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黎明の教区と林檎の盃 7



遮蔽空間を抜けると、むわりと雨上がりの空気が肌に触れた。


先程まではなかった、この影絵の中が生きているという感覚に、ネアは肌を粟立たせる。

ここに入る前とは何かが変わってしまったという感じが顕著なのに、相変わらず周囲には誰もいない。



石畳の上に落ちている紙吹雪と、真っ赤な森苺の実が空っぽの風景に色を添えているだけ。



「…………静か、ですね」

「ああ。だが、災いの頁はもう記された後だな。白本の気配がない」

「まぁ、その魔物さんはもういなくなってしまったのですね?」



大きな災いを齎す者が既に姿を消したと聞いて、ネアは、安堵するべきなのにほんの少し拍子抜けしてしまった。

これは人間の悪い癖だぞとそんな自分を窘め、表面上は、さもほっとしていますという顔をしておく。


勿論、それは良い事の筈なのだが、ネアは物語に育てられた、事件には分かりやすい山場がある筈だと考える貪欲で愚かな人間であった。

仕掛けと騒動だけを残してゆかれ、初めましての、しかも珍しい女性の白持ちの魔物を見る機会を失ってしまい、ぎりりと眉を寄せたいのは内緒なのだ。



「問題は、どこに頁を紛れ込ませたかなのだけれど、林檎の妖精の目的が想定通りであれば、すぐに誰かが頁を捲るような本にこそ、その頁が届くように誘導されていたのかもしれないね」

「むむ。という事は、すぐにでも林檎の妖精さんが現れてしまうかもしれないのですね…………」



使い魔は再び黒ちびふわに戻り、肩の上に乗っているのだが、隣をじーっと凝視しているようだ。

何を警戒しているのだろうと思って振り返ると、ネアの隣に立ったオフェトリウスが、無言で眉を寄せている。

どこか遠い達観の眼差しだが目元が苦し気という、たいへんに悩ましい表情である。



(ハーティクスの盃の効果が、また出始めたのだろうか)



そう考え、ネアもむむっと眉を寄せた。

ネアには、バゲットサンドも次なる棒ドーナツもあるが、ウィリアム達は食欲で凌げないのだ。


このままで大丈夫だろうかと盗み見ていると、二人の騎士は、とにかく早々にこの区域を出ようと判断したらしく、こちらを見て重々しく頷いた。

だが、こちらを見たウィリアムの微笑みは爽やかでさえあるのだから、ネアは密かに驚嘆してしまう。


若干、教会騎士の装いのせいで、微笑みの穏やかさ程に清廉な人間には見えない雰囲気が出てしまうが、そんな微笑みもまた素敵なものなのは間違いない。

騎士というのは、様々な種類こそあれどれも良いものである。



「この影絵を出てしまおう」

「はい。例え、この中に決して敵ではない方々がいても、所詮我が身が一番なのです。我々は、一足早く離脱してしまいましょう」

「フキュフ。…………フキュフ?!」

「ええと、…………アルテアを胸元に押し込むのはやめた方がいいのではないかい?」

「まぁ、駆け足の時に落としてしまわないようにしたのですが、潰れてしまいそうですか?」

「い、いや…………視覚的にね」

「視覚的に…………」

「…………フキュフ」



なぜかそんな忠告があったものの、ちびふわは肩の上に落ち着き、そこからは比較的簡単に街の移動が進んだ。




辺りに響くのは、ネア達の靴音だけ。

これだけ整っていても、街が本来持っている筈の物音は一切しない。


青い空の下に木々の緑がくっきりと浮かび上がり、重厚な店構えのリストランテの入り口には、国旗とおぼしき青い旗がかけられている。

瑠璃色がかった深い青色の旗は、重厚な織り布に艶があって美しい。

ああ、ここは豊かな国だったのだと思えば、胸の奥には、傍観者だからこその身勝手な寂寥が揺れた。




(…………もしかしたら、そんな顛末もまた、林檎の盃を呼び寄せたのかもしれない)



林檎要素が重なり過ぎたせいか、ネアの心の中で、ハーティクスの盃は徐々に魔物達が呼ぶように林檎の盃となりつつあった。

そんな林檎の盃の付与する愛情の祝福を、これだけ美しいままなのに全てを失った国は求めたのかもしれない。


見捨てず、そのまま愛していて欲しかったと思っていたに違いない人々の怨嗟が残るようで、ネアは思わず周囲を見回してしまう。




どこにも行かず、どうかここにいて。

そう願い、がらんどうになった胸を掻き毟って泣いたのは、一体誰だっただろう。

居るべきはずの人々が消えた場所のえもいわれぬ空虚さと恐ろしさは、ネアもよく知っている。



それはずっとずっと当たり前だったのに、ある日突然、永遠に取り戻せない欠落になるのだ。



わぁっと歓声が上がる。

ふと、遠い遠い蜃気楼のようなその向こう側に、まだ生きていた頃の街並みの幻影が揺れたような気がした。


楽しい気持ちにさせてくれる音楽は、街頭で奏でられているのだろうか。

それはもしかしたら、ネアの想像の中の映像の切れ端だったのかもしれないが、滅びの向こう側から、こちらにおいでと手招きしているようにも思えた。


街の中心には大きな円形の広場と時計塔があり、大きな林檎の木が生い茂っている。

はらはらと舞い落ちる紙吹雪の色に、涼やかな水音を立てる噴水と甘い菓子の香り。

そんな街の中を、誰かが、家族と手を繋いで楽しそうに歌を歌いながら歩いていた。



(この街に、見回す限り、時計塔なんてないのに…………)



であればこれは、どこを映した記憶だろう。

見たこともない街の向こうで、誰かが泣いている。

二度と辿れない帰り道の前で、体を折り曲げて。

それは、蜂蜜色の髪の男性だったり、癖のある黒髪の男性だったりした。



ばらばらと、幾重にも重なる嘆きの記憶が、誰もいない街に舞い散る紙吹雪のよう。



「…………っ、」

「ネア?」

「いえ、…………今、ここにはない風景を見たような気がしたのですが、………この街の様子がどこか異様なので、想像力を暴走させ過ぎたせいかもしれません」

「………そうかもしれないのだとしても、警戒しておいた方がいいな。ネア、俺の手を離さないようにしてくれ」

「はい。ウィリアムさんも、私の手を離さないよう、ぎゅっとしていて下さいね」

「…………ああ、勿論」

「…………フキュフ」

「まぁ、なぜちびふわはご立腹なのです?」

「フキュフ!」



肩の上でむがーっと暴れるちびふわのお尻を撫でてやりつつ、先ほど見た物を思い出そうとしたけれど、確かに流れていったその景色は、もうばらばらになっていて拾い上げられなかった。



ただ、その景色が二度と戻れない場所だということは分かっていて、締め付けられるように痛んだ事はよく覚えている。

そしてその痛みは、なぜかネアの内側のものであった。



(…………もしかしたら、惑わせてしまうだけの何の意味もないものかもしれない)



先程の光景には、以前に見た事のある不思議な劇場の夢のような、これは決して蔑ろにしてはならないという予感はなかった。

たまたま影絵の隙間からここにあった王国の過去の幻影を見たのかもしれないし、そもそもがネアの記憶が再編成されただけのイメージ映像のようなものかもしれない。


これは言わねばならぬという直感がなかったので言い訳で補足してしまったが、それでもネアは、全ての異変を共有しておく主義なのだ。

この世界にはまだまだ知らない事など幾らでもあって、その中の一つを、たった一度だけの怠慢で取りこぼす事もあり得る。

美しい人ならざる者達に溢れた世界だからこそ、こちらの作法を見誤ってはならない。



物語の誰かのように仕損じてはならぬと、ネアが、ふんすと胸を張った時の事だった。



「…………む」

「色相が変わったな。明るさと暗さの中層か。災いの予兆だ」

「これが、そうなのですか?」

「ああ。空がぐっと暗いのに、地上には奇妙な明るさが残っているだろう?その内に雲が地上に近くなり、暗くなり始めると辺りは一瞬で暗闇に包まれる。典型的な災いの前兆の一つなんだ」



ウィリアムにそう教えられ、確かにどこか不穏な気配のある空模様にぞくりとする。


であれば、もう少し急いだ方がいいだろう。

そう考えたネア達は、往路で調べておいた細い路地を抜け、出口までの距離を詰めておくことにした。

視界の悪い路地では襲撃の危険も高くなるが、とは言え、空の異変が告げる災いの到来までの時間がない。

時間を無駄にしてしまえば、どちらにせよ何かを損なう可能性が高いのだ。




(…………あ、)



走り抜ける路地の向こうに、どこかの屋敷の中庭がちらりと見えた。


丁度花の時期だったのか、それともここが影絵だからなのか、その庭では淡い紫色の薔薇が満開になっていた。

優しい印象の木のガゼボがあり、ちょこんと並んだベンチがどこか寂し気でもある。


そうして取り残されて忘れられてゆくものがあるのは、確かに悲しくて悔しい事なのだろう。

またちりりと痛んだ心に、ネアは、空っぽの壮麗な舞台を見ると、人間の心はこうして色々な想像をしてしまうのだと気付いた。


であれば、この王国の再興をと望む者達の信仰を、そんな不完全な物語を満たしたくなるような作用が、第三者の欲求として底上げしたのかもしれない。



その時の事だった。



「……………むぐ?!」


いきなり立ち止まったウィリアムに、考え事をしながらぱたぱた走っていたネアは、がくんと体を揺らしてしまう。

じゃりっと固い物の擦れ合う音がして、どこからか取り出した剣を抜いたオフェトリウスにひゅっと息を呑めば、すかさずウィリアムが持ち上げてくれたので、その首にぎゅっと腕を回した。


林檎の木の災いだろうかと思わず石畳を見てしまったのは、どこかで、林檎の災いが芽吹くものという認識をしてしまっていたからだろう。

しかし、肩の上のちびふわに、もふもふ尻尾でくいっと上を示され、あわあわと家々の屋根の上を見上げた。



(…………あれだわ)



ひゅっと、何かが屋根の上を過った。

黒っぽい影に襲撃だろうかと武器を取り出そうとすると、ウィリアムが、耳元で大丈夫だと教えてくれる。

だが、この状況下でいきなり現れた人影を認めれば、分かってはいてもポケットのきりん札を掴んでしまう。

それに気付いたのか、肩の上の黒ちびふわが、みっとけばけばになった。



「ああ、良かった。ここにいたんだ。…………あれ、仲間を増やしたのかな」



急に屋根の上から飛び降りてきて、ひらりと神父服の裾を翻したのは入り口で出会った、異端審問官であった。



黒っぽく見えたがその聖衣は灰色で、同系色の髪を結んでいたリボンが揺れ、首からかけていた装飾的な鎖のようなものがじゃらんと音を立てる。

こちらを見た神父は、危害を加える気がないのだと伝えようとしたものか、両手を上げてみせると、紅茶色の目を細めて笑い、その姿を認めたオフェトリウスは無言で構えた剣先を少し下げた。



「君は、あの入り口で仕事があったんじゃなかったのか?」


話しかけたのはウィリアムだ。


「そうだね。けれど、仕事の内容が変わったので、こうして中にお邪魔させていただくことにしたんだ。自己紹介した方が早いから、まずは名乗っておこう。僕は、ナルツァム。異端審問局の殲滅担当で、こう見えてヴェルクレア国王の密偵も兼ねているので、またどこかで出会ったらどうぞご贔屓に」

「…………まぁ、王様の……………」

「どちらの上司も承知の上で二重在籍という形だね。その内のどちらかの上司から、君達を見付けて、尚且つ、失礼のないようにきちんと名乗ってから伝言を伝えるようにと言われていてね。行違わずに無事に見付かってよかったよ」

「…………であれば、君にその依頼をしたのは王だろう」



そう言ったオフェトリウスに、ナルツァムは温度のない微笑みを浮かべる。

ここにいるのが王都の騎士団長だと理解しているのか、それとも、ただの見知らぬ魔物だと思っているのかは分からない。

彼は、こほんと咳ばらいをすると、この国の王様かららしい伝言を早速伝えてくれた。



「これからここで起こるであろう災いについては、こちらで回収の算段が付いている。厄介な厄介なハーティクスの盃は、管理に長けた場所に預けられる事になったそうだよ。なので、災いが落ち着くまではどうか、ガーウィンやこの国を壊さないで欲しいと言うのが、君達への伝言だ」

「あの盃を保管するとなると、それがどこなのかも聞いておいた方が良さそうだな。この国の王都に持ち込むとなると、いささか不安が残る」

「さて、どこだろうね。僕には、管理と保管を徹底出来る、系譜の高位者の宝物庫だとしか。ただ、相応しい者が引き取り、今後は地上に出さない事で話が付いているそうだから、そこから推理をしてみるのもいいだろう」



(災いの回収について、算段が付いている…………?)



ネアは、魔物達も手を焼いていたこの事態に有効なカードを、まさかヴェルクレア王が持っていたなんてと驚いた。


だが、目の前の異端審問官が何かを話す度に、皮膚の表面が薄く撫でられるような不快感があり、心の中までぞわぞわと落ち着かない。

そちらの感覚に気を取られ、指先で肌を擦りたくなってしまう。



「それなのに、君は王城に向かうのか?」

「ああ、それは個人的な趣味でね。折角の、この目で林檎の災いが見られる絶好の機会は、やっぱり一番近くで観戦しないと。前の林檎の木の災いで祖国を失くした時には、二日酔いで寝ている内に、国がなくなっていて、林檎の妖精は見られなかった」

「………となると、その系譜の災いを避ける守護持ちなんだな。先程から、足元や声に奇妙な祝福の影があるので気になっていたんだ」



災いが開かれるまでもうあまり時間がないのに、なぜかウィリアムは会話を続けようとしていて、ネアは内心首を傾げる。

だが、会話に加わっていないオフェトリウスも、先を急ぐような素振りは見せない。

つまりここには、二人がそれだけの時間をかける必要があると思った何かがあるのだろう。


(祝福の影というのが、気になるのだろうか……………)


ネアは、であればこの賢い人間にも分かるだろうかと目を凝らしてみたが、さすがに、乙女の上品な可動域では、奇妙な祝福の影とやらは見えなかった。

或いは、この得体のしれない居心地の悪さこそが、魔物達には別の形で見えているのだろうか。



「呪いかもしれないよ。何しろ、片目を食われているくらいだ。けれどその通り、林檎の盃の付与効果も、林檎の木の災いも、幸いにして効かない体質でもある。となれば今度こそ、妖精一美しい種族とされる、林檎の妖精を見に行かなければだと思わないかい?あわよくば、一口くらいいただきたいものだが、さすがにそれは呪われそうだ」

「…………妖精食いか」



低いウィリアムの呟きに、眼帯の神父は微笑んで頷いた。

にこにこしているが、その眼差しは酷く平坦で、夏至祭の夜の妖精の音楽のような、寒々しく恐ろしい陽気さがある。



(…………人間の入れ物で魂も人間な筈なのに、どこかもう、人間ではない何かだという気がする…………)



この人物の気配にはアレクシス達にも近しいものがあるが、決定的に違うのはその気配の温度だろう。

あの聖堂で遭遇しただけでは分からなかったが、目の前で喋れば喋る程、その異質な感覚が強くなってゆく。


ネアは、あまりこの気配に触れないようにしようと、肩の上のちびふわにすりりっと頬を寄せた。

ぺろりと頬を舐められ、その擽ったさに唇の端を持ち上げていると、少しだけ心が緩む。

やはり、この毛皮のお供の存在は、とても偉大だ。



「何も全ての食事がとは言わないけれどね。どうやら、生まれたときに祝福をくれた妖精に、まずい種類のものがいたみたいだ。それ自体は珍しくはないけれど、こうして生き残って適応する人間は珍しいらしい。僕が生き残れたのは、信心深い子供だったからかもしれないし、或いは、子供の頃から猊下の下で働けていたからかな」

「子供の頃からというと、見習いから審問局にいたのか」

「そうだよ。だから、育ての親でもあるリシャード枢機卿の影響は大きいかな。あの方からは、人生の楽しみ方も教えて貰ったしね。…………おっと、そうこうしている内に、妖精が通り過ぎていっては堪らないね。伝言は無事に届け終えたし、僕はもう失礼させて貰おう」



会話の途中で我に返ったのか、ナルツァムははっとしたように顔を上げ、短く会釈すると走っていってしまった。


苦笑したウィリアムが、異質な気配の人間だったので、もう少し情報が欲しかったなと呟いている。

オフェトリウスも考え込むような目で頷いたので、どうやら今の会話は、ナルツァムの身元調査でもあったらしい。


(つまり、危険を承知でここで時間を割いてでも、あの人の情報を得ておかなければと思ったのだ…………)



「さて、脱出に戻るか」

「ええ。…………せめて、固有魔術の解析くらいは出来れば良かったが、厄介な神父ですね…………」



(……それは、妖精を食べてしまうからだろうか?)



オフェトリウスが厄介と言うからには、ナルツァムが王の直属の駒とは言え、それだけで安心出来る材料にはならないのだろう。

無事にここを出たら誰かにその危険性を教えて貰おうと考えたネアは、ここで、ふっと照明を落としたように世界が真っ暗になるのを見た。




とぷんと、全てが暗闇に沈む。

そして、何も見えなくなった。




「…………っ、」

「いいか。明かり取りを持っているのなら、絶対に点けるなよ?」


鋭く息を呑み、急な暗転に縮こまった心臓がばくんと音を立てる。

そんなネアの耳元に落ちた声は、先程までちびふわだった筈の魔物のものだ。


「アルテアさんです………?」

「林檎の木の災いが開いたんだ。影絵の魔術基盤が書き換えられたからな。もう、こちらの姿でも問題ない」

「…………アルテア、どこに顕現したか分かりますか?」

「城の方だな。だが、探索の根を広げるのは時間の問題だろう。………回収の手立てとやらは、機能しているのか?呼び込まれた妖精は、明らかにこの国の中を見回しているぞ」

「まだ間に合っていないのかもしれませんね。………オフェトリウス?」

「アルテアがいるのなら、僕は少し離れましょう。いざという時には剣を振るうにせよ、その際に近くにいると彼女の居場所が掴まれ易くなる」

「ああ。そうしてくれるか?」



ウィリアムの返事に短く頷く気配があり、暗闇の中で誰かが立ち去る音がする。



(こんな暗闇の中でも、オフェトリウスさんは動けるのだ…………)



もしや魔物は夜目が利くのかもしれないと考えたネアは、棒ドーナツと併せて、調べなければいけない事が増えたようだ。



どんなに目を凝らしてみても、もう、自分が瞼を開いているのかも分からない。

どこまでが自分の体なのかさえ分からなくなるような暗闇の重さを知れば、しっかりと背中に回された手の温度はどれだけ心強いだろう。

この温度やかけられる声がなければ、ネアは、蹲って震えているしかなかった暗闇の筈なのだ。



(ああ、そうか。私は、こうして怖いものがなくなってゆくのだ…………)



ふと、そんな事を考える。


この世界に呼び落されてから、一つ、また一つと、怖いものは少なくなった。

心の奥底に残った無残な傷跡やくしゃくしゃになった部分はそのままでも、そこだけを見てさめざめと泣くのではなく、今触れている誰かの温かさに感謝出来るようになったのだ。



ばたん。



どこかで、いつか聞いた扉の閉まる音がする。


だからネアは、そんな音を聞いてぴっと身を竦めても、もう震えるばかりではなかった。

それに今回は、かつてのように、その音に繋がる何かがじわじわとこちらに広がってくる気配はない。

やはりあの黒い車はもう、蝕の中で隣にいてくれたダナエがぺしゃんこにして壊してしまったのだろう。



(だからこれは、…………その残骸のようなもの)



そう思うとなぜか、道具屋のあわいで見た、馬車の残骸の事を思い出した。

けれどもあの残骸もそうなのだ。

壊れてしまった物はもう、以前のようにこの道を塞いだりは出来なくなる。

その証跡は失われないのだとしても、確かにもう終わったのだと。




「まぁ、不思議。ここには、私達の林檎の木と一緒に煮込まれた、不思議な魔術の印の匂いがするわ」



とは言え、そんな美しい声がどこからともなく聞こえてくれば、直前までの得意げな気持ちがしゅわんと萎んでしまう。


慌ててウィリアムにしがみついたネアに、ふっと頬に落とされた祝福の口づけを感じた。

誰かが前に出たような空気の揺らぎがあり、ネアは、何も見えない暗闇を見上げる。



「悪いが、ここから先は俺の領域だ。花嫁でも花婿でも、好きに連れて帰れ。だが、こちらの獲物には手を出すなよ?」

「あら、…………あらあら、選択なの。どうしてこんな災いの街にと言うのは愚問でしょうね?あなたはいつだって、私達の災いの近くにいたし、時にはあなたがその災いを招いたのだわ。…………ねぇ、その後ろに女の子がいるでしょう?ふふ、甘くて清しくて、いい匂いだこと」



(もしかして、……………)



今ここにいるのは、林檎の妖精なのだろうか。

何も見えない暗闇の向こうから、鈴を鳴らすような軽やかな笑い声が聞こえて来るのは、酷く奇妙なものだった。


「俺の獲物に手を出すなと言わなかったか?」

「まぁ、意地悪だこと。………その子には、ウィームの魔術と運命の匂いがするわ。それに、私達の林檎の木を使った魔術の名残りの匂い。………やっぱり、誰かが私達の執着を利用して、勝手にウィームの人間を捕捉するような呪いを育てたようね。………辻毒、かしら?………でもそのお蔭で、ウィームの子供達のなんて見付けやすいこと」

「…………ほお、そんなものがあったのか」

「知りたければ、その子を半分こにしましょうよ。人間は繊細だと聞くけれど、半分でもきっと良い伴侶になる筈だわ。私にだって、あの素晴らしい羽を得た花嫁のような、美しくて優しい子が必要なのだもの」



ネアは結局、白本の魔物に出会う事はなかったが、それでも、こちらの妖精も充分に獣じみた気配のある、人ならざる者という感じがした。


人間は半分にされたら死んでしまうのに、いとも容易くそんな提案をする。

伴侶にしたいと口にしながらも、そこに相手への思いは微塵も感じられない。

あるのはただ、獲物を見定めた獣のような、獰猛で冷酷な執着だけ。



(…………この暗闇に感謝しよう)



声音だけでも、背筋がぞくりとするような美しさなのだ。


それでもし、暗闇が晴れて妖精の中で最も美しいという、その姿を見てしまったなら。

ネアの心までは動かないにしても、美貌に伴う階位に何か影響を受けてしまったかもしれない。



(呪いの香りと言うのは、………どれの事を指しているのだろう?)



名残りと言うのであれば、呪いそのものは失われているのだろう。

辻毒と言われて浮かんだのは、以前に、ネアの周囲にいたと聞かされた魔物製のものだが、リーエンベルクに暮らし様々な陰謀にも触れてきた以上、他のどれかなのかもしれない。



「だから、……………あら嫌だ」

「何だ。さっさと離れろ」

「…………その子は、私の扉となった本との相性が悪いのね?どこかで一度、あの頁を収めた本を、その手で服従させた事があるのだわ。……………ああ、口惜しい。せっかく、今度こそウィームの子に出会えたのに。あの本から出てきた私には、この子に触れられないだなんて」

「本?………魔術書だな?」

「ええそうよ。国滅びの災いと崩壊を齎す、けれども、死んだ国の生き返らせ方も記した悍しい魔術書。そんなものを調伏した人間だなんて、ますますとっても素敵なのに……。でもいいわ。他の人間を入れ物にして、その子と一緒にウィームに行けば……………」



美しかった声音に、どこか妄執にも似た濁った音が混ざり始めた時の事だった。

妖精の声が不自然に途切れ、代わりに、ばきりと何かを無理やり折り畳むような悍ましい音がする。

もう一度ぎくりとしたネアを、ウィリアムがしっかりと抱き締めてくれた。



「この国の王との約定に於いて、これは回収してゆきましょう。だが、結果としてあなたの守護を受けた者を守るとなると、それはあまり気分のいいものではないな」

「……………ジャスワンか」



(……………む)


代わりに落ちたのは、どこかヒルドを思わせる、涼やかな美しい声だ。

またしても新規の登場人物だが、とは言え暗闇で何も見えない。

だが、会話を聞けばアルテアの事を知る人物のようだ。

声に滲む不快感から、あまり親しくはない知り合いなのだと分かる。



「……………私の名前を、敢えて出しましたか。本来ならであれば、尚更見逃し難いところだ。……………けれどもその人間は、ウィームの子で、尚且つ私の血族の妖精の羽の庇護を受けているらしい。……………あなたが、妖精の羽の庇護を受けた人間に守護を与えているのだと思い、その不憫さに心を慰めておきましょう」

「約定に従うんだろ。さっさとそいつを連れて帰れ。その盃は二度と地上に出すな」

「言われずとも。私の伴侶の憂いとなるような物を、これ以上地上に残しておく訳にはいきませんからね」



その言葉の最後の響きが消えきらぬ内に、ふつりと誰かの気配も途切れた。

同時に、これだけ濃密に立ち籠めていた暗闇がゆるゆると崩れ始める。


暗闇が晴れる直前に、街中に芽吹き、豊かに生い茂った立派な林檎の木々を見たような気がした。

それは、赤混じりの硝子細工のような美しいもので、きらきらと細やかな魔術の光を落としている。

そんなものが王都を覆い尽くした光景は、果たして幻想的で美しいと言えるのか、それとも悍しいのか。


けれども、闇が晴れきる前に、しゃりんと音を立てて全て砕けてしまった。



「……………ほわ、何も残っていません」

「だろうな。葉の一枚も残さず回収していきやがったか」

「あの妖精とは、知り合いだったんですか?」

「件の、ウィームの血族を伴侶にしたシーだな。あいつの伴侶の国崩しをしたのが俺だったとかで、しつこく付き纏われた事がある。…………ヴェルクレアの王は、妙なものに通じているな」

「むぅ。林檎の妖精さん達が、ウィームに執着する切っ掛けになった花嫁さんを貰った方ではないですか。……………とはいえ今回は役に立ちましたので、有り難く帰路に就きましょう」

「で、お前が調伏した魔術書は何だ?」

「…………きおくにございません」

「ネア、あの妖精の言っていた内容なら、俺の系譜の物かもしれない。よく思い出してくれ」

「ぎゅ、……………ぎゅむ」



そこから影絵を出る迄、ネアは厳しい取り調べに協力せねばならなかった。

しかし、道中で様子のおかしくなったアルテアに、こてんと首を傾げる。


「アルテアさんの目元が赤いのですが……………」

「妖精の恨みは恐ろしいという事だろうな。あのシーは、林檎の盃を手にしていたんだ。逆に俺の付与効果はすっかり剥がれたが、代わりにアルテアに何かを付与していったらしい」

「……………さいいんこうかてきな」

「あなたが煽るからですよ」

「放っておけ」

「むぐ。棒ドーナツを食べます?今なら、ちびちびふわふわしていないので、お砂糖酔いもしませんし…………ぎゃむ!なぜはにゃを摘まむのだ!!」

「いいか、ここでは二度とあの菓子の事を口に出すな!」

「ご自身で作ったお菓子に対し、何という理不尽な仕打ちなのでしょう。乙女の鼻を解放しないと、棒ドーナツで攻撃しますよ!」

「……………やめろ。いいか、絶対にだ」

「アルテア、今はネアに触れないようにして下さい。油断も隙も無いな……………」

「ほお、お前に言えた口か?」

「むむ、オフェトリウスさんが戻ってきましたので、こちらはひとまずぽいとし、手を振りますね!」



離れていたオフェトリウスはと言えば、移動先でうっかりカルウィからの侵入者達と鉢合わせしてしまったものの、その人間達は、あっという間に通りすがりの林檎のシーにずたぼろにされてしまったそうだ。

弓を持つ妖精魔術の残滓のある女性がいたそうなので、ネア達を狙撃したのは、恐らくその者達なのだろう。


どうやら彼等は、林檎の災いが齎され、慌てて城から逃げ出して来たところで、オフェトリウスや、この事態を回収しに来た、あの男性の方の林檎のシーに出会ってしまったらしい。


不運とも言えるが、ハーティクスの盃が付与した祝福は、縁という魔術の一端をも司っているので、同じ林檎を司りその上位となる妖精からはどちらにせよ逃げられなかったのかもしれないそうだ。



城に居た、今回の事件の発端となった聖職者は、林檎の災いで命を落としたのか、そうではなくともあの異端審問官が回収するだろうと言う事であった。


事件に関わったのは一組ではなかったらしく、その内の一部の者達はオフェトリウスが回収したと話していたので、案外、あの場で離れたのは王都の騎士としての仕事をする為だったのかもしれない。

ただし、回収出来たのは林檎の妖精にばらばらにされた犯人の体の一部のみなので、それで、オフェトリウスに回収を任せた誰かの役に立つのかは謎だ。




「で、何でお前がいるんだよ」

「はは、嫌だな。俺も、異端審問官の一人として働いていた事があるので、滅多にない畑の異変の情報を聞きつけ、楽しく見に来ただけですよ。いやはや、砂糖が美味い」

「ぎゃ!こちらを見ながら、お砂糖を食べるのはやめるのだ!!」

「………何だか、魔物の密度が高くなりましたね」



入り口の聖堂に戻れば、そこにはなぜか、神父服のグラフィーツがいた。


ネアを見るなり、白いお皿に山盛りの砂糖を取り出し、じゃりじゃりと食べ始める。

呆れたように首を傾げたオフェトリウスに、ウィリアムも怪訝そうな目をしていた。



「…………ぎゅむ。ウィリアムさんな乗り物から降りて、その背中の後ろに隠れますね」

「おい!飛び降りるな!」

「なぜ叱られたのだ……………」

「えーと、………ところで、どうしてアルテアだけに、催淫効果が残っているんですか?」

「日頃の行いだろう。…………アルテア、歩けますか?」

「……………放っておけ。……………それと、お前は二度と弾むなよ」

「むぐぅ。弾みではなく、降車だったのです」




けぶるような黎明の光にも似た、淡いクリーム色の色彩に溢れる聖堂を見上げ、先程の暗闇と一瞬だけ見えた災いに連なる林檎の木々を思う。



(……………あの妖精さんを、ウィームに持ち帰らずに済んで良かった)



そっと安堵の息を吐き、ネアはいそいそと、首飾りの金庫からバゲットサンドを取り出した。

包んである紙を剥いで齧り付けば、なぜか魔物達が驚愕の目でこちらを見るではないか。



「……………ネア?」

「ウィリアムさんも要りますか?なぜか、先程からお腹が空いてしまっていて、最後の腹ごしらえなのです。この聖堂はとても綺麗なので、景観のいい所でのお食事というのも、乙なものですね」

「…………効果が剥がれ落ちていても、……………試練は試練だったかな」

「……………おい、ふざけるな」

「なぜ荒ぶるのだ。アルテアさんが持たせてくれた、小海老のタルタルバゲットサンドでは?」

「……………アルテア、自己責任ですよ」



そうして、美しい聖堂と美味しいバゲットサンドを楽しみ、ネアはウィームに帰った。



黎明の教区では美しい朝の光に包まれていたが、帰るとすっかり深夜だったのが意外な思いである。

待っていてくれたディノにぎゅっと抱き締めて貰い、ほっとした様子のエーダリアに、無事にハーティクスの盃は人間の手に届かない所に持ち去られた報告をする。



戻ってから聞けば、ナチャカの災いであの盃を地中深く埋めてしまっていたのは、グラフィーツだったらしい。


林檎の妖精達が策を巡らせ、ウィームにやって来ようとしたのを防いだのかもしれないと聞けば、ネアは、かつてこのウィームにあったという、雪白の香炉の館を思い出した。


もしかしたら、グラフィーツの歌乞いは、ウィーム王家の血を引く人間だったのかもしれないし、その歌乞いの周囲に、そんな誰かがいたのかもしれない。

でもそれはきっと、彼だけの大事な思い出の抽斗の中のものなのだろう。


ネアとしては、こちらを見てお砂糖を食べるのだけは、どうにか止めてくれないだろうかと思うばかりだ。



リーエンベルクに泊まる事にしたアルテアは、妖精の恨みを買ったせいで一晩大変だったようだが、それはまた別のお話。



















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― 新着の感想 ―
[良い点] 情景描写がとても美しいところが素敵です。 [一言] 初めてコメントします。 バンルやグラフィーツさんは、いつかネアとウィームの関係を知らせるかな~、人と感覚が違うから教えないのかな…と思…
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