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20. 早く帰って欲しいです(本編)




さあっと雨音が聞こえてきて、レイノは中庭に視線を向けた。

こんな時、草花の下からわらわらと出てくる妖精達がいないなんて、ここはやはり魔術が潤沢ではないのだろう。



(…………まただ)



またそんなことを考えてしまい、レイノは微かな困惑を押し殺す。

そんな光景なんて見た事がない筈なのに、時折、知らない記憶がこうして転がり落ちてくる。



(…………待ち時間は、いつまで待てばいいのかしら……………)



胸の中に折り重なって行く不思議な記憶や、予感の欠片を、心の淵で立ち止まり見下ろしている。

まだそれが何なのかは分からないけれど、焦ってじたばたしかけると、その度に心の向こう側で誰かが大丈夫だよとそっと微笑むのだ。



その人に会いたくて堪らなくて、だから今はまだ、ここで迷い子のレイノとして大人しくしていよう。



(きっと多分、この不思議な予感の正体が分かるのに、何年もかかるなんてことはない筈だから…………)



そう考え、気持ちを切り替える為に柔らかな雨の匂いを嗅いだ。

雨に打たれて首を下げている百合の花は風情があって美しかったが、そんな風景を見ていると、ふと季節はいつなのだろうかと不安になる。



「………………アンセルム神父、」

「どうしました?」

「今の季節は、いつだか分かりますか?考えてみれば、私は今の季節を知らないのです…………」

「教区の外は冬の終わりですよ。ただし、この教区はかつてこの地を守護した春明けの竜の魔術が残っているので、常に春の終わりの季節を反映しているんです」

「…………季節が変わらないのですか?」

「そうですねぇ。…………温室のようなものだと考えて下さい。春明けの竜の亡骸の上に建てられた礼拝堂から始まった教区ですので、春の守護が強いそうですよ。慣れれば過ごしやすいので、僕はなかなか気に入っています」

「……………そのようなことで、季節が固定されるのですね。…………驚きました」

「だから、レイノがここで普通に過ごせているということは、それだけ魔術抵抗値が高いということなんです。………ああ、あちらの扉ですね…………おや?」



この先には誰か高貴な人がいるのだと、そんな空気を象るような見事な木の扉がある。

藍色がかった灰色の石材の見事なレリーフに、ここに保護される前にくぐり抜けたあの美しい門を思い出し、その下の重厚な意匠の扉を見つめた。


しかしそんな扉の前で、アンセルムは思案深げに首を傾げている。



「アンセルム神父?」

「猊下は護衛をつけていらっしゃらないのかな………」



すらりと細められた瞳の鋭さに、レイノは訳もわからずはっとしてしまい、また背筋をしゃんと伸ばした。




今のレイノは、工房を出てからあちこちを案内され、教会の食堂と共用区画となる幾つかの施設、更には少し離れた修道院までの説明を済ませて貰った後である。


すぐ近くにありますという感じだった修道院は、片道十分はかかる遠さであったので、レイノは早々に心が折れてしまい、浴室は工房のものを借りることにした。


教会そのものがとても立派なものなので、考えてみればそれくらいはかかりそうなものなのだが、日常の中に取り入れて往復するとなると、大勢の人達が行き交うところを挨拶しながら歩いてゆくので、一人上手なレイノは余分な体力を奪われそうだ。



(なんと言うか、アンセルム神父があまり異性という感覚が薄いからこそ、お願い出来ることなのだけれど……………)



どれだけ遠くても、教官になる相手によっては難しいが、幸いにもアンセルムならやっぱりこちらでと言い易い雰囲気だった。

信頼出来るかどうかの判断をつけかねているのであれば、修道院までの通いにした方がいいのかもしれないが、果たして一人で教区内部を歩き回る事がより安全なのかと言えばそうとも言えない。


そうしてお風呂問題が決着を見せ、いよいよ偉い方々へのご挨拶という最初の訪問だったのだが、早くも不穏な気配がしてきたようだ。




「枢機卿様は、護衛の方をつけるものなのですか?」

「あまり公には出来ませんが、教区ごとに勢力図もありますからね。各教会ごとの神殿においては、祀るもの同士の相性という問題もあります…………。護衛がつくのが自然ですが…………」

「…………複雑なのですねぇ……」

「となると、リシャード枢機卿は、ご自身の魔術に自信がある方か、この教会と結び付きが強い方、或いはとても面倒臭がりな捻くれ者かのどれかとなります」

「最後の選択肢は、それでいいのですね………」

「聖職者には、時折いらっしゃるんですよ。信仰の為に、常に礼拝していたいと石になってしまう方もいるくらいですから…………」

「石に…………」



そこまでの信仰心を誰にも求められないようにと願いつつ、 レイノは扉をノックして入札の許可を取っているアンセルムの斜め後ろに立った。



ガチャリと重たい錠が開けられる音がして、ぎいっと扉が開いた。



(明かりはついていないのかしら…………)



誰かが扉を開けたのだとしたら、そこに、枢機卿の側仕えのような人物がいるのかと思ったが、内側から扉を解錠したらしい人影はなかった。



室内は、明かりが灯されていないようで、陽光が窓から差し込んでいるにもかかわらず薄暗く感じる。

等間隔に並んだ窓から落ちる光の筋は、外が雨だからか、鈍く室内を照らし上げていた。


けれども、一歩室内に踏み込んでふくよかな葡萄酒色の絨毯を踏めば、その陽光のコントラストは、教会の施設に相応しい彩りだと一目で納得するだろう。



静謐で荘厳な室内だ。

すんと空気の清涼さが変わり、思っていたよりもずっと広いその部屋の向こうに、執務室のような部屋に立ち、書類の整理をしている一人の男性の姿が見えた。


聖衣ははっとするほどに鮮やかで暗い夜闇の黒で、真紅の装飾や飾り帯が鮮やかだ。

見知った世界の枢機卿の装いとは違うのに、この装束は高位の聖職者だと腑に落ちるのは何故だろう。




「リシャード枢機卿猊下、入室を許可いただきまして有難うございます」



入室したばかりのこの戸口から深々と一礼し、アンセルムはちらりとこちらを見た。

慌ててレイノも頭を下げ、入室の挨拶を重ね、隣のアンセルムの気配を窺った。




「静謐の夜の区画、禁書統括のアンセルムか」



部屋の向こうから聞こえる声の響きに、レイノはまた微かな驚きに肩を揺らす。


ひやりとするような仄暗く魅惑的な男性の声とでも言うべきか、少なくともこんな聖域で聞くべき声ではなく、深い夜闇に包まれたお城のようなところに相応しい声音ではないだろうか。


けれどもそのようなものが、ここでは聖域の主人になるのだろうか。

この教会は、魔物達を祀るところでもあるのだから。



「ご滞在の中で新しい迷い子の後見人となりましたので、戒律に則りご挨拶に伺わせていただきました」

「銀白の司祭から聞いている。悪いが仕事中だ。形式張った挨拶は省いて貰おう」



(この声を、なんと言えばいいのだろう………)



レイノは途方に暮れ、そして考える。



威圧的ではないが、圧倒的に高位であることを示し、穏やかではないが敵意や悪意の気配も感じられない。

素晴らしく狡猾で、類い稀なる叡智を備え、多くの人達を従える事を息を吸うように行える人だと、その声がほんの僅かな響きで教えてくれる。



美しくて恐ろしい声だ。


そう考え、レイノは小さく息を吸った。

肌にちりちりと感じる精神圧のようなものが、アンセルムに気を付けるようにと言われていた魔術階位の差というものなのかもしれない。



アンセルムについてリシャード枢機卿の執務室まで進みながら、足がもつれないようにしっかりと背筋を伸ばし、前を向いた。



ぷんと、果実と花の香りめいた、香の香りがたなびく煙に揺蕩う。

その煙を目で追えば、窓際に置かれた銀色の香炉で何らかの香木を焚いているようだ。




「……………ほお、それが迷い子か?」



机の横に積み上げられた糸綴じの書類をめくりながら、背の高い男性がこちらを向く。



(……………っ、)



リシャード枢機卿は、ぞくりとするような怜悧な美貌を持つ男性で、銀白にも見える淡い銀色の短い髪をオールバックにし、深く艶やかな青緑色の瞳をしていた。


表情にも声音にも、一片の温もりも感じさせない冷ややかさであるのに、これは聖なるものを司るその役目というよりも、無垢な人々を唆す悪魔の方が適役ではなかろうかという鮮烈な程の色香を感じるのは何故だろう。


ここでぽかんとしてしまい醜態を晒さないよう、レイノは慌てて指先を握り込む。




「可愛らしい子でしょう?レイノと申しまして、これからは司書の見習いをしながら、多くのことを学ばせてゆこうと思います。レイノ、ご挨拶を」

「はい。レイノと申します。まだ分からないことばかりですが、どうぞ宜しくお願いいたします」



予め、ここで言うべきことは決められていた。


当たり障りがなく、この得体の知れない外様の枢機卿に目をつけられないように、ひたすら個性を殺してつまらぬ小娘に成り済ますのだ。

そんな言葉こそをと選んだ月並みな挨拶だが、こうして影を薄めるようにして佇むのは得意だった。



(だった筈なのに、…………この人の気配は、あまりにも強過ぎる…………)



じりりっと気圧されそうな存在感というものが、現実に肌で感じられるものとして存在しているとは思わなかった。



「…………他の迷い子とは毛色が違うようだが、確かに迷い子なんだろうな?」

「迷い子の門から現れ、司祭様に保護されておりますので、それは間違い無いかと思います。可動域は低いですが、抵抗値も問題ありませんよ」

「……………だろうな。この状況下で眉ひとつ動かさないとなれば、俺の状況が見えてはいないのだろう。その上でまだ生きているということは、魔術侵食がない程度には抵抗値はあるらしい。…………また妙なものを抱え込んだな。異質さで、興味を惹く可能性はあるかもしれん」

「猊下は、ご存知なのですね」



ふと、アンセルムがそんな事を呟いた。

そこには、安堵にも似た静けさがあり、どこかでおもねるような問いかけが隠れてもいるようだ。


その問いかけにふっと微笑めば、背筋が寒くなったレイノは、思わずアンセルムの背中に隠れてしまいたくなる。



(そして、私には見えない何かが、ここで起きてる?!)



それも大問題だ。

見えないものに害されては堪らないので、慌ててアンセルムの近くに体を寄せた。

まだ信頼に足りるという結論が出ていない以上、とても残念ではあるが、もしもの時は躊躇いなく盾にさせていただくしかない。



「聞いていた話とは、だいぶ違う印象の男だな。夜の瞳を持ち、審問官としての資質も低くはないと聞いているが、言葉を選び過ぎだ」

「はは、それも仕方のないことかもしれません。レイノにはまだ、僕が異端審問官であることは話していなかったんです。…………怖がられてしまいそうなので、もう少し仲良くなってから告白するつもりだったんですよ。……………あなたにそれをお話ししたのは、筆頭司祭様でしょうか?」



(異端審問官……………)



それがどのような役職なのか、レイノもよく知っていた。

とは言え実在しているのを見るのは初めてで、映画や物語の中でしかお目にかかったことはない。



「…………さて、かもしれないが、どういう訳か記憶が不明瞭になってしまったようだ。場合によっては、この教区の統括を引き受けるかもしれないとなれば、ある程度の下調べはしておかないとな」



そう返した枢機卿は、呆れた顔で肩を竦めてみせる。


目を瞠ったアンセルムが、レイノには何も見えない枢機卿の足元を見たので、絶対にその辺りには近付かないようにしようと決意した。



「……………もしかして、それでこの状態なのでしょうか」

「この教区に持ち込ませる書類の中に、辻毒を隠す程にこの教区が気に入らない者も多いのは確かだな。教え子が歌乞いになれば聖人の銘が得られる。多くの聖人を輩出した教区が階位を上げるのは確かだ」

「それは、………我が儘ですねぇ。だからこそ、この教区では育てた教え子を他の教会に派遣しています。ヴェルリアの大聖堂にも申し入れをしましたが、火竜達が嫌がるからと断られてしまったそうですが…………」

「それは警戒もするだろう。それがお前達が育てた毒ではないと誰に言える?俺がそちら側だったらごめんだな」



そう呟き、枢機卿は小さく持っていたペンを振った。

たった今までサインをしていた黒いペンは、ふいっと振られた段階で、きらきらした銀色の光の粒を纏い、レイノの目を丸くさせた。



(魔法………………、魔法だわ……)



アンセルムの影からぴょこんと顔を出し、レイノはその様子をしっかりと観察することにした。

きらきらしゅわしゅわした光の粒が枢機卿の足元に落ちるその途中で、不自然にひたりと遮られて弾ける。

すると、その光が触れたところの枢機卿の服裾が、見えない生き物が巻き付いたようにぎしりと皺を寄せた。



(見えないけれど、何かがいるみたい…………!)



ついついワクワクしてしまったことに気付かれてしまったのか、すっと目を細めたリシャード枢機卿がこちらを見下ろし、レイノはぎくりとした。




「お前は、随分と楽しそうじゃないか」

「……………た、楽しんではおりません。その、見えないので…………ぎゃ?!」



どしんと片手が頭の上に落ちてきて、髪の毛をわしわしされたレイノは虚ろな目になった。


これはもしかすると、この枢機卿を当たり障りなくやり過ごすということは不可能になったという状態ではなかろうか。




「猊下、この子は可動域が低いんですよ。辻毒に巻かれたお体で触れますと………」

「ああ、多少移ったな」



こともなげにそう言った枢機卿猊下を、レイノは信じられない思いでゆっくりと見上げた。


どこか酷薄な眼差しでこちらを見ているが、これはちょっと厄介なものをレイノの身にもなすり付けられたということなのだろうか。



「…………見えもしないものですが、厄介なものであれば、取っていただけるのでしょうか」

「教会の教えを学ぶ覚悟があるのなら、身を以て魔術の叡智に触れるのもいいかもしれないぞ?」



ぬけぬけとそう言い、こちらを一瞥した枢機卿の眼差しに、試されていることは分かった。



(多分、この方は思惑があってここに来た方で、よく分からないものを紛れ込まされてむしゃくしゃしていて、それを見えもしない私の無能さに苛々したのだろうけれど…………)



であればそれは、見ず知らずのところに放り込まれてこんな目に遭っているレイノにだって、むしゃくしゃするだけの充分な権利があるのではないだろうか。



「私には今の自分がどうなっているのか分かりませんが、手に負えないような不愉快な状況が進むのであれば、失礼させていただいても宜しいでしょうか」

「ほお、そのまま部屋を出て呪物から遠ざかると、辻毒に体を食い荒らされるぞ」

「………であれば、机の上のものを貸していただけると幸いです。ペンや鉛筆でも構いませんが、やはり短剣の方が苦痛が少なく済みますので」

「レイノ!………猊下、彼女は今朝こちらに保護されたばかりなんですよ。このようなことをされては困ります!……レイノ、それは見た目は派手だけれど、さして害はない辻毒です。警告や嫌がらせのようなものですから、すぐに剥がしてあげますからね」



慌てたアンセルムががばっと二人の間に割り込んで来て、手をぎゅっと握ったので、レイノは小さく溜め息を吐いた。

どうやらこの教官は、レイノが頭にきて枢機卿を刺そうとしていると考えたらしい。



「そいつが刺そうとしているのは、俺じゃないぞ」

「……………猊下?」

「不愉快な状況になるならと、俺を脅した言葉じゃないだろう。不愉快な目に遭うならと、早々に自分を見捨てる為の短剣だな」

「……………私は脆弱で身勝手な人間ですから、痛いことや怖い事には耐えられないのです。逃げ出すということも、私の権利ではありますから」

「尚且つ、そいつも含めて誰かに助けを求める選択肢もなかったか」



そう尋ねたリシャードの微笑みは、ぞっとする程に美しかった。


背筋がすっと冷え、レイノは今のことが、レイノとアンセルムの信頼関係を確かめる為のパフォーマンスだった可能性に気付き、眉を寄せる。



そんなレイノの視線を悠々と受け止めて、リシャード枢機卿は小さく笑うと、ひらりと片手を振った。

その途端、巻き込まれたことによる不快感だと思っていた気持ちの重苦しさがすっと抜け落ちる。


どうやらレイノが抱えた苛立ちも含め、辻毒とやらの影響もあったようだ。


「剥がしておいてやったぞ。ついでに直々の聖祝も重ねておいてやる。お前が、この教区の仕込みの迷い子もどきでないのなら、辻毒にくれてやることもないからな」



その言葉に小さく息を飲んだアンセルムは、リシャードの思惑を読み解いてはいなかったようだ。



(そして、思っていたよりも踏み込むから、実はこの二人は何らかの繋がりがあるのかとも考えたけれど、本当に初対面だったみたいだ…………)



実は少しだけ、レイノは二人が裏で繋がっている可能性について吟味していた。


それは、本来なら雲の上の存在であってもいい枢機卿という立場の人間に対し、アンセルムが慇懃無礼とも取れる話し方をしてたように思えたから考えたことなのだが、今のやり取りからすると杞憂だったようだ。



「…………御身よりご対処いただき、有難うございました」

「やれやれだな。異端審問官が直々に引き受けたと聞いて探りを入れたが、本気でただの当番制か」

「勿論、付きっ切りになりますからね。断る自由はいただいております。ですが、仰るように確かに当番制のようなものかもしれませんね。僕は、一度も迷い子の世話をしたことがありませんでしたし、今は任されている大きな修復や解読もない。このような肩書きですが、レイノを引き受けたのはそれが教会の一員としての役割だからです。…………猊下が読もうとしておられる裏はありません」



憮然としているレイノの隣で、アンセルムは深々と頭を下げて、随分と理不尽な仕打ちをした枢機卿にお礼を言ってくれた。

そうされてしまうと、ここはやはり階級が厳格に敷かれた教会内部なのだ。

嫌がらせをされたばかりのレイノも、しずしずと頭を下げて、辻毒とやらを剥がしてくれて有難うございましたと言うしかない。




「お前達なら、ある程度は使えそうだな。三日後にこの教区内に仕込まれた、外部の目や耳の魔術の洗い出しをする。その為の魔術洗浄に付き合うといい」



けれども、そんな事をアンセルムに言いつけて瞠目させている美しい枢機卿を見ると、この厄介そうな人にこき使われるようだぞと、胃のあたりが強張る感覚があるのは確かだ。

話を聞いている限り、外からの調査目的の滞在ではなく、ゆくゆくは、この教区の運営に大きく関わってきそうな雰囲気ではないか。



「恐れながら猊下、まさかガーウィンにはお一人で来られておりませんよね?」

「当然だ。雑務用の人形と教会兵は連れてきている。だが、それは道具のようなものだからな。誰かの思惑が忍び込まない手駒も必要だろう」

「手駒と、そう仰られるのですね…………」



困惑したように呟くアンセルムの声には、相変わらず飄々とした穏やかさがあって、困ったなぁと微笑む表情にも危機感はない。


ああ、アンセルム神父はこの枢機卿が嫌いではないのだなと理解し、レイノはじりじりと教官の背中の影に戻りつつも、最高段階の警戒レベルを一つ下げた。



(確かに、絶対に敵に回してはいけない感じの怖い人だけれど、私達は、猊下なりの試験のようなものに合格点をいただけたみたい………?)



とは言えこの人は、安易に味方だと言えるような人物ではないだろう。

加えて、これからも決して無関係ではいられなさそうだ。



「駒だとも。それとも何だ、信頼に足りる良き仲間だとでも言って欲しいのか?」

「そう言われますと、確かにそれはそれで胡散臭いですよね……………。猊下は、直属の部下ではない我々にこそ、して欲しいことがあるのですね?」



(うーん、…………アンセルム神父も一癖も二癖もありそう…………)



そのアンセルムも、背中に隠れた迷い子がそんなことを考えているとは思いもしないだろう。

枢機卿とのやり取りを見ていると、後見人としては頼もしくはあるものの、場合によっては警戒するべき部分でもあると考えつつ、レイノは二人のやり取りを窺った。



(猊下は、この先に教区を任される時の為の地固めがしたいのかしら?…………アンセルム神父は、異端審問官としての役割も含めて会話をしている…………?あの女性司祭さんが、秘密裏にこの二人を引き合せようとしていた可能性もあるのかもしれない…………)



「依頼というよりは、これは勅命だな。今更、よく知りもしない直属の部下を雇う程の不自由はしていない」

「……………猊下からの直接のご指示とあれば、教会の教えと教区の戒律に背かない限りは従いましょう」



当然かもしれないが、ここでリシャードは厳格に一線を引いた。


言われてみれば確かに、これだけの人物が慣れない土地に滞在しているとは言え、いきなりよく知りもしない一介の神父に大事を託す程に無防備でもないだろう。



「まっさらな状態から教育が始まる迷い子に立ち会えることは幸いだ。これから、その迷い子の教育にあたり、一定の管理権限を俺が持つ。どの迷い子にも、司教階位の者の庇護が与えられている以上、おかしな話でもあるまい。教区内での迷い子の扱いが、中央からの監査に耐えうるかどうかを測るのには、ちょうどいいからな」

「けれど、それは建前なのですよね?」

「勿論だ。ウィームから二人の司教を預かることになったのは知っているな?一人はザルツの貴族の出で、音楽の領域での秘儀を司る司教として招聘された。魔術階位が高いが派閥負けした穀潰しに近いな。こちらに意思表示をするという体で、都合よく厄介払いされたようにも見える。もう一人は、ウィーム国境域の聖堂から研修期間としてガーウィンに戻されている司教だ。元はガーウィンの蜜蝋と麦の教区の出身者がウィームに駐在となっていたが、こちらはこちらで、ウィームに取り込まれている可能性もある。…………お前達の棟外後見人は、そのどちらかから取り付けろ」



(とうがい後見人…………?)



耳慣れない言葉に、レイノは眉を寄せた。

それは何だろうと考えていると、こちらを見た枢機卿が、うんざりと顔を顰めるではないか。



「まさか、まだそれも教えていないのか?」

「猊下、レイノはまだ教区内のご挨拶も済ませていないんですよ?」



困ったようにそう言ったアンセルムに、リシャード枢機卿は小さく息を吐いた。



「棟外後見人は、この教区の迷い子が後見人となる教官の他に得る二人の後見人の内の一人の名称だ。迷い子は聖人候補でもあるからな、司教以上の役職を持つ者の庇護や後見が必要となる」



リシャード枢機卿の声は低くよく響いた。




「棟外後見人は、住居棟の外に籍を置く者を後見人とせよという教区の意図を示している。有り体に言えば、それだけの支援を取り付けろと言うことだな。大抵の場合は、迷い子が契約する人外者が決まってから、他の者達が意思表明することが多い。勿論、後見人の階級は高ければ高い程都合がいい」



リシャード枢機卿の説明を纏めると、こういう事だった。



迷い子はまず、この教区の教えを学ぶ為に最も近しい後見人となる、教官をあのカードから選ぶ。


ある種、一蓮托生となるのがこの後見人で、その教え子に生涯後見人としての責任を持つことになるそうだ。

生涯と言うのは、既に歌乞い契約の上で命を落とした迷い子がいるからで、その場合、教官は元の役職に復職する。



次に必要なのが、棟外後見人だ。

これは、教区外の後見人を得ることで、迷い子が契約者を得てからの活動を助ける仲介者としての意味合いがある。

後見人としては、二番目に迷い子に近く、そして階位としても教官よりは高い事が望ましい。



そして最後の後見人は、所謂政治的な後ろ盾となる後見人だ。

名前だけを貸し与えて、後見人側はその教え子の功績を自分の領域にする事が出来る代わりに、迷い子はその後見の下に活動の幅を広げる事が出来る。

因みに、リシャード枢機卿が名乗り出たのはこちらであるらしい。



(つまり、棟外後見人として、そのウィームから来た二人のどちらかの人を取り込めということなのかしら……………)



「しかし、なぜレイノなんですか?彼女はまだ契約者を得てもいませんよ。恐れながら、猊下がこの段階で押さえにかかる必要性はないかと思いますが」

「まだ何も決まっていない迷い子だからだ。俺が滞在している間に現れたことで、階位上、俺に全ての権限が付与されていることも理由になるな。そしてもう一つ、この迷い子であれば、聖女或いは契約者としての行いで、そこまで制限もされまい」



それはつまり、迷い子としての資質としてレイノは、そこまで期待されていないからなのだろう。

だからこそ、政治的な意味合いで身柄を押さえる事が可能なのだ。



そう考えれば、レイノが半眼になるのも致し方ない。




「それは、たいへん荷が重いのでと辞退させていただく事は出来ないのでしょうか?」


ついそう申し出てしまったレイノに、リシャード枢機卿はにやりと微笑んだ。

枢機卿としては相応しくない表現であるが、そうとしか言えない満腹の猫のような微笑みに、レイノはぞくりとする。



「悪いが、教会は完全な階級制だ。枢機卿からなされた勅命として、この命令への拒否権はない。ましてやお前は、魔術選定の儀式でその審問官を自身の師として選んだ後だ。魔術的において結ばれた契約はもう解けないぞ」

「それはつまり、…………拒否権はないという事でしょうか」

「そうなるな」



素っ気なく言い切られ、レイノはがくりと肩を落とした。



(階級や勅命のシステムも含めて、似ているようで安心してしまいがちだけど、私の生きてきた世界とはあちこちが違うのだわ。もう少しこちら側の教会について勉強しておくべきだった…………)



そう言えば確か、この枢機卿は期間限定でこの教区に滞在しているのではないだろうか。

いずれはこの教区の統括になるとしても、決められた期間が終われば、一度は王都であるヴェルリアに帰ってくれるかもしれない。




(早く帰ってくれないだろうか…………)




心からそう思い、レイノは暗い目で遠くを見る。


異世界での生活は、スタートして早々に大きく躓いた感が否めなかったが、それはリシャード枢機卿がこの無作法な迷い子を黙らせておこうと、執務机に置かれたベリー色の小箱を取り出す迄だった。



「浮かない顔だな。一つ食うか?」

「ギモーブ様!」

「あっ、こら、レイノ!」



アンセルムが止めようとしたが、レイノはとても意地汚かった。


かぱりと開いた小箱に美味しそうなギモーブが並んでいるのを見た途端、これを気紛れに撤収されてはなるものかと、慌ててぱくりと食べてしまった後だったのだ。


むぐむぐと飛び切り美味しかったギモーブを味わう残念な教え子の姿に、今度はアンセルムががくりと項垂れた。



「契約成立だな」

「……………レイノ、お相手が人間でも、食べ物のやり取りは注意するようにと言いましたよね…………」

「……………むぐ。もう契約は避けようがなかったのでは…………」

「まだ、後から手を回して断れる余地はあったんですよ……………」

「………………むぎゅ」



悲しげにそう言われ、レイノはしょんぼりしたが、リシャード枢機卿は残りのギモーブもくれたので、今までに食べたギモーブの中で一番美味しかった以上は、正当な対価として受け取るしかなかったのだった。







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