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海辺の休日と花葬の船 1





遠雷のように響く慟哭を聞きながら目を覚ました。

暗い暗い夜の底で誰かが泣いていて、その手には冴え冴えと光る一本のナイフが握られている。

あの青空の日に振り下ろしたのはナイフではなかったけれど、この手で誰かの人生のかかったロープを断ち切ったのは間違いない。



ふと目を開くと、辺り一面は、あの小さな百合のような黄色い花を咲かせる植物が生い茂っていた。

その花から抽出された毒は、素人の手ではせいぜいが意識不明にする程度だったが、それでも誰かの命の繋がるロープを断ち切る事は出来たのだ。



その真ん中に蹲り、静謐に沈んだ湖の畔で真っ赤に濡れたナイフを握り締める。

ふくよかな森の香りも清廉な湖の香りもせず、ただ、どこまでもがらんとしている。



一人ぼっちだ。

どこまでも、どこまでも。

どちらを見ても、どれだけ呼びかけても、愛する人達の姿はどこにも見当たらない。



目を閉じれば、青い青い海とオリーブ畑の生い茂る細い海沿いの道を、黒い車が走ってゆくのが見えた。

その黒い棺のような馬車に乗る時、あなたは、誰が御者席にいるのかを確かめただろうか。

その人は、黒い馬車の行先が、誰かのお屋敷や景色の綺麗なリストランテではなく、あの海の底だと教えてくれただろうか。


これは、ジョーンズワースの呪い。

森と湖の奥で暮らす聖人の名前を持つ子供が生まれ、そんなジョーンズワースの最後の一人が育んだ呪いが、その身を滅ぼす災いとなったのだと。


その手を先に振り下ろしたのはあなたなのだから、そこから生まれた災いが、その身に障るのは至極当然のこと。


あなたは、ゆっくりと輪を狭めるように、自分の後ろをひたひたと歩き回る影の靴音を聞いただろうか。

冷ややかで甘く、疲れ果てたような瞳をした美しい人はせめて、あの雨の夜くらいはゆっくり眠れただろうか。




ぽたりと、手の中のナイフから、真っ赤な血が滴り落ちる。




ゴーンゴーンと、どこか遠くで葬送の鐘の音が鳴り響いた。


弔いの行列は漆黒の装いで、花に埋もれた棺の窓を開けて貰える事は終ぞなかった。

聖なる送りの言葉を茫然と聞きながら、リノリウムの床を踏む感覚と、ジリリと響いた電話のベルの音が何度も頭の中で回り続ける。


ずっとずっと神様を信じていたけれど、どうやらその救いの眼差しは、こちらを見てはくれなかったらしい。

或いは、竜や妖精を信じたジョーンズワースの一家は、その思想故に聖なるものの領域外となってしまったのか。



うろうろと部屋の中を歩き回り、泣きじゃくり、小さく笑い、ぶつぶつと呟き。

そうして朝の光に照らされたがらんどうの屋敷の中を見て、もう誰もいないのだと思い知る。


この世界はとても広くどこにでも行けるのに、誰を愛して誰かに愛される自由もあるのに、どうしてだか上手く歩けない。

目隠しをされたように辺りは暗く、歩き出そうとしても、見えない壁にごつんとぶつかってばかり。




(…………でも私は、後悔などするまい)



あなたを殺す事が、私に残された唯一の私の生かし方だった。


私の心の中に残った最後の色付いたものがあなたでも、であればいっそうに、あなたこそを殺さねばならなかった。


一晩中その足跡を追いかけていても、服装や人柄を、潜入に向いた人物像へと突然作り替えても、待つ人のいない家に帰るようになってからは何の支障もない。

それは、もう二度と誰からもお帰りと言って貰えない人間の、あまりにも惨い自由であった。



そうして、やがて復讐が終わって。


真っ当な人生など望めないような後遺症だらけのぼろぼろの体と、利己的で冷酷な心だけで取り残されて見回した街は、誰もかれもが当たり前のように幸せそうで、あまりに惨めで真っすぐに見つめられないくらいに眩しかった。


だけど、本当はそちら側に戻りたかった。

愛する人達がもういないのならせめて、他の誰かが持っているような、必要最低限の幸福くらいは手に入れたかったのに。



その先はもう、語るのも無残な道行きと言えよう。

どうにかなるだろうと思った事はどうにもならず、それだけは嫌だと思う孤独と苦しみに転がり落ちてゆく。


それでも自分で自分を細いロープの上に乗せ、苦労しながら唇の端を持ち上げて、家族の愛していた歌を口ずさみ、満足に育ててやることも出来ない薔薇の茂みにそっと触れる。


入れ物だけが残った家族の家は墓所のようで、自分の幸福には未練があっても、自分の命には執着がない事だけを幸いとしてどこまでも。



どこまでも。



どこまで、生きていなければならないのだろう。

明日がある事が、何よりも恐ろしくて悲しいのに。


これが災いでなくて何だろう。

こんなに心のない人間が、怪物でなくて何だというのだろう。



それでも私は、何度だって、ジーク・バレットを殺すのだ。


だってもう、私の手のひらは空っぽになってしまったのだから。

家族を亡くした後で誰かが私へと宛ててくれた贈り物が、あの白い薔薇のアレンジメントしかなかったのだとしても、それでも彼を殺すだろう。



思えばあれが、ネアハーレイが誰かから貰った、最後の贈り物であった。





「ネア、」



その呼び声に、ふっと瞼を開いた。

目を瞬けば、こちらを覗き込んでいたディノが、ふわりと安堵にも似た微笑みを浮かべる。

こつりとおでこを合わされて、頭突きのつもりなのかなと僅かに混迷する意識で考える。


温かい。

温かくて、吐息が肌に触れ、こちらを見ている。

そうして初めて、自分は誰かの目に映る一人の人間なのだと、己の輪郭を確かめられた。

もうここは、一人ぼっちのがらんどうの家ではないのだ。


「…………ディノ」

「怖い夢を見ていたのかい?」

「………怖い夢、だったのでしょうか。かつての自分の心の内側を、うろうろと迷子の獣のように歩き回っている夢でした」

「君はそれを、怖い夢だとは思わないのかい?」

「………私はこの手に、私の復讐の犠牲となった人達を殺したナイフを持っていて、こんなものを残しておいたら、捕まってしまうのではとひやひやしていました。実際に私がこの手で殺した訳ではないのに、何だか不思議ですね」



苦笑してそう言えば、するりと寝台から抱き上げられ、また目を瞬く。


窓辺には淡い夜明けの光が差し込んでいて、寝台で温められた肌に触れる夜明けの空気はひやりとしている。

青く深く森の色を宿し、そうして落ちて煌めく清廉な夜明けの窓の色に、ふうっと胸の底から息を吐いた。



「君が、その人間を殺してくれて良かった」

「…………ディノ、」

「君の絶望が、君を食らった絶望や孤独が、私の為に君を残してくれて良かった」



その呟きは静かな声で、けれども、はっとする程に暗く、そして眩暈がしそうな程に甘い。


ああ、これは魔物の呟きだと思い、ネアは、引き摺り落されて呑み込まれそうな、美しい水紺色の澄明な瞳を見ている。

それはやはり、触れれば身を滅ぼす物だと分かってはいても触れたいくらいに、美しい人ならざる者の眼差しであった。



「…………ええ。家族を喪う前の私が、それを最善だとは言うことはありませんが、今の私は、それこそが最善だと言うでしょう。所詮私は、自分が可愛く強欲なばかりの我が儘な人間なのです。…………だから、ディノでなければ困りますし、ディノがいないと困るのです」

「うん。それなら、ここから逃げ出そうとはしないね?」



問いかけに眉を持ち上げて首を傾げると、ディノは淡く酷薄な微笑みを浮かべる。

優しい魔物がそんな風に威嚇するのであれば、きっとネアを、先程の夢に戻さないようにしてくれてのことだろう。


とは言え、かつてのネアハーレイにとっては、あんなものは悪夢の範疇ではなかったし、この先もあれ如きのものは悪夢ではないだろう。

だが、ネアの大事な魔物は、こうしてしっかりと抱き締めて守ってくれる。

それが堪らなく嬉しかった。



「ええ。ディノからはぐれたら困るので、ぎゅっとしていて下さいね。…………あの夢は、怖いというよりは有りの侭の私の醜悪さに過ぎませんでした。どちらかと言えば、うんざりするような復習でしたが、それでも確かに愉快な夢ではないのだと思います。それなら、大事な伴侶や美味しい物の出てくる素敵な夢を見たいですものね」

「………君は綺麗だし、可愛いよ。………もう少しだけ時間があるから、今度はそのような夢を見ようか。それとも、私と一緒に過ごすかい?」

「…………にゃむ」

「そうだね。その方が君も、どこかに迷い込んでしまわないかな。君が私を望んでくれたのなら、私からもそう示したいしね」

「ま、待って下さい。今日は海遊びなので…………」

「うん?」

「にゃむ…………」



その後のひと時は、にゃむとしか言いようがなかったが、祝福のように散りばめられる口付けが擽ったくて、ネアには空っぽのところなどもうどこにもないような気がした。


そのままとろりと寝台で寝転がっていたかったものの、本日は海遊びの予定がある。

おまけに例年とは違う遊び方になると聞けば、疲労回復の魔術をかけて貰い、いそいそ準備をするしかない。


目を覚ました時の淡い夜明けの色が、しっかりと夏の朝の色に変わっていて、何だかそれが眩しく見えた。

リーエンベルクの会食堂で軽食をいただき、市販の日焼け止めの水薬を飲めば準備は万端である。


なお、この日焼け止めの薬には、今年から青林檎味が出た。

試しにその新発売の味に挑戦してみたところ、瑞々しく甘酸っぱい林檎シロップはおやつかなという美味しさで、ネアは危うく予備の物まで飲んでしまいそうになった。



(今年は、ゼノとグラストさんは来られないけれど…………)



そちらの二人は、偶々休暇が重なってしまい、グラストの屋敷でゆっくり過ごすのだそうだ。

先日のエイコーンの呪いの馬車の事件以降初めての終日のお休みなので、ゼノーシュは、選択の魔物印なスパイシーチキンと、大事なグラストの休息との天秤を、休息へと傾けたらしい。


エーダリアが、必要であればまた島を借りてくれるらしく、今日はゆっくり休んで別の日に海辺でのんびりするのだとか。



「こんな時、水着に着替えてそのまま遊びに出かけられるのは、転移で島まで連れていって貰えるからこその楽ちんさですね」

「……………ネアが虐待した」

「ディノ?相変わらず水着では、くしゃっとなってしまうのです?」

「……………虐待」


少し大人の嗜みを経たばかりの伴侶からすれば、寧ろ布地が増えたくらいではないかと思うのだが、魔物の感覚では違うらしい。


あまり着る機会のない物で特に散財する必要はないと判断し、新調された訳でもない水着ですら、こんなに目元を染めて恥じらってしまう。


ネアは、ふりりとしたフリルのスカートのようなものがついたこの水着がお気に入りで、今年の海遊びでは、上にさらりとした素材の淡い水色のパーカー的な上着を羽織った。

しっかりと陽射しを遮るこの上着は、下に着ている水着を透かさないのに軽やかで通気性も良く、水まで弾く高機能素材なのだそうだ。


そんな高機能素材である布地は、最近、ウィームの紡績メーカーで開発されたものだ。

薄くて軽いのもあり、騎士達の装備に使えないかとリーエンベルクでもお試し価格のサンプル生地を仕入れたのだが、どう魔術を添付しても防御的な耐性が弱くなる事が判明し、活用が断念された素材である。


幸い今回は本格的な仕入れではなかったが、とは言えある程度の分量で買い付けてしまった布地を無駄にしないようにとかけられた、リーエンベルク内での格安販売の機会を逃さず、ネアも手を上げさせて貰った。

驚く程に格安で新規開発の布地が手に入るのだから、何に使うか決まってなくても買ってしまった強欲な人間である。



(この海遊びで使えて良かったな……………)



色違いで他にも三色あったので、本日は、同じように布を買い取ったエーダリアとノアも、ネアと同じ形の上着の男性用の物を羽織っている。

エーダリアは、ネアの水色よりも青が濃い水色で、ノアは淡い青紫色だ。


どの色も、白い紙に水彩絵の具を筆でさあっと刷いたような色合いが繊細な雰囲気で、そんな布の質感を生かした仕立てを引き受けてくれたのは、リノアールの裏通りの建物の二階に店を構える仕立て屋だった。


古くからある妖精の夫婦のお店で、ドレスなどの仕立てでもなかなか評判がいいのだとか。

海遊び用にとネアが依頼した今回の仕立ても、海で羽織るのに便利なようにと、ポケットが閉められるような工夫や、袖口を捲り易くしているところなど、ところどころに細やかな仕立ての工夫がなされているのが素晴らしい。


どうせならと、エーダリア達も同じ物を頼み、パーカー型の上着だと羽の邪魔になるヒルドは、少し異国風のシャツのような仕立てになっていた。

また、ディノもパーカー風だとあまり似合わなかったので、もう少し優雅なデザインのフード付きの上着にして貰っている。


「……………伸びない」

「むぅ。私の魔物は、上着の裾を引っ張って伸ばそうとする悪い魔物なのです?」


しかし、この新しい上着は残念ながら伸縮性はないので、上着の裾を引っ張ってご主人様のお尻周りを隠そうとする魔物にはいささか不評なようだ。



ざざん。


淡い色の波が揺れ、光るようなエメラルドグリーンの海の美しさに、ネアはうっとりと目を細めた。

今年の海遊びは、いつも借りている砂浜の反対側にあたる砂浜でなのだとか。


ここは、ヴェンツェル王子が所有し、その契約の竜であるドリーが、海の魔物との飲み比べで手に入れた秘密の島だ。

承認を得た者しか入る事が出来ず、それ以外の者には存在すら認識出来ないという特性を生かし、秘密裏の会談や第一王子のバカンスなどに使われてきた場所である。


最初はご褒美開放であったが、いつからか夏になるとこちらにも開放してくれるようになり、ウィーム領にはない海辺の景色の美しさは、すっかりお馴染みになった夏の楽しいひとときを象徴するものにもなった。


今回は、ヴェンツェル王子達の休暇と日にちが重なってしまい、島のあちらとこちらで滞在箇所を分けた結果、いつもとは違う浜辺になったのだが、美しさは負けず劣らずというところだろうか。

勿論こちらも、楽しみ尽くしてしまうしかない。



「こちら側の海は、淡い色相が複雑に混ざり合うのですね。この辺りは、エメラルドグリーンの海色から、奥に行くと淡い水色になっています。中ほどのところで僅かにマーブル模様になっていて、そんな色の組み合わせが何て綺麗なのでしょう……………」

「遠浅なのだろうが、この色の混ざり方は海底の魔術基盤の影響かもしれないな」


そんなエーダリアの言葉に、ノアも頷いている。



はたはたと、上着の裾が風に揺れた。


珊瑚の魔物の亡骸だと思うとちょっと複雑だが、砂浜は水晶質で細やかな砂が集まり、ミルクブルーのような不思議な色合いに染まっている。

そこにエメラルドグリーンの波が打ち寄せ、はっと目を瞠るような檸檬色の巻貝が落ちていた。


波間にちらちらと姿が見える色鮮やかな魚達に、砂浜の奥の方に咲いているのは、淡いピンク色の花をつける初めて見る植物だ。

そちらはエリカの花に似ていて、フリージアに似た水色の花もあちこちに咲いている。

奥には石化した大きな木があり、サンザシの実のようなものをたくさんつけていた。



「ありゃ、海の祝福石が落ちているってことは、最近海の系譜の高位者が近くに来たのかな」

「おや、質のいい祝福石だね」

「むむ、エーダリア様がさっと走り寄ってゆきました」

「やれやれ…………」



海の祝福石と聞いて、慌てて波打ち際に拾いに行ってしまったエーダリアに、苦笑したヒルドがその後を追いかけている。


魔術で取り出した寝椅子とテーブルの周りには、風などを遮る結界を立ち上げ、大きなパラソルを並べて心地よい日陰の基地を作る。

まずはのんびり海遊びをとなり、ノアは寝椅子でごろごろし、アルテアは、島のこちら側を散策するようだ。


ネアも、ディノと一緒に早速波打ち際に出向かせていただき、たぷたぷと足首に打ち寄せる波の温度を楽しんだ。

海の水はほんのり冷たく感じるくらいで、何よりもその透明度に目を瞠るばかりだ。

高位の魔物に驚いたのか魚達は逃げていってしまったが、遠くの波間に散らばる花びらのように、色鮮やかな魚達が泳いでいるのが見える。


狩人の血が騒いで捕まえたくなってしまうが、小さな魚なので食用には向かないだろう。

鋭い目で周囲を見回したネアは、岩場を発見してにやりと笑った。


網焼きに適した生き物がいるとすれば、あの辺りだろう。



「ふむ。まずは、網焼きに適した獲物の狩りをしてきますね」

「いらん。食材は充分に揃っているんだ。これ以上増やすな」

「なぬ。アルテアさんが戻ってきています。………海老さんもいるかもしれないのですよ?」

「お前が手を出すと、ろくなものを捕まえないからな。大人しく用意してきたものを食え」

「むぐぅ…………」


狩りもまた海遊びの楽しみなのだとネアは足踏みしたが、少し離れた波打ち際にきらりと光るものがあったので、慌ててそちらに向かう。

三つ編みを引っ張って同行させられた魔物は、目元を染めて嬉しそうに付いて来てくれた。


そうして砂の中から拾い上げたのは、見事なエメラルドの首飾りだ。

海辺での拾い物としては想定外だったので、ネアは目を丸くしてしまう。

どうやら、砂の中に埋れていなかった宝石の一部が光り、結晶石が落ちているかのように見えたらしい。



「ディノ、………首飾りを見付けました。この木のトングで、つんつんしてみます?」

「ネア。それは魔術具だから、手では拾わないようにしようか」

「まぁ、魔術具なのです?」

「うん。かなり階位の高い物だね。アルテアに聞いてみようか」

「はい!」



ネアは収穫用に持って来た緑色のバケツに、木製のトングでその首飾りを押し込み、ててっと使い魔の元に向かう。

既にお昼の準備に取り掛かり始め、魔術で焼き場などの設営を行っていた選択の魔物は、こちらを見ると怪訝そうに眉を顰めた。



「おい、獲物はいらんと言わなかったか?」

「獲物ではないのですが、階位の高い魔術具の収穫がありました」

「は……………?」

「え、僕の妹は、到着するなりまたとんでもない物を拾ったのかな……………」


寝椅子で伸びていたノアも起き上がり、ネアは自慢の収穫物を入れたバケツを誇らしい思いで持ち上げる。

首飾りは食べられないが、狩りの女王の優秀さを示すには良い収穫物ではないか。


「高く売れそうであれば、アクス商会に持ち込んで……………むむ、バケツを覗き込んだアルテアさんが、動かなくなってしまいました」

「アルテア、この道具を知っているのかい?」

「若干、緑のバケツに緑で保護色になってしまっていますが、砂の上に置くととても綺麗なのですよ」


ネアは、アルテアが黙り込んだので、首飾りの上等さが伝わらないのかなと思い、慌ててバケツから引っ張り出そうとした。

すると、さっと手を出したノアに、その手首を掴まれてしまう。


「……………ノア?」

「ええと、……………多分これって、相当厄介な物だと思うよ。でもって、アルテアが手を加えた呪物だね」

「アルテアさんが手を加えた呪物となると、かなりの悪さをしたりするのですか?」

「……………お前の可動域では、うんともすんとも言わないだろうな」

「……………ぐるる」

「いいか、これは俺が回収する。報酬が欲しいなら、ザハでも何でも連れて行ってやる」

「ザハの、音楽と晩夏の夕べの鴨様でもいいのです?ディノも一緒に……」


ネアが目をきらきらさせてそう尋ねると、アルテアは、どこかほっとしたように頷いた。

何か珍しい物を拾ったらしいぞとこちらに戻ってきたエーダリアがバケツを覗き込み、うっと短く呻き声を上げているので、相当に厄介な物なのだろうか。



「エーダリア様も、この首飾りをご存知なのですか?」

「……………ロクマリアの伝承にある、聖遺物の一つだ。この星の光を模した宝石の配置に白真珠の意匠は、ヴェルクレアでも知られる、ロクマリア王宮を描いた著名な絵画の中に描写があるのだ。……………実在したのだな……………」

「私も王宮勤めの頃に拝見した事がありますが、こうして実物となると、より見事な物なのですね」

「ええと、よく考えたら、海にあるって事は船でも沈んだのかな?」

「沈めたのはヨシュアだ。時間をかけて駒を育てたのに、癇癪で潰しやがって…………」

「わーお、よく見たら、知識の祝福に信仰の魔術を重ねたのかぁ。これ以上ない受け皿だね」


それはどんな仕組みなのだろうかとネアが首を傾げていると、ノアが、豪奢な首飾りという役割に見合っただけの、虚栄心や野心などに由縁する情報を集める為の魔術が織り上げられているのだと教えてくれた。

首飾りの持ち主を中心に、知識と信仰の魔術で篩にかけた情報を取り込み、装飾の真珠の対になった真珠へと情報を流し込むのだとか。


回路としての信仰の魔術の他にも、聖遺物としての階位を示すのは上質な信仰と祝福の魔術だ。

また、大粒の白真珠は敢えて階位の低い人間でも扱えるようにしてあり、持ち主が思わずあちこちに見せびらかすようになっているらしい。


首飾りその物の役割としては、持ち主が意識しない間に首飾りに隷属させてしまう程度だが、海難事故などに巻き込まれた宝飾品は、持ち主の怨嗟を宿す事がある。

魔物達がネアに注意を促したのは、どちらかと言えばその為であるらしい。


「……………という事は、私がこの首飾りをしたら、アルテアさんにいつどんなパイが食べたいのかが、すぐさま伝わるのでしょうか?」

「残念ながら、それは篩い落とされる方の情報だな」

「不良品なのでは……………」

「何でだよ」



とは言え、ザハでの食事を奢って貰えると決まればすっかり首飾りへの興味はなくなってしまい、ネアは品物をアルテアに預け、美しい海で心と体を癒すべく再び波打ち際に戻る。


慌てて伴侶が追いかけてきたが、こちらの魔物は、まだ海に慣れないらしく、海水に足を浸けるのはきゃっとなってしまうようだ。

三つ編みを持っていてあげないとざぶざぶ入ってこれないのが、何だか可愛らしい万象の魔物である。



(あ、…………)



ここでネアが見付けたのは、綺麗な檸檬色の巻き貝だ。

しゃがみ込んで拾おうとしたが、なぜか、ディノにさっと羽織り物になられてしまう。


「ディノ、この貝殻はお土産にしましょうか」

「竜なんて……………」

「まぁ、竜さんなのです?」

「ネア、これは狩らずにいようか」

「ディノがそう言うのならば狩りませんが、………この貝殻その物も竜さんなのです?それとも、貝殻は住処にしているだけで、えいっとやれば竜さんが引っこ抜けるのでしょうか?」



そんな質問が聞こえてしまったのか、貝殻竜はびゃんと飛び上がって砂の中に潜ってしまった。


怯えた目で説明してくれたディノ曰く、貝殻までもが体の一部なので、そんな風に引っこ抜いたら千切れてしまうそうだ。

さすがにその仕打ちは猟奇的なので、ネアは、貝殻竜が隠れて震える砂山に向かって、そんな残酷な事はしないので安心して生きて欲しいと伝えておいた。



「むぅ。目星をつけておいた綺麗な貝殻でしたので、他の物を探さなければです」

「貝殻が欲しいのかい?」

「貝殻ではなくてもいいので、今日のお土産になるような、素敵なものがあればいいのですが。…………ふふ、波が来ると踏み締めている砂が足元から持っていかれるのが、何だか楽しいですね。それに、遠くまで続く綺麗な海を見ているだけでもとても気持ち良くてのんびりしてしまいます」

「ネア、あちらの奥の方で大きな影が見えるだろう?」

「むむ、……………まぁ、鯨さんですか?」

「海の系譜の妖精鯨だ。海の妖精を損なった者達を飲み込んで連れてゆく生き物だから、近付かないようにね」

「か弱い乙女でも、連れ去られてしまうのですか?」

「ご主人様……………」


一瞬、これまで妖精に無体を働いたことなど一度もないと思いかけたネアは、己が過去に、羽を食い千切ったり踏み滅ぼしたりしてきた事を思い出した。


となるとあの鯨には近付かない方がいいだろう。

本来は海の底に暮らす妖精だが、穢れのない波の打ち寄せる浜辺近くには、何年かに一度、呼吸の為に上がって来るそうだ。


近付くには危ういものだが、とても珍しい光景なのだと知ると、ネアは慌ててエーダリアを呼びに行き、夢中で妖精鯨を観察するウィーム領主の無防備な姿ににんまりした。


その後も、波打ち際をじゃばじゃば歩いたり、綺麗な結晶石や小さな星を宿した祝福の銀貨などを拾ったりして帰ってくると、食事の準備や焼き網、夜鉱石の鉄板の準備などが終わり、そろそろ食事にしようかという事になる。


出がけに、僅かな終焉の予兆が見えたという事でこちらに来るのが遅れていたウィリアムも、いつの間にか合流していたようだ。


ぴっちりした黒い水着に白いシャツを羽織っただけの終焉の魔物は、到着後少しだけ泳いできたらしい。

濡れた前髪を上げているので、瞳の色がいつもよりも明るく見えた。



「ウィリアムさん、お仕事は大丈夫だったのですか?」

「ああ。特に大きな問題になるものではなかった。リンシア小麦の畑が、カタカタの大軍に襲われたようでな。その被害からの予兆だったんだ」

「まぁ、カタカタという生き物は、食いしん坊なのですね」

「団栗くらいの、小さな鼠に似た精霊なんだ。普段は穏やかな生き物なんだが、精神的に追い詰められると群れで暴食に走る。……………アルテア?」

「……………被害はどれくらいだ?」

「かなりのものでしたよ。夜明けにかけての襲撃だったようで、土地の人間達が気付くのが遅れたようですね。ですが、あの辺りの土地はアイザックの管理地では?」

「だからだ。損失は必ずどこかで補う必要があるからな。あいつなら、他に有効な手立てがなかったからと、こちらの商売にまで手を出しかねない」



とても商人めいた会話だが、本職は商人ではなかった筈なアルテアの渋面を見上げながら、ネアは、ヒルドから冷たい紅茶の入ったグラスを受け取る。

浜辺にはさわさわと涼しい風が吹いていて、砂浜の上をぷかりと浮かんだ雲の影が横切っていった。



アルテアは一度、部下達にアクス商会の介入に警戒するよう連絡をしに行き、スパイシーチキンはそれからとなった。



からんと、グラスの中の香りが気持ちのいい音を立てる。

海辺で過ごす、美味しい時間が始まろうとしていた。






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