薔薇壁の街と海の歌乞い 3
とっぷりと陽が暮れると、コルジュールの街はまた違う色合いに染まる。
青い夜闇に光るようなエメラルドグリーンの海、そして街灯に照らされた薔薇色の壁の建物の対比は、素晴らしい星空に彩られ、心を震わせるようだ。
「昼間とはまるで色合いが違うのですが、どこのお店も楽しげで賑やかで音楽が聞こえてきて、とても素敵な夜という感じがします…………!!」
夜のコルジュールは、テラスにテーブルを出している店が多い。
魔術の炎を入れた街灯はぼうっとオレンジ色の光で輪を作り、その影が食事をする人々の足下に落ちる。
かちゃかちゃと食器の触れ合う音に、叙情的なギターの旋律は物悲しく艶やかだ。
踊る男女の周囲に人垣が出来、わあっと歓声が上がる。
波間の明かりを見ていると、夜海にも船が出ているようで、船上でお酒をいただく者達もいるのだろう。
幸福な夜だ。
多くの人達にとって、これはとても幸福な夜なのだろう。
(………美しくて、けれど、どこか切なくて、そして生き生きとした街だわ………)
かつてのネアなら、その豊かさに疎外感を覚え、怖気付いたかもしれない。
だが今のネアは、こんな街に立っていても心を満たされてしまう。
心地よい夜風に、踊る人々の影。
この街の夜はきっと長いのだろう。
そしてそれは、なんてわくわくする事なのだろう。
「で、お前のその服装は何だ」
「コルジュール風の装いをと考えて持ってきた、休暇風のドレスなのです。本当は、ヒルドさんのお仕事で同伴させていただく筈だった、南の島で着る為に取っておいた物だったのですが、なかなかあちらの政情が落ち着かないようなので、ここでのお披露目になりました」
ネアは、初披露の薔薇色のドレスでくるりと回ってみせ、隣に居たディノは、ホテルでも見た筈なのにきゃっと目元を染めている。
夕食のお出かけの前にホテルにチェックインし、夜の装いに着替えてきたのだ。
「……………シシィのドレスだな?」
そしてこちらは、仕立て妖精のシーであるシシィのドレスにとても敏感な使い魔である。
ネアは未だに復讐の道具にされているかもしれないが、このドレスは武器として作られたものではない筈なのだ。
それでも、過敏に反応してしまうのは、復讐者と復讐される者の関係故にだろうか。
「アルテアさんには、すぐに分かってしまうのですね。さては、シシィさんのドレス大好きっ子……」
「なんだそれは………。そもそも、…」
「アルテア、却ってこのくらいの方が、コルジュールの女達の装いに近くていいと思いますよ。いつものネアの雰囲気だと、エドガルドあたりに目を付けられかねないのでは?」
「……………かもしれんな」
何やらウィリアムとアルテアはひそひそと話をしているので、ネアは、そちらは二人が仲良くするに任せておき、とても可愛いよと褒めてくれたディノに新しいドレスの裾のデザインを自慢しておいた。
「とてもシンプルですが、スカートがしゃわんとなって素敵なのですよ。交差するように布を合わせた胸元が大きめにくれて大人っぽくなっていて、百合の花のように広がったお袖にはひらりとフリルが入っているのです!おまけにこの裾のお花の刺繍は、まるでコルジュールのお菓子の缶のような刺繍具合だと思いませんか?」
「ネアが可愛い……………」
「くるっとしてみます!」
「はは、髪色を少し暗めにしているから、いつもより印象が深くなるな。良く似合っている」
「ふふ。ウィリアムさんにも褒めて貰いました」
ネアが、渋面のアルテアの方をちらりと見てふんすと胸を張ると、なぜかこちらもコルジュール仕様な装いの選択の魔物はますます渋い顔になるではないか。
白く掠れたような葡萄酒色のシャツは麻混素材で袖を折り上げ、細身でしっかり体の形を出すパンツと揃いのジレは、高価なシルクのようにとろりとした質感と、灰色がかった黒がこなれた感じを出している。
こちらは、片側だけ髪を耳にかけており、凝った作りのバックルのベルトと、艶々としたドレスシューズでぐっと印象を引き締めていた。
「いいか。この土地の連中の前では、余分な狩りはするなよ」
「む。例えば、踏み滅ぼしたばかりのこの獣さんのようなものは、コルジュールでは、保護されていたりするのですか?」
「おい、何でもう狩ってるんだよ」
「ご主人様…………」
「私の大事な伴侶の足に悪さをしようとした布生物なので、心の狭い人間にはどうしても許せなかったのです。私のものに手を出したのですから、踏み滅ぼして然るべきでしょう」
「音楽の系譜の竜種か…………。ネア、これは悪変し易くて持ち帰りには向かないから、俺が廃棄しておいて構わないか?」
「これからお食事ですので、使い古しの布巾のような竜さんはぽいです!」
お目当ての店は、海浜沿いにあるらしく、そちらへ向かう為に、海風でどうしても歩道に上がってきてしまうのか砂のかかった石畳を歩いていたところ、その砂の中からこの生き物が出てきたのだ。
幸いにも、引き取ったウィリアムがざっと崩して灰にしてしまってくれたので、もしかしたら保護されていたかもしれない生き物を狩ってしまった罪は、無事に闇に葬る事が出来た。
ネアは、ほっとして胸を押さえると、襲われかけたと知って怖かったのか、こちらを不安そうに見ている魔物をそっと撫でておいた。
「ディノ、また怖いものが出たら、守ってあげますからね」
「………獲物を手放す事になってしまっても、………怒らないかい?」
「む、なぜ震えているのだ………」
ざりざりと砂を踏み、海辺の歩道を歩く。
どこからか、赤紫色の花びらが夜風に舞い散った。
(綺麗な並木道だわ……………)
海沿いの歩道には、無花果の木によく似た枝葉を持つ、青白い幹の立派な木が立ち並んでいた。
海帽子という初めましてのこの木は、海風と海明かりを糧に育つ、とても珍しい植物なのだという。
澄んだ海の砂で洗われた種しか発芽せず、適度に日差しがあり、けれども温度を下げる涼やかな潮風がなければ根を張り枝を伸ばせないという、海辺だけで育つ気難しい樹木だ。
おまけに、この海帽子は火の系譜をとても嫌うので、コルジュールの港街の海辺には、一切の街灯がない。
然し乍ら、だからこそコルジュールでは海の明るさが際立ち、美しい海辺の街の幻想的な景色をいっそうに引き立てているのかもしれなかった。
ざざん、たぷん。
静かな波音でゆらゆらと動く水面は、光る水を湛えた不思議なプールのよう。
そんな海辺を左手に見ながら歩き、右手の街並みに視線を移せば、そこには、街灯に照らされた薔薇色の壁の美しい家々が立ち並ぶ。
夜になると花々は甘い香りを強め、ぼうっと光る薔薇もある。
美しく穏やかな夜の中を歩けば、まだどこからか、胸を震わせるような物悲しい男性の歌声が聞こえてきた。
「ウィーム以外の土地で、ここまで明るい夜を見るのは初めてかもしれません」
「この辺りの土地の魔術基盤は、類を見ない豊かさだからな。土地の寵愛が育んだ特殊な祝福が、コルジュールの内側にだけ満たされているようなものだ」
そう教えてくれたアルテアは、黒髪に擬態しているのでいつもと随分印象が違う。
艶やかな黒髪の美貌は、コルジュール仕様の装いのウィリアムが見せる男性の色香とはまた違う、どこか仄暗い蠱惑的な魅力があった。
(……………ああ、そうか)
対するディノは、はっと目を引く美貌ながらも、この土地では清廉に見えた。
つまりのところ、コルジュールの男達が隙があると勘違いしてしまうのは、男性の表面的な色香の有無なのかもしれない。
「他の土地に流れ出してしまわないのは、それが、この国こそにと与えられたものだからなのですか?」
「ああ。名前に紐付いた祝福が殆どだ。この国の独特な魔術で育まれるもの目当てに、コルジュールには、爵位持ちの魔物の別宅や工房も多い」
「という事は、アルテアさんのお宅もあるのですね」
「さあな。だが、あの海沿いの屋敷はアイザックの所有だぞ」
「なぬ………」
アルテアが指し示したのは、店などが集まる賑やかな海岸線からは少し離れているが、海辺の一等地というところに建てられた、壮麗なお屋敷であった。
王侯貴族の邸宅かなという豪奢な造りの素敵な建物はどこか詩的な趣きで、景観に物語の趣きを添えるパーツとして、麗しい夜の中に佇んでいる。
それがまさかの欲望の魔物の別宅だと聞けば、ネアは目を瞬いた。
何というか、ネアの知るアイザックの印象と、その建物のロマンチックさが一致しなかったのだ。
「おや、あれはアイザックの持ち物なのだね」
「うーん。前々から独特な排他結界だとは思っていたが、アイザックの屋敷だったか」
「むぐぐ、このちょっぴり浮かれた街で、アイザックさんがどう過ごすのかが想像出来ません………。そして、ウィリアムさんが思っていたよりもこちらに来ているような気がします」
「うーん、どうだろうな。年に数回程度かな」
「ウィリアムさんのお家もあるのです?」
「一応な。だから今回は宿泊は別にしたんだが、今度、シルハーンと泊まりに来るか?」
「は、はい!」
「おい、まさか二区じゃないだろうな…………」
「…………まさか、アルテアも二区に屋敷があるんですか?」
ざざんと、また波音が聞こえる。
浜辺では、若い夫婦が手を繋いで散歩しており、一緒にいる子供は、リードを付けたバゲット風のパンの魔物を散歩させているようだ。
ネアはその光景を凝視し、手の甲で目をごしごしと擦ったが、やはりリードを付けたパンの魔物を散歩させている。
麗しい海辺の散歩の情景として上手く処理出来なかったので、ネアは、こちらの記憶も抹消用の籠に放り込む事にした。
丁度お店に着いたところだったので、気持ちの切り替えが上手くいったのが幸いと言えよう。
「…………まぁ、………とても素敵なお店ですね」
「アルテア、この席を押さえるとなると、苦労したでしょう?」
「たまたま空いていたんだろ」
「海に面した、大きな百日紅の木の下の素敵なテーブルです。満開の花で少し目隠しになってて、木の枝から吊り下げているランプが星型なのが、何て可愛いのでしょう!」
店員とは顔見知りなのか、アルテアは給仕の案内を待たず、オーナーらしい小柄な男性に片手を上げて短い挨拶を交わすと、そのまま席に向かった。
ゆったりした傾斜の屋根が特徴的な平屋建てのお店は既に満席のようで、店の入り口では入店を断られて肩を落としているお客もいる。
お馴染みの薔薇色の壁の建物は、花盛りの木々に囲まれ、大きな窓を取った造りが海辺の秘密のコテージのようではないか。
ぱりっとした白いシャツに黒いジレの制服を着こなした給仕たちは涼しげで、真っ白なテーブルクロスが夜の光に鮮やかに浮かび上がる。
店の外に出したテーブルも多いが、建物の方を見れば、屋内の座席もすっかり埋まっているようだ。
「ネア、この席の足元の砂は魔術で隔離洗浄されているから、靴を脱いで裸足になっていても大丈夫だぞ」
「まぁ、そうなのですね!そしてウィリアムさんも、こちらのお店をご存知なのですか?」
「コルジュールの海沿いで一番のレストランと言えば、やはりこの店だろうな。気取らないように見えて、気配りが行き届いているし、料理も美味い。一人でのんびりと飲みたい時に、この店に来る事は少なくない」
悪戯っぽく笑ったウィリアムは、この店に一人で来る日は、少し風の強い夜を選ぶのだと教えてくれた。
そんな日のテラス席は、自分で結界を展開出来るような人外者のお客が多く、落ち着いて食事が出来るのだという。
「この辺りの海は、雨でも色が濁らない。雨の日の午後に、店内の席で過ごすのも悪くないぞ。ケーキ類の備えも充実しているからな。お前は好きだろう」
「ほわ、ウィリアムさんとアルテアさんの両方から、素敵な情報が押し寄せてきました……………」
どうやら二人とも、このお店はお気に入りのようだ。
テーブルに着くまでに、一人の給仕が擦れ違い、ウィリアムの方を見ておやっと眉を持ち上げている。
アルテアと一緒にいる事を驚かれたようだが、その男性は、続けてディノの方を見て目を真ん丸にしていた。
となると、あの給仕はディノを知っているのかもしれない。
ネアは、そんな店員が揃えられているところも、魔物達のご贔屓の理由だろうかと考える。
テーブルに着くと、歓迎用のシュプリがさっそく運ばれてきて、オーナーの男性が挨拶に来た。
主食皿の魔物というなかなかに謎めいた魔物であるその男性は、ネアの知る魔物の中ではかなり小柄な方だろう。
だが、愛嬌のある面立ちとよく手入れされた髭の感じから、さぞかし女性にも人気のある御仁なのだろうなと察せられた。
穏やかな低い声は耳馴染みが良く、このようなお店のオーナー向きの存在感だ。
「今宵はどのようにいたしましょう?アルテア様やウィリアム様の、いつもの料理の出し方で問題ありませんか?」
そう尋ねられ、どうやら同じ注文の仕方をしていたらしい魔物達は顔を見合わせて複雑そうに押し黙る。
ネアは、このお店ではどんな料理がいただけるのかなと、目をきらきらさせて主食皿の魔物を見上げていた。
すると、こちらを見たオーナーは、初めてのお客であるネアとディノにも料理の雰囲気が分かるよう、敢えて説明を加えて提案をしてくれた。
「普段は、本日の仕入れに合わせ、海の幸や肉などで当店の人気の料理をお作りいたしております。苦手な食材を抜かせていただき、お好きなものは多めにという感じでしょうか。初めてのお客様がいらっしゃいますので、色々なものを少しずつ、その上で気に入られたものを追加でお出しするのが良いかもしれませんね」
「…………ああ、そうしてくれ。シュプリは、海雨と星の祝祭のグロソリアの年の物を出してくれ」
「おお、あのとっておきの一本を出されますか。では、こちらもシュプリに負けないような料理をお出ししましょう」
注文を受けて立ち去るオーナーの姿を見送りながら、ネアは美味しい時間への興奮に息を弾ませる。
そして念の為にディノにも足元を確認して貰い、わくわくと靴を脱いだ。
(あ、……………)
さらりとした砂は微かに温かく、その心地よさにふにゃりと頬を緩めていると、くすりと笑ったウィリアムが頭を撫でてくれる。
「気持ちいいだろう」
「はい!さらりと乾いた砂の温度が丁度良くて、海を見ながらのお食事の醍醐味という感じがしますね」
「それとネア、コルジュールでは、同伴者にしっかりと甘えていた方がいい。関係が淡白に見えると、割り込む隙があると思われるからな」
「まぁ、困った方達ですねぇ」
「男からするとそうそう煩わされる事もないが、新しい出会いを求めていない女性にとっては、少し面倒な事も多いかもしれないな。………まぁ、カルウィの二十一区よりはましだが」
そう呟いて遠い目をしたウィリアムは、カルウィでどんな目に遭ってしまったのだろう。
なぜかアルテアも同じような表情になったので、魔物達を辟易とさせる土地がカルウィにはあるようだ。
やがて、綺麗な水色の瓶のシュプリが運ばれてきた。
白いラベルには繊細な金色の箔押しの文字が入り、額縁模様が何ともお洒落ではないか。
きりりとした辛口のこのシュプリは、アルテアの秘蔵品の一本であるらしい。
これから出てくる料理にはぴったりなのだと言われ、ネアはグラスの中でしゅわりと弾ける泡を幸せな思いで見つめる。
「この店の売りは、海老のカクテルと新鮮な魚介類、棘牛のビステッカやタルタルだ。生ハム類も充実しているな」
「じゅるり………」
「海辺で、ゆっくりと酒を飲みながら食事をする事を目的とした店だ。凝った料理はないが、簡単に見える料理も手が込んでいる」
「ネアなら、燻製ベーコンのサンドイッチも気に入るんじゃないか?俺は毎回食べているが、特製ソースとチーズの入ったホットサンドになっているんだ」
「た、食べまふ!!」
料理は、すぐに出てきた。
大皿にたっぷりと並んだ殻付きの生牡蠣には、酸っぱ辛い物と濃厚なエシャロットのとろりとした物とで二種のソースが添えられ、ハイフク海老のカクテルに、セミドライの果物と生ハム、棘牛のタルタルもある。
美味しい衣を付けてからりと揚げた蛸に、かりりと皮目を焼いた香草鶏のサラダも、シンプルながらとても美味しそうだった。
「……………ふぁ。むぐ」
ネアはもう、最初の一口から幸せな気分になってしまい、特別なこの店だけの料理というのではなく、こうして、ちょうど海辺でこれが食べたかったのだという物を最高の状態で出してくれるお店の贅沢さに心を蕩す。
「どれもが、これまでの最上位を脅かしてくる美味しさです!牡蠣のソースもとても美味しいですし、この海老のカクテルのぷりんとした食感とソースが堪らない美味しさでふ」
「弾んでしまうのだね。可愛い……」
「こちらの文化に合わせて、ディノに甘えますね。えいっ!」
「体当たり……」
目元を染めて嬉しそうに微笑んだ魔物も、ハイフク海老のカクテルを気に入ったようだ。
コルジュールの近海でもハイフク海老が獲れるのだが、正式なハイフク海老のブランドには認定されていないらしく、コルジュールハイフク海老という名称が正しい名前なのだそうだ。
ネアは美しい海辺を眺めながら、大いに食べ、当たり年のシュプリをぐびりと飲んだ。
焼いたものを切って持ってきて貰った棘牛のビステッカにも、何種類ものソースが添えられている。
赤葡萄酒と岩塩のソースも、チーズと月光の蒸留酒のソースも美味しくいただき、尚且つ、何もかけないでも美味しいビステッカを今度はそのままで噛み締めつつ、大好き過ぎて残しておいた棘牛タルタルもいただくという、至福の時間を過ごす事が出来てしまう。
パンなども程よくいただいたが、殆どは、いつの間にか増えた海老の香辛料と大蒜のバター炒めなどもぱくぱく食べつつ、きりりと冷えたシュプリを飲む事に費やしていたように思う。
(………何て気持ちのいい夜だろう)
デザートの紅茶のシフォンケーキは軽い口当たりで、食後の飲み物をミントティーにしたネアは、ざざんと音を立てる波間がエメラルドグリーンに光り、海の光と陸地の街灯の光の中間にあるテーブルの下で、温かな砂を裸足で踏んでいる。
それは、例えようもなく幸せで穏やかな夜だった。
きらきらと光るものがしゅわんと弾ける花火のような心を緩めていると、やがて、奥の客席の方でわぁっと歓声が上がった。
「………ファルゴです」
「ああ、始まったな」
「………あいつが演奏をするのか」
「アルテア、念の為に排他結界を展開しておいた方がいいのでは?」
「かもしれんな」
いつの間にか、ギターを持った老いたる獅子のようなご老人が椅子に座っていて、鮮やかな指先の動きで素晴らしい旋律を奏でる。
歌声は隣に座った男性から上がり、その声の深さと艶やかさにまた、目を瞠ってしまう。
この距離で聞けば、街中から聴こえてきていた時には平面だった音楽が、荒波のように千切れ飛び、その荒々しさと優雅さにネアは胸がいっぱいになる。
踊っている男女は恋人同士なのだろうか。
ひたむきにお互いを見つめて微笑みあう表情が堪らなく魅力的で、夢中で見ている内にあっという間に一曲目が終わってしまった。
(………いいな、踊りたい)
むずむずする爪先に、音楽に合わせて体の中で何かが弾むように伸び上がる。
けれども、繰り広げられるファルゴは玄人の領域の物で、ネアはただ、胸を高鳴らせてその素晴らしいダンスを見守るばかりだ。
ぐっと足を絡めて官能的に体を合わせ、唇が触れ合うかどうかというところで背中を反らす。
そこでまた微笑み合う男女に、ネアはおおっと目を輝かせた。
ネアがかつて踊ったファルゴは、パートナーにもたれかかって体を休めるだけの冒涜的なファルゴであったが、こうして本場の踊りを見れば、息の詰まるような色めいた空気だけでなく、鋭利な刃が煌めくような力強さにも圧倒されてしまう。
そして、二曲目が終わったところで、先程とは違う歓声が上がった。
どうやら奥の席にいたお客の一人が、ファルゴの輪に加わったようだ。
この土地には同じような系譜の者達が集まり易いものか、僅かに褐色がかった肌色の男性が周囲のテーブルのお客に優雅に一礼する。
その瞳は、ぞくりとするような赤褐色で、くるんと弾む黒い巻き髪をリボンで一本に束ねていた。
伸びやかな手足に、したたるような、けれども酷薄な色香を振り撒く微笑みの美しさは、明らかに人外者のものだ。
そん事を考えていると、なぜかネアは、隣に座ったウィリアムにさっと膝の上に持ち上げられてしまう。
「むむ?」
「ウィリアムなんて…………」
「すみません、シルハーン。………彼と一番相性が悪いのは、俺でしょうから」
「くそ、よりにもよって今夜か。まさか、こちらの来店を知っていて、わざわざ店に来たんじゃないだろうな…………」
「連れはいるようですが、………複数人ですね。恋人と二人だけなら、そちらに集中するので良かったんですが…………」
ネアは意識の八割くらいはその男性の素晴らしいファルゴに持っていかれつつ、耳元に唇を寄せたウィリアムから、そこで踊っているのが誰なのかを教えて貰う。
「ネア、彼はファルゴの魔物なんだ。もしダンスに誘われても、絶対に頷かないようにな」
「…………ふぁい。…………ほわ、素敵なダンスですね」
「うーん、すっかり夢中だな」
「おい、目を塞いでおけ」
「ぐるる。この鑑賞の邪魔は許しません。………ふぁ、何て優雅で力強い動きなのでしょう」
「…………街の広場でも、歌い手が何人もいる。あの曲のファルゴが気に入ったのなら、後で踊りに行くか?………おっと、」
ネアはここで、踊っているファルゴの魔物のダンスに合わせて、ついついぐいんと体を動かしてしまい、ウィリアムがぎくりとしたように息を詰める。
はっとしたネアは、膝の上で暴れられて重たかったのだろうかと、そろりと終焉の魔物を見上げた。
「…………にゅ。つい、ダンスに合わせて体を動かしてしまいました。重たかったですか?」
「………いや、そういう事じゃないんだ。……少し驚いただけだから、気にしないでくれ」
「ウィリアムなんて………」
「おい。そこで何度も弾むな!そもそも、お前の情緒であのダンスが響くのか?」
「お、おのれ。私とて、ファルゴを踊った事はあるのですよ?………む。ウィリアムさん、そのお酒はなかなか強いのでは?」
ネアが夢中で観ていたファルゴが終わると、なぜか手元のグラスから、ぐいっと強い蒸留酒を一気飲みしてしまったウィリアムに、ネアは目を丸くする。
薄く苦笑したウィリアムは、少し喉が渇いたんだと話しているので、ネアは、水も飲みたいかなと、アルテアの方にある水差しに手を伸ばした。
その時のことだ。
「やあ、アルテアじゃないか。…………ウィリアムも。そちらは、君達のお気に入りかな。この辺りではあまり見かけないお嬢さんだね」
「何の用だ、エドガルド。排他結界よりこちらには近付くなよ」
「はは、アルテアが、随分と警戒しているなぁ。………こんばんは、お嬢さん。綺麗な目をした魅力的な人だね。この夜を楽しむにはあまりにも無粋な男の膝の上から下りて、向こうで俺と踊らないかい?」
そう声をかけられ、ネアは、すかさずディノの手を掴む。
こちらの状況もたいへんややこしいのだが、お隣のウィリアムの膝の上からお送りするものの、ネアの伴侶はディノなのだ。
「伴侶がいるので、お断りいたします。どうか、先程のファルゴを見て大はしゃぎの、他のお嬢さん達に声をかけてあげて下さい」
「冷ややかな声音のなんと冷たい事だろう。だが、そうされるといっそうに、君のような女の子をファルゴで溶かしてみたくなるね。ウィリアムと踊っても木の板と踊るようなものだろう。それにアルテアは、一晩の享楽は教えてくれても、体温を残してはゆかない身勝手な男だよ」
「何やら誤解をされているようですが、私の伴侶はこちらなのですよ。それに、私はとても人見知りなので、見知らぬ誰かなあなたと踊るよりも、ウィリアムさんやアルテアさんと踊る方がきっと楽しいでしょう。それとも、…………もしかして本当は、ウィリアムさんやアルテアさんと踊りたいのです?」
最後に眉を顰めてそう問いかけると、赤褐色の瞳の魔物は虚を突かれたような表情を浮かべた後で、楽しそうに笑い声を上げた。
「いや、まさか!けれども、君がそれで喜んでくれるなら、終焉とだって踊ってみせるだろう。ねぇ、可愛くて残酷なお嬢さん、ウィリアムにファルゴの楽しさを教えてやったなら、俺と踊ってくれるかな?」
「残念だが、その前に俺が断るだろうな。エドガルド、彼女は指輪持ちだ。他の女性を当たってくれ」
「やれやれ、だから無粋なんだ。ファルゴは元々、貴賤を問わず奴隷と王が踊れるように作られた、求愛のダンスだ。魔物と違い人間は何人でも伴侶を持てるのだから、そのような事は些末な問題だろう。そして、どれだけ美しく力に溢れていても、所詮はダンスだ」
こちらにおいでと囁くようにそう言いながらも、この魔物は、ファルゴを、所詮ダンスだなどとは微塵も思っていないのだろう。
自分よりも階位の高い者の前に跪きながら、その背面に武器を隠しているような不遜さと高慢さに、ネアは、そんな気質もまたファルゴというダンスの魅力であるのだろうなと考える。
「ったく。何の抑止力にもならないようだな。ウィリアム、そいつはこっちに寄越せ」
「なぬ。人を荷物のように言うのはやめるのだ。寧ろ、経由地の伴侶のお膝の上で降車させて下さい」
「アルテア、この通り、俺が見ているので大丈夫ですよ。それより、早くエドガルドを追い払ってくれると助かるんですが」
「因縁があるのはお前の方だろうが。………エドガルド、…………おい、お前は手の中の物を下せ」
ファルゴの魔物に何かを言おうとしていたアルテアは、ネアがぎゅっと握り締めた物を見て、慌ててこちらに手を伸ばし、お肉用のぎざぎざしたナイフを取り上げた。
「むぅ。このままですと、私の魔物が不安になってしまうので、気付かれないように、この木の影に入った瞬間に滅ぼし、海に捨ててくればいいのかなと思っていたのですが、きりんさんの方が良かったですか?」
「ネア、それをこの場で取り出されると、俺もアルテアもまずい。いいな、ポケットからは手を出しているんだぞ」
「むぐぅ…………」
武器を封じられてしまい、ネアは、爪先をばたばたさせた。
ディノは、この場はウィリアムとアルテアに任せようとしてくれているのだろう。
こうしてネアが声をかけられていても珍しく何も言わないが、それでもあまり気分は良くない筈だ。
ネアが握り込んでしまった手をぎゅっとしてくれているものの、身に纏う酷薄な気配は冷ややかとも言える。
(折角の、こんなに気持ちのいい夜なのだから…………)
だから、これ以上煩わされるのは避けたいと考えたネアが、もう一度ディノの手を握り返していると、ふっと新しい人影が落ちた。
「エドガルド?」
「…………イシュ」
ネア達の席は、大きな木の影で若干死角になっている。
そこを覗き込んだのは、先程ギターを弾いていたご老人ではないか。
思っていたよりもずっと長身だったご老人は、こちらの様子を一瞥すると深く息を吐き、指の長い大きな手で、唐突にファルゴの魔物の頭をがしりと掴んだ。
そしてそのまま、ぐいっと押し込み、ネア達に頭を下げさせる。
「申し訳ない。うちの魔物が、また悪い癖を出したようだ。きつく叱っておくので、どうか許してやってくれ」
「………っ、イシュ!!」
「ったく。ファルゴは、望みあう者同士で踊るからこそ、美しいんだろう。嫌がるお嬢さんを誘い込んでの無様なダンスなんぞ踊りやがったら、二度とお前の為にギターは弾かないからな」
「…………え、」
「その場合は、西の工房のところの、若いファルゴの妖精にでも弾いてやるか。あの青年は、ひたむきでいいファルゴを踊る」
「…………あ、あんな若造に、蠱惑的なファルゴが踊れる訳がないだろう。イシュ、君は俺の相棒だった筈だ!」
「さぁな。幸いな事に、歌乞いは、一人の魔物としか契約が出来ないとは決められていないし、妖精との契約はまた別物だからな」
どこか飄々とそう言ってのけ、老人は、先程までゆったりと微笑んでいたエドガルドに取り縋られるようにしながらもう一度こちらに頭を下げると、そのまま、必死に説得にかかり始めたファルゴの魔物を連れて立ち去ってくれる。
「…………まぁ。もしかしてお二人は、歌乞いの契約を結んでおられたのです?」
「ああ。この国でも有名な二人なんだ」
「あの方の振る舞いは、エドガルドさんの話ぶりによると、それがあの方の資質のようなものなのですね………」
そう呟いたネアに、すりりっと体を寄せ、ディノが頷く。
「なので、彼が君に強引に触れるような事がなければ、壊してしまう訳にはいかないかなと思っていたんだ。その資質が役割りであるからこそ、エドガルドには、階位に伴う儀礼的な事や、伴侶を持つ者に手を出してはならないというような事は、分からない」
「分からない、のですか?」
「そうだね。そうあるようにという認知の下、ファルゴという舞踊の持つ主張から派生した魔物だからね。なので、彼の振る舞いは、………獣がどうしてもボールを追いかけてしまうようなものなのだろう。我々とは、思考の動かし方が違うんだよ」
ここでディノは、ダンスに纏わる魔物達の話もしてくれた。
ダンスの魔物達は、大衆の意識と舞踊の持つ魔術から派生するのだそうだ。
特にファルゴのような、実はメッセージ性の強いダンスである場合は、踊りが表現する主張に大きく気質を委ねる事になる。
つまり、ディノがいつも程に狭量さを示さなかったのも、ウィリアムやアルテアがうんざりしながらも物理的な排除に出なかったのも、好き好きはさて置き、それがファルゴというものを司る生き物の習性だからだったのだった。
「ふむ。大切な土地の文化ですので、うっかり滅ぼしてしまってはいけませんでしたね」
「当たり前だ。………付け加えると、あいつの歌乞いは、ウィリアムのファルゴを気に入っているからな。エドガルドは、それも面白くないんだろう」
「まぁ。分かりやすく嫉妬されていたのですね」
「うーん。昨年あたりまでは、俺には近付かないようにしていたから、そのまま、避けられ続けると思ったんだがな…………」
ファルゴはこの国の男の嗜みなので、地元の住人達に溶け込んで滞在する事の多いウィリアムは、この街の人々とファルゴを踊ったりもするのだそうだ。
そんな終焉の魔物のファルゴを見た先程の老人がすっかりウィリアムを気に入ってしまい、何度か伴奏を付けてくれたらしい。
最近は滅多に披露しない歌まで披露してくれた結果、こればかりは当然とも言えるが、契約の魔物であるファルゴの魔物が荒ぶったのだ。
なお、あのご老人は、かつてはコルジュール王家に仕えた騎士の一人で、年齢的な体力の低下を理由に退役してからは、ファルゴの伴奏を新しい仕事にしたらしい。
「彼等は、この土地だけにある、珍しい共生関係にあるんだ」
そんな事を教えてくれたのは、ディノだった。
ご老人は既に現役を退いた歌乞いなので、仕事としてその願いを切り出し、命を削る事はなくなる。
けれども、仕事を辞めて大好きなギターを弾き歌う事が多くなると、その歌を好きなだけ聴く事が出来るエドガルドは、これ迄以上に彼の傍を離れようとはしなくなるのだ。
そうして二人は、ただの相棒のように寄り添い、共に暮らしているらしい。
「街を歩いていると、ギターを弾いていたり歌を歌っていたりするご老人をよく見かけました。もしかして、そのように暮らしている方が多いのですか?」
「そうだね。コルジュールの歌乞いの典型的な生き方に近いだろう。この土地に魔物が多いのは、土地の魔術が特殊で得られる恩恵が多いからでもあるけれど、そうして、………最期まで自分の歌乞いと寄り添い暮らしてゆける場所だからかもしれないね」
そんなディノの言葉を聞き、ネアは、ひたひたと揺れる美しい夜の海と、沖合いに揺れる小さな船を見ながら頷いた。
少し困った事も多いコルジュールの街だが、そうして人々の暮らし方を知ればまた、その魅力に心を奪われてしまう。
向こうでは、歌乞いに許して貰えたのか、エドガルドがまたファルゴを踊り始めたようだ。
今度はあのご老人が歌っており、ネアは心を震わせるような歌声に息を呑んだ。
彼が高位の魔物達にも物怖じしないように、この街の人々やこの店のオーナーも、必要以上にこちらを恐れず、それが独特な居心地の良い空気を作ってくれていた。
ざざんと波が揺れる。
ちょっぴり問題もあったものの、なんて素敵な夜だろうと幸せに目を細め、ネアは、うっとりと、伸びやかな一人の歌乞いの歌声に聞き惚れたのであった。




