黎明の教区と林檎の盃 4
ゴオンと、重たい鐘の音が響いた。
最初から数えると五回目の鐘の音に、どこか遠くで哄笑とも悲鳴とも取れる叫び声が聞こえた気がする。
それがもし、自分の意思をなくして盃の祝福に飲み込まれた誰かの声だとすれば、絶対にそちらには近付きたくない。
ネアはぶるりと身震いし、軒下伝いにお城に向かっているウィリアムとオフェトリウスの後ろを歩く。
ウィリアムと手は繋いでいるが、屋根が途切れていたりすると危ういので、ネアは二人の後方を歩くようにしている。
時折、屋根が途切れる場所があれば、あの雨の止んだ通りを横切らなければならない。
既に雨が止んでいるとは言え、石畳は濡れているし、街路樹や軒先から滴り落ちる雫は、たった一滴でも毒のように作用するのだろう。
だが、幸いにもここは王都なだけあり、建物が比較的密集しているようだ。
そのお陰で、ネア達はあまり危険を冒さずに城に向かう事が出来ていた。
街並みは、砂色の壁や淡い檸檬色の漆喰の壁に、様々な色合いの緑の屋根の建物が多いようだ。
街路樹はしっかりと枝葉を茂らせたものが多く、花壇の花々の隙間には森苺の赤い実が見える。
上から見れば森の一部のようなのかなと思えば、それが理由なのかもしれない。
すらりと伸びた街灯には国旗が飾られ、整えられた石畳は砂灰色か灰色がかった茶色。
二階建ての家屋が主流だが、劇場や役所などの公共施設だと思われる建物は、なかなかに壮麗な造りであった。
街を見れば、この国がどれだけ豊かだったのかがよく分かる。
それが妖精からの祝福で育まれたのなら、人々はもっと慎重になるべきだったのだろう。
(街中からお城への距離がこんなにも近い。ウィームもそうだけれど、きっと、平和で幸せな国だったのだろう……………)
そこで暮らしていた人々は、こんな影絵の中でももう、森苺に変えられてしまっているのだろうか。
それともあの森苺は、そんな悲劇の象徴が反映されているだけのもので、ここに暮らしていた人々とは無縁の果実なのだろうか。
「……………ここからは、暫く内側を通る事になるか。さっきの声は、こちらの方向だったな」
「あの位置からでも声が聞こえるとなると、屋外だと思いますよ。とは言え、屋内を抜ける事で、見たくもない物を見る危険はあるかもしれませんね………」
そう呟いたオフェトリウスに、なぜか魔物達はこちらを見るではないか。
すると、肩の上に乗っていたちびふわが、突然ネアの目をふさふさ尻尾で塞いでしまった。
「フキュフ」
「むが?!何をするのだ!」
「……………いざとなれば、そうして貰うしかないか」
「さすがに、彼女には刺激が強いでしょうからね」
「……………むぅ。何を案じられているのかは察せますが、私はこれでも既婚者ですので、悪意を以て貶められた結果であると認識している行為に恥じらう程、足手纏いではないつもりなのですが……………」
「ネア、認識は時として毒になる。……………そうだな、俺達の為にもあまり見ないでくれ」
「お二人の為にも?」
「ああ。ネアの方にもその認識があると思うと、……………こちらの箍も外れやすくなるからな」
「……………む」
ここでネアは漸く、ウィリアムとオフェトリウスが、やけに悩まし気な感じになっている事に気付いた。
二人の言う、内側を通るという行為は、立ち並ぶ建物の軒先にネア達が移動するだけの広さがない場合、建物の壁を壊して内側を通り抜けるという、さすが終焉と剣の魔物という力技だ。
なのでネアは、二人が時折、ふうっと深く息を吐き、額に汗を滲ませている姿に、てっきり力仕事が続いてのことだと思っていた。
「………コンビーフのサンドイッチを食べます?」
「いや、食欲に換算されるのは、どうもネアだけらしいな。……………アルテアにも何か変化があったら、すぐに報告してくれ」
「フキュフ!」
「ふむ。今のところは平常心のようですね。何か変化があれば、ご報告します」
そう言えばふっと微笑んだウィリアムの目元は、苦し気に細められ僅かに赤くなっている。
良く分からないが、その手の効果は男性にはかなり辛いのではなかろうかと首を傾げたネアに、あまり見ないでくれるかと苦笑されてしまった。
先程の砂糖菓子のようなものを、ウィリアムやオフェトリウスが口にしているのかは分からないが、それで効果があるのならとっくに対処しているだろう。
であれば、数がなかったのか、効果がないのかのどちらかだ。
「むぐぐ、………激辛香辛料油を口にしてみます?」
「ネア、それはやめてくれ。どう作用するか分からないが、体は損なわないでおきたい。だが、もしもの事があれば、遠慮なく俺達を眠らせて構わないからな?」
「むむ、ベルですね!」
「ああ。ネアが無防備になりかねないから、出来れば避けたいんだが、……………そちらで問題が起こるよりはいいからな」
ではそのベルをなぜ早々に使ってしまわないかと言えば、今回の儀式には外側に観衆がいるからだった。
儀式の外野はこの内側に入らない約束だが、その抜け道があるかもしれないし、その上で参加者を監視する術式が隠されているかもしれない。
現状では、いざと言う時の為に切り札は温存しておきたいという判断だが、だがそれも、ウィリアムはこちらの危険を感じれば使っていいと思っているようだ。
(匿名性を象る為の魔術で、せめてここでの情報を外には持ち出せないようにしてあって助かった。でなければ、いざという時にウィリアムさんも元の姿には戻り難いし、ベルだって使えなかったかもしれない………)
そう考えかけてふと、ネアは、催淫効果とやらが自分には効いていないという事実に目を瞠った。
「こうなってくると、皆さんをベルで眠らせ、私が一人でお城に乗り込むという作戦もあるのでは……………」
「ネア?君には、可動域的に魔術の仕掛けが見えないだろう?罠や術陣が展開されていたら、避けようがない。例えば、空腹に転換される作用が、餓死などの深刻な効果を齎す可能性もあるからな」
「……………ぐぬぬ」
危険な効果を得ていないのが自分だけであればとそう申し出たのだが、すぐに怖い顔をしたウィリアムに叱られてしまった。
肩の上の黒ちびふわにも、尻尾でぱすぱすやられてしまったので、ネアは、こんな時に一人でも活躍出来ない己の可動域の繊細さを呪う。
一瞬、今回の障害になっている魔術の陰惨さに、もうこの影絵ごと滅ぼしてしまい、残った盃を手に入れる方法はないのかと考えかけたものの、信仰が絡んでいることを思い出して踏み止まった。
「……………ふと思ったのですが、どなたかが犠牲になって今回の一件を仕組んだ方々を満足させれば、ある程度あちらの手は緩みますよね?」
ネアが、それならもういいやとそんな問いかけをすると、なぜか騎士達はたじろいだ。
肩の上のちびふわもけばけばになったが、このくらいで動揺されても困ってしまう。
「その、踏み込んだな………」
「まぁ、確かに緩みはするだろうけれどね。………その、じっと見上げないでくれると嬉しいな」
「むぅ。では、続けますね。………その場合、実際に産まれてくる国民を見る迄の時間は得られないと理解しているのであれば、ここで引き起こしている騒動が露見しないよう、目的を果たした首謀者が立ち去ってくれたりはしないでしょうか?」
「かもしれないが、信仰の使徒が関わっている以上、彼等の気質は挫折するまで誠実に取り組む事が信条だ。一定の収穫を得ても、撤退をせざるを得ない状況になるまでは手を引かないだろう」
「フキュフ!」
そこでなぜか、ネアはウィリアムの腕の中にいた。
みっとなった黒ちびふわが鋭く声を上げ、なぜかそこから、オフェトリウスがネアを引っ張り出す。
「……………むぐ?」
「僕より堪えが効かないとなると、そろそろお疲れなのでは?ネア、この先は僕と手を繋いでゆこうか」
「コンビーフサンドの時間ですか?」
「……………ネア、口元に押し付けるのはやめてくれ。おかしな気持ちになる。…………それと、オフェトリウスの手がおかしな動きをしたからこそ、ネアを保護したつもりだったんだがな」
「おや、僕が?」
微笑んで向かい合ったウィリアムとオフェトリウスに、ネアは取り敢えずウィリアムの口には、小さめに作ってある一口コンビーフサンドを押し込んでしまい、不公平さで荒ぶっても困るぞと、オフェトリウスにも同じようにしておいた。
「ぎゃ!指は食べ物ではありません!!」
「おっと、失礼。勢いよく押し込まれたからつい」
「ネア、オフェトリウスの首は切り落としておくから、安心していいぞ」
「とても安心出来ない慰めが届きました……………」
そして、ぴりりとした空気がほんの少しだけ和らいだ瞬間の事であった。
びゅんと、風を切る鋭い音が響いた。
いや、後から考えれば確かにそんな音が聞こえた気がしたのだ。
「ネア!」
その時のネア達は、とある建物の屋内に入っていた。
気候が良く治安がいいからか、大きく開かれた扉から中に入り、玄関ホールのような部分からさて壁を崩してゆこうかとした矢先である。
鋭く叫んだ誰かに抱き込まれ、その直後に物凄い衝撃が身体中に響いた。
耳元でみっと鳴いたちびふわの声が聞こえた気がしたが、咄嗟に手を伸ばして抱き締めるだけの余裕もない。
何かとてつもない威力を孕んだ物に直撃され、吹き飛ばされてしまった。
「…………っ!!」
誰かが鋭く息を吸う音に続いて、背後で膨大な質量を持った物がばらばらと崩れる。
どおん、がらがらわしゃん。
轟音が耳に響き、体にはびりりと振動が残る。
ぼふんと粉塵が立ち昇り、ネアは、どこか柔らかくて硬い物の上にぎゅむっと押し潰されていた。
耳の奥がきぃんと痛み、何処かで嗅いだ事のある鉄錆のような臭いが鼻腔を突いた。
遅れて響く、がらがらと、先程の瓦礫よりも重たい物が崩れる音。
そして、押し付けられていた何かがふうっと息を吐き出して緩んだ。
「……………っは、けほっ、」
粉塵に小さく咽せると、そっと誰かの手のひらが頬に触れる。
案じるような指先が慣れない温度で、ネアは、ぎゅっと瞑っていた目をゆっくり開いた。
(……………あ、)
屋内のようだ。
外は青空なのだが窓にはカーテンがかけられ、陽光は翳っている。
奥の方に崩れた石壁が見えて、その瓦礫の隙間から差し込む細い光の筋の中を舞い散った粉塵が、まるで粉雪のように舞い落ちてゆく。
幸いにもその粉塵はこちらには降り注いでいなかったが、崩れた壁や屋根の一部があるからか、床は白くなってしまっていた。
「防壁魔術を展開したが、どこにも怪我はないようだね。…………はは、髪の毛はくしゃくしゃだ。後で直してあげるよ」
「オフェトリウス、さん……………?」
「どこかに、手練れの弓兵がいたようだ。………おっと、少しだけ動かないでくれるかな」
「…………っ、」
覆い被さるように見下ろしているオフェトリウスの青緑の瞳に、はらりと揺れた金髪は僅かに乱れている。
騎士の装いの彼が、どこか空腹のけだもののように見えて、ネアは短く息を飲んだ。
「ごめん、怖がらせたかな。ただ、この体勢は少し……………くるね」
「どこからか、弓で射られたのですね?」
「うん。初撃は結界で防いだが、その結果弾き飛ばされてしまった。君が衝撃で骨を砕かないよう、背後の壁を切り崩して君の側に防壁を切り替え、追撃の矢は剣で払ったのだけれど、このざまだ。……………おっと、まだ体は起こさない方がいい。もう少しだけ」
「その、いつまでこの体勢でいれば良いのでしょう?出来れば、もう少し体を離していただけるといいのですが」
「…………うん。……王の資質は、いい香りだ。君の場合は甘くて冷たい香りだね」
「ぎゃ!首筋に口を付けるのはやめるのだ!首を噛まれたら、人間は容易く滅びてしまいます!!」
「はは、噛んだりはしないよ。でも、騎士として仕える主人に柔らかく歯を立ててみるのも興味深い体験かな。首より、もう少しいいところがあるけれど」
「…………我が身を生かす為に、仲間を殺さねばならない時もあるのでしょう」
「おっと、……………んん?!」
慌てて体を起こしたオフェトリウスを、ネアは容赦なく密かに持ち上げていた足でげしんと蹴り押した。
両足の間にオフェトリウスの膝が入っていたので気付かれずに備えられたのだが、この軽い蹴り技でもネアが履いているのは戦闘靴なのである。
どすんと蹴り飛ばされ、どうやら寝台だったらしい場所から落とされたオフェトリウスは、目を丸くしている。
安易に人間を揶揄うからだときりりとしたネアは、そんな剣の魔物の背中を見て、はっと息を飲んだ。
「怪我をしているではないですか!」
「…………ああ。盾になったからね。違う役回りをするのは剣としてはたいへん不本意だが、君の背後の壁を砕くのに精一杯で、何本か剣を振り遅れた」
「むぐぐ、……………この矢を抜けますか?傷薬を出し、……………ち、ちびふわは?!人型のウィリアムさんはともかく、ちびふわはどこですか?!」
「……………フキュフ」
「ぎゃ!枕にしてしまったのです?!」
「いや、君の髪の毛に絡まっていただけだよ。君からはぐれないように、咄嗟に絡まって体を固定したんだろう」
「……………ふぁ、よ、良かったです!……………ちびふわ?」
「……………フキュフ」
どうやらそんなちびふわは、ネアの髪の毛が風圧でくしゃくしゃになった事で、その絡まりから抜け出せなくなったようだ。
苦笑したオフェトリウスが、背中に二本もの矢を背負っているとは思えない仕草で優雅に立ち上がり、髪の毛の絡まりを解いてくれるという。
また二人の距離が狭まってどきりとしたが、苦笑したオフェトリウスから、さすがにもう悪戯はしないよと言われて頷く。
「ですが、それなら寧ろ、背中の矢傷の手当てをして下さい。傷薬はありますか?」
「心配してくれて有難う。けれど、ウィリアムが来る迄は、手を塞ぎたくないんだ。この程度なら、治癒は彼が合流してからにしよう」
「結界に当たっただけでも我々を吹き飛ばすくらいなのに、この程度なのですね…………」
そう考えると、やはり魔物は頑強なのだろう。
オフェトリウスはくすりと笑うと、武器という領域の中では、階位的に自分に大きな損傷を与えられる物は殆ど無いのだと教えてくれた。
「だからこそ、ウィリアムはあの場で君の盾に僕を選んだんだろう。彼は人間に擬態していたしね」
「………… そして、一瞬、現在の体の大きさで差別してしまいましたが、ウィリアムさんはご無事でしょうか…………」
「はは、大丈夫だよ。彼は頑丈だし、さすがにこの地にだって、終焉を損なえる者はいないだろう」
「フキュフ…………」
「むむ、こうして右肩側に髪の毛を手繰り寄せると、ちびふわが少しだけ見えました。しょんぼりなのですか?」
「フキュフ」
「ふふ、ちびふわが無事なら、髪の毛くらいなんでもありませんよ。もし、絡まって解けなければ、ちょきんと切ればいいのです」
「フキュフ?!」
「おっと、暴れないでくれるかい?余計に絡まるから」
「…………ふにゅ。何の物音も聞こえませんね。ウィリアムさん…………」
「彼は、あの場で迎撃に徹したんだ。僕達の相性はあまり良くないけれど、騎士としての戦い方で連携が出来るのは有難いね」
「っ、では、さすがにそろそろ、ベルを鳴らして助けに行った方が…」
「………その必要はない。オフェトリウス、何をしているんだ?」
聞こえた声に目を瞠って顔を上げると、崩れた瓦礫を片手でどかしながら、ネア達が吹き飛ばされて来たと思われる方向から、ウィリアムが現れた。
「ウィリアムさん!」
「すまないな、ネア。心配をかけた」
「おっと、その角度からはさも悪さをしているように見えますが、ネアの髪の毛に絡まったアルテアの救出中ですよ」
「……………フキュフ」
「それだけならいいんだがな。…………それは俺がやろう、君は矢を抜いた方がいい」
「では、お言葉に甘えましょうか。あなたのご機嫌を損ねても面倒そうですから」
「フキュフ…………」
「むむ、ちびふわのちびこい足が耳に!この肉球感が、何とも言えず愛くるしいです」
「フキュフ?!」
ネアはここで、合流したウィリアムの膝の上に移動され、安堵に、ほふぅと息を吐いた。
立て続けに色々な事が起こり、まだ心臓がばくばくしている。
「…………ウィリアムさん、」
「すまない。何も言わずにオフェトリウスに任せた。怖い思いをさせたな」
「怪我はしていません?…………その、治してしまっていたとしてもです」
「そうだな、飛び込んで来た神父に蹴られたが、怪我という程の傷は負っていない。だが、射手を取り逃がしたのが痛いな………」
「ふは、………ウィリアムさんに怪我がなくて良かったです。開け放した入り口越しに射られたのは、…………私だったのですね」
まったく気付かずに、ネアは守られるばかりであった。
それが情けなくて悲しくてへにゃりと眉を下げると、耳元で髪の毛の絡まりを解いてくれているウィリアムが、淡く微笑む気配がする。
「確かに狙われたのはネアだが、僅かに軌道が逸れていた。恐らく、俺かオフェトリウスが庇うのを想定済みだったんだろう。俺達の動きを鈍らせようとしたのか、それとも、頭数を減らそうとしたのか、…………襲撃された理由を尋ねる余裕があれば良かったんだがな」
「射手さんは逃げてしまい、ウィリアムさんを蹴った神父めは、滅ぼされてしまったのです?」
「妖精魔術を使っていた。流石に俺も、この状態で侵食魔術を受けるのはまずい」
「フキュフ………」
「むぅ。ウィリアムさんにそう言わせてしまうくらい、厄介な敵だったのですね」
「いや、…………危うかったのは、箍の方だからだな」
「なぬ…………」
思わず膝の上でもぞもぞしてしまうと、ふっと、背中に触れている体温が上がったような気がした。
香りに温度があるとしたら、ウィリアムの香りは冷たい冬の夜のような静謐さだ。
そんな香りを強く意識し、うっかりくんくんしてしまわぬように我慢していると、大きな手がそっと置かれた太腿の上にその温度がじわりと染み込むよう。
不意にちびふわがいない方の耳元に吐息が触れ、髪の毛を右側に寄せて剥き出しになっていた唇が、耳朶に触れた。
「ぎゃ!か、かみました!!」
「……………ん?祝福を増やしておこうな」
「フキュフ!!」
「アルテア、そこで暴れるとネアの髪の毛が切れますよ?」
「フキュフ?!」
「むぐぐ、頭皮がぴんとなりました…………」
「フキュフ……………」
くすりと笑い、ウィリアムはもういいかと呟く。
そこで漸く、ネアは、戦ごとに慣れた終焉の魔物が、オフェトリウスが矢を引き抜く音から気を逸らしてくれたのだと気付いた。
「…………まぁ。わざとだったのですね?」
「俺としては、どこかで自制を手放して熱に溺れるのもいいが、出来ればこの手の事は、小さな変化も楽しめる冷静な時に楽しみたいからな」
「…………サンドイッチを」
「はは、それはいいかな。こうなると、食事という行為も少し刺激が強い。少しだけ我慢してくれ。ある程度すれば耐性が付く」
「…………むぐ。それ迄に、どうかお二人に噛まれない事を祈るしかありません」
「……………さては、オフェトリウスに悪さをされたな?」
「む?」
ここで、絡まっていた髪の毛がはらりと落ちた。
無事に絡まりが解け、解放されたちびふわがしゅたっと膝の上に飛び降りる。
すぐさま尻尾を膨らませてフーッと唸ると、ウィリアムの手の甲の上でたしたし足踏みしている。
可愛いしかない荒ぶりようなので、ちびこい足でぎゅっとされているウィリアムは、毛皮の民としての喜びを噛み締めてしまっているに違いない。
「ちびふわ、怪我はしていませんか?」
「……………フキュフ」
そんなちびふわを両手で持ち上げ、ネアは、みっとけばけばになっている使い魔の毛皮に頬を寄せる。
黒ちびふわはかちんこちんになっているが、ネアは、この小さな生き物が痛め付けられていなかった事に心から安堵していた。
上手く言えないが、しっかりとした肉体のウィリアムやオフェトリウスより、この小さな生き物が傷付いたらと思うと胸がぎゅっとなるのだ。
「…………さて、このまま進むにしても、襲撃の警戒は引き続き必要か。あの雨の後で他の参加者達を気にかける必要はなくなったと思ったが、どうやら、頭数を減らそうとしている連中もいるようだな」
「射手の魔術となると、喧騒の教区に名手がいましたね。また、妖精の系譜でも弓を受け継いでいる可能性がある」
「あの感じだと、妖精の方だろうな。矢に仕掛けはなかったのか?」
「幸いにも、毒や魔術添付はないようです。ただ、攻撃としての付与魔術はかなり大きい。もし、ここに置かれていた国絡みであれば、直系かもしれません」
(だとすればそれは、…………この土地に置き去りにされた妖精さんの子孫なのだ…………)
古い古い時代の事なので、この世界の人々が長生きとは言え、今は何世代目なのだろう。
本来であれば先祖の履歴などは失われていてもいいのだが、信仰として残り続けた事で、その信念が継承されている。
聖人当人が残した思想なのか、或いは彼を利用した者達が教会に都合よく示した教えなのか。
どちらにせよ、今起きている事件の根底にある思想は、とてもではないが真っ当なものとは思えない。
「………むむ、ディノからの連絡が来ていました」
「シルハーンはなんと?」
「ダリルさんの調査によると、やはり、この黎明の教区から妖精の血を引く神父様が参加しているようですね。………これは、ノアの文字ですね。念の為に異端審問にも注意した方が良いそうです」
「…………異端審問官に?」
「はい。彼等の介入がある場合、それは、より深くまで今回の事件を掴んだ上での執行の可能性が高く、となると、リシャード枢機卿にこちらの参加を伝えていない以上、そちらの筋書きである可能性も視野に入れた方がいいのだとか」
ネアがそう言えば、ウィリアムはすっと目を細めた。
オフェトリウスも考え込むような顔になり、膝の上に下ろしたちびふわは、再びウィリアムの手の甲を踏みつけている。
「……………そうか。影絵の中に旧王国の再興をと考えたのであれば、異端審問局の管轄になるな。ガーウィンの一領地としてではなく、あくまでも王を戴いた一つの国の復活になる。聖地としての管理でなければ、その信仰は異端に傾いたと考えられる可能性は高い。……………オフェトリウス、王家の側の懸念点もそこなのか?」
「いや。今回はあくまでも、盃の行方を見届け、必要であれば破壊する事までが役目ですね。もし、国の再興を見越しての派遣であれば、第一王子の火竜か、羽を落としているとしても、ロクサーヌの方が適役でしょう」
「………そうか。森の系譜ごとの火による殲滅か、愛情の魔術で、盃の効果をある程度抑え込む事が出来るな」
(となるとこれは、ガーウィン領内での身内の削り合いでもあるのだろうか………)
であれば、ネア達が最初から狙われたのは、異端審問官であるアンセルムの推薦で儀式に参加したからなのかもしれない。
あの門での審問官とのやり取りを誰かに聞かれていたのか、或いはあの眼帯の審問官があちらに通じているのか。
(いや、あの審問官が、わざと、私達が審問局の手の者だと吹聴した可能性もあるのだわ。囮にして獲物を引き寄せれば、狩りがし易くなる…………)
ノアが注意を促してくれたのはそちらだろう。
アンセルムは同僚に一言添えてくれたようだが、それが局長であるリシャードの不可侵の指示でなければ、ネア達は、直接手を出さない方がいい同僚や局長の知り合い程度の存在に過ぎない。
敵ではないが味方でもないのだから、囮にしてもさして心は痛まないだろう。
また、アンセルム自身がその動きを見越して、ネア達に快く協力してくれたという見方もある。
彼等はやはり、こちらの身内ではないのだから。
(厄介なことになった……………)
外周からそっと忍び寄り、ハーティクスの盃を奪い取ってくるだけの任務の筈が、もしかするとここは既に、今回の中心地のような場所なのかもしれない。
「どちらにせよ、盃を手にしなければ状況は悪化するばかりだな。異端審問局の狙いが国興しの阻止であれば、妖精の末裔達が計画を進めれば進める程、泥沼になる」
「リシャード枢機卿に連絡を取って、こちらにいるのが私達だとお伝えしてはどうでしょう?」
「ネア、…………あの性格を忘れたのか?嬉々として囮にされるぞ」
「……………あやつならやります」
「おや、あの枢機卿と知己なのかい?」
「わ、私の敵です!!いつか、あやつめをぎゃふんと言わせてやるのですよ!!」
「………っ、ネア、そこで弾むのはまずい」
「む?」
「ウィリアム、いい加減、彼女を膝の上から下ろしては?」
「…………いや、今は下ろす方がまずいな」
「むむ?」
「フキュフ…………」
現在地を確認すれば、やはり、吹き飛ばされて来た方向に戻ってから、城に向かうしかなさそうだ。
その言葉にこくりと頷き、ネアはふと、とても大事な事に気付いてしまった。
「よく考えたら、三人でお城を落としにゆくようなものなのですよね?…………その、お城というものは、それなりの備えがあるのでは?」
「まぁ、どうにかするしかないな」
「城崩しをするのは、随分と久し振りだね……」
「フキュフ……………」
思っていたより遥かに危険な任務に、ネアは、既に盃の影響を受けている仲間達を見回し、じっとりした目になってしまった。
教区の中での宝探しのような作業から一転、これから待ち受けているのは、お城の襲撃なのである。
果たして無事に済むだろうかと思い心の中にじわりと広がった不安に、ネアは、使い魔おやつである美味しい棒ドーナツを取り出して、もそもそと囓るより他になかった。
正面にいたオフェトリウスがなぜか絶望の眼差しになったが、こちらは空腹の効果が出るのだから、適度なお食事が必須なのだ。
分けてあげようとしたら断られたので、お腹が空いている訳ではないらしい。




