インク瓶の竜と予言の印
「まぁ、今日のお仕事は珍しい内容なのですね?」
そう問いかけたネアに、リーエンベルク内の作業部屋で、エーダリアが頷いた。
一緒にいたヒルドは今、お散歩銀狐がぼろぼろのタオルのような生き物を狩ってしまったと騎士からの連絡を受けている。
ネアは、雷鳥かなと思ったが、この季節は夏毛でハンカチ状になっている筈だと伝えておき、ヒルドは、近くにいる筈のグラスト達に対応をお願いするらしい。
ゼノーシュがいれば一安心だと、ネアは胸を撫で下ろしている。
(………この部屋からだと、こんな風景なのだわ)
あまり来ない、遮蔽が可能な作業部屋は、時折、エーダリアが魔術書の虫干しにも使うのだそうだ。
空気などの循環は可能なまま、魔術要素のみの遮蔽が出来るという我が儘な環境を備えている。
壁紙は優しいセージグリーンで、リーエンベルクでは珍しい深い琥珀色の床石は、作業用に適した特別な工房素材なのだとか。
リーエンベルク本来の魔術基盤に紐付けないようにした事で、ここでは珍しい色相になっている。
天井から吊るされたシャンデリアは、こちらも、異国の硝子工房で作られた珍しいものだ。
深い孔雀色のシャンデリアには、白い模様がレースのように入っているのだが、職人のセンスの成せる技か、くどくならずに整えた絶妙な上品さが宝石のように美しい。
「ああ。本来であれば専門の魔術師か、インク職人がするべき事なのだが、今回は隠れているものの階位が高くてな。不敬とならないよう、お前に任せたのだ」
「初めての妖精インクのお仕事です。実は、こちらで暮らし始めたばかりの頃は、もしディノと上手くやってゆけなかったら、きらきらと光る澱の残る、素晴らしく上質な妖精インクを作る工房にお世話になろうと思っていたのですよ?」
「…………妖精インクなんて」
「魔術のない世界からこちらに来た私にとって、妖精さんのインクは憧れの一品でした。工房で暮らし、相棒となる妖精さんの力を借りての日々のインク作りは、ちょっぴり憧れのお仕事だったのです」
「…………妖精インクなんて」
「ですが、私の大事な魔物は、そんな私の憧れをぽい出来るくらいに大事でしたので、となれば大事な方を優先するのは致し方ありませんよね?」
「ご主人様!」
悲し気に項垂れていたディノが目を輝かせ、ネアはぎゅうぎゅう抱き締められる。
実は、ネアの手持ちのインクは、買おうとする度に、ディノが密かに厳しく査定してきたものだ。
それは、魔術の含有量の多いインクに悪い物が混ざっていないかどうかを調べるというのではなく、特定の工房のインクを退ける為の口実でもあったのだと、ネアは知っている。
そしてその工房は、ネアが転職先として最有力候補にしていた工房だったのだから、この魔物がどれだけ警戒しているのかは想像に難くない。
あの頃のディノは、ネアの転居計画などお見通しだったのだろう。
(だから、どこかで自然にこの話をしたいと思っていたのだけれど、良い機会になったわ…………)
高位の人外者の感情は、大きな力である。
となれば、あまりにも長く一か所への悪印象を抱かせているというのも、良い事ではないだろう。
どこかで、ディノが未だに隠し持っているインク工房への恐れを引き剥がしてやりたかったが、こちらは知らない体である。
この魔物はなかなか繊細なところもあるので、不自然にならないような話題運びが出来ず、苦労していたのだ。
テーブルの上には、持ち手の付いた銀盤にインク瓶が並べられている。
小さなインク瓶の蓋は全て開けられていて、それぞれの瓶の手前にどんなインクを収めたものかのラベルが置かれていた。
本日の仕事は、ディノにとっては因縁の、青色妖精のインク工房からのものである。
ネアが就職希望だったインク工房の中でも、これだけウィームで暮らしてから思えば、最も条件の合致するところであった。
他のインク工房は、系譜上や条件上、この工房に及ばないので、ディノはこの工房を最も警戒していたのだろう。
この工房は、青系統のインクを作る事に長けた工房の一つで、中でも夜の系譜のインクの揃えは素晴らしい。
菫色がかった煉瓦のような素敵な石材の建物も素晴らしく、どこか修道院めいた工房の造りは、ウィーム中央でも、ネアの憧れの建築の一つだ。
(華美過ぎないけれど美しく、どこか修道院めいた荘厳さもあって、尚且つ、詩的で繊細な雰囲気なのに、どこか武骨でひたむきで…………)
その工房の庭にはいつも淡いラベンダー色の百合が咲いていて、綺麗に晴れている日でもきらきらと光る夜霧の露を祝福として宿している。
庭の中央には森結晶の小さな盃型の噴水があり、夜になると多くの妖精達がその周辺で遊んでいる姿が見られた。
時折、遠方からのインクの買い付けや、継続的な購入契約を交わしている発注先から、空輸用の木箱を抱えた竜達が飛んでくる。
特に異国から訪れる色鮮やかな鞍を付けた竜達は、不思議な美しさがあった。
その光景を初めて見た時、ネアは、興奮のあまり手に持っていたワッフルを一口で口に詰め込んでしまったのだが、思えばその時のディノは怯えたように青ざめていた気がする。
(夜の系譜の工房で、夜は食楽にも通じる時間の座だから、あのインク工房のお食事はどれも美味しいと評判だった。だから、常に人気の就職先の一つだったのだけれど、あの頃の私は、もしリーエンベルクを追い出されるのであれば、そこでの再就職の手配を付けるくらいの融通はして貰おうと思っていたのだ…………)
今考えれば、ネアがディノと別れてここから放り出される事になったとしても、エーダリアは、無理を言ってまで、使えるのかどうか分からないネアを工房に押し付けたりはしないだろう。
ネアにその事情を説明し、適正な弟子入りの試験を受けさせてはくれたかもしれないが、せいぜいそこまでだ。
勿論ネアは、今やこの上司のそんなところが大好きなのだが、あの頃のネアハーレイであれば、煙たい存在を邪険にどこかに追いやろうとしているのだろうかと勘繰り、そんなエーダリアの手元から逃げ出したかもしれない。
多くの魔術を有し、けれどもそれに見合った災いと危険を孕むこの土地で、そんな風に一人で逃げ出した人間がどうなるのかは想像に難くない。
当時のネアが、何度か一人で街に出かけられていたのは、気付かずに与えられていたディノの祝福あってこそだろう。
この世界は溜め息を吐きたいくらいに美しいところだが、優しいばかりのおとぎ話のように都合のいい場所ではない。
(でも私は、…………きっと、)
そうして命を落とすのだとしても、あの頃のネアは幸せだったに違いない。
がらんどうの屋敷で日々の暮らしすら削り落としながら生きてゆく日々の中で摩耗されるより、見ず知らずのおとぎ話の世界で、美しい森で妖精の光を見ながら死ぬ方がどれだけ誇らしい事か。
そう思い、せめて最後にいいものを見られたのだぞと、胸の奥底に焦げ付いている孤独を剥がし落とせないまま、にっこり微笑んで死んだだろう。
そんな自分の顛末が容易く想像出来てしまい、ネアは、どの瓶から作業を始めようかなと思案しているご主人様の膝の上に、そっと三つ編みを置いてゆく魔物の姿に眉を持ち上げた。
今はもう、そんな死に方はしたくない。
ネアには大事な魔物や、家族のような人達がいるし、毎日食べられる美味しいご飯や、ゆっくり買い揃えてきた宝物を集めた小部屋すらあるのだから。
「あら、三つ編みですか?」
「…………仕事をするのだろう?君は、三つ編みを引っ張ったり、爪先を踏んでくれないと」
「むぅ。もはや、それで運用が固まってしまいましたが、他のご褒美でもいいのですよ?」
「…………爪先がいいかな」
「仕方がありませんねぇ。では、ぎゅっと踏みますね」
「ご主人様!」
未だに首を傾げてしまう趣味もあるが、爪先を踏んで貰いたがるのは、他者との関わり合いを知らないこの魔物が、その行為を見て親し気な振る舞いだと誤解してしまったからだ。
確かに街中では、不用意な事をいった伴侶や恋人の爪先を、お仕置きも込めてぎゅっと踏みつける女性達がいる。
まだ愛情の作法を知らない頃のディノには、そんなやり取りが堪らなく眩しく、そして羨ましいものに見えたのだろう。
「…………可愛い。懐いてくる」
だから今も、こうして爪先を踏んでやると、目元を染めて嬉しそうに微笑むのだ。
一度擦り込まれた価値観の修正は難しいもので、ネアは結局、こんな嗜好ごとこの伴侶を受け入れてしまった。
「では、今日のお仕事は、ここに並んだ妖精インクの瓶の中に隠れている、インク瓶の竜さんを発見する事です」
「うん。インクを食べる時にしか姿を現さないのだったね」
「はい。その習性を利用し、工房の方で対象の瓶を絞って下さいました。とは言え、とても珍しく良い竜さんなので、不敬とならないように最後の一本までは絞り込めなかったようなのです」
インク壺の竜、もしくはインク瓶の竜と呼ばれるものがいる。
どちらの名称で呼ぶのかは、目の前のインクがどんな入れ物に入っているかで決めればいいので、ここではインク瓶の竜でいいだろう。
そんなインク瓶の竜の多くは、祝福が豊かな上等なインクを食べてしまう、毛玉型に竜尻尾の害獣だが、今回の竜はその上位種にあたるのだそうだ。
駆除しても駆除してもどこかに隠れているインク瓶の竜が、長年暮らしているインク工房でお腹いっぱいインクを食べて満足してしまうと、ごく稀に、描き喋りの竜となる。
とてもお喋りで、明日は雨だよとか、隣の工房の針子は近い内に懐妊するよというような、たわいもない予言を沢山話してくれるのだそうだ。
その方法は主に二通りあり、出てきたところで紙とペンを渡して予言の絵を描いて貰うか、インク瓶から顔を出して、ねぇねぇと声をかけられ、直接話してくれるかのどちらかになる。
だからこその描き喋りの竜という呼称なその生き物の、今回対象となっている個体は、絵を描いてくれる竜なのだとか。
(そんな竜さんは、予言や予兆の魔術を司っていて、あまり良くない予言を持っていると、夜中に整えておいたインク瓶からインクがこぼれていたりするらしい………)
そして今回は、インクがこぼれていたり、インク瓶が割れている事件が何件か重なり、これはまさかと思った工房の責任者から、ギルドを通して描き喋りの竜への聞き取り調査の依頼がこちらに入ったのだった。
「…………今回は、良くない予言を持っているという証跡はあるものの、予言そのものはされていないのですね」
「ああ。だからこそ、工房の職人達も参ってしまっていてな。この竜は、悪い予言を持っていても対処出来ない者達にはそれを伝えない事もある。なので今回は、リーエンベルクで引き取らせて貰うことにした」
エーダリアの説明に頷き、ネアは、竜がお食事をするようにと注ぎ足し用のインクの用意を進めた。
既にインク瓶にはインクが入っているが、ここに新しいインクを足すと、竜が食事を始めるらしい。
その時に住処を特定し、尚且つ、予言がないかどうか声をかけてみるという作戦なのだ。
(こんな小さな瓶の中に暮らしている竜さんだけれど、予言の種類によっては、ジゼルさんですら頭を下げなければいけないような、偉い竜さんなのだ………)
予言や予兆を司る竜は、竜種の中では賢者や隠者という称号を与えられる。
魔術階位とは別に、竜種内部での役職階位がとても高く、丁寧に敬わなければ障りとなる事もあるらしい。
だからこそインクを扱う仕事の者達は、元は害獣とは言え、インク瓶の竜を見付けると大切に工房でお世話するのだった。
「とは言え、頻繁に引っ越しをするので、どの瓶に暮らしているのかは工房の者達にも分からない事が多いらしい。姿を見せて初めて、この瓶に暮らしていたのかと気付くのだそうだ。前述の理由から、インク瓶の竜の住まいの近くには、常に新しい住まいとなるようなインク瓶や壺を用意しておかなければいけないからな」
うっかり蓋をして売り物にしてしまわないのだろうかと不思議になるが、インク瓶の竜達はそうならないように、工房の記録庫や研究室に暮らしている事が多い。
個人の屋敷や持ち物に現れないのは、保管されるインクの量が少ないからだろう。
瓶の中のインクを全て食べてしまう事はないが、商品開発の記録用に保管してあったインクがなぜか以前より減っていたら、近くにインク瓶の竜がいる証拠だ。
「ふむ。だからこそ、こちらに持ち込む瓶も、二十本以下には絞れなかったのですね?」
「ああ。いつ姿を現すか分からないのに、周囲のインク瓶を片付けてしまう訳にもいかないからな。それに、引っ越し先を用意しておかないと、機嫌を損ねてしまう事があるらしい」
そんな事実は、六百年程前のロクマリアで起きた事件で判明したのだそうだ。
それまでのインク瓶の竜は、貴重な予言を落とすが、荒ぶりやすく気性の荒い生き物だと思われてきた。
しかしそこで、他のインク瓶の竜が引き起こす災いをたまたま予言した竜がおり、それによって初めて、周囲に気軽に引っ越せる他のインク瓶がない事で彼等が荒ぶっているのだと判明したのである。
それだけの事がなぜ事件として記録されているのかと言えば、この事実の発覚と同時に、国中どころか大陸中のインク工房が、工房内で祀り上げていた竜達の巣を広い場所に移し、新居予定のインク瓶や壺を並べたからだ。
しかし、中にはそんな情報が届かず、何も知らないまま、インク瓶の竜の新居を用意しない工房もあった。
この瓶の中で暮らしている筈の竜達には、未だ解明されていない交流手段があるらしい。
その結果、仲間たちの生活環境があちこちで改善されたのになぜ自分のところはまだなのだと、何か所もの工房が、インク瓶もしくはインク壺の竜に滅ぼされる痛ましい事件となってしまったのだ。
「この硝子のスポイトで、新しいインクを足しますね」
「…………ネアがやるのかい?」
「むむ?私がやらない方がいいですか?」
「君はその、………可動域が」
「では、私がやろう。スポイトをこちらに……ネア?」
「エーダリア様が、わくわくしています………」
「し、仕事の内だからな」
「執務を調整して立ち会われると聞いて、なぜかなと思っていたのですが、さては竜さんを見たいのですね?」
「………で、では、インクを足してしまおう。左上から始めよう」
「はい。宜しくお願いします」
すっかり目をきらきらにしたエーダリアが、持ち込まれた瓶に入っているインクと同じ物を探し、その中のインクを硝子のスポイトで吸い上げる。
ここにあるインクは、商用のものではない祝福や魔術効果の強いものばかりなので、物によっては、水晶のスポイトや、銀水晶のスポイトに交換しなければならない。
ちゃぷんと、まずは一つ目のインク瓶に新しいインクが注ぎ足された。
「…………何の変化もありませんね。インクの注ぎ足しをすると、竜さんはすぐにお食事を始めるのですか?」
「ああ。そう聞いている。では、二つ目のものだ」
「ふむふむ。その白いお皿のお水で、都度スポイトを洗うのですね」
「これは、魔術洗浄液なのだ。揮発性の薬剤なので独特な香りがある。強い薬剤でもあるから、くれぐれも指で触れないようにするのだぞ」
「まぁ、無色透明のくせに、刺激的なやつめなのです」
「刺激的な…………」
とぷんと、次のインク瓶にもインクが注ぎ足された。
今回の瓶は、先程のインクよりも粘度が高い物のようだ。
澄んだ菫色のインクの表面が揺れ、けれども、竜が顔を出す様子はない。
インク瓶に暮らしているとは言え、ディノ曰く、その瓶は竜達の住まいの扉のようなものなのだとか。
その扉を開けてくれるまでは、ディノにも竜が暮らしているインク瓶の特定は出来ず、根気よくこの作業を続けてゆくしかない。
「………七個目だな」
「むぅ。こちらも変化なしですね」
「八個目もいないようだね」
「………九個目にインクを注ぎ足すぞ」
「はい」
丁度そこで、銀狐事件の指揮を執り終えたヒルドが部屋に戻ってきたので、ネア達は、ヒルドがこちらに来るのを待ってから作業を続ける事になった。
ヒルドは、なぜエーダリアが作業に参加しているのだろうと訝し気な目をしたが、ぎくりとしたようなエーダリアが気付かないふりをすると、やれやれと溜め息を吐いている。
「十三個目だな………」
「このあたりかもしれませんね。妖精の祝福に僅かな揺らぎがあるようですから」
「ヒルドにはそれが分かるのか?」
「ええ。湖と宝石を組み合わせた祝福を付与したインクのようですので。代わりに、音楽の系譜の魔術付与のある左下のインクなどは、全く魔術の動きが読み解けません」
「そのようなものなのだな………。では、継ぎ足すぞ」
「はい!」
とぷん。
静かな音と共に、銀水晶のスポイトから新しいインクが瓶の中に注ぎ足される。
すると、ヒルドの言う通り、紺色のインク瓶の中に初めて変化が起きた。
しゅわんとインクが銀色を帯び、海の中で夜光虫が光るような不思議な光を宿す。
ずっと見ていたら吸い込まれてしまいそうな小さなインク瓶の世界の中で、その中からぴょいんと顔を出したのは、艶々とした紺色の宝石竜のような、美しくちびこい生き物だった。
(……………か、可愛い!!)
内心は大興奮だが、ネアは何とか冷静さを保った。
ここでうっかり不敬となっては、身も蓋もない。
階位ある予言をしてくれる竜に対面するのに相応しい、理知的で穏やかな淑女の微笑みを浮かべておこう。
「…………君に話があるのだけれど、構わないかい?」
ぴんと張り詰めた空気の中、そう問いかけたのはディノだ。
その声におやっと顔を上げ、インク瓶の中の竜が、黒い瞳を丸くしてびゃんと飛び上がる。
「……………これはこれは、万象の魔物の王とお見受けいたしますが、私の寝ぐらを訪ねていただいたのですか?…………むむ、…………むむ、ここは、あのインク工房ではありませんな」
返ってきた竜の声音は、思いがけず渋いおじさまのもので、ネアは目を丸くしてしまう。
予言をするようになったインク瓶の竜を見るのは初めてだというエーダリアはすっかり興奮しており、肩に手を置いたヒルドにさり気なく拘束されていた。
「うん。君の暮らしている工房で、不穏な予言の印があったからと、こちらに預けられたんだ。印を残していたのに予言をしなかったので、工房の者達は、自分達では聞き取れないものだと考えたようだよ」
「おお、ではあの者達が、私のメッセージに気付いたのですね。あなた様であれば、予言の預かり先として何の問題もございません。紙とペンを貸していただいても宜しいですかな?」
首を傾げてそう言った竜は、インク瓶の中から少しだけ顔を出した状態だ。
この状態でどうやって絵を描くのだろうと、ネアもどきどきしてきてしまい、膝の上に置かれた伴侶の三つ編みを握り締める。
「では、こちらに用意しよう。ペンは、工房から雪食い鳥の羽ペンを借りてきてある。紙は、冬霧と庭園の七番でいいのかい?」
「ええ。やはり私の予言には、その組み合わせでありませんと。いやはや、万象御身の前で予言をする事になるとは、我身に余る恩寵でございます」
「恩寵、なのかい?」
「ええ。我々は絵描きの竜の一族ですから、御身を拝見出来た事は、きっと今後の絵に大きく生きるでしょう。では、…………」
ここで、しゅわしゅわんと、魔術の光が弾けた。
ディノが用意されていたペンと紙をテーブルに置くと、そこにきらきら光る魔術の光が集まり、雪食い鳥の羽ペンがふわりと浮き上がる。
そして、さらさらと紙の上に絵を描き始めるではないか。
(す、凄い…………!!)
自動書記のような不思議な光景に、ネアはもうすっかり興奮してしまい、机の下の爪先をぱたぱたさせる。
エーダリアはどうだろうとそちらを見ると、なぜか片手を少し持ち上げた仕草のまま、目をきらきらにして固まっていた。
予言の絵は、予め決められていたものを描くように上からどんどん描かれてゆき、ネアは、何となく印刷のようだなと考える。
また、絵だけではなく、絵本の頁のように文字も書き出されるようだ。
さらさらと、ペンが紙の上を走る音だけが響き、ネアはペン先を夢中で見つめながら、その完成を待った。
「出来ましたぞ。これが、御身に預けたい予言でございます」
ややあって、インク瓶の竜がそう声を上げた。
丁寧にインクを切り、羽ペンはペン立てに戻されてゆく。
「…………異国から訪れる、策謀と犠牲の災いか。………ウィームに、このようなものがやってくるのだね」
「ええ。そう遠い事ではないでしょう。明日という事はございませんが、少なくとも翌週迄には」
「貴人用の馬車だね。そちらの国の事情で起こる悲劇が、この土地に持ち込まれる形になるのかな………」
「そのようで……………すな。………ぐぅ」
「おや、………」
予言の絵を描き終え、疲れ果ててしまったのだろうか。
艶々とした紺色の竜は、そのままとぷんとインクに沈んでしまい、後はもう、うんともすんとも言わなくなった。
それは、ほんの一瞬の事だった。
「まぁ、……………時間切れなのです?」
「工房の方からも、絵を描くと帰ってしまうと言われていたのだが、この事なのかもしれないな………」
「むぐ。出来ればもっとお話を聞きたかったですね………」
「寝てしまったのかな………」
「ディノがしょんぼりしてしまいました。………あの竜さんは、あまり体力がないのかもしれませんね」
「そうなのかい?」
ネアは、絵を描くと疲れて眠ってしまうのは可愛いなと考えたが、残された予言は決して楽観視出来る物ではなかった。
その紙を見ているエーダリアの眼差しは、先程の輝きが嘘のように暗く、ヒルドも険しい顔をしている。
インク瓶の竜の予言によれば、近い内にこのウィームに、海のある外の国からの馬車がやって来るそうだ。
貴人用の馬車は、その国の陰謀により乗っていた者達が皆殺されてしまい、けれども御者はそれに気付かずに死に物狂いで逃げた。
逃げて逃げて逃げている内に、自分も、大切なご主人様も妖精馬達も、その全てが死に絶えている事に気付かないまま国を超え、まずはアルビクロムを通り、このウィームにやって来る。
御者の恐怖や悲しみが呪いのようになり、馬車が走り続けて行く事で行く先々で出会った者達を呪い殺し、転げ落ちるように災いになったものだという。
(……………そんなものが、ウィームにやって来る)
ぞっとしたネアは、ディノの顔を見上げ、すりりっと寄り添ってくれた伴侶の腕をぎゅっと掴んだ。
エーダリアは、インク瓶の蓋を閉め始めたヒルドの方を見た後、深い溜め息を吐いている。
「………事前に知る事が出来て良かった。領内での犠牲を、どうにかして少しでも抑えなければだな」
エーダリアがそう言うのは、予言として成された事が変えられないからだ。
きっとその馬車はウィームに来るし、それは災いの形をしているだけでなく、工房の者達の手には負えないような災いになる。
「ええ。幸いにも、こちらには予言があります。馬車の形状や履歴が分かっていれば、対応出来る事も増えるでしょう。………ディノ様、この災いはかなり厄介なものになりそうですか?」
「来る迄にも、成長を続けるような物ではないかな。アルビクロムを経由してくるのであれば、まずはそちらで対処させた方がいいだろうね。ただ、………こちらから馬車の話はしない方がいい。どちらにせよアルビクロムでも被害は出るだろうし、予言の共有は土地の魔術基盤を超えると歪む事がある。手元にある予言を変えてしまわないよう、そちらを諦める選択を取れるかい?」
そう問いかけられ、エーダリアは僅かな沈黙の後、しっかりと頷いた。
その眼差しは魔術の不思議に目を輝かせていた無垢さが消え失せ、領主としての静かな厳しさを湛えている。
「私は、ウィーム領主なのだ。………ガレンの長としては苦渋の決断ではあるが、やはり、この地以上に守りたいものはない。………身勝手な事だが、どちらかをと言われれば、迷わずにウィームを取るだろう」
「であればそれは、土地を守る為の必要な対価のようなものだ。魔術の理に於いて必要な措置なのだから、気に留める必要はないよ」
ディノにそう言われ、エーダリアは目を瞬く。
そして、どこかほっとしたように頷いた。
「…………ああ。そう言って貰えて、安堵してしまった。私はまだまだだな………」
「これから、必要な備えをいたしましょう。まずはダリルに連絡をし、工房にインクを返しにゆきませんとね」
「では、そのお仕事は、私たちが引き受けましょうか?エーダリア様達は、これから対策会議などでばたばたしますよね?」
「………ネア、気持ちは嬉しいのだが、………このインクは、祝福付与が濃くてだな。持ち運び用の木箱は、可動域が六十はないと触れられないのだ」
「……………ろくじゅう」
「なので、返却作業は騎士達に任せよう。こちらで、災いの対策についての意見などを出して貰っても構わないか?」
「………そ、そうですね!そちらのお仕事の方が、乙女向きかもしれません」
蓋を閉められたインク瓶は、中に竜を住まわせているとは思えない程に静まり返っていた。
こうして蓋をしてしまう事は問題ないそうなので、ヒルドが、手早く竜のいた瓶に印を付け、持ち込まれた時に入っていた木箱に戻されてゆく。
どうやら銀盤も工房からの貸し出し品らしく、そちらも箱に入れると、ぱたんと蓋を閉じた。
(……………馬車、なのだ)
そう思うと少しだけ気にかかったが、素直にディノにその思いを伝えると、確かに結果として辻毒のように成り果てた物ではあるものの、こちらに縁付く災いではないのだと安心させて貰った。
紺色のインクで描かれた予言の絵は、上に薄紙を当てて余分なインクを吸わせ、魔術でしっかりと乾燥させた上に保護魔術もかける。
こうして失われないようにした上で、文書館から専門の魔術師を招き、更に予言専用の保護魔術もかけるのだという。
「やれやれ、取り敢えず、ネイが散歩から戻って洗われてくるのを待ちましょうか」
「…………ノアベルトが………」
「さては、泥んこ遊びをしましたね…………」
「ノアベルトが……………」
「私は、先にダリルに連絡しておこう。アルビクロムの監視を頼んでおきたい」
「ええ。ダリルと相談の上、ヴェンツェル様にも共有しておかれた方がいいでしょうね。アルビクロムの横断にどれだけの時間をかけるかによっては、ガレンへの依頼が入るかもしれません」
そんなやり取りを見守りつつ、ネアは、七番の紙に描かれた馬車の絵をじっと見つめた。
かつては妖精馬だった異形のものに牽かれた馬車は、取り込まれた妖精の御者の羽が装飾のようになり、禍々しくもどこか奇妙な美しさがある。
それがアルビクロムでどんな被害を出すかも勿論だが、今はどこを走っているのだろうと思うととても怖くなったので、ネアは慌てて魔物の椅子の上に避難しなければならなかった。




