158. 夜の夏至祭で形を得ます(本編)
夜になると、リーエンベルクの周囲は不思議な暗闇に包まれた。
深く深く重なり合う雨の底の色相は、澄んだ夜の色にも似ているが、ゆらゆらと曖昧に揺れる水の影を重ねている。
限りなく透明で遠くまで見通せそうなのに、ふとした瞬間に水の影が揺らぎ、視界が曖昧になる。
そんな景色を斜めに切り裂くのは、繊細なレース模様のような銀色の雨の雫。
それはまるで、夜明けに見る悪夢のような美しさであった。
おまけに今夜は夏至祭なのだ。
その夜の雨の色の向こう側では、森はきらきらと細やかな光の粒子を雪のように降らせて輝き、心の奥がざわつくような優美な旋律がどこからか聞こえてくる。
ざわざわと重なる風の音のような囁き声に、ぼうっと燃え上がり消えてゆく、森の奥の不思議な青い篝火。
また、そんな人ならざる者達の光と影の色に重なり、人間達もまた夏至祭の備えをする。
水辺で焚く篝火は、雨の底という事で夜になるとあちこちに焚かれており、その赤い火の色がちらちらと水の向こうに揺れるのだ。
水の中に浮かぶようにはらはらと舞い散る花びらは、夏至祭の行列が残した物ではなく、花輪の塔の周囲に振り撒かれるものだという。
その中に、時折大きく伸びるのは、篝火の周囲を警戒する騎士の影だろう。
じっと見ていると、何層にも重なり合う影の色の向こうに、見える筈のないものが見えるような気がする。
そんな不確かさと、どこか曖昧になる境界にくらりと眩暈がして、ネアは、座っている魔物の椅子の上で一度だけ目を閉じる。
さりりと、髪を撫でられた。
「…………あまり落ち着かないだろう。私の質を得ているせいで、夏至祭の夜に何層にも重なり合う、あわいの境界が見えてしまっているようだ」
「窓の外の景色が、はっとする程に透明に感じたり、かと思ったら、焦点がぼやけるようになるのは、それでなのですか?」
「うん。視界が揺らぐ瞬間には、そこにあわいの境界が現れているんだ。………そうだね、穏やかな波のようなものだよ。波紋が一つの境界線であれば、それは、打ち寄せる波のように形を変え、我々が見えているよりも遥かに広大な土地を渡ってゆく」
「…………初めて、境界という物を見た気がします。ディノ達は、いつもこのような物が見えているのですか?」
「そうだね。けれども、本来はそうそう動き現れるものではない。ここまでの物を見るのは、夏至祭の夜くらいだ」
「…………酔いませんか?私は、心がざわつくような美しさがあるのに、見ていると乗り物酔いをするような気分になります」
ネアとしては、大事な伴侶を案じての言葉であったが、戦場に戻るというウィリアムと入れ違いに部屋に戻ってきたばかりであったアルテアが、顔を顰めてこちらを見るではないか。
「………境界を視認する度に、体力を削られているんだろうな。視界が揺らいだ場合は、目を閉じてそれ以上見ないようにしろ」
「なぬ。それは困るので、あまりゆらゆらしている物は、じっと見ないようにしますね…………」
確かに目を閉じてふうっと息を吐いていると、視界に割かれていただけの体力が温存されるような気がする。
少しほっとして、けれども折角の夏至祭なのにという謎めいた落胆も感じつつ、ネアは、瞼の裏の暗闇に体を休める事にした。
安らかな魔物の揺りかごに安置され、ディノの体温や馨しい魔物の香りを感じている。
頬に触れた指先の温度は、ひんやりとして溜め息がこぼれるくらいに心地いい。
ぴしゃん。
(…………何だろう)
けれども、そんな心地良い暗闇の向こうでふと、水辺から何かが上がってくるような不可解な音を聞いている。
そっと目を開いて部屋の中を見てみたが、テーブルの向こうで仕事をしているアルテアの姿があり、ネアは変わらずにディノを椅子にしてその胸にもたれかかっているようだ。
それなのになぜか、どこかで水音が聞こえている。
ぴしゃん。
ひたひた。
ぴしゃん。
そんな音を慎重に聞き分け、ネアは、これはあまりいい音ではなさそうだぞと身震いした。
何とも言いようがないこの微かな音は、ホラーでは定番の、迫りくる恐怖の予兆ではないか。
決して蔑ろにしていいものではない。
「ネア?」
「ディノ、目を閉じると、水辺から誰かが這い上がってくるような、不穏な音が聞こえるのです…………」
「………水辺から、かい?」
「ふぁい。何となくですが、ぞっとするような感じの音なので、心配になってきました………」
ネアの体が揺れたのに気付いたのか、心配そうに声をかけてくれたディノにそう言えば、こちらを見た伴侶の魔物はさっとネアを抱えて立ち上がった。
そして、それと同時にアルテアも立ち上がる。
「陣は敷いた。取り急ぎの構築だが、問題はないだろう」
「有難う。…………ネア、この上に立てるかい?何かの付与や浸食がないかどうか、浮かび上がらせる魔術なんだ」
「はい。この綺麗なお花模様の上に立てばいいのですね」
そこからの動きは迅速で、つい先程までは真剣に何かの作業をしていた筈なアルテアは、いつの間にか、この部屋の床石の上に踏んで確かめる型の魔術陣を展開してくれているようだ。
ネアはそこまで運ばれ、ディノに床に下して貰ってから、ゆっくりと陣の上に乗る。
するとどうだろう。
青白く浮かび上がっていた薔薇とアネモネの繊細な術式模様の上に、しゃりんと音を立てて、くすんだ一枚の銀貨が現れるではないか。
「…………む。銀貨です」
「…………アルテア、これが何だか分かるかい?私は、初めて見るもののようだ」
「くそ、昨日今日で結ばれた物じゃないな。………随分昔に結ばれた物が、雨の夏至祭の魔術を得て、初めて完成しようとしている魔術だ。…………夜、雨と湖、………終焉に…………列車か馬車。………武器として構築された呪いか障りだろう。終焉に結び、何度か犠牲を出している術式で、夜と雨を発動条件にしている。………因果の魔術の結びはないな。こいつに向けられた物ではなく、その当時こいつが持っていた何某かの要素に呼び寄せられていた魔術だな」
「列車も馬車も、覚えがある物だね。………どの魔術に呼ばれた物なのかは、今は置いておこう。ここにいる者達で、魔術剥離が出来そうなものかい?」
「実体化しても、こいつに害を及ぼさない程度のものだ。俺が洗浄をかけるには、反応が微細過ぎるな。………武器の属性の祝福を持つ者が必要だろう。…………くそ、またオフェトリウスか。今日あいつを動かすのは難儀だぞ…………」
ネアは、一枚のくすんだ銀貨の現れた術式陣の上に立ち、そんな魔物達のやり取りを聞いていた。
こちらを見たディノがそっと頭を撫でてくれ、念の為に、もう少し術式陣の上に立っているようにと言われて頷く。
「君達人間は、内側から育む魔術がない分、かつて取り込み結んでいた魔術の糸口が、こうして時間を置いて浮かび上がる事があるのだね。………不安だと思うけれど、もう少しだけ、その上に立っていてくれるかい?他にも、今日だからこそ姿を現す物があれば、調べておいた方がいい」
「…………この銀貨に纏わる何かは、これまでは悪さをしてこなかった物なのですか?」
「うん。君に近付いたけれど、何かをするだけの力を残していなかった物か、君の守護に触れられなかった物なのだろう。それがたまたま、雨の夏至祭と夜という二種の魔術で力を得て、漸く君の前に姿を現せられるようになってしまったんだ。君を狙っての物ではないようだから、それがすぐに障りを出すという事はないと思うよ。それに、アルテアの言うように形を成しても君には触れられないだろう。夏至祭が終わればまたそのまま力を失う物だとも思う。…………けれども、このまま残しておくのは不愉快だからね。形を成している今夜の内に剥がしてしまいたい」
「…………はい。聞こえてくる音に、ちょっぴりはらはらするので、お願いします」
ネアは良く知っていた。
ディノも勿論、もう知っているだろう。
ネアの両親が雨の日に車の事故で命を落とした事も、水辺と乗り物と終焉と聞くと、ネアがジーク・バレットの最期を思い出す事も。
雨音は夜に結び、ふと、あの地下へ向かう階段を思い出す。
薄暗い店に揺蕩うのは煙草の香りと、どこか秘密めいた囁き声。
その中にすらりと立っていたスリーピース姿の美しい男が、抜け目ない優雅で残忍な微笑みの下で、そっとその頬に触れたくなるような、疲弊した目でこちらを見た瞬間の事も。
けれどもあの思い出の全ては、もうどこにも行けない者達だ。
復讐を諦めなかった小娘に殺されてしまったジーク・バレットも、復讐を果たしたものの、その後、望むような幸福を得る事がないまま、一人ぼっちで生きたネアハーレイも。
(…………そう言えば、ネアハーレイの森には湖があって、私はそこに夏至祭の夜に行ったのだ)
あの日は確か、ネアが森に入るまでは雨が降ってはいなかっただろうか。
だからこそあの夜は、雨上がりの森の匂いの記憶があるのだ。
そんな事を考え、ネアはまた背筋が寒くなる。
それはまるで、ぐるぐると回る円環のリースのように。
夏至祭の花輪の塔の周囲のダンスや、花冠のように一周回って、同じ道筋に戻ってくる。
「ディノ、アルテアさん、…………その、湖と夏至祭と雨という言葉だと、私は、前の世界にいた頃、自分の名前の由来となった女神で聖人な方の森に、雨の日の夜に出かけて行った事があるのですが…………」
ネアが、こんな時はどんなヒントも取りこぼしてはいけないのだとそう言えば、ディノはゆっくりと頷いてくれた。
「この前話してくれたことだね?………思い出というものは、君の中で一つの舞台を作る要素となる。そのような意味では、無縁とは言えないだろう。でも、今回の物はこちら側の要素であるのは間違いない。ただ、………もしかすると君の持つ記憶や思いが同じ条件を備えている事で、その何かを呼び寄せ易かったという理由はあったのかもしれないね」
「…………ふぁ。それを聞いて安心しました。上手く言えませんが、もう閉じた筈のあの道に戻されるのは、とても怖いのです…………」
その言葉にネアは、術式陣の上から、伸ばされた腕の中にしっかりと抱き上げられる。
ぎゅっと抱き締められて温かな首筋に顔を埋め、ネアは、ああ、もうどこにも行かなくていいのだと安堵の息を吐いた。
ほろほろと崩れてゆく不安や孤独の向こう側には、もしかすると今も、あの森や古い屋敷があるのかもしれない。
けれどもそこにはもう、ネアハーレイはいないのだ。
姿を消しても誰も惜しまないような孤独な女性はもう、その名前ごと練り直され、こちらに奪われてしまったのだから。
(それはもしかしたら、………あちら側から見ればとても怖い事なのかもしれない)
帰り道や本来の姿や名前を奪われ、どこにも帰れなくなるのは恐ろしい事だろう。
でもネアは今の生活を気に入っているし、あのがらんとした屋敷に戻されてももう、そこには誰もいないのだ。
そう考えてぎゅっと顔を埋め、そのまま暫くディノに体を押し付けていると、ぼさっと頭の上に誰かが手を置いた。
「…………ぐるる」
「おかしな損なわれ方をするな。それはもう、全て捨ててしまえと言わなかったか」
そう告げるアルテアの声の冷たさに、そろりと顔を上げたネアは、ああ、魔物はこんな風に不快感を示すのだなと得心する。
優しいディノのように案じるのではなく、この使い魔は、ネアが以前の世界への思いに捕らわれる事にとても不愉快になる魔物なのだ。
「ひとまず、オフェトリウスに繋ぎを取るか………」
「そうだね。……ただ、人間としての役割を果たしている最中であれば、彼が属するのが組織であるだけに、少し手間がかかるかもしれない」
「ああ。王都に貸しを作らないように、あいつを連れてくる必要があるな。他に武器の質の該当者がいない」
「…………ふと思ったのですが、武器の形で祝福を齎す事が出来る方であれば、どなたでもいいのですか?…………例えば、サフィールさんですとか」
ここでネアが思い出したのは、タジクーシャの宝石妖精の一人だ。
タジクーシャの事件以降、何だか縁があって文通をする事になり、そのやり取りは今でも続いている。
今は、タジクーシャは外界との道を閉ざしている時期ではあるが、彼は例外的に外に出る資格を持つ役職に就いており、任務で様々な土地を訪れる事が多い。
また、元はと言えば、ウィームで育まれた青玉から作られた武器なのだそうだ。
(…………そして今は、偶然にもウィーム領内に来ている筈なのだ!!)
「………そう言えば、あの妖精は今、ザルツを訪問しているのだったね」
「はい。ダリルさんからのご依頼で、たまたまこちらに来ているところなのですよ!なぜザルツでウィーム中央ではないのかと、がっかりされている内容のお手紙が来たばかりです。折角なので、夏至祭から三日ほどはこちらで過ごし、幾つかの宝石の子供巡りをしてからタジクーシャに戻られると話していましたよね?」
サフィールがザルツを訪れているのは、獅子姿の音楽の精霊の招待である。
実はザルツは、宝石妖精の派生も多い土地なのだそうだ。
古く銘のある楽器を多く有するザルツだからこそ、その楽器の装飾となっている宝石にも魔術が蓄積され易く、妖精が派生する機会も多くなる。
そんな中、この数年の内に派生しそうな宝石の一つに、ザルツだけでは対応に苦慮しそうな気配が現れたのは数週間前の事だ。
使われている宝石は緑柱石だが、どうやら元は柘榴石であったらしいと判明し、騒ぎになったのだ。
そうなると、魔術で変質させられた宝石からの宝石妖精の派生を経験するのは初めてとなるザルツは、生まれる妖精が災いに近い資質を持たないかどうかを確かめられる宝石妖精に、何としても繋ぎが取りたかった。
その結果、ゴーディアがダリルに相談を持ち掛け、手紙の検閲の際にサフィールを気に入っていたダリルが、彼に連絡を取ってザルツ伯に紹介する運びになったのである。
「彼であれば、この子の事も気に入っているし、こちらを訪問している仕事は終わっている筈だ」
「………ファンデルツにいた、あの武器派生の妖精だな。あの階位であれば、何の問題もない。…………これ以上、オフェトリウスに貸しを作るよりは、ダリル経由の仕事にも使える分、そちらの方が早いかもしれんな」
「では、私が話をしに行った方がいいかもしれないね。…………アルテア、その間、この子を任せても構わないかい?」
「ああ。そいつは、こっちには来ていないのか?」
「賢い男だよ。仲介の際に、ダリルから中央にも立ち寄るといいという言及がなかった事から、ウィーム中央には敢えて立ち寄りを避けているそうだ。ダリルは恐らく、こちらの感情を慮ったのだろう。であれば、彼にも私から一報を入れておくよ」
「ディノ………」
不安がっていたネアを一人にしないようにと言う事なのか、ディノは、持ち上げていた伴侶をそのままアルテアの腕に手渡してくれる。
わざわざこんな夜にサフィールを探しに行ってくれる伴侶にお礼を言おうとして名前を呼んだネアに、振り返ったディノは、ふわりと優しく微笑んでくれた。
「心配しなくて大丈夫だよ。………君が、こうして気付いた事をすぐに話してくれるお蔭で、私は、こうして君を失わずに済んでいるのだろう。有難う、ネア」
「むむ、サフィールさんを探しに行ってくれるお礼を言おうとしたのに、私が言われてしまうのです?」
「君は、………かつて付与された資質なのかもしれないが、………自身に触れる異物や予兆にとても敏感なんだ。それが本来の形で君に触れていた頃は、決して良い物ではなかったのかもしれないけれど、そうして残された鋭敏さが、多くの物を守ってくれているのは確かだからね。だから、…………君が君で良かった」
そんな事を、この魔物はどれだけ嬉しそうに言うのだろう。
光を宿した水紺色の瞳の美しさに、ネアは唇の端を持ち上げる。
「…………ふふ。不思議ですね。私の人生の大半は、あまり幸福な物ではありませんでしたが、そんなディノの一言で、全てがこの大事なお家で暮らしてゆく為の栄養になったのだと感じられて、何だかとても救われた気持ちになってしまうのです。ディノ、今夜は夏至祭ですから、どうぞ気を付けて下さいね。きりんさんボールやきりん箱を持ってゆきますか?」
「…………それはいいかな」
ネアとしては、この優しい伴侶に万全の状態でいて欲しかっただけなのなのだが、きりんという言葉を出されてしまった魔物は、慌てて出かけていってしまった。
本人達ですらそこまで怯えてしまうくらいなのだから、これ程頼もしい武器もない筈なのだとぎりぎりと眉を寄せたネアは、ふっと耳朶に落とされた口づけに目を瞬く。
「………アルテアさん?」
「ったく、お前は次から次へとおかしなものを集めやがって」
「………む、………むぐ。今回は、ご迷惑をおかけします」
「今回の件については、普通の人間にもあり得る事なんだろう。だが、………これに関しては、経過観察をしていないと知り得ようがない事だからな。本来であれば、俺達がそんな機会を得る事もない。………お前を通して初めて知った」
そんな事を少し憮然とした様子で告げる選択の魔物に、ネアは、だからアルテアは少し不機嫌で、けれどもどこか興味深そうに目を光らせたのかなと頷いた。
そうして得た知見を活かし、この魔物はどこかで誰かに破滅を齎すかもしれない。
けれどもそれは彼の魔物としての領域の事で、ネアの領域の外側での事である。
「悪さを出来なかったような物でも、こうして条件が整えば、見えてくるものなのですね…………」
「ああ。だが、姿が見えたところで、そこにあるだけだ。現状では不安要因ではないんだがな」
「…………むぅ。目を閉じると水音が聞こえるだけでも、繊細な乙女の心は簡単に削られてしまうのですよ?」
「かもしれんな。…………やれやれ、手がかかる。俺の指輪でも持たせておけば、その辺りの剥離も叶うんだろうが………」
「重婚になるのでやめていただきたい……」
「魔物と違って、人間には可能な事らしいぞ。そろそろ試してみるか?」
窓の外の夜の暗さに滲むような赤紫色の瞳で、意地悪な声でそう問いかけられ、ネアは、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
先程話題に上がったザルツでは、貴族の重婚制度が盛んなのだそうだ。
様々な要因で守護や魔術の結びつきを強化する為に必要な、言葉にすると随分と冷たく感じるが、便宜上の伴侶という存在を複数名持つ事も少なくない。
アルテアは恐らく、サフィールが滞在しているという事で触れられたばかりの、そんなザルツの人間のしたたかさをも示唆してこんな話をするのだろう。
「私の伴侶は、ディノだけなのです」
「…………まぁ、だろうな」
「む。このさらりとした引き方からすると、さては、ここで私が搾取の為だけに指輪を貰うのも吝かではないと言ってしまったら、悪さをするつもりでしたね?」
「さてな。とは言え、お前が俺の指輪を欲するのなら、くれてやるかどうかはさて置き、相応の対価は必要になるぞ。得られるべきものを摂りこぼす程、俺は酔狂じゃないんでな」
「…………その場合、パイやタルトだけではなく、三食がアルテアさんのご飯になるのでしょうか?」
「…………おい、どうしてそこに振り切った。お前の情緒はどうなっているんだ」
「むむ…………、では、朝晩の洗顔で、しっかりクリームを塗られてしまうのです?」
「ほお、また手を抜いているんじゃないだろうな?クリームの残量を、そろそろ確認しておいた方が良さそうだな」
「ぎゃ!!じ、自損事故でふ!!」
ネアはここで、必死に腕の中でじたばたして抵抗したが、そんな人間を難なく抱えたアルテアの手によって、強制的に浴室に連行されてしまった。
つい最近残量を確認されたばかりの顔に塗るクリームは、ここで蓋を開けられてしまえば、すぐにお手入れをさぼっていた事が露見してしまう。
案の定、瓶の蓋を開けたアルテアは、すっと瞳を細めてこちらを見るではないか。
「…………で、この残量をどう説明するつもりだ?」
「わ、わたしは、とてもていねいに、おかおのていれをしています。ほんとうなのですよ?」
「この手入れには、ある種の魔術効果もある。余計な障りや呪いの浸透を防ぐ効果もあると、そう説明しなかったか?」
「………け、化粧水はばしゃりとやっています」
「クリームと、軟膏はどうしたんだ」
「せめて、クリームか軟膏かの、どちらかでいいのでは…………」
「どちらも塗ってないお前に言えた事じゃないが、お前が再三事故るからこそ、その二段階にしておいたんだろうが。使う順番は覚えているんだろうな?」
「…………じゅんばん」
無事にサフィールを連れてリーエンベルクに戻ると、伴侶の人間が、使い魔の膝の上に設置の上で鏡に向かい、顔のお手入れについての指導を受けているところだったのだから、ディノは不思議そうに首を傾げる羽目になる。
目尻と額、そして唇に薄く延ばして塗り込む軟膏の利用技術の複雑さに打ちのめされ、ネアは、すっかり肩を落として悲しく伴侶を迎えたのであった。




