夏休みと見知らぬお城 1
「……………まぁ、城内清掃中なのです?」
「わーお。なんだろこれ」
「西棟をお使い下さいと書かれていますね。そのような物はあったでしょうか………」
首を傾げたヒルドに、ネア達は顔を見合わせた。
今日からは、リーエンベルクの夏休みである。
ネア達は意気揚々と指輪の中の避暑地にやって来たのだが、いざ城内に入らんとしたところで、この立て看板があったのだ。
使い込まれたような滑らかな白木の看板には、一枚の紙が貼り付けられている。
そしてそこには、城内が清掃中であるので、西棟の城に滞在して下さいと書かれていたのだ。
「城内に魔術違反を確認したので、清掃しているのかい?」
「この小さな文字の説明を読む限りは、そのようですね。幸い、この地図を見ていると、厨房などは使えるようですよ。………むむ、横にある図解を見ている限り、ここの廊下で繋がっているとなると、我々が宿泊するお部屋はいつものお城からも行けたのですね!」
「うーん、あったかなぁ。そんな建物」
「魔術洗浄をかけるような、自立型の魔術が構築されているのだな。初めて見るものだ………」
「まぁ。エーダリア様が………」
「エーダリア様、くれぐれも、立ち入り禁止とされた区画に入らないようにして下さいね」
ヒルドが静かな声でそう言えば、エーダリアは、はっとしたように目を瞠っている。
まるで、入るつもり満々でいて、指摘されて初めて入れない事に気付いたようだ。
がっくりと肩を落として悲し気に溜め息を吐いているエーダリアに呆れ顔のヒルドを見ていると、周囲の確認に行っていたアルテアが戻って来た。
なおこの使い魔は、本日の午後過ぎの合流時間までは仕事で不在にしている筈だったが、その仕事先で遭遇してしまったので、そのまま一緒に行動している。
アルテアが排除しようとしていた商売敵は、ネアがうっかり狩ってしまったようだ。
その結果、早めの合流が可能になった次第である。
「…………この城も含めて様子を見てきたが、特にこちらに支障はなさそうだな。人が入るようになって、文書室の壁のインク結晶が育ち過ぎたのが、清掃の理由だろう。………それと、確かに西側に別棟がある」
「ありゃ、そこに泊まれそうな感じかい?」
「ああ。問題ないだろう。寧ろ、城として造られたこちらよりも、住居棟という感じだな」
「………であれば、今年の休暇中は、そちらを使わせて貰う事になりそうだな」
「ひとまず、建物の方を確認しましょう」
「ああ」
(良かった。ヒルドさんのお誕生日が出来そう!)
避暑地での過ごし方と言えば、湖で遊んだり森を散策したりするだけでなく、大事なヒルドの誕生日がある。
泊まれなかったらどうしようと考えていたネアは、ほっと胸を撫で下ろした。
(………この看板を立てたのは、誰なのだろう)
ではと、示された西棟に向かいながら、城内清掃中の看板を振り返る。
この指輪の中にある影絵の隔離地では、畑や牧場などはあっても、使用人などの姿を見た事はない。
この中を調べたノアからも、家事妖精のような存在は確認出来なかったと言われている。
だが、清掃中という事は、何某かの、その役割を果たす存在がいるということにならないだろうか。
或いは、土地や建物そのものがそのように作用するのであれば。
(まるで、この土地そのものに意思があるみたいだ………)
見回した指輪の中の王族の避暑地は、昨年に来た時と変わらない長閑さであった。
庭園には花が咲き乱れ、木々は涼やかで美しい。
そして、星の煌めきを湛えた湖は清廉で透明な輝きを放っている。
本棟の方でどんなお掃除が行われているのかは分からないが、ある程度の自浄作用があるのなら、心配には及ばないのだろうか。
この看板を立ててくれた何かは、丁寧にこの影絵の内部の見取り図も添えてくれていた。
毎年遊びに来たい大事な避暑地なので、もし困った状態になっているのなら、こちらで出かけるのも吝かではない。
ずっとずっと、夏休みはここで家族と過ごしたいのだ。
そんな事を考えながら、示された別棟に向かう事となったネアは、ふと、靴底から伝わる感覚の変化に視線を足下に向ける。
(…………あ、)
さくさくと下草を踏みながら歩いていたのだが、その中に小花に埋もれるようにして張られた石畳に気付いたのだ。
敢えてこちらまで歩く事はなかったが、こうして見てみると、どうやら西棟とやらへの道は作られていたらしい。
そもそも、この辺り一面に咲いているのが白い小花というのもなかなかだなと考えながら、ネアは三つ編みを持たせてくる伴侶を振り返る。
「このような所に、道があったのですね。いつもふんわり小花が咲いていたので、踏んではいけないと思い立ち入らずにいました」
「魔術でも、きちんと道筋がつけられているね。花々には状態保存の魔術がかけられているので、意図的に摘まない限りは、損なってしまう事はないだろう」
「或いは、今だけ現れている可能性もあるな。予備空間である場合は、条件を満たさないと出現しない事も多い。お前は兎も角、ノアベルトならこの空間の隅々まで見まわった筈だ」
「………そうなんだよねぇ。あれば気付いた筈なんだけど。………とは言え、こういう場所ってカットされた宝石みたいな物だからさ、見落としていただけかもしれない」
「むむ、宝石なのです?」
「うん。角度によって色合いが変わるんだ。ほら、ここは、指輪の宝石の中に道があるでしょ」
説明してくれたノアによると、それは、資格のない者には存在を明かさないという角度でもあり、同時に、見慣れた者にも、その角度によって新しい景色を見せるという意味でもあるらしい。
だからこそ、この土地を残した者達は、宝石の中に影絵を隠したのだ。
そしてその、多面的な空間や魔術を宿すことに長けている宝石には、見る度に新しい魅力があるという認知の魔術も作用があるらしい。
「…………ここだな」
「ほわ……………」
「おや、立派なものだね」
本棟を回り込む形で歩いてゆくと、やがて見事な別棟が現れた。
それが以前の訪問からあった物かどうかはさて置き、確かに、細い廊下で本棟とも繋がっている。
ネアは、こちらでのお天気は不明ではあるが、外廊下のような物ではなく屋内から本棟に向かえるのだと分かってほっとした。
魔術でひょいと雨風をしのげる魔物達はいいが、こちらの人間は簡単にしっとりしてしまう。
(…………綺麗。小さなお城だわ)
そこにひっそりと佇んでいたのは、小さなお城であった。
元々この空間の中にあり、ネア達が毎年利用していた建物も小規模なお城ではあるのだが、いっそうにこぢんまりしていて秘密の隠れ家的な雰囲気がある。
外観は綺麗な漆喰の白壁で、屋根は白みがかった孔雀色が背後の森の木々に溶け込むようで美しい。
お城への道は、小川を渡るようなアーチ状の石橋があり、魔物達はまず、その橋を警戒したようだ。
「アルテア、この橋は調べたかい?」
「ああ。こちらの城に繋ぐという意味以上の魔術的な付与はなかった。…………が、一応こちら側の領域から隔離されないよう、繋ぎの魔術は構築してある」
「それなら、大丈夫だろう。向こうの城からも、あの渡り廊下を使えば移動出来るようだしね」
「あ、承認型の魔術だね。橋を渡って、正門からあの城に入った者だけが、渡り廊下を使えるみたいだ。…………それで今迄は認識出来なかった可能性はあるのかぁ…………」
「おとぎ話の中に出てくるような、綺麗なお城ですね。とは言え、夕暮れ前にこちらに到着出来て良かったのかもしれません」
「ああ。早めに執務を引き継いでくれたダリルのお蔭だ。…………屋外灯が見えるので、明かりは用意されているようだが、暗くなってからでは周囲を調べるのも手間がかかるからな」
今年の避暑地訪問が午後遅くからになったのは、エーダリアの執務の関係であった。
なのでと、ネア達は朝から所用を片付けてしまい、本来であれば夕暮れ以降にこちらに入るつもりだったのだ。
幸いにも、予定されていたザルツとの会議が早めに終わり、そのまま、ダリルがエーダリアの執務を引き継いでくれた。
アルテアも既に合流していたので、では、早目に移動してしまおうかという事になったのである。
(…………すごい。物語の中に足を踏み入れたみたい!)
小川を渡る橋を歩けば、ネアはそんな思いに唇の端を持ち上げてしまう。
その表情の変化に気付いたディノが、なぜか悲し気に瞳を伏せた。
「…………橋なんて」
「まぁ、橋にも荒ぶってしまうのです?このように、初めてのお城に向かう事にわくわくしているだけなので、浮気ではありませんからね?」
「そうなのかい?」
「ええ。見て下さい。この橋はとても小さくて、子供たちの秘密基地に向かうような気持ちになれます。欄干部分に絡んだ蔓薔薇の花も綺麗ですね」
「小川と、星の系譜の薔薇だね。小さな傷を癒す祝福があるので、外側ではもうあまり見かけなくなってしまった薔薇だよ」
「もしかして、採取され尽くしてしまったのです?」
ざらりとした硝子の断面のような石材に蔓を這わせている薔薇は、可憐な小ぶりのカップ咲きだ。
清廉な小川のような水色だが、冴え冴えとした涼やかさではなく、どこかほっこりとするような柔らかい色相である。
近付くと、花びらの中央が僅かにクリームイエローの色になっていて、ネアはなぜか、ああ、この部分に星の輝きを宿すのだと思ってしまった。
(と言う事は、夜になると光るのかもしれない…………!!)
はっとしてディノにそう尋ねてみれば、案の定、この薔薇は夜になると星の煌めきを宿すのだそうだ。
どれだけ美しい光景だろうかと胸が弾んでしまう反面、そうして光を宿す事もまた、収穫されてしまい易かった要素なのだろうと切なくもなる。
美しい花を守って欲しいと言うのは簡単だが、日々の仕事で自身や家族を養う人々にとっては、小さな傷もその労働の妨げになるものだ。
水仕事をする者や針子は指先が大事であるし、足を使う者達が足を怪我すれば、万全の状態にしておきたいだろう。
また、小さな子供の怪我であれば、すぐにでも治してやりたいと思うのが親心だ。
健やかでありたいという願いは、単純だが強いものである。
どれだけこの花を美しいと思っても、それだけでは踏みとどまれなかった理由もよく分かってしまった。
橋を渡ると、石畳の道が真っすぐに小さなお城の玄関まで続いていた。
正門は石造りの門構えだけで、柵などで施錠されている様子はない。
石畳の道の両脇にはアイリスの花が咲いていて、お城の周辺には瑠璃色の紫陽花が満開になっていた。
更に外周を覆うのは、立派なオリーブの木だろうか。
そう思ったネアは、見慣れない赤い実がなっている事に気付き、ディノの三つ編みをくいくいっと引っ張る。
「…………可愛い」
「ディノ、あの木は、どのようなものなのですか?オリーブの木に似ていますが、艶々の真っ赤な団栗のような実がなっています」
「竜の木と呼ばれるものだね。竜種との直接の繋がりはないのだけれど、あの実の香りを竜が好むんだ。代わりに、祟りものや呪いなどは好まない香りだから、大きな抑止力にはならなくても、屋敷などの周囲に植えていた人間は多かったのではないかな。ウィームでは殆ど見かけないけれどね」
「…………呪いにも、苦手な匂いがあったのですねぇ」
そんな事に感心してしまったネアに対し、エーダリアはしゅばっと木の方に駆けていってしまい、予期していたのかヒルドがすかさず追いかけてゆく。
目を瞬きノアの方を見ると、苦笑した義兄が、あの木はヴェルクレアでは非常に珍しいのだと教えてくれた。
「ここの物は、国外から取り寄せて植えたんだろうね。本来は、今のガゼット付近でしか見られない木なんだ。一時、貴族達の屋敷に植えるのが流行ったんだけど、維持管理が難しくて最近はあまり見かけないかな。流行った頃はロクマリアがその苗の権利の一切を保有していたから、ウィームには殆ど入ってこなかった筈だよ」
「それでエーダリア様が、興奮してしまったのですね。他の三領にもあまりないものなのです?」
「ガーウィンとアルビクロムは、魔術的に合わなそうだね。ヴェルリアは、山間の一部の土地くらいかな。………それにさ、ロクマリアの固有種って事が明確な植物だったから、扱いが難しかったのもあるんだろうね」
「ふむふむ。確かに、我が国の植物を有難うございますという感じになると、途端に顧客感が出てしまいそうですものね」
「流通を仕切ったのはアクスだ。ある程度は、土地の魔術に作用する種だからな。敢えて、流通を制限する意味で、広がり過ぎないようにしたんだろう」
そんな話を聞けば、まだお城の中に入ってもいないのに、様々な事を学んでしまったぞとわくわくする。
ネアは、こうして新しい場所を訪れたからこその知識の取得にすっかり気を良くしてしまい、窓辺の装飾が美しいお城を見上げる。
(こうして見ると、とても手の込んだ造りなのだわ…………)
お城の入り口は、段差の低い流線型のアプローチがあり、森結晶の手すりがついていた。
細やかな彫刻は草花をモチーフにした繊細な意匠で、ファザードの下のエントランス部分には、花の蕾を模した照明がかかっている。
天井部分の装飾は規則的な彫刻だが、そちらにも植物のモチーフがあしらわれていた。
「妖精の建築家がいたようですね」
そう呟いたのはヒルドで、ネアは、おおっと目を瞠る。
以前に、中央棟になるお城については、あちこちに魔物嗜好が反映された建物だと聞いたのを思い出したのだ。
成る程、建物から感じる雰囲気が違うものだなと眺めていると、アルテアがお城の扉をがちゃりと開く。
「鍵はかかっていないみたいだね」
「ああ。この空間の中に入れる者であれば、自由に開けるようになっているんだろうな。…………ほお、」
「おや、粋な計らいですね」
「花が飾られているのだな…………」
アルテアが眉を持ち上げ、ヒルドが微笑むその視線の先には、玄関ホールに飾られた、見事な湖水結晶の花器があった。
そこには、見事な白薔薇が生けられていて、一緒に花瓶に挿された細やかな水色の花をつける野の花と、ローズマリーの枝が、何とも爽やかで優しい雰囲気を醸し出している。
誰が生けたのか、こうして反映される魔術の仕掛けなのかは分からないが、この花の存在だけでもう素敵な夏休みになりそうな気がして、ネアは小さく弾んでしまう。
「素敵なお迎えですね。ますます、お部屋を見るのが楽しみになってしまいました」
「魔術で、その時期の花を集めるように条件指定が組まれているようだね。幾つか型を作っておいて、その中のものを模倣するように術式を記したのだろう」
「まぁ、全自動なのです?」
「商業施設では、時折見かける仕掛けだ。花の種類や本数、枝ぶりなどを指定し、花壇や庭園にその魔術を繋ぐことで、同じような物を再現させる仕組みだな。この場合は、扉を開く者がいたらという条件指定なんだろう」
「そんな便利な魔術があるのですね…………」
ネアは、早速自分の部屋にも応用出来ないかなと思ったが、そもそも状態保存をかけた花などを強欲に保管し続けているので、ご新規さんは、時折家事妖精が飾ってくれる花くらいで充分だ。
であればやはり、このような場所にこそ向いた魔術なのだろう。
かこんと、扉を閉める音が響く。
孔雀色の石床は大理石のように艶々で、内壁は柔らかなセージグリーンに塗られていた。
玄関ホールを見上げると、見事なシャンデリアが吊り下げられており、天窓からの光がその結晶石をきらきらと輝かせている。
調度品は木製で、夜鉱石のニスを塗った飴色の木の色が、どこかほっとするような温かさを与えてくれた。
ところどころ結晶化が進み、綺麗な琥珀のようになった家具の角には、窓からの陽光が透過して床に複雑な光の影を落としている。
「………こ、この飾り棚の影の中に、お魚が泳いでいます!」
「ありゃ、水辺に生えていた木を使ったのかな。これって全部、湖水松だよね?」
「木の記憶が影の中に現れているんだろうな。………いいか、お前は、おかしなものを見付けた場合は、触れないようにしろよ」
「はい。…………でも、こうして見ていると、綺麗で見入ってしまいますね」
「………こちらには、栗鼠の影があるな。加工された湖水松が、このようになるとは思わなかった」
「り、栗鼠さんもなのです?!」
「妖精の細工ですと、聞く話ではありますよ。………ただし、愛し子に贈る品物にしか宿らない情景ですので、この家具類を制作したのは、かつてウィーム王家に仕えた者達なのかもしれません」
大事に大事に時を重ね、共に生きてゆこう。
そう願い渡された妖精家具は、こうして影などに木々の古い記憶を宿すのだそうだ。
祝福を宿した古い家具は、時として持ち主を守るという。
(…………それならきっと、エーダリア様が訪れた事を、このお城も喜んでくれるのではないかしら)
不思議な感覚だが、城内は清々しかった。
影は涼やかで、森で深呼吸したような空気に満ちていて、香草や花々のいい匂いがする。
窓から差し込む木漏れ日は温かく、こんなお城の寝台で昼寝をしたら、すっかり疲れが取れてしまいそうだ。
歓迎されているというのは、こうして肌に伝わる安らぎなのだろうか。
そう思えばますます、この新しい避暑地の宿が気に入ってしまう。
その後、ネア達はゆっくりと城内を歩いて回り、浴室付きの客間が十二室、食堂が一室、談話室が二室、道具部屋が三室、そして小さな広間が一室である事を確認した。
ネアが一目で気に入ってしまったのは談話室の内の一部屋で、柱の彫刻や壁に描かれた壁画から、森の中で過ごしているように思える場所だ。
澄み渡った湖面を思わせる青いタイル張りの床は、タイルの一枚ごとに描かれた小花の模様が何とも可憐ではないか。
大きなシャンデリアではなく、小ぶりなシャンデリアを不規則に配置し、まるで森の中の夜の光を楽しめるような遊び心のある造りになっている。
食堂だと思われる部屋には、大きな夜樫の木のテーブルがあって、縦長の六角形の額縁に入った、繊細な花の絵が沢山飾られていた。
恐らく誰かが描いたものを飾り始めてゆく内に増えていったのだろうが、壁色と同じ色の同一規格の額縁で揃えているので、少しも目に煩くない。
お城らしい尖塔にも登ってみたが、この素晴らしい指輪の中の隔離地が見渡せるばかりで、特に問題はなさそうだ。
「では、この部屋割りでいいだろうか」
「はい。私の部屋からは、お庭と先程の橋が見えるのですよ」
「私の部屋は、ヒルドの部屋と続きになっているようだ。慣れない場所なので、有難い」
「アルテアさんのお部屋は、小川と裏手の森が見えるので、後で突撃しますね」
「おい………」
「僕はエーダリアの部屋の隣だね。浴室に大きな窓があって、いい感じだよ」
そして、それぞれに部屋が割り振られると、ネアが真っ先にした事がある。
お日様の匂いのするふかふかの寝台にごろんと横になり、柔らかな夕暮れ前の木漏れ日を楽しみながら少し遅めのお昼寝に入ったのだ。
魔術金庫から取り出した荷物をささっと並べ、ネアは、これだけの間閉め切られていてもカビ臭さの欠片もない素敵な部屋を、心ゆくまで堪能した。
魔術の状態保存が生きている寝具は清潔でいい匂いがするし、部屋の空気も入れ替える必要はなさそうだ。
それぞれの部屋を丹念に調べてくれたアルテア曰く、この規模の城だからこそ、より完全な維持に向いた、全域への運用が可能な状態管理の魔術が敷かれているらしい。
本棟の方にも状態を管理する為の魔術は敷かれているが、とは言え、ある程度手入れをする必要があったのだ。
「むふぅ。…………気持ちいいです。………むふぅ」
「可愛い、転がってる………」
「この寝具の香りが、何とも素朴でいい香りですよね。そして、こんな時間からごろごろ出来る贅沢に、うっとりしてしまいます」
「…………少し、疲れたかい?」
そう尋ねたディノを見上げ、ネアは微笑んだ。
今日は朝から、廃棄区画という、少し危険な隔離地を訪ねていた。
ディノは以前から、その場所を案内してくれようとしていたらしい。
だが、追っ手を持つ者と追いかける者以外の立ち入りが厳しく制限されており、土地の住人との客人契約を結ばないと自由に歩けない場所で、ネアが訪れる為には、様々な条件を整える必要があった。
幸い、ディノの知り合いだという竜の男性は、元夜海の竜だ。
海遊びで得た海辺の祝福が体に残る内にと、親族だというリドワーンにも同行して貰い、廃棄区画の中を視察する事が出来た。
どのような場所もそうかもしれないが、そこがどれだけ危険な場所でも、身の振り方を知っていれば安全性を高める事は出来る。
廃棄区画と呼ばれる場所はこの世界に幾つかあるようなので、ネアは今回、その一般的な街の空気を体感しつつ、いざという時の人脈作りも兼ねて過ごし方を学んできた。
「ディノのお陰で、見た事もないような場所を安全に観光出来てしまいました。アルテアさんの追っ手の方々は困ったものでしたが、水菓子や黒駝鳥のステーキは美味しかったですね」
「うん。君が気に入るような食べ物があって良かった」
ほっとしたように微笑み、寝台に転がったネアの頭を撫でてくれる手は優しい。
この魔物は、必要な備えだからと廃棄区画を案内した事で、ネアが怯えていないかと心配していたようだ。
なのでネアは勿論、そんな魔物の三つ編みを引っ張って隣に寝かし付けてしまうと、こちらもその頭を撫で返してやる。
「………ずるい。凄く懐いてくる………」
「あら、こうして一緒にごろごろするのは、好きではありません?」
「…………ネアが可愛い」
「あちらのお城が清掃中だと知らされた時にはひやりとしましたが、気持ちの良いお部屋で良かったですね。今年の夏休みこそ、きっと月光鱒を釣り上げてみせますからね!」
「また釣れるかな」
「ふふ。ディノはもう、立派な月光鱒を釣り上げてしまいましたものね」
ネアがそう言えば、ぞくりとするような凄艶な美しさを持つ魔物が、嬉しそうに目をきらきらさせる。
ずっと釣りは出来ないと思っていたディノにとって、月光鱒が釣れたのはとても幸せな思い出なのだ。
ここでネアは、寝台の横の窓から、いつものお城が思っていたよりも近くに見える事に気付いた。
体を起こして窓を見ると、一番近いあちらの部屋のバルコニーに立つ人の表情がぎりぎり見えそうなくらいの距離感である。
「窓の向こうには、いつものお城も見えますし……………む」
「ネア?………何か見付けたのかい?」
「あちらのお城のバルコニーで、何かちびこい物が弾んでいるのが見えたような気がしたのですが、………きっと気のせいです」
「小さな物………。知らない生き物がいたとなると、調べた方がいいかもしれないよ」
「…………本の形をしていました。こちらのお部屋から見えるとなると、実際には大判の図鑑くらいの大きさなのかもしれません」
「本…………」
「躾け絵本めではないと、固く信じているのです………。昨年、全て封印しましたよね?」
「うん…………」
ごくりと息を呑み、ネアは、なぜそこ迄荒ぶるのだろうという躾け絵本の記憶を振り払った。
ふと、ごろごろと音がして目を瞠ると、いつの間にか空に黒い雲がかかっている。
「……こちらで、お天気が荒れそうなのは、初めてですね」
「魔術の動きを感じるから、…………規則に結ぶ、錬成や反応として引き起こされる天候異変のようだよ」
「…………ま、まさか、躾け絵本………」
「ご主人様……………」
怯える魔物にへばりつかれつつ、ネアは、本棟と繋がる渡り廊下の事を思い出し不安を覚えた。
今はまだ、こちらは安全な場所の筈だ。
しかし、晩餐をいただく為には、本棟に向かい食材を入手する必要がある。
「お、お昼寝しましょう!」
「うん…………」
ぶんぶんと首を振り、慌てて現実逃避に入ったネアは、後にその判断を後悔する事になる。
この指輪の避暑地にいる者達の中には、後の悲劇を引き起こす、大きな罪を犯した者がいたのだ。
そして、罪には勿論、躾けが必要なのである。




