156. 夏至祭の行列に出会います(本編)
どれくらいの時間が経っただろうか。
無心に窓の外を見ていたので気付かなかったが、朝食を終えた後も忙しく執務室や騎士棟を行き来しているエーダリア達が、廊下を歩いているのだろう。
ふと聞こえてきて、少しずつ遠くなってゆく三人の会話をぼんやりと聞きながら、ネアは、どこかでしゃりんという澄んだ音を聞いた。
その音を境に、窓の外の雨の色が薄い光を纏うようになった。
ああ、何かが来たのだろうかと顔を上げると、隣でべったりと羽織り物になっていた魔物が、どこか憂鬱そうに息を吐く。
さらりと揺れた前髪や三つ編みに落ちる影もまた、今日はいつもよりしっとりと青い。
「夏至祭の行列が来たようだね。………ネア、そろそろ外に出ようか」
「早めに出てしまった方がいいのでしょうか?」
「うん。鯨の涙も探してみるのだろう?」
「ええ」
こちらを見てはっとするくらいに優しく澄明な瞳で微笑んだディノに、ネアはなぜか、胸が苦しくなった。
優しい優しいこの魔物は、こうしていつだって歩み寄ってくれるけれど、でもそれは、ディノの心を穏やかにするものばかりではないのだ。
だからネアは、そうやってこの魔物が足元に落としてきてしまう大事なものを、いつだって拾ってゆかねばならない。
(…………これを取りこぼすと、いつかディノは摩耗してしまうだろう)
そうして何かが失われ、取り返しがつかなくなったのなら。
その時には、今の二人の関係は変わってしまうのだろうか。
「…………でも、雨の夏至祭の日は、色々と足元が危ういのでしょう?であれば、往復の道中でささっと探すくらいにしましょうか」
「君は、鯨の涙を拾うのを楽しみにしていたのだろう?」
「はい。ですがそれは所詮、私の大事な魔物を怖がらせてまで得たい程の物ではないのです。なので、じっくり探していて、ディノが悲しむような問題が起こるようでは困りますから」
「………うん。では、少し遠回りしてリーエンベルクの敷地内を歩くくらいでもいいかい?………もし、外に出てみて魔術的に揺らぎが少なければ、もう少し時間が得られるかもしれないよ」
「はい!」
安堵に目元を緩めた魔物を手を伸ばして撫でてやり、ネアは、なぜかじっとこちらを見ているアルテアに首を傾げた。
事故らないか心配されているのだろうかと考えたが、もう少し注意深く、言うならば観察されているような気がする。
はらりと落ちた前髪の影にも、窓の外の雨の色が滲んでいた。
「アルテアさん?」
「…………お前は、シルハーンの質を与えられても、さして変わらないな」
「あら、そうなのですか?私としては、少しきりりとしたような気がするのですが、気質的なものはあまり変わらないのでしょうか?」
「気質を変える為の付与ではなくても、気質をも変えるのが魔物の資質の付与だ。お前程変わらない奴は珍しい」
「それはつまり、私という人格が、素晴らしく完成されているという事なのかもしれませんね」
「単にお前が頑固なだけだろうな」
ネアは、よく懐いているのにここではつんつんしてしまうのだからと微笑むと、ディノに合わせてよいしょと立ち上がった。
窓辺近くに長椅子を設置し、じっくりと窓の向こうの庭や森を眺めていたせいで、すっかり体が重たくなってしまった。
背中の中央を伸ばすようにぐいんと背筋を反らし、ご主人様は何をしているのだろうとこちらを見ている魔物に、人間は不自然な姿勢で長時間体を固定してしまうと、首や肩が凝るのだと説明する。
「むぐ………」
「ったく。半身だけ前を歩いてやる」
しかし、会食堂から廊下に出ると、またしてもあの影があちこちに映るではないか。
この雨の夏至祭特有のものなのか、或いはディノの資質で見えるようになっただけなのかな生き物達の影を踏まないよう、ネアは、半身だけとは言え、アルテアに前を歩いて貰うことにした。
こつこつと、床を踏む音が響く。
ネアは青く沈んだ窓の向こうの庭園を眺め、はらはらと舞い散る白ピンク色の花びらに唇の端を持ち上げた。
ざあっとぶち撒けたように地面に振り撒く花びらの美しさは、目を閉じなくても簡単に思い起こせる。
それこそが夏至祭の醍醐味であるので、あの花びらの道を感じさせてくれる欠片は大歓迎だ。
エーダリアから、雨天でも妖精避けの篝火を水辺に焚くのだと聞いているので、どこかで近くを通る機会があれば、いつもの夏至祭の香りも嗅げるだろう。
なお、雨が降ると踊り狂いの精霊達は屋根のある場所に出没するようになるので、リーエンベルク周辺ではなく、街中などに活動域を変えるらしい。
となると今年は、ハツ爺さんの華麗なダンスステップは見れなさそうだ。
「ネア、これを被っておいで」
外に出る扉の前に立つと、ディノが、どこからか淡いラベンダー色の薔薇をたっぷり使った花冠を取り出した。
瑞々しい薔薇はぎゅっと花びらが詰まっていて、所々にころんとした違う種類の白薔薇も入っているのが何とも繊細で美しい。
ふぁさりと手の上に載せて貰い、ネアは目を瞬く。
「まぁ、ダンスは踊らないのに、花冠を頭に被っていていいのですか?」
「うん。これは、夏至祭の行列に立ち合う者だという印なんだ、髪に花を挿してもいいけれど、君はこちらにしようか」
「ふふ、豪華で素敵なものにして貰えたのですね」
「雨の日に訪れる夏至祭の行列において、白を使った花冠を使えるのは、王席にある、もしくはそれに準じる者達だけだ。魔物の女性の多くは、己の資質を司る王として花冠を頭に載せるけれど、こうして白い花を使った物があれば、より安全に行列を見れるからね」
「という事は、あちら側でも、花冠を頭に載せているという事でこちらを計ってくれるのですね」
「うん。そうしてあちらも線引きを付ける。今日の君は、私の伴侶というだけでなく、私の質を持っている。だから、これくらいの物を使っていても安全だろう」
「…………むむ、伴侶なだけでは、安全ではなかったのですね?」
「自分の可動域を考えろ。お前の可動域で白を持っていたら、悪目立ちするだろうが」
「………私の可動域は、上品なだけでなく、とても繊細なのですよ………」
頭に花冠を載せ、ずり落ちないように用意のいい使い魔にピンのような物で固定して貰う。
その準備を見れば、魔物達は予めネアに花冠を被せるつもりであったのだろう。
今日の装いは、ダンスどころではないからと水色がかったラベンダー色の簡単なドレスを着ているが、そんな装いに花冠を頭に載せれば、途端に夏至祭の乙女の正装だという感じがした。
ディノの装いも夏至祭らしい美しいものだが、花輪の塔の周りで踊っていた頃のような盛装姿ではない。
だがこちらも、雨の色にいっそうに浮かび上がる白い装いが、ここに立つ魔物をより特別な存在なのだと示していた。
アルテアが取っ手に手をかけ、かちゃりと外への扉を開く。
ふわりと舞い込んだのは、清しい花の香りのする夏至祭の空気で、屋内に落ちるものと同じようにひんやりとしている。
しかしここで、ネアはぎくりとした。
当たり前だが、外は雨に沈むだけでなく、雨そのものも降っているのである。
傘がなければ濡れてしまうと慌ててディノの手を引っ張ると、もう雨除けの魔術をかけてあるよと微笑んでくれた。
(こちらには、会食堂の窓から見ていた生き物はあまりいないみたい…………)
しゃり、じゃりん。
たっぷり雨水を含んでいそうな足元は、そんな不思議な音を立て、最初の一歩を受け入れてくれる。
建物の外は、吸い込んだ体の中まで青くなりそうな青に染まっていて、けれども、その青は雨の色らしく灰色にけぶるような独特な光を帯びていた。
(…………綺麗な色、)
そおっと爪先を持ち上げて足元を見てみると、そこには、結晶化して散らばった雨の雫が降り積もっていて、それを踏むとしゃりしゃりじゃりんと音が鳴るのだ。
「…………とても青いのに、やはり雨の色だなと思うのが、何だか不思議ですね」
「色相にも魔術が宿る。感じさせるものが変わるとなると、色によって属性が変わりかねないからな」
「そして、あの向こうに見えるのは、鯨さんでしょうか」
「………まだこの界隈にいたか。死者が出ている可能性もあるな………」
「夏至祭だからというものであればいいのですが…………」
ネアがそう言えば、なぜか魔物達は困惑したようにこちらを見るではないか。
だが、ネアとて、夏至祭に人間達が無傷ではいられない事くらい、重々承知しているつもりである。
その上で出てしまう犠牲というものは、この身勝手な人間にとっては、家族や知り合いでさえなければ仕方のないという程度のものなのだ。
「………お前は、相変わらずだな」
「まぁ。このような世界なのですから、得られる恩恵も大きな分、失われるものもあるでしょう。どれだけ不愉快で胸が張り裂けそうな悲しさでも、どうにもならない損失は、時として避けようのないものなのですよ」
「君の大切なものは、損なわれないようにしてあるよ」
「はい。それだけで充分です」
すりりと頬を寄せ、一番大事な約束をくれたディノは、こんな雨の底の色相の中では、ぞくりとする程に酷薄に見えた。
真珠色の髪は光を孕み、単一の白のアルテアの髪よりもくっきりと、白く白く浮かび上がる。
虹持ちと呼ばれる独特の髪色は、他の色を宿しながらもこうして白という色を翳らせない万象だけの色なのだ。
ぼうっと、そこかしこに煌く妖精の光は、雨の日に滲み光輪を作る街灯や、木に飾られたイブメリアの祝祭飾りのよう。
見慣れた筈のリーエンベルクの庭に出てきただけなのにもう、ここはどこか見知らぬ土地のようではないか。
(……………あ、)
そして、そんな雨の中をゆっくりと通り過ぎて行く行列がある。
急に現れたと言うよりも、意識した途端に浮かび上がったかのような一団は、淡く淡く、眩しいのに暗い金色に滲むのは、硝子細工のような質感と幻影のような曖昧さを持つ、奇妙な人影だ。
きらきらしゃりんと陽光や夏の木漏れ日を思わせる光の粒を落とし、ゆっくりと前に進んでゆく。
その殆どが、錫杖を手に持って聖衣のような装いをしており、背負った細工の美しい正方形の木箱には、溢れんばかりの花が入っている。
そんな花々が、彼等が一歩を踏み出すたびにはらりと落ちるのだが、足元の地面に落ちる前にはしゅわりと光って消えてしまうようだ。
(…………おかしなものがいる)
ネアが目を奪われたのは、その行列の中に一定間隔で現れる、大きな傘をさした者達だ。
見ていると男女交互で現れているようだが、どちらも足下までの長い髪に喪服のような漆黒の装いをしていて、魔術書か聖書のような物を片手で広げ、それを読みながら俯いて歩いていた。
あの生き物に、顔を上げさせてはならない。
なぜだか強くそう感じ、ネアは、敢えて傘をさした者達には焦点を結ばないようにした。
ディノの資質を預かっている筈なのに、ぞわりと背筋が寒くなり、肌が粟立つのは、あれが境界の向こうから現れる異形のようなものだからだろうか。
「…………っ、」
しかし、そんな事を考えていると、この後からやって来る傘の人物が、ゆるゆると顔を上げかけている事に気付きぞっとした。
ぎくりとしたネアが体を揺らしてしまう前に、ふぁさりと揺れ落ちたのは、純白のケープだ。
「その名簿に記すべき名前はない。ここは、俺の管轄地だからな」
背後から響いた頼もしい声が誰のものなのかを知り、こうして駆け付けてくれた事に安堵しながらも、ネアは、まだその傘の人物から目を背けられずにいた。
そっと肩を抱くようにされてディノの腕の中に収まったが、その中で、少し顔を上げた事で、黒い布で目隠しをしていて、おまけに額に角があることが判明した奇妙な生き物が静かに頷き、顔を伏せるまでを、息を潜めて見守る。
こちらから窺い知れる輪郭からすると、こちらは女性なのだろう。
本を手にした指先は繊細であるし、長い睫毛が頬に落とす影には、穏やかな優美さすら感じる。
けれどもそんな傘の女性を連れて行列がまた前に進めば、ネアは、詰めていた吐息と共に吐き出したどきりとするような鮮やかな怒りに、今更気付いた。
(ああそうか。…………お前は、ここから何かを奪おうとしていたのか)
そう呟く自分の声はとても冷ややかで、どこかで、ディノが感じているひやりと刺すような不愉快さも感じる。
これが資質を分け合うという事なのかどうかは分からないが、けれどもネアは、その憤りと落胆に怖さを洗い流され、ただ冷ややかに傘をさした女性が立ち去るのを見ていた。
(大事な、……………大事なものなのだ)
それは、ネアがあの無残な人生を経て漸く積み上げた宝物で、ここまで育て上げるまでに、どれほどの苦難と絶望があった事か。
そんな日々の果てに今を作るこの愛おしいものは、頑強に思えてもきっとどこかは儚い。
季節の祝祭の系譜の者とは言え、この庭に暮らしていない外野の者達に、どうして損なわせられるだろう。
荒げはしないものの、胸の奥底でずきずきと痛んでいる呼吸を鎮め、ネアは、体の中でぐるりととぐろを巻くような怒りを両手で丁寧に押し込んだ。
立ち去った事で簡単に留飲を下げられないのは、庭の一画で、見事な薔薇の茂みが無残に枯れ落ちているのを見てしまったからだろう。
丹精込めて育てられた薔薇の茂みは、つい先ほど通りかかった時には、瑞々しく美しく咲き誇っていた。
その瞬間を見ていた訳でもないのに、彼等が持ち去ったのだと思えるのはきっと、ディノの資質のお陰だろう。
であれば、あの傘の女性が顔を上げかけた事で、何かが齎されたのは間違いない。
「そろそろ、戻ろうか。中庭を抜けて少し歩くかい?」
「……………ええ。あの方々は、もうこの場所に悪さはしませんか?」
「うん。ウィリアムの言葉を聞いて、視線を下げたからね。盲目の文官と呼ばれる彼等は、それぞれに担当する場所が違うのだそうだ。この地を担当する者が立ち去った以上、他の者達が代わりに悪さをする事は出来ないよ」
「…………あの美しい薔薇を台無しにされましたので、決して良かったとは言えないのですが、それでも幸いでした。ウィリアムさんがいなければ、もっと多くのものが失われたかもしれないのですね?」
「残忍に思えるかもしれないが、それが祝祭の理だからね」
どこか悲しそうにそう告げたディノは、夏至祭の行列が、リーエンベルクからも何かを奪うかもしれないと、最初から分かっていたのだろう。
だからネアに自分の資質を分け与えたのだろうし、もしかすると、ここから何かが失われる事自体を明確に把握していた可能性もある。
(……………思い返せば、夏至鯨が現れたのが禁足地の森だった時、ディノの表情は整い過ぎていた)
あの鯨もまた連れ去る者の象徴であれば、その時からもう、この近くから何かが失われるのは決まっていたのかもしれない。
「ウィリアム、間に合わせてくれて有難う」
「いえ。すみません、それでもぎりぎりでした。…………少し持ち去られましたね」
「人間は減っていないようだけれど、薔薇や窓枠以外になくなった物があるのかな」
「質量からすると、恐らく、…………家事妖精が一人。……………ネア、」
ひゅっと息を呑んでしまったネアに、ウィリアムが気遣わし気な目をこちらに向ける。
ディノと同じように、雨に沈んだ青い景色の中でぞくりとするような美貌を際立たせた終焉の魔物の姿には、雑踏に紛れるような殊勝さは微塵もない。
どこまでも白く白く、終焉そのものであった。
「……………ごめんなさい、……………私はとても強欲なので、自分の領域から失われたものがあることに、どうしても心がぎゅっとなってしまいました。けれども、ウィリアムさんのお陰で、あの傘の女性が完全に顔を上げずに済んだのですね?」
「……………ああ。恐らく、あの様子からすると、…………一人か二人は、人間も持ち去るつもりだったんだろう。だが、彼等は終焉の系譜の者だからな。俺が治めている領域では、好き勝手に供物を持ち去る事は出来ない。奪われたものを取り戻す事は出来ないが、せめてと思ってくれて良かった」
「一人でもここから誰かが失われてしまったなら、私は怒り狂ってあの行列にきりんボールやきりん箱を投げ込んだでしょう。……………家事妖精さんが一人連れていかれてしまったのは悲しいですが、ウィリアムさんのお陰で、失わずに済んだ方々がいるのです……………。ウィリアムさん、来て下さって有難うございます」
具体的な数字を聞けば、誰かが欠ける予定だったのだという恐怖が、いっそうに鮮明になった。
ネアは震えそうになる声を何とか整え、ウィリアムにお礼を言う。
リーエンベルクは、一般的な領主館とは違い、少数精鋭の組織だ。
語感がかぶるので今は不愉快だが、こちらで捌ききれない書類はダリルの側で決済されるので、所謂、文官という役職の人間は雇い入れていない。
この中の人間の誰かが失われると言う事は即ち、ネアの家族か、騎士達の中の誰かが失われると言う事なのだ。
「俺が来なければ、シルハーンとアルテアが、リーエンベルクを守る手段を講じた筈だ」
「そうだね。もしウィリアムが間に合わなければ、あの名簿を書き換えてしまうつもりではあったよ」
「ディノ?……………私の家族や、騎士さん達が持ち去られないようにしてくれようとしていたのです?」
「うん。ただし、名簿を書き換えると、他方で大きな被害が出る事が多い。そしてそれは、傘で雨粒を弾くように、あまり遠くではなく、書き換えの足元に落ちるものなんだ」
「さすがにこの敷地の中には落ちないだろうが、ウィーム中央の外周は避けられなかっただろうな」
それを聞いて、ネアはぞっとした。
それでもこの身勝手な人間は、我が家が守られるのならばと、残酷な安堵はするだろう。
だが、その先で失われたのは、顔見知りの領民や、このリーエンベルクで働く騎士達の大切な誰かだったのかもしれない。
(それで、こちらは守られていると安堵するのは、何と身勝手な事だろう。それでも……………、)
そうして避けられる悲劇がどれだけの幸運であることか。
そして今回は、その先に落ちる筈だった悲劇までを避けられた、更なる幸運であったのだ。
「……………だが、鯨はまだ近くにいるのか。……………シルハーン、俺は、あの鯨が何を見ているのか、餌にするものが問題ないかどうか、近くで確かめてきます。担当の文官は去ったので、少し離れても?」
「うん。私達は、中庭を抜けて中に戻るようにするよ」
「ウィリアムさん、本当に有難うございました。…………鯨さんに近付くのは、危なくはないのですか?」
そう尋ねると、ウィリアムは微笑んで頷いた。
これは幸いと言っていいのかどうか分からないが、雨の夏至祭は終焉の気配がぐっと強くなる。
その結果、ウィリアムが成せる事も多くなるのだそうだ。
(……………そうか。いつもの夏至祭であれば、資質が災いするからとこちらには来られないけれど、今日は、夏至鯨や夏至祭の行列が現れる事で、そもそもが終焉の資質が強い日になっていて、だからウィリアムさんがこちらにいても問題なくなったのだ…………)
先程退けた文官は、この周辺の担当でしかない。
であればもしかすると、街の方ではまた別に、何かを持ち去ろうと企む文官がいるのだろうか。
鯨の動向に注視すると言って出かけてゆくウィリアムを見送りながら、そんな事を考えたネアは、みにゃーと声を上げて転がってきた鳥毛玉のようなものを、滅ぼさない程度に蹴り転がして森の方へ戻してやる。
これまでは、ネアを軽視したり嫌悪する傾向の強かった夏の系譜の者達が、今日ばかりは、こちらを見ると明確な怯えを目に滲ませた。
これが万象の資質なのだろうかと思えば、誰とも寄り添えず孤独だった頃のディノを思い、きりりと胸が痛む。
しかしディノは、そんなネアを見て、文官についての懸念を残していると思ったようだ。
「…………あの文官は、鯨の門が開いた土地に真っ先に現れる事が多い。この先はもう、禁足地の森の周辺を離れてゆくばかりだから、このまま姿を消すかもしれないね……………」
「まぁ、あの方々は、夏至祭の行列に必ずいるような存在ではないのですか?」
「供物の在り処を記した名簿に該当する土地でしか、その姿は見られないようだ。ただ、鯨の門が開かずとも、鯨が獲物を見付けた土地では、行列の中にいつの間にか現れていると聞くね」
ネアは、文官と呼ばれるあの生き物が、手にした魔術書のような名簿から派生する生き物だと知り驚いた。
あの名簿は、夏至祭の行列が持ち帰る献上品を記したもので、品物も混ざりはするが、その殆どが、供物にされる生き物の名前が記されているらしい。
持ち帰る品物は、錫杖を持つ者達が、小さく折り畳んで背負う木箱に詰め、代わりに箱に入っていた花を振り撒いてゆく。
「酒の箱と、人間の箱があったな。酒類は適当に持ち帰らせればいいが、…………人間についても、少なくとも十人は持ち帰る必要があるんだろう」
「アルテアさんには、あの方々を見ただけで、お持ち帰りの内容が分かってしまうのです?」
「ほお、今のお前では、そこまでは見えないらしいな。あの箱には、それぞれ、収集物ごとにラベルが貼られている。それを満たさない限りは、夏至祭の供物が足りないという事だ」
供物は土地から上げられるべきものなので、ウィームの供物はウィームで負担するしかない。
雨の夏至祭の儀式が通常の夏至祭のそれと違うのは、先代の供物への慰霊も含まれるからなのだと知り、ネアはまた、厳しくも奇妙な季節の作法に触れてしまった。
オオンと、遠くで夏至鯨が鳴いた。
不思議で力強いその声が空に響き、ふっと、あちこちで輝く妖精の光が点滅する。
「連れ去る者を呑んだのだろう。ウィームには夏の系譜の者達を引き寄せる者は少ないから、他の領からやって来た者かもしれないね」
「ウィリアムが対処しなかったのなら、どうでもいい連中だろうよ」
「むぅ。…………誰かが連れ去られてしまうと思えば悲しい事の筈なのに、……………あの鯨さんの鳴き声には、不思議な美しさがありますね」
ネアがそう言えば、なぜか魔物達は顔を見合わせるではないか。
「…………それは、お前に終焉の子供としての資質もあるからだ。死を忌避する者達に聞かせてみろ。吐き気を催すような悍ましい鳴き声だと言うぞ」
「なぬ。それは何というか、……………お気の毒ですね。嫌でも聞こえてきてしまうものなのですから、せめて耳に心地よいくらいの価値は欲しいところでしょうに」
「ネア、あちらに行ってはいけないよ?」
「不安にさせてしまったのかもしれませんが、大事な魔物がいる限り、私はどこにも行きませんからね?」「うん……………」
そんな話をしていたネアはふと、大きな霧雨ライラックの木の下に、きらきらと萌黄色に光る宝石のようなものを見付けた。
はっとしてディノの手を引いて駆け寄ろうとしたのだが、ネアと同時にその落とし物を発見したものか、反対側から、茶色いもしゃもしゃした獣のような生き物も駆け寄ってくる。
石に手を伸ばすのは獣の方が早かったが、残念ながら、競合は狩りの女王であった。
ぱしんと伸ばした手を弾かれてしまい、目を丸くしてびゃっと飛び上がった獣には目もくれず、ネアは、ドロップ型の美しい宝石を拾い上げる。
「ディノ、これはまさか……………」
「鯨の涙だよ。……………小さな物だけれど、とても質がいい」
「手に入れました!」
先に手を伸ばした鯨の涙を奪われた獣は、ネアの足元でびゃんびゃん跳ねて抗議していたものの、ぶつかりそうになってじろりとアルテアに一瞥されると、目の前の魔物達の白さに気付いたのか、けばけばになってどこかに逃げ帰っていった。
かくして鯨の涙は、無事にネアの戦利品になる。
この鯨の涙は、雨の夏至祭の祝福が凝った魔術的に貴重な物でもあるが、同時に、夏至祭の行列に連れ去れそうになった場合の、代わりの供物にもなるらしい。
それを聞いたネアは、慌ててエーダリアに連絡を入れ、誰が先程の文官に遭遇してもいいよう、そちらに預けておく事にした。
「ふと思ったのですが、こんな時こそ、作家さんの魔術があれば良かったのですね」
「……………は?」
「ディノが書き換えられるのですから、あの魔術でもいいのではないでしょうか?例えば、誰それというお名前が出るべきところを、名簿にはひたすらキノコと書いてあり、皆がそれで満足したというような表記で改竄を行えばいいのです!」
「キノコなのだね…………」
「むぅ。小石と書かなかっただけ、あちらに歩み寄っているのですよ?」
「せめて酒類にしておけ。夏至祭の行列は、妖精種が多いからな」
アルテアにはそんな風に言われてしまったが、ネアは、魔物達の反応を見ている限り、作家の魔術を夏至祭の行列の名簿で使うのは、なかなかいい案だったようだぞとほくそ笑む。
どうも、高位の人外者ほど、自分で出来てしまう作業の廉価版についての思索が及ばないようだ。
なお、屋内に戻ってからその話をしたノア曰く、行為その物に紐付く区分が同じなので無理がなく、尚且つ、作家の魔術を使えば影響が出る先までを指定出来るのが最大の利点になるそうだ。
これ迄何かと辛酸を舐めさせられてきた魔術だが、どうやら、やっと有用な使い道があったようだ。
「ディノ、無事に屋内に戻れたので、椅子にしてもいいですか?」
「ネア………、外が怖かったのかい?」
「ふふ。ディノとアルテアさんが一緒だったので、そこ迄ではありませんでした。ですが、こうして無事にお家に帰れて、尚且つお目当ても拾えた喜びを、ディノと分け合いたいのです」
「……………ずるい」
「あら、座ってはいけないのです?」
「可愛い……………」
恥じらう魔物を椅子にしてしまいながら、ネアは小さく微笑んだ。
あの文官に自分の領域のものを奪われて感じた怒りは、魔物の資質を得たからこその狭量さなのだろうか。
であれば、そんな不快感を抱えてもいつもネアを案じてくれる優しい魔物は、こうして大事にしてしまうしかないのであった。




