馬車の通り道と削がれた紋章
エイコーンは海沿いの共和国で、近隣諸国の中では中堅どころの役割を担う国家だ。
議会制の国だが、府王と呼ばれる代表者は世襲制で、とは言え彼らには独裁的な権限はない。
府王は主に外交上の役割を担う者達で、王政が多い諸外国との交渉に立つ。
飾り物ではない実務を伴う役職であるので、共和国内の中央に王督府という小さな城を持ち、ある程度は恵まれた環境が約束されている。
だが近年になって、その府王の系譜で親族同士の争いが続いているというのが、専らの噂だ。
そのような騒ぎに至ったのは、府王が実務的な役職であった事こそが原因であり、議会の各部門ごとに府王候補者達との結び付きが出来た事で派閥争いのような状態に落ち込んだらしい。
当代が高齢となった府王には現在、五人の次期候補者がいる。
実務をこなす以上は才能が必要な仕事なので、必ず、候補者は府王の系譜から三人以上は選出されねばならず、残念ながらその代の子供達の出来が悪く養子を取って府王となった事もあったのだとか。
そして、その五人の候補者達の中の第二席と三席が、いよいよ府王の選出が近くなった近年になって、苛烈な削り合いを繰り返すようになった。
(人間とはわからんな。………二席と三席で蹴落とし合ってどうするつもりなんだ…………)
そして、学びを得る目的という建前で、議会への根回しの為に地方都市への視察に出かけた二席が乗った馬車が襲われたのは、一昨日の事であった。
「……………間に合わなかったか」
リーエンベルクで確認されたインク瓶の竜の予言が各所に周知され、それは勿論、あの会の会員達の耳にも入る事になった。
今回の調査を引き受けたのはグラフィーツで、勿論そうしたのには理由がある。
かつて、よく似た形をした災いに自身の歌乞いを脅かされたグラフィーツは、馬車と名の付く呪いや障りには、どうしても敏感にならざるを得ないのだ。
ましてや、そんな物がウィームを訪れるのであれば尚更だ。
相似性のある物は呼び合う事がある。
クライメル絡みではないし、予言に記された以上は避けようがないのは分かっていたが、今回の事件はどうも、大事になりかねないような嫌な予感がしたのだ。
インク瓶の竜の予言が重用されるのは、彼等が、記録や予言の領域から、時として世や国を震撼させるような恐ろしい事件や事故の予言を示すからなのだから。
森はしんと静まり返っていた。
けれどもそれは平穏の静かさではなく、ここにあった全ての命が失われた災いの後の静けさだ。
古く強い祝福を持った木々が薙ぎ倒され、べたべたとした黒いインクのような呪いの証跡が残された森の街道の向こうには、黒煙を上げている町があった。
これだけの被害が出ている以上は、あの馬車を襲った者達は必ず探し出されて断罪されるだろう。
この先の町の管理をしているのは、この共和国でも名のある議員の一人である。
ここはもう手遅れだと、踵を返して王督府に向かおうとした所で、じゃりりと森の落ち葉と小石を踏んだ音に振り返る。
「ほお、お前が動くのは珍しいな」
そこに立っていたのは、漆黒の装いの選択の魔物であった。
擬態もしていない白い髪と白い杖が、この訪れが魔物としてのものであると示している。
仮面の魔物でもなく、他の役割でもなく、第三席の選択の魔物としての訪問なのだ。
「………ご承知の上でしょうが、ウィームに馬車の形をした辻毒紛いの物が近付くのは、どうしても我慢がならないのでね」
「王督府に向かうつもりなら、そちらも手遅れだぞ。この国の連中は、それが取り返しのつかない悪手だとも気付かずに、襲撃事件の首謀者共を処刑しやがった」
「……………はぁ。何てことをしやがる。…………くそ、砂糖が少なくとも四皿は必要だ」
舌打ちをし、どの砂糖を食べるかの算段を始めた。
取り急ぎ、打てる手を打たねばと思ったが、これで前段階として出来る事はもうなくなった。
嫌な予感があっただけに、残されていた手札が愚かな人間の手で破り捨てられたのは、この上ない腹立たしさである。
(…………取り置きしてあった、海の聖女の砂糖にするか…………)
この手の呪いの鎮め方で最も効率的なのが、呪いの核となった者を殺した犯人を使って、核そのものを狂乱から覚まさせる方向で行う儀式だ。
寧ろ、呪いが濃密になってゆけばゆく程、壊れて歪んだ魂を鎮める為にはその方法しかなくなってゆく。
今回のような成り立ちの呪いは、最後に残るのが自分を害した者への執着なので、その鍵を使わなければ扉が開かなくなるのだ。
あれだけの祝福を宿した木々でさえもが薙ぎ倒されたこの森の状態を見れば、既にそのような状態に成り果てているのは明白ではないか。
それなのに、この国の連中は、よりにもよって、その最後の手立てを自ら葬ってしまったときている。
「………その様子を見ると、魂の方も喪失済みですかね」
「海沿いの国らしい処分の仕方だな。処刑の後にその亡骸を海に落とし、海の精霊共に、首謀者を含めた全員の魂を引き渡したようだ。念の為にそちらも追いかけたが、既に連中の腹の底だった」
「はは、………どうせなら、この国の中で走り回りゃいいでしょうに」
「同感だな」
魔術で構築した椅子を置き、そこに腰掛けると愛用の皿に砂糖を盛り付け、これもまた愛用のスプーンで食べ始める。
じゃりりと噛み締めた甘さは質の良い聖女から作った砂糖であったが、今はもう、その甘さを楽しむ余裕もない。
ただ、冷静な思考を保つ為に食べる砂糖だ。
「予言で記された以上は、ヴェルクレアまでは一直線だな。………何だ?」
「黎明での一件で、例の林檎の妖精におかしな縁付けをされちゃいませんか?」
「それはない。あいつは寧ろ、クライメルに同族の魔術領域を使われて激昂していたくらいだ。ウィームを損なう事については極端に嫌っている。伴侶の祖国がもうない以上、残されたルーツであるウィームを害する同胞も粛清するくらいだ。………それと、おかしな足踏みをやめろ」
「砂糖を食うには、これでも大人しく済ませている方ですがね。体を動かしながらが本来の食べ方ですから」
「あいつの前では、大人しく食っているだろうが」
「そりゃ、ネア様を見るだけで砂糖が旨くなるので、視線を揺らさないようにする必要があるからでしょう」
至極当然な事としてそう告げたのだが、アルテアはなぜか顔を顰めた。
使い魔として不愉快なのかもしれないが、だとすれば、こちらからすればそれは、こちらの領域の問題なのである。
「………さて、砂糖も食い終えた事ですし、俺はそろそろ国境域の土地の調整に行きましょうかね。あの辺りの国境から先は、かつてクライメルの遊び場だった土地なので、そこを通られるとだいぶまずい」
「…………グレーウェンがか?」
「おやおや、ご存知なかったんですか?」
アルテアに向けて苦笑すると、丁寧に魔術洗浄をかけたスプーンを首にかけ、最後にもう一度指先で撫でた。
今回のような、うっかり義手を傷付けかねないような仕事をする日には、薔薇結晶の大事な義手は使いたくない。
なのであれに準じる物を使っているが、やはりいつもとは少し手触りが違う。
目を閉じた。
はらはらと、はらはらと。
記憶の向こうで白い花びらが舞い落ち、歌う彼女の姿を思い浮かべ、果たしてこの先の手間が、自身の欲求に見合うかを少しだけ思案する。
だがやはり、ウィームへクライメルの魔術の残滓を少しでも載せた馬車型の災いが赴くのは、例えようもない不快さでどうにかしてそれは回避したい。
あの土地は、グラフィーツがたった一人の恩寵と過ごした大切な土地で、尚且つ彼女が愛した土地だ。
であれば、多少の不利益を被っても、それを出来るだけ損わせない調整は付けてやらねばならない。
“先生”
かつて、グラフィーツの事をそう呼んだ人間がいた。
そのたった一人と同じように、今は、気紛れにピアノを教えてやったネアが、そう呼ぶ事がある。
すると、こちらを呼ぶ声音の向こう側に、ほんの少し過去に持ち去られそうになっていたあの日の鮮やかさが蘇り、たった一人の歌乞いがこの名を呼ぶ声がもう一度聞こえてくるのだ。
だからこそ、あれは大事な子供であった。
グラフィーツに、グラフィーツの失くした唯一を今も与えてくれる、この上なく大事な子。
あの子供がこちらを見て先生と呼ぶ前から、グラフィーツの唯一の残した願いと、彼女を殺した呪いと履歴に連なるあの人間は、その影の向こうに、あの幸福な日々を蘇らせる窓であった。
だが今は、更にその足元や声の向こう側に、大事な恩寵との日々を探し易くなったように思う。
こちらも、望む糸の辿り方が上手くなったらしい。
であれば、多少アルテアが渋い顔をしようと、グレアムからそちらの趣味もあったのだなとしみじみと呟かれようと、あの少女をご主人様と呼んでやる事くらいさしたる苦労ではない。
ネアの事も気に入っていない訳ではないが、それはあくまでグラフィーツの恩寵ありきである。
だからこそ、既に自分の歌乞いにこの身の全てを手当たり次第にくれてやっておいて今更、それくらいのことを躊躇う理由もない。
あの会の会員という肩書を通行証代わりにして、今日もこうして、グラフィーツは自分の為に失われた過去を写す二つの鏡を磨き上げる。
偶然か必然かが重なりその贅沢さを望めるようになった今だからこそ、ウィームもあの子供も、どちらも損われる訳にはいかないのだった。
(俺の唯一の恩寵へと繋げてくれるあの子供なのだから、となるとやはり、彼女を食らったクライメルの魔術に損わせるのはやはり耐え難い………)
とは言え、ネアは彼女ではない。
ウィームもまた然り。
それならば、面倒さに耐え兼ねて捨ておけるだろうかと考える場面も何度かあったが、どうやらグラフィーツは、大事な恩寵の事となるともう、その面影の欠片一つたりとて手放したくはないようだった。
アルテアとはその森で別れ、グラフィーツが次に向かったのはエイコーンの国境域の街であった。
交易なども盛んな国の国境域の街は、それなりに賑わいがある。
とは言え、あの呪いの馬車の軌道上にあるので、今は人々の姿もなく、普段は国境域を警戒している騎士達や、中央から派遣された魔術師達がそれを迎え討つべく防壁を築いていた。
(…………ここ迄は、まだ来ていないのか。であればもう一つ手前の都市で進路を変えた方が良さそうだな)
最悪、この街を潰して進路を変えるしかないと思っていたのだが、国境域の街を滅ぼすにはやはり危険も伴う。
近隣諸国との均衡が崩れて戦乱に発展した場合は、その災厄からまた新たな災いが生まれる可能性もある。
その場合、この国と面した隣国の国境域は、どちらにせよクライメルの足跡が残る土地なのだ。
グラフィーツとて、出来れば国境の守りまでは崩したくない。
この国の為と言うよりは、後々の面倒を自ら増やすのは好ましくないのである。
しかし、であればと一つ手前の街に来たところで、なぜか茫然と立ち尽くしているアルテアに出会った。
そこには、リーエンベルクに暮らしている塩の魔物の姿もあり、こちらに気付くとおやっと眉を持ち上げる。
「ありゃ、グラフィーツも馬車の進路を変えに来たのかい?」
「その様子を見ると、終わったようだな」
「うん。幸運にも、僕の妹はさ、戸外の箒を持っているからね。それでささっと変えさせて貰ったよ。どうやら二人が心配したのもグレーウェンみたいだけれど、こっちでも、シルがクライメルの証跡には近付けさせないようにって関係情報を集めてくれたからね」
「…………戸外の箒か。まだそんな物があったとはな」
「あの手の物に標的と見做された場合は退ける事までは出来ないけれど、今回は進路を変えればいいだけだからさ」
「やれやれだな…………」
「ありゃ、アルテアはこれがあるって知ってたんだから、そこまで焦る必要はなかったんじゃないのかなぁ…………」
うんざりと顔を顰めるアルテアも、グラフィーツと別行動を取りながらも、馬車の進路を変えようとしていたのだろう。
そう笑って肩を竦めるノアベルトは、けれどもと静かな目で、問題の馬車が向かったとおぼしき方向を見る。
「予言の書き換えは難しそうだから、どちらにせよ迂回路からあの馬車はウィームに来るんだろう。このままだと、アルビクロムは武器庫側から侵入されそうだから、アルテアはもう一手打った方がいいんじゃないのかい?」
「いや、そちら側の武器庫は別の派閥の持ち物だ。一度ぐらい大きな損失を出させた方が、膿も出るだろうよ」
「へぇ。その調整もするんだ」
「魔術的な見地からは薄弱とされても、アルビクロムは一国として成り立っていただけの技術力は持つ国だ。有事を見越して秘密裏に蓄えられた軍事力は、ある程度削ぎ落しておいた方がいい」
そんなやり取りに、バーンディアが近しい事を企んでいたのを思い出した。
アルビクロムに侵入した災いが件の武器庫を破壊すれば、小踊りして喜ぶだろう。
「ウィームでは迎撃の準備は進んでいるのか?今回の物は、…………あまり好ましくない気配がする」
「え、災いと祝福を司る君が言うのなら、………どこかで余計なものを飲み込むのかな。アルテア、あの因果の顛末の方の精霊って、今はどこにいるんだっけ?」
「…………残念ながら、あいつは今は使い物にならん」
「…………え、もしかして、今は恋人がいる感じかい?」
「ああ。そいつが死ぬ迄は、殆ど引き籠りだな。どうせ、一年も経たずに摩耗して殺すだろうが、どちらにせよ今使えなければ意味がない」
(…………作家の魔術の作法を使っても、改変は難しいだろうな)
予言の魔術は、着地点を決めるものだ。
辻褄さえ合えばどうにでもなるという反面、着地そのものを変える事は出来ない。
つまり、あの馬車がウィームにやって来るという事実自体はもう、変えようがないのだ。
「………因みに、ウィームでも対策は進めているよ。ある程度の物であれ、祓い手は揃っているんだよね。でも、あそこまで育った呪いは天災みたいな影響を及ぼすからさ、全く影響が出ないという訳にもいかないと思うよ」
「…………だろうよ。であれば、ウィーム外殻のリングの祝福には触れさせん方がいい。あの祝福が歪むと、連鎖的に他の祝福にも影響が及ぶ」
そう指摘すれば、こちらを見たノアベルトが目を瞠った。
さては外周は潰すつもりだったなと首を振ると、情けない顔になるではないか。
「ありゃ…………。もしかして、一番外側でも駄目そうかい?」
「勿論だ。土地の魔術の祝福で円環が七重に描かれたのは、余分に見える七つ目も敢えて重ねる必要があったんだろう。ウィームの土地そのものにも、呼び起こさない方がいい災いは幾つも眠っている。折角、今は土地の糧になっている物を、余計な振動で掘り起こすような真似はしない事だな」
「はぁ。そうなるとやっぱり、ウィリアムにも手伝って貰わないとかなぁ。シルが、七本目を緩衝材にはしないで、もう少し外側を使った方がいいって話していたのは、その事だったのかなぁ。…………最近、ウィリアムばっかりあの子やエーダリアにいい所を見せ過ぎだと思わない?」
「知るか。何でこっちを見た」
「いや、アルテアも同じ気持ちかなって。でもまぁ、必要な魔術までを損なわずに済んで良かったよ」
そんなやり取りを聞きながら戸外の箒で掃き出された馬車の進路を視線で追えば、遠くの丘陵地の途中から、馬車が通ったと思われる漆黒の轍が続いていた。
薄っすらと立ち上る陽炎は黒く、周辺の草木は枯れ果てている。
しかしこの効果は、まだ新しい呪いらしい影響なので、もう少しすれば落ち着くだろう。
この若い呪いの反応が落ち着き、遅効性の毒や妖精の浸食性の魔術のような効果を得てからこそが、呪いや障りとしては階位が上がってゆく段階に入る。
恐ろしい呪い程にその歩みは静謐で、凡庸で、時には聖なるものの気配を装う。
例えば前兆や予兆で聖域の気配を落とす呪いは根が深く冷酷で、馬車型の呪いであれば、普通の馬車に見える程に静かに佇んでいたなら、決して近付いてはならない。
しかし、最も悍ましいとされるのは、テルナグアなどのような、得体の知れないもの達が空恐ろしい賑やかさで近付いてくる事だ。
大勢の笑い声や宴の音、舞踏会の騒めきなどが、凍えるような冷気や、ぽっかりと穴が開いたような空虚さを孕んで近付いてきた場合は、魔物であっても警戒せざるを得ない。
この世界の層ではないどこかから流れ着き、或いは彷徨い出てくるものの可能性があるからだ。
(…………一度だけ、その領域の中でも例えようもない程に悍ましいものを見た事がある)
それはこの世界の層のものではなかったが、かといって、旧世界の残り物かと言えばどのような確証も得られずに今日に至る。
グラフィーツの知る魔術層の上であれば漂着物に最も近いとも言えるが、であればいっそうに、あれが何だったのかを知るのは難しいだろう。
今のこの世界が、何層目の世界なのか。
それすら分からないのだから、かつての世界にどんな資質の者達が暮らしていたのかなんて、最早誰にも調べようがない。
ごく稀にこの世界に触れる者もいるし、漂着物のようにこちら側に残骸が上がってくるものもある。
だが、それはまだ、こちら側に入り込んだ異物に過ぎない。
もし、何かや誰かの行いが偶然に過去を繋いでしまった場合や、誰にも知られずにどこかに残っているものがあった場合こそが厄介で、それはもう、この世界の理にはない異形との遭遇だと思うしかないのだろう。
とは言え、目に留まる物ほどに大きければまだしも、こちらの目に留まらないような小さな欠片がどこかに眠っている可能性とて少なくないのだ。
もし、そんな物を、あの馬車が予言に見合うだけの災厄になる為に取り込むのだとすれば、想像するだけでも頭が痛くなりそうだった。
何しろ、既に悪夢で言えばハイダットに近い規模の呪いに育ちつつあるあの馬車は、まだまだこれから階位を上げてゆくところなのだ。
ここから更に壊れてゆくその道筋には、どこをどう通っても、近年戦乱で災いや怨嗟を貯め込んだ土地ばかりがある。
この世界の理にない物が現れやすいのは、育まれた文化や信仰が根こそぎ失われた跡地や、境界となる橋や水路。
魔術が潤沢な土地か、怨嗟や絶望で穢れた土地なども出現情報が多い。
「ノアベルト、直近で、テルナグアの目撃情報は出ていないな?」
アルテアも同じ懸念を持ったのか、ノアベルトにそう尋ねている。
その理由を尋ねる事もなく頷いたノアベルトは、テルナグアは、四か月前に南方の小さな港町で目撃されたのが最後だと話していた。
「なぁ、他にも幾つか該当しそうなものがあると思うんだが、そちらは調べないのか?」
「ありゃ、あったっけ?アルテア、グラフィーツが心配するような規模の物って他にある?」
「いや、テルナグアが上限だろう。この段階ではまだ、馬車という形態の縛りが残っている筈だ。馬車として取り込める大きさの物は、テルナグア迄だろう」
「………でも、そう言われると、その縛りがなくなった場合に何が可能になるのかも、想定しておかなきゃだね。…………ええと、馬車としての縛りを失くす場合って、アルテアならどうする?」
「これはクライメルの手法だから気は進まんが、形そのものを壊して煮込み直すか、或いは、……今回のような席次に執着した者の馬車であれば、家紋を潰すな。…………そうか、家紋か!」
「うわ。それだ!!おまけにまだエイコーン国内か。急いで追いかけないと!!」
後にも先にも、この階位の魔物が三人がかりで、まだそこまで呪いの階位の高くない馬車を血相を変えて追いかけたのは初めてだろう。
どれだけ悍ましい変化を遂げつつあったとしても、この馬車はせいぜい、予言を崩せない為に今ここで壊す事は出来ないという程度の呪いでしかない。
無残に潰えたものが、内側から呪いを育み自ら呪いであり障りである存在と成り果てた、転がり落ち始めたばかりの幼い悪夢のようなもの。
しかし、今回もまた、この国の人間の思惑が事態を悪化させていた。
「…………わーお。家紋がないぞ」
「くそ、またか…………」
「この国の連中は、馬鹿だけど優秀ではあるんだろうなぁ………。え、この短時間であの状態の呪いから、家紋を削り取るって凄くない?」
「…………はぁ。追加で三皿は必要だな」
「おい、まだ食うのかよ…………」
エイコーンの、当初の進路よりは幾分か西にずれた進路上で、既に黒いインクのような穢れは落とさなくなりつつある障りの馬車が、からからと車輪の回る音を立てて草原を走ってゆく。
音だけを聞いていれば普通の馬車と変わりないが、妖精馬達はすっかり骨になってしまっているし、御者台には大きく背中の曲がった男が、捻じれた羽を広げて蹲っているばかり。
そして、馬車の正面と後方にあった筈の家紋は、抉り取られたように消失していた。
(家紋を剥げば、万が一あの馬車が国から出ても、他国に追及されずに済むだろう…………)
また、一度国境を出てしまったのなら、この国に紐付く道標を喪ったあの馬車は、自力ではここに戻れなくなる。
大方、エイコーンでは、厄介な物をこのまま国外に押し出してしまおうという算段なのだろうが、正気だった頃の誓約の残る印を失った以上、あの馬車はますます制御不能になってゆくのは間違いない。
呪いの中に残されていた僅かな正気を、家紋と一緒に削ぎ落してしまったのだ。
そして、家紋を剥ぎ取られるという事は家格を持った者達にとっては追放措置以外の何物でもない。
この国の人間達は、あの馬車の呪いの階位をいっそうに上げてしまったのだ。
「あーあ、おまけに親族にやらせたね、これは」
「だろうな。血族を喰らえばより歪むのは当然だろう。後始末どころか、餌ばかり与えやがって」
「まぁ、こんな仕事は他にやりたがる連中もいないからさ、誰か、あの馬車に乗っていた人間が親しかったであろう血族に責任を取らせる形で、命と引き換えの作業をさせたんだろうけれど、………はぁ」
「もう後は好きにしてくれ。俺は、育てていた聖女の収穫に行くことにした…………」
「ありゃ、グラフィーツが脱落したぞ………」
「今の状態では、触るだけでも悪手としかならんだろう。力を削ごうとした結果うっかり崩壊させて、いつどこから現れるとも分からない二次派生となったら、防ぐ手立てすら失われかねん」
「……………まぁ、そうなんだよねぇ。この様子だと、ウィームに来るとしても来週の後半かな」
「足の速い物を食わなければだな」
「え、本当にそういう不吉な事言うのやめてよ。アルテアの場合、口にするだけで事故として招き入れかねないんだからさ」
「そんな訳あるか」
そう苦言を呈したノアベルトに、アルテアが眉を持ち上げるのが見えた。
そこに背を向け、色鮮やかな服を砂色のスリーピースに入れ替え、髪色は淡い琥珀色に変化させる。
義手は手袋で隠し、取り出した帽子を頭に載せて転移を踏んだままの足で石畳の道を歩き出せば、収穫までの間にすっかり顔馴染みになった近所の教会の神父が、笑顔で挨拶をしてくれた。
あの男は、時折この下町を訪れる変わり者の貴族が、緑の手の聖女と呼ばれる養い子を刈り取りに来たとは思いもしないのだろう。
最近は、肥料が足りていない畑もある。
そうなると、他にも、この地から刈り取りたい人間は何人かいた。
この土地の修道院に暮らす者達の中には、なかなかに砂糖向きの資質を持つ人間が多い。
(よく考えればこれもまた、人間にとっては災厄の一つなのかもしれんがな………)
こちらが人間達の愚行に頭を抱えていたように、収穫が終わってこの下町を去る頃には、今度は、人間達の方が、魔物の振る舞いに大騒ぎしているのかもしれない。
だがそれは所詮、心に留める必要もない者達のこと。
見過ごせない領域があるのと同じように、グラフィーツにはどうでもいい誰かの事なのであった。




