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海辺の休日と花葬の船 3




ざざんと波が揺れる。

その波音の穏やかさが、警戒心を拭い去ってしまうのだろうか。


はらりとどこからともなく舞い落ちた花びらは鮮やかな赤色で、他にも黄色や水色や、可憐なピンク色に高貴な紫色もある。

色とりどりの花びらだが、毒々しいような鮮やかさは感じられない。

ただ、はっとする程に美しく感じ、その美しさが晩夏の青空のような不思議な切なさで胸を打つのだ。


だからネアは最初、何て綺麗な船だろうかと、それしか考えていなかった。



「……………船、です」

「いいか、私の手を離さないようにしてくれ」

「む…………?」



しかし、ひどく緊張した面持ちのエーダリアにそう言われ、ネアは、そう言えばなぜノアの姿が見えないのだろうと首を傾げる。

だが、浜辺の方を見ても、そこにはディノ達の姿すらなかった。

アルテアやヒルドはまだその下に居た筈なのに、砂浜に立てられたパラソルの下は、いつの間にか無人になっている。

島の探索に出かけてしまったのだろうか。

だが、そうなるとディノ迄がいないのはおかしい。



(……………そうだ。私は、波打ち際を歩いてこちらに戻ってきた、エーダリア様とノアを呼びに来た筈なのに……………)



ディノ達の姿が見えないのであれば、ネアが背中を向けている隙に、みんなでどこかに行ってしまった可能性がないとは言えないが、エーダリアとノアは、そちらを真っ直ぐに見ながら、波打ち際まで歩いて来た筈なのだ。


だからさすがに、いつの間にかノアの姿が見えないのはおかしいだろう。


そう考えかけ、ネアは、エーダリアがこちらの名前を呼ばなかった事に気付いた。

であれば、すぐそこにいる船に乗る人は、警戒するべき相手なのかもしれない。




(……………船、)



そこでネアは、また一つの違和感にぎくりとする。



(こんな船なんて、先程まではどこにも見えなかった筈なのだ……………)



それなのに今、ネアの視線の先には一艘の小舟が浮かんでいて、ネアは先程までそれを少しも不思議に感じていなかった。


視線の先にあるのは、大人が五人ほど乗るのがやっとという、小さな木造の船だ。

溢れんばかりの花々を積んでいて、魔術師か神官のような、不思議な装束の男性がオールを持って乗っている。


船の真ん中には大きな木が生えていて、まるでヨットの帆のように風を受けて葉を揺らしていた。

見上げる程の大きな木の質量を考えれば、こんな風にぷかぷか浮かぶ筈もないのに、けれども小舟は波間にぷかりと浮かび、硝子のように透明な海の底に船影を落としている。



(ああそうか、魚達だと思っていたのは、この船から落ちる花びらだったのだ……………)



またそんな事を考えかけ、ぎくりとする。

あれは花びら魚だと、ウィリアムが教えてくれたのに、どうしてそんな事を考えたのだろう。

そのウィリアムも、海で泳いでいる筈だったのにやはり姿が見えない。


エメラルドグリーンの海に浮かぶのは、目の前の船だけであった。



(……………いい匂いがする。花と果実の香水のような匂い。それに、何て穏やかな目をした人だろう)



沢山の花を積んだ船は、ネア達のすぐ側の波打ち際近くまで来ていて、ネアと目が合うと、オールを置いた男性がゆっくりと立ち上がった。

船の上で成人男性が立ち上がるような動きに揺れもしない小舟も不自然であったが、前に乗っていた男性が立ち上がった事で、船の後方にもこちらに背を向けて男性が一人乗っているのが見え、ああ二人乗りかなとそんな事を思う。


こちらを見たのは艶やかな黒髪の男性で、面立ちは、ウィームの民よりも少し目鼻立ちのくっきりしたヴェルリアの人達に似ていて、その瞳は、はっとする程に澄んだ黄水晶の色。

不思議な装束は、艶のある高価な絹のような砂色の織物で、頭に巻いた布ばかりは、どこか砂漠の民のようにも見えた。


そしてその男性は、こちらを見て安堵したかのように微笑むのだ。




「ああ、ここにいたのだね」



(……………っ、)



そう語り掛ける柔らかな声は優しく、けれども、性別や年齢がばらばらの者達が一斉に喋っているような奇妙な重なりが、どこかリモワの小箱の配達人を彷彿させて、ネアはぞっとした。


おまけに、どこからともなく楽し気な宴の音楽や歌声が聞こえてきていて、その音は、どう考えても船の中央に生えた木の上から聞こえてくるではないか。



(確かに大きな木なのだけれど………)



人間が登れるとしたらせいぜい三人が上限だ。

であれば、木の上で宴をするのはどんな生き物達なのだろう。



「順番があるので時間がかかってしまったが、やっと君の順番が来たよ。こちら側に来れば、もう憂いはない。穏やかで美しい場所で、ゆっくりと体を休める事が出来る。…………ほら、皆楽しそうだろう?」



何も言う事が出来ないネア達を訝しむでもなく、その男性はにこやかに語り掛ける。


黄水晶の瞳には明るい陽光がちらちらと揺れ、じっと見つめていると、青年にも見えるが、瞬きをすると老人にも見えるような気がしたネアは、その異質な何者かの微笑みが堪らなく恐ろしく思えた。

それでいて、リモワの小箱の時のような不穏な気配は一切なく、ここにいることに何の不自然さもないと心のどこかで思ってしまうのが、いっそうに恐ろしい。



これは一体、何なのだろう。

どこから来て、なぜネアを迎えに来たのだろう。



(良いものだと、……………なぜか、心ではそう感じるのだけれど……………)



冷たい汗が滲み、竦んでしまう体に対し、心は弾むように軽やかになる。

とても良いものが迎えに来てくれたので、やっと様々な苦しみや悲しみを置き去りにして、どこかへ旅立てるのだと、見知らぬ歓喜の声を上げている。


初めて目にする筈なのに、ようやく辿り着いた我が家のような、奇妙な安らぎを感じてしまうのはなぜだろう。


もしネアが一人きりだったら、堪らずにふらふらと歩み寄ってしまったかもしれないが、ぎゅっと手を繋いでいてくれるエーダリアが隣にいて、そのエーダリアの手が微かに震えている事で、ネアは向こう側に取り込まれずに済んでいるような気がした。


ちらりとエーダリアの方を向けば、そちらは、鳶色の瞳を見開き真っ青になっている。

その表情を見た時に、ネアは、どこかちぐはぐに感じていた恐怖心が、エーダリアと繋いだ手から流れ込んだもののような気がした。

何しろネアは、なぜかあの船が素晴らしく良い物に思えて仕方ないのだ。

それなのに体が怯えているのが、奇妙でならなかったのである。



「どうしたんだい?やっと君の迎えが来たのに、船に乗らないのかな?今生への執着がなくなり、死者の国へ行きたいと願っただろう?こちらは良いところだよ。食べるものも、美しい織物も沢山ある。音楽を奏で、皆でお喋りしながら日々を美しく穏やかに過ごせるところだ」



(……………そうか、その船の向こうは、死者の国なのだ)



不意にそんな事を理解し、ネアは、こちらを見て微笑む男性の瞳を覗き込む。


この世界の死者の国が、ウィリアムの管轄する死者の門の向こうにあるのなら、あの船の大きな木の上にある場所は、どこに属する死者の国なのだろう。

少なくともネアは、こうして船の姿を模して訪れるものの存在を、死者の国への入り口として教えられた事はなかった。



はらりと、また海の上に船から花びらが落ちる。

それを見ていると、ディノと一緒に花びらを踏み締めて踊ったダンスが思い出された。



「……………いいえ。私はその船には乗りません。私はもう、他に大事なものが出来たので、そちら側にはいけなくなってしまいました。寧ろ、今生には、執着だらけになってしまったのです」

「おや、……………何か事情が変わったのかな。一度乗船を拒否してしまうと、二度目の迎えはないけれどそれでいいかい?何しろ、順番待ちだからね」

「はい。どうか、次の方のところへ行ってあげて下さい」

「ではそうしよう。我々は、望まない者を連れ去りはしないんだ。でも、こうして船に乗らないと言った人間はとても久し振りだよ。…………さて、君はどうするのかな?」



その問いかけがネアの隣に居るエーダリアに向かった瞬間、男性の顔がざあっとぶれるように霞んで見えた。



(え、………)



そこに立っているのは獣の頭をした悍ましい怪物で、漆黒のガウンのようなものを着ている。

船には溢れんばかりに花を積んでいるが、大きな木には先程まではなかった筈の真っ赤な林檎がなっていた。


木の上から聞こえて来る音楽も、ネアが聴いていたような美しく楽し気なものではなく、賑やかではあるがどこかそら恐ろしい奇妙な音楽になる。

先程までのふわふわとした歓喜は消え失せ、ただひたすらに目を閉じてやり過ごしたいくらいの、恐ろしく悍しいものに感じられた。



(私とエーダリア様とで、見えていたものが違うのだ……………)



ネアはまたなぜか勝手にそう思い、繋いだ手をぎゅっと握り締める。

この船に乗ってはいけないのだ。

だが、声を出すことも出来ないのか、エーダリアはまだ、真っ青になったまま震えているばかり。


このままでは、肯定と見做されて連れ去られてしまうのではと考えたネアはぞっとして、繋いだ手をぶんぶんと振ってしまい、その途端、はっとしたようにエーダリアの瞳が揺らいだ。



「……………私は、その船には乗らない」

「そうか。君も乗らないのだね。では、二人分の名前を名簿から消しておこう。……………おや、」



ばしゃばしゃと水を踏む音がして、ぎょっとしたネアは、次の瞬間頼もしい腕に抱き締められていた。

そこには、髪から水を滴らせ、たった今海から上がったばかりという様子のウィリアムがいて、凍えるような瞳で船の男を睨み付けている。



(こんな瞳をするウィリアムさんは、久し振りだ…………)



それはまるで、物語のあわいの中で、リンジンと対峙した時のような眼差しで、向けられるのが自分ではなくてもひやりとしてしまう程。



「彼女達は、俺の領域の人間だ。早々に立ち去るがいい」

「…………ふむ。どうやら我々は、違う海域に迷い込んだらしい。だが、二人の名前は確かにこちらの名簿にあったものだ。とは言え、共にこちらの船には乗らないようだから安心してくれ給え。…………さて、次の待ち人の元へ向かう事にしようか」



そう言うと、獣の頭を持つ怪物がこちらに体を向けた。

その途端、そこに立っているのは砂色の衣の黒髪の男性になり、先程と変わらない穏やかな微笑みを浮かべている。


優雅に、けれども、どこでも見た事のないような不思議なお辞儀をし、再び船の上に腰を下ろすと、へりに引っ掛けておいたオールを手に取った。

そのオールを海に差し込みゆっくりと動かせば、すいっと船の向きが変わる。

そして、二回も漕がない内に、船の姿はかき消されたように見えなくなってしまった。




「……………っ、」

「エーダリア様!」

「エーダリア、よく堪えたね」

「ネア、大丈夫だったか?」

「ほ、ほわ。いつの間にか、エーダリア様の隣にノアがいます……………」

「ああそうか、ネアには見えなかったんだね。僕はずっとここにいて、エーダリアの手を掴んでいたんだけど……………」


力が抜けたように波打ち際に座り込んでしまったエーダリアに、一緒に座り込んだノアがそう教えてくれる。


ネアは、あの船が来ている間は誰もいないように感じていたのだが、ちゃんとそこに頼もしい家族がいてくれたのだと胸を撫で下ろした。



(あ、……………)



「……………ディノ、」



顔を上げれば、いつの間にか海の上に立っている魔物がいる。

あの船が消えた方向とネア達との間に立つディノの真珠色の髪はここにはない筈の風に揺れ、手には髪と同じ色の結晶から削り出されたような錫杖が握られていた。

水着ではなく、はたはたと風に揺れるのは白いフロックコートだ。

縫い付けられた結晶石が、ちかりと陽光の下で煌めいている。



声が聞こえたのか、僅かに振り返り、安心させるように頷いてくれたので、ネアは安堵にふうっと息を吐いた。


そうしてみて初めて、背中ががちがちに強張っていた事に気付く。

がくんと力が抜けそうになった膝にすっかり力が入らなくなった事に気付いたのか、すかさずウィリアムが持ち上げてくれる。



「……………むぐ」

「よく頑張ったな。………災いではないと感じられたが、………それでも、異様な気配だった」



互いに水着だからか、触れる肌の温度がやけに熱く感じた。

という事はつまり、あまり体温の高くない魔物に対し、ネアの体が冷え切ってしまっているのだろう。

こちらを見ると、ふっと柔らかな微笑みを浮かべてくれたウィリアムに、ネアはへにゃりと眉を下げる。

 

「ウィリアムさん、あの船は……………」

「そうか。ネアには船の形に見えたんだな。…………俺には、黒い靄の向こうに石造りの階段があるように見えたんだ」

「……………そうなのですか?」

「ありゃ。僕には、誰も乗っていない船の残骸が海の上に浮かんでいるように見えたなぁ」

「……………私にも、船に見えた。花を沢山積んでいて、船の真ん中には大きな林檎の木が生えている」

「私にも、そのような物が見えていました。ですが多分、その船に乗っていた方の姿は、私とエーダリア様で違う見え方をしていたような気がします」



ネアがそう言えば、エーダリアが驚いたような顔をする。

しかし、話をする前にまず、一度体を休めようかとノアにひょいと抱えられてしまい、慌てたように目を丸くした。


「ノ、ノアベルト、自分の足で歩け…………っ、」

「はいはい。このくらいは、僕でも運べるからね。あ、ヒルド達も丁度戻って来たみたいだ。アルテアの表情的に、こっちの異変に気付いたのかな」

「かもしれないな。……………シルハーン、境界を付けるのであれば、鳥籠を作りましょうか?」


そう呼びかけたウィリアムに、ディノは振り返って首を振った。

海面を歩いて浜辺に戻ってくると、手に持っていた筈の錫杖はいつの間にか消えており、服装も水着に戻っている。



「残っていた僅かな証跡も含めて、こちらからは追尾出来ない階層に入ったようだ。そう簡単にあの道が開くとは思えないから、もうこの海域に戻る事はないだろう。二度と入り込まないようにはしておいたけれど、もう二度とここを訪れる事はないのかもしれないね。……………ネア、大丈夫かい?」

「ふぁ、……………はい。エーダリア様が一緒にいてくれたお陰で、何とかきっぱりお誘いを断れました」

「……………誘い、があったのだね」

「はい。……………げふん」



ネアは伴侶な魔物の腕の中に戻され、安心感からへなへなになれたものの、喉がからからで咳込んでしまい、こちらも慌ててパラソルの下に戻る事になった。


一足先にそちらに戻ったエーダリアは、顔色を悪くしたヒルドにしっかりと抱き締められているので、ネアは、思っていたよりもずっと精神的な負荷がかかっていたのか、こわこわになった喉をごろごろさせながら、あの得体のしれない怪物に対面していたエーダリアは大丈夫だろうかと更に眉を下げた。


エーダリアが紅茶を飲まされている様子を見ると、そちらも喉がからからなのかもしれない。



(そして、ヒルドさん達は、島の探索に出ていたようだった。……………となると、私がパラソルの下からエーダリア様達の方に向かってから、どれだけの時間が経ったのだろう…………)



異変が起きているのに、アルテアとヒルドがその場を離れる筈はない。

オフェトリウスもいたのだから、それが不穏なものであれば、古い形の魔術の障りであっても気付けたような気がする。


それなのに、彼等はネア達の状態を問題視せずに探索に出た。

船の前で我に返る迄の時間をどう過ごしていたのかが、どうしても思い出せない。



(……………でも、ぼんやりと感覚だけは残っているような気がする。何かをされた訳ではなくて、私はただ、………エーダリア様とノアに合流して、………あの船を見た途端に全てを忘れてしまったのだろうか…………)


ディノから、高位の人外者から精神的な負荷を受けると、直前の記憶が壊れてしまう事があると聞いたのを思い出し、ぶるりと身震いする。

ネアには、ただ穏やかで、けれどもどこか奇妙なものにしか感じられなかったあの船には、そこ迄の力があるとは思えないのに。




「……………何があった?」


低い声で尋ねたアルテアに、まだ喉が本調子ではないネアの代わりに、ウィリアムが答えてくれる。

アルテアの着ている砂色の麻混のシャツに、ネアは先程の男性の装いを思い出した。

しかし、そのまま見ていると、すらりとした白いパンツを合わせて、淡いオリーブ色の山羊革のサンダルを合わせたアルテアがお洒落だなという思いに脱線してしまう。



「奇妙な物の訪れがあったんです。俺は近くにいたのに近付けず、ノアベルトはエーダリアの手を握っていたのに、ネアには視認出来なかったようですね。…………そちらの歌声は?」

「マルダヤンの海歌いだ。恐らく、その出現の予兆だろう」

「うわ、マルダヤンとなると、百年に一度咲くかどうかだな……………」

「むぐ。まるだ……………」


それもまた良くない印なのだろうかと、最近は予兆や予言まみれのネアが首を傾げると、グラスに注いだ冷たいニワトコのシロップの水割りを差し出してくれつつ、アルテアが解説してくれる。


「水仙の系譜の花の一種だが、海に近い土地にしか咲かない植物だ。近くの海を見下ろす場所に咲き、祝福や災い、魔術の悪変や障りなどに分類されない異変の気配に怯えて歌う」

「……………まぁ。怖がりつつも歌ってしまうお花さんなのですね」

「海は異郷に繋がりやすい。ごく稀に、漂流物も上がってくるからな。………不確かな者や、形のない変異を唱歌で退けようとしているという説もある」



グラスを傾け、ごくごくとニワトコシロップの水割りを飲み干し、ネアはやっと一息吐いた。

先程も安堵したつもりであったが、こうして体中の力を抜いてふにゃんとなると、先程はまだ緊張していたのだと思い知る。


先程の話を聞いていなかった、アルテアとヒルドがいるので、ここで説明をしてしまおう。

そう思い一度目を閉じると、そよりと肌に触れた風は、とても気持ち良かった。


そうして、起きた事の全てを、ネアとエーダリアから話し伝えたところ、アルテアがあの船を知っていると言うではないか。



「………以前に、ランシーンの方で同じような報告を聞いた事がある。双子の兄弟が遭遇し、一人は対象外だった為に残された。目撃例だと、エーダリアの見たものの方が一致するな」

「死者の国か………。俺の管轄にはない場所なのは間違いないが、時折、この世界以前の世界層が重なる事もあるからな。そちら側のものなのは間違いないだろう」

「…………恐らく、ウィリアムの言う通りだと思うよ。私の領域でも、その外側のものだという感じがしたからね。だが彼等も、境界を超えるのは本意ではないようだ。他にも事例があったとなると、それでも時折、向こう側の名簿に記されてしまう者達がいるのだろう」

「僕達が認識されなかったのは、人間用の存在だからみたいだね。…………それにしても、どうしてネアにだけ、普通の人間に見えたのかな」



そう首を傾げたノアに、ウィリアムが眉を寄せる。

ヒルドは、念の為にと持って来た連絡端末を使い、島の反対側にいるヴェンツェル達に注意喚起を入れていた。


すると、なんとそちらにも出現があったそうで、ヴェンツェルとウォルターが、船には乗らないと乗船を拒否したばかりだと言う。



(…………そちらも、二人だったのだわ。ヴェンツェル様だけではなく、ウォルターさんも居てくれて良かった)


彼等にもあの獣の頭の怪物が見えていたのだと聞けば、ネアは、誰かが一人で対峙せずに済んでほっとしてしまう。

ネアの見たものならまだしも、最後に一瞬だけ垣間見たあの怪物に一人で会うのは御免こうむりたい。



「確かに、この子には普通の人間に見えたのだね………」

「ネアが見た者だけが穏やかな容貌をしていたのは、ネアが終焉の子供だからでしょうね。…………死者の国から遣わされたと思われる使者達が男だという事は、その代の終焉は女だったのかもしれない」

「まぁ、そのような区分があるのですか?」

「ああ。俺の死者の国を管理する者達は、皆、女性や雌だろう?以前に、死者の国は、王の性別によって他の管理者や使者達の性別が決まると、精霊の王から聞いた事があるんだ」

「むむ、となると、軍服の素敵なご婦人が…………」

「ネアが浮気する…………」

「ディノ、絵として恰好いいに違いないと思って想像しただけなので、浮気はしませんからね?」


しょんぼりした魔物にそう言ってやり、ネアは、こつんとおでこを合わせた。

先日の馬車の事件があったばかりで、またこのような得体の知れないものに遭遇してしまったので、さすがにディノの精神状態が心配になる。

だが、そう思って丁寧に撫でてやると、その先日の事件が呼び水になった可能性もあるのだと言う。


「今回の物は、この世界に属していないが接触が可能となる、サルガリスのようなもの。今代の世界の存在ではないけれど、時折繋がる者だと思えばいい。あの事件で非ざるものに触れた事で、そうした世界線の境界が緩み易くなっているのだろう。…………けれど、そうした物があるのなら、ここでやり過ごせてしまえて良かったのだと思うよ。二度目はないと、その者は話したのだろう?」

「は!…………そうでした。ここでお断り出来れば、もう二度とあのお迎えはないのですものね…………」


その言葉に、はっとしたように瞳を揺らしたのはエーダリアだ。

ほっとしたように息を吐いたヒルドに、ノアも良かったと眉を下げている。


「…………そうか。あの船に出会う事はもうないのだな。…………ネア、今回はお前がいなければ危うかった」

「いえ、私も最初はぼうっとしてしまっていて、エーダリア様が手を繋いでくれていたので、しゃんと出来たのですよ」

「……あの林檎の木の根元に、深い湖が見えたような気がしたのだ。その中から何かがこちらを窺っているような気がして、恐ろしくて声が出なかった…………」

「ぎゅ。ホラーです………。そして、私の見た船の上に生えていた木は、林檎はなっていませんでした」

「その違いがどういう線引きなのかは分からないけれど、ウィリアムの言うように、終焉の子だからかもしれないね。…………はぁ。かなりひやっとしたけど、………こんなものにどこかで一人で遭遇されるよりは、今回は幸運だったと思うしかないなぁ…………」

「と言うより、船に乗らずにさえ済めば、祝福に近いかもしれないな」


ウィリアムの言葉に、全員が目を瞬く。

するとどこか神妙な面持ちになった終焉の魔物が、どんな人間にも僅かに感じられる終焉の気配というものが、ネアやエーダリアからごっそり抜け落ちていると言うではないか。


「となると、ウィリアムさんから貰っている祝福や守護もなのです…………?」

「ああ、いや、そちらは問題ないんだ。…………生き物の場合は、必ずどこかに終焉に向かう分岐や、有難くはないその縁をどこかに内包している。どんな因果や選択にも、必ず終焉の道筋はあるものだからな。…………だが、その糸が二人から綺麗に消えているんだ。これ迄の生活の中で蓄えた終焉に繋がる縁の糸を、綺麗に一掃出来たと思えばいい。正直、俺には不可能な事だから驚いている」

「そうなると、………この子達が出会った者達は、死者の国に向かうかどうかに選択肢があった時代のものかもしれないね」

「…………ありゃ。思わない形で、恩寵だったって事?」

「そういう事になるな」



ランシーンの方で、今はもう伝承として残るあの船の記録には、花葬の船という記載があるらしい。

ネアは、こちらを親し気に見つめていた黄水晶の瞳を思い出し、ふと、水路を下ってきたテルナグアに遭遇した時の事を思い出した。

船という事や音楽が聴こえてくる事以外に類似性はないが、なぜだか妙に気にかかる。



「…………テルナグアと、元は同じ物だという可能性はないのでしょうか?」

「テルナグアと、かい?」

「はい。私に見えていた船の木の上から聞こえてくる音楽は楽し気なばかりでしたが、使者さんがエーダリア様の方を向いた時に、様子が一変した船から聞こえてきた音楽は、テルナグアが訪れた時の音楽にどこか似ていたのです。………とは言え、あのような音楽は、夏至祭の森からも聞こえてきますので、雰囲気が近しかったというだけかもしれませんが…………」

「この世界でも、その両方を知る者は少ないだろう。その邂逅を果たした君が感じたのであれば、何か因果関係があるのかもしれないね。…………こちらの世界に残滓として残され、非ざる物に成り果てた者達と、その本来の姿なのかもしれない」

「そうなると、あの船に乗せられた人達は、どこにも行けないままなのでしょうか…………」


どことも知れない本来の領海に帰ってゆく船とは違い、テルナグアは、もうこの世界の規格の内側にいるものだ。

正体が知れず、ただ通り過ぎるのをやり過ごすしかなくても、先程の船とは行先が違う。


(であれば、…………その船に迎え入れられた人達は、どうなってしまうのだろう…………)



永劫にどこにも辿り着けないまま、あの船の中で行われている宴の輪の中に捕らわれ続けるのだろうか。

そう思うとまたぞっとしてしまい、ネアは、慌ててディノに体を寄せた。

突然ぎゅむっとやられた魔物は、目元を染めて虐待と呟いているが、三つ編みをしっかり掴むともじもじしているので喜んでいるようだ。



「…………少し想定外の出来事がありましたが、このような結びであれば、幸いと言えるのかもしれませんね」

「ああ。………そうだな。得られた物を考えると、随分な恩寵とも言える」


そう呟いたヒルドに、エーダリアがこくりと頷く。

身の内に溜め込んだ終焉への糸を絶つ事が出来たのであれば、エーダリアにとってはかなりの助けになる筈だ。

ウィームの領主として、元ヴェルクレアの王子として、衆目に晒されるその立場には、様々な思惑や悪意が絡みつくのは避けようがない。

ここで一度リセットしておけたのなら、隠れている陰謀での最悪の事態を防げる事などを含め、今後の対応への影響は大きいだろう。



「むむ。となるとヴェンツェル様達にも同じような効果があるのでしょうか?」

「ありゃ、そう言う事か…………」

「兄上もか………!」

「ふふ、エーダリア様が少し笑顔になりました」

「っ、…………い、いや、兄上の立場ともなると、やはり命を狙われるような危険は多くなるからな……………」

「こちらも、そうと分かれば岩場に海老さんなどを捕まえに………」

「おい、もう十分に食っただろうが!」

「む?」



ネアは、先程までの終焉の気配を断ち切られているのであれば、岩場での獲物探しはこの島に来た時には予定していたので、もはや危険なしだと判断している。


美味しい物がいれば狩ってしまうのは狩人の務めであるので、制止されてもこの昂る思いは止められないだろう。

安全に狩りが出来ると保証されたようなものなので、尚更ではないか。


そして、得体の知れない物に出会ってしまったばかりのご主人様に、伴侶の魔物はとても甘かった。



「狩りがしたいのかい?では、一緒に行こうか」

「はい!ディノが転ばないように、手を繋ぎましょうね」

「虐待する…………」

「あら、危ないのでこの先の手繋ぎは必須ですよ?………ぎゃふ??!!」



しかしここで、気を取り直して引き続き海遊びを楽しもうとしたネアの前に、恐るべき刺客が現れた。

砂浜をさかさかと歩いてきた生き物の姿を目撃してしまい、恐怖にびぎゃんと飛び上がった人間は、そのまま慌てて近くにいた誰かによじ登る。



「っ、おい!やめろ!!」

「…………にゃぎゅ!!く、…………くもめです!!」

「ネア?…………あれは多分、蟹だと思うぞ?」

「形状がほぼくもめなのでふ!!!」

「おや、であれば目につかない場所に捨ててきましょうか」

「ヒルド、待ってくれ!あれは、月光花蟹ではないのか?!」

「わーお。こっちも賑やかになって来たぞ…………」

「アルテアなんて…………」


ネアは、使い魔の登れる限り一番高いところまでよじ登ると、ぎゅっとしがみついて蜘蛛状の蟹は反対だという意向を全身で示した。


三つ編みをぽいっとされて置き去りにされたディノが荒ぶっているが、問題の生き物が現れたのがそちら側なのだから仕方ない。

ヒルドが、希少な蟹だというその生き物を目につかないところに移動させてくれるまで、ネアは、避難場所になった魔物の頭をぎゅうぎゅう抱き締めていた。



「ふむ。危機は去ったようですね!」

「…………いいか、さっさと降りろ。そもそも、その恰好でよじ登るような真似をするな」

「まぁ、使い魔さんなのですから、避難場所になって然るべきでは…………?」

「お前の避難の仕方の問題だろうが」

「はは、アルテアは意地悪だな。今度からはこっちに来るといい」

「はい。次はウィリアムさんに避難しますね!」

「ウィリアムなんて…………」



その後、岩場では野生の海水晶竜を、そして謎のぺらぺらぴよぴよ生物を狩ったものの、残念ながら、美味しそうな海老に出会う事は出来なかった。

代わりに食用になる貝は手に入れたので、バターを使ってじゅわっと網焼きにして貰うことにし、意気揚々と帰ってきたネアは、ふと、あの船がやって来た淡い色の海の方を眺める。


波間を泳ぐ色とりどりの魚達に、海面に落ちた花びらの色を思い出す。

今のネアはもう花葬の船に乗りたいとは思わなかったが、この世界に来る前にお迎えが来たなら、迷わずにあの手を取っていただろう。

名簿に名前があり、遅れてすまなかったというような言葉があったのだから、いつかのネアはあの船を呼んでいたのかもしれない。

もしかしたらそれは、怪物を見ていたエーダリア達の迎えとは違い、本人が焦がれて望んでいたからこその美しさだったのだろうか。



(…………やっと迎えが来てくれたから、もう一人ぼっちではなくなった)



そう心の中で呟いたのは、ディノにこの世界に呼び落して貰えたネアだろうか。

それとも、あの船をずっと待っていた他の誰かの心が、こちら側に舞い込んだのだろうか。


エーダリアが、林檎の木の下に湖が見えたと言った時に、ネアはなぜか、生まれ育った世界で夏至の夜に訪れた森の中にある湖を思い出した。


もしかしたら、その湖の畔で誰かが手を差し伸べてくれるのを待ち続けていたネアハーレイこそを、あの船は迎えに来たのかもしれない。






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