166. 最後はみんなで帰ります(本編)
「ディノ、ほこりです……!!」
「ネア?」
「ほこりがいれば、………少しは状況が改善し易くなりませんか?」
祟りものが大好物な雛玉がいればといいかけ、ネアは最低限の気遣いを思い出し、表現を考えた。
もう取り戻せないと分かってはいても、あの中には、ここにいるエイコーンの二人にとって大切だった人達がいる。
それを、可愛い雛玉のお食事扱いしてはあまりにも惨いだろう。
「…………そうか。配達人は、一人だけ残しておけば良いのだったね」
「そして、あの中には何だかまだ複数名の配達人めがいるようですが、どれだけの人員をその任務に充てたのでしょう………」
「アルテアの調べでは、十七人の者達がリモワの小箱の表層に取り込まれている。残されているのは十一人だね」
「思っていたよりも多いですが、軍人さんの任務ともなれば、そのくらいの規模で動くのは当然なのでした…………」
そうして取り込まれて祟りものに転じている軍人達は、リモワの小箱ごと封印してガーウィンに引き渡される予定であった。
だが容量の大きな物を封じ取るのは勿論、その封印を維持したまま、アルビクロムの者達の処分に使わせるのはやはり危険度が高く、魔物達にとっても懸念点であった。
であれば、一部を削って雛玉のおやつにしてしまえば、随分な軽量化になるだろうとネアは考えたのだ。
今回の一件は災厄としての側面が強く、誰も、ほこりのおやつ向きではという思考に至らなかったようだ。
ネア達は顔を見合わせてふるふるし、サラフィア達をダナエとバーレンに任せ、その場を離れた。
「私が、ゼノーシュと少し交代しよう。彼は、ほこりとの間に君の持つカードのような物を共有しているから、それで声をかけて貰えばいいのではないかな」
「は、はい!ではここで、ノア達と一緒にいます。………でも、どうか気を付けて下さいね」
「…………ありゃ、ほこりって名前が聞こえてきたけど、もしかしておやつにする感じ…………?」
「うん。あのようなものの扱いに長けた存在を、どうやら失念していたようだ」
「わーお、そう言えばそうだった………。それとネア、…………もう声は聞こえないかい?」
「はい!ノアが食べさせてくれた物が良かったのか、ディノ達があちらで馬車めを閉じ込めてくれたのが良かったのか、配達人めの声は聞こえなくなりました」
「…………はぁ。良かった。問題の声が僕には聞こえないから、もし厄介な術式詠唱でも混ぜられていたらって、気が気じゃなかったんだ」
元の隔離結界の中に戻ると、ノアはほっとしたように眉を下げた。
途中でディノに交代したものの、あの呪いへの道筋の中でずっと側に居てくれた義兄は、エーダリアの手伝いで手元が忙しそうだったので、ネアは、その背中に手のひらを押し当てて無事だと伝えておく。
あの配達人の声が届くのが、例えばエーダリアであれば対処のしようがあるのだそうだ。
一度は訪問を退けているので、魔術の作法に従って扉を閉めれば、簡単に追い返す事が出来る。
だが、可動域の低いネアでは、その場に応じての対処が難しかった。
そんなところでもネアの心を損なわんとする配達人は、大人しく可愛い名付け子のおやつになるがいいと考えたネアは、思っていたよりも早く戻ってきたディノから、ゼノーシュが既に、ほこりに食べて駆除の依頼を出していたことを聞いた。
最前線でグラストの手助けをしているゼノーシュも、リモワの小箱の表層から、取り込まれた人間達を減らす必要性を感じていたのだ。
「だが、ほこりもこちらに来るまで少し時間がかかる。恐らく、討伐そのものは終えてからになるだろうね」
「まぁ、だとしても、運搬時やガーウィンに渡ってからの管理の方が心配だったから、どちらにせよ有難いよね。あ、扉が開くよ」
「ネア、しっかり掴まっておいで」
「…………ぎゅむ」
グラストが剣を振るった直後だろうか。
ざっと、また地面を走る赤紫色の魔術の光に、わしゃんと大きな音を立て馬車が転がった。
アンゲリカが槍を片手にさっと後退し、青い槍からは星の光のような銀色の煌めきが尾を引く。
ネアは、どうっと横倒しになった首なし馬達の姿に、サラフィアはそこに生前の妖精馬達の面影も見てしまうのだろうかと感じて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
大きく風を孕むように術式の細かく刻まれたリボンのようなものが地面から立ち上がり、しゅるしゅると馬車に巻き付いてゆく。
そして、力尽くでこじ開けられるようにして、馬車の扉がめきめきと破られた。
うぉおおおん。
その直後に響いたのは、獣の咆哮のような、鯨の鳴き声のような、びりりと肌に響く不思議な叫びだ。
開いた扉から溢れ出したのは、漆黒のどろりとした液体で、地面に触れるなり鋭く尖った茨のような形状で結晶化してゆく。
その黒い茨の結晶が広がってゆく様は、禍々しいのにどこか美しく、そして、内側に飲み込まれてしまった人達の事を思えば、胸が痛くなるような光景であった。
「…………っ、」
おまけにその中から、四つん這いの悍ましい生き物が這い出てきたではないか。
全身が真っ黒だが、それでも心を抉る恐ろしさにネアはびゃんと飛び上がり、慌てて魔物の胸に顔を埋めてしまう。
エイコーンの二人の家族かもしれない以上、おおっぴらに悲鳴は上げられない。
ここにいる人間は、極限状態でも気遣いを忘れない清らかな心の持ち主なのであった。
(で、でも、ホラーは無理………!!)
コーンと、澄んだ音が響いた。
大理石の床を結晶化しかけた木の杖で叩くような音は、きっとアルテアの魔術の一環だろう。
ネアはディノの腕の隙間からそちらを覗き、地面を走った亀裂が、先程の四つん這いの生き物を滅ぼした選択の魔物を飲み込まんとし、おまけにその亀裂から先程の荊の結晶が鋭く突き出すのを見てひゅっと喉を鳴らす。
そして同時に、エーダリアの声が乱れた。
「っ、………」
僅かに途切れかけ、けれどもそれを意識させずに繋がる伸びやかな詠唱を支えているのは、魔術の調整を行なっているノアと、周囲で生まれた悪変の者達を倒してゆくヒルドだ。
小さな生き物達が結界を越える事はないが、灯火に集まる虫のようにエーダリアに寄ってきているので、そのままにしておくとあっという間に視界を奪われてしまう。
ヒルドは、それを根気強く倒し続けていた。
「…………非ざる物らしく、土地の魔術を断裂させてきたね。あの災いは祝福の顔をしているから、エーダリアの詠唱だけで整えるのは難しいだろう。………ノアベルト、私が表層を押し込むよ。その間、エーダリアの詠唱を支えてやっておくれ」
「うん。シルの魔術なら完璧だ。ただ、呪いに触れさせられないから、この周辺だけにしか使えないけれど、この詠唱を崩さなければ、騎士達の魔術の底上げが出来るからさ」
そう言うなり、ノアはたんと足元の薄らと浮かび上がった魔術陣を踏み付けた。
すると、そこに重なり、ディノを中心として、真珠色の魔術の光が波紋のように広がってゆく。
(………わ、………綺麗)
よく見れば、ほんの一瞬で小ぶりな薔薇のような真珠色の花が咲き乱れ、それがまた一瞬で散って、魔術の細やかな煌めきになって消えてゆく。
すると、その光の波の下で、それ迄は気付かなかった黒いひび割れのようなものが塞がってゆくではないか。
この足元まで及んでいた馬車からの侵食に、ネアはぞっとして、その最前線で戦っている騎士達やアルテアの方を見る。
そちら迄は、このディノの調整は届かない。
だから彼等は、その侵食の上で戦うのだ。
ばりりと音がして、薄暗くなってきた空から一直線に地面と馬車を貫いたのは、アンゲリカの持つ青い槍の展開した魔術だ。
そして、間髪を入れずに、淡い金色の光で馬車を横薙ぎにしたのが、グラストの剣撃である。
真横なので角度的に良く見えないが、剣撃が描いたのは金色の魔術陣のようなものだろう。
アルテアは馬車の扉をこじ開けてから目立つ動きはしていないが、その実、どれだけ緻密な魔術を動かしているのかは、エーダリアの背中に手を当てているノアの横顔を見ていても分かる。
声をかけるのも躊躇われる程に、ネアには見えない物を調整しているのだ。
「…………これ程までに、相性がいいとはね」
そう呟いた魔物を見上げると、その姿は、風に揺れる真珠色の髪と水紺色の瞳が光を孕み、薄闇の中で例えようもなく美しく凄艶に見えた。
「ディノ…………?」
「リモワの小箱と、取り込まれ配達人にされた者達の相性が良過ぎるのだろう。………あの箱は、紛れ込み運ばせる事しかしない災いだが、取り込まれた軍人達は、謂わば、何者かの手足になる事に長けた者達だ。………そのような物が相手となると、寧ろ、そちらについては育む事の方が容易いアルテアの魔術との相性もあまり良くないね」
「…………っ、………むぐ」
「彼であれば勿論、リモワの小箱を退ける事も、馬車を壊す事も出来るけれど、あの小箱を見失う訳にはいかないし、領の境界という一種のあわいの上であのような呪いを拡散させると、長らく残る災いの楔になってしまう」
「ほ、箒を使います?」
「一度押し込めた物を、再び動かすのは良くないだろうね。…………それに、手に負えない訳ではないんだ。…………ただし、時間はかかる」
非ざる物とあわいは、相性がいい。
どこでもなく、どこからともない物同士で噛み合い、より大きく見えるのが、日が落ちるこの時刻だ。
今は我慢の時間だと聞いてネアは堪えようとしたが、そのあわいの時間だからこそ、災いは大きな抵抗を見せた。
びきりと、地面が割れた。
爆散するように飛び出した漆黒の結晶の棘に、グラスト達がざっと距離を取る。
アンゲリカが肩を押さえた姿を見て、黙々と小さな悪変の生き物を切り捨てていたヒルドが眉を寄せるのが見えた。
ひたすらに詠唱を続けるエーダリアに、その斜め後方に立ち、いざという時にウィーム領主を守る為に沈黙を守り立っているリーナ。
アルテアは馬車近くから動かなかったが、それでも馬車の内側から湧き出してくる黒い泥のような物に手を焼いているように見えた。
(ウィリアムさんか、ほこりが来てくれれば………)
そう考えかけ、けれども名付け子をあの棘々に近付けたくはないと思ってしまう。
ネアの持つ、きりんシリーズや激辛香辛料油のような武器が有効だとも思えない。
じわりと胸の縁に滲んで広がりかけた不安に眉を寄せた時、それは起こった。
「…………っ!!」
黒々とした茨の道を作っていた一画が、突然ぱしゃんと液体に戻り、次の瞬間、黒い泥の大きな人間の手の形になったのだ。
エーダリアが息を呑む音が聞こえ、僅かに詠唱の音が乱れる。
「炉心を失った我等であれど、愚かにもその道筋を残している事を忘れているあの小娘は、簡単に見付けられる」
その声はもう、ネア達だけに届くものではなかった。
サラフィアを連れ戻そうとした先程の人物の声で、けれども大勢の人間が一斉に話し出したような悍しい声が響き、巨大な手が、獲物を掴み取るかのようにあっと思う間もなく伸ばされる。
思わず小さく悲鳴を上げそうになってしまったが、その手が襲い掛かったのはこちらの結界ではなかった。
「…………っ、………!!ダナエさん達が………!」
「……あちらを狙いましたか」
「…………シル、」
「排他結界で押し留めてはいる。だが、今の物はもう保たないね。次の層で押し戻そう」
ダナエ達が留まっている結界の手前で防壁を作り、伸ばされた巨大な手を止めてくれたのはディノのようだ。
だが、ディノが言った通り、その防壁はすぐにばりんと砕かれて粉々になる。
「ふん。小賢しい。………だが、この追撃が止められようか。我々の中にはお前達に導く案内人の血がある。取り込まれたあの男や妖精は、お前達を食い殺す為の羅針盤になるのだ」
その次の防壁もあるようだが、既にその大きな手は、ダナエ達の結界の目前に迫っていた。
馬車の方を見れば、地中から顔をもたげるように輪郭を描いた巨大な頭のようなものが見えて、騎士達やアルテア、ゼノーシュはそちらにかかりきりだ。
あんまりな光景にネアはぱたんと倒れてしまいたくなったが、悪夢のようにぐわんと膨らんで伸ばされた手にダナエ達が身構えるのが見え、目を瞠った。
(ぶつかる…………!!)
きっと、あの大きな手は、ディノが展開した見えない壁に跳ね返されるだろう。
けれども、先程のように、その防壁がまた壊されてしまう可能性もないとは言えない。
何も出来ないネアは怖くて堪らなくて、咄嗟に片足のブーツの紐を緩めて、脱いだブーツを巨大な手に投げ付けようとしてしまう。
だが、その禍々しい手を退けたのは、黒い泥の中から突き出された美しい白い手であった。
ぱりんと、儚くも澄んだ音が聞こえた。
「……………手が、」
「ありゃ、…………何だろうあれ」
そのはっとするような白さに息を呑んだネア達の視線の先で、思わぬ身の内からの変化にがくんと速度を落としたものの、それでもディノが展開した結界にぶつかって阻まれた黒い手が、どろりとへしゃげる。
そして、その手を食い破るようにして突き破り、伸ばされた白い両手は、まるで、黒い災いの中から羽化する蝶のような美しさであった。
(あれは、何だろう。…………いや、誰なのだろう)
きっと、その様子を見ていた誰もがそう考えただろう。
そしてその答えは、サラフィアが持っていた。
「…………ジャバス?……………ジャバス!!!」
悲鳴にも似たその呼び声に、ぎょっとしたネアは目を瞠った。
巨大な黒い泥の手の中から、美しい白い生き物が羽化するような光景は、ひょっとしたら悍ましいものなのかもしれない。
けれども、その名前で呼ばれた彼女の良く知る誰かがそこにいるのなら、どれだけの奇跡で、どれだけの救いなのだろう。
先程名前を出していた息子ではないとなると、他にネア達の知らない同乗者がいなければ、それは御者妖精の名前なのかもしれない。
どろりと、ディノの展開した透明な防壁を流れた黒い泥は、巨大な生き物が流した血のようにも見える。
固唾を飲んで見守る黒い手の表面では、どこからか、ばりばりと何かを引き裂いて芽吹くような、恐ろしい音が聞こえてくる。
子供のように顔をくしゃくしゃにして泣いているサラフィアが、大事な妖精を取り戻そうとするかのように手を伸ばした。
長い黒髪が揺れ、呪いの中からゆっくりと上半身を起こした妖精は、ネアが思っていたよりもずっと若い。
青年といってもいいような容貌のその妖精は、清廉な湖や泉を思わせる澄んだ水色の瞳を開き、サラフィアを見てゆっくりと揺らす。
「…………愛しい子」
その声が聞こえた事に、その音が届いた事に、それだけでもうネアは涙がこぼれそうになる。
ここで姿を見せるなんてあの配達人達が演出した罠かもしれないのに、その声を聞けば、なぜだかそうは思えなかった。
容貌とは少しだけちぐはぐな渋みのある低い声は、何かを堪えるように震えていて、けれどもとても暖かい。
だがその優しさは、おおんと、腕を食い破られた呪いが怨嗟の声を上げると、どきりとする程に鋭くなった。
「…………私が、お前達のようなものなどに、愛する者を奪わせるとでも思ったか!…………ああ、ああ、そうだ。私の宝物をこのような悲劇や災いに取り込ませなどするものか。お嬢様も、オーレム坊ちゃんも、私の大事な大事な、愛し子なのだ………!!!」
「ジャバス?!」
もう一度悲鳴のようなサラフィアの声が上がったのは、自らの半身がまだ溶け込んだままの呪いを睨みつけたジャバスの体が、もろもろと灰のようなものになって崩れ始めたからだろうか。
そんな愛し子の悲鳴のような声に顔を上げ、清廉な水色の瞳をした妖精は淡く微笑んだ。
「…………これを。私の力では、…………これだけを残すのが精いっぱいでございました」
伸ばされた手は、二人の間にある距離のせいで届かない。
顔を歪めたサラフィアがローレンスの腕から飛び出してゆこうとしたその時、差し出されたジャバスの手の上から、何かがぱたぱたと飛び立った。
(…………蝶?…………ううん、小鳥だ)
もろもろと崩れ落ちてゆく美しい手のひらから飛び出したのは、赤い羽根を持つ、ぷくぷくとした小鳥であった。
飛び慣れていない様子でよろよろと飛び、ディノが何かをしてくれたのか、結界を難なく越えて差し出されているサラフィアの手のひらにぽすんと着地する。
「…………オーレム?」
「オーレム、…………お前なのか?」
震える両親の声に、サラフィアの手のひらの上の小鳥はぴぃと鳴いただろうか。
わっと、またしても泣き出してしまったローレンスに、大事な小鳥をそっと抱き締めて顔を上げたのはどこまでも伴侶より凛々しいサラフィアであった。
「…………ジャバス」
最期の力を振り絞って、愛し子にその子供を返してやったのだろうか。
だが、それだけでも目を瞠る程の奇跡だった。
ジャバスはもう、差し出していた両手はすっかり崩れてしまい、ゆっくりとのけぞるようにして、残った体も崩れてゆく。
もう声も出せないのかもしれなかったが、それでも、サラフィアに微笑みかける優しい水色の瞳は見えた。
「…………や、嫌だ。お前も…………っ、」
また顔を歪めて泣いてしまいながら、サラフィアがはっと息を呑んだだろうか。
切羽詰まったような顔になり、片手でどこかをごそごそすると、何かを握り締めた拳を真っすぐに突き出す。
「ジャ、ジャバスを私に返してくれ!!!私の大事な家族なんだ!!……………ジャバスを返してくれ!!」
(…………あ、)
それは、ネアが出会ったばかりのサラフィアに渡した、失せ物探しの結晶の祝福を使う言葉ではないか。
きっとどこかでノアの用意した袋から取り出せるようになり、サラフィアの上着のポケットの中にあったのだろう。
普通の女性のようなドレスではなく、男装めいた服装でポケットのある上着を着ていたのが良かったのかもしれない。
(でも、…………)
だが、叶うだろうか。
あの結晶石に、喪われてゆく一人の妖精の運命を変える事だなんて、出来るのだろうか。
ネアはその願いが潰える怖さに身を竦め、そんなネアをぎゅっと抱き締めてくれたのはディノだ。
「…………随分と強い祝福の光だ。君は、特別に質がいい石を渡したのだね。…………であれば叶うだろう。最初の赤い小鳥も、あの妖精も、もはやとうに死んだものだ。残されて形を作っているのは、そうして飲み込んだ物を使役し維持し続けるリモワの小箱の力をも利用して再構築した、あの者達の魂を魔術に転じさせたものなのだろう。魂は有しているけれど、魔術としての再派生に近い。…………だからこそ、そこ迄であれば叶うと思うよ」
「ふぇぐ。…………か、かにゃいます?」
「うん。だから、安心して見ておいで」
「はい!」
憎たらしくも黒い泥の腕は、ばりばりに破られていてもそのままで、ジャバスと呼ばれた妖精の体だけが、灰になって崩れ落ちていった。
凍えるような絶望と落胆のその沈黙の中で、また、リモワの小箱に捕らわれた怨嗟がおおんと声を上げる。
けれども、祝福の結晶石が結んだ奇跡が芽吹いたのは、その直後であった。
「ピュイ?!」
ぼふんと、崩れ落ちる最後の灰の中から、ぱたぱたとした小鳥の羽を持つ水色の毛玉が飛び上がった。
少しだけ色合いを濃くした水色の目を真ん丸にしてぽわぽわしているその毛玉は、真下にある黒い手がずるりと動いた瞬間、ぴゃっとなって飛び上がる。
「ジャバス!」
「ピュギ!!」
ぱっと目を輝かせたサラフィアが手を伸ばし、その頭の上に飛び上がった赤い小鳥も、ぱたぱたと羽ばたいて早くこちらへと促している。
だが、ぽわぽわ毛玉は思ったように早く飛べないようで、その下の大きな黒い手の残骸がのそりと持ち上がる方が早かった。
「ていっ!」
しかし次の瞬間、あのよく分からない黒いものに積もりに積もった怒りを抑えかねていた人間が、紐を緩めて脱いだブーツの紐の部分を持って振り回し、戦闘靴を投げつけたのだ。
その途端、ぎゃーっと悲鳴が上がり、大きな黒い腕は崩れ落ちる。
ネアはしてやったぞと拳を振り上げたが、高位の魔物達を翻弄し続けた非ざる物を取り込んだ呪いは、さすがにそれだけでは滅びはしなかったようだ。
腕を失ったもののどたんばたんと荒れ狂う馬車の残骸はしかし、二度目の打撃を受ける事になる。
ずだんという物凄い音がして、その馬車を両断してしまった誰かがいたのだ。
「…………まぁ、」
純白のケープが翻り、ネアは目を輝かせた。
そこにいるのは、鳥籠の中の戦場での仕事が終わらなかったのか、到着の遅れていた終焉の魔物ではないか。
「ピ!」
おまけに、丸くて白い雛玉を抱えている。
ウィリアムに両断されてがらんと左右に割り倒れたその残骸の上に降り立った雛玉が、終焉の魔物の手から下さればすんと弾んでから、何の躊躇いもなく馬車の一画をぱくりとお口に入れる。
ここで、もう一度ぎゃーっと悲鳴が上がった。
黒い波が連なり折り重なるように、馬車の中から、イブメリアの贈り物のような綺麗な藍色の包装紙に包まれリボンをかけられた小箱が現れたのはその直後だ。
こちらから見ていてもその小箱を逃がそうとしているのは明らかで、ネア達を翻弄し続けてきた呪いの馬車が、そして、リモワの小箱とその配達人達が初めて見せた怯えであった。
周囲の者達が呆然と見守る中、ウィリアムが馬車を容赦なく腑分けしてゆき、それをほこりがむぐむぐと食べる。
ネアはそんなに食べて大丈夫だろうかとはらはらしたが、どすばす弾む様子を見ていると、美味しいのかもしれない。
「ほこり、来てくれたんだね!」
「ピ!」
「あのね、それはグラストに怪我をさせたんだよ。それに、ネアの首も絞めたの。だから、配達人の一人を残して全部食べちゃっていいからね」
「ピギ?!………ピ!」
「……………くそ、何でお前にはそいつの排他結界が作用しないんだ」
「ピ?」
どうやら、アルテアが苦労していた物がほこりには通じないらしく、むぐむぐ黒い塊を食べているほこりは首を傾げている。
顔を顰めたアルテアは、転がり出た小箱をさっと魔術で覆ってしまい、外側から箱状の魔術の光に囲われた小箱はそのまま沈黙した。
「……………む、…………むむ?」
「わーお。解決したぞ…………」
「この一瞬で終わってしまったのです?」
「…………あの馬車から、馬車の呪いを最初に作り上げた者達が皆出てしまったのが良かったのだろう。だが、…………馬車をあのように壊せてしまったのは、ウィリアムのお陰だね」
「ありゃ、………なんだかウィリアム、怒ってない?」
「ほこりは、………あんなに食べてしまうのだね」
「まぁ、私の魔物はなぜしょんぼりなのです?」
「…………エーダリア様、もう良いでしょう」
「…………ああ。……………はぁ、…………終わったのだな」
「うん。リモワの小箱はアルテアが回収したし、グラスト達とアンゲリカ達も、然程大きな怪我はしていないね。………あ、でもアンゲリカは渡しておいた傷薬が足りないのかな」
「っ、今すぐ渡してこよう」
「落ち着かれて下さい。ネイ、エーダリア様を頼みます。私が渡してきましょう」
「あ、とは言えあの手の呪いだから、僕が行くよ。ヒルドとエーダリアも、どこか気になれば薬を飲む事!」
さあっと、夜の入りの森を渡る涼やかな風が吹いた。
もう、地面に落ちていた霜はなく、こちらの結界の表層が凍りつく事はない。
ウィリアムは丁寧に全ての黒い棘の残骸までを切り分けてしまい、ほこりは、ゼノーシュとグラストとお喋りをしながら一口呪いを美味しくいただき、最終的にはアルテアが確保した最後の配達人まで食べようとして叱られていた。
(…………あ、)
向こう側では、ダナエとバーレンに見守られて、抱きしめ合って泣いているサラフィアとローレンスがいる。
相変わらず、エイコーンの第一席は泣くばかりだが、よく考えれば、愛する者達を奪われたのは彼なのだ。
手に戻された物がある喜びに浸るのは、彼こそなのかもしれない。
「…………終わりましたね」
「うん。バーレンと、あちらの人間と、光竜の要素が大きいのも良かったのかもしれない。在るべきものを在るように。そんな存在が図る調整を、彼等は呪いの中からあの者達を取り戻す事にだけ集中させたのだから」
「ふふ。であればそれも、あの方々が持つ幸運なのでしょう。…………皆さんは、このままエイコーンに帰れるのでしょうか?」
「この国に二度と入らないように、魔術誓約は交わされるだろうね。我々がどう判断しようとも、国としてその判断は必要だ。……………それに、君ももう、彼等との縁は深めない方がいい。リモワの小箱は残り続けるのだから」
「…………はい。ではそのようにしますね。………まぁ、どうしてしょんぼりなのです?」
ネアは悲しげに羽織り物になってきた伴侶を撫でてやり、疲労回復の魔術薬を飲んでいるエーダリアとヒルドに、その二人の世話をしているリーナを微笑んで見つめる。
前線の者達も労われ安堵していたし、サラフィア達の喜びは言うまでもない。
「…………君は、あの者達を気に入っていたのだろう?」
「はい。でも、みんなが無事にお家に帰れる奇跡が起きたのです。こんな素敵なものを見られて満腹ですので、これ以上を望むのは我が儘でしょう。……それに、私の大切な伴侶や家族が無事で、それが一番嬉しいのですよ?」
「…………可愛い」
見上げると、夜空にはきらきらと星が瞬いていた。
そこには穏やかで美しい夏の夜があり、ネアは体を擦り寄せてくる魔物を丹念に撫でてやる。
(……………あの日の、私の願いは叶わなかった)
ネアハーレイの生まれ育った世界には、このような奇跡はなく、奪われた家族と再会する事は二度となかった。
でも、だからこそこの幸運が、あの日のネアが得られなかった救いと安らぎを、ほんの一雫与えてくれる。
「………それに、もう二度と、あの日の私は見たくありませんでした。そうならずに済んで、とても幸せなのです」
「ネア…………」
みんなで家に帰る。
そうしてそこには、失い難い大切な人達がまた集まる。
それだけの事が、どんなに幸福なのか。
とてもいい気分でこの時間を締め括れたネアは、仕事明けで少し荒んでいたウィリアムには、甘いものをと棒ドーナツを口に入れておいたし、どすばすと弾む雛玉には、勿論沢山撫でてお礼を言ったのだった。




