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黎明の教区と林檎の盃 5



「まぁ、この棒ドーナツの中に入っているジャムは、途中からミルクジャムに変わりました!!」


ネアがそう言えば、なぜかウィリアムがぎょっとしたように振り返る。

そして、味の変化があるという高度なお菓子技に喜び弾むネアを見て、じりりと後退りした。


「………っ、ネア、弾まないでくれ……………」

「むむ、お膝の上から降りていてでもですか?」

「ああ。俺もオフェトリウスも色々まずい。……………それと、アルテア。なぜこの菓子を作ったんですか。林檎の盃の任務だと分かっていた筈ですよ?」

「フキュフー?!」

「むむ、この棒ドーナツは、先日お納めいただいた献上品ですので、今回用ではないのですよ。何か、棒ドーナツはこちらの魔術と相性が悪いのですか?」

「……………そうだったんだな。それとネア、………やっぱり、そのドーナツは早めに食べてしまおうか」

「むむ?」



ネアは首を傾げたものの、なぜかけばけばで目を丸くして震えているちびふわに凝視されながら、中身がミルククリームに変わった棒ドーナツを美味しくいただいた。


僅かにカラメルの風味のあるミルククリームは、アルテアのお菓子では初めて出会うものだが、甘くてもったりし過ぎておらず、とても美味しい。

これは、パンに塗っても素敵なものではないか。



「今回、このおやつを持って来たのには、理由があるのです。何しろ今日のウィームでは、ヴァロッシュの祝祭が行われていますから。…………今年の人形劇での揚げ鶏役を楽しみにしていたので、少しでも騎士さん達の祝祭の気分を楽しむ為に、ドーナツをおやつとしたのでした」

「僕も休みが合えば毎年見に行くようにしていたんだが、昨年は延期せずに済んだみたいだね」

「まぁ、そうなのですか?」

「うん。僕の資質に合った祝祭だから、騎士として滞在していた時も、領主として滞在していた時も、ヴァロッシュが一番好きだったんだ」

「ふふ。やはり参加するのが忙しい騎士さん達となるので、毎年あれこれありましたが、今年はほぼ正規の日程で行われているのです。………沢山の騎士さん達の模擬試合を見るのを楽しみにしていたのですが……………」



悲しく項垂れながら、ネアは最後のひと欠片のドーナツをぱくりと食べた。


だが、この祝祭が今回の儀式に重なったのは幸運な事で、ガーウィンからの疑惑の目を少しでも逸らせればとダリルは効果的に使ってゆくつもりらしい。


即ち、ウィームの主力戦力は祝祭で忙しいので、そちらの儀式の邪魔をする余裕はありませんという事だ。

開催をずらす事が出来る祝祭をやってしまう事で、そちらの騒ぎには気付いていませんという主張も出来る。


(加えて、騎士さん達が各地から集まるから、エーダリア様の護衛役が沢山いて、ノア達が比較的に自由に動けるというのも良いのだとか…………)



「フキュフ……………」

「むむ?ちびふわ?」


そんな事を考えながら、ドーナツの欠片をもぐもぐごくんといただきながら指先についたお砂糖を意地汚く舐めかけてしまい、ネアはぎくりと固まった。


なぜだろう、何かとても空気が重い。

張り詰めた空気の中で周囲を見回すと、ウィリアムとオフェトリウスがさっと視線を逸らした。



「……………ドーナツを食べます?まだありますよ?」

「すまない、そうじゃないんだ。指を拭くなら、ハンカチがあったかな………」

「………まぁ、お行儀が悪い事をしようとしたので、むむっと思ってしまったのですね。濡れおしぼりがあるので、そちらで拭きますね。……………ちびふわ?!」

「フキュフーー!!」

「まぁ、いけませんよ。めっ!お砂糖は泥酔してしまうのでしょう?」

「…………そうか、アルテアがネアを見ていたのは、そっちの理由だったんだな。………アルテア、正気に戻って下さい」

「フキュフ?!」

「ごめんなさい、ちびふわ。お砂糖問題をすっかり忘れていました。次からは、おかず的な物にしますね。タルタルソースが美味しそうなちびバゲットサンドも持たせてくれましたので、次の腹拵えでは、その中の小海老をお裾分けします」

「……………そうか。もう一度試練があるらしい」

「オフェトリウスさん?」



なぜか魔物達がとても遠い目をしている。

ネアは、きっと催淫効果が食欲に転換されるらしいこの状況を見て、自分達もそちらの効果であればと考えているのだろうと頷いた。



ネアがここでお菓子を堪能していたのは、何も城攻めの前にお菓子をいただかないとと我が儘を言った訳ではない。


先程の襲撃で、屋根の一部も崩れている。

降り注いだ盃の祝福を受けた雨は微量なもので、崩れた屋根からじゃばりと降り注ぐような事はなかったが、とは言え、その中でどったんばったんした以上、全員が多少なりの影響を受けた可能性は高い。


となると、こうして空腹になるのは林檎の盃の魔術の影響だと思われるので、齎された効果を緩和する為にお腹を満たしているのだ。



(お城に着いてから、その効果がいっそうに強くなった場合、催淫効果ではなくて安心と言っていられなくなるかもしれないから………)



ウィリアム達が少しもぞもぞしている隣で、か弱い乙女が餓死していては大変である。

なのでネアは、ここは自己管理も役割の内と思い、しっかりと空腹管理をしておく事とした。



ゴオンと、またどこかで重たい鐘の音が響いた。


その響きと同時に、胸が痛くなるような悲鳴が遠くで聞こえ、ネアは思わず体を竦めてしまう。

そろりと手を伸ばしてウィリアムに近付くと、気付いた教会騎士なウィリアムが、すぐに手を繋いでくれた。



「……………今のは、」

「どうやら、あの鐘の音は何らかの合図のようだな。最初の音から何回かは降り注いだ雨の効果を上げていたようだが、…………今は、祝福効果が随分と軽減されている。………ハーティクスの盃には、何らかの手立てを講じて、祝福の影響を操作する術式まで添付されていたか。……………あの魔物らしい」

「………正気に戻して差し上げる為の力も、持っているのですね」

「自分の興味が失せた段階で、好きに宴を終わらせてしまえるからな。…………それに、狂乱にも似た魔術効果が途切れて突然正気になった者は、……………大きく心を損なう事もある。当時の林檎の魔物は、そうした残忍さも好む女性だった」

「………魔物さんの資質となれば、致し方ない事なのでしょう。ですが、…………そうして踏み躙られた方の心を思うと、今回ばかりは胸が痛みますね………」



ネアがそう言えば、オフェトリウスが不思議そうな顔をする。


今は、ウィリアムと共に慎重に崩れた瓦礫をどかし、行く先の方向などを再検討してくれている。

ネアも手伝おうとしたが、触れると危ない物があるかもしれないと待機を要請されてしまった。



「今回だけ、なのかい?」

「ええ。それが例えば、獰猛さや残忍さなどを掻き立てる物であれば、そのような悲劇の顛末は決して珍しくはないと、冷淡な私は通り過ぎるでしょう。……………ですが今回の祝福の効果は、ただの悲劇で割り切るには生々しく、慣れない無残さに胸が苦しくなってしまいます。上手く言えませんが、この祝福の名前を借りた災いは、使う方の思惑の反映の仕方が、あまりにも人間の尊厳を傷付ける物だと思うからでしょうか…………」



この世界には、享楽を信仰とする者達もいる。

夜葡萄の系譜や、収穫祭の夜の一部の植物の系譜がそのような傾向にあり、ネアは、それを野蛮なものだとばかりは思わなかった。


だが、その行為が誰かの身勝手な国興しの収穫に使われると思えば、人間らしい身勝手さでそれは不愉快だと心が訴えるのだ。

望まない効果に翻弄された者達が、己の身の内でその顛末を育む事になるのも、堪らなく悲しい。

ガーウィンでは、中絶や堕胎は信仰上許されていないのである。



「…………ネア、この先に進むと、胸が悪くなるようなものを見るかもしれない。出来るだけ俺達が気付くようにしておくが、出来れば自衛もしておいてくれ」

「…………はい。でも、恐らくウィリアムさんが心配してくれている程、私は清廉ではないのでしょう。きちんと、どのような物を見る羽目になるのか、覚悟もしているのです………」



ネアがふんすと胸を張ってそう言えば、ウィリアムは、どこか痛ましげにこちらを見る。

肩の上に戻した黒ちびふわが、ぎりぎりと爪を立てているので、どうかそれはやめて欲しい。



(覚悟があると安易に言えるのは、私がそれを知っているからだ)



かつてネアが一人で潜った場所には、目を背けたいような男女の欲望も、珍しくはなかった。

大丈夫だと伝えた事で、それを知っているのだと示したのだから、ウィリアムはこんなにも気遣わしげな目をするのだろう。



「やはり君は、……………終焉の子だな」

「けれどもそうして紐付くのが、今はもう、ウィリアムさんの領域で良かったです」

「ああ。俺も君が俺を厭わない人間で良かったと思う。……………オフェトリウス、今の内に距離を稼げそうか?」

「この石床の造りならあるかと思いましたが、残念ながら地下水路などはないようです。精神を蝕むような魔術侵食がなければ、二手に分かれたところですね」

「………となると、完全に元来た経路からだな。…………ネア」



不意に持ち上げられ、ネアは慌ててウィリアムの首にしっかりと腕を回した。

何を察してぴりりと空気を引き絞ったのかと思えば、その直後にどこかから、がしゃんという鈍い音が聞こえて来る。



(……………大丈夫。音は遠いわ………)



ハーティクスの盃の祝福が剥がれ落ちての騒ぎではなく、立て続けに響き渡る破壊音からすると、どうやら、離れた場所で誰かが交戦しているようだ。

別の参加者達で間違いないだろう。



「よし、今の内にこの地区を抜け出させて貰おう」

「はい!」



ネア達は崩れた石壁を抜けて、その家の裏口から裏路地に出ると、先に通りに出たオフェトリウスの確認を経て、この隙に、堂々と道を進む事にした。

まだ注意を払う必要はあるが、雨の降っていない今の内に、居場所を特定されないよう静かに進めるのは有り難い。



ネアは、それでも雨の滴を警戒し、外に出た時には思わずぎゅっと縮こまってしまったが、後はもう粛々と進むばかり。

ウィリアムを乗り物にしているので、周囲を警戒しながらも少しだけ考える。



(…………もし今回の事が、かつてここで暮らした妖精さんの末裔で、泉の畔の教会を作った聖人の信仰に傅く人達の思惑と、異端審問局の側の思惑のぶつかり合いなら…………)



先んじて林檎の盃を手にした者達は、一刻も早く事を進めようとするだろう。

また、異端審問局側は、彼らが禁を犯してからでなければ動き出せないので、暫くは静観する。



(そして恐らく、今はそのどちらもが動き出している段階に入ったのかもしれない………)



あの眼帯の異端審問官も、門で誰かを待ち受けているのは見せかけで、今はこちらに下りているかもしれない。


どこか不穏な気配を感じたあの人物と交戦するのは避けたいし、盃を手にした者達の妄執についても、積極的に触れたいものではない。

彼等がどんな武器を使うのかは、目に見えている。




そんな事を考えていると、不意に、ぶつんと何かが断ち切れるような不可思議な音がした。



「……………え、」



ぐらりと体が傾き、誰かがよろめく。

視界の端にその姿を捉え、そちらを見ようとしたネアは、ウィリアムに抱えられたまま、ぐいんと体を反転された。



「っ?!」

「すまない、少し耐えてくれ!!」

「は、はい!ちびふわはここです!」

「フキュフ?!」


掴んだちびふわを胸元に押し込む際に、ほんの一瞬、苦しげに石畳に膝を突き、肩で息をしているオフェトリウスが見えたような気がした。

そしてその足元には、じわじわと広がる深紅の水溜りのようなものが見えはしなかっただろうか。



(血を…………)



この世界では、血や涙などを奪われる事は大きな負の意味を持つ。


それなのに、流れ出した血を拭う事も出来ない剣の魔物は、どれだけの損傷を抱えているのだろう。

どうにかして助けられないかと、胸がぎゅっと苦しくなるが、ここにネア程無力な者もいないだろう。


ウィリアムの動きを邪魔してはならない。



「…………くそ、妖精と魔物か。最悪の組み合わせだな…………」

「…………魔物さんが」

「ネア、…………俺の合図と共に、ベルを」

「はい!」

「フキュフ!」

「ちびふわも、備えて……むむ、その手では届きませんので、やはりこちらです!」

「フキュフ?!」



ネアは、慌ててちびふわを腕輪の金庫の中に押し込むと、引き換えに引っ張り出した眠りのベルを手に持った。

意図せずに鳴らしてしまわないように布を噛ませてあるので、その端を持ち、いつでも鳴らせるようにする。


(何が、起きているのだろう…………)



今成されている攻撃は、ネアの目には見えない。

思えば、最初の異端審問官以外の他の参加者を、ネアがこの場所で目にした事もなかった。

そう思えばなぜか、見えないところから首を絞められているようで、ぞくりと背筋が寒くなる。


ネアを抱えたウィリアムは、姿の見えない何かを躱しつつ、見た事もない魔術を立ち上げているようだ。

繊細な組み上げはウィリアムには珍しいもので、だが、その中に織り込まれた膨大な魔術量は、到底人間の領域の質量ではない。

しかし、それだけの展開を必要とする事が、確実にどこかで起きているのだろう。



「ネア!」

「はい!」



ちりんと、涼やかなベルの音が鳴った。

その途端、ざらりと空が崩れて、もろもろと腐食した紙のように舞い落ちる。



(……………これは、何だろう)



ざらざら、はらり。

そうして降り注ぐものは、白い花びらが降るようにも思えたが、それよりも、滅びた街に灰の雨が降り注ぐような何とも言えない不穏さがあった。



そして、同時に展開されたのが、先程ウィリアムが組み上げていた魔術だ。

足下からするすると持ち上がり、伸びゆき、あっという間に鳥籠のように周囲の空を覆うと、ゆっくりと輪郭をなくして透明になってゆくのは水晶の茨のようなもの。



「これで、暫くは凌げるな。ネア、もう大丈夫だぞ。………オフェトリウス、動けるか?」

「……………ああ。何とか治癒が追い付いてきた。お陰でベルにも対応出来たが、…………が、片腕はまだだな」

「………腕が…………」

「ネア、アル………ちびふわを出しておいた方がいい」

「はい!」



ネアは慌てて腕輪の金庫からちびふわを取り出し、備蓄した獲物と一緒にされた、けばけばのちびふわが発掘された。

だが、ちびちびふわふわしていても、中身は魔物なのだ。

すぐに状況の危うさを思い出したのか、きりりとしてくれる。

ウィリアムは、そっとネアを下ろしてくれながら、何かを考え込んでいるようだ。



「複合術式か。…………この魔術は、………」



周囲は、しんと静まり返っていた。


ベルの音の届く範囲の者達は眠りについている筈だが、とは言えこの影絵の中の全ての者達が眠っている訳ではない。

転移があるのだから、すぐに、遠方から異変を察した誰かが駆け付けて来るという危険もある。



(リンジンの時のように、特定の敵を無力化するのには向いているけれど、姿の見えない相手だと、無力化出来たのかどうか分からずに分が悪いのだわ………)



複合術式とは、どんなものだろう。

教えて欲しい事が沢山あるけれど、やはり今はその時ではない。

ウィリアム達はネアが魔術に明るくない事は知っているので、余裕があれば都度教えてくれる。

余計な質問で煩わせず、答えてくれそうな余裕を見せてくれるまで我慢しよう。



「傷薬を………」

「ああ、俺が渡しておこう。ネアは、こちらは見ないようにしてくれ」

「ふぁい。…………血が、………」

「恐らくそれは、足元で手を打ってある筈だ。流れ落ちるのを防ぐ方が手間だからな」

「…………ああ。気付いた時には切り落とされていた。咄嗟に足元の魔術基盤を受け皿に書き換えたが、危うくそれすら間に合わない可能性があった。………ウィリアム、白本だったよ」

「やはり白本か。………これは、彼女の役割上、偶然と言うよりは必然かもしれないが、持っていた本に、林檎の魔術を記した頁があったな。どちらにせよ本人の意思でないのなら、その事が何らかの形で今回の件に噛んでいる事もあり得るのか…………」

「はくほん………」

「ああ、白持ちの本を司る魔物なんだ」



余程の深手なのか、オフェトリウスの言葉からは敬語が剥がれ落ち、ネアは、背中や腰のあたりに走った真紅の線から、腕を切り落とした斬撃が胴部分にも及んでいるのではと、ぞっとしてしまう。


白本の魔物について説明してくれたウィリアムによると、その女性は、白混じりの茶色の髪を持つ鹿の目の乙女で、数多くの書物の中に、気紛れに災いのページを紛れ込ませる魔物なのだとか。

手には、この世の本に纏わる災いを収めた一冊の本があり、その中のお気に入りの頁を、誰かが開く本に潜ませるのだ。


また、書物の形を取る白本の魔物の所有する頁には、この世界に存在する著名な災いが記されていて、そんな頁を知らずに己の手にした本に紛れ込ませられ、開いてしまった者達は、災いに触れて身を滅ぼすと言われている。


それだけを聞けば、何とも迷惑な通り魔のような魔物なのだが、白本の魔物には、しっかりとしたお役目がある。


魔術の理に於いての、祝福と災厄のバランスを取る為に、災いの種を落とすのが彼女の役割なのだとか。

それが災厄にしかならなくても、この世界の剪定の役割を持つ魔物なのだ。

加えて、その本には古い災いの説明なども記されており、時としてそれは、唯一の災い除けのレシピにもなる。



「その本の中に、林檎の盃に触れるようなものがあるのです?」

「俺の頁もあるから、中を見せて貰ったことがあるんだ。何枚かの頁の内容は覚えているが、その時は、万象と終焉、そして林檎の木があったのは間違いない。………が、あの林檎は妖精の災いの方だった筈なんだがな…………」

「………もしかして、林檎の妖精さんの方も、災厄になるくらいに厄介な生き物なのでしょうか?」

「この世界の初期の頃の林檎の妖精は、林檎の魔物よりも階位が高かった。あの頃は、世界がまだ不安定だったからな。うっかり妖精に分類されて派生したものの、本来は魔物の質だったのかもしれない。複数個体が必要な役割を担った事で、魔物ではなく妖精として派生せざるを得なかったという説もあるな。………彼等が妖精として派生した事で、不足を補う為に後から林檎の魔物が生まれたんだ」

「そうなると、………妖精さんの災いの方が、開かれてしまうと厄介なのでしょうか…………」

「ああ。魅了に長けている美しい妖精達で、尚且つ破滅と災厄を好む妖精だからな」

「…………ほわ」



そう聞けば、心がざわつくばかりだ。

ウィリアム達にもなぜここに白本の魔物がいるのかは分からないが、今回のハーティクスの盃の効果が、どんな効果であれ祝福と分類されるのなら、魔術の天秤が祝福に偏り過ぎたと判断された可能性もあると言う。



「参ったな。林檎の木の頁を開かれると、小さな国一つは滅びかねないぞ。影絵の中とは言え、厄介な事になる」

「この場を収めてしまうのでと、もう少し待っていただく事は出来ないのでしょうか?」

「白本は、己の役割以外に名前を持たない。役割を果たす為だけに派生した、一応は、強い自我を持たないとされる魔物で、…………そうだな、この世界の吉凶の均衡を調整する役割を持つ者なんだ。交渉は難しいだろうな」

「一応は、なのですね………」

「ああ。齎すのが災いである以上、そこには残忍さや冷酷さが付き纏う。だが、それが彼女の嗜好ではなく、それしか持たない事で強い自我を持たないと言われると言えば、伝わるか?」

「…………とても厄介な方だという事が、よく分かりました。自我を持たないと言うよりは、残忍さや冷酷さ以外の嗜好を持たない、話し合いなどは困難な方だと言う方がいいのでは…………」

「とは言えそれも、嗜好と言うよりは習性だからな。言葉は話せるが、人語を解する獣のようなものだと考えておいてくれ」



オフェトリウスの腕を落としたのは、白本の魔術で間違いないと言う。

オフェトリウスは、不運にもたまたま遭遇してしまった白本の魔物と互いを認識し合った事で、邪魔されず先に進みたい白本の魔物の、足留めの魔術に触れてしまったのだ。



「……………という事は、私が触れていたら………」



この先にも、そんな仕掛けがないとは言えない。

ネアが真っ青になると、やっと腕を繋ぎ直せたらしいオフェトリウスが苦笑する。


「いや、君は大丈夫だよ。白本は魔術の理に位置する厄介な魔物だけれど、万象や終焉など、自身の本の中に災いとして収めた者達には介入出来ないんだ」

「階位であったり、苦手な属性があるという事ではなく、本の中にある相手だけなのですか?」

「それもまた、魔術の理なのかもしれないね。また、研究職の魔術師には、なぜか守護を与える事も多い。そのような役職の者達が災いを受けた事例もない。本来なら、多くの魔術書に触れる彼等は、誰よりも白本の災いに晒されている者達なのだけれどね」

「エーダリア様の安全が確保されて、ほっとしました」

「君も、その頁を開く事はないだろう。シルハーンやウィリアムも。後は、…………死の精霊や疫病の魔物、白虹や白夜。異教の神として記された、派生したばかりの頃の犠牲の魔物も含まれている」

「むむ、グレアムさんもなのですね………」



そんなオフェトリウスは、唯一、圧倒的な不利を得る災いの形が、白本の魔物なのだそうだ。

それには、白本の魔物の方が、古い魔物であるという事も影響しているらしい。

よりにもよって、最も相性の悪い相手がいるとはねと、オフェトリウスは苦く笑う。



「一説によると、塩の魔物と白本の魔物は、前世界の魔術を多く備えて派生したと言われてもいる。僕も前世界の魔術には近しい要素があるからこそ、その上で理を持ち出されると二重に弱い」

「………ノアもなのですか?」

「おや、知らなかったのかい?扱う魔術が、少し特殊なんだ。彼等がそこから来たと言うよりは、彼等を育んだ土壌の問題だと思うけれどね。……………ウィリアム、………僕自身にも言える事ですが、ハーティクスの盃は、絶対に僕達が手にしなければならない物でもありませんよね?」

「……………ああ。俺もそう考え始めたところだ。本来なら、雨の止んでいる今の内に動いておきたいんだが、不確定要素が大き過ぎる。どこかに遮蔽空間などを設けて、方針の再編を行った方が良さそうだな」

「……………まぁ。では、今回のお仕事から、手を引くという選択肢もあるのですね?」

「ああ。その場合は、俺からエーダリアやダリルには説明をしよう。どちらにせよ、彼等を交えて話をした方が良さそうだ。あまりにも俺達と関わりのないところで展開が動いているし、何の因縁もないままにその中に手を差し込むのは無謀過ぎる」

「はい。では、是非にそうして下さい。エーダリア様もダリルさんも、それでも無理にと仰るような方々ではないと思います」



ネアがそう言えば、ウィリアムは、伸ばした手でそっと頭を撫でてくれる。

こちらを見下ろした終焉の魔物は、擬態をして見慣れない姿でいるのだが、こんな時に浮かべる表情は、ネアのよく知るウィリアムの色をしていた。



「ここ迄来ておいて、不本意でもあるがな。それに、撤退するにせよ帰り道も安全とは言い難い。俺が今回の助力に賛同したのは、あの盃を世に出したくなかったからでもあるんだ。ネア達に何かあるといけないからな」

「むむ、私達への影響を心配して協力してくれたのです?」

「ああ。自身の領域のものが、誰かの思惑で、俺の祝福を得た道具に損なわれるのは不愉快だろう?出来れば、俺の管理下に置いておきたかったんだが、やはりあの手の道具は多くの者達を呼び寄せてしまうみたいだ」



であれば、発見され、動かされたのが、林檎の盃だからこそのこの状況なのだろうか。



(……………どうして、白本の魔物さんはここに居るのだろう?)



では遮蔽空間をと、近くにあった建物の扉を開けている魔物達の隣で、ネアは、今起きている事を頭の中で整理してみる事にした。



誰かが林檎の盃を使い、悍しい祝福を雨にして降らせた。

だからこそ、過分な祝福を災いにも傾けんとして現れたのが白本の魔物なら、その魔物は、ここでどんな災いの頁を広げるのだろう。


妖精の末裔の聖職者達と、彼等が、信仰の為にとこの影絵で王国を再生するにあたって必要だったカルウィの血統の侵入者達。

そして、信仰の形を取って成されるその動きを警戒する、異端審問官達。



「…………むぅ。現状を整理すればする程、完全なるとばっちり感が否めません」

「だろう?だからこそ、もう一度方針を考えた方がいい。関係なくとも、面倒ごとの芽を摘む為に先んじてやっておいた方がいい事もあるが、今回は、白本といい林檎の盃といい、どちらもかなり厄介な代物だからな。俺が、この土地ごと壊せたなら一番簡単だったんだが………」

「……………ウィリアム、駄目ですよ。ガーウィンの土地は、それぞれの教区が複雑な信仰の魔術をレース編みのように絡み合わせている所です。どれだけ目障りでも、破壊だけはしないで下さい」

「ああ。それは承知している。とは言え、ここを崩して一括に埋められない事も…………、ん?」



そこでネア達は、一斉に顔を見合わせた。

ネアの肩にちょこんと腰掛けていたちびふわも、びゃっと尻尾を立ち上げる。



「…………ハーティクスの盃は、遺跡から掘り出された物でしたね?」

「ああ。運搬にかかわった聖職者達や教会ごと、地下に埋もれていたんだったな………」

「…………フキュフ」

「まぁ、そうなると、以前にも面倒ごとを引き起こし、その対処が何だか面倒になってしまい、あの盃に纏わる事象ごと埋めてしまった方がいたかもしれないのですね?」



ネアの言葉に、オフェトリウスはウィリアムをじっと見つめ、ウィリアムが目を細めて首を横に振っている。



「…………という事は、この場所に盃を留めておき、尚且つ動かしたくないのであれば、影絵ごと埋め込む手法も可能なんだな」

「その場合は、せめて異端審問官達は回収した方がいいですよ。後々にあなたの系譜での禍根となるのでは?」

「やれやれ、こちらの動きを掴まれる事を覚悟の上で、ナインに話をする必要があるのかもしれないのか………」

「はは、どっちを向いてもあまり愉快な作業とは言えませんね。いっそ、正規の関係者達でさっさと事態を回収して欲しいくらいです」

「ふむ。それが一番ですよね………」



だが、それでもし盃を手にした者達が競り勝ってしまえば、ヴェルクレア国内に、影絵の中とは言え、厄介な国が生まれてしまう。

それはそれで困った事になるので、どのような方針の変更になるのだとしても、この国の再興だけは阻止せねばならない。



(本来ならそれは、私達の仕事ではないけれど……………)



けれども、もしそんな事が始まり、王都の者達の手に負えなければ、ガレンの長であるエーダリアは無関係ではいられないかもしれない。


そうなってから、衆目に晒され手札を選ばねばならない共闘の場面で苦労するのならば、今の内にばりんと壊しておくのも先々の為なのだった。



(……………ああ。頭が痛い問題ばかりだと思っていたら、ここはいつからか、国としての政治的な問題も重なり始めていたのだわ………… )




ともあれ、今は早急に方針の再編をしてしまおう。

この影絵の中にはもう、いつ、災いの頁が開かれるのか分からないのだ。



そうして開かれた災いが、ネアやウィリアムには危害を及ぼさないとは言え、ガーウィンの緻密な魔術基盤を損なえば、今度はガーウィン領の災厄として国を傾ける要因になりかねない。

ガーウィンの国境沿いの土地は、比較的近年に大きな問題が起きたばかりなので、その守りを手薄にするのは避けねばならなかった。




ネアはふと、無垢で身勝手な林檎の芽が、綺麗に整えられた床石を割ろうとしている光景を思い浮かべてしまった。


林檎はただ芽吹きたいだけなのだとしても、そうすれば、床石にはひびが入り、様々な苦労の上に作られた大切なモザイクは壊れてしまう。



伸ばされたその根に繋がるようにして、良くないものが地表に引き摺り出されるのであれば、何としてもその芽は摘まねばならないのだ。



地中には、ネア達がまだ知らないもっと悍しいものが、眠っているのかもしれないのだから。







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バチカンを思い出しました。国の中の国。
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