黎明の教区と林檎の盃 2
黎明の教区の飛び地に入る門は、壮麗な聖堂になっている。
それは言葉にすればその程度でしかないのだが、見るだけで首が痛くなりそうな程の天井を見上げれば、また別の感慨に満たされるだろう。
「ほわ……………」
ネアは、ウィリアムと手を繋いでいるのをいい事にぽかんと上を見上げたまま歩いてしまい、視線を正面に戻してもまたぽかんとした。
「はは、夢中だな」
「……………ふぁい。この色相の聖堂は、初めて見るものでした」
「ああ、確かにこれまで訪れた聖堂だと、この色合いの魔術や建材の物はなかっただろう」
「ふぁ……………」
盾に細長いアーチ形の空間は、建材になっている淡い砂色の黎明石のせいで、けぶるような輝きを帯びたクリーム色の光に包まれていた。
けれどもそれは、ぎらぎらとした陽光の強さではなく、ふわっと光を孕むような柔らかな白みがかった陽光の光で、ネアが知っている教会や聖堂の灰色や青白い色相はどこにもない。
高い位置の天窓や、中庭に向かって開いた通路の入り口から差し込む陽光が、どこまでもどこまでも、柔らかく繊細な黎明の光を織り上げている。
(…………綺麗。…………優しくて清廉で、……………とても柔らかいのだわ…………)
真っ直ぐ伸びた柱廊の突き当りに、祭壇はない。
だが、建物の中央と思われる部分のひと際高くなっている天井にはステンドグラスの天窓があり、そこから落ちた色鮮やかな円形の影が、床にくっきりと浮かび上がっている。
他には一切の色相はなく、その影だけが、黎明の淡い光を湛えた聖堂の中の、一枚の聖なる絵のようだった。
「上手い造りだな。陽光そのものを信仰の対象として、かなり緻密に計算されているようだ」
「……………ええ。もしここが黎明の教区だとは知らずにいても、この聖堂の中に入っただけで、夜明けの光の美しさを思ったでしょう。そして、何よりもその時間こそが美しいのだと、そう思ってしまうかもしれません」
こつこつと床石を踏み、淡いクリーム色の光の中を歩いてゆく。
この光が清らかに思えるのは、聖堂内部に一切の余分な装飾がないからかもしれない。
そんな事を思っていた時のことだった。
「やぁ、これからの参戦かい?」
不意に声をかけられ、ネアはぎくりとする。
周囲に気を取られていたにせよ前だって見ていた筈だし、壁沿いには誰もいなかった筈なのだ。
それなのに、いつの間にか一人の男性が立っていた。
はらりと揺れた灰色の神父服に、片目は眼帯のようなもので覆われている。
灰色の長い髪は一本に縛ってあって、こちらを見ている瞳は鮮やかな紅茶色だ。
「門番からは、他の参加者は随分前に入ったと聞いていたが、まだここを抜けていない参加者がいたのか」
話しかけられたのはネアだったが、繋いだ手をぎゅっと握り、代わりにウィリアムが答えてくれる。
すると男性は、まるで子供の様に破顔し、肩を震わせて笑うではないか。
「僕が参加したのは、どちらかと言えば本職の為だからね。それにほら、相棒だったシスターはもう殺されちゃったし、ハーティクスの盃の争奪戦には加われそうにないからさ」
「あまり心穏やかじゃない言葉が聞こえてきたようだが、君の相棒は亡くなったのか?」
「信仰の隙間に入り込んだ、毒蛇のせいでね。ところで君達は、どこの教区からの推薦だい?」
「静謐の教区だ。夜に属していると言えば伝わるか?」
「ああ、アンセルム神父のところだな。そう言えば、自分の推薦者については、あまり虐めない方がいいって言われたっけ。まぁ、夜に属しているのなら問題ない。君は、猊下の事をご存知かい?」
「同僚だからな。あのおかしな趣味まで良く知っている」
「はは、ますます問題なしだ。そこまでを知っているのなら、僕の仕事も想像がつくだろう」
「異端審問官だな」
「はは、ご名答。であればこの中では、僕がひと仕事しなければいけないだけの事態が起こっているとだけ、伝えておくよ」
「やれやれ、面倒事は避けたかったんだがな……………」
そう呟いたウィリアムに、男性は、そりゃ無理だよとまた笑う。
どうやら陽気な質ではあるようだが、その陽気さがどこか虚ろで、背筋をひやりとさせるようなところがある。
ネアはふと、その男性に、普通の人間の気配というよりは、アレクシスなどのどこか人間の領域を飛び越えてしまった人の気配がある事に気付いた。
死の精霊であるナインの下で働いているほどの人物であれば、そのお眼鏡に適った能力を有しているのは間違いないのだが、人ならざる者達ですら容易に狩ってしまう人間独自の、何かを振り切った気配があるのだ。
だからなのだろう。
ひらひらと手を振る審問官の横を通り抜け、あれだけ美しいと感動していた聖堂を抜けるとほっとしてしまった。
(敵対するような人じゃなくて良かった…………。そして、アンセルム神父が異端審問官で、尚且つ、リシャードさんがウィリアムさんと同じ終焉の系譜で良かった…………)
ネアは、狩りの女王としての自分の力量を信じている。
であれば、これだけの威圧感を覚えたあの男性を、決して軽んじてはなるまい。
「……………あの方が門の近くにいたのは、誰かを待ち構えているからでしょうか?」
「ああ。入って来る者というよりは、出ていくところを追撃しようとしているんだろう。俺達が現れても大した反応をしなかったのは、既に標的を絞り込んでいるからだろうな。……………それにしても、カルウィに情報が漏れていたとなると、相当に荒れそうだな………」
「あの方の仰っていた毒蛇さんは、カルウィの事なのですか?」
「ああ。この土地の人間が、カルウィの人間を示す言い回しだ。ネア、念の為にカードから情報を共有しておいた方がいい。……………ん?」
「では、こそこそしますね!」
ネアは、既に黎明の教区の飛び地に入ってしまったのでと、ウィリアムのケープの中にひょいっと潜り込んだ。
ウィリアムは少し驚いてしまったようだが、こうして隠れてしまうのが一番簡単な目隠しである。
“ディノ、こちらは飛び地の中に入りました。お会いした眼帯の異端審問官さんによると、どうやらカルウィの方が潜入してきているようです”
“ネア、怖くないかい?……………カルウィの人間が、入り込んでいるのだね。ウィリアムは、砂の系譜の魔術をよく知っている。やはり今回は、彼に頼んで良かったようだ”
“はい!ウィリアムさんは、教会騎士さんの装束もとてもよく似合うのですよ。そして黎明の教区の飛び地に入る門となっている聖堂は、とても素敵でした”
“浮気……………”
“まぁ、浮気になってしまうのです?”
“ウィリアムと黎明なんて……………”
あまり怖がらせないようにと、最後に何でもないお喋りを付け加えたところ、伴侶の魔物はすっかり荒ぶってしまったようだ。
ウィリアムの騎士服問題だけでなく、黎明の魔術を褒めたのもいけなかったらしい。
ネアはくすりと笑い、私は伴侶が一番大好きですよと書いてからカードを仕舞うと、もそりとウィリアムのケープから顔を出す。
「報告完了です。……………むむ?」
「ああ、少し目障りな使い魔がいたからな」
ケープの内側でネアが連絡係をしていた間に、教会騎士に扮した終焉の魔物は、既に何かを滅ぼしてしまったらしい。
剣を鞘に戻している仕草に目を瞬き、ネアは、少し離れた位置にへしゃげて落ちている物体に目を凝らす。
どう考えても人型をしているが、使い魔というからにはそうなのだろう。
少しの振動も感じないままにひと勝負終わってしまっていたのだから驚くしかないが、ウィリアムともなれば、このくらいあっさりやってしまうのかもしれない。
「そして、……………思っていたよりも、とても森なのですね」
「ああ。それは俺も思っていたところだ。外からは他の教会の屋根が幾つか見えていたが、まさか、そのどれも廃墟だとはな……………」
しゃわんと、生い茂った木々の葉が風に揺れる。
ウィリアムのケープを揺らす程ではない風だが、その僅かな音が波音のようにどこまでも広がってゆけば、あらためてこの土地の広大さを思い知らされる。
ネアは、これはまさか、一日で片付かなければ野営になるのではとわなわなしたが、その際に問題となるであろう、森に暮らしがちな天敵については深く考えないようにした。
深く深く、侵入者を拒むように広がる森は、僅かにすり鉢状の土地である為に遠くまで見通せる。
入り口から見えていた教会群はどれも廃墟になっており、建物と言える程の外壁も残っていないようだ。
そうなるともう、見渡す限りが森という感じなのだが、せめてどこかに、この土地を管理する者達が使う建物はあると信じたい。
「むぅ。森に飛び込んで、狩り尽くす勢いで攻めてゆけばいいのです?」
「ひとまず、互いの感知能力を信じて森に入るしかなさそうだな。ネア、ベルは持っているか?」
「はい。いざとなったら、一網打尽で眠らせてしまいますね」
「ああ。だが、ベルの音が届く範囲でとなると、この広さだ。思っていたよりも苦戦するかもしれない。……………念の為に剣を持って来て良かったな」
「そろそろ、お外に出してあげます?」
「いや、もう暫く仕舞っておこうか。俺もまだ、この中での状況を把握しきれていない。例えば、何で参加するなり早々に命を脅かされるのか、とかな」
そう言うと、ウィリアムはネアをひょいと持ち上げた。
驚いて目を丸くしているネアに、しっかり掴まるように言うと、人間一人を抱えているとは思えない身軽さで、森に駆け込んでゆく。
(……………あ!)
振り返って背後を見たネアは、ぞっとして唇を震わせた。
先程までネア達が立っていた辺りの空だけが急激に曇り始め、どこか不穏な気配を湛えた黒い雲が、もわもわと広がってゆく。
黒い雲から細く伸びた筋が地面に繋がる様は、土砂降りの際によく見かける光景でもある。
だが、ネアの目には、まるで意思を持って何かを探しているような動きに見えた。
「にぎゃ!追いかけてきました!!」
「どうやら、積極的に削りに来ている感じだな。振り切るから、しっかり掴まっていてくれ」
「は、はい!」
そう言うなり、ウィリアムは浅く重ねて転移を踏んだようだ。
騎士服のケープがぶわりと広がり、周囲の景色が切り替わる。
森の中での転移だったので周囲の景色は大きくは変わらないものの、僅かであるからこその変化にくらりとしてしまったネアは、慌ててぎゅっと目を瞑って意識をしゃんとさせた。
「よし、もう大丈夫だぞ。途中で他の参加者を囮にしておいた」
「……………ふぁい。囮が必要なくらい、あのもやもやは執念深かったのですね……………」
「ああ。殲滅術式に近い、かなり物騒なものだ。先程の異端審問官と、もう少し話をしておいた方が良かったかもしれないな。他国からの間者が積極的に殲滅戦をしかけてきている可能性もあるが、せめて、どうしてこんな状態になったのかを知りたい」
「………どこかひと組が荒ぶると、他の方々も自衛の為に戦い始める可能性もありますものね」
「ああ。異端審問官の相棒を殺すとなれば、相当な手練れだしな」
「むぐ……………」
そんな事実を指摘され、ネアは遠く儚い目をした。
今回の仕事は、手間がかかるというくらいが難点に過ぎず、海竜の選定戦や夏夜の宴とは、趣向が違ったお仕事だった筈なのだ。
厄介な事があるとすれば、愛情の魔術に纏わる手順の多さくらいだったのに、開始早々になぜこんな事態に見舞われているのだろう。
(でも、あの盃に出来る事を思えば、その主人としての役割を得る為に、このくらいの事が起きても不思議ではないのだわ…………)
「……………ネア、念の為に聞くが、体調の変化はないな?」
「ウィリアムさん?………ええ、特に体調の変化はないような気がしますが、何か起こっているのですか?」
「…………森が、ここまで深い事を想定していなかった。加えてあの盃の持つ祝福がどこかからか作用しているみたいなんだ。植物の中には、催淫効果や愛情関連の反応が出る物もあるだろう。少しでも異変を感じたら言ってくれ」
「さいいんこうか…………」
その盃めはなんて事をしてくれるのだと半眼になったネアに、ウィリアムは、とは言えハーティクスの盃そのものを警戒して、ここに派遣されている者達は、ある程度その種の魔術に対抗出来る措置を取っている筈だと教えてくれた。
そして、ネアがこちらの魔物は大丈夫だろうかとじっと見上げていると、苦笑して、怖がるような事はしないよと頭を撫でてくれる。
「………体調に変化はありませんが、何故か早速お腹が空きました…………。むにゅ」
「…………うーん。ネアの場合は、そちらに振り切るみたいだから、反応が出ているとも言えるのかもしれないな…………」
「むぐ!非常食として沢山持たされた、アルテアさんのコンビーフサンドイッチがたいへん美味しいでふ」
「ここからは、空腹になったら、一口でも何かを口に入れるようにしてくれ。そこを超えるとどんな反応が出るか分からないし、俺としてもあまり誘惑に耐性があるとは言えないからな」
「……………なぬ」
なぜかウィリアムは、そんな危険な事をさらりと言うではないか。
それはつまり、敷かれた魔術によっては、この頼もしい相棒が敵に変わる事もあるのだろうかとぶるぶるしていれば、どこか悪戯っぽく微笑んだウィリアムから、うっかりネアを味見したくなるといけないからなという大変危険な言葉を授かってしまった。
「そ、その場合は、私がおやつを出しますので、くれぐれも、か弱い人間を齧らないで下さいね」
「ん?そっちの懸念なんだな………」
「寧ろ、こちらが一番の懸念です。催淫効果程度であれば、被る被害としても底が知れていますが、人間は齧られると儚くなってしまいますから」
「………ネア、頼むから、そっちの方面で達観しないでくれ」
「む?」
なぜかウィリアムにがしりと両肩を掴まれたネアは、困惑に目を瞠る。
終焉の魔物はとても項垂れているが、どう考えてもお食事問題の方が危ういではないか。
(でも、魔物さんは体が丈夫だから、矜持を傷付けられたり、意志を曲げられる方が怖いのかな。…………例えばもし、望まない伴侶を取らされたりしたら悲惨だろうし…………)
その点において、伴侶を複数名持つ事が可能で、離婚という手立てもある人間は、やはり、美味しく齧られる方が取り返しのつかない事になる。
ネアの最悪とウィリアムの最悪は違うのだろう。
ふんすと胸を張り、ネアがそんな事を考えていると、どこからか、ざりりっと落ち葉混じりの森土を踏む音が聞こえた。
先程のもくもくとした雲が少し嫌な感じだったので、慌ててびゃんと飛び上がったネアをひょいと持ち上げ、ウィリアムが耳元に唇を寄せてくれる。
「人間じゃないから安心してくれ。だが、ここには人間を襲うような獣もいるのか………。思ったよりも管理が不十分なのか、或いは管理が及ばない理由があるのか…………」
「どんな獣さんなのですか?」
「森兎の一種だが、人間を食べる」
「……………ぎゃむ」
「恐らく、いきなり人間達が森に入り込んで来て暴れたものだから、気が立っているんだろう。とは言え、これ以上不用意に動きたくない。ここで駆除しておくか…………」
ネア達は、すぐにその森兎に対面する事になった。
いきなり茂みの中から飛び出してきた巨大な毛皮生物は、ネアの目にはどう見ても、顔面が凶悪で縞無しの虎である。
耳も長くないのになぜこれが兎なのかと命名者を咎めたい人間の前で、その森兎は、剣も抜いていないウィリアムに簡単に倒されてしまった。
「まぁ。蹴られただけで、簡単にお亡くなりになってしまうのですね」
「そう言えば、ネアはこの手の生き物が好きだったな。…………すまない、逃してやれば良かったか」
「いえ、この兎さんな虎さんは、お顔がたいへんホラー風に邪悪な感じですので、ちっとも可愛くありません。ぽいでいいでしょう」
「面立ちも大切なんだな…………」
「そして、一体どこに兎要素があるのだ…………」
残念ながらこの森兎は、悪食なので、食べる事は勿論、毛皮を利用したりも出来ないらしい。
持ち帰ってもアクスで売れないとなれば、そのまま茂みの中に押し込んで放置してゆくことにして、ネア達は先を急ぐ事にした。
「…………土地の歴史から、約定が結ばれ難い土地がある。ここは、そういう所なんだろう」
「そうなのです?」
「ああ。先程の森兎は、そのような規則性がある土地で増え易い、獲物が逃げないよう、森の外との縁を切ってから仕留めにかかる獣なんだ。……サナアークのように、かつて起きた事が影響して土地の資質が変わる事がある。もしかすると、ここもそのような影響が出ているのかもしれないな。………盃をこの地に収めたのは、管理者を持たない状態の盃が暴走しないよう、祝福を閉じ込める檻としたつもりなんだろう」
「……………つもりという事は、あまり意味がないのですか?」
「誘惑などの魔術に使用されがちな魔術特性なんだが、さして効果はないだろうな。終息や幕引きの魔術が成る魔術基盤の場合、そちらに結ぶ恋情も幾らでもある。寧ろ、長い間この地に置く事でその質を持たせると、より扱い難くなるぞ」
「なぜそんな事をしてしまったのだ……………」
ピチチと、どこかで小鳥が鳴いている。
教区の中とは言えここは立派な森で、だが、事前説明によれば土地の祝福や魔術特性が流れ出さないような城壁で囲まれているのだそうだ。
ネア達が通り抜けた入り口の聖堂は、そんな土地の魔術の流れを信仰の魔術で制御している重要な施設の一つであるらしい。
肌に触れる外気は暑くもなく寒くもないもので、鼻腔に届くのはふくよかな森の香り。
だが、ウィームの森とは植物の種類が違うようで、この森の香りには、花粉のような独特な香りが混ざっている。
淡いピンク色の梔子のような花や、淡い檸檬色の百合の花がそこかしこに咲いていて、ネアは、折角なのだから良い狩りなども出来ないかなと周囲を見回したが、ウィームの森程、生き物たちの姿はないようだ。
(このまま、ずっと森を歩いて、小さな盃を探すのだろうか……………)
森の散策は嫌いではないが、襲撃を警戒しながら、あまり見どころのない森林地帯を彷徨うのは、何だか気鬱な話である。
そんな事を考えながら暫く歩くと、ウィリアムがはっとしたように空を見上げ、小さく考え込むような仕草をする。
もう一度周辺を見回して溜め息を吐くと、あまりいい状況ではないのかなという目をしてこちらを振り返った。
「ネア、恐らくこの先は、影絵のような土地になる」
「影絵に…………」
「ああ。ハーティクスの盃は、人間にしか使えないとは言え魔術道具だ。森に転がしておくにしてもある程度の危険性がある以上、この森のどこに収めたのかをずっと考えていたんだが、どうやら、近くに影絵のようなものを人間の手で管理している痕跡があるようだ。となれば、まず間違いなく、盃を投げ入れたのはその中だろう」
「影絵となると、その中に暮らしている方がいたりはしないのですか?」
「生き物がいない枠組みだけの影絵も多い。この感じだとそちらだろうな。ただの森であれば、どんな土地の魔術特性であれ、一つの教区が管理する理由はない。こうして、悪食を育む結びが悪い土地であれば尚更だ。…………つまりその影絵こそが、黎明の教区が管理に名乗り出ただけの旨味なんだろう」
「むむむ…………」
だが、人工的な管理地ともなれば、そこには何らかの仕掛けなどがある可能性も否定出来ない。
ネアはしっかりウィリアムに抱えられ、特別に持たされた武器は、影絵に入る際に弾かれないよう、まだ取り出さない事とした。
ひとまず影絵に向かってみようとなり、さくさくと下草を踏んで森の奥へ向かうと、確かに扉があった。
大きな石造りの凱旋門のような形状の石門は、明らかに周辺に点在している廃墟とは雰囲気が違う。
半透明で陽光を僅かに透過させる森結晶で出来ており、その隣には、清廉な気配を湛えた小さな泉と、その泉に枝影を落とす古いニワトコの木があった。
「綺麗な泉ですね。あの門が、影絵への入り口なのでしょうか?」
「ああ。あの泉は、妖精の足跡だな。…………これを利用して影絵を構築したのであれば、かなり大掛かりな魔術が必要になるんだが…………」
「妖精さんの足跡があるのですか?」
「泉と、…………隣の木もそうだな。妖精が国や町を引き払った後には、必ず、こうした妖精の足跡と呼ばれる祝福や災いを宿す証跡が残されるんだ。この場合は、木陰と泉だから、祝福の要素に近い。この地を去った妖精が不機嫌ではなかった証拠だな」
「不機嫌だと、災いが残されてしまうという事なのですね………」
「妖精の足跡は、その土地に長期や広範囲の魔術を展開したという、記録のようなものなんだ。そこに抽斗を作り付け、内側に下りる扉としたのがこの石門だろう。信仰の魔術を宿しているからには、この土地が長らく信仰対象だったのは間違いない」
教会騎士に扮していても、ここにいるのは人間達の営みを長らく見てきた終焉の魔物である。
ネアは、信仰しながらもその内側に踏み込んでしまう人間の強欲さを垣間見たような気がしたが、それは、この地から去ったという妖精達を懐かしんでの事かもしれない。
そしてこちらは、その過去の遺跡のような場所に、これから下りてゆく羽目になるのだ。
「不思議ですね。…………ハーティクスの盃もこの門も、どちらも失われた筈の過去に繋がる物なのです」
「感傷的な揃えだな。…………ネア、こんな場合は大抵、誰かの感情がその要素を揃えている事が多い。今回、盃は敢えてこの地に移されたのだろう?」
「…………つまり、この影絵に何らかの思入れがある方が、盃をこの中に置いたという事なのでしょうか?」
「ああ。なぜか随分と荒っぽい展開になっている現状といい、部外者の接触や、この儀式に関わった誰かの計画で、管理者選びの儀式が本来の道筋から外れてきている可能性がある。充分に用心してくれ」
そう言われ、こくりと頷いたネアを抱えたまま、ウィリアムはこっくりとした緑色の石門をくぐった。
するとどうだろう。
門の向こうには、先程までは見えなかった壮麗な森結晶の階段が続いており、森の中の瀟洒な街並みとその向こうに聳えるお城の尖塔が見えてくるではないか。
(…………でも、誰もいない)
ウィリアムが予測した通り、この影絵の住人はいないようだ。
だが、警戒しなければならない相手が見えず、おとぎ話に出てくるような美しい街並みに心が躍ってもいい筈なのに、なぜか背筋が冷えるようなそら恐ろしさがある。
在るべきではないどこか。
在ってはならないどこかという感じが、ひしひしと伝わってくるのだ。
「ウィリアムさん…………」
「因果の結実に、欠落や喪失に取られかけている場所だな。……………寧ろ、これだけ閉じているのに、よくも影絵を残せたものだ。……………妄執に近い」
「……………むぐ。ぞくりとしました」
「ネア、……………この街のあちこちに、森苺が実っているだろう?あれには、絶対に手を出さないようにするんだぞ」
「確かに、花壇やお家の脇、街路樹の下にも沢山実をつけていますね。良くない物なのでしょうか?」
「かつてここにあった王国の人間は、約定を破った際に、森苺にされて妖精達に食べられたと言われているんだ」
「……………ぎゃふ」
そんな事を聞けば、あまりのホラー感に、ネアは、慌ててウィリアムにぐぐいっと体をくっ付けた。
滅びた筈なのに賑やかに暮らしている人間達の姿があってもそれはそれで心理的に辛いが、こうして、しんと静まり返っているのもとても怖い。
「…………やれやれ、手に負えない事態になる前に、協力者を外に出しておくか」
「は、はい!ディノの特製魔術で設置したポケットから、剣を取り出しますね!」
ここでネアは、今回の任務に於いて、ウィームの協力者となってくれたとある魔物が姿を変えた剣を、ポケットから手品よろしくずるりと引っ張り出した。
この召喚は、ポケットの中の併設空間を特定の場所に繋げており、手を入れて掴み出す迄は、その重さも質量も感じないというかなり便利な物だ。
万が一、ネアがこのドレスを剥ぎ取られても、控えている魔物はその部屋から立ち去るだけでいい。
かなりの準備や、扱う側との魔術の連携が必要となるが、略奪や誘拐にも対応した、とても便利な条件指定と置き換えの魔術なのだ。
「……………やっと出して貰えたな。正直、ウィリアムは、最後まで二人きりの時間を堪能して、僕を外に出さないつもりかなと思っていたところだ」
「……………幻でしょうか。オフェトリウスさんの肩に、見慣れたもふもふがいます」
「ああ、彼は、今回の状況に懸念があったようだね。この状態で君の側にいる事にしたようだよ。シルハーンも承諾済みだと言って、ノアベルトが連れて来たんだ」
「フキュフ!」
「黒ちびふわです!!」
「……………やれやれ、まさかあなたもですか」
「…………フキュフ」
ポケットから引き抜かれた剣はすぐさま一人の魔物に姿を変え、休暇を取得してのプライベートだが、その実、こちらも、王家からハーティクスの盃の調査を依頼されているオフェトリウスとなった。
そしてその肩には、ちびちびふわふわした、お馴染みの生き物が乗っているではないか。
黒く擬態しているものの、瞳の色から間違いなく使い魔なちびふわは、確かにネアとの間には契約の魔術が結ばれているので、オフェトリウス程の事前準備なくして、このポケットの通過が可能である。
だが、選択の魔物は、この土地の魔術とは相性が悪かった筈だと考えたネアに凝視され、ててっと差し伸べた手に飛び移ったちびふわは、けばけばになっている。
「魔術の相性の関係から、擬態は解かずにいるそうだ。いざという時の最後の防壁として、あくまでも控えとしてこちらに留まるつもりらしい」
「フキュフ!」
「…………アルテアが、オフェトリウスにこの姿を見せて迄こちらに来る必要があると考えたのか。………やはり、厄介な事になりそうだな」
「ああ、魔物だとだけ聞いていたが、アルテアだったんだね」
「フキュフー?!」
「まぁ、正体がバラされてしまったのです?」
「ん?言ってなかったんですか?」
「フキュフー!!」
どうやら中身の魔物は秘密だったらしいのだが、ウィリアムにあっさりバラされてしまい怒り狂ってじたばたしている黒ちびふわを撫でながら、ネアは、今はもう失われている森の王国のお城をそっと見上げたのだった。
明日の更新は「森守りの妖精と最後の祝福」となります。




