19. 新生活は上々です(本編)
コツコツと靴音が響く柱廊は、天井が高く見事な意匠の彫刻が美しかった。
レイノは隣をにこにこしながら歩くアンセルムから、既に五人のシスターに紹介されており、思っていたよりもこの組織が閉鎖的ではないのかもしれないと考え始めている。
(む……………、またいない…………)
そんな中、ふと隣を見るとまたアンセルムがいない。
慌てて周囲を見ると、今度は砂色の髪の美しいシスターを捕獲したようだ。
「シスターパステア、僕が教官を務めることになった、迷い子のレイノです。可愛い子でしょう?とてもいい子なので、どうぞ宜しくお願いしますね」
目を離すとすぐに通りかかったシスターに駆け寄ってそう伝えているアンセルムに、レイノは置き去りにされた位置からスカートを摘んで丁寧にご挨拶をする。
この挨拶の仕方は、出会う人に失礼がないようにと、真っ先にアンセルムに教えて貰ったものだ。
そして、レイノを紹介されたシスターが、大はしゃぎのアンセルムを窘めつつ、こちらに向かって、このアンセルムが至らないところがあればいつでも相談に乗るわよと優しく声をかけてくれるのも毎回のことで、レイノは有難くその申し出を覚えておくことにした。
(ちょっと頼りなさそうだけれど、この人が教官で良かったのかもしれない…………?)
そんな事を考えかけ、けれどもと、レイノはアンセルムの横顔を眺める。
長めの前髪を斜めに流し、肩甲骨の下あたりまでの細い髪質の銀髪を黒い紐で一本に縛った横顔は、眼鏡を外して表情を整えればかなり美しい面立ちをしていると思う。
瞳の色の鮮やかさや透明感一つを取っても、彼は周囲の人間達には混ざり込まない。
そんな特別な素材が、何の意味もない配役であることなど、物語中ではあり得ないと考えてしまう疑い深い人間は、まだアンセルムという神父を信用しきれていない。
おまけに、この種の仮面を用いている人物が黒幕だった場合、たいそう厄介な敵になるのもよくある展開ではないか。
(とは言え、こうして見知らぬ人達の中に放り込まれて、本心を隠すのは得意だわ…………)
それは多分、自分の未熟さを認識した上で、きちんと専門家の下で心理学などを学び、ネアハーレイという小娘などが太刀打ち出来ない程に世慣れた組織の中で守られた相手を殺そうとした過去が育てたものだ。
そしてその全てが終わった後も、ネアハーレイという人間は、自分を装うことが多かった。
それは、訳知り顔で踏み込もうとする他者をやんわりと退ける為であったり、困窮しきった生活の中で自分の矜持を守る為に、世間から素顔を覆い隠す為に更に磨き上げた。
生き延びる為に使い込んだ技量であるのだ。
それなりの自負もある。
そう考え心の内を静められるのは、優しくその中を満たしてくれている不思議な安堵感のせいだろうか。
「レイノ、まずは君の部屋を確保しましょう。兎にも角にも、自分の部屋があると思えば安心しますからね。…………ああ、そこは床石が欠けているんです。転ばないようにして下さいね」
「…………はい。がくんとなりました………」
「それと、その扉には触れないようにして下さいね。魔術承認の術式が添付されていますが、レイノの可動域だと弾かれてしまう」
「可動域………………」
(そろそろ、それは何なのかを知りたいけれど、あまりにも当たり前のように言われるから、聞いていいものなのか謎だわ…………)
アンセルムの提案で、二人は一通りの施設を見て回る前にと、まずはアンセルムの工房に立ち寄った。
こちらですよと微笑んですたすたと歩くアンセルムに付いてゆくと、小さな樫の扉が何でもない廊下の突き当たりにあり、そこを開くと開放的な天窓のある砂色の煉瓦作りの階段が続いていた。
その階段を登るとまた扉が現れ、その向こうがアンセルムの工房であるらしい。
工房という場所は、秘された場所なのだと言われ、レイノはその部屋を見回した。
「………………ほわ」
思わず、気が抜けた声が漏れてしまう。
そこは深い森の中にある秘密の家のようなところで、大きな天窓の向こうには森の木々による天蓋が見えた。
アーチ状の窓は上部がステンドグラスになっていて、下の部分の窓からは美しい庭が見え、薔薇やラベンダーなどが咲き乱れている。
小さな薬草園のようなところもあるようで、石造りの井戸も遠くに見えた。
すっかりその牧歌的な美しさに心を奪われてしまい、レイノは一拍遅れ今度は室内を振り返る。
「庭が気になりますか?今度、庭でピクニックでもしましょうか。そろそろ薬草の祝福を収穫しなければいけませんから、レイノにも手伝って貰いましょうか」
「あの小さな畑は、アンセルム神父が管理しているんですか?」
「こう見えても僕は、畑の管理はなかなかですよ。……………ただ、収穫は苦手なので、君が手伝ってくれると頼もしい」
そう微笑んだアンセルムの背後に広がるのは、なかなかに広い室内だった。
工房そのものの造りが歪なのか、その壁に合わせてある書架の形は確かに歪に見える。
おまけに木の板が軋みそうな程にみっしりと本が詰め込まれており、その隙間には色とりどりの不思議な瓶や小箱も見えた。
窓辺に飾られた小さな花瓶には、一輪の淡いピンク色の薔薇が生けられていて、不思議なくるくる回る回転木馬の置物が木漏れ日を浴びて煌めいている。
魔法がある世界の工房だ。
そう考えるとついつい唇の端が持ち上がりそうになり、レイノはむぐぐっと表情に力を入れる。
執着や御し易さを知られるのはまだ気を付けた方がいいだろう。
それでもここは、一目で気に入ってしまいそうな素敵な工房だった。
(乱雑というよりは、………物が多いけれど、それぞれが在るべき場所に置かれているような感じかしら…………。とても好きな部屋だわ…………)
そう感じているレイノに対し、アンセルムは気恥ずかしそうにあちこちの書物の山をずりずりと端っこに押しやっている。
「すみません、ちっとも片付いてなくて」
「いえ、…………このくらいが、きっとここは丁度いいのではないでしょうか。居心地のいいところだと思います」
そう答えたレイノに、アンセルムは嬉しそうに微笑んだ。
その表情の柔らかさには疑いを持つようなところなどまるでなくて、レイノは自分がとても臆病で失礼な人間になったような気持ちで息を潜める。
「さて、まずは君の部屋を作りましょう。この壁に魔術添付するつもりなんです。女の子ですから、あまり僕の作業場に近くない方が気楽でしょう?」
「……………アンセルム神父、それは多分逆ではありませんか?」
「……………逆」
「確か、ここに魔術を通すと聞いたように思うのですが………………」
その後、レイノの部屋を魔術併設という方法で作り付けるにあたりばたばたしたが、何とかそれも終わり、部屋が定着するまではアンセルムの作業机で、簡単な昼食を摂りお茶をすることになる。
(凄い………………。魔法で部屋が増えたわ……………)
このような事は珍しくないのか、アンセルムは、いそいそとお茶の準備に入っている。
けれども、何にもなかった筈の壁に部屋を一つ併設するという魔術の荒技に、レイノは呆然と壁を見ていた。
そっと指で戸口をなぞって見たものの、最初からここに部屋があったようにしか思えない。
暫くあまりの不思議さにそこに立ち尽くしてしまい、カチャカチャと音がして振り返るとお茶の準備が進んでいることに気付き、慌てて手伝おうとしたものの、そんなレイノにアンセルムは微笑んで首を横に振る。
「魔術を使いますから、座っていて下さい」
「お役に立てなくて申し訳ないです………」
「はは、そんな風に考えないで、僕は君の教官ですから、存分に甘えてくれていいんですよ。ほら、シスターパステアから貰ったお手製の薔薇の紅茶にしましょう」
「あの方は、紅茶を作られるのですか?」
「シスターパステアは、この教会の調香師なんですよ。ミサでは必ず香木を焚きますが、祀る人外者ごとに好まれる香りが違いますからね。そして、調香の魔術の傍ら、副産物でこうして紅茶などを作ってくれる優しい女性です」
そう言われて一度は頷き、それからレイノは微かに首を傾げた。
教官とは言え信頼出来るかどうかを確かめるまでは安易な質問は出来ないので、尋ねるべきことは精査しなければならない。
(でも、…………これなら、訊いてもいいかしら…………?)
「アンセルム神父、…………具体的には、この教区……?には、どんな人外者が関わっているのですか?どうやら私は、さっぱり覚えていないものの、そのような存在との縁が薄いような土地で育ったようなのです」
まずはそこからだろうかと教えを請うたレイノに、アンセルムは何やらまずいものが置きっ放しだったらしいテーブルの片隅をわあっとなって片しながら、よれよれで振り返った。
(………………なぜ、恋愛の指南本が…………)
アンセルムが隠そうとしたものをレイノはばっちり見てしまったが、ここは見なかったことにするのが優しさだろう。
どうやらレイノの教官は、誰かに恋をしているか、誰かに恋をしたいと思っているようだ。
「…………ああ、そうでした。あ!こっちは見ないで下さいね。……………なぜか迷い子の門を抜けた人達は、それまでの記憶を失ってしまうんですよね。でもここは、君が暮らしてきた土地とは随分と時代が変わるようですから、それだけの長い道のりを彷徨ったと思えば、決してあり得ない事ではないのかもしれません…………」
「……………あの門をくぐることでなくて、彷徨ったから記憶が無くなってしまうのですか?」
「ええ。迷い子の門は、あわいを彷徨う迷い子達を保護する為に作られた魔術門なんですよ。教会組織の主神である鹿角の聖女様と、この教会が信仰する白百合の魔物から与えられた祝福による導きの魔術なんです」
「その方々が、この教会にいらっしゃることもあるのでしょうか…………?」
そう尋ねたレイノに、アンセルムは少しだけ悲しげに微笑んだ。
さらりと揺れた銀糸の髪を見ていると、また誰かを思い出しそうになるが、その人はこんな風に優しくは微笑まなかった気がする。
けれども、不器用な眼差しで微笑むからこそ、その微笑みにはいつだって真摯な温もりがあったのだ。
(もしかすると、これはこの体を持つ人の記憶だったりするのだろうか……………)
だからレイノは、そんなことも考える。
中に収まったネアハーレイとしては、ここがどうも見知った世界ではないようだぞと結論に至るところであるが、その場合この肉体がどういう経緯で自分のものになったのかという最大の謎が残るのだ。
こちら用にと与えられたまっさらなものである可能性もあり、また、不慮の事故などで先住者が立ち去った後の肉体を与えられた可能性もある。
後者の場合は、そんな先住者の記憶として、様々な記憶の欠片が煌めくのだろうか。
(でも、迷い子の門から出て来た人間が記憶を失うのは、こちら側の仕様みたいだから、記憶の欠片的なものが残っていることは、誰にも言わない方がいいのかもしれない。好意的な組織ではなかった場合、それが命取りになったら嫌だもの………………)
勿論、巧みに立ち回っているつもりで、その全てが仕組んだ者の手のひらの上という可能性もあるが、今は最善と思えることをしよう。
そう考えたレイノは、とことん無知だが、そのくせ比較的冷静な少女という、割と素のままの認識のまま押し通そうと決意している。
小手先で他の要素を付け加えてもボロが出そうであるし、幸い、前の世界、或いは生前から、顔に殆ど感情が出ない方だ。
「レイノは、魔術可動域がとても低いですからね。そのような情報も制限されていた土地で育ったのかもしれません」
「そう仰るということは、こちらでは常識として知っていないといけないことなのですね…………?」
窓の向こうを、青い小鳥がぱたぱたと飛んでゆく。
長閑な風景だが、これは旅行先ではないのだ。
場合によってはこれから先ずっと暮らしてゆくかもしれない場所で、不安定な足元を固めなければいけない。
「そうですね。誰しもが知っていますが、そこは国によって教えの内容も違うでしょう。迷い子の君は、知らない事があっても気にしなくていいんですよ。…………鹿角の聖女様は、もう随分と昔にお亡くなりになられています。ですが、今も世界各地にその祝福や、魔術の残滓が残されており、ガーウィンの教え子様がおられる大聖堂には、鹿角の聖女様の魔術が凝った白百合があるんですよ」
「という事は、白百合の魔物というのは、鹿角の聖女様のことでもあるのですか?」
「いえいえ、それは全く別のお方です。けれども、鹿角の聖女様の象徴とされる白百合を司る方であるからこそ、この教会は白百合の魔物の神殿としての側面も持たせています。静と動のそれぞれの側面を持たせることで魔術が潤沢になりますから」
「聖女様と、魔物の神殿を…………」
悩ましい組み合わせにぎりぎりと眉を寄せて首を傾げたレイノに、アンセルムはくすりと微笑む。
彼が身に纏うのは、この教会で一般的な神父が着ている漆黒の神父服だが、端々に異世界風の装飾が見受けられる。
襟元に付けられた銀水晶だという装飾には、夜の結晶石という雫型の宝石めいたものが埋め込まれて、きらきらと光っていた。
足元までの神父服は四箇所にスリットが入り、その下には細身のパンツを穿き、膝下までのブーツには銀の細工がふんだんに用いられ美しい細工が目を引いた。
また、ストラのような細長い布を肩から下げているが、そこには聖書の挿絵のような美しく鮮やかな刺繍が施されており、表現されているのは各神父達の階級や役職なのだという。
シスター達は、襟元やスカートの裾の刺繍にその表現があるらしい。
これもまだ、聞いたばかりの知識だ。
「遠い島国のランシーンという国では、良き魔物や精霊を神という名称で呼ぶようですね。ですが、このヴェルクレア国では、人外者は大きく分けて、魔物と精霊と竜と妖精に分けられます。鹿角の聖女様も魔物ですので、白百合の魔物と合わせて祀ることは決しておかしくはないんですよ」
「そうなのですね…………」
(鹿角の聖女様も、魔物なのだわ…………)
どうやらこの世界は、ネアハーレイのよく知る聖典の教えとはまるで違う価値観で信仰が成り立っているらしい。
困惑しきった様子の教え子にこれはまずいなと思ったものか、アンセルムはどこからか一冊の子供用の教本を持ってきてくれた。
「まずはこれを読んでみましょうか。ヴェルクレアの公用語で書かれていますが、読めますか?」
「はい。読めるみたいです…………」
「それは良かった。あの迷い子の門は、言語的な齟齬が出ないような祝福もあるそうですので、恐らくこれからも文字や言葉では困らないでしょう。この本は、教会の子供達に世界の仕組みを教える為のものです。…………少しばかり、教会に都合の良い表現になっていますから、その辺りはまた読み終えたら説明しますね」
思わず、それは言ってしまっていいのかなと顔を上げたレイノに、アンセルムは小さく微笑んで秘密ですよと目を細めてみせた。
ありのままの世界の形を知らないと、教会の為になるものを育てるのも難しいというのがアンセルムの信念であるらしい。
そこから一時間ほど、レイノは与えられた本や幾つかの資料を読み漁ってこの世界の規則や常識を学んだ。
魔術可動域というものが、こちらでは魔術を扱う為の基準であることも知り、成る程と頷く。
洗濯物を干しにゆき、外で陽に当てて育てるという魔術の何かを並べに行ったアンセルムが帰ってくると、読んだ内容の質疑応答を行なって貰い、更に知識を定着させる。
そして最後に、レイノの正確な魔術可動域を計測し、一連の入門編の勉強会が幕を閉じた。
「…………私の可動域は、ちょっとまずいのではないでしょうか」
「……………まさか、ここまで可動域が低い子がいるとは、……………僕も驚きました。蟻よりは丈夫ですね…………」
「……………むぐ」
「で、でも、抵抗値はそこそこみたいですね。教会では、教会に入れることで選別とするので、抵抗値を測る為の魔術は持たないんです。とは言えここで倒れたりもせずに普通に過ごせているので、魔術が扱えない以外には弊害はなさそうです」
「し、しかし、魔術が扱えないと、洗濯も出来ないのですよね?」
「うーん、…………料理も難しいかもしれませんね…………」
「………お料理も…………」
がくりと項垂れたレイノに、アンセルムは、慌てて大丈夫ですよと微笑んでくれた。
「その為の師弟制度のようなものですからね。それに君は、ここで学んだ後に、人外者の誰かと契約を結びます。そうすれば、後はその人外者が君に力を貸してくれますよ」
「……………ここに書いてある中から、契約を選ぶのですよね。その、魔術可動域が低くても大丈夫なのでしょうか?」
「僕はあまりその種の契約に詳しくないので断言は出来ませんが、妖精との契約や竜との契約は問題ないでしょう。彼等は、気に入った子供を宝物のように大事にして守る事に長けていますからね」
「竜……………」
堪えきれずに目をきらきらさせてしまい、レイノはぎくりとした。
アンセルムが、にっこりと微笑み頬杖を突いてこちらを見ていたのだ。
「成る程、君は竜が好きなのかな」
「……………格好いいです。でも、お庭で飼うとしたら、どんな餌をあげれば良いのでしょう?食費はかなりかかりますよね?」
少しぐらいは弱みを見せても致し方なしと自分に言い訳しながら、レイノがそう言えば、なぜかアンセルムは目を丸くしてまじまじとこちらを見る。
「竜は、…………庭で飼うんですか?」
「……………?…………ええ。あまり大きなお家を買うのは大変ですし、屋内だと埃っぽかったり、床が揺れたりして煩わし…………お互いに不都合が生じかねません。となればやはり、本来は野生の獣なので、お庭あたりが順当なところかと思うのですが…………」
「……………成る程、君は確かに、…………なかなか独特な文化圏から迷い込んだらしい。…………魔物は飼いませんよね?」
「…………教本によると、魔物との契約は負荷が大きそうです。歌うのは吝かではありませんが、どうも我が儘な生き物のようなのでご遠慮させていただき、やはり竜か、妖精で…………」
「おや、精霊も良いものですよ。この国の王妃も精霊の加護を持つ方ですからね」
「……………精霊」
教本を読む限りは、精霊も何だか苦手だなという所感であった。
気に入った子供をずっと追いかけてくるところなどは、本人の同意がなければほぼ犯罪行為だ。
人間ではない以上、こちらの価値観では計れないにしても、やはりその執念深さはぞわりとする。
「精霊はあまり心に響きませんか?」
「い、いえ、そんな事はないのですが、やはり魔物と同じように上級者向けだという感じがします…………」
アンセルムの好みが不明であるので、ここであまり心に響かなかったとは素直に言い難く、レイノは能力が足りないのでと悲しげにそう呟いた。
「おや、であれば精霊との邂逅には気を付けないといけませんね。魔物は気紛れですが、精霊の多くは一目惚れが多いそうですよ。その場合、こうして精霊から与えられた食べ物を口にしないように。特に、精霊が作ったものを食べてしまうと、その精霊の庇護を受けてしまいますからね」
悪戯っぽく微笑んでそう言われ、お昼に出されたサンドイッチをぺろりと食べてしまった挙句、今度はお茶請けのクッキーを齧っていたレイノはぎょっとする。
けれども、冗談ですよと微笑んだアンセルムの様子を見るに、これも授業の一環であったらしい。
「精霊の方をお見かけしたら、食べ物を貰わないようにすればいいのですね…………」
教本の絵を見ている限り、竜や妖精ほどに分かりやすくはなさそうだが、精霊もある程度は異質なものらしく顕現するようだ。
絵の中ではぴかりと光って空から現れており、人々は畏怖の表情で目元を覆って頭を下げていた。
(…………さすがに、そんな人から気安く食べ物は貰わないかな…………)
「まぁ、彼等も好みにうるさい生き物ですから、そうそう食べ物を与える程に気に入る相手を見付けることはないでしょう。今話しているのは、あくまでもある程度は高位の人型の人外者についてではありますが」
「……………そうではないものもいるのですよね。この、……ココグリスという生き物は、教会にはいますか?」
ここでレイノは、教本に描かれていた、お餅猫としか思えないようなふくふくとした愛くるしい生き物を指差した。
やや獰猛な生き物だと説明されているが、元々、雪豹などの猛獣が好きなので何の問題もない。
この生き物にどこで会えるのかを、ずっと聞きたかったのだ。
「レイノは、ココグリスが気に入ったようですね。残念ながら、ガーウィンではあまり見かけない生き物ですが、食事をして午後からは挨拶回りや、施設の案内をしますので、その時にウィームからのお客様に話を聞いてみるといいかもしれませんね」
「ウィームというと、…………ええと、地図のこの辺りの領地ですね?」
「ええ。森と湖に恵まれた雪の国だったところで、統一戦争以来はこの国の一部になりました。魔術に長けた人々が多く暮らしていますが、一般的には矜持が高く閉鎖的な人々が多いと言われています。僕は好きですけれどね」
「アンセルム神父は、ウィームに行ったことはありますか?」
「勿論ありますよ。……………ただ、ウィームには僕の苦手なお偉いさんがいまして、行く時はお忍びで観光をするくらいでしょうか…………」
「まぁ、苦手な方が……………」
「上司なんですけれどね、あまり人の話を聞かない人で、兎に角怖いんですよ…………」
げんなりした顔でそう語るアンセルムに、レイノは、教会の偉い人がいるのかなと考えた。
ウィームは冬を司る土地であるので、イブメリアというこの世界のクリスマスにあたる祝祭の時には、ウィームの大聖堂もたいへんな賑わいであるらしい。
(季節で言えば、私はクリスマスシーズンが一番好きだから、そのココグリスと契約をして、ウィームで仕事が出来たらいいのに………)
そう考えかけ、レイノは眉を寄せた。
とは言え一番契約をしたいのは竜なので、ここは、ウィームに生息しているという雪竜か氷竜でもいいのかもしれない。
雪竜は何となく色白の絶世の美女のイメージだし、氷竜はとげとげしていて格好良さそうだ。
(その場合、どうやって捕まえるのかしら。罠を仕掛けておけば、かかったりするのかな……………)
そう考えるととても心が躍ったので、自由にあれこれ動けるようになったら、工房の庭に罠を仕掛けてみようとレイノは考えた。
まずは、竜を捕まえる為の予行練習だ。
可愛い生き物がかかったらお友達になって、気にくわない生き物がかかったら、野生に返せばいいのだ。
(私の可動域だと、野生の生き物を傷付けることは出来ないと教えて貰ったから、怪我をさせる心配もなさそうだし……………)
実は子供の頃、父と一緒に妖精猫を捕まえる為の仕掛けについて討論会をしたことがある。
実行したことはなかったが、レイノはいつでも本番に向かえるようにと、こっそり罠の編み方などを鍛錬しておいた。
病室の寝台に沈み込むように手足の細くなった小さな弟を思い出し、レイノは胸の痛みを飲み込んだ。
大好きなユーリの憧れの為にも、この謎の多い不思議な場所で、竜を捕まえたら素敵ではないだろうか。
(とうとう、あの時の鍛錬の成果を披露する時が来たのかもしれない……………!)
こっそり心の中で拳を握りながら、教官と一緒にお茶のカップを洗い場に運び、午後の外出の準備を整えた。
なお、レイノに与えられた自室は、淡い菫色の壁と深い濃紺の絨毯が何とも詩的で美しい小部屋で、飴色の使い込まれた書き物机と、同じ板色の優美な衣装箪笥がある。
厨房や食堂、洗面室や浴室は勿論工房でアンセルムと共用だが、自室にトイレがあるのが何よりも有難いし、天蓋付きの寝台には、百合の花をモチーフにしたキルトのベットカバーがかけられていて可愛いではないか。
(浴室は修道院の方で共用だと聞いていたけれど、アンセルム神父の工房は、特例的に色々な設備が整っているみたいだし………)
一軒家のようにこの中での生活が完結出来るくらいには、アンセルムの工房は整っている。
これについては、有事の際に教会図書館の稀覯本を守る役目を持つ司書達は、皆こうした工房を特別に持つのだと教えて貰った。
ただし、戒律に従う清貧な暮らしを強いられる他の役目の者達の手前、司書達の待遇は教会の秘密の一つなのだと言う。
「勿論、レイノは女の子ですから、入浴は修道院の方でも構いませんよ。ただ、その場合は階位に応じて入る時間が決まっているので、後で誰かに教えて貰いましょうね」
「はい。そちらの決まりを教えて貰って、毎日の勉強と合わせて無理のない方を選びたいと思います」
「うーん、僕の生徒は優秀ですねぇ………」
レイノとしては、このアンセルムが信用に足る人物であれば、工房で入浴まで済ませてしまいたかった。
見せて貰ったが、青いタイルがとても綺麗な素敵な浴室で、庭から森の方を見ながら猫足のバスタブに浸かるのは気持ちが良さそうだ。
石鹸やシャンプーも、庭で採れた薬草を使ったという香りのいいものだし、前のネアハーレイであれば躊躇ったかもしれない自然派のシャンプーなども、今の体の健やかさであれば、肌がかさかさになったりもしなさそうな気がする。
(……………どうしよう。この生活が楽しくなってしまうかも……………)
うっかりそんなことを考えかけてしまい、レイノは慌てて自分を叱咤した。
(だって、大切な誕生会をこの為に延期しているし、もうすぐ舞踏会だから早く帰らないと……………)
ふと、そんな事を考えかけ、またぴたりと動きを止める。
すっかり忘れかけていたが、レイノが時々感じる得体の知れない安堵感や、この脳裏にぷかりと浮かぶような不思議な記憶は何だろう。
とても大切なものだった気がするけれど、どうしてそう思うのかも思い出せない。
「さて、出かけましょうか。くれぐれも、僕の工房でハムたっぷりのサンドイッチを食べたことは内緒にして下さいね。………ええと、まずは、枢機卿にご挨拶かな。………中央から来ている方で、季節の切り替わりとなるあわいの注意喚起時期だけ、こちらに滞在されています」
「……………枢機卿様が」
「ええ。色々とやり手の方のようですので、あまり目につかないようにしていた方がいいかも知れませんね。実際、中央からの監査であると考えている人達もいるみたいです」
「…………むむ、何となく雰囲気が掴めました。お行儀良くしていますね」
レイノはそう答えたし、そう心がけていたのだが、時として運命はとても残酷であるらしい。
なぜかこの枢機卿の目にとても止まってしまったレイノは、半刻後には死んだ魚の眼をすることになるのだった。




