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163. その荷物も運びます(本編)



「……………アルテアさんが、怪我をしました」


ネアがそう言えば、解散しかけていた会議の参加者がぎょっとしたようにこちらを見る。

青い青い瞳を向けたダリルが、微かに眉を顰めた。



「……………それは、アルテアが報告してきたってことだよね?」

「は、はい。アルビクロムの武器倉庫に、何か困った物が眠っていたようです。馬車の呪いが、どうやらそれを食べてしまったらしく、………非ざるもので階位を上げたと共有するようにと……………」



カードに揺れる文字には、とは言えその怪我は治癒済である事と、これからエイコーンに向かうと書かれていたが、ネアは、すとんと足元に下がってしまった血にくらりと眩暈を感じてしまう。



「ネア、座っておいで」

「むぐ……………私は、いつの間に立ち上がってしまったのでしょう……?」

「治癒出来たのであれば、アルテアは心配ないよ。あくまでも、自分を損なえる程に階位を上げたのだと共有したかったのだろう」

「……………はい」


すっかりへなへなになってしまったネアの心に寄り添うように、ディノが頭を撫でてくれる。

非ざるものというのがどのような物なのか分からずにただ慄いていると、ディノ達と何か視線を交わしたノアが、小さく溜め息を吐いた。



「ネア、テルナグアを覚えているかい?」

「……………とても怖かったです。も、もしや、馬車が食べてしまったのはそのような物なのですか?」

「何であんな土地にって思うけど、アルビクロム程に魔術階位が低い土地だからこそ、本来の恐ろしさを知らずに保有していた品物があったって事かもしれないね。土地の魔術階位で干からびたみたいになっていたその要素が、馬車の呪いの中で芽吹いたのだとすると、こりゃ厄介な事になるぞ……………」

「……………こちらには、そんな品物の情報は入っていないね。となると、余程上手く隠してあるか、そもそもその価値や危険性にすら気付かずに保有していたって事かね。…………まったく、……………まったく厄介な事をしてくれたよ!………でも、だからこそ工房の連中には預けられない予言だったのかもしれないねぇ……………」



自分に言い聞かせるようにそう呟き、ダリルは小さな革の装丁の本にも似た何かから、誰かに連絡を取ったようだ。

アルビクロムにそのような品物があったとなれば、恐らくダリルはダリルの役割りとして、ウィーム領の為に調整を取らなければいけない事が幾つもあるのだろう。



「ですが、そちらで変化を付けたとなると、ウィームとしてはアルビクロムに一つ貸しを作れるかもしれませんよ」

「苦労させられる分、そこで落としどころを付けるしかないだろうね。知らぬ存ぜぬを通されないように、目撃者の手配をしておいたところだよ。これからガレンにも正式な調査と修復の依頼が入るだろうけれど、恐らく連中は、アルビクロムで悪変の度合いが強まった証拠を隠す為に、ある程度救助要請をかけるまでに時間を空けるかもしれないね」

「ああ。であれば、そこで時間と手を取られないだけ、私は助かるのだが…………、とは言え、時間を空けてしまうと呪いに触れた魔術の浸食や損傷が深まる可能性が高い。ガレンの長としては、手に負えない物は早めに共有して欲しいところだな…………」



非ざるものを取り込んだ呪いや災いは、階位を各段に上げるだけでなく、想像もつかないような成長を遂げる場合が多い。


ダリルは先程の少女を預かっている封印庫にも連絡を入れ、もし、連鎖的にそちらでも変化があるようならすぐに報告して欲しいと話していた。



(少しずつ、少しずつ、……………)



ゆっくりと紡がれて、呪いが一本の線になる。

響きや気配に宿る悍ましさや悲しさが荒々しいのに対し、呪いの成り立ちや変化はとても繊細だ。


その先にあるウィームでは、本日は野外演奏会が行われており、素晴らしい歌声を持つ妖精が訪れていた。

ネア達はその歌声は聞いておこうと、リーエンベルク前広場に出かけ、美しく伸びやかな歌声に耳を傾ける。


刻々と呪いの馬車が近付いてくるのにと思えば、この優雅さはどこか罪深く感じてしまうが、これもまた繊細に織り上げて蓄える一本の糸を紡ぐもの。




(……………綺麗だわ。それに、なんて素晴らしい歌声なのだろう)



レースのような木漏れ日の下で舞台に立ち、感情豊かに歌う妖精は美しかった。

青いドレスには星屑のような結晶石の縫い取りがあって、美しい髪は複雑に結い上げている。

両手で掴めそうな細い腰は、どこからこの豊かな歌声が響くのだろうと不思議になってしまう程。


その美しさに惚れ惚れと聞き入るのは人間ばかりではなく、陽光の影になった木々の枝の中が観客の妖精達の輝きでぼうっと光る。

そしてその金色や青白い光は、お伽噺の色合いとも言えるような淡い淡い光で瞬くのだ。


素晴らしい音楽も勿論だが、ネアは、そんな一枚の絵のような光景にも心を奪われてしまった。

周囲には甘い葡萄パイの香りと花の香りが立ち籠め、人外者達がチケットの代わりに持ち込んだ花々がそこかしこに飾られている。


この演奏会は元々夏の系譜の祝福を豊かにする為に行われるようになったものだが、音楽で歓待された夏の季節の生き物達は既に、うっとりとろりと、至福の表情でくたくたに伸びていた。


そんな様子を眺め、今回の催しには例え見回りとしてでも関われないネアも、むふんと頬を緩める。

大変遺憾ながら、音楽の祝福を逃さぬようにとネアは本日は休日扱いにされているが、それでも、リーエンベルク前広場で開催される演奏会の素晴らしさには、身内事めいた喜びを覚えるのだ。


今年の花飾りは淡いライラック色で、お馴染みの、花で作ったくす玉のような物が、同色のリボンで木々の間に吊るされている。

会場に集められたチケット代替わりの花々は祝福に煌めき、その輝きに目を細めた楽団員達は、上機嫌で美しい音楽を奏でてくれる。



(ああ、今日がただの音楽会の日だったら良かったのに……………)



そんな事を考えてしまい、ネアは、己の贅沢さに苦笑した。

大変な問題を抱えていても、こうして素晴らしい音楽を楽しむ事が出来たのだ。

そのことに感謝して、呪いの馬車への効果もあるかもしれない、音楽の祝福をたっぷりと浴びておこう。



「美しい歌声ですね。心の中にしんしんと沈み込んで広がってゆくようです」

「気に入ったかい?」

「はい!以前にあの方の歌声を聴いた際には、声質は似ていないのにどこか母の歌声に似ていると思ったのですが、今回はその感覚はなくて、代わりにこのリーエンベルク前広場の街路樹や花々の色が溶け込むようで、音楽のプールにじゃぼんと入るような心地よさがありました」

「木々や花々の妖精達が、歌声に心を傾けたからだろう。妖精の祝福を籠めた歌声には、そのような効果があるんだ」



ディノにそう教えて貰い、ネアは、歌い終えて拍手を貰っている妖精の横顔を見つめた。

楽団の指揮者に微笑んで抱擁を交わし、エーダリアに挨拶をすれば周囲の観客たちがわっと沸いた。

プログラムを開き次の曲との間の時間を調べたお客の中には、さっと葡萄パイの屋台に走る者達も少なくない。


今年は座席のチケットは買わずに立ち見席で聴いていたネア達も、ささっと燭台印の白葡萄パイのお店に並んだ。

前に並んでいるのはちびこいむちむち子竜達で、なぜかみんな、羽ばたかずに羽をぱたぱたさせながら一生懸命背伸びして列の先頭を覗こうと頑張っている。

葡萄パイにはしゃぐ子竜達のあまりの愛くるしさに、ネアは昂る胸を片手で押さえなければならなかった。



「……………は!そして、両方のお店に並ぶ余裕はないのだと思いながらも、うっかりこちらのお店の方に並んでしまいました。ディノ、赤葡萄の方がいいですか?」

「ネアと同じものにする……………」

「赤葡萄のパイが良ければあちらのお店に並び直すので、好きな方を言って下さいね」

「うん。三つ編みはいいのかい?」

「今日はこうして手を繋いでいるので、三つ編みはやめておきましょうか?」

「ひどい……………」

「なぜしょんぼりなのだ……………」



素早い移動により、四番目で葡萄パイを手にしたネアは、不安が重なる中で得られた燭台印の紙袋をきらきらした目で見つめ、大事に抱えてリーエンベルクの中に戻って来た。

途中で、無料で貰える葡萄パイをどのお店にするかを決められず、心が無になってしまった森狼と擦れ違ったが大丈夫だろうか。



「あの狼さんは、休憩時間の間に食べたい葡萄パイが決まるといいですね」

「決められるのかな…………」


そうして屋内に戻ると、そこには帽子を取っているアルテアの姿があるではないか。

ネアは慌てて駆け寄ると、使い魔のどこかが欠けていないか、周囲をぐるぐるした。


「……………おい、何だ」

「見回りです。……………どこか、まだ痛いところなどはありませんか?」


怪訝そうな顔をするアルテアに厳めしくそう伝えると、呆れた顔をして頭の上にばすんと手のひらを載せられてしまう。

こちらを見た赤紫色の瞳に疲労や苦痛の翳りはなかったが、それでもどこかを損なったのは事実なのだから、ネアとしては普通に動いていないで椅子などに座っていて欲しいところだ。



「ディノの傷薬を出しますね」

「いいか、絶対にやめろ。加算の銀器もだ」

「ね、念の為に………」

「やれやれだな、落ち着け。手足を食われかけたくらいで、さしたる摩耗もするか」

「……………て、てあし!!」

「シルハーン、呪いが食らったのが何なのかが不明のままだ。こいつは、どこか隔離地にでも隠しておけ」

「君はそうするべきだと思うのだね?」



アルテアの言葉にネアは驚いたが、ディノは、一度瞳を閉じて開いただけだった。

静かな声でそう尋ねた魔物に、ネアは、ディノもまたその可能性について考えていたのだと知る。



「エイコーンで魔術祝福を手に入れたが、馬車の中の核が失われた以上、その祝福が効果を得るかどうかは怪しいところだろうな。本来なら、馬車の中にもう一人エイコーンの子供が残っている筈だが、その要素が残っているかどうかの判別はもう難しいだろう。……………取り込んだ要素が、状態としてはテルナグアのような招き入れて取り込む型の災いに近い。もし、妖精と馬車の入れ物だけで構築されていた場合は、こちらの想定にはないものに転じている可能性もある」

「……………君にもその内側が探れないとなると、ウィームに到達次第に壊してしまうとしても、この子はどこかに隠しておいた方がいいだろうね。前の予兆に関わった以上、これ迄はそうではなくても、その道筋に立っているという認識を何かがするかもしれない」



こちらを見たディノに、ネアは短く頷いた。

魔術の理に明るい魔物達がそう思うのであれば、素直にそれに従うのが良いだろう。

何も出来ないのにここに残るのだと騒いで、また別の誰かが傷付けられては堪らない。



「先程の私の浅慮が、皆さんを困らせてしまったりするのでしょうか?」

「いや、先程迄の物は問題がなかったんだ。あれは、どうにもならずにどこにも行けないままに彷徨う物で、けれども、ここから先は、何かに転じどこにでも行ける物になったのかもしれない」



その響きの不穏さに、ひたりと背中を冷たい汗が伝う。


葡萄パイの入った紙袋はほかほかしていて、これから部屋の中でディノと食べる筈だったのだ。

エーダリア達は店からのふるまいがあるそうだが、疲れ果てて帰ってくるかもしれないアルテアの分も買ってあり、冷たい紅茶でいただこうかなと考えていた。



「私の金庫の中の物で、何か役に立つ物があるかもしれません。避難が先かもしれませんが、使えるような物があれば調べてお渡ししますね」

「戸外の箒は借りておいた方がいいかもしれないね。まだ使えるのだったかな?」

「ええ。新しい物でしたので、最低でもまだ二回使えますし、他にも、アレクシスさんから貰った押し花手帳の中に、呪いの駆除用の薬草が沢山あるとノアが以前話していました」

「であれば、それもだね。……………こちらに到着する迄にはまだ猶予があるだろう。アルテア?」

「おい、パイを食べるんじゃないのか?」

「……………むぐ。一緒に葡萄パイを食べる時間はあるのです?」

「アルビクロムを横断しているところだ。ウィームに入るのは早くても夕刻になる。それ迄にはウィリアムも駆けつける手筈だからな」



一緒に葡萄パイが食べられると知り、ネアは、喜びに弾んだ。

エーダリア達はまだ戻れていないので、先程の会議の部屋で冷たい夜風と詩色の紅茶をグラスに注ぎ、ひとときのおやつ時間とする。


「……………あぐ」

「可愛い……………」

「おいしいれふ。僅かに酸味を残した葡萄を使ったパイですが、その酸味はほんの僅かで、全体の味がお砂糖の甘みで丸くなるのが堪らない美味しさなのですよ」

「ほお、燭台の店にしたのか。店を作った頃から味が変わらないのは、この店のレシピは食楽の系譜の祝福も宿っているからだが、藍色の目の店主はまだ存命だったか?」

「お店には、確かに藍色の瞳が印象的なご老人がいましたが、その方でしょうか?」

「古の燭台の魔術を扱う魔術師だ。魔術の研鑽の全てを、技ではなく菓子作りに向けたというあたりは、あのスープ屋に近いな」

「まぁ……………。だから、こんなに美味しいのかもしれませんね」



けれども、そんな美味しい葡萄パイの時間はあっという間に終わってしまった。

そうすると、話題は再び呪いの馬車に戻ってくる。


「ダリルはまだ戻らないのか?」

「馬車が最初に到達すると思われる国境域の騎士さんを再配置するべく、隣の部屋で、ウィーム各所やお弟子さん達との打ち合わせをされているようです。リーエンベルクからはグラストさんが、そして狙撃の魔術に長けたアンゲリカさんも招聘するのだとか」

「北星の精霊の槍か。……………悪くない組み合わせだな。あの馬車に元々記されていた家紋には、乗っていた二席の一族を示す鷹を模した紋章があったらしい。府王の系譜は竜の血が色濃く残っている。本来は竜の印を使いたかったところを隠し紋章で収めたんだろうが、冬星のような空の災いを鎮める系譜との相性はいいからな」

「そう言えば、光竜さんの手がかりは…………」



ネアが、そう尋ねようとした時の事だった。


誰かが扉をノックし、振り返りかけたアルテアが、はっとしたように息を飲む。

がたんと音を立てて椅子から立ち上がった選択の魔物に何事だろうと目を丸くしたネアを抱え込もうとしたのは、隣に座っていたディノだった筈だ。




こつこつ。



眠りに落ちる前の一瞬の隔絶のようなところで、指の背で固い木の扉を叩くようなノックの音を聞いている。

その音が聞こえた途端にざっと冷たい汗が背中を濡らし、扉の向こう側にいる何かに、ここにいる事を絶対に知られてはならないような気がした。



ここはどこだろう。



(……………ディノ、……………アルテアさん、)


その名前を心の中で呼んではいるけれど、扉の外に何かがいるので声を上げる事が出来ない。

そう考えかけてネアは、けれども扉はおろか、霧に包まれたように何も見えないのに、どうして自分はそんな事を思うのだろうと目を瞠った。



“……………走ろう。まだまだ、……………まだ、…………いいや、まだ走れる。………どこ迄も”



不意に、そんな呟きが聞こえた気がした。

まさかと思いぞっとしたけれど、その声には苦痛も嘆きもなく、自分でもよく分からずに呟いているような平坦さで、その起伏のなさが例えようもなく狂っている気がする。



(まさかそんな。だって、まだアルビクロムにいる筈なのだわ………それなのに、どうしてここに?!)



“可愛い愛し子達の守護に繋がるところまで走ってゆこう。……………どこかに近しいものがいて、旦那様はもう少し走れば楽になるからと励まして下さった。…………だが、この道に繋がるのは果たして、あの雪の国で良かったのだろうか”


ネアが、この隙にと何とかここから逃げ出そうとしていても、良くない眠りに誘う泥水に沈むように体が重い。

すると今度は、穏やかな声から一転し、刺すような冷気を帯びた誰かの声が重なる。



“これは素晴らしく良い物を見付けた!この足を使えば、使いに出される筈だった鷹の印の屋敷へ漸く向かえるのだろうか。……………ああ、何と長い待ち時間だった事か。預けられたこの奇妙な荷物を、やっと下ろす事が出来る。この荷物はあまりにも冷たくてかなわん。一刻も早くこの荷物を手放したかったのだ”


こつこつと、また誰かがノックをする。

ネアは、扉の外にその荷物を持った誰かが立っていそうで、上手く動けないままに何とか後退ろうとした。


怖い。

そう思いかけて首を振る。

いいや、何かが取り返しがつかないくらいに狂っていて、悍しくて堪らないのだ。


ただ一つ分かっているのは、届けられた品物だけは決して受け取ってはならないという事だった。



“フェルディアード”



そして、最初の声とは違うその声が、今度こそ明確に誰かの名前を呼んだ。



“フェルディアード、届け物だ。さっきも呼び止めようとしたのに、お前は立ち止まらなかった。ここは見慣れぬ扉だが、……………やっと私は鷹の紋章の屋敷に、お前の屋敷に辿り着いたのだろう。フェルディアード、お前がそこにいるのは分かっているのだぞ?”



そんな人は知らないのだと、ネアは、せめて一歩でもいいから後退しようとする。

焦り慄く心とは別に、頭では、これが馬車がアルビクロムで取り込んでしまった何かの形だと考えていた。



(さっきと言うのはまさか、…………)



アルテアが手足を取られそうになったという、その時のことだろうか。

悪夢の中に囚われているかのように周囲を見回す事も出来ないけれど、アルテアやディノ達はどこにいるのだろう。


ディノが話していたように、アルビクロムの武器倉庫にあった何かを食べてしまった呪いの馬車が変化し、今回の一件の予兆に触れていたネアだけを取り込もうとしたのだろうか。



そんな事を考えながら、どうにかしてディノ達を呼ぶ方法を探した。

だが、相変わらず見る事も出来ない扉の向こうには誰かがいて、声を上げるのは最善の策には思えなかった。



(カードから呼びかけてみる?でも、……)



「誰だお前は?」

「……………っ?!」



その瞬間の恐ろしさを、どう説明すればいいのだろう。


ノックに応じたつもりはないのに、その声は確かに耳元で聞こえたし、振り返ろうとしたネアは間に合わなかった。

そうして、振り返る前に、何かが大きな手でネアの首をしっかりと掴んでしまったのだ。



(…………!!) 



ぐっと強く掴まれて持ち上げられ、驚愕と突然課されたあまりの苦しさとに、やってはならないと知りながらも手足をばたつかせてしまう。


「……………っ、ぐ」


自重が加わり、首が締まった。

生理的な涙が滲み、みしりと体が音を立てる。

幸いになのかどうなのか、ネアを掴んだ者はこちらをフェルディアードという人物と混同はしておらず、ネアが恐れた荷物を手渡そうとはしてこない。

けれども、そんな事を考える余裕もないくらいに、ネアはぎゅうぎゅうと首を掴まれていた。



「っか、…………っは、」


首を掴まれているので、声も上げられない。

だが、どこだかも分からない空間に閉じ込められたもやもやとした曖昧な感覚が意識を覆っていて、死に瀕した息苦しさですらも眠りながら死んでゆくような感覚に置き換えてしまう。


必死にもがいているのに、目を覚ませずに死んでゆくような苦しさと怖さに、もうこれは駄目だろうかと、絶望していると、ふいに身体が落ちた。




「…………っ、ごほっ!!」

「もう大丈夫だよ、ごめん、君が落ち込んだ層を見付け出すのに時間を取られてしまった」

「……………ごほっ、っ、…………えぐ」

「やっと見付けた」



目が霞んでよく見えなかったけれど、それは確かにディノの声だった。

無我夢中でその腕に縋り付いたネアをしっかりと抱き締め、震えるような息を吐き出している。



「に、…………にぐ、っ、けほっ、」


(荷物を、………その荷物を届けさせては駄目なのだ…………)



そう訴えたいのに、潰されかけた喉が上手く機能しない。


ディノの腕に守られたその向こうでは、わあっだとか、がしゃんだとか、身の毛のよだつような恐ろしい物音が聞こえてきていた。

よく聞けば普通に何かが争う音なのだが、なぜかそうした騒ぎや気配が例えようもなく恐ろしいのだ。



(……………あ、)



首筋に触れかけた手に、思わずぎくりとしたのが伝わってしまったのだろう。

手を引き戻し、ふっと身を屈めたディノが、首筋に口付けを落とす。

すると、ディノの腕の中に取り戻されてからも続いていた引き攣れたような痛みがふわりと抜け落ち、ネアは、苦痛による涙の気配の残る目を瞬いた。



「……………ディノ」

「うん。もう、どこも痛くないかい?」

「ふぁい………」

「………間に合えて良かった」



視界が鮮明になり、やっと澄んだ水紺色の瞳がはっきりと見えるようになる。

けれども、先程まで綺麗に整えられていた真珠色の髪は乱れており、どこかで一度くしゃくしゃになった魔物が、なんとか体裁を整えたばかりと言うような感じがした。


その姿にぞっとして手を伸ばしかけ、けれども今は何を優先するべきかを思い出す。



「ディノも、………い、いえ!まずは、……ディノ、あの訪問者の持ってきた荷物を、絶対に受け取ってはいけません!とても良くないものを持っているのです!!」

「…………君には、それが分かるのだね?」

「はい!アルテアさんは……」

「今、アルテアが訪問者の対応をしている。大丈夫、あの荷物は決して受け取らないよ。………君が、気付かずにそれを受け取ってしまっていたらどうしようかと思ったんだ………」


そう言ってネアを抱き締めた魔物は、心から安堵しているように思えた。

しっかりと抱き締められ、首筋に顔を埋められて感じる吐息の温度に、ネアは、漸く震えるような息を吐いて曖昧なまま飲み込んだ怖さを洗い流す。


それはまだ近くにいるけれど、もう大丈夫だと思えたのだ。



「…………アルテアさんは、大丈夫ですか?」

「うん。彼なら上手くやるだろう。………それに、今回の訪問は彼宛てだ。アルビクロムの倉庫にあったものは、アルテアが使っていた擬態の一つを標的にしていたようだね。………送り先は他にも幾つかあったようだが、エーダリア達の側にはノアベルトがいるし、ダリルはこの手のものへの対応は得意だろう。ただ、もしかすると、この国の王や王子達の元にも、配達人の誰かが訪れたかもしれない」

「…………配達人は、一人ではないのです?」

「今回は、たまたまあの馬車の持つ履歴と、アルビクロムの倉庫にあった物の中に閉ざされていた配達人の記憶が重なってしまったようだ。でも、取り込まれて目を覚ました配達人がその一人で済まなければ、他の者達もどこかを目指した可能性はある。この部屋以外にも配達があった場合は、全ての配送が動き始めたと見るべきだろう」



そう教えてくれていたディノが、ふと、どこかを見た。


その眼差しの冷淡さにぎくりとしたネアは、皆は大丈夫だろうかという恐怖をぎりりと噛み殺す。

しかしすぐに視線を戻したディノが、こちらを見て安心させるように微笑んでくれた。



「大丈夫だ。もうすぐ道が閉じるよ。この訪問を起こした災いの本体が失われた訳ではないけれど、この手の配達人は、最初の訪問を退けられれば侵食が叶わなくなる。………こちらが落ち着いたら、封印庫の様子も調べさせた方がいいだろうね」


そうして、その言葉の通り、やがてどこにいるのかも分からないような不思議な靄が晴れ、ネア達は先程の部屋に戻された。




「…………あ、」

「戻ったね。………うん、門も閉じている」



気付けばネアは、部屋の窓際の床に座り込んだディノの腕の中にいた。


ディノの髪はやはり乱れていて、頬に残った僅かな痕跡は、もしや傷を負った名残だろうか。

カーテンの一部がずたずたに引き裂かれ、先程までネアが座っていた筈の椅子が床に転がっている。

だが、テーブルの上の茶器などは何ともなっておらず、そのアンバランスさに背筋が寒くなる。



そして、部屋の入り口近くには、こちらに背を向けてアルテアが立っていた。



「……………アルテアさん!」



ネアが思わずその名前を呼んでしまったのは、見慣れた筈の後ろ姿に、ぞっとするような疲労感を見たからだ。


漆黒のスリーピースに雪のように白いシャツが、この部屋を背景にした空間からくっきりと切り抜かれたように鮮やかで、だからこそ、そこに滲んだ真紅の色は見逃しようがない。

どれだけの怪我をしたのだと慄いたネアの声に、その肩が揺れ、ゆっくりとこちらを振り返る。



「…………っ、」



ネアは思わず、ぐむっと唇を噛み締めてしまった。

アルテアは、ひどく前髪を乱しており、片側の目がなぜか、下された前髪で不自然に見えなくなっている。

表情の剣呑さはぞっとする程に魔物らしい残忍さに彩られていて、赤紫色の瞳は暗がりで燃える篝火のよう。



「……………ネア、……………無事だな?」


けれども、その眼差しは真っ直ぐにこちらを見ていて、そこにあったのはどこか真摯な問いかけであった。


「………は、はい!ディノが、助けてくれました。でも、ディノもきっと、どこかを損なった筈なのです。アルテアさんは、………」



そう答えると、赤紫色の眼差しにはっとする程に強い安堵が落ちた。

アルテアがここ迄の心の動きを見せたのは、久し振りな気がする。 


「アルテア、取られたものはあるかい?」

「…………いや、傷を付けられただけだ。…………シルハーン、こいつは大丈夫なんだろうな?」

「うん。この子はね、…………運ばれてきた物がよくない物だと、なぜか分かったようなんだ」

「……………リモワの小箱だぞ?」

「それでも、ネアには何かが感じ取れたのだろう。応じずにいてくれたお陰で、配達人に襲われかけたもののそれだけで済んでくれた。………けれど、それだけでも、到底許し難い事ではあるけれどね」

「……………今回は俺の責任だ。…………だが、…………くそ、よりにもよって馬車に配達物か」



吐き捨てるようにそう言い、こちらに歩いてきたアルテアはもう、寸分の隙間ない整えられた装いに戻っている。

髪は乱れてはいなかったし、先程まで隠れていた片目もきちんと見えている。

でもネアにはなぜか、その瞳のどこかが、訪れた者によって損なわれたのではないだろうかと思えてならない。


無言でそっと頬に触れられ、ネアは、もうどこも何ともないのだと示す為にきりりと頷く。


「…………は!そうでした。………ディノ、傷薬を飲みましょうね」

「……………ご主人様」

「まぁ、なぜ震えてしまうのです?ディノだって、きっと怪我をしたに違いありません。私の目は誤魔化せませんよ!」

「……………ネアが虐待する」

「な、なぜなのだ。傷薬を飲めば、気付かない損傷箇所があっても治せるではありませんか!体を大事にして下さい。アルテアさんもです!!」



荒ぶったネアは、涙目の伴侶や、ぎくりとしたようにその場から離れようとしたアルテアにも、無理矢理傷薬を飲ませてしまい、他の者達の無事を確かめる為に隣室に移動する。



「ネア、無事だったかい?」

「ノア!………エーダリア様とヒルドさんも無事です!」

「ネア様達の方でも、異変に気付かれましたか。………ダリル、その様子では配達人が来たのは間違いありませんが、こちらは大丈夫そうですね?」

「何とかだけれどね。手持ちの迷路の固有術式を、二つも破棄する羽目になっちまったよ。リモワの小箱とはまた厄介な積み荷を増やしたもんだ。………ディノ?」


どうやら、皆の元にも配達人が来たらしい。

この訪れは、馬車そのものがまだウィーム領に入っていなくても、ヴェルクレア国内で運送に乗ったという事実により、小箱が持つ魔術が発動してしまった事によるのだとか。



「宛先の中には、この国の王や第一王子の名前もあったようだ。あの荷物の所有者は、大勢の者達にリモワの小箱を送りつけようとしたみたいだね」

「…………すぐに王都に連絡を取るよ」


ディノの言葉に、初めてと言ってもいいくらいにダリルが青ざめ、ネアは驚いてしまった。


すぐさまダリルが王都の弟子達に確認を取り、その答えがこちらに聞こえて来る迄の僅かな時間が、どれだけ怖かっただろう。

エーダリアも真っ青になっていて、ダリルとウォルターの会話からヴェンツェルが無事だと分かると、力なくしゃがみ込んでしまっていた。



「王と、第一王子は無事だったよ。だが、国王付きの護衛が七人、第一王子のところでは下位の代理妖精と従者と侍女が一人ずつ、加えて偶々居合わせた城の文官の二人が命を落としている。また、それとは別に王都で不審死を遂げた者達が二十人余りいるようだ。そちらは、恐らくあの王が、身代わりの術式を敷いていたんだろう。…………合意の上かどうかは怪しいものだけれどね」

「ヴェンツェルは、契約の竜と一緒だったんだな?」


そう尋ねたのはアルテアで、ダリルは眼鏡を掛け直しながら頷いた。


「そのお陰で、生き延びられたんだろうよ。それでも、代理妖精が一人死んでいる。自陣を切り崩したくないあの王子からしてみれば、望ましくない犠牲だろうさ。…………それにしても、流石と言うかやはり恐ろしい男だと言うべきか、この中で身一つで乗り切ってみせたのはバーンディア王だけだ。それが身代わりの術式によるものでも、早々出来るもんじゃないよ」

「………ああ」



その異変が起きたとき、国王の側にはよく王宮を訪れる人外者達はおらず、次々と護衛の騎士達が倒れてゆく様は壮絶な物だったという。


国王と次期国王と言われているヴェンツェルの周囲で起きた事件にヴェルリアの王宮はちょっとした騒ぎになったが、とは言え要人の犠牲者が出なかった事で、事なきを得た。



「ウィームで送り先とされたのは、私とエーダリアだね。ヒルド、そちらはどうだい?」

「封印庫の方には異変はなかったようですね。ただ、魔術的な変異の兆候があったので、そちらは邪魔にならないようにと封じてしまったそうですよ。あちらも、さすがというか、どこ迄を可能とするのかと思わせる者達ですね………」

「まぁ、このウィームの封印庫の中にも、非ざる物とされる災厄が幾つか眠っているんだ。それを管理する連中らしいと言えばそれ迄だけれどね。…………ネアちゃんの方は、大丈夫だったかい?」

「は、はい!」

「そりゃ良かった。今の訪問は、こちら宛だ。それに巻き込まれてネアちゃんが怪我でもしたら、どうディノを鎮めるかで大変な事になるからね」

「…………む。そう言えばこちらに来たのは、……」

「あれは、俺宛てだ」



アルテアがそう言えば、ノアが茫然とこちらを見る。

ぎょっとしたように振り返ったヒルドとエーダリアに、ディノは短く頷いただろうか。

そんなやり取りを見て、ネアは、エーダリア達が配達人がこちらにも来たのだとは思っていなかったのだと知った。


「シル、…………そっちにも来たの?訪問の際の隔離層は、個別にされる筈だ。ネアが、一人であの配達人に対処したって事だよね?」

「この子は、箱の異質さを感じられたようだ。箱そのものには損なわれていないよ。だが、受取人を探していた配達人が、見付けたこの子を縊り殺そうとはしていたようだ。あれもあれで、祟りもののようになりかけているのだろう」

「…………へぇ。アルテア、その配達人は処分したのかい?君宛ての荷物を持った配達人が、僕の大事な女の子を傷付けようとしたみたいだけれど」

「………当然だ。こちらの配達人は潰してある」

「そうしていなかったら、僕は、君をあの馬車に放り込んでくるところだったよ」

「…………む、むぐ。その箱的な物は一体何だったのでしょう?」



ネアが、ひんやりした部屋の空気に慌てて声を上げると、まだ少し不機嫌そうな顔をしたノアが、リモワの小箱について教えてくれた。



「テルナグアと同じように、名前を与えられ、どのような事をするのかも知られているけれど、どこから来るのか、どのような物なのかが誰にも分からない怪異の一つなんだ。贈り物や届け物の形で現れて、誰かに手渡される迄はそこに留まる。受け取った者はその小箱に食われて死ぬ。分かっているのは、その二つだけ。配達が完了して犠牲者が出ると、小箱はその場から消えてしまって、またどこかに現れる」

「ほ、ホラーです…………ぎゅ」



くしゅんと縮こまったネアは、窓の向こうから野外演奏会の音楽が聞こえてくることに気付き、目を瞬いた。


(…………そうか、) 


この得体の知れない物の訪問を受けていた時も、外の人々は、そんなことは知らずに演奏会を楽しんでいたのだろう。

そう思うと、ひどく不思議な気持ちになる。



「荷物を贈られる者と、その者と同席していた者達にしか訪れのない変異なんだ。…………けれど、こうして同時に複数の者にリモワの小箱の送り状を作った例は初めて聞いたね」

「魔術に明るくないアルビクロムの連中が手にしたから、そんな馬鹿げた事に挑戦したんだろうねぇ。おまけに、複数の宛先への配達が可能だと言うのは嬉しくない情報だよ。…………はぁ、支障のないところで犠牲者が出てくれていれば、箱も満足してどこかにいっちまうんだけど………。それにしても、送り状に迄目を通せたのは、さすが万象だ。小箱その物を目にすると目が潰れると言われているんだけれどね」

「退けるとしても、リモワの小箱だと判明した以上、何を標的としたのかを見ておいた方が良さそうだったからね」



アルテアは、リモワの小箱が武器庫に眠っていた事は知らなかったものの、鷹の紋章の話題に触れた時にふと、自身が身を置いている肩書の一つとの関連に嫌な予感を覚えたそうだ。

その直後にノックが響き、非ざる物の中からリモワの小箱に当たりを付けたらしい。


だが、不運にもその時、ネア達はみんな離れ離れにそれぞれの椅子に座っていた。

ぎりぎりで間に合わなかったのだ。



「ネア?」

「ディノも、目を………」

「大丈夫だよ。ほら、何ともないだろう?」

「むぐ、魔物さんの薬で、目の怪我用の点眼薬はないのですか?」

「…………ご主人様」

「ありゃ、何でシルがそんなに怯えてるのさ。ネア、もしかして、シル達に傷薬飲ませた?」

「む?アルテアさんにも飲ませましたよ?………もしかして、ノアやダリルさんもお怪我を………」

「わーお、矛先がこっちに向いたぞ………」




幸いにと言うべきか、残念ながらと言うべきか、ガーウィンの教え子や一人の枢機卿を含め、今回の配達の送り状に記された者達の中から被害者は出なかったと言う。


事件は王都とガレンを通して速やかに各所で共有されたが、リモワの小箱が引き起こした事件である事が前面に出され、ウィームにとって不利益な馬車の詳細な情報がそこに含まれる事はなかった。


また、国境を超えてアルビクロムに入った呪いの馬車が、アルビクロムの武器庫に危険物として封印していた呪物に触れ、それを活性化させたというのが国の正式な発表となり、アルビクロム軍部の過激思想を持った者達が、その呪物を使って国王までを含む国の要人達の暗殺を企てていた事までは公にされないようだ。


その代わり、責任者達は勿論のこと、内々に大規模な処分が下されるのは避けようがなく、アルビクロム領の軍部は今後厳しい自浄と改革を迫られるだろう。




そうして、問題の馬車の対処は、ウィーム領とガレンを統括するエーダリアに委ねられた。



何しろウィームを横断されると、次は王都だ。

海に面した王都で馬車がどう動くかと思えば、行き止まりの土地として、横断だけでは済まない恐れがある。

国としても、何としてもウィームで止めろという事であるらしい。


(とは言えこちらも、ウィームを横断させる訳にはいかないのだ)



だがしかし、どの受取人からも引き取られずに沈黙を保っているものの、呪いとしての階位を上げたばかりのその馬車には、リモワの小箱が乗せられている。

本当の災厄の到来は、これからなのだった。







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