安息日と古い友人
祝祭明けの安息日の朝は、公園にもまだ人影がない。
ましてや昨晩はヴァロッシュの祝祭で、このウィーム中央にはウィーム領全域から騎士達が集まった。
そんな騎士達を応援したり、お目当ての騎士に会いに行ったり、古い友人との久し振りの再会を喜んだりして、人々はこの日の朝はゆっくり寝て過ごすのだと決めているのだろう。
昨晩は、夜明け近くまで人々が賑やかに過ごす様子があって、バンルは屋敷の窓を開けてそんな街の音に耳を傾けていた。
笑い声や歌い声、魔術比べをしているのか詠唱や舞踊のリズムを取る靴音まで。
楽器を奏でていたのは、ザルツからの客人達か、或いはウィーム中央にもある音楽院の者達か。
季節の祝祭もいいものだが、昨晩の祝祭は、ウィーム領民の為のウィームで行う祝祭だ。
そんな日を心から楽しまない筈もなく、誰もが少しばかり羽目を外して上機嫌に過ごしていた夜だった。
(いい夜だった。だからこそ、…………その余韻の静けさが落ちる朝は、素晴らしい)
幸いな事に、あの祝祭には特別な思い出がない。
そんな言葉を聞けば、それが幸いなのだろうかと首を傾げる者達もいるだろう。
だが、それはバンルにとってのこの上ない幸いであり、大事な大事な竜の宝が、騎士達の人形劇を見て笑い転げていた姿だけを思い出す事が出来る、幸せな一日なのだ。
(特別な思い出がある日は、良くも悪くも心が揺れちまうからな。…………何にも特別な事がなかった日こそ、こうして今のウィームの豊かさと幸福さを、ゆっくりと噛み締められる)
深い森や山々に囲まれたウィームの旧王都は、夏でもこの時間にはまだ朝霧が残っている。
冬が長く夏は短く、青空の日よりは曇り空の日が多い。
赤や黄色、橙などの色彩が少ない街並みは、やはり冬の系譜の色彩に恵まれているのだろう。
ふと、ヴェルリアで過ごした僅かな日々の中で、淡い水色が大好きなのに、この土地ではあまり歓迎されないのだと寂し気に呟いた同僚の姿を思い出した。
(あの男は、もう次の人生を送っているだろうか)
であれば今度こそ、ウィームに生まれているといいのだが。
統一戦争の中で、戦勝国の高位貴族に属しながらも、本当は画家になってウィームで暮らしたかったのだと涙を堪えていた気弱な男は、終戦と同時に軍からも国からも姿を消したと聞いている。
バンルは人間ではなかったので、彼がその直後に人知れず命を絶ったのは、何となく察していた。
心を与え全てを欲する程に慈しむのは、何も生き物ばかりではない。
あの男は、美しく清廉なウィームの景色をこの上なく愛しており、その国で心穏やかに画家として暮らしてゆくという夢が絶たれたと知った時に、己の心も殺してしまったのだろう。
統一戦争はこの街を大きく焼く事はなかったが、それでも略奪や破壊はあった。
街頭から明り取りの結晶石が失われ、数々の書物や記録、国旗などが焼かれたのを、バンルが忘れる事はないだろう。
また、そんな事をした者達はみな、この地に暮らす人ならざる者達の恨みを買い、長く生きる事は出来なかった。
踏み荒らされた花壇と、そこでさめざめと泣く妖精達を見て、あの男は狭い路地裏に蹲って顔を覆って泣いていた。
あの火竜と同じように、戦ごとに長けた大きな力と突出した祝福を持ちながらも、優しい優しい男であった。
「…………お前が、今度こそはここで暮らしているといいなぁ。…………いい土地になっただろう。エーダリア様が帰ってきてから、ここは、かつてのウィームとは違うにせよ、いい土地になった。…………もう大丈夫だからな。これだけの守護の堅牢さで滅びる土地なんざ、あって堪るか。…………だからもう、今度こそウィームに生まれてきていたのなら、安心して暮らしていいんだからな…………」
誰にともなくそう呟き、少しだけ微笑む。
ドロシーにもあの男の話をしたことがあったが、その時の契約の子供は、彼の描いた絵を見てみたかったなと話していた。
誰よりも手柄を上げざるを得なかったその男を責めず、不幸せな時代だったねと悲しそうに呟く優しい竜の宝だ。
確かあの日は、ドロシーが初めて毛玉を吐いた日で、こんな事は以前にもあったのだと遠い目をして語るドロシーを抱えて、血相を変えて魔獣専門の医師の家に飛び込んでいた。
(…………ドロシー)
ドロシー。
ドロシー。
ばさばさの温かな毛並みと、くしゃくしゃの優しい顔の最愛の子供。
その名前を、今日もまた心の中で呟く。
心は微かに痛んだが、最愛の子供を失った日のような鋭さではなく、どこか愛おしさと郷愁の念に似ている。
あの賢い竜の宝の思惑通りに、バンルは今でもそれなりに幸せに生きていて、こんな風に愛する土地の安息日の朝を過ごしている。
だが最近は、リーエンベルクの歌乞いや塩の魔物がウィームで暮らす姿を、あの大事な宝にも見せてやりたかったと少しだけ悔しい思いをする事もあった。
(……………いや、けれども)
例えそれが最善ではなかったにせよ、ドロシーは、幸せな最期だったのだ。
やっと忌まわしい戦いが終わったのに、大したことも望まずに二人でのんびり暮らしたいと話したドロシーの願いは、いつだって、この土地と共にある事だった。
バンルにそれを理解させてくれたのは、ウィームに着任したばかりのエーダリアが、真夜中にリーエンベルクの正門前に立って泣いているのを見た時だろうか。
あれは、せめてエーダリアの過ごしている部屋の明かりを見せてやろうと、ドロシーを肩に乗せて散歩に出た夜だった。
正門の前で、やっとこの場所に戻れたのだと呟き、蹲って小さくすすり泣いているあの王子を見た時、焼け爛れたローゼンガルデンの丘からウィームを見ているドロシーが、どうして幸せそうなのかが分かった気がする。
どれだけ無残でも、どれだけ奪われていても、もうかつてと同じ形ではなかったとしても。
それでも最愛の宝物なのだと安堵する心は、家族に囲まれた王宮で柔らかく微笑んでいた大事な王子が、毛だらけの足の短い猫になっても愛おしかったバンルの想いとさして変わらない。
だからきっとドロシーは、愛する祖国の復興の中で、最愛の甥っ子が漸くこの地に戻れた姿を見られたことで、満足して幸せに死ねたのだろう。
バンルの最愛の子供は、愛するウィームの腕の中で穏やかに死ねたのだ。
(…………ん?)
そんな事を考えながら歩いていたら、最近はもうすっかりウィームの住人になってしまった竜が、なぜか地面に顔を寄せて丹念に公園のベンチの下を調べているところに出くわした。
一瞬、何をしているのだろうと慄くしかなかったが、ここは、事情を聞いておいた方がいいのだろう。
何しろ彼は、リーエンベルクでエーダリアの妹のように暮らしているネアの、重度の信奉者の一人だ。
あんな奇妙な事をしているとなれば、リーエンベルクの歌乞い絡み以外には考えられない。
「…………リドワーン、何してんだ?」
恐る恐る声をかけると、この目で見ても充分に美麗な竜の王子が、ベンチの下から這い出してくる。
異様としか言いようのない光景であったが、生真面目な表情を見ている限り、彼は大真面目だ。
「…………む。…………バンルか、…………いや、昨日ここで野良下僕を捕縛したのだが、」
「野良下僕…………」
「ああ。皆で、なぜこの下に隠れてネア様を待っていたのだろうと、それが理解出来なくてだな。ご主人様をこっそり堪能する際には、物陰に潜みたくなるのは分かる。…………分かるのだが、なぜここだったのかを理解しておかねば、本当の意味で危険を取り除いた事にはならないだろう」
話を聞けば、理由はあってもやはり戦慄するような内容だった。
この公園はあの歌乞いのお気に入りの散策路ではなく、尚且つ、お気に入りの店々への経由地でもないらしい。
土地に不慣れな野良だったのかもしれないと呟くリドワーンに、思わず常識を言い含めたくなったのは、バンルだけではないだろう。
「いいか、物陰には潜むな」
「なぜだ?下僕として、陽の当たる場所などには出れまい。堂々とあの方を付け回したら、ただの不審者ではないか」
「…………堂々とではなくても、付け回したら不審者なのは変わらんぞ」
「はは、我々は密やかに生きる下僕だからな」
「…………すまんな。笑う所が分からなかった」
明らかに様子はおかしいが、何か事故や事件があった訳ではなかったらしい。
その事にほっとし、これで良かったんだと自分に言い聞かせる。
あちらの会の会員たちが、野良下僕とやらを密かに駆除しているのはいつもの事だ。
最初はそこまでしなくてもと思いはしたが、過ぎたる信奉者はその者の周囲に危害を及ぼす事がある。
エーダリアの安全にも繋がるのだと理解してからは、そちらの活動には口を挟まない事にした。
また、ネアというあの歌乞いは、どうも厄介な資質の高位者の心に響くらしく、的確に目障りな連中を掌握するか野良として排除出来るようになっていると気付いた時には驚いたものだ。
「ふぅ………」
自分なりに納得したのか、リドワーンが立ち去ったので、あらためて静かな朝を楽しむ事にした。
朝露を湛えた薔薇の花に、花壇の中に造られた澄んだ水を湛えた水盆には、小鳥たちや小さな妖精達が集まっている。
最近のウィームには高位の生き物達の往来が増え、特に、万象の魔物が幸せに暮らしているお蔭で、土地の祝福が強くなった。
それは、末端に属する小さな生き物達の暮らしやすさにも繋がるので、こうして街を歩いていても、祟り物などに触れてぼろぼろになった小さな生き物を見る機会は随分減ったように思う。
それは、土地が安定したという事ばかりではなく、あの歌乞いが歩けば祟りものを狩ってしまうからでもあるのだろう。
かといって、それで生態系のバランスが乱れるという事はなく、病変のような部位が綺麗に排除されているだけで、本来の捕食者層もきちんと育っている。
もしかしたらそれも、歯向かうものは容赦なく踏み滅ぼし、時折鼻歌を歌ってしまう、あの歌乞いのお陰なのかもしれなかったが。
「…………んん?!」
しかしここで、バンルは思いがけない人物の姿を、三色菫の花壇の方に見付けてしまい、慌ててそちらに体を向けた。
擬態をしているし、服装もただの領民のように装っているようだが、どう考えてもウィーム領主ではないかという人物が、青い革のリードを装着した銀狐を散歩させている。
あの銀狐が塩の魔物であると考えれば問題などないのだろうが、それでも、あまりにも無防備に思えてしまい、慌てて駆け寄った。
はっとしたように顔を上げ、こちらを見たのは鳶色の瞳。
複雑で美しい瞳の清廉さは、この領主を支援している多くの者達が、どんな事をしても守ってやらねばと考える透明な輝きであった。
「…………バンルか」
「あからさまにしまったという顔をされますと、ヒルド様に無断で出てきたと言わなくてもバレますからね」
「はは、ほんの少しだけのつもりだったのだが、お前に見付かってしまったな。…………昨晩、リーエンベルクに使用人の天幕が下りたようで、今朝は、…………その、一騒動あったものの、爽快な目覚めだったのだ。…………それで、つい、祝祭の明けの街を見たくなってしまった」
「やれやれ、何しろヒルド様だ。見付かれば、こっぴどく叱られるでしょうに」
「一応、護衛はいるのだが、やはり叱られるかもしれないか。…………これは、気付かれない内に戻った方が良さそうだな」
そう苦笑したエーダリアには、確かにバンルの大事な子供の面影がある。
こうして微笑むと、ああ血族なのだなと思える部分が何箇所もあり、思わず、最もその面影のある目元に指先で触れたくなった。
(…………いつの間にか、あなたも、俺の大事な子供になった)
それは勿論、ドロシーとは比べようもないが、だとしても、竜の宝で契約の子供であるあの王子を喪ったバンルが、この先も生きていなければと思うくらいには大事に思うというのは、奇跡のような事で。
だからこそ、その足元でムギムギと弾んでいる塩の魔物を、獣の本能に左右されてこの大事なウィームの宝を守り損なうなよと、じっと見つめておく。
公爵位の塩の魔物なのだ。
考えうる守護の中では、寧ろ考える事も出来なかったくらいに最高位の守り手ではあるが、とは言え最近は、ボールとなると理性を失い過ぎているようにも思う。
じっと見つめていると、銀狐の尻尾がけばけばになってしまい、そうなるとドロシーを思い出させるので厳しく叱れないのも辛い。
「どんな騒動があったのか気になるところですが、そろそろお戻りになった方が宜しいでしょう。次に来るときは、せめて、あの魔物が人型の時か、ヒルド様も巻き込んだ方が宜しいですよ」
「…………ヒルドもか、なかなか手強くてな」
「そんなの簡単ですよ。あの妖精の袖を引いて、一度安息日の街を一緒に歩いてみたかったのだと言えば、すぐに頷くと思いますが」
「そ、そういうものなのか?」
「ええ。妖精は、守護を与えた者には愛情深い。ましてやあなたは、彼の主人で弟子であるのと同時に、庇護するべき幼い家族のようなものですから」
「…………そう、だな」
バンルはこれ迄に、エーダリアに何度同じ様な事を言っただろう。
だが、かつては困ったように微笑むばかりだったこの領主は、最近漸く、嬉しそうに微笑むようになってきた。
最初はもう、国から厄介な荷物を持たされたようにしか思えず、どうなるかと不安しかなかったあの歌乞いが、エーダリアの周囲を上手く家族の輪に繋ぎ上げるだけの役割りを果たしたのだ。
(…………何しろ、この塩の魔物か、ネア様かのどちらかが、…………俺とドロシーが呼び寄せた大事な守護者だからな。或いは、どちらもかもしれん)
おいでおいで。
その声と響きで、慈しみと愛情を繋ぐように。
君の誕生の日に与えられなかった祝福を、きっと君に齎すように頑張るからねと。
だからこれは、バンルの最愛の竜の宝の願いが叶った、そんな光景なのだろう。
今ならもう、ドロシーの手紙を渡しても大丈夫なのは知っていたが、喜びではなく後悔になっては困ってしまう。
この大事な甥っ子のようなエーダリアが、心を痛めずに済むように、慎重に機会を見計らってゆかねばなるまい。
(こうして、自分の欲を外に出せるようになってきた。………もう少し我が儘になって、悲しみも憤りも、全てを仲間達にぶつけられるようになってからだな…………)
内心は頭を撫でて元気になったなぁと抱き締めたいのを押し隠し、苦笑したエーダリアに、朝にしか見られない公園の薔薇の茂みから淡い金色に輝く博物館の屋根が見えるとっておきの場所を教えてやり、ウィーム領主が、転移を使ってリーエンベルクに帰るのを見守った。
「…………さて、そろそろか」
そう呟き、街角にある仕掛け時計を見上げる。
通りにはちらほらと人の姿が見え始め、中にはまだ酔いが抜けていないのか、おぼつかない足取りの老人もいる。
そんな様子を見ていると、一人の背の高い男が横に立った。
髪色は擬態しているが、待ち合わせの知人に間違いない。
今日も普通の装いであると安堵したのは、この魔物が、魔物としての質を前面に出すと、ぞっとするような極彩色の装いになってしまうからだ。
「……………先に待たれると、気色悪いな」
「言い方ってもんがあるだろう。それが嫌なら、約束時間よりも前に来いよ」
「朝は、ゆっくりとピアノの曲を聴きながら、砂糖を食う習慣がある。その提案は却下だな」
「我が儘か!しかも、朝食を食べに行くっていうのに、何で食ってきたんだよ」
「砂糖と普通の料理とは、収まる場所が違うからな」
「…………そうなのか?」
間が空く時には一年か二年に一度、短い間隔の時は、ウィームで何かが起きているか、それぞれの大切な子供に問題がある時だ。
なぜなのか、いつからか、定期的に会うようになったこの男とも、あの統一戦争後からの縁となる。
グラフィーツの歌乞いとその伴侶となった青年と、ドロシーが親しくしていたのだ。
実際に共に過ごしたのはほんの僅かな時間だったが、ドロシーにとっての大切な時間だったあの日々は、バンルにとっても同様である。
そして、互いの最愛を失くしてからも、バンルとグラフィーツには、まだ心を残す者が残った。
グラフィーツのそれは、愛情と言うよりは、己の歌乞いへの深い愛情の残響のようなものだが、それでも心は空っぽにはならない。
とは言え、互いに心ががらんどうにならなかったからこそ、こうして会い続ける事が出来るのだろう。
最近のグラフィーツは、以前よりも表情が柔らかくなったし、あの変な極彩色の装いに身を包むことも減った。
「で、今回もザハの朝食コースか?」
「ああ。もしくは、運河沿いのスフレの店でもいいが、あの店はスフレの魔物がいるんだろう。お前は、あの毛玉が苦手だからな………」
「…………ザハだな。……なんだ?」
「いや、相変わらず、砂糖絡みじゃない時は、至極まともなんだなと思っただけだ。最近は精神が安定してきたんだなと感慨深くてだな…………」
「………失礼な奴だな。あれは、砂糖を食う為の作法のようなものだ。好物を食うのに、どうして冷静でいなきゃならん」
「ん?…………こう、心の均衡を崩していたとかじゃないのか?」
「………そんな訳があるか」
「そ、そうか。…………俺は、今みたいなお前との出会いからだったからな。最初に砂糖を食っているのを見た時には、正直、あの子を手放してとうとう狂乱したかと思っていたんだが……………」
「ほお、だとすればこちらにも言いたい事がある。いいか、猫姿の獣に触れている時のお前も、なかなかのものだぞ?」
すっと瞳を細め、そんな事を言われた。
思ってもいなかった反論に、目を瞬き首を傾げる。
「…………ん?まさか。…………え、まさか、………何か普段と違うのか?!」
「自覚がないのなら、幸福な事だ。だが、お前の竜の宝は山猫姿だったからな。執着とはそんなものなのだろう」
「いい話風にまとめたが、俺自身はそうも言っていられないんだ。今は、いい感じのご婦人に求婚中なんだが、彼女は雪猫の使い魔の一族の娘なんだぞ?!」
「そうか。それは残念だったな。新しい出会いの準備でもしておけ」
「はぁ?!………まさか、………そんなに様子がおかしいのか?」
何がどうなるのかは怖くて聞けず、そう尋ねてみると、グラフィーツは唇の片端だけを持ち上げてにやりと笑った。
この表情はまずいぞと頭を抱えて呻いていると、さっさと店に行くぞと、呆れたような溜め息を吐かれる。
「いい加減理解したらどうだ。お前は色恋には向かないんだろう」
「…………まだまだ俺は、男盛りだぞ。ご婦人方には充分に人気もあるのに、あんまりにも酷な言いようだろう」
「選ぶ女が悪いんだろうな」
「そういう言葉を、首から下げたスプーンに口付けしながら言うな。惨めになる…………」
手元に残さなかったとは言え、グラフィーツは己の最愛の恩寵を一度はその手にした男だ。
共に暮らし、慈しみ、己の全てを与えて、彼女の愛する男の元へ送り出してやっただけ。
最期の瞬間までを共に過ごす事が出来なかったとは言え、この男なりに充分に幸福であった事を、魔物の心の動きをも得られたバンルは感じ取る事が出来ている。
(あのお嬢さんは、こいつに捧げた程の歌はもう、生涯誰にも捧げる事はなかっただろう。恩寵に、命だけでなく、魂をも差し出して請われたのだから、それ以上に幸せな事はない)
そして彼の手元には、いつまでもその恩寵の残した宝物が残る。
「悪いが、愚痴は聞かんぞ。……もう禍根は残っていないだろうが、念の為に話しておくべき事もある」
「…………ガーウィンでの一件か」
「それは聞いているんだな」
「ああ。うちの会には、本職がダリルの弟子って奴もいるからな。…………あ、ねこちゃんがいるぞ」
「…………よし、店で集合にするぞ」
「グラフィーツ?」
「悪いが俺にも、羞恥心というものがある。この先のお前の状態を思えば、到底一緒にいたいとは思えない。いいか、俺は先にザハに入っているぞ」
「………お、おい!…………ったく、何なんだ。…………ねこちゃん、どうした?仲間とはぐれたのか?」
なぜか突然姿を消したグラフィーツに首を傾げつつ、公園の茂みの横で鳴いていた、紙箱妖精の前に膝を突く。
淡いクリーム色の猫姿のこの妖精は、群れで行動する筈なので、恐らく仲間たちからはぐれたのだろう。
ドロシーのもさもさとした毛並みを思い出しながら抱き上げて周囲を見回すと、すぐに、通りの向こうに仲間たちの姿が見付かった。
なので、迷子の紙箱妖精を群れに届けただけだった筈だ。
それなのに、なぜだろう。
ザハに着くと、にっこり微笑んだ顔馴染みの給仕から、髪や服に木の葉がついていますよと言われてしまい、バンルは首を傾げたのだった。
明日8/10の更新は、お休みとなります。
Twitterの方でSSを書かせていただきますので、もし宜しければご覧下さい。




