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秘密の通路と資格の配分



「むふぁ…………」


眠たさを噛み殺して小さな吐息を吐き出し、ネアは、同族の人間同士でもよく頓挫する、意思疎通というものの難しさを考えていた。


勿論、それはとても大切なものであるが、往々にして擦れ違い噛み合わない事が常である。

ましてや相手が、異種族の謎めいた生き物であったり、時としては建物の意志などという壮大なものになってくるのだから、こちらの需要と噛み合わない事も珍しくはない。



「お家の中で、またしても迷子になりました。ディノが会食堂に行く前に、あちらに合流出来るでしょうか?」

「ここに迷い込む前、何を思い描いた?」

「むむ。会話の中に現れたもの以上の事は、思い描いていませんよ?私の生まれ育った世界では、得てして、王宮からどこか別の施設などへの秘密通路があったものです。午後からシカトラームに出かける用事がありましたので、そちらへの隠し通路などはないかなと、楽しく思い描いたくらいなのです」

「…………くそ、と言うことはそれか。まさか、その種の隠し通路が、まだリーエンベルクにもあったとはな」

「わ、私の衣裳部屋からなのです………?」



顔を顰めて呻いたアルテアに、ネアは、じわじわっと危機感を強め始めた。


何しろ顔を洗ったばかりなので、さてこれから少し部屋で朝のお茶などを楽しもうかなと考えていた、のんびり過ごす休日の朝だったのだ。

衣装部屋にはショールを取りに来ただけなので、まだ着替えていないのは勿論のこと、裸足の室内履きという無防備で可憐な乙女具合で、尚且つ、まだ目もしっかり開いていないくらいだ。



「…………なんだ?」

「アルテアさんを乗り物にしようと思います。不確定な場所で、か弱い乙女が事故に遭ってもいけませんし、そうすると余計なお手数をかけてしまいますからね」

「ほお、その隙に寝直す魂胆じゃないだろうな?」

「………まさか、そんなふそんなことはかんがえておりません」



ネアは、儚くもそう主張したのだが、アルテアは、伸ばされた両手を取ってはくれなかった。


先日の夏至祭の雨梟による損害事件があり、そちらでなかなかの損害が出たらしい。

最近は、少しぴりぴりしているのだ。


おまけに今朝は、ディノに何かを話しに来ていた帰りに、ダリルから貰った室内着でうろうろしていたネアを見付け、なんだそれはと絡んでくる始末である。



「おい、その恰好のまま歩き出すな。まずは着替えからだぞ」

「なぬ。せめて自分の足で前進しようとした健気なご主人様に、なぜお説教風なのでしょう。これは、珍しくひらひらな室内着ですが、とても可愛いのでお気に入りなのです。それはもう、寝ている時に襟元が少しごわごわするなと思っても、可愛いのは正義であると受け入れてしまうくらいなのですよ?」

「恐らく数百年は使われていない通路だぞ。その恰好で、お前の可動域で、どうやって身を守るつもりだ」



渋い顔でそう言われてしまい、ネアは、己の姿をあらためて確認する。


コットン素材の乙女な室内着は、上品だが可憐なフリルとリボンの具合が子供っぽいごてごてとした可愛さではなく、朝の庭園で儚く佇むような可憐な白灰色なコットンのワンピース感が、最早至高の一着としか言いようがない。


白に近い白灰色には、僅かにミントグリーンの色合いがあり、それがまた何とも繊細なのだ。

よって、アルテアが指摘する、襟元の空き具合などは些末な問題である。


そもそも、この手のドレスワンピースは、寛いだ感じを出す為に多少は肌を出すのも務めと言えよう。

それでこそ、乙女の儚さと甘やかさが際立つのだ。



「幸いにも首飾りはあるので、もう、この通路にきりんさんを投影しながら歩けばいいのでは…………」

「その場合、敷かれた魔術が死滅するだけだな。………ったく。この編み上げのリボンの緩め方もおかしいだろうが」

「むぐ!胸元のリボンは、そのくらいふんわりさせるのが、この室内着のお作法なのですよ。シシィさんが、可愛い解説図を描いたカードを付けてくれました」

「………成る程な。あいつの仕事か…………」



そう言いながらもアルテアは、胸元の編み上げのリボンを一度解いてから、少しきつめに調整し始めるではないか。


ネアは、なんと乙女心が読めない使い魔なのだと渋面になったが、ご主人様の室内着の胸元の開き具合を調整しているアルテアも渋面である。


ネアとしては、少し緩い結びで胸の谷間がふんわり覗くぐらいはさして気にならないのだが、そう言えばこの魔物は、スリーピースやシャツなどは比較的隙なく着こなす方であったなと記憶を辿った。



「アルテアさんは、ぴっちりボタンを留めるパジャマ派でした…………」

「だから何だ」

「なので、ボタンは上までぴっちりの、遊びのない着こなしがお好きなのですよね?しかし、女性の文化にはゆるふわなる分野が存在しており、こちらは、このようなどこか無防備な装いで儚さこそを楽しむものなのですよ?」

「お前の場合は、紐の調整を下げ過ぎだ。無頓着にも程があるだろうが」

「ぎゃ!肩紐を上で調整し過ぎると、脇のあたりがきつくなるのでやめるのだ!!お気に入りの室内着を改悪するのは許しません!」



身持ちの固いお母さんのような着付けを始めた使い魔に、怒り狂った人間は大いに暴れた。


何もかも隙なくという禁欲的な装いも素敵ではあるが、このような緩さこそが可憐さに繋がるのだから、淑女のお洒落から楽しみ方の自由を奪うという行為はあってはならない。


ましてネアは、この室内着でお気に入りのレースのショールなどを羽織り、本日の夜明けの光は心地良いですねという優雅な休日を演出する予定がある。

その一幕を終える前に、あちこち調整されてしまっては堪らないのだ。



「ぐるるる!」



しかし、魔物と乙女では、やはり魔物に分があった。


ネアは、ネグリジェ風のコットンワンピースをしっかりぴっちり着つけられた挙句、上から、ぶかぶかの夏用のさらりとした肌触りが素晴らしいニットを被せられてしまい、意図したのとはまったく違う装いに仕上げられる。


儚げな中に存在する大人の色香は粉微塵にされ、コットンスカートの可愛い、ただの休日のお散歩着に変えられてしまった。


男物であるらしく、袖は捲り上げなければいけない夏用の麻混のセーターは、見る角度によっては織りに僅かに混ぜられた銀糸が上品に光る美しい水灰色のものだが、ネアにはネアの気分というものがあったのだ。

懸命に唸って威嚇したものの、力及ばず選択の魔物コーデにされてしまった人間は、悔しさのあまりに地団駄を踏んだ。



「ったく。世話をかけさせやがって」

「むぐるる…………。ぐる…………。しゅわんと金色の粉々を吐いたあれは、金ぴか妖精さんですか?」

「………金鉱脈の系譜の金水晶菊だな。欲に駆られて手を出すと、指先を失くすぞ」

「なぬ。摘んではいけないものなのですね…………」

「欲深い侵入者を排除する為の、害虫除けの一種だな。………本来は別の場所を守っていた物なんだろうが、通路に手が入っていない年月の間に、どこかから種が飛んだんだろう」

「……天井が高いのはやはり、竜さんの訪問を考えての事なのでしょうか?」

「かもしれないが、………この魔術基盤からすると、妖精馬の馬車などを走らせた可能性もあるな」



周囲を見回しそう呟いたアルテアに、ネアは首を傾げた。


確かに馬車ともなれば、こうしてネア達が歩くよりは広く空間を取るものの、ここまで天井が高い必要はないような気がする。

だが、そうするとアルテアが、このような場所を走らせる妖精馬の馬車には、空を飛ぶ物もあるのだと教えてくれた。


空を飛ぶ馬車と聞けば、ネアは興奮に弾んでしまう。



「そ、空を飛ぶ馬車には、乗った事がありません!!」

「お前が憧れるような理由で動かす物じゃないからな。過分な負荷のかかる空中の馬車走行は、道楽で扱うには無駄が多い。このような場所でその運用が見越されているとなると、馬車を地面に触れさせたくない理由を考慮したんだろう。シカトラームは封印庫に隣接しているし、其のどちらもが隔離型の牢獄として機能する。災いを有する品物の証跡を残さないように金庫に移す場合や、逃げようとする道具や生き物を隔離する場合に用いられたと考えるのが妥当だろう」

「まぁ………。思っていた使い方と、随分違うようです。お空の散歩に使うのではなく、地上の走行では間に合わない時の移動や運搬手段になるのですね…………」

「空中の歩行目的なら、翼種に籠をつけた方が早い。単なる移動なら転移が一番だな」

「むむむ………」



じりりっと揺れたのは、アルテアが灯した魔術の火だ。


ネア達が迷い込んだのは広大な通路で、その壁沿いには街の大通りの街灯のようなものがあったが、来た時にはまだ明かりが入っていなかった。

二人がここに迷い込んだ時には、人工的に組み上げて作られた石壁の中の祝福結晶の煌めきが、星空のようにこの通路を照らしていたのである。



(…………石畳には、綺麗なモザイクが一枚一枚に施されていて………)



綺麗に整えられた石畳は、深い菫色の初めて見る石材で出来ていた。

その一枚は綺麗な正方形になっており、中央には、淡いパステルカラーを用いて表現された花のモザイクがある。


薔薇や百合、ライラックに紫陽花など。

様々な花々をちょこんと上品に配置した石畳が、どこ迄も敷き詰められているのだ。


決して華美な装飾ではないが、あまりの繊細さに一枚引き剥がして持ち帰りたくなるような美しさに、ネアは、見ているだけで唇の端が持ち上がってしまう。

街灯は白く濁った筋の入った水晶のような石材で出来ていて、近寄ったアルテアが、雪結晶だと教えてくれた。



「ここをずっと歩いてゆくと、シカトラームに続くのでしょうか?」

「恐らくそうなんだろうが、…………あの奥を見てみろ」



アルテアに顔を寄せられ、視線の位置を揃えられる。

示された方向に顔を向けて目を凝らすと、真っすぐな道が先の方でゆるやかにカーブしており、その先には優美な作りのアーチ形の柵があった。


両開きの柵は、しっかりと閉ざされているようだ。

間違いなく鍵などが必要になる造りなので、せっかくだからと、シカトラームまで歩いて出かけてゆく訳にはいかないらしい。



「むむ、立派な柵のようなものがあります。蔓薔薇のような装飾がなんて美しいのでしょう。でも、閉ざされているのですね………」

「リーエンベルク側も、長年使われず遥か昔に放棄された通路に、そう簡単に放り込みはしなかったか。………そうなると、今回は存在を知らせる為に道を開いただけかもしれないな…………」

「かつては、リーエンベルクに住んでいた方々が、この通路を使ってシカトラームに行ったのでしょうか。…………もし、」



小さな希望を一つ問おうとして、ネアはその言葉を飲み込んだ。


統一戦争の影絵の中で駆け抜けたリーエンベルクでは、このような通路の存在は知られていないようであった。


もしかすると、抜け出した先でも結局王都の中には違いないのだからと使われなかっただけかもしれないが、地下の隠し部屋に避難させていた子供達の様子を思い返せば、誰もが知る訳ではなく残された隠し部屋や通路も多いのかもしれない。


(以前にみんなで見付けた工房も、あの場所にある資料などを残す為に不可侵になっていたらしい。元々、工房の主人である特定の階位の王族しか入れない場所だったからこそ、奇跡的に、統一戦争の際の接収で荒らされる事なく残っていたのだわ…………)



「統一戦争時にも、この通路には人が立ち入った気配はないな。あの金水晶菊が、金の胞子を吐き出したのを見ただろう?」

「はい。しゅわんと金色のきらきらが立ち昇って、ダイヤモンドダストのようでした!」

「あれは、生き物が現れた際に、獲物を引き寄せる為に吐き出されるものだが、一度放出されると、次の放出までの時間は五百年かかる」

「…………ごひゃくねん」

「つまり、この通路の入り口にすら、五百年以上は出入がなかったという事だろう。………それに恐らく、この意匠や魔術の扱い方は、ウィームの旧王家のものだろうな。そいつ等が国を出た時から封鎖されていた可能性が高い」

「まぁ。………では、統一戦争の時の王族の方々は、この道を知らなかったのですね」



ネアがそう呟くと、アルテアが、ちらりとこちらを見た。


魔物らしい赤紫色の瞳の鮮やかさは、どこか、人ならざるものの思索を湛えていて、不思議な静謐さを纏う。



「奇妙な印だな。…………血か、………いや、それはあり得ないか。だが、シルハーンの練り直しが、この土地に相応しい誂えをと想定した事で、何か同一の資質を揃えた可能性もある。もしくは、体を整えた要素が同じ配列なのかもしれないが。………これは、土地に馴染む魔術をアレクシスのスープ屋で育んだのであれば、ありえない話じゃない」

「………アルテアさん?」



不思議な言葉に首を傾げ、ネアは、こちらをじっと見ている魔物の冷たい目を見上げる。


こんな時、魔物の眼差しは凍えるような余所余所しさで、けれどもそれは外周からネアという人間を見ているからなのだろう。

だから今は、僅かな居心地の悪さと、そう言えばこんな距離感も悪くないのだと思ってしまう排他的な己の気質を噛み締めながら、その答えが導き出されるのを待つ。



「ここは、王家の道だ。………時折、あの王宮が、お前に旧王家の取り分を示す事に気付いていたか?」

「………リーエンベルクが、という事でしょうか?」

「ああ。………オフェトリウスの奴も、妙な言い回しをする事がある。………であればお前は、リーエンベルクに於いて、魔術的に旧王家の役割りを満たしている可能性が高い」

「………それは、…………役割りとして、という事なのですか?」



驚くべき指摘に一瞬声を失ってしまったが、アルテアは、役割りという言い方をした。

であればそれは、天秤の上の分銅が、たまたま同じ重さで釣り合ったというような、偶然の産物なのだろう。


この世界には因果を司る魔術があるのだから、もしかするとそれは、偶然ではなく、欲した物が必然として整えられただけなのかもしれない。

けれどもきっと、ネアが慄き首を振るような、仰々しいものではないのだろうとも思えた。



王家の資質をとなればとても仰々しく聞こえるが、それが、アルテアの指摘したような偶然の配列でも賄えてしまう世界なのだった。



「お前はこの世界の住人ではないだろう。であれば、この世界における唯一の氏族と言える。一人しかいなければ、それを王だと認識するのは間違いではない。シルハーンの伴侶となったにせよ、人間の作法では婚姻が完結していないからな」

「………むぐ。書類に必要な可動域が足りないだけなのです…………。私一人の問題で法改正を行うと、後々に犯罪に利用されかねませんのでそれは好ましくないと判断し、ディノの側のお作法だけで伴侶としているのですよ」

「それが結果として、お前を一人きりの氏族の王たらしめている可能性もある。………或いは、アレクシスのスープが整えたウィーム用の魔術の揃えが、旧王家の血を引く人間用の嗜好だった可能性もある。その場合、符合する資質を得てリーエンベルクに暮らすお前はやはり、魔術的には王族として迎え入れられたという扱いなのかもしれない」

「まぁ。………そんな風になってしまうのです?」

「どこかで歪であれ、どこかこじつけに過ぎない要因であれ、判断を下すのは土地や王宮だ。あくまでも、そちらの認識でという事だからな。オフェトリウスについても、あれは道具から派生した魔物だ。そちら寄りの思考を持つ」



となると、ネアの中には、王族としての何かを満たしてしまう揃えが隠れているのかもしれない。

そう考えたネアは、はっとした。



「も、もしかすると、他にも、私の隠しきれない偉大さや威厳などが、王族のようだと認識されているのかもしれません!」

「安心しろ、それはないな」

「むぐぅ………」

「想定するより遥かに些細な事かもしれないがな。カインから、王の指輪を持ち帰ったのはお前だろう」

「………は!そ、そうでした。それで、王族の方が戻ってきたかのように認識されてしまったのかもしれませんね………」



得心して頷けば、アルテアは閉ざされた道の向こうを見ているようだ。

ネアも同じ方向を見て、リーエンベルクには、まだまだ隠された区画が沢山ある筈なのだとも語っていたエーダリアの楽しげな瞳を思い出す。

思い返してみれば、真夜中になると鐘楼がない筈の方角から鐘の音が聞こえて来る事もある。



「何とでもなる領域だからな。体の中の魔術の配列、嗜好や気質、髪色や瞳の色、………或いは、言葉に鍵があり、それが結ばれたのかもしれない。王宮が王と認めればそれは即ち、その一点に於いては王であるという事実に結ぶ。だが、リーエンベルクにはどうも複数の意思決定の区画があるようだ。事実、エーダリアに対する認識もまちまちだろう」

「まぁ、そうなのですか?」

「実際、あいつはヴェルクレア王の息子だ。そうして得ている血筋から、ウィームの王族ではないという判断をするものもある。だが同時に、他の要素を汲み、あれを王族として認識している節もある。あくまでもそれは王ではなく、王族に過ぎないのは確かだが」



不可思議でどこか興味深い物語のような説明を、ネアは、夢中で聞いていた。


こんな時は、薄暗い通路の中で向かい合っている相手が、見慣れた使い魔ではなく、老獪な人ならざるものだという感じがする。



「エーダリア様は、王様ではなく、王族という認識なのですね」

「それは当然だろうな。ウィーム領主という肩書が明確である以上、それは決して王ではない。王であるという事は、魔術的な誓約の上で他の王に準じる存在であってはならないからだ。だからこそ、エーダリアがどれだけあの王宮の祝福を受けようとも、影絵やあわいとして王座の間が開く事はないだろう。その仕組みを返せば、お前のような立場の者は、何の関係もない部外者だとしても、他の条件が揃えば王としての認識を受ける可能性があるという事だ。………とは言え、リーエンベルクの多くの部分は、エーダリアに重きを置いている。お前に反応するのは、旧王家の資質だけのようだが」



ここでネアは、こてんと首を傾げた。


「しかし私は、歌乞いとして、この国やエーダリア様の指揮下にあります。それは即ち、王としての資格はないとはならないのですか?…………むぐ?!」


びしりと指先でおでこを弾かれ、ネアは小さく唸る。

こちらを見て溜め息を吐いたアルテアは、なぜか呆れ顔だ。


「歌乞いだからこそだ。お前は、国の歌乞いとしての、前の人間の在り様やその顛末を忘れたのか。歌乞いはそもそも、組織に組み込まれても、誓約で行動の制限をかけられる程度の拘束しか受けない。契約の魔物が、本来はどれだけ狭量なのかを忘れたのか?」

「家族や友人すら許さないと、そう聞いています。だからグラストさんのお家でも、グラストさんの事は聖人として、家から出したという扱いなのですよね?」

「その通りだ。魔物は、己の歌乞いが他の誰かの持ち物である事を好まない。今度、歌乞いとしての契約書を読み返してみろ。あれは、歌乞いと国とが互いの利益を守る為に必要な取り決めを示した書類だ。国側がどれだけそのように振舞っても、読み解けば、所有と隷属を示す文言はどこにもない。加えてお前は迷い子だからな。元より、この土地で生まれた命としての国の所有権を国が持たない」



となるとそれは、ネアという個人が、この国と結ぶ業務契約のような関係性なのだろうか。


この国の歌乞いは、各自がガレンに属する事は知っていたが、それが国との契約にもある程度の自由を残す物だとは思っていなかった。

所属はどこであれ、結果としては国の持ち物であると考えてしまっていたのだが、確かにそれは、人間の側の常識を反映した感覚に過ぎない。


歌乞いは、その多くを契約の魔物に阿らなければならない。

そうなってくると、不本意だが縛れないというところも、出てきてしまうのだろう。



「…………だからこそ、アリステルさんの問題では、あちらの派閥の影響力を懸念してというだけではなく、そもそも、国としての強制が利かなかった部分があったのですね?」

「そういう事だ。国としては不都合な事実にあたる。あまり公にされない契約の穴ではあるがな」

「むむ、…………それはあまり、知らない方が良かったのでは…………」



ネアは、そんな秘密の暴露にたじたじになってしまったが、アルテアはなぜか、どきりとするような深く暗い目で臆病な人間を見据えた。



「知っておけ。今回、お前がここに迷い込まされたのも、その意図だろう。シカトラームへの道が閉じている以上、リーエンベルクがお前にこの道を開いたのは、周知以外の目的はない。…………俺は、体のいいガイド役だな」

「知っておくと言う事に、役目があるのですね?」

「リーエンベルクの一部がお前を王とするのなら、その守護を利用した時の堅牢さは、ただの居住者の比ではなくなる。それ以外の方法ではどうにもならない、侵食や支配の魔術を退ける、最後の一手になるかもしれん。………推奨する気はさらさらないが、オフェトリウスの使い方も、お前が望めば主君としてあいつに忠誠を誓わせる事が出来るだろう。………だが、それは利点の側の話だ。どうしてもとその必要がある瞬間までは、そのような認識を受けているという程度に留めておけ」

「…………はい。私には少し難しいところもあるので、解釈違いを見付けたら、教えてくれますか?」



権利を行使すれば、そこには責任が伴ってくる。

そんなものが一番怖いと思ってしまうネアが、狡猾にもそう願えば、アルテアはどこか諦観に近い表情を浮かべた。


「…………そうするしかないだろうな。こうして差し出され示された守護を、みすみす転がしておく訳にもいかないだろう。…………俺としては、お前に、歌乞いと土地の契約の真実なんぞ、教えてやるつもりはなかったが…………」

「………そうなのですか?」

「気付いていなかったのか?お前がこの国の持ち物だとすれば、土地を統括する俺にとっては好都合な事が多い」



そんな事をどこか酷薄な眼差しで告げる選択の魔物は、対岸に立つ時の微笑みを浮かべてはいた。

けれどもネアは、今回はその時ではないのだなと思い、これはただの、成された問いかけに相応しい表情に過ぎないと頷く。



「然し乍ら、アルテアさんは既に丸ごと私のものなのです。そのような意味に於いては、アルテアさんにとっての私は、アルテアさんのご主人様であり続けるとも言えますね」

「そうか。ならば、今朝の肌の手入れはしたんだろうな?」

「…………化粧水はつけました。クリームも塗るつもりなのですよ?………むぐ?!ほっぺたを引っ張るのはやめるのだ!」




意地悪な使い魔に頬っぺたを引っ張られている内に、ネア達が立っている場所は、いつの間にか元の衣装部屋に戻っていた。



ネアは、すっかり伸びやかな朝のひと時風ではなくなった己の装いを見下ろし、ぐぬぬと眉を寄せる。

今からこのセーターを脱ぎ、尚且つ、ぴっちり締められたリボンを緩めて元の素敵な装いに戻らねばなるまい。



「ネア、着替えたのかい?」


そこに顔を出したのは、ほこほことお風呂上がりの湯気を立てている伴侶の魔物だ。

先日使い切ってしまったお気に入りの入浴剤の代わりに、ネアが新しく買ってきた入浴剤にはまっている、とても無垢な生き物である。



「まぁ、ディノはお風呂から上がってしまったのですね!これはもう、一緒に窓辺でゆるゆる過ごすためにも、急いで元の装いに戻らねばなりません!」

「……………ネアが虐待する」

「おい、ここで脱ぐな!」

「お、おのれ、拘束を解くのだ!上に着せられたセーターを脱ぐだけではないですか!!」

「ネアが、アルテアを着てる……………」



窓の向こうでは、庭木の上で毛玉妖精と小鳥の苛烈な戦いが繰り広げられていた。

ネアは使い魔に捕縛されすっかり荒ぶっていたが、みぎゃーという凄まじい戦いの雄叫びに、呆然と窓の方を見てしまう。



あんまりな騒ぎに魔物達もそちらを見てしまえば、戦いに勝った小鳥が、朝陽の当たる素敵な小枝の特等席を確保し、戦いに破れた毛玉妖精を木の上からぺっと投げ捨てるところであった。


穏やかな休日の朝というにはいささか刺激的な光景であったが、ネアは何とか気を取り直し、リボンを緩めるのを止めようとする使い魔との闘いにも勝ち、無事に部屋で庭を眺めながら過ごす、朝の紅茶の時間を楽しんだのであった。





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