黎明の教区と林檎の盃 3
静けさには種類がある。
その中でも最も不穏な静けさが、空洞の静謐だろう。
ネアはかつて、こんな静寂の中に身を置いた事がある。
だが、その町はべたべたするくらいに濃密な暗闇に満たされていて、その時に手を繋いでいてくれたのは絶望の魔物であった。
(…………ここには、誰もいないのかな)
ネア達がこの中に入った理由を考えると、ハーティクスの盃の競合相手もいるのではないかと思うのだが、そんな誰かの気配は微塵もなく、ただひたすらに空っぽの街が広がっている。
あの暗い街で遭遇した生き物を思い身震いすると、ネアは、もふんと顔の前に揺れた肩の上の黒ちびふわの尻尾に顔を埋めた。
まずは、この街でどう動くべきかの方針を定めようという事で、ネア達は今、小さな広場にあるベンチに腰掛けている。
足元にかかる影は大きな水色のパラソルのもので、ベンチの手前には持ち主がいなくなってしまったらしい小さな水売りの屋台があり、それが、いい具合に周囲からの目隠しになってくれていた。
そして、そんな風に主人を失って放置されているのは、ネア達の前に置き去りにされた屋台ばかりではない。
誰かが落としたであろう歩道の上の帽子に、カフェのテラス席のテーブルの上に置かれたグラスには、まだ飲み物が入っていた。
グラスの中の輪切りの檸檬の瑞々しさに、手入れされた綺麗な街路樹の道の向こうに広がる青い青い空。
取り残された健やかさの残照が、がらんどうな街に響き、ネアは訳もわからずぞっとしてしまう。
そして、街のあちこちに緑の葉を広げ、瑞々しい深紅の森苺が実っているのだ。
「…………むぅ。何だか、背筋が寒くなるような空虚さです。ちびふわのお腹を撫でますね」
「フキュフ?!」
「恐らく黒ちびふわは、この街のどこかそら恐ろしい空気から私を守る為に、もふもふ毛皮を派遣してくれたに違いありません」
「フキュフー!!」
じっとこちらを見ているオフェトリウスの前でお腹を撫でられてしまったちびふわは、ちびこい手足をもしゃもしゃさせて抵抗しているが、何としてもちびふわをひっくり返してお腹を撫でると決めた人間の前では、儚くも無力であった。
「やはり、妄執か。…………この土地に残された因果や願いに、たまたま置かれた盃の魔術が影響したか、或いは、この土地の蓋を開くために盃を持ち込んだかだろうな。…………どう思う?」
「僕の見立てでは後者ですね。常備品の移動で引き起こされた現象なら偶然もあり得ますが、ここまでの偶然が同時期に揃う事はありえない。…………何かの召喚や再現、構築や円熟を望んだのであれば、…………僕達の配役は贄でしょうか」
その不穏な言葉に、ネアは、慌ててウィリアムな椅子の背もたれにぐぐいっと体をくっつけた。
そうすると膝の上に乗せたちびふわがけばけばになって暴れているが、こんな時は、頼もしい守り手の体温程、冷え込む心を温めるものはない。
(そしてオフェトリウスさんは、ウィリアムさんに対しては敬語になってしまった………)
姿を見せた時には敬語などは使っていなかったようだが、話し方を変えたようだ。
なぜだろうと考えていたが、あの時とで変わった事があるとすれば、ちびふわ姿でお届けされた選択の魔物の存在くらいだろうか。
或いは、この影絵の中にいる他の誰かに対し、ウィリアムの扮した教会騎士と、ある程度距離を置いた関係性を示す為の作戦なのかもしれない。
相変わらず街は静まり返っていて、残されていた生活の痕跡を調べたオフェトリウスが、かつてこの地にあった人間の王国の王都で間違いないと教えてくれる。
オフェトリウスは、この国が栄えていた頃にかつてのウィームに滞在しており、隣国を見て回った際に、何度か足を運んだ事があるのだそうだ。
「ここは、妖精の障りで食われた国だから、名前は残っていないんだ。この地を治めていた妖精王はとても慎重な人物で、地上を離れて妖精の国に戻る際に、しっかりと自分達の国を閉ざしていった。それ以降二度と地上には戻らなかったとされているけれど、妖精の国で見かければ、なかなか気さくな人物だよ」
「まぁ、オフェトリウスさんはその王様をご存知なのですか?」
「友人ではないけれど、会えば食事を共にする事はあるかな。ここにあった人間の国の最後の一人の人間を花嫁に迎え入れた時には騒ぎもあったようだけれど、あの森の系譜の中では珍しい、数いる妖精王の中でも名高い賢王の一人だね。………彼の花嫁は、国滅びの作法で迎え入れられ、妖精の贄として生き永らえた人間だった筈だ。であれば、その履歴を抱えた土地の結ぶ魔術が、災いとして同じ贄を求める筈はないんだけれどね」
「むむ…………?」
オフェトリウスの言葉に首を傾げたネアに、今度はウィリアムが解説を加えてくれる。
空は綺麗な青空なのだが、柔らかな風が吹く事もなく、ネアは、この街の片隅に音楽の小箱でも置いておきたくなった。
上手く言えないのだが、この静けさこそが災いのような、そんな気がするのだ。
「ここは、影絵だと話しただろう?影絵の場合は、あわいと違って、本来の道筋から逸脱出来ない。細部の変更は可能だが、大まかな輪郭だけは変えようがないんだ。滅びを辿った街であれば滅びは避けられないけれど、その方法や参加者の変更はあり得ると言えば分かりやすいか」
「となると、この国の辿った運命の顛末でもある、先程オフェトリウスさんの話されていた、花嫁さんの事情が適応される筈なのですね?」
「ああ。俺はその妖精を知らないが、この地を治めた妖精王が贄を花嫁としたのなら、その出来事に結ぶのは祝福や収穫を意味する魔術になる筈なんだ。…………こんな風に、余所余所しく悪意に満ちた気配を纏いはしない」
「例えば、物語のあわいや気象性の悪夢のように、そこに到達する迄に時間をかけるという事はありませんか?」
ネアはそう尋ねてみたのだが、ウィリアムとオフェトリウスは首を横に振る。
人々の姿がなく、森苺がこれだけ生い茂っているとなると、既にこの土地は、国民が妖精達に食べられてしまった場面を越えている。
また、可動域上ネアには辿れないものだが、影絵には装丁があって、その装丁の様子がおかしいと言う。
贄として呼び込まれたのだろうかと考えるに至るくらいに、悪意による餌籠めいた魔術配置が成されているのだそうだ。
(それは例えば、ハッピーエンドの物語本の装丁が、悲劇の物語のような表紙絵になっているという事だろうか…………)
だが、ネアにはそもそも、この不思議な空間の中ではまだ、物語が始まっているような気配さえ掴めない。
そう思いかけてふと、何かを掴みかけたような気がした。
「むぐぐ…………」
「フキュフ…………」
「ネア、どうした?」
「何やら、捏ね繰り回していた推理が、偶然いいところに近付きかけたような気がしたのですが、また迷子になってしまいました。この場所にはまだ、物語が始まっているような気配すらないのだと考えたのですが…………」
「…………開幕前の舞台………。そうか、必要なのは、観客と演者だな」
ウィリアムがそう呟いた瞬間、オフェトリウスが低く呻いた。
ぎくりとしてそちらを見ると、ゆらりと立ち上がった騎士服の魔物は、青緑色の瞳を眇め、街の向こうに聳える城の尖塔を見つめている。
「…………随分前に、似たような影絵に迷い込んだ事がある。その時の静寂と、この土地の静寂は同じものだろう。………ウィリアム、この影絵が欲しているのは、…………恐らく国民でしょう」
「………観客を術者とするのなら、求められているのは配役で間違いないな。それなら、結びの魔術が災いではなくても、贄を求めるのに近しい術式になる」
「だからこそ、ハーティクスの盃なんでしょう。招き入れ、育み、国を盛り立てるだけの国民が必要なのではないかな」
「…………フキュフ」
どこまでもどこまでも、美しく整えられた街が広がる。
そこはきっと、かつては、さぞかし豊かで美しい国だったのだろう。
暮らしていた人間達がどんな事をして妖精を怒らせたのかは知らないが、約束を破って森苺に変えられてしまった人間達が作り上げた国は、空っぽのままでは惜しい程の綺麗な姿で、今も尚、影絵となってここに転がっている。
(だから、なのだろうか…………)
「これだけの状態で残されたからこそ、その入れ物に入れる国民が欲しくなってしまったのですか?」
「だとすれば、盃があるのは城だろうな。王がいなければ、国にならない。………やれやれ、こうなってくると、盃を手に入れるのも考えものだな」
「むむ、その盃を取り上げれば、ここが落ち着いたりはしないのでしょうか?」
「確証はないが、………役割り上、国王が求められるとなると、盃を手にした者こそがこの影絵に敷かれた魔術の宿主となり、国を繁栄させる為の号令を下す可能性がある。ハーティクスの盃を使えば、…………言い方は悪いが、人間の子供を増やせるからな」
「おのれ、何という嫌な筋書きなのだ…………」
「ネア。カードから、シルハーンにこの土地にどんな信仰があったのかを、調べて貰っていいか?ここを、教会が治めて飛び地とするに至った古い伝承が必要になるかもしれない」
「は、はい!」
そう言われて慌てて頷いたものの、ネアは最初、なぜそれが必要なのか分からなかった。
けれども、カードを持ったディノの近くに控えてくれていたノアがすぐにダリルと連携を取り、ガーウィンの黎明の教区の飛び地にあった信仰の始まりが分かると、どうしてウィリアムがその情報を必要としたのかが腑に落ちる。
開かれたカードの上でちらちらと揺れる淡い金色の文字を、ネアはゆっくりと目で辿った。
「…………この土地で、家を失った哀れな乙女達を救い、教会を建てた聖人がいたそうです。その方は生涯をこの地での祈りと復興に捧げ、失われた王国の跡地を守り続けたのだとか。後世でその方を聖人としたのは、この森を育んだのが、その方の功績だからなのだそうです。森の妖精達の去った土地を再び森としたその方の善行に、復活や、今はもうない修復の奇跡の象徴として、聖人としたのだとか」
「ああ、それでなのか。だからこそ、残された信者の誰かが、…………国を取り戻そうとしたんだろうね」
オフェトリウスの言葉に、ちびふわの尻尾がぼふんと膨らむ。
ネアは慌てて尻尾をぎゅむっと押さえてやりながら、示される恐ろしさに唇を噛む。
きっとこのちびちびふわふわした姿の魔物も、その言葉に示された恐ろしさに気付いたのだろう。
ネアは、すぐさま元来た道を戻り、ウィームに帰りたくなってしまった。
(だってもう、この森を作った人はいないのだろうに…………)
「そうして、国の再興を望むのは、…………それが、信仰の形だからなのですね?」
信心深くない人間は、それがどれだけ恐ろしい武器や毒になるのかを知っている。
それは世の常であり、人々の経験であり、かつての世界で触れた沢山の物語の常であった。
先程通り抜けた聖堂のように、信仰は尊く美しいものを数多く作り残してくれる。
また、学問や医療など様々な知識の窓となる事も多い。
だが、時として、それを慈しむ術を誤った信徒達を盲目な暴徒にしてしまう事があり、ここで行われている何かにそんな信仰の顛末が絡むのかと思えば、否が応にも背筋が冷えた。
既にもう、充分に、そら恐ろしい空間なのだ。
そこに、信仰までが絡むのは勘弁して欲しい。
「それが理由だと、僕もそう思うよ。今回のハーティクスの盃も、一応は、林檎の盃と呼ばれる教会組織所有の聖遺物の一つだ。聖遺物を使い、失われた国を取り戻すとなれば、それはさぞかし、信仰に適った儀式だろう」
「そうなってくると、今回の儀式そのものが、誰かの手の内だという可能性もあるな。盃は撒き餌で、………情報が洩れていたと思っていたカルウィは、…………必要な血筋か」
「むむ、この国の方々の履歴に、カルウィがあるのですか?」
「ああ。とは言え一部だがな。ここにあった王国は、元々は落ち人達の集まりだ。現在のヴェルリア周辺の王族と、カルウィ方面からの戦争難民が、妖精達に助けを求めて森に入り、彼等の客人として寄り添って生きた土地だったと言われている」
条件を整え、そこにハーティクスの盃を置く。
この影絵を整えた誰かは、聖人への信仰の証として、滅びた筈の王国の再興を願ったのだろう。
その信仰の祖となった聖人はもういないのに、空っぽの王国を育てて無理やり民を閉じ込めても、それはもう妄執以外の何物でもないのに。
或いは、それでも復活の形を整えられるならいいと思ったのだろうか。
(もしくは、聖人にされた方が残した思想そのものが、妄執に近いものだったのだろうか…………)
「…………はぁ。信仰の畑の連中は、時々こういう事をするな」
「…………フキュフ」
「まぁ、ウィリアムさんが、どっと疲れてしまいました…………」
「やれやれ、僕も、ここから戻ってから報告する事が増えてしまったかな。ネア、口を開けてくれるかい?」
「むぐ?!」
ここでネアは、オフェトリウスからお口の中に何かを放り込まれてしまい、慌てて口を両手で隠した。
しかし、既に口の中に投入されてしまった何かは、舌の上でほろりと溶けて、あっという間に吸収されてしまう。
じゅわっと溶ける甘さからすると、砂糖菓子のようなものだろうか。
「オフェトリウス?」
「誘惑や魅了効果除けの、妖精魔術に特化した砂糖菓子ですよ。ここで、彼女にもしもの事があるといけないので」
「フキュフ!」
「ち、ちびふわ、私のお口をこじ開けても、砂糖菓子はもうないのですよ?」
「フキュフ…………」
「…………ええと、ウィリアム、………アルテアはあんな感じでいいんですか?ネアの口の中を覗き込もうとしていますが……………」
「…………アルテア、落ち着いて下さい。あなたは、ネアの防壁代わりにこちらに入ったのでは?」
「フキュフ?!」
どうやら一瞬、ウィリアムとオフェトリウスが険悪になりかけたようだが、砂糖菓子と聞いて狂乱しかけてしまった黒ちびふわのお手柄で、そちらは落ち着いたようだ。
ネアは、薬として与えてくれたのだと知り一応はお礼を言ったものの、許可なく淑女のお口に砂糖菓子を放り込まないようにオフェトリウスに申し出、王都のご婦人方は喜ぶけどねという、なかなかに爛れた回答をいただく羽目になる。
そう言えばこの剣の魔物は、清く正しく生きておりますという貴族然とした雰囲気を出しているものの、他の魔物達がかなりの警戒を強いられるくらいに、王都では人気のある男性だったのだ。
殆ど無差別と言ってもいいくらいの人気なのだと、ノアが遠い目で語っていた事がある。
そんな男性からしてみれば、この手の触れ合いは手慣れたものなのだろう。
「ウィリアムさん、我々はこれから、あのお城に行くのですよね?」
「ああ。盃を手に入れるにはそちらだな。だが、念の為に街の中心を抜けてから向かおう」
「むむ、街の中心を抜けるのです?」
「この造りの王都の場合は、最初の布告が出る場所が何か所か決まっている。もし、誰かが先に盃を手にしていて、この影絵の王として認識をされたのなら、王からの布告や即位の情報がどこかに現れる筈だ」
そう聞けば、国としての仕組みを良く理解している言葉に頷くばかりだが、ネアは、空っぽの街がそんな風に王都としての機能を果たすのであれば、相当にホラーだと思い、すっかり慄いてしまいながら、もう一度周囲を見回してしまった。
生き物の影はないものの、絵のように美しい王都である。
あちこちに赤い実をつけた森苺のおかげで、風景としてはどこか可愛らしくも見えた。
けれどもやはり、そうして待ち構えているこの影絵の全てが、ネアには例えようもなく悍ましく恐ろしいものに映るのだ。
「入り口近くでの襲撃は、カルウィの魔術だったな。だとすれば、少なくとも一組はそちらに残っている。各教区の推薦者は秘されているが、俺達がこちらに入る迄に確認されているのは、十一組だった筈だ」
「あなたの系譜からの情報ですか?ガーウィンの教会群には、多くの終焉の系譜の者達が住み着いているとか」
「そういう君も、ガーウィンに何の情報源もないという訳ではないだろう。仮にも王都を守る騎士団長だ。最も警戒されているガーウィンへの足掛かりを、全く用意していない筈がない」
「はは、どうでしょう。僕はこれでも、剣を振るうしかない実直な質でして」
「…………フキュフ」
ネアでも何か秘密があるぞという微笑みを浮かべたオフェトリウスに、ネアの肩の上に乗った黒ちびふわが、呆れたような声を上げる。
だが、ふさふさ尻尾をネアの首に巻き付けたこちらの生き物は、つい先程まで、魔物としての理性を失いかけていたばかりなのだ。
(…………何だか、この二人の相性が良くないなぁ…………)
過不足のない系譜で、尚且つこの飛び地の内側に持ち込めるものでとなった結果、ネアは、同じ目的を持つオフェトリウスを携帯する事になった。
つい先程までは、騎士が二人という魅惑の状況にわくわくもしていたのだが、どうにもウィリアムとの相性が悪い。
表面上は穏やかだが、交わされる微笑みが何だかとても刺々しいという、なかなかに堪える空気が続けば、繊細な乙女の心は疲弊してしまう。
ただでさえ、この影絵の中の空気には、どうにも心を削られるのだ。
であればやはり、早々にどちらか一人を選んで、伴侶にしてしまうべきだろう。
「…………え?」
ぞっとして声を上げると、すぐにウィリアムが振り返った。
敢えてオフェトリウスは振り返らずに、周囲に鋭い視線を投げているのが、騎士の動き方を熟知した者同士らしい思わぬ連携の良さである。
「ネア、どうした?」
「…………思考が、…………変でした。すぐにはっとしましたが、なぜか、お二人のどちらかを、早く伴侶にするべきだと考えてしまったのです」
「フキュフ?!」
「………意識浸食か?…………何も取り込んでいない筈なのに影響が出るとなると、…………妖精魔術かもしれないな」
その言葉に、背を向けたまま周囲の警戒をしてくれているオフェトリウスの背中が揺れただろうか。
ネアは、外側からの浸食を避けられないとは分かっていても、慌ててウィリアムの腕の中にすぽんと収まってしまい、ちびふわは、一緒にウィリアムの腕の中に収められてしまったからか、ネアの肩の上で爪を立てている。
「……………ガーウィンの黎明の教区には、妖精の血を引く聖職者たちがいるという噂を聞いた事があります。妖精の足跡に作られた亡国の影絵。その再興を願う信仰と、妖精の血筋。どうやら噂に聞く妖精の末裔達は、この国とかかわりのある者達のようですね」
「妖精の国に帰ってしまった妖精さん達の中で、この土地に残った方々がいらっしゃったという事なのですか?」
そうして残った妖精達が人間と交わったのかと思えば、ウィリアムが首を横に振った。
「いや、妖精は気紛れで奔放だが、しっかりとした王を戴く一族は、王の命令には決して逆らわない。ましてや森の系譜だ。王の育む森から離れた妖精は、長くは生きられなくなる。………その上で地上に取り残された者達がいたのだとすれば、自らの意志で残ったというよりは、妖精の国に受け入れられずこの地に捨て置かれた者達だろうな。…………信仰の始まりには、哀れな乙女達が出てくるんだろう?」
「僕も、そちらの可能性が強いと思うよ。でなければ、この土地の魔術の歪みが説明出来ない」
「…………まぁ、では、帰る場所をなくして保護されたという方達が、置いていかれてしまった妖精さんだったのです?」
ネアがぼんやりと思い描いたのは、失われた王国を惜しんだ一人の聖職者と、森が失われた草原に取り残された妖精の乙女達の姿だ。
失われた王国から始まり、元々は贄だったという花嫁を貰った妖精王といい、どうやらここには、なかなかに起伏に富んだ物語があったらしい。
(この地を去った妖精王が満足して帰ったというのなら、残された乙女達はきっと、何らかの形で王様から切り捨てられた人達だったのだろう)
そして、ガーウィンに今も受け継がれる血脈が、そんな乙女達の末裔であるのなら、記された信仰の輪郭が、終焉の魔物に妄執と言わしめるだけの物であっても不思議ではない。
ネアの良く知る妖精達はその限りではないが、植物などの系譜の妖精の障りや呪いがどれだけ恐ろしいのかは、ウィームに住んでいれば誰でも知っている事だ。
厳密には植物ではなく森なのだが、とは言え、王が育む森でしか妖精らしい長命を維持出来ないのに、祖国に帰れずに取り残された乙女達の嘆きは、容易く想像出来る。
(そんなものが、信仰として残されていたのなら……………)
そんな事を考えていた時の事だった。
どこかでゴオンと、重たい鐘の音が聞こえた。
響きの悪い鐘の音は、その鐘楼が使われていた時代の古さを感じさせる。
ぎょっとして竦み上がったネアを抱き締め、ウィリアムが溜め息を揺らした。
「始まったな。予めこの状況が想定出来ていれば、わざと後から入らずにもう少し早くこちらに到着するべきだったか」
「むぐぐ、始まってしまったのです?」
「ああ。あまり時間はないだろうと思っていたんだ。誰か、それを強いた者がいるのであれば、事の成就を急ぐだろう。今回の儀式選定には観衆がいる。候補者達の戻りがあまりにも遅ければ、調査が入るのは避けられない」
「…………その、……………他の種族の方については存じ上げないのですが、…………人間は、そんなに簡単には増えないと思うのですが…………」
「命を宿す為の結びだけでいいのだろうね。新しい命を育む事が出来さえすれば、国が機能していると認識する魔術なのかもしれない。信仰は、往々にしてそのように捉える物であるし、出来れば、そうして短期決戦で考えてくれている方がこちらの心にも優しいかな……………」
「むぐぅ…………」
ネアはふと、男女一対のこの形式も仕組まれた物かと思ったが、そちらは愛情を司る魔術の扱いの規約にあるらしい。
だがそれも含めて、今回の一件に利用されたと見て間違いないだろう。
(……………信仰の系譜は、決して、己の信仰に背いてまで、ガーウィン領の方針に従いはしないのだ。なぜならば、彼等にとっての最優先は、信仰そのものなのだから…………)
そう思うと、王都の監視の目の厳しさも尤もであるし、ゼベルの叔父だというガーウィン領主の気苦労はかなりのものだろう。
そして、重々しい鐘の音と共に、街には変化が現れた。
きらきらと光る、色とりどりの紙吹雪が、どこからともなく降り注ぎ始めたのだ。
紙吹雪に多大なトラウマのあるネアはぎくりとしたし、肩の上のちびふわもけばけばになる。
「……………ぎゅむ。これは、お祝いされてしまう危険はないのでしょうか?」
「祝福の魔術は展開されているが、ただの紙吹雪だ。ネアの考えているものではないが、俺達にとっては凶兆なのは間違いないな。……………オフェトリウス、ここから先は時間勝負になるかもしれない。武装しておいた方がいいんじゃないか?」
「ああ。……………来ましたね」
「……………む?」
その時は元々、舞い散る紙吹雪がきらきらと光っていた。
紙吹雪に使われている素材が、コーティング紙のような艶のある紙だったらしく、良く晴れた日の陽光を反射してきらきらと光るのだ。
だからだろう。
ネアは、そんな紙吹雪に混じって、別のものが降り始めたのに気付くのが遅れてしまった。
(あ、……………お天気雨……………?)
だが、さっと身構えた騎士達に慌てて周囲を見回せば、紙吹雪に混じって、祝福の煌めきのような細やかな光が降り注ぎ始めた事に気付く。
気付いた時にはもう、ウィリアムに抱えられてどこぞの店先の軒下に連れ込まれていたので、幸いにもその雫を浴びてしまう事はなかったものの、そこからも、きらきらと光る雫が紙吹雪に混ざっているのが良く見えた。
「雨、……………ですかね」
「……………雲の系譜の魔術を使う者が、偶然二人揃う可能性はあると思うか?」
「ないでしょうね。雨呼びの魔術は、カルウィ独自の物です。ただ、ターレンの方の固有魔術では、これに似た展開がある筈だ。相当な術者であれば、雨のように降らせることも可能かもしれない」
「水櫃の亜種魔術か……………。もし、カルウィの参加者が既にハーティクスの盃を手にしているとなると、入り口が一か所ではなかったか、時間の歪みがある可能性もあるのか。後者だけは、何としても避けたいところだな……………」
「もしくは、同じ血統の者が複数名入り込んでいる可能性、ですかね」
「……………カルウィからの侵入者が二組か。それも、考えるだけでも憂鬱になるな……………」
ネアは、随分と行動が制限されたなと顔を顰めているウィリアムの袖を引き、こちらを見た教会騎士風な終焉の魔物に頭を撫でて貰う。
「すまない。後手が続いているな。不安にさせただろう?」
「いえ。……………ですが、この雨に触れると、良くないのですね?」
「ハーティクスの盃に注いだ水を、置き換えの魔術で雨として降らせているようだからな。含有祝福濃度が高いから、あんなに光るんだ」
「……………なぬ」
「ここにネアがいる以上、俺達もあの雨に触れてどれだけ自我が残るかを試す訳にはいかない。……………だが、魔術は無尽蔵じゃない。この状態は長くは続かない筈だ」
「盃を手にしたのが人間であれば、無駄な手は打たないでしょう。僕達の他にも、恐らく何組かの参加者が取り込まれている筈だ」
(もしかして、……………)
ネアはここで、少しだけ考える。
開始早々狙われた事といい、思いがけない荒っぽさでいきなり攻撃された事といい、その全てに理由があるのなら、それはもしかすると、この瞬間の為の追い込み漁のようなものだったのではないだろうか。
王国の入れ物の中に獲物を追い込み、王の役割を果たす者が盃を手にしたところで、林檎の盃の祝福を含んだ雨を、紙吹雪に隠して降らせる。
後はもう、語るのも悍ましい事だが、その祝福に当てられた者達が思惑通りに動くのを、ただ待っていればいいだけという寸法だ。
「……………むぐ」
「フキュフ……………」
しかしここで、深刻な状況にもかかわらず、ネアのお腹がぐーっと鳴ってしまった。
慌ててお腹を押さえると、ネアは、目元を染めてしょんぼりと項垂れる。
殆ど身内のようなウィリアムだけなら気にならないが、ここにはオフェトリウスもいるのだ。
「ネア、何か口にしておいた方がいい。直接肌に触れなくても、影響があるんだろう」
「ふぁい。アルテアさん特製のサンドイッチがまだまだあるので、それをいただきますね……………」
「フキュフ」
「ん?……………彼は、頻繁に君に手料理を振舞っているのかい?」
「ふむ。沢山の美味しいものを献上してくれる、良い魔物さんなのですよ」
「フキュフ……………」
「ウィリアム、魔術の繋ぎはいいんですか?」
「ああ、それは気にしないでくれ。シルハーンも承知済なんだ」
「……………それならいいんですが」
むぐむぐと美味しいコンビーフサンドを頬張っているネアは、その時はまだ気付かなかった。
ふうっと短く息を吐いたウィリアムや、僅かに滲んだ額の汗を指先で拭ったオフェトリウスに。
触れずとも影響を受けるのは、何もネアだけではないのだ。
特に、人間に擬態している分、ウィリアムは受ける影響が強くなる。
また、豊穣などの資質を持つ森の妖精の魔術には、誘惑を司る術式が多い。
この罠に妖精の魔術が上書きされた場合、それがどれ程の強い効果を齎すのか。
だからこそ、オフェトリウスに砂糖菓子を食べさせられたネアですら、既に腹ペコなのだから、その影絵の中にはもう、通常では考えられない程の魔術の香りが立ち籠めていたのであった。
明日の更新は、「森守りの妖精と最後の祝福」となります。




