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優しい手と大きな寝台




静かな雨音がどこからか聞こえてきて、ああ、また降り出したのだなと考えた。

夜は穏やかな音色の魔術を奏で、薄く窓を開けて雨に濡れた夜の香りを楽しめば、ふくよかなウィームの森と庭園の花々の香りは深呼吸をするだけで心を満たしてくれる。



夜の香りを吸い込んでからは、暫くの間本を読んでいた。

だが、美しい夜の光の中で頁を捲るその豊かさにふと、視線を戻して部屋の中を見回す。



執務室程ではないが書架もあり、寝台の横のテーブルの上には雪結晶の水差しが置かれている。

窓にはカーテンがかかっているが、僅かな隙間を残してあり、そこからよく森に煌めく人ならざる者達の明かりを見ていた。

そんな癖がネアと同じだと知ったのは、数か月前の事だ。


そっと手を載せた寝具は柔らかな肌触りで、けれども同じような極上の素材であったあの部屋の物とは違い、自分の身に馴染んだ物だという感じがした。

あの窓辺の小さな小枝も、ノアベルトが作ってくれた塩結晶の小さなホーリートの置物も、その全てが自分の物だという気がする。



(例えばここで、…………)



部屋を出て廊下に出ても、命を損なわれる危険を感じる必要はない。

実際に夜中に部屋を出ていた事は何度かあるし、夜中に部屋を訪ねて来た銀狐の為に、躊躇なく扉を開いた事も何度もある。

寝台を下りて窓辺に立っても、死角になっていた扉を開いて物陰を揺らしてももう恐怖はない。



ここはもう、安心して暮らせる家になったのだ。



そんな事を考えていたら、ふっと、窓辺が翳った。

おやと思い立ち上がると、手に持っていた本を寝台の横のテーブルに置く。

挟み込む栞は、魔術的な封印を込め、本に宿る災いや悪変などをこちらに出さなくする為にとノアベルトが作ったものだ。



(…………ああ、忘れていた)



そのまま窓辺に歩み寄りかけ、寝台の近くにかけてあったヒルドが編んだ夏用の上着を手に取る。


リーエンベルクの中は安全なのだが、時折、この建物の好意で不可思議な空間に通される事があるので、こうして異変を感じて動く際には、羽織る物などを忘れないようにと日頃から言い含められていた。

実際に、寝間着のまま星降る夜空の部屋に招かれてしまった事があり、あの時はあまりの美しさに見惚れていたものの、体を冷やしたせいか、翌日はあまり体調が良くなかった。


ウィームの季節は夏だが、開かれた扉の向こうがどうなっているのかは、リーエンベルクの気分次第なのだ。



「…………ああ、雲羊だな」


上着を手に窓辺に歩み寄り、そっとカーテンの向こうを窺えば、そこにいたのは夜色のもこもことした毛皮を持つ巨大な羊の姿だった。


森の木々の上に頭が出る程の巨体だが、陽炎のように実体がないので森を傷付ける事はない。

こうして真夜中に霧雨が降るとどこからともなく現れ、その巻き角が切り裂く雲の隙間から、星空を見せる生き物だ。


羊が通った後の空には細い亀裂が入り、その雲の切れ間から、ちかちかと光る夏の星空が覗いている。

不可思議で幻想的な光景を眺め、唇の端を持ち上げると、後はもうただひたすらに、雲羊がゆっくりと歩いてゆく姿を夢中で見ていた。



ゴーンとどこかで鐘の音が響き、ぎくりとしたのはそれから暫くしてからだった。


明日は執務があるのだし、今回のエイコーンの一件の事後処理でも忙しくなる。

休暇の時期を控え、やらなければならない仕事は幾らでもあるのに、神経が昂っているのかなぜかまだ眠気は訪れてはくれない。



(それどころか、…………まだ、この夜を見ていたい)



そう思うのはなぜだろう。

明日も仕事なのに、なぜ、こんなに疲れている筈の夜が心地よく特別な時間に思えてしまい、少しも眠くならないのだろうか。



目を閉じれば、先程までの自分の詠唱が、今でもどこからか聞こえてきそうだ。


結界の表層に触れる悪変した生き物達と、大きく禍々しい魔術の光がごうっとうねる、あの馬車の方。

その黒い光を切り裂くグラストの剣撃に、アンゲリカの槍の打ち出す、冬星の青白い魔術の美しさ。

その全てが光の瞬きのように瞼の裏に焼き付いていて、背中に手を当てたノアベルトから時折伝わる、りんという不思議な水晶のベルのような音を思い出した。


不思議な事だが、一度もそのような調整を受けた事がないのに、この響きは自分の詠唱を調律しているのだと分かった。


ノアベルトがいてくれれば、この詠唱が揺らぎ、前線を任せた大事な騎士達を失う事はないだろう。

そう思える事が堪らなく嬉しくて、ヒルドが剣を振るっている姿を、どこか他人任せな安堵と共に見守っていた。



(きっとどこかで、私は、魔物達の力に事態を委ね過ぎていたのだ…………)



危機感を肌に感じ、張り詰めていた心のままでも、どこかで彼等がいれば問題ないと考えてしまっていたのは、あの馬車が人間の領域から生まれた呪いだったからだろうか。


その呪いの齎す危険や、加えられた非ざるものの脅威を言葉や条件では理解していても、だがしかし、こちらの防衛力の方が上回る筈だと過信していた。

いや、その理解は間違っていないので過信ではないのだが、それでも、どこかに甘えはあったのだ。




(…………あの時、)



こちらに伸ばされた大きな黒い手にぎくりとし、そして、その手を食い破って現れた妖精を見た時。


造作は勿論、肌の色合いも髪色も、瞳の色すら少しも似ていないのに、いつか暗い夜の中に背を向けて歩いてゆくヒルドが見えたような気がした。


どこからか雨に濡れて帰ってきて、こっそり部屋を抜け出してその帰りを待っていたエーダリアを、決して部屋には入れてくれなかったあの日。

べたべたとした黒い泥の中を真っすぐに歩いてゆくヒルドが見えるようで、お願いだから振り返って戻ってきてくれと縋りたかったあの日が、どうしてだか思い出されたのだ。



エーダリアが今回の呪いを本気で恐れたのは、そんな風にこれ迄の毎日を誰かの隣に寄り添っていた妖精が殺された悲劇に触れ、今回の事件を自分ごととして感じてからなのかもしれない。


あのサラフィアという少女に親しみは覚えたが、その瞬間まではネアのように自分に紐付けての感慨ではなかった。

それ迄は。長らくこの地を離れていた領民の帰還に立ち会ったような、隣人の姿を見付けたような思いでしかなかったのだ。


(それなのになぜか、…………あの妖精の姿に、私はヒルドを重ねてしまった)


どこがヒルドに似ていたのだろうかと言えば、その愛情深さと献身に尽きるだろう。


ヒルドがこの手を取ってくれた日から、彼の愛情や守護を疑った事は一度もない。

なぜだか、表面的には材料が揃わずに危うく見えた状況下ですら、彼の事だけはずっと信じていたのだから、自分の中には彼を信じるという以外の選択肢はなかったような気がする。


多分、あの日々の中でヒルドが死ねば自分も死んだだろうし、必要があって生かされても、ヒルドがいなければこの心は死んだだろう。

ヒルドが傍にいてくれても度々の揺らぎはあったが、ヒルドがこの心に必要な唯一であった事は間違いない。



だからこそ、失い得ないものとして、ジャバスという妖精にその姿を重ねたのだろうか。

それともあの妖精の最期の微笑みが、暗い暗い夜に何をしているのかを決して明かさず、ただ優しく微笑みかけてくれるばかりであったヒルドの微笑みに似ていたからだろうか。




(彼等が、救われてくれて良かった………)



今はもう、領主として、ガレンの長としての立場を超えてそう思う。

ひどく身勝手な事ではあるが、自分の思いを重ねたその時から、あの呪いはいっそう悲しく、非ざるものの呼びかけはより禍々しく感じられるようになった。

そんな澱に引き摺り込まれる彼等を、決して見たくはなかったのだ。



その全てを、こうも身勝手に、自分ごととして。




「…………ヒルド」



気付けば、その名前を呼んでしまっていた。

いつかの孤独な夜に呼びたくて、けれども少しでも彼にゆっくり眠って欲しくて呼べなかった名前は、なぜだかこのリーエンベルクに来てからも、口にするのを躊躇う事がある。


もう安全なのだ。

だからこそ、大事なヒルドにはゆっくり休んで貰いたい。

そう思いながら他の面ではこちらの我が儘で迷惑をかけているのだから、名前を呼ぶ事だけを躊躇うこの矛盾はなんなのだろう。

その相反する様子がおかしくて、小さく苦笑する。


幸いにも、どこかでヒルドの気配が揺れる事はなかったので、呼びかけの意思を込めなかった響きが彼に届くことはなかったようだ。



「…………私も、まだどこかで子供なのだろうな」



あの呪いの中から体を起こした妖精にとって、サラフィアという少女はいつまでも、大事な子供だったのだろう。

慈しみ守るべき子供を得たからこそあの妖精は無謀で勇敢で、その心一つで、最後までの幸運を勝ち得ていった。


確かに階位の高い妖精であったし、資質に恵まれたのもあるだろう。

だが、それにはまず、あの深い愛情があってこその奇跡であった事を忘れてはならない。

彼は、小さな水色の毛玉のような妖精姿になっても、甲斐甲斐しくサラフィアの世話を焼こうとしていたではないか。


どんな姿に成り果てても失われる事のない愛情は、それを授かるばかりの人間の側からは、祝福そのものの煌めきなのだろう。




(だからもし、私が彼女達のように殺されたのなら、…………きっとヒルドが、あのように救い出してくれるのだろう)



その確信はいっそ静かな程であったが、自分が失われた時のヒルドを思うと胸が潰れそうになった。

それは何も自分の身が可愛いからというばかりではなく、彼がそのように愛する妖精だからこそ。

だからこそ絶対に、ヒルドをそんな目には遭わせたくない。



そうして、胸が痛くなるような切実さで死にたくないと思うのは、久し振りの事であった。



それは、とても身に馴染んだ願いである。

ずっと以前は、自分の為に命や安らぎを削ってくれるヒルドの為で、あの王宮を出ると、どうにかしてウィームに辿り着く迄はという願いに変わった。

あの王宮の影から逃れ、ヴェルリアを出て、ヒルドと共にどこかに逃げ延びる日を願い、そしてそれは、やはり思い焦がれてきたウィームが良かった。


やがてウィームに辿り着くと、ここにヒルドを呼び寄せる迄はという願いに変化したが、兄が上手にヒルドを使っている姿を見ると、あの王妃達の手から逃れる為の最高の砦はそこしかないような気もした。


少しでも早くまた共に過ごしたいけれど、自分の傍に置けば、きっとヒルドはまた無理をするだろう。

夜も眠らなくなるかもしれないし、その足跡の向かう奥には、エーダリアを脅かした誰かの亡骸が横たわるかもしれない。


もし、そんな日々を送る中で誰もいないところで彼に何かがあって、エーダリアが、気付く事も出来ないままだとしたら。

そうして手遅れになってから後悔するくらいであれば、第一王子ご愛用の通信妖精のままでいた方が、彼の為なのだろうか。



そう思ったいつかの夜にもまた、死にたくないなと思った。


自分がウィームで壮健でさえいれば、ヒルドは、無理をせずにあの場所で才を伸ばし重用されていてくれるだろう。

その日々に少しでも安らぎがあれば、それでいいのだ。

共に穏やかに暮らしたいだなんていう我が儘を言わず、その平穏だけを望んでゆけるだろう。

彼が、生きていてくれさえすれば。



(だが、…………ヒルドはもう、ここにいる)



共に新年の挨拶などで王宮に出向いても、ウィームでの日々が脅かされるように感じる事はもうなかった。

エーダリアの隣にはノアベルトがいてくれて、多くの守護と愛情を与えてくれる彼は、ヒルドを大事な友人として守っていてくれる。


けれども、ヒルドがこのウィームへの足掛かりとしたのはやはり、ネアとディノの存在だろう。

彼等がここで暮らし始めた事で、ヒルドはリーエンベルクから立ち去れなくなったし、立ち去らずに済む為の理由を手に入れた。


心を許す前にはそれは大いなる脅威であり、心を許してからは、それが大いなる守護となって。

そうして今はもう、そこで繋がれた日々が家族の輪のような物になったのだ。



(色々な事が変わっていって、…………ヒルドはもう、あの頃のように夜闇に消えてしまう事はない)



エーダリアが寝静まったのを見図り、どこかへ出かけてゆくことはなく、起きているとしても何か問題を起こした銀狐の世話をしているくらい。


ごく稀に、真夜中に庭に出て、夜の光の下で本を読んでいる事もある。

無垢な程に小さな生き物達に囲まれ憧れの眼差しで見上げられながら、夜闇の色や星明かりの色を紡いで編み物をしている事も。


それはただ、ヒルドが彼自身の為だけに過ごす時間であった。



(だからだ。…………だからこそ、私は長生きしたい)



自分の心を生かす為の全ての願いが叶い、ヒルドがここで穏やかに暮らせているから。

今回のような事件はあれど、あの頃のような形で命や尊厳を脅かされる事はなくなった。


タジクーシャなどの一件でヒルドの負傷を知ればやはり息が止まりそうになるが、そうして戦っていても、ヒルドの瞳はもう、あの頃のように陰りはしないだろう。

明るい場所で剣を振るい、誰かや何かを慈しむ姿を隠さなくても良くなった。



だからこそ、この地で少しでも永らえ、ヒルドにとっての穏やかな日々をどうか長く。

長く、長く、ここで新しく得た家族たちと共に幸せに暮らしてゆきたい。


そう思えばこそ、今回の事件はやはり、自分に重ねてこそ初めて、この心を強く揺さぶったのだろう。


その上、あの者達は、幼い頃のエーダリアのように脅かされていたのではなく、エイコーンではそれなりの地位にあった者達だ。

そんな者達を襲い、今回の悲劇を引き起こした者達の理由は、実に身勝手でとてもありふれたものではないか。



「…………私とて、どこでそのような憎しみを買うのか分からない。用心しなければいけないな…………」

「おや、私が聞いていない事がありそうですね?」

「ヒルド?!」



苦い思いでそう呟いた瞬間、背後からヒルドの声がして飛び上がる。

呆れた顔はしているものの、どこか寛いだ室内着に簡単な羽織り物をしただけのヒルドが、そこに立っていた。



部屋に入ってくる音にも気付かなかったと目を瞬いていると、こちらを見た森と湖のシーは、くすりと笑う。



「私を呼ばれたでしょう?」

「っ、そ、そうだった。つい名前を呼んでしまったのだ。…………その、寝ていただろう?…………すまなかった」

「何かありましたか?」


静かな声でそう尋ねられ、申し訳なさで項垂れる。

すぐに変化がなかったし、守護に触れるような呼びかけではなかったので、まさか来てくれるとは思いもしなかったのだ。


だがきっと、名前を呼ばれたヒルドは、何事だろうかと思い、こんな真夜中に駆け付けてくれたのだろう。

そしてこの部屋の様子を見れば、何もなかったのは一目瞭然ではないか。


「…………すまない。何もなかったのだ。だが、…………考え事をしていて、ついお前の名前を口にしてしまった」

「それは、何もなかったとは言わないでしょう。どのような考え事を?」

「…………ヒルド?」

「少なくとも、あなたが、これ迄は理由なく呼びもしなかった、私の名前を口にする程には、あなたの心が動いたのは間違いありません。どのような事を考えておられたのですか?…………それと、先程の呟きの意味はきちんと説明していただきますからね」


柔らかな口調から一点、最後の部分は追及を躱す事は許されないだろうなという冷ややかな声音で、堪らずに項垂れる。

自分の心を管理しきれなかったせいで、ヒルドの眠りを妨げてしまった事が悔しかった。



「…………すまない。説明はするが、どちらもただの考え事に由縁しているのだ。それなのに、私の不注意でお前を起こしてしまったな。不甲斐ない限りだ…………」

「やれやれ、…………そのような考え事は、私にとっては大した事ではないとは言えないのですが、あなたはご理解されていないようですね」

「ヒルド………?」

「あなたは、こちらで共に暮らし始めても、あまり私を呼ばないでしょう?」

「…………そう、…………だろうか?」

「ええ。あまり羽目を外されて体を壊されても困りますが、とは言え、そのようなところは少し、ネイを見習うと良いですね。何となく心が揺れるからというような理由でも、彼は、時間を考えずに何度も私の部屋に押しかけてきますよ?」

「そうなのだな…………」



それもそれでどうなのだと思い考え込んでいると、ふうっと溜め息を吐く音が聞こえた。

簡単にその言葉を飲み込めないので、さぞかし呆れているのだろうと思い顔を上げると、こちらを見た瑠璃色の瞳がどこか満足気で驚いてしまう。

そのまま目を丸くしていると、すっと瞳を細めて微笑んだヒルドが伸ばした手が、ふわりと頭の上に載せられた。


「…………ヒルド、」

「私は、………あなたが、誰かを呼ぶ自由すら持たない小さな子供の頃から、傍におりました」

「…………ああ」

「やっとこのような堅牢な住処を得たのですから、多少の我が儘や甘えが出ようとも許容範囲内ですよ。あの頃からお側にいた私が、今更そんな事を負担に思うとでも?」

「………っ、…………だが、お前はやっと穏やかに日々を過ごせるようになったのだ。領主である私の仕事は、時間を選ばずお前にも負担をかける事が多い。であれば、せめてこのような夜くらいは、ゆっくり休んで欲しい。……そもそも今日は、あの事件の後ではないか」


ヒルドは、剣を振るい疲弊していた筈だと青ざめたが、正面に立った妖精は、どこか呆れたような微笑みを浮かべている。


「おや、それが仕事や義務であれば、私とて放っておきますよ?」

「お前が与えてくれている庇護に対し、そのような事は言っていない。だが、…………」

「恐らくあなたは、私にとってあなたの好む魔術書のようなものでしょう」

「魔術書、…………なのか?」

「ええ。寝食を削ってもその頁を捲る事を喜びとするのであれば、私が、あなたの多少の甘えや我が儘を好ましく思っても、それは私の嗜好に過ぎません」

「ヒルド…………」



この問題について、こうもはっきりと言葉にされたのは初めてで、途方に暮れてこちらを見ている美しい妖精の瞳を見返した。


ああ、なんて美しい妖精なのだろうと思い、ネアと同じように、ヒルド以上に美しい妖精なんていないと思う。

しかし、そう考えかけたところで、ダリルに見惚れて彼を代理妖精にしてしまった過去を思い出し、壁に頭を打ち付けたくなった。



「エーダリア様?」

「…………っ、これは気にするな。…………今夜は、あのエイコーンの者達と、………あの御者妖精の姿を見て、お前との過去の事やこれからの事を考えていたのだ。だから、うっかり名前も呼んでしまった」

「あの者達の姿は、…………やはり、あなたの心を揺らしましたか」

「ああ。お前とのこれ迄の事を、…………沢山考えた。そして同時に、あの者達を襲ったような悲劇が、決して珍しいものではないとも思った。だからこそ私も、そのような危険には気を配らなくてはと考えさせられたのだ」


その説明に、ヒルドの微笑みははっとする程に深く艶やかで、思わず目を奪われてしまう。

夜闇の中に立ち、こちらを見ているヒルドは、髪を下ろしているからか、いつもとは違う美貌と力を宿すかのようだ。


「………そのような事は起こりませんよ」

「だが、………!」

「起こる事を許す程、私は寛容ではありません。それは、ネイも同じ思いでしょう。それに、ネア様が先日アレクシスから貰ったと皆に振舞ったスープは、何度かの蘇生効果があるようですからね」

「…………あのスープが」

「ええ。ネア様曰く、体質による相性にもよるものの、少なくとも二度は死んでも大丈夫なスープとして渡されたそうですから」

「………そのようなものが、…………そもそもあるのだな」

「ネイが成分を調べて保証しておりましたので、間違いないかと」



もっと色々な決意や覚悟を伝えたかったのに、あんまりなスープの効能に、何だか力が抜けてしまった。

ふはっと息を吐いて小さく笑うと、ネア様は何かと良い物を持ち帰られますからねとヒルドも微笑む。



「…………ああ。だが、ネアが齎した物の中で最も嬉しかったのは、…………お前と共に暮らせるようになった事だ」

「おや、であれば私がこちらで暮らす事にも、もっと慣れていただきませんと。物思いに耽り、名前を呼んでしまったくらいでそのように後ろめたい顔をされては、私も安心して過ごせません」

「……そう、なのか?」

「ええ。妖精とはそのようなものですよ」



きっぱりとそう言われ、未だに頭の上に載せられたままの手が、ふわりと髪を撫でてくれた。

擽ったさと、胸を突くような強く鮮やかな感情に、目の奥が熱くなる。



「お側におりますよ。これからはずっと、あなたと共に参りましょう。あの頃に諦めた事は、これから幾らでも取り戻してゆけばいい。手始めに、あなたはもう少し私の名前を気楽に呼べるようにならなければですね」

「…………だ、だがさすがにこれは、子供にするようではないか」

「おや、私にとってのあなたは、生涯、妖精の愛し子なのだと思いますよ。そのような意味では、私にもあの妖精の気持ちがよく分かります。ですが、私はそもそも、あなたをむざむざと死なせるつもりはありませんが」

「………はは、そうだな」



そう言ったところで、かたんという音に振り返り、目を丸くする。



「……………ずるいなぁ。僕も仲間に入れてくれなきゃ」

「ノアベルト………」

「何だか今日はさ、誰かと一緒にいたい夜だなって思ってヒルドの部屋に行ったら、どこにもヒルドがいなかったんだよね」

「ネイ、…………何時だと思っているんです」

「でも、エーダリアも君も起きているからさ。よーし、今夜は三人で並んで寝ちゃう?」

「そ、それは………」

「ネイ……………」

「ありゃ、なんで引き気味なの?!家族で仲良くしようねって雰囲気だったよね、今?!」

「ですが、さすがにそれとこれとは………」

「大丈夫だよ。枕なら持ってきたし、ヒルドの部屋からヒルドの枕も持って来たから」



そう言われてしまい、青紫色の瞳の魔物がにっこり微笑むと、途方に暮れてヒルドと顔を見合わせるしかなかった。


寝台がさすがに狭いだろうと言えば、魔術で幅を広げる事は容易いらしい。

こんな時に垣間見るその器用さに、何だかまた力が抜けてしまった。



だが、渋るヒルドをノアベルトが説得してしまい、いざ三人で並んで寝るとなると、今度はそわそわしてしまいなかなか寝付けなくなった。


そのお陰で眠りにつくのは夜明けになってしまったが、不思議と目覚めは悪くなかったので、ヒルドかノアベルトが魔術で疲労や眠気を緩和してくれたのかもしれない。



ヒルドは終始難しい顔をしていたが、羽が淡く光っていたので怒ってはいないとノアベルトが話していたが、どちらなのだろう。

朝になるともう、あの優しい霧雨は降り止んでおり、柔らかな朝日がきらきらと輝いていた。





明日8/25の更新は、お休みとなります。

TwitterでSSを書かせていただきますので、もし宜しければご覧下さい。

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― 新着の感想 ―
[一言] エーダリア目線の話は胸がきゅっとなって泣ける事が多いです。
[良い点] 優しい、優しいお話でした。 何度も泣けてきて、良かったねぇと安堵し、最後は川の字を想像してムズムズして…。 心が温かくなりました。 エーダリア様はネアちゃんよりストレートな表現で心を揺ら…
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