永い永い時間の約束のようで、けれども、限界が来たら手放すようにとは言っているのだ。
所詮は、身勝手な願いである。
それでもディノは、光を孕むような瞳を揺らし、目をきらきらさせてこくりと頷いた。
「……………君は、嫌がるかと思った」
「私は、ディノを大好きな私の心と、そんな宝物をくれたディノが大事なのです。ですが、あまりお年寄りになると、激しい運動や狩りなどは難しくなってしまうかもしれませんね……………」
「そうはならないかな。……………ネア、」
「まぁ、泣いてしまったのです?」
胸がいっぱいになってしまったのか、泣き出してしまった魔物を男前に抱き締めてやりつつ、ネアは腕の中の温かな宝物ににんまりした。
宝物庫に巣食う竜は、強欲で宝物を絶対に離さないという。
竜ではないが、ここにそんな人間が一人くらいいてもいいのかもしれない。




