黎明の教区と林檎の盃 6
鍵を差し込みかちゃりと回す。
併設空間は、よく考えれば最適な場所があったではないかと、ネアの厨房を使う事にした。
その中に入ると、一時的にとは言え完全に魔術の付与が剥がれるらしく、オフェトリウスはとてもほっとした顔をしている。
時間は無駄にしない主義なネアは、取り出したカードを開きながら、残っている疑問について尋ねてみる事にした。
「先程ウィリアムさんが口にしていた複合魔術というのも、白本の魔物さんのものなのですか?」
「いや、あれは相乗効果で魔術が強まるような、相性のいい魔術の組み合わせを示す言葉なんだ。………よりにもよって、白本からの襲撃があったあの瞬間に、林檎の盃の祝福魔術が再び効果を得たんだ。今回は、オフェトリウスにとっては不幸な組み合わせだったな」
「むむ…………」
「大方、それで注意が散漫になったんだろ」
すいっと視線を逸らしたオフェトリウスに、呆れたようにそう言ったのは、先程までお砂糖欲しさに荒ぶっていた選択の魔物だ。
鍵穴を利用して退避したこの厨房は、臨時遮蔽空間にもなっており、今ばかりはちびふわ姿でなくても構わないらしい。
そんなアルテアが、なぜあの影絵の中で元の姿で過ごし難いのかと言えば、選択の資質として、林檎の盃の齎した祝福を当人の理性を超えて高める為に使われかねないからなのだとか。
勿論、どうしようもなくなれば不利益も覚悟で人型に戻るが、あくまでも最後の砦なので、ウィリアム達が機能している間はちびふわのままでいるつもりらしい。
「その、…………もうお体は大丈夫ですか?」
「ネア、その質問だと、余計なもの迄を案じる事になる。触れない方がいいかな」
「むむ?」
「…………はは、面目ない。…………多分、あの場所は、盃の犠牲者がいた所なんだろう。そのせいで、効果を抑えていた筈のハーティクスの祝福が濃密に残されていたんだ。白本があの場所に顔を出したのも、祝福の強さに盃の祝福の気配を追って顔を出したのではないかな」
「………そう言えば、お外でと話していましたね。………むぎゃ?!なぜ、乙女のか弱いおでこを叩くのだ!」
「情緒がないのは今更だが、少しは躊躇え!」
「今回のお仕事でそのような事に触れるのを躊躇っていたら、まともに会話に参加出来ないのでは………」
「そもそも、あのドーナツを作ったのはあなたですからね…………」
「いいか、普段ならその日の内に食べる物を、わざわざ取り置いて持ち込んだのは、こいつだからな」
「ふむ。ヴァロッシュの祝祭に合わせたのですよ!ですが、棒ドーナツがなぜいけないのかは、まだよく分からないのです」
ネアがそう言えば、なぜか男達はぴたりと黙った。
早く外との話し合いを済ませてしまおうと、不自然に話題を変えてしまう。
暗い目でそんな様子を見守ったネアは、帰ったら何が彼等をもの静かにしてしまうのかは義兄に教えて貰う事にした。
何となくだが、ディノやエーダリアには聞かない方がいいと、野生の勘が伝えてきたのだ。
「では、始めますね」
カードにはまず、想定外の状況になってきたので、今後の方針を再検討したいという旨を書き込んだ。
すぐにディノから必要な人員を揃えるよと返信があり、祝祭の場から離れられないエーダリアとヒルドを除き、ノアとダリルが参加してくれる。
そこでネアは、こちらで起きている事を、ウィリアム達の推測を含めて報告させて貰った。
“うわ、止めだ、止め!白本が出てくると、うっかり災厄に関われば、こちらが国家の危機を呼び込んだと責任問題にされかねない。そもそもあいつは、避けても本を開くし、真っ正面から立ち向かっても本を開く、節操のない女だからね………”
返事はすぐに来た。
ネアは、淡い金色に光るメッセージを仲間達と覗き込み、顔を見合わせる。
「むむ、ダリルさんが、確実に白本さんと過去に何かあったとしか思えないお返事をくれました…………」
「………おっと、説得の必要があると思っていたが、思ったより簡単に手を引けそうだな………」
「よく考えれば、あいつも、白本との接点は多い立場か…………」
カードに現れたダリルの文字に、振り返ったネアを見たウィリアムがくすりと笑う。
アルテアも頷いており、これなら利益よりも安全を優先させられるなとほっとした様子だ。
オフェトリウスは、どこか遠い目をして、僕の上司にもこの判断力があればいいなと呟いているので、やはり騎士団長としての役割にはなかなか強引なものも多いらしい。
「少し話を詰めるか……」
「ええ。この状況とは言え、放置出来ないものもありますからね」
(ここに入ると、ウィリアムさんがアルテアさんに敬語になって、オフェトリウスさんは普通の話し方に戻るのだ………)
そんな話し方の入れ替えを面白く思いつつ、その後も議論が進んだ。
ひとまずは、ハーティクスの盃を手にした者達の処遇は、白本の魔物がこちらでどう振る舞うか次第になる。
ある程度の危険も伴うが、門になっていた聖堂で事の成り行きを見守るのが良いだろう。
儀式が終われば参加者には通達がある。
その時の状況如何で、もう一度戻ったほうが良ければ、ネアとウィリアムの扮した教会騎士に擬態したアルテアは離脱し、ウィリアムとオフェトリウスが中に戻る事もありうる。
また、上長の指示次第では、オフェトリウスだけがその場で待機するという事もあり得るそうだ。
「縁が縁を呼び込むという意味では、魅了を資質とする、林檎の盃らしいのかもしれないね」
「破滅的な縁組をするあたりが、林檎の系譜らしいとも言えるな」
「はは、作られた時に壊しておけば良かったかな。今になって思えば、あの当時ならまだ、多少土地が崩れても構わなかったんだが………」
ともあれ、ハーティクスの盃の奪取が最優先ではなくなり、魔物達はほっとしたようだ。
休暇の冒険に見せかけた任務中であるオフェトリウスも、この状況をどこかとやり取りをしているが、事前の契約で、全ての情報や、ウィーム側の事情やこちらの会話をそのまま雇用主に伝えないように魔術の誓約を交わしてある。
だが今回は、さすがに中央でも掴んでおくべき事柄が多く、ダリルは、国興しを目的としている者達がいる事と、白本の魔物が現れた事までは伝えて構わないとしていた。
「…………ふぁむ。冷たい南国風の紅茶が、とても美味しいです」
「やっと落ち着いて飲み物を飲めたな…………」
「まぁ。ウィリアムさんが、ぐったりしています…………」
「長い闘いだったからね………」
「オフェトリウスさんも、項垂れてしまうのです………?」
相変わらず仲良くとは言えないものの、終焉の魔物と剣の魔物の間には、何らかの連帯感が生まれたらしい。
互いを労うように冷たい紅茶を飲む二人に、ネアは、林檎の盃の効果はやはり辛かったのかなと目を瞬いた。
見ていた限りでは、多少のぼせたようになっていたくらいにしか見えなかったが、当人達からすれば、かなりの苦労があったのかもしれない。
そんな時のことだ。
中で起きている事などを引き続き報告していたカードに、ふわりとディノの文字が浮かび上がる。
優美な文字で綴られたそれはまるで、どこか遠い場所から届けられた託宣のように、ちかりと光った。
“様々な組み合わせで、その意味が幾重にも重なる。今回の仕掛けは、どこか作為的だね”
だからこそ、そんなディノのその言葉に、ネアはこれまでの経緯を考えた。
グラスを傾けていたアルテアの動きが止まり、氷がからりと鳴る。
眉を顰めたものの、こういう組み合わせは苦手なんだと頭を抱えたウィリアムに、顎先に手を当てて考え込む様子のオフェトリウス。
だが、その場の誰かが答えを出すよりも、脳内を整理したいが散らかるばかりで、魔術仕掛けの迷路のような任務に辟易した人間の呟きの方が早かった。
「むぐぐ…………、まるで迷路でパズルです。せめて、推理ものの物語本のように、先に犯人が分かっている構成なら楽なのですが…………」
「…………それだ。アルテア、犯行の目的は誰だと思うかい?何というか、今のままでも国からしてみれば充分な懸案事項だが、………あの土地に敷かれた因果の不穏さを思えば、何かが足りないという気がするんだ」
「国興しか、異端審問局か。…………いや、そのどちらでもないという気がするな」
そんな会話を逃さず、ネアは、カードにしっかりと書き写す。
すると、真っ先に反応したのはダリルであった。
何しろこの妖精の固有魔術は、迷路なのである。
“ああ、言われてみれば確かに、ここまで面白いように転がり落ちるとなると、当初の想定のどこにも掠らないような真意が隠されている可能性がある。…………ある種読み解きやすい、そのどちらでもないという感じがするね”
“万象であるシルが気になるってことは、多分他に本筋の理由があるんだろうなぁ………”
“信徒達は信仰ありきだ。異端審問局もそいつ等の動きがなけりゃ、動くまいよ。であればカルウィかと言えば、現在の国の基盤となった国を林檎の災いで滅ぼした連中が、こちらの協力者との連携なしにハーティクスの盃に手を出すかね?あちらの国は、あの残虐性と信仰の意識を両立させるおかしな連中だ。信仰の災いにだけは、早々手を出さない筈なんだよねぇ………”
そんなダリルのメッセージを読み、ネアは首を傾げた。
「カルウィの基盤となった国は、林檎の災いで滅びてしまったのですか?」
「ああ。あの時の鳥籠は酷い物だったな。白本の齎した林檎の木の災いが原因で、王都の全てが林檎に喰われたんだ。当時のカルウィは、州国の集まりだったが、その中でも中心の国が滅び、残された国で再編されたのが現在のカルウィになる」
「まぁ、それは知りませんでした。……………あの国にも、そうして滅びに瀕した事があったのですね…………」
ウィリアムから、思わぬかの国の歴史を教えて貰いつつ、ネアはカードの文字に視線を戻した。
そちらでも、また新しい議論が続いており、アルテアが投げかけた質問にノアが答えたところのようだ。
“じゃあさ、カルウィは国の再興の材料の一部だって割り切ってみようか。その上で他の要素は、白本と、………忘れちゃいけないのは、僕達だ。終焉と剣、それにネアかな”
“…………あり得るな。何しろこいつは事故を引き寄せ易い”
“解せぬ”
“白本には、祝福と災いの天秤の調整以上の理由はないと思うよ。今回は、林檎の盃が発見された事から全てが始まったのだったね。源流と下流で結び、林檎の盃に白本を呼び込むとなれば、何が起こるだろう?”
ディノの問いかけに、ネアが思い出したのは、芽吹いた林檎の芽のイメージだ。
ひび割れた床石に、深く深く地中に伸びた健やかな根。
その先の暗い地下には、何が眠っているのだろう。
「…………林檎の木の災いか」
アルテアの声が、厨房に静かに響いた。
それが、かつてハーティクスの盃を作った林檎の魔物よりも階位の高い、災いを成す美しい妖精に結ぶのであれば。
「……………その頁を開いてしまうと、どうなるのでしょう?」
「頁に記された災いが呼び込まれる。例えば終焉の頁であれば、俺の召喚がかかる事が多い。理の調整者が必要とするだけあって、その場合は、既に俺の手入れが必要とされるような場所に成り果てている事が多いが、その先で俺が何をするのかまでは、厳密には指定されていない」
「ああ。クライメルの頁は何回か開かれたが、あいつの場合は、望まれた役割をその場で果たす事はなかったな。だが、結果として頁を開いた者達は、滅びる事が多かった。あいつは、そういうものだからな」
「だからこそ、白本はクライメルの頁を好んだのだろうね。調整に役立たなければ、彼女は働き損だ」
「という事は、………林檎の木の頁を開くと、古い時代の林檎の妖精さんが現れるのです?」
ネアは若干、その妖精種はまだ残っているのだろうかと思い、そう尋ねてみた。
するとどうだろう。
魔物達は何かに気付いたのか、ぴたりと黙り込むではないか。
こちらの会話を描き込んでいたカードでも沈黙が落ち、さっぱり行き着く先が見えないネアは、早く教えて欲しいのだと、椅子の上で小さく弾んだ。
「おい、弾むな。一時的に魔術効果は抜けているとは言え、感覚そのものは記憶に残る」
「むぅ。その妖精さんは、まだ残っているのですか?今はもう、新しい価値観から派生した林檎の妖精さん達が主流なのですよね?」
「うん。厄介な者が数人残っているよ。……一つ嫌な事を思い出したんだ。確か、その王族の一人に、ウィームの血族を娶った妖精がいた筈だ」
「古い林檎の妖精の中にか?…………珍しいな。彼等は、獲物と見做している人間は好まないと思っていたが…………」
怪訝そうに問いかけたウィリアムに、オフェトリウスが頷く。
記憶を辿るように目を細めたアルテアが、聞いた事があったなと呟いた。
「確かにそんな奴がいたな。伴侶がウィームの血族というのは初耳だが………」
「当時のカルウィ近郊の国に嫁いだ、王女の子供でね。その国は、旧州国時代のカルウィに滅ぼされてしまったけれど、王女が一人、カルウィの王子の婚約者として残った。そちらでどんな事があったのかは分からないけれど、最終的にその子は、林檎の妖精の伴侶として妖精の国に迎え入れられている」
「………ほお、随分と詳しいな」
「かつての主君の孫の一人だから、噂には耳を澄ましていたんでね。林檎の木の災いと言えば、妖精王の物が有名だけれど、その時の災厄もかなりの規模だった筈だ。先程話していた、カルウィの前身だった国の滅びの理由だ」
「むむ、そのような事が背景にあったのですね………」
「ほお。となるとその妖精は、白本の災いが門になる事を知っているんだな」
ネアがそのやり取りの全てをカードに書くと、ダリルから一つ指示がなされた。
“ネアちゃん、ヒルドの耳飾りを付けておいた方がいいよ。………かつて、林檎の木のシーが、ヒルドの一族に嫁いだことがある筈だ。残忍な妖精だけど、植物の系譜の妖精達は、自分の氏族の庇護には手出しが出来ない。その耳飾りに気付くかどうかは賭けだが、耳飾りを紡いだ庇護は、愛情の魔術にも由縁するからね。もしかすると、そいつ等の目にはよく見えるかもしれない”
“はい。では、ヒルドさんの耳飾りを付けておきますね”
“わーお。執拗に、妖精、妖精、妖精って感じだね。オフェトリウスの嫌な予感がその妖精に繋がるとしたら、ウィームはどんな成果物になるんだい?”
ネアは、その言葉に、おやっと眉を持ち上げる。
(そう言えばあの影絵の国でも、滅びた国の王女様を、森の妖精さんが連れ帰ったのだわ………。国の終わり方がよく似ていて、それが今回の事に偶然重なるというのはあり得るのだろうか…………)
であれば、そちらも繋がるのかを誰かに確かめようと思いつつ、ネアは、ひとまずはノアの質問への答えを聞いてみることにした。
なお、外野には違いないオフェトリウスはこちらのカードには触れないようにしているので、ネアが代筆係である。
「………誰が敷いた除外魔術なのか、ウィームの敷地内に彼らが踏み入る事は出来なくなったと聞いている。また、ウィームの領民への侵食も禁じられていた筈だ。その理由はどうも、先述の妖精とその伴侶が関係しているらしい」
「ああ、それであれば、グレアムの措置だ。古い氏族の方の林檎の妖精が、ウィームの王族を欲しがったと頭を抱えていたからな。………まさか、それが理由か?」
「…………ああ。やはり、そのような理由だったんだね。でなければ、侵食の禁止までは必要ないからね」
「くそ、となるとそれだな。この場には、あくまでもガーウィンの領民という役割で参加している。約定から外れるウィームの民が現れるのを待っていたのか。…………ウィリアム、グレアムから、なぜそいつ等がウィームの王族を狙ったのかの理由は聞いているか?」
「いえ、会話の中に上がったくらいでしたので、理由までは。…………だとすると、グレアムが事情に通じている可能性がありますね。そもそも、ナチャカの災いはガーウィンでの事ですよね。アルテアは、何か聞いていませんか?」
「いや。その一件は、俺がどこかの誰かのせいで、灰かぶりになって不在にしていた時の事件だからな」
「おっと、そうでしたか。…………であれば、シルハーンに聞いてみます」
ここでウィリアムがカードにその質問を書くと、すぐにディノから、当時のことを知っていそうな者に聞いてみるよと返事が来た。
とは言え、その場にいない犠牲の魔物から話を聞く筈なので、すぐにという訳にはいかない。
ネアは、アルテアが灰かぶりになっていたのなら、グレアムも不在にしていたのではないかなと考えたが、司るものを不在に出来ない魔物は、再派生がとても早いと聞いた事を思い出した。
崩壊の翌朝には、新代が派生している事もあると聞くので、その頃にはもう、新代の犠牲の魔物がいたかもしれない。
そのグレアムが、記憶を取り戻し済な今のグレアムであれば、過去の一件を思い出し、林檎の妖精を呼び込むかもしれない盃の利用を憂慮した可能性はある。
オフェトリウスは、ナチャカの教会を魔物同士の戦いで埋めてしまったのは、既に名前の挙がっている白虹だけではなく、他の魔物が白虹を招き入れてハーティクスの盃を葬ったのではと考えているようだ。
そしてネアは、グレアムの手法が、ウィリアムと似たようなばっさり型である事を知っている。
(かたかたと…………)
かたかたと音を立てて組み上げられる木組みのパズルのように、皆の言葉でピースが組み合わされ、不思議な道が作られてゆく。
ネアはふと、長らく失われていたハーティクスの盃が、ガーウィンで掘り出されるに至った理由が気になった。
恐らく、ネア達のいる影絵で国を再興しようとしているであろう信徒達が手に入れたのなら、このような選定儀式に持ち込む迄もなく、こっそり自分達の物にしてしまうのではないだろうか。
であれば、偶然発掘されたか、他にこの道の先に立つかもしれない誰かに通じる者達がいたかだ。
どちらの妖精もヒルドの一族に近しい事も気になったが、妖精の氏族は、古ければ古い程に、ヒルドの一族か闇の妖精からの分岐である。
そこに繋がりがあるのは、そこまで気に留めなくていいのだとか。
白虹の魔物については、ハーティクスの盃のような品物はさして好まない魔物であるので、どちらかと言えば、ナチャカの災いに必要だった燃料の役割ではないかと、ノアが指摘している。
(過去のことは私には読み解けない。視点を今回の一件に戻せば、やはりこちらなのだ…………)
「ふと考えたのですが、異端審問局は、今回の一件が起こる前から、現在、影絵のお城で荒ぶっているであろう方々に狙いを付けていたのでしょうか?」
ネアがそれを尋ねたのはアルテアで、リシャード枢機卿な日もあるアルテアは、短く頷いた。
アルテアの役割りの中に異端審問局の局長は入っていないそうだが、それでも、あの精霊の代わりに連絡などの引継ぎをする事もあるだろう。
オフェトリウスはそちらの事情には通じていないが、深入りするつもりもないらしい。
何となく何かを察したのか、ガーウィンを壊さずに使用してくれればと、魔物らしい意見を述べるに留めている。
「ああ。長年、亡国に繋がる妖精信仰の対象として警戒していた案件の筈だ。その中の誰かが痺れを切らし、餌として林檎の盃を投げ込んだ可能性はあるだろうな」
「であれば、その方から、今回の黒幕かもしれない妖精さんに繋がる可能性は、あるでしょうか?」
「そちらからの接触はないだろう。あの林檎の妖精の階位と数の少なさを思えば、不可能に近い。………あるとすれば、ハーティクスの盃を使えば標的を動かせると、妖精側から囁いた可能性の方だろうな。奴等の方が、祝福を与えただけのウィリアムよりも、盃の持つ魔術との親和性は高い。その気になれば、盃が埋もれている場所はある程度まで絞り込めるだろう」
「だが、ガーウィンには、申請のない妖精が入り込まないよう、高度な妖精除けが各所に敷かれている筈だよ。………おっと、そうなればますます、ガーウィン領を離れて活動する事もある、異端審問官が接触された可能性が高くなるのか。外部協力者として、領外の者達を招き入れる権利も持っている」
「ああ。盃探しの間くらいは、領内に招き入れておけるだろうな」
(盃が先か、災いが先か…………)
何だか似たような議論があったなと、ネアがそんな事を考えていると、戻ってきたディノからの返答がカードに浮かび上がる。
“ナチャカの災いには、グレアムは関係なかったようだ。けれども、以前に林檎の妖精達をウィームから追い出したのは、一人の林檎の妖精が、同族のシーが得た伴侶がとても素晴らしいからと、同じウィーム王族の血を引く子供を攫おうとしたからであるらしい。林檎の妖精の王弟が娶ったウィーム王家の血を引く人間の伴侶が、転属の際にとても美しい妖精になったのだそうだ。それを見た他の妖精達がこぞってウィームに伴侶狩りに来たのが、当時のグレアムは煩わしかったみたいだね”
そんなディノのメッセージに、同じくリーエンベルクにいるノアが答える。
“……………あ、そっか。古い方の林檎の妖精は、闇の妖精からの分岐の種族だったっけ。ってことは、花嫁狩りの習慣があるんだ………”
“………やれやれ、私もすっかり忘れていたよ。今では数が減って聞かなくなったけれど、伴侶を攫いに地上に出てくる妖精だったねぇ。獲物は同族の妖精や、若い精霊が多かったものの、確かにウィームの王族がその標的になったとも取れる記録が僅かに残っている。正規の記録は、統一戦争で失われちまっているけどね。ウィームに、二王家があった時代の事だ”
“ええと、そうなるとこれって、林檎の妖精の伴侶攫いの仕掛けって事?!そっちには、大事な妹がいるんだけど!!”
ノアのメッセージを読み、ネアは、ゆっくりと瞬きをした。
顔を上げればアルテアと目が合い、以前に、リーエンベルクからは王族相当としての認識をされているかもしれないと言われたことを考えてみる。
その話は、ディノやノアだけでなく、エーダリア達にも伝えてある。
あくまでも偶然揃った条件上の認識なので、本当にウィーム最後の王家の血筋であるエーダリアに話すのは複雑だったが、何かあった際に助けになる事もあるかもしれないと、共有しておいたのだ。
だが、それを聞いたエーダリアはなぜか、リーエンベルクが喜んだだろうなと嬉しそうに微笑んでしまい、その夜のリーエンベルクは、花の雨が降ったり、見た事もないような不思議な部屋への扉が開いたりと大騒ぎであった。
ネアの見立てでは、エーダリアの優しい言葉に、リーエンベルクが喜んだのが原因の珍事である。
やはり、あの場所の多くは、エーダリアこそが愛するウィーム王家最後の子供だと理解しているのだ。
(でも、…………例え私がそのような認識だとしても、そこ迄は関係していない筈だわ。その妖精さんが、私が今回の作戦に参加している事を知っていたという事はないのではないかな…………)
ネアが今回の任務に就いたのは、あくまでも消去法によるものだ。
ウィームに入れない林檎の妖精が、事前にそこまでを知るのは難しいだろうし、そもそも、リーエンベルクの認識を知る術はもっとない。
また、そちらに接触出来た可能性があり、ネアの参加を知っているアンセルムにも、当然だが、リーエンベルクの魔術的な認識は明かされていない。
「…………乗り換え目当てだろうな。お前の内側に巣食えば、ウィームに入り込める。もし、伴侶探しが林檎の妖精の目的だとすれば、ウィームの参加者を狙う理由はそれしかない。妖精は執念深いからな。………となると、今回の盃の管理者選定の儀式は、敢えてウィームに漏らされた可能性が高くなるぞ」
「…………むぐ。妖精さんが、私の内側に入り込もうとしているのですか?」
「ネア、安心していい。白本の災いが齎されるのは防げないが、妖精を見付けて斬るのは得意なんだ」
勿論、そんな邪悪な妖精など見つけ次第滅ぼすばかりだが、妖精がどうやって人間の内側に入り込むのかを、ネアはかつて間近で見た事がある。
ぞっとして身震いすれば、にっこり微笑んだオフェトリウスがそう教えてくれた。
“どちらにせよ、白本の災いが開かれて初めて、この推察が正しいのかが分かるというところかな。警戒しなければいけない事が、随分と増えてしまったね”
“ディノ、怖くなってしまっていませんか?不安でしたら、ノアをぎゅっとしておいて下さいね”
“…………それはしないかな。…………ネア、怖いのは君だろう。私がそちらに行ければ良かったのだけれど。………ごめん、傍にいてあげられれば良かったのに”
しょんぼりと項垂れる伴侶の姿が見えるような文章に、ネアは微笑んだ。
ディノがこちらに来れば、盃の祝福を強めてしまうかもしれないし、その他の様々な魔術の均衡を崩しかねない。
また、全ての問題が片付く迄はと、厨房に隠れていようにも、この影絵が崩れるような事態になれば、その崩落に呑み込まれて迷子になってしまう。
何かと不安定な影絵の中では、危険過ぎる防御策なので、結局ネアは帰り道の間はもうひと頑張りするしかないのだった。
“でも、ディノがグレアムさんから情報を得てくれたお蔭で、林檎の妖精さんを避けた方がいいのだと知る事が出来ました。それに、ディノの守護のお蔭で私は白本さんには傷付けられませんし、ウィリアムさんとオフェトリウスさんだけでなく、アルテアさんも一緒なのですから、ちゃんと元気にお家に帰りますね。なお、ヒルドさんの耳飾りがあれば、林檎の妖精さんは引き下がってくれるかもしれませんので、そこはちょっぴり期待していて下さい”
“ネア…………”
“いざとなれば、妖精めはきりんさんで滅ぼせばいいでしょう。植物の系譜の方は、とても繊細なのですものね”
“ご主人様…………”
“ありゃ、そっちは解決策が出たぞ…………”
“その際は、呪いが残ったりしないように、完全駆除用のきりん箱を運用しますね”
ふんすと胸を張ったネアに、アルテアはやれやれと肩を竦めている。
ウィリアムとオフェトリウスの体を休める為にもう少しだけこの中で休み、ここからは、影絵を抜けての帰り道だ。
幸いにもダリルは、ハーティクスの盃の無力化には至らなくとも、林檎の妖精に纏わるウィームへの危険を再確認出来たのは良かったと、一定の収穫を認めてくれた。
ダリルダレンに残された資料には、林檎の妖精に王族が攫われかけたのを見た領民の証言程度の記述しかなく、今回の一件と結び付けて初めて、しっかりとした歴史認識になるのである。
「魔術は同じ事例を重ねる事で、因果を結び易くする。となると、ウィームへの伴侶狩りの足掛かりに、この影絵を使う事も術式の内かもしれないな。ウィームへの乗り入れだけでなく、王族への結びも含めて、かなり緻密な術式を結べる舞台なのは間違いない。見付けた絶好の舞台を諦められずに、もう一度盃を使う機会を待っていたんだろう」
「それは、この影絵の国での森の妖精さんの顛末と、皆さんの憧れとなった林檎の妖精の王弟さんが伴侶を得られた経緯が、とても似ているからなのですね…………」
ネアがそう言えば、アルテアの赤紫色の瞳が魔物らしい光を帯びてこちらを見た。
そこまでの図面を描いた林檎の妖精に対する愉快さと、相反する自身の領域に入り込まれた不愉快さと。
「この影絵の国に残された王女は、滅びの夜に生まれたからこそ終焉の約定で生かされた子供だ。最も役割が重なっていた者はもういないが、今のウィームにも、同じような条件を揃えた王族がいるだろう」
「……………もういらっしゃらないエーダリア様のお母様と、エーダリア様、………なのですね?」
「つまりここは、林檎の妖精が、最後の一人という運命上の役割を持つウィーム王族を伴侶として連れ帰る為に最適な、魔術因果の資質をも備えた為の舞台だという訳だ」
そう告げたアルテアは、ここにはいないエーダリアではなく、真っ直ぐにこちらを見ていた。
その瞳の冷ややかさは、微笑んでいてもこの魔物がかなり不機嫌な時の表情である。
だがそんな選択の魔物も、正面でとても動揺しているご主人様が、前回の流れからいけば現れるのは男性の筈だが、今回の当初の標的がエーダリアならば女性の妖精が来ているかもしれないし、とは言え、林檎の妖精は伴侶の性別はどっちでも気にしないのだろうかと酷く混乱している事には気付かなかったようだ。
ディノ達は、引き続きナチャカの災いに関わった者を探してくれる事となり、ネア達は、いよいよの帰り道になる。
アルテアが、選択肢を選び損なうなよとおでこに祝福を増やしてくれるとまた空気がぴりりとしたが、ネアが、ウィームへの無事の帰還を祈願して二本目の棒ドーナツを取り出すと、途端に魔物達が静まり返る。
もしかすると、棒ドーナツには、魔物達を鎮めるような効果があるのかもしれない。




