21. その司教に出会います(本編)
「あら、アンセルム神父。その子が新しい迷い子なのね?」
「やぁ、ハーバー。可愛い子でしょう。困っていたら助けてあげて下さいね」
「ふふ、アンセルム神父が後見人じゃ、絶対にその機会がありそうね。レイノ、困った事があったら私達に相談してね」
「シスターハーバー、レイノと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
ぴょこんとお辞儀をし、レイノは自分なりに愛想のいい微笑みを浮かべる。
とは言えそれでも、アンセルム神父的には微笑み率二割くらいなのだそうだ。
お辞儀の仕方が勢い重視なのは、手に先程リシャード枢機卿に貰ったギモーブの箱を持っているからで、レイノにとってはこれが現在の守るべき至宝なのである。
シスターハーバーと別れ、美しい寄木細工の扉絵が並ぶ細い廊下を抜ければ、教会施設の主棟となる区画に入る。
その扉をくぐり抜けたところで、レイノはアンセルムに呼び止められた。
「ところで、レイノ。そろそろお菓子の箱をしまわないと、もうすぐビスクート司教のお部屋につきますよ」
「…………しまいます。ポケットに…………」
「入らないでしょう。ほら、僕が魔術の金庫にしまっておいてあげますから」
「なくなりませんか?それはもう、正当なる契約の対価として私のものなのです」
「レイノ、さては君は食いしん坊ですね?」
「…………む?」
レイノは、決して取り上げないという魂の約束の下、大事な小箱を取り上げて袖口の小さな水晶の飾りのようなものに物理的な問題を無視してぎゅむっと押し込んだアンセルムに、目を丸くした。
まだあまり多くを見た訳ではないのだが、これはとんでもない魔法ではないのだろうか。
中がどうなっているのかも知りたいし、装飾品となっているのなら、どんな種類のものがあるのかも知りたくて思わず凝視してしまう。
「………それと、この金庫については秘密ですよ。僕達、異端審問官は皆持っていますが、それ故に持っていることは秘密にされますから」
残念ながら、凝視し過ぎてしまったからか、こちらを見て眼鏡の向こうの菫色の瞳を細めたアンセルムに耳元でこそこそ言われてしまったので、魔法の金庫の謎については、また工房に帰ってから追求しよう。
カツーンカツーンと、靴音が高い天井に響く。
ウィームから来た司教の一人である、ビスクート司教の滞在している部屋に向かうには、十字型の教会の西棟を抜ける必要がある。
レイノ達は、ミサが終わり人気のないそこを歩いていたのだが、壁の一区切りごとに見事な彫刻の妖精や竜などが飾られており、床石のモザイクには宝石質な石材を使っているようで、下を見て歩くだけでも眼福な場所だ。
一日ほどここに解き放ってくれれば、楽しくあちこちを鑑賞するのにと、レイノはそわそわしてしまう。
今ではないことは分かるのだが、じっくり見てみたい美しいところがそこかしこにある。
(それにしても、一つの教区の一つの教会に、枢機卿がいて、外からやって来た司教が二人、そして実質この教会を取り仕切る筆頭司祭に、教区そのものを治める司教もいるだなんて…………)
これでいて、同じ領内に中央となるべき教会は別にあるというのだから、この世界の教会組織の説明図が欲しいところだ。
生まれ育った世界の教会の知識がかえって理解を妨げている可能性もあるが、なかなかにややこしい。
そんなことを考え、こっそりと天井画を見上げたり、柱の彫刻や小さな祭壇に飾られた薔薇の美しさにうっとりしたりして、忙しなく視線をあちこちに向けていた時のことだった。
「まぁ、アンセルム神父」
軽やかな少女の声が聞こえ、おやっと視線を前に向けると、見たこともないような美しい一団がそこにいた。
思わずまじまじと眺めてしまった一団は、中央に立つ、けぶるような腰までの金髪に不思議な透明感を持つ檸檬色の瞳をした美少女が、真っ先に目を引くだろう。
濡れたような煌めきのある瞳は、凛とした佇まいの深緑色の聖衣姿でありながらも、大事に守ってあげたくなるような繊細な美しさだ。
レイノが思い浮かべたのは、初夏の木漏れ日の美しさで、それは少女の隣に立つ美しい女性にも当てはまる。
(………………妖精だわ)
生まれて初めて、妖精を見た。
何も言えなくなるのが当然であるし、出来ることならその美しい妖精の周囲をうろうろして、柔らかな布地を張ったようにも見えるのに不思議な生き物らしさを感じさせる妖精の羽にも触れてみたい。
他にも四人の男性聖職者がその少女を守るように立っているが、女性二人がぱっと目引くだけに、充分に麗しい美青年達の華やかさは、少しばかり霞んでしまうようだ。
何と眩い一団だろうと思っていると、どうやらアンセルムは彼等と知り合いであるらしい。
「おや、ユビアチェ。お元気そうですね」
「ふふ、すっかりご無沙汰しておりました。ニコラウス様にご挨拶に伺う為に、半月程こちらを空けておりましたの」
「では、ユビアチェは、やはり中央教会に配属されることになるのですね?」
「ええ、恐らく。戻って来て早々に、あなたが新しい迷い子の後見人になったと聞いたのよ。私も、私のフリアーダもそれはもう驚いてしまって………」
そう言ってくすくすと笑うユビアチェという少女が、ちらりとこちらを見て、なんの感慨もなくその視線をアンセルムに戻す。
続いてレイノも挨拶をしようとしたが、なぜかアンセルムがそっと肩に手を乗せた。
(…………?今は挨拶をしない方がいいのかしら……………)
レイノは困惑して目をぱちりとしたが、とは言え空気は読めるので、挨拶は控えた。
前の一団が呆れたような気配を漂わせたので、ここは挨拶をしないのが正しいようだ。
「フリアーダにとっての僕は、頼りにならない弟分のようなものですからね」
「ごめんなさい、彼もきっと悪気はないのだけれど、あなたの事が大好きなのよ。これから私達は猊下にご挨拶にゆくのだけれど、その後で少しお時間をいただけるかしら?」
「うーん、………明日にでも発つということでなければ、明日にしてもいいですか?僕の迷い子は、今朝にこちらに呼ばれたばかりなんです。まだ一人にしたくありませんから」
アンセルムがそう言えば、ユビアチェは悲しげに眉を下げ、隣に立った美しい妖精がそんな少女をすかさず抱き寄せている。
慈愛に満ちた美しい光景に、若干扱いが悪いと自覚しながらもレイノは胸が熱くなった。
眼中にない風の扱いをされたくらいで、初めて見る妖精への感動は揺らがないのだ。
(なんて綺麗なのかしら。瞳の色が淡い金色で、髪の毛と羽が透けるような若葉色だなんて。きっと、森や植物の妖精だと思うけれど、お友達になれたりはしないかな………)
うっかり実物を見てしまったせいで、レイノの心の天秤は、がたんと妖精に傾いた。
こんなに美しい生き物が仲良くしてくれたなら、きっと毎日が楽しくなるに違いない。
出来れば、こんな雰囲気の儚げだが凛々しい美貌の女性にお願いしたいと、胸の中いっぱいに希望が膨らむ。
元々架空の生き物としての認識が強いので、そちらからの心象があまり良くなさそうでもさして響かない。
「アンセルム、ユビアチェはお前に会うのを楽しみにしていたのだぞ?」
「おや、そうなんですか、ユビアチェ?」
「……………アンセルムは、あまり工房から出てこないのだもの。夕食はどうなさるの?その迷い子は、修道院に預ければいいでしょう。あちらのシスター達は、あなたが頼めばどんなお願いでも聞き入れてくれるわ」
(おや、……………)
もしやこの綺麗な少女は、アンセルム神父のことが好きなのだろうかと、レイノは首を傾げる。
すると、こちら見たアンセルムが、困ったような優しい微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、さすがに初日に君を一人にはしません」
「いえ、いきなり一人で修道院に預けられると、人見知りの心は死んでしまいますが、お部屋でお留守番をしていても良いのなら、喜んでそこでごろごろしています。綺麗なお嬢さんからのお誘いなのですから、ここは張り切ってお出かけして下さい」
異世界に迷い込んだ初日とは言え、食べるものと自由時間さえ与えておいてくれれば、若者達の恋に理解のない大人ではないのだ。
上手くやり給えと頷いてみせると、なぜかアンセルムは捨てられた子犬のような顔をするではないか。
「…………レイノは、私のことはあまり好ましくありませんか?」
「…………想定される回答の中で、最も対処に困る問いかけをしてきましたね。強いて言うなら、まだご紹介を受けて半日も経っておりませんので、ほぼ他人な後見人でしょうか。そしてほぼ他人ではありますが、綺麗なお嬢さんからの…」
「レイノ、僕は君の後見人ですし、これは僕に与えられた義務でもありますからね」
「…………その、私がご忠告することでもありませんが、お仕事に忠実過ぎると婚期を逃してしまいますよ?」
(恋愛の指南書を読んでいたくらいなのだから、そのようなものを望んではいるのよね………?)
ここは大人として、時には若者を諭さねばなるまい。
というのは勿論建前であり、ネアハーレイとしては、出来れば一人で現状の整理をしたり、あの部屋の本を読み漁ったりする自由が得られるのなら、是非にその機会を逃したくないのだった。
「……………レイノ、君は困った迷い子ですね。とは言え、君を理由にした僕も狡いやり方をしました。…………ユビアチェ、今夜はこの子から離れるつもりはありませんので、時間があればまた明日にでも」
にっこり微笑んだアンセルムは、よりにもよってな断り方をしてしまい、レイノは憧れの美しい妖精から、薔薇の葉についた虫でも見るかのような冷ややかな目で睨まれることになった。
寧ろ、後半の断り文句の方が余程やめていただきたいやつだと、レイノは渋面になる。
「…………それでは仕方ありませんね。明日のミサでは、まだ棟外後見人を持たない彼女は、後ろの席になるでしょう。アンセルムはこちらですから、その時にお茶でもしましょうか」
声音も表情も可憐なままだが、ユビアチェは微かな棘を忍ばせた言葉でそう言い、微笑んで頷いたアンセルムにだけ微笑みかけると、その一団は歩み去っていった。
満足に挨拶も出来なかった上にいらない恨みも買ったに違いないが、妖精の後ろ姿を見るという願いを叶えたレイノは、比較的穏やかな心持ちになる。
(羽の付け根はきらきらしている………!そして、服のその部分はあんなにぴったりと切ってあるのだから、羽は折り畳んで引っ張り出すのかしら…………)
「ご挨拶をしなくても良かったのでしょうか…………」
「ユビアチェは、準聖人の扱いになります。向こうが命じないのにご挨拶をするのは、不敬となりますから。…………そして、彼女は少し気難しい子供です。レイノ、気分を悪くしないで下さいね。ユビアチェは、清廉無垢に見えてなかなかに我が儘ですが、手の込んだ悪意を扱えるような子ではありません。見えていること以上には害はないので、安心して下さいね」
準聖人に対してはあんまりな評価だが、レイノは妖精を見られたので損失ではないと判断し、アンセルムに頷いた。
「………と言うことは、明日のミサの後は、お部屋でごろごろ……」
「出来ませんよ。明日のミサの席は、棟外後見人の方はまだ決まらないでしょうから、恐らく猊下のお席の隣です。とは言え今は、公言出来ませんからね」
「…………アンセルム神父、その扱いは私の穏やかな未来計画を殺してしまいませんか?」
「はは、確かにそう思うかもしれませんが、猊下のやり方にもそれなりの理由がありますから、………これは、部屋に帰ってからお話ししましょう」
ふっと、唇に指先を押し当てられ、体を屈めて微笑むアンセルムに、レイノは微かに目を瞠る。
薄暗い聖域の中で、長身のアンセルムが屈めばその表情はどこか不穏さも感じるような影になっていた。
そんな中で、光を孕む宝石のような不思議な青さを重ねた菫色の瞳は、ぞくりとするような鮮やかさだ。
(これはまさか……………)
レイノに言い聞かせて満足したのか、アンセルムはすっと姿勢を戻して隣に立つ。
そんなアンセルムの横顔を見上げ、レイノは内心小さな溜め息を吐いた。
(……………これは、初めてペットを飼う人が、家に来たばかりのペットに夢中になる図だわ………)
執着の色合いは、色恋のそれではなく、ましてや教官としての責任感ですらない。
人付き合いが不得手なレイノにも言えたことではないが、人間同士の執着というよりはやや所有物寄りの執着めいたものを感じる。
自分が飼われる側の想像は気に食わなかったので、頭の中で、玩具を貰ったばかりの大型犬を思い浮かべ、レイノはふむふむと頷いておいた。
「…………何となくですが、僕の迷い子は酷い想像をしていませんか?」
「アンセルム神父は、大型犬でもしなやかな体の長毛種ですね!」
「………………犬」
悲しげにそう呟いたアンセルムが、歩みを止めた。
悲しくて立ち止まった訳ではなく、目的の部屋の前に着いたのだ。
(……………この部屋には、衛兵の人達がいるのだわ)
こちらの区画の絨毯は、ふくよかな琥珀色だった。
この世界の特徴とも言えるのだが、普段はあまり意識しないような色彩までもが、何とも豊かで鮮やかで美しいと感じる。
この廊下に敷かれた琥珀色の絨毯も、指先で撫でてみたくなるような絶妙な色彩と織り模様に、もっとじっくりと見てみたいものだった。
しかし、正面の扉の左右の柱の前には、ぎらりと光る銀色の槍を構えた、砂色の聖衣を纏う聖職者風の衛兵のような者達が控えている。
左右それぞれに三人ずつという周到さではあるが、要人の部屋であればこのくらいは当然の警備だろう。
先程の枢機卿の部屋が異質だったのだ。
「アンセルム神父と、迷い子のレイノだな」
「はい。レイノは本日現れた迷い子ですので、ビスクート司教様にご挨拶に伺わせていただきました」
「筆頭司祭殿より話は聞いている。きっかり五分までだ」
「…………おや、思っていたより短いですね。レイノ、急ぎご挨拶してしまいましょう」
「はい」
交差させていた槍を持ち上げて貰い、一人の教会兵が扉をノックしてレイノ達の訪問を告げると、扉を開けてくれた。
左右から一人ずつの衛兵がレイノ達の両脇に付き、訪問者だけでは謁見を許さない方針であるらしい。
「アンセルム神父か」
その部屋もまた壮麗で美しかった。
立派な執務机に着き、書類のようなものを確認していた部屋の主人が顔を上げ、こちらを見据えた。
(女の人だわ…………)
ビスクート司教は、琥珀色の聖衣を纏う美しい女性だった。
艶のあるチョコレート色の髪を結い上げ、この位置からでは断言は出来ないが、綺麗な青い瞳をしているように見える。
年齢で言えば、四十代後半くらいだろうか。
有能だが冷酷でもある女帝めいた雰囲気を纏い、レイノは意識して表情を引き締めた。
あの枢機卿の言い方では、どちらかの司教を捕まえてこいというような気軽さであったが、これは難敵ではないだろうかと怯みそうになる。
(他の領地から戻ったばかりの、少し不安定な立場の人だと聞いていたけれど、この人はもうこの部屋を立派な自分の領土にしているように思える。誰かの思惑で動くような人には見えないわ。………寧ろこのような人は、チェス盤の駒を動かす側の人だ…………)
「はい。静謐の図書館、夜の区画の司書をしております、アンセルムと申します。隣におりますのが、迷い子のレイノです」
「………これまで、迷い子の指名を断り続けてきた禁書官が頷いたと聞いて興味を引かれたが、…………何とも地味な迷い子だな。迷い子とは、その美しさもまた稀有なる資質と聞いているが。或いは、可動域が桁違いなのか?」
「いえ、提出させていただいた報告書が今夜にもお手元に届くかと思いますが、実は可動域も永遠の子供の領域でして…………」
「…………そのようなざまで、迷い子として使えるのだろうな?」
「ビスクート司教、レイノはとても利口な子供です。勿論、その可動域故に資質を問うことはあるでしょうが、僕がしっかりと育てますよ」
「……………ふん、その言葉が誠である事を祈るばかりだな。あの門からこのような迷い子が現れたとなれば、門の管理者達も不安でならぬだろうよ」
ここでビスクート司教は、ぞんざいに片手を振った。
退出せよという合図であるらしく、レイノには発言の許しは得られないようだ。
仕方なく丁寧にお辞儀をしておくに留め、出口に促す衛兵達に急かされて部屋から出る。
「………ふう。ビスクート司教は、お忙しい方なのであまりお話し出来ませんでしたね」
「……………はい」
「大丈夫、またご挨拶をする機会はありますよ」
実はレイノは、あのようないかにも女傑という雰囲気の人物と交渉せずに安堵していたのだが、アンセルムは落ち込んでいるとでも思ったのか、よしよしと頭を撫でてくれた。
(悪い人ではないのかしら…………?)
にこにことこちらを見ているアンセルムを見上げてそう考えかけ、やはりまだだと気持ちを引き締めた。
五分どころか三分にも満たない面会時間であったものの、ビスクート司教は、聡い目を持ち偽りや企みを見抜く人だと思えたのに、誰よりも会話をしている筈のアンセルムにはまだ、その印象に掴み所のない何かがある。
良くないものだとびりびりと肌で感じた枢機卿とはまた違う意味で、そのような不透明さも要注意なのだ。
(……………あれ、そう思うのになぜ、私はあの枢機卿が差し出したギモーブを、躊躇いもなく食べたのかしら?)
ふと、そんな違和感にレイノは眉を顰める。
自分らしくない振る舞いだと考えれば、この世界の人々は、レイノの目には見えない魔法を使う人達なのだと、背筋が寒くなった。
これからは、自分の行動を振り返って精査することも必要なのかもしれない。
そう考えると、目には見えない怖いものが空気中に漂っているようにも思えて、レイノはアンセルムに気付かれないように、ぶるりと身震いした。
「さて、次はデュノル司教ですね」
「その方は、ウィームの音楽の街からいらっしゃったのですよね?」
「ええ。ザルツにある由緒ある伯爵家のご子息で、正式な肩書きは神官にあたりますが、教会に滞在されている間は司教という肩書きになりますから、そこも忘れないようにして下さいね。こちらに来た理由はあれこれ取り沙汰されていますが、ビスクート司教とは違う意味で扱いの難しい方かもしれません」
「……………そうなると、そのお二方の中から、後見人を選べると思えないのですが…………」
「うーん、確かに猊下のご意思に添う形で成果を上げるのは難しいかもしれませんね。その場合、ビスクート司教を買収するのが一番かもしれません………」
「買収、…………でしょうか」
「ええ。猊下の思惑もそこにあるのでしょうが、庇護や後見というのは切符のようなものです。多く集めておけば、それだけ労なく遠くへと足を運べる。ある種、策を巡らせれば得られる安全ですからね………」
穏やかな口調で語られる聖職者らしくない内容に、レイノは、そう言えばこの人は異端審問官でもあるのだと考える。
であれば、信仰に背く者を捕縛したり裁いたりもする、恐ろしい一面もあるからこそ、このような視点で物事を眺めるのだろうか。
(そしてその切符はもしかすると、私の為のもののようにしておきながら、リシャード枢機卿が手にしたいものなのかもしれない………)
二人はそのまま聖堂の西棟を引き返すと、今度は東棟に向かう。
何とも面倒な行程だが、デュノル司教はビスクート司教よりは階位が下がるので、こちらから訪問せねばならなかったのだ。
薔薇の花の咲く美しい中庭を抜け、レイノは、この教会には幾つの中庭があるのか後で地図を見てみようと考えた。
雨は上がったようだが、空はまだ灰色をしていて、この教区の外に出た冬の情景はどのような感じなのだろうと不思議な気持ちになる。
デュノル司教の部屋に向かう廊下は、深い瑠璃色の鉱石を使った美しいところだった。
それぞれの区画に色彩があり、こちらは青を基調としているようだ。
(…………不思議だわ。深い青色なのに、海や湖ではなくて、ここは夜の森を思わせるのだわ……………)
青白く立ち並ぶ円柱は、まるで樹氷のようにも思え、夜の森に降り注ぐ月光を肌に感じてしまう程に、その色彩は深い。
扉の前にはやはり衛兵がいたが、その衛兵達はどこか無機質な面立ちだった。
陶器の人形に武器を持たせて命を吹き込んだようで、美しい面立ちではあるが、温度がないように感じるのだ。
「デュノル司教にご挨拶に伺いました」
丁寧に一礼しそう挨拶をしたアンセルムに対しても、衛兵達は声なく一つ頷き、構えていた剣を下げて扉を開けるばかり。
あまりにも機械的なので、その隣を歩き抜ける際に思わずそちらを見てしまったが、近くで見れば人形らしさに合わせて生き物としての温もりも感じるのが、より驚きであるような気がした。
通された部屋はとても広く、今迄に訪れた枢機卿や司教の部屋に比べて天井が高い。
中庭に面しているのか、大きな窓が印象的だった。
「デュノル司教、アンセルムと申します。本日は、保護されたばかりの迷い子、レイノを連れてご挨拶に参りました」
(……………なんて綺麗なのかしら)
夜の光を紡いだような紫紺の絨毯を敷かれた部屋は、内装などの一切の装飾を削ぎ落としたような美しいところで、レイノは密かに感嘆する。
造形については流麗な細工がそこかしこに施されているのだが、その全てを青みがかった白色に統一しており、さらさらと風に揺れるカーテンもその色彩の領域にある。
ああ、これは廊下からの夜の森の続きなのだと感じ、レイノはほうっと息を吐いた。
聖域らしい静けさは嫌いではなかったが、ここは、存在しない筈の夜の森の豊かさが胸の奥に染み入る程に堪らなく麗しい。
教会が神と人間の領域なら、ここは、もっと原初に触る人ならざる者達の領域ではないだろうか。
「…………筆頭司祭から聞いているよ。銀白と静謐の教区では、迷い子がこのように訪れるものなのだね」
立ち上がって窓辺に佇んでいたデュノル司教が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
緩やかな巻き髪になった淡い水色がかった髪を腰まで長く下ろし、その瞳ははっとするほどに澄んでいる。
聖衣は教会の司教というより、やはり神官としての趣きが強いようだ。
とは言え、事前にアンセルムから聞いていたように、貴色とされる白で統一した装いは聖職者とは言え禁じられているらしい。
きっと白が似合うのにとなぜかレイノは思ってしまったが、最も暗い夜明けの色のような濃紺の聖衣に真っ白な飾り布の装飾は、この司教のぞくりとするような美貌によく似合っていた。
(あ、………………)
その人がこちらを向いた瞬間、レイノはなぜか、ああ、待っていたのはこの人だと感じた。
何がどうしてそう思うのかは分からなかったが、この人はきっと自分の人生とは無関係ではない人なのだと、そう確信したのだ。
「はい。迷い子の門から教区を訪れた迷い子は、レイノで十一人目になります。こちらにいらっしゃってから、迷い子が訪れるのは初めてですね」
「…………ふうん。……もう少しこちらにおいで。来たばかりの迷い子を見てみたい」
そう言われ、アンセルムに促されたレイノは、デュノル司教に歩み寄った。
(美しい人だわ……………)
ぞくりとする程に美しい男性だ。
けれどもそれは、リシャード枢機卿のような温度のある冷たさの仄暗い美貌とはまるで違う、雪景色や樹氷のその自然の美しさが儚くも苛烈であるような美しさで、人間の手で触れることが叶わないような絶望にも似た美貌である。
温度のない酷薄な瞳がこちらを見れば、それだけで拒絶されているような感覚にもなるのに、もっと近寄りたいと思ってしまうのは何故だろう。
「レイノと申します、デュノル司教様」
「……………おや、私と同じような瞳の色をしているのだね」
「瞳の………………あ、」
挨拶をしたレイノに、ふつりとデュノル司教が微笑んだ。
その瞳の色は今のレイノと同じ色で、微笑みの温度を乗せたデュノル司教の表情はがらりと色を変え、はっとするほどに柔らかい。
それは、深い深い森の奥にある、美しい湖のように。
「こちらに迷い込んだばかりで、不自由なことはないかい?」
「まだ分からないことの方が多いので、何が足りないのかすら、私は知らないのだと思います。ですが、見ず知らずの私を保護していただき、更にはお部屋をいただいたりと、良くしていただいていることには感謝しております」
「迷い子は、聖人候補でもあるから、教会側は君をとても大切にするだろう。その上で、何を選び何を選ばないのかを、君は君の心に問いかけて決めなければならない」
「…………はい」
その言葉は優しくもあったが、同時に排他的にも思えて、レイノはなぜだかその冷たさを寂しく感じた。
距離ではない何かにまた一歩、もう一歩と踏み込んで、遠くからこちらを眺めているこの人をわしりと掴んでしまいたい衝動に駆られるのは、魔法で何かをされているからなのだろうか。
それともただ、特別にこの司教が気に入ってしまっただけなのだろうか。
「…………どうしたんだい?」
じっと見つめてしまったからか、微かな目を瞠ったデュノル司教にそう尋ねられ、レイノは慌てて頭を下げた。
けれども、後退しかけたところで、浅はかさという武器を使うのなら、こちら側に迷い込んだばかりの今日しかないのではと考え直す。
「………………デュノル司教様、実は今、棟外後見人になってくれる方を探しているのです。そのような方が必要だと伺い、ご挨拶がてらお願いをしようと思ったのですが…………」
「レイノ…………!」
慌てたように声を上げたアンセルムに、正面に立ったデュノル司教が片手を上げ、その動きを制する。
「いいよ、続けて」
静かにこちらを見た眼差しには、どこか愉快がるような、それでいてどこか突き放すような不可解な色が絡み合う。
それでいて、途方もなく美しいのだが、それはどこか、先程初めて見たばかりの妖精のような、人ならざるものの美貌の気配があった。
「是非とも、その後見人をお願い出来ませんでしょうか?」
「君は、私にその後見人になって欲しいのかい?」
「はい。デュノル司教様にお願いしたいです」
きっぱりと言い切ったレイノに、デュノル司教は僅かに唇の端を持ち上げる。
とは言えそれは微笑みではなく、冷ややかな審議の眼差しだ。
「どうしてだろう?君には、既にその教官がいるだろう。まだここを訪れたばかりなのだから、これからゆっくりと自分の好ましいものを選んでも良いのではないかい?」
「…………確かにそうなのかもしれません。ですが、自分でもなぜそう思うのかも分からないのですが、私はデュノル司教にお願いしたいと思ったので、恐らくこのような申し出は不敬とされてしまうのかもしれないと感じつつも、それでもこうしてお願いしてしまいました」
「……………困った子だね」
(あ、今度の微笑みには温度がある…………)
ふっと、そう微笑んだデュノル司教の微笑みに、レイノはなぜかその微笑みをとても悲しそうだと思った。
「デュノル司教様、レイノはまだこちらに来たばかりですので、教えられたことに対してあまりにも真摯なのです。どうか、ご容赦下さい」
「アンセルム、私は別に構わないよ。このような立場だから、ある程度の権限を持ってはいるものの、教区内部では遠巻きにする者達も多い。それを知らずに願い出るのであれば、いささか不憫だとは思わないでもないが、…………レイノ、それでもいいのかい?」
光を孕むような、水紺色の瞳の美しさに、レイノはこくりと頷いた。
すると、デュノル司教は初めて見るような柔らかな微笑みを浮かべ、それでは仕方ないねと呟く。
「では、私が君の棟外後見人となろう。であるならば、この子には色々と話しておかなければならない事もあるね。…………アンセルム神父、手続きの上で今夜の内に君とも話しておきたい事がある。明日のミサに間に合わせた方が良いだろうから、時間を作れるかい?」
「…………宜しいのですか?」
「おや、私はこのような存在だよ。望み欲する者がいるのなら、それに応えることも吝かではない。…………勿論、手を差し伸べるかどうかは私自身が決めることだけれどね」
(……………引き受けてくれた?)
ひたりと、冷たい汗が背筋を伝う。
アンセルムと実務的な会話をしている美しい司教を見つめながら、レイノは奇妙な達成感を感じていた。
(こうなる事は初めから決まっていて…………)
心の中のあの不思議な感覚の向こうで、そう呟く自分がいる。
(それでも、この人がこんな目をして微笑む姿を見ると、見知らぬ人のように冷ややかにこちらを見ると、胸が締め付けられるようでとても怖かった………………)
強張った息を吐き出し、広い部屋を見回した。
どこかに安らかで幸福だった場所に今すぐにでも帰りたいと思うのに、それがどこだったのかを思い出せないことが、悲しくてならなかった。




