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夏休みと見知らぬお城 2




とろりと解けるような眠りの向こうで、ちかちかと輝く柔らかな星の光を見ていた。

それは夢だとわかっていたけれど、いい匂いの花畑に寝転び、青い青い夜の中に沈んでゆく。

幸せなあまりにふにゃりと頬を緩めると、誰かの歌声が優しくなる。



星々は瞬き煌めき、美しく寄る辺ないものが腕の中の宝物を慈しむ姿を祝福してくれた。

こちらが幸せそうにしていると嬉しいのだなと感じ、ネアはまた、幸せに蕩けてゆく。

勿論、大事な魔物の三つ編みは、絶対に離れないようにぎゅっと握り締めるのだ。

そうするとまた、柔らかな歌声が幸せそうに震え、星々の光が降り注ぐ。



どこまでも、どこまでも。

懐かしい子守唄のように。




(……………あ、)




ふと、遠い遠い昔に、泣いている母にそうして歌を歌っていた人のことを思い出した。

部屋は暗くネアはまだとても小さくて、そこにいたのが父だったのかどうかは分からない。

だが、そうではない誰かだったような気もした。

となると、せめてあの頃はまだ、そうして母に寄り添う誰かがいたのかもしれない。


誰かの手が優しく母の髪を撫でるのを眺め、ああ良かったと、とても安堵したのを覚えている。

そうして丁寧に大事にされる事がどれだけ幸せなのかは、両親に抱き締められる温かさで知っていたから。




ちかりと星が光り、寝転んだ花畑とは違ういい匂いを胸いっぱいに吸い込む。


そうすると今度は、祝祭に華やぐ街を歩き、絶対に買えない高価な香水の置かれた店にせっせと通い、大好きな香りを分けて貰いに行った日のことを思い出した。


きらきら光る繊細な小瓶に入った香水はいつもショーケースの中で高貴な佇まいで、その日は、限定でお試し用に配られるサシェが欲しくて、店の前をうろうろしていたのだった。



あの日に、大切にハンカチに包んで持ち帰った憧れの香りのように、この香りの中で目を閉じているとお伽の森の中で夢を見ているよう。



(……………ああ、ディノの香りだわ)



そう思うと幸せで幸せで、誰かに起こされたように、ふっと目が覚めた。

ネアはむにゅりと目を擦り、ぎっちり固定されて動かない片手に眉を寄せる。



「…………むむ」



ご主人様の左手は、伴侶な魔物にぎゅっと握られて持ち去られていたようだ。

少しだけ頬を寄せるようにしてネアの手を引き込んだ魔物は、幸せそうにすやすやと眠っている。



シーツの上にこぼれる真珠色の髪に、同じ色の睫毛。

何て綺麗なのだろう。

そして、なんて無防備で無垢なのだろう。

こんな生き物が安心して眠っている姿を見せてくれるだけでも、こんなにも心が満たされる。


そう考えると口元がむずむずしてしまい、ネアは、小さく微笑む。

体を捻ってそのおでこに口付けしたいが、角度的に難しそうだ。

なのでずりずりと体を寄せてから、こつんと額を合わせた。



「…………頭突き」

「まぁ、さては起きていましたね?」

「ネアが可愛い…………」

「ふふ。ディノと一緒だったので、何だかすっかり眠ってしまいました。もうお部屋の中は暗くなっていますが、まだ外は少し明るいので、夕暮れくらいの時間でしょうか」

「そろそろ、食事の支度をしに行くのかい?」

「はい。アルテアさんには、お手伝いをするので、もし寝入ってしまっていたら起こして下さいとお願いしてあったので、まだ始まっていない筈なのです」

「雷は、………まだ少し続いているね」

「あら、思ったよりも眠っていないのかもしれませんね。………ディノ、私に歌を歌ってくれました?」

「おや、聞こえていたのかい?」

「ええ、夢の中でディノの歌声を聞いて、幸せな気持ちでいっぱいでした。こんなに気持ちのいい目覚めなのは、ディノが歌ってくれたからかもしれません」

「…………うん」



ここでネアは、恥じらう魔物を撫でてやりつつ、何か思い出さなければいけない事があったような気がしたが、どうしてだか記憶の扉がぴっちり閉まっていて開かなかった。


むぐぐと眉を寄せていると、ディノがすりりっと頬を寄せてくる。

その温かさにまたじんわりしてしまい、ネアは、開かないままの扉については放念しておくことにした。



時として、人間には忘れていた方がいい事もあるものだ。

生きやすく生きるというのは、なかなかに罪深い事なのである。



もそもそと起き上がり髪にさっとブラシをかけ、ネア達は扉を開いて部屋を出た。

今回のお城は小さいので、同じ階のすぐ近くにアルテアの部屋がある。

エーダリア達の部屋も、同じ階の反対側だ。


まずは使い魔に、そろそろ本棟の食品庫に食材を取りにいかないかと誘いに行こうとしたところで、ぎゃーっという悲鳴がどこからか聞こえてきた。



「…………なぬ」

「…………ノアベルトかな」

「ノアに何かあったのだとしたら、エーダリア様達も心配です!様子を見に行きましょう」



声の遠さを考えると、悲鳴が聞こえてきたのは一つ下の二階ではなく、一階だろう。


ディノと慌てて顔を見合わせたところで、がちゃりとアルテアの部屋の扉が開く。

すっかり休暇仕様な装いになった選択の魔物は、砕けた雰囲気が素敵な白いシャツに黒いパンツ姿だ。

よく見れば、パンツは艶感もあるものの木綿生地のような涼し気な素材で、ポケット部分の刺繍などがとてもお洒落で、玄人の外し方という気がする。


そして、こちらを見ると眉を寄せた。



「…………今のは、ノアベルトか?」

「そのようだね。躾け絵本かな…………」

「…………は?去年の時に、封じ込めただろ」

「ネアが、少し前に本棟のバルコニーで弾んでいる本を見たそうなんだ。私が視線を向けた時には姿を消していたけれど、逃げ出した本がいるのかもしれない」

「俺とノアベルトでかけた封印を破って、か………。シルハーン、そいつから離れないようにしろよ」

「そうだね。ネア、持ち上げるよ」

「は、はい!私はとても善良な乙女ですので、大丈夫だとは思いますが、何を叱ってくるのか分からないので用心しますね」

「うん」



だが、ネアをひょいと持ち上げてくれた魔物は、微かに震えているではないか。

そう言えばこの魔物は、あの本は怖かったのだと思い出し、ネアは慌てて腕捲りをした。


もしネアの大事な魔物を躾け絵本が襲う事があれば、どちらが偉いのかをその体に思い知らせるべきである。

大事な魔物を怖がらせるものなど万死に値するというのが、ネアによる、ネアが知らしめる法なのだ。



先程の悲鳴は階下から聞こえてきたようだと確認し合い、ネア達は注意深く階段を降り、そして首を傾げた。



がらんとした玄関ホールは静まり返っていて、誰の人影もない。




「…………むぅ。どなたもいませんね」

「ノアベルトが…………」

「ディノ、そんなにしょんぼりしなくても、きっとどこかに生き延びていてくれる筈です」

「………魔術痕跡もないな。…………本当に躾け絵本なのか?」



訝し気に眉を寄せたアルテアに、ネアが振り返ると、考え込む様子を見せる選択の魔物は、あの本の動きは派手だからなと呟く。


言われてみれば確かにそんな気もしたが、ネアが最初に見た帽子姿のやつは静かに廊下に佇んでいたではないか。

即ち、待ち伏せ型の狩人も存在するのである。



「………狩りの女王のいる場所に立ち入ったのです。どちらが格上か、今年こそ思い知らせてくれる」

「ご主人様…………」

「おい、何でお前が狩る気なんだよ。そこで大人しくしていろ」


嫌そうな顔をしたアルテアにそう言われたが、ネアは、もしディノが脅かされたらすぐさまこの乗り物から下りて参戦する心積もりであった。


今夜は到着したばかりなのでのんびりだが、明日の晩餐ではヒルドの誕生日祝いがあるのだ。

まだまだ終わらない夏がそこにある限り、その安寧を邪魔するものには目にものを見せてくれよう。



その時、ずだぁんという激しい音が上の階から聞こえてきた。


はっと顔を見合わせ、ネア達は再び階段を駆け上る。

今度はどこから聞こえてきたのかが明確であったので、アルテアを先頭に向かうのは、本棟に繋がる渡り廊下のある、二階の談話室の奥だ。

どうやら、一階だと決めつけたのは早計であったらしい。



(そうか。一階から悲鳴が聞こえてきたような気がしたけれど、渡り廊下が開いているのなら、悲鳴が遠くても不思議ではなかったんだわ…………!)



そんな無念さを噛み締めながら二階の廊下を駆け抜け、思わぬ誤算だったと眉をぎりりと寄せたネアの目に飛び込んできたのは、巨大な本の下敷きになって息も絶え絶えなノアの姿であった。



「ノア!!」


思わず名前を呼んでしまったネアに、力なく顔を上げた義兄は、儚い微笑みを浮かべる。

それはまるで、死に際に家族に再会出来た者のような穏やかな微笑みで、ネアは胸が苦しくなってしまった。


「…………最後に、僕の大事な女の子に会えたぞ」

「おい、ふざけている場合か。何なんだこいつは…………」

「…………僕だけが標的じゃないよ。シルも、アルテアも、逃げた方がいい…………」

「ぎゃ!がくっとなりました!!」

「ノアベルトが…………」



敵の正体を明かすことなく、不穏な言葉を残して力尽きてしまった塩の魔物を踏み潰しながらずしずしとこちらに向かってきたのは、ネアの胸くらいまではあるかという、大きな本だ。


ちょっと巨大過ぎやしないかと思わないでもなかったが、残念ながら、元よりこのくらいの大きさのものはなくもない。

人外者の多いこちらの世界では、本そのものが貴重品とされたような時代はないのだが、その代わりに竜用の本や膨大な術式を収めた魔術書などは、必然的にこの大きさを必要とする事がある。

よって、信仰の偉大さを示す為や貴族達の贅沢の為にではなく、通常の規格の一種として、このサイズの刊行があるのだ。



「ディノ、あやつの表紙が見える位置に動けますか?」

「…………うん」

「せめて、どのような理由で荒ぶる躾け絵本なのかを、どうにかして把握しなければなりません。…………む?躾け絵本ですよね?」



そもそも、躾け絵本という前提自体が合っているのだろうかと首を傾げたネアは、ここで漸く、渡り廊下の扉の影に、エーダリアとヒルドがいる事に気付いた。

はっと息を呑みかけてぐっと堪えたのは、二人の距離があまりにも本と近いからだ。


エーダリアはヒルドに守られるように立っているが、本が二人に気付き振り返れば、簡単に飛び掛かれる位置ではないか。

だとすれば、ノアは背後の二人を庇おうとして討ち死にした可能性が高い。


そう考えかけたネアは、果たして本は振り返れるのか問題で心の迷路に入りかけてしまったが、すぐに意識を目の前の敵へと引き戻す。

きっと本だって振り返るに違いない。

何しろ、食パンが路地裏で野良生活を送れる世界なのだ。


しかし、となると、義兄の犠牲を無駄にしない為にも、後ろに隠れている大事な家族に気付かせる事なく引き離し、尚且つあの本を倒さねばならない。


その為の作戦を考えていると、エーダリアが、何かを描いた手帳を広げてこちらに見せた。



「…………む」

「何だろう…………」

「…………解析は諦めるしかないな」



恐らく、何かあの本を倒す為のヒントをくれたのだろうが、暗号のような文字の意味が読み解けず、ネア達はすぐに混迷に包まれた。


二つの細長い文字、もしくは特殊な魔術陣なのだろうか。

残念ながら、そちらに明るくないネアにはさっぱり分からない。

意味が伝わらなかったと知るとエーダリアは絶望の表情になったが、アルテアまでもが諦めたとなると、なかなか高度な暗号なのだろう。



(…………というか、なぜ暗号なのかしら)



そこでネアは、そんな疑問にぶつかった。


あのような記号を示したという事は、具体的な文字や名称で示してはいけないものなのだろうか。

だとすると、躾け絵本などではなく、もっと危険な物が紛れ込んでいたという可能性もある。

ごくりと息を呑み、振り落とされないようにしっかり魔物な乗り物に掴まると、その瞬間、巨大な本がこちらに向かって飛び掛かってきた。



「みぎゃ!」



ばいんと弾んだ巨大本が、空中で巨大な漆黒の獅子の姿になる。


すかさずアルテアが排他結界を展開し押し返したが、獅子を追い払い結界を消した途端になぜか、自分の手元を見て顔を顰めている。

ネアは、あまりにもあざとい姿の変化にうっかりときめいてしまいそうな己の心を叱咤し、思っていた以上に俊敏な体を得た敵に、指先を握り締めた。


「魔術の無効、もしくは質量を極端に下げるような固有魔術を持っているな」

「お、おのれ、姿を変えてしまった為に、敵の正体が分かりません!おまけにふさふさ鬣で可愛いとは、なんという恐ろしい敵なのだ!!」

「あんな本なんて…………」

「………シルハーン、早々に片付けるぞ」

「そうだね。すぐに元の本の状態に戻してしまおう…………」



なぜだか魔物達がとても団結しているのは、きっと敵の能力が思っていたよりも厄介だったからだろう。

ネアは油断のならない展開にきりりとし、獲物を追い詰めるかのようにうろうろと歩き回る黒い獅子の表情を窺った。



(…………瞳も黒いから、表情が読み難いのだわ。せめて、きりんか激辛香辛料が効けばいいのだけれど、祟りものや悪変したものであった場合は、効果がないかもしれない)


おまけに、扉の影に隠れているとは言え、背後にはエーダリア達がいる。

そちらに被害を出さないようにしながら自慢の武器を使うのは、なかなか骨が折れそうだ。


その正体を知っているかもしれないエーダリア達はなぜか、エーダリアが手帳に一生懸命に何かを書いてはヒルドが厳しい顔で首を振るという事を繰り返している。


あちらもあちらで、必死にネア達に何かを伝えようとしてくれているのだろう。

だが、最初の暗号で伝わらない以上、他に有効な表現方法がないのかもしれない。



だしん。



そうこうしている内に、二度目の強襲があった。


力強く床を蹴って飛び掛かった獅子に、今度は結界で盾を作らずに、アルテアはどこからともなく取り出した白い杖で応戦している。

あの杖を出したという事は、いよいよ深刻な事態になってしまったと青ざめたネアが金庫を探っていると、ずばんという凄まじい音がした。



「っ、………!!」



アルテアの巧みな応戦に痺れを切らしたのか、飛び掛かった獅子が空中で本の姿に戻り、その側面で払いのけるようにしてアルテアを叩き飛ばしたのだ。


相当の打撃力だったのか、魔術を無効化するという恐ろしい力のせいか、片腕でそれを受けて何とか踏み留まろうとしたアルテアが堪え切れずに吹き飛ばされる。

一瞬元の姿に戻った好機であったが、あまりにもキレのある素早い動きが目で追えず、ネアは、本の題名を見損ねてしまった。



「ネア、落ちないようにしているんだよ」

「ディノ、一度後退し、私を下した方がいいかもしれません。あやつは、なかなか素早く動くので………」

「…………っ、」



そんな話し合いの猶予もなく、選択の魔物を排除した黒い獅子は、次の獲物として、ネア達を見据えたようだ。


一瞬、何かを思案するように黒い瞳を細めた気がしたが、それは、嬲り甲斐のある獲物を見付けたぞという、残忍な表情だったのかもしれない。

再び飛び掛かってきた獅子はしかし、跳ね起きて戦線に復帰した選択の魔物に蹴り飛ばされる。


一瞬でこちらに戻って来たのだから、アルテアは、短い転移を踏んだのだろう。

僅かに髪を乱し、赤紫色の瞳を凍えるように眇めた選択の魔物は、普通の生き物であれば精神圧で気を失ってしまうくらいの恐ろしさに違いない。


だが、蹴り飛ばされても悲鳴一つ上げなかった黒い獅子は、平然とした様子で、再びこちらに狙いをつける。



「シルハーン、そいつをどこかに避難させておけ。ここは、…………っ?!」




その瞬間に起きた悲劇は、ネアの記憶に長く残った。



アルテアは、様々な事件を共に乗り越え、フッキュウと甘えるちびちびふわふわした生き物姿を見せてくれるくらいに、信頼関係を深めてきた使い魔だ。


そんなこれ迄の日々が脳裏に蘇り、胸が締め付けられるように痛む。

けれども、ざあっと黒い霧が凝るように姿を変えた黒い獅子が、その使い魔の心を砕く生き物に転じる瞬間を、ネアは、ただ成す術もなく見ている事しか出来なかった。



「…………は?」



茫然と目を瞠った魔物は、抱き締めたいくらいに儚かった。

ネアは、同じような儚さで最後の微笑みを浮かべたノアを思い出してしまい、ぎゅっとディノの肩を掴む。

アルテアの目の前で、毛皮製の巨大エリンギの姿に転じた黒い獅子は、そのまま、反応が遅れた第三席の公爵位の魔物を押し潰した。



「アルテアさん!!」

「アルテアが…………」


目を閉じて胸を押さえたいのを堪え、ずしんという重い音に、ネアはかっと目を見開いた。


同じ系譜らしいのに天敵なボラボラに押し潰された選択の魔物が力尽きたところで、あの敵が、本来の本の姿に戻ったのだ。

今度こそはその本の題名を見逃してなるものかと凝視し、とうとう、敵の真名を掴むことに成功する。



「おいしく食べよう。…………食育と食べ残しの舞踏たる、躾け絵本」

「…………躾け絵本なのだね…………」

「食べ残しをした悪い子供を、徹底的に躾ける絵本という副題があります。…………あの本の作者には、何があったのだ…………」

「子供の食べ残しで困っていたのかな…………」

「というか、アルテアさんですら死んでしまうのですから、躾けられた子供達がどうなったのかと思うと、恐怖しかありません…………」



だが、もうアルテアはいないのだ。

ここから先は、ネア達だけで、この躾け絵本と戦わなければいけない。

そう考えかけ、ネアはある事に気付いた。



「…………ディノ、私を下して下さい」

「ネア、君の事は守るから、手を離してはいけないよ」

「ふと、気付いたのです。…………私は果たして、あの絵本めに躾けられてしまう、悪い子でしょうか?」



その言葉に、悲壮な面持ちでいたディノが、澄明な水紺色の瞳をゆっくりとこちらに向ける。

茫然と瞠られたその瞳に凛々しく頷きかけてやり、ネアは、大事な魔物の頭をそっと撫でた。



「あやつめは、私が鎮めてみせましょう。私の大事な魔物に、指一本触れさせるものですか!」

「ご主人様…………」



だが、一筋の希望の光が見えたとしても、ディノは、ネアを一人で躾け絵本と対峙させる事は拒んだ。


当然だが、儚い人間があの巨大な本でばしんとやられたら、恐らくはアレクシスのスープの効果に頼るしかなくなるだろう。

なので、ディノはネアの手をしっかりと握って背後に立ち、躾け絵本が襲い掛かってくるようであれば、即座に転移で避難させる作戦だ。



「さぁ、私を襲ってみればいいのです!どんな食べ物も美味しくいただき、何もお代わりしなかった事は殆どありません!先日も、使い魔さんの保存用タルトを一晩で貪り食らいましたし、一食で我慢する時は、その後にも食べる物が控えている時くらいなのですよ!」



その宣言に、再び何かの姿に転じようとしていた躾け絵本は、ぴたりと動きを止めた。


本の姿でしかないのだが、困惑したようにこちらを見上げ、おろおろと左右に体を揺らし出す。

これはいけるぞと邪悪な微笑みを浮かべたネアが一歩前に踏み出せば、その揺れ方はいっそう激しくなった。


「それでも、私を躾けると言うのですか!!世界中の美味しい料理を、残す事なく食べ尽くさんとする、気高い乙女なのです!!!」



そうして、勝利を悟ったネアが、更に一歩踏み出した時だった。


巨大な躾け絵本が、ぶるぶると大きく震え、どかんと爆発したのだ。



「ぎゃ!!」

「ネア!!」



勿論、爆心地にいたか弱き乙女は吹き飛びそうになってしまい、慌ててディノが結界で守ってくれる。


だが、爆煙という感じではない、もうもうと立ち込めた霧のようなものが晴れると、そこには、魂を喪ったように力なく倒れる躾け絵本の姿があった。


ディノの腕の中でそろりと立ち上がり、ネアが爪先でつんと突いてもぴくりとも動かない。



どうやら、死んでしまったようだ。



「ふぅ。たいへん厳しい戦いでしたが、ノアとアルテアさんの犠牲を無駄にする事なく、生き残る事が出来ましたね」

「…………おい、ふざけるな。生きてるぞ」

「なぬ。ボラボラで気を失っているかと思ったのですが、先程の爆発が目覚ましになったのでしょうか」

「…………僕も生きてる。っていうか、何か爆発しなかった?」

「ノアベルト!無事だったのだな…………!!」

「…………あ、良かった。エーダリアもヒルドも無事だね。僕が囮になった甲斐があったよ」



よろよろと集まって来た魔物達に、ネアは、ふんすと胸を張った。


すっかりよれよれの使い魔には、腰は維持しているし、美味しく世界を楽しむ事は尊いのだと眼差しで語っておく。

そしてご主人様は、伴侶だけでなく、家族も使い魔も守ったのである。



「……………わーお。完全に本に戻ってるけど、僕の妹は何をしたのかな」

「私の偉大さに絶望し、爆死したのでしょう。愚かな躾け絵本でしたね」

「お前の、食い気の凄まじさにの間違いじゃないのか?」

「ぐるる……………」



そこに、エーダリアとヒルドも合流し、やっと家族が揃った。


しかし、エーダリアの顔色が良くないので心配になってヒルドの方を窺うと、森と湖のシーは、困ったように淡く微笑む。



「フォークの絵が理解されなかったので、落ち込まれているのかと。ですがあれは、……………私でもなかなか」

「なぬ……………」

「フォークだったのかい……………?」

「魔術記号じゃないだろうなとは思ったが、フォークか…………」



どうやら、先程エーダリアが示した手帳の暗号は、フォークを描こうとして出来上がったものだったらしい。


(なぜ、柄の部分と二分割してあったのだ……………)



そのあんまりにも斬新な画法に、ネアは困惑するしかない。


エーダリアは魔術師であるので、一部、自身の感情が反映され過ぎておかしなことになる対象以外は、かなり上手な絵を描いていた筈だ。

観察記録などを取る機会の多い魔術師は必然的に上達する分野であるし、何度か仕事の内容を図解で説明してくれた際にも、とても上手だった。


どうやら、ヒルドとのやり取りは、どうしてフォークが描けないのだろうという一幕だったらしい。



「……………すまないな。フォークの表現は不得手だったようだ」

「い、いえ。特別に苦手なモチーフは、きっとどなたにもあるでしょう。私も、奥行きが死んでしまうので、建物は描けないのです」

「ああ。……………次回こそは、必ず」

「そう言われると、また来年の夏も、新たな躾け絵本に出会えそうな気がしてきました……………」

「やめろ。こっちを見るな」



今年の躾け絵本は、食べ残しのある者達を狙ったらしい。


エーダリアやヒルドも、アルテアも、基本は食べ残しをしない派である。

だが、急用や仕事の関係でどうしても途中で席を立たなければいけない事もあり、そのような本人の意思に反した事例でも適用されてしまうようだ。



「となると、私にもそのような事例はあった筈なのです。それなのに、爆死したのです……………?」

「……………ありゃ、ここに注意書きがあるね」



そう声を上げたのは、すっかり動かなくなった躾け絵本の頁を捲っていたノアで、よく考えれば絵本である以上は、この本を子供達が読んでいたのだなという、かなり危険な過去が見えてくる。


読もうとして近付いた途端に襲われる可能性もあるだなんて、あまりにも危険に満ちた幼少期ではないか。



「……………ほお。この本の発動条件があるな。読んでやるからよく聞けよ?」

「なぬ。なぜこちらを見るのだ。偉大で可憐な乙女は、襲えない仕様になっているのですか?」

「種族を問わず、尚且つ全年齢対象だが、悪食に近付けると力を失い、休眠状態に入るそうだぞ?」

「まぁ。では、荒ぶったら悪食に近付ければいいのですね。……………ぎゅ?」

「今年は、お前がいたお陰で大人しくなったな?」

「……………わたしはあくじきではありません。おいしいものしかたべないのですよ?」

「食い気があまりにも強くて、悪食と混同されたんだろうよ」

「むぐるるる!」



ネアは、乙女に対してなんという汚名だと荒ぶったが、なぜかディノが目をきらきらさせて尊敬の眼差しで見つめてくるので、とは言え伴侶が守れればいいやと割り切る事にした。



「……………さて、これから本棟に向かう事になるのだが、くれぐれも注意してくれ」

「うん。僕達なんか、この扉を開けた瞬間に襲われたからね」

「……………まだ躾け絵本がいるのかな………」

「今までのシリーズとは違う敵が現れましたからね。となると、他にもいる可能性もあるかもしれません」

「一度、書庫そのものに封印と鎮静魔術をかけた方がいいかもしれないな……………」




意を決して食材を調達に向かったネア達だったが、幸いにも食料庫までの道のりは穏やかであった。


何だかもう沢山の冒険を済ませた気分になってくるが、到着して数刻しか経っていない。

ごろごろぴしゃんという雷鳴を聞きながら、雨の降り出した窓の外を見れば、初めての、灰色にけぶる避暑地の影絵がそこにある。


幸いにも、この嵐は先程の躾け絵本との間に魔術因果が確認されたので、暫くすれば落ち着くだろうという事だった。


天候変化の付与すら持ってる躾け絵本を放っておけなかったのか、食後には、アルテアやノア、エーダリア達で集まり、先程の躾け絵本の調査会をするらしい。


賑やかに意見を交わしている姿を見れば、躾け絵本に襲われた経験もまた、楽しい夏の休暇の良いスパイスになったのかもしれなかった。







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