155. 夏至祭には変な生き物が現れます(本編)
儀式から戻ったエーダリア達が朝食を終える頃には、ウィームは、はっとする程青い水底の色に染まった。
だがその色彩は湖や海の底のような青さではなく、僅かに白灰色の混ざったけぶるような雨の色で、ネアは、そんな得も言われぬ色彩の中で小さく息を吸う。
(ああ、ここは雨の底なのだ………)
当たり前だが、呼吸が苦しい訳でもないし、肌に水が触れる訳でもない。
それなのに窓の向こうは雨に沈んでいて、その中を夏至祭で振り撒かれる花びらが揺蕩う様は、まるで夢のような不思議な光景であった。
ちらちらと、淡い光が揺れた。
枝葉の影には、夏至祭らしい細やかな魔術の煌めきが見え隠れし、そう言えば昨年の森もこんな風に光っていたなと思う様子なのだが、それが雨の底ではゆらゆらと揺れる水の色に反射して、見たこともない複雑な光を帯びる。
呼吸が出来るというのは本当であるらしく、枝を走ってゆくちび栗鼠型の妖精やモモンガ風の妖精などを見ていると、怯えている様子や苦し気な表情は窺えない。
また、その小さな体が、ぷかりと浮かんでしまうような事もないようだ。
(注意を払って、慎重に行動しなければいけない日なのだけれど、…………)
でも、あんな雨の色に沈んだ外を歩く時には、一体どんな風になるのだろうと、ネアは小さく胸を弾ませる。
帆船を沈めに行ったアルテアからは、船は処分したものの、なかなかにいい資材を見付けたので回収しているところだと一報が入っている。
ディノ曰く、とても嬉しそうだったらしいので、ネアは、ウィームに来てくれた使い魔が働くばかりではなく、そうして得られるものがあった事に密かにほっとしていた。
「ちょっぴり驚いてしまったのですが、こんな雨の夏至祭でも、ダンスは行うのですね」
「ああ。その代わり、これ迄の夏至祭のように皆に見守られてのダンスではなくなるから、攫われる危険は高くなるな。なので、雨の夏至祭でのダンスでは、念の為に親族の同意書を貰うようにしている」
「まぁ…………。それでも、やはり今年こそはと踊る方々も多いのでしょうか」
「ああ。雨の夏至祭でダンスを踊りたがる者達は、意外に多いのだ。同意書の仕組みを設けるまでは、衆目がないのをいいことに、道ならぬ恋に身を焦がす者達が踊っていたのだが、それで成就してしまうと後々に事案になる事が多くてな………」
「まぁ。思っていたのとは違う理由でした…………」
少し遠い目をしたエーダリアによると、その仕組みを設けたのはエーダリアが領主になってからの事だったのだそうだ。
勿論、需要があっただけに批判も上がったが、ダリルが、同意書一つも取り付けられないようであれば、どうせその恋が上手くいく筈もないと一喝したところ、しゅんと静かになったのだとか。
なぜ同意書の運用が始まったのかと言えば、無垢な乙女を騙してダンスを踊ってしまうお金目当ての悪い男性達がいたり、個人の意向で、そうそう簡単には変更出来ない魔術的な約定で結ばれた婚約を破棄しようとする者達が多かったからなのだそうだ。
例えば、呪いや障りを避ける為に結ばれた婚約をそうして壊してしまえば、累が及ぶのは本人達だけで済まない事もある。
以前は、若気の至りで親族をすべて失った少女がいたり、約定を破棄された屋敷妖精に殺された青年もいたそうだ。
今とてそのような事例はあるが、恋人達の軽率な行為で破滅への道連れにされかねない者達からすれば、同意書という関所は必要な救済措置になる。
魔術が結ばれるからこそ疎かに出来ないそんな話を聞けば、ネアは、今はどんな人たちが踊っているのだろうと雨色の窓の向こうに目を凝らしてしまった。
「こうして色々聞くとさ、ウィームの仕組みはかなり緻密に練られているよね」
「ああ。だが、戦前にはもっと様々な仕組みがあったようなのだ。今あるものの中には、ウィームが国家ではなくなった事で必要になったものや、かつての運用を、敷かれた魔術の復元や改善をしつつ取り入れたものも少なくはない」
「でも、迷い子の支援金なんかは、エーダリアの発案でしょ?」
「ああ。それは、王都でアリステルの一件を見ていて、考えた事なのだ。元より、迷い子を保護する制度そのものはどこにでもあるのだが、貴族や王家が彼等を保護する前提のものが多くてな。………あの歌乞いも、国になど捕らわれずに他の生き方を見付けられていたのなら、そのどこかで彼女に見合った生き様があったのかもしれない」
(…………ああ、だからなのだ)
だからこそネアは、こんなにも幸せに暮らしている。
不向きだと分かりきっている政治的な舞台で活動する事を強要されず、こうして見合った生き方を許されているからこそ、この土地をここまで深く愛せたのだろう。
そうして、ネアに、ウィームという大事な居場所を与えてくれたのは、この優しいウィーム領主があってこそ。
そう考えれば、ますます鯨の涙を拾ってみせるという意気込みは強くなった。
それはもしかしたら、馴染めない王宮で息を潜めるようにして生きてきた、エーダリア本人の経験が育んだ感性なのかもしれない。
そして、そんな孤独な王子を守り育てたヒルドが、エーダリアのかけがえのない居場所になったからこそなのかもしれない。
最近は、エーダリアやヒルドのいいところを見付けるとちょっと得意げになってしまうノアがにっこり微笑み、大きな問題も起こらず退屈してきたのか、ディノは、ネアの膝の上にそっと三つ編みを設置しているところだ。
「今日の花輪の塔のダンスは、ダンスに参加する方達だけで行い、踊らない方々は見ないようにするのですよね?………その場合は、うっかり見てしまうとよくないのですか?」
「ああ。あまり望ましくはないらしい。なので、雨の日の花輪の塔は、特殊な天幕で覆うのだ。その天幕に背を向けて騎士達が見張りに立つのだが、…………今度は、度胸試しでそのダンスを覗こうとする者達も多くてな………」
「………もはや、どんなお祭りにも、そのような方々が一定数いらっしゃるのだろうなと感じました」
「ああ、何でなのか人間にはそういう連中が必ずいるよね。因みに、雨の夏至祭で、そうやってダンスをこっそり覗いた連中の殆どは、夏至祭の国に強制連行になるから、真似しちゃ駄目だよ」
「寧ろ、その勝率でどうして挑戦してしまうのでしょう…………」
「ありゃ。言われてみればそうだなぁ。人間って、おかしなことをするよね………」
「ああ、それには理由があるそうですよ」
不思議そうに首を傾げたノアに、ヒルドが、そんなおかしな度胸試しが始まった理由を教えてくれた。
どうやら、数百年前に流行った児童文学で、雨の夏至祭のダンスを盗み見たものの、一人だけ生き残った少年が数奇な運命の下に活躍する冒険物語があったらしい。
その作品があまりにも流行ったせいで、雨の夏至祭でダンスを覗き見ても生き残れば、特別な力を手に入れられると考える子供達が現れ始めたのだ。
物語の作者からすると迷惑な話だが、子供達が真似をするからと表の世からは消えてしまった幻の作品であるらしい。
つまりのところ、その物語を読んだ子供達が我こそはと始めてしまった無謀な挑戦が、発端となった物語が失われた今の世にまで残っているのだった。
「難しいものだな。失われては困る約束などが忘れ去られてゆく一方で、そうして忘れられなければならないものが、根強く残り続けてしまう」
「ふふ、何だか人間とはやはり強欲なのだなと感じてしまいますよね。……ところで、どこかで何かがモーモー鳴いているのですが、うっかり牛さんに変えられてしまったアルテアさんだったりはしないでしょうか?」
「…………アルテアが、かい?」
「少し遠いですが、どしどしと扉を叩くような音もしますよね?」
「………アルテアなら、牛にはならないのではないかな」
「しかし、事故率は高めの使い魔さんですので………」
ネアがそんな事を言ったせいで、ディノは不安になってしまったらしい。
確かに何者かが、扉、もしくは壁を、叩くか蹴るかはしているようだと、ヒルドも眉を顰める。
「続きますね………。私が、確認して参りましょう。…………リーエンベルクの中に入り込めているという事は、あまり害はないものの筈なのですが………」
「あ、それなら僕も一緒に行くよ。シル、エーダリアを頼んでいいかい?」
「うん。ただ、………今日はこのような日だから、三つ編みはネアだけでいいかい?」
「では、有事の際には私がエーダリア様の手を繋ぎますね!」
「うん。それで安心だね」
「…………い、いや、この場で待っているだけではないか。ヒルド、ノアベルト、そちらこそ何かあった場合は、どうか無理をしないでくれ」
「きりんさん…………は使えないので、戸外の箒かウィリアムさんのナイフを貸し出しますか?」
「ネア、お兄ちゃんはこう見えても強いから、さっと解決してくるよ」
ネアが首飾りの金庫をごそごそすると、なぜかノアは、ヒルドを連れてさっと出て行ってしまった。
本日はきりんを封じられているので、似たような他の生物兵器も投入するつもりはなかったのだが、たいそう警戒しているようだ。
さぁさぁと、外はすっかり雨の色に沈んでしまったのに、それでも相変わらず雨音が聞こえる。
愉快で美しく、けれどもどこか空恐ろしくなるような音楽が、森の向こうから響くのもいつもの夏至祭と同じだった。
(でも、………こんなところまで、花びらが舞い込んできている)
青い幻影はなぜかそれだけは舞い上げるのか、夏至祭で振り撒かれた花びらが、ゆらゆらと漂っている。
時折、見た事のない水棲の竜か鰻かなという奇妙な生き物も、水の中をさっと泳いでいっていた。
「ディノ、あの鰻さんのようなものは何でしょう?」
「うなぎ…………」
「もしやこの世界には、鰻さんはいないのですか?」
ご主人様にそう聞かれてしまった魔物は、不安そうな目をして、さっとエーダリアの方を見る。
こんな窓の外の色彩を受けると、銀色がかったオリーブ色に見える瞳を瞬いたエーダリアが、鰻はいるが、ウィームではあまり見かけないと教えてくれた。
「かの者達は、闇の系譜の偉大な魔術師だからな」
「………それは多分、私の知っている鰻さんではありません」
「黒い蛇のような姿をしていて、川辺に住む者達だ」
「まぁ、もしかすると、あのあまり美味しくない鰻さんが、こちらではその偉大な魔術師さんなのです?」
「ま、まさか、お前は鰻を食べるつもりなのか?!」
「最近ないくらいの感じで驚かれましたが、私の祖国では、あまり好ましくはない味だったものの、幾つもの鰻料理がありましたよ。伝統料理なので何度か口にする機会がありましたが、自分の意志でその料理を注文する事は生涯ないだろうと考えるに至っています」
「………そ、そうか。お前の祖国の民には、悪食が多かったのだな」
「むぅ。あればかりは、若干の悪食感が否めないので、ここは頷いてもいいのかもしれませんね…………」
「ご主人様…………」
ネアが出会った事があるのは、鰻のぶつ切りの入ったゼリー寄せであった。
弟の誕生日に、小さな男の子がちょっぴり大人の紳士風に過ごしたいという事で出かけたレストランで、ネアは初めてその料理に出会ったのだが、そこで見た鰻のゼリー寄せは、食べた事のあるハムとアスパラの美味しいゼリー寄せの感動を粉微塵にするような衝撃の物体で、ネアはほんの少ししか食べられなかった。
勿論、それなりに味を調えてはあるのだし、よく見れば、他の魚料理とさして違わない程度の見た目だったのかもしれない。
だがネアは、鰻のゼリー寄せについては、断固として自らの召喚を拒否したのだ。
「…………ぐるる。あの料理めは、二度と食べません。私にはもう、美味しいゼリー寄せを食べる権利があるのだ………」
「ネア、可哀想に。美味しくなかったのかい?」
「ですので、鰻などは見かけてもぽいです!………そして、あちらに泳いでいるにょろにょろなのですが、もしかすると鰻ではなく、先程の竜さんなのでしょうか?」
「森人魚だね。こうして水に纏わる幻影が現れた時にしか現れない、人魚の姿をした妖精だ。あわいに住んでいる生き物の一種で、小さな妖精を食べる肉食の生き物だよ」
「……羽があって、人魚要素もあるのでしょうか?」
「……どちらも必要なのかな…………」
(…………おまけに、あの細長さでどこに人型の要素が………)
ネアはそんな事に気付いてしまい、ぞくりとした。
どうやらこれ以上、森人魚という存在については触れてはいけないようだ。
世界には、こうして矮小な人間如きが知ってはならない真実というのも存在するのである。
「森人魚か、アルビクロムでは、安く仕入れて串焼きにすると聞くが………」
「ぎゃ!」
「……ネア、………どうしたのだ?」
「そ、そのお料理については、想像したくありません。今後、一切の接触を拒否させていただきます!」
「あ、ああ……。お前にも、そこまで忌避する食材があったのだな。私は食べた事はないが、兄上やドリーは好んで食べるようだ」
「ぐるるる!」
うっかりエーダリアが、小耳に挟んだ兄弟情報などを披露してしまったせいで、ネアは、ディノにぎゅっとくっついたまま、威嚇の唸り声を上げねばならなかった。
「…………おい、何か問題を起こしたんじゃないだろうな?」
「まぁ、何かを集めていたアルテアさんが帰ってきました」
そこに、無事に帆船から何かを回収し終えたようで、アルテアが戻ってくる。
こうして見ると、僅かにテール部分が長いのがお洒落な上着には皺一つなく、あれだけ大きな帆船を沈めてきた直後とは思えない涼やかな姿だ。
「久し振りの収穫だな。……で?お前は何をしたんだ」
「何もしていません。森人魚は絶対に食べないという、誓いと威嚇の唸りなのです」
「………森人魚か。味であればお前は好みそうだが、まぁ、好き好きだな」
「………見た目が最悪なのだ」
「バルバで食べる鯨と、さして変わらないだろうが」
「…………む?その、人魚と呼ばれるからには、どこかに人型の要素があるのですよね?」
ネアがそう返せば、真っ青になったエーダリアが、ぶんぶんと首を横に振っている。
ディノも、目を瞠って悲しげに首を振っていた。
「さすがにアルビクロムの住人達も、人型の要素を持つ生き物を串焼きにはしないからな………?!」
「ネア、………もしかして、海にいる人魚のような姿で想像してしまったのかい?」
「………もしかして、人型な要素はない妖精さんなのですか?あのにょろにょろのどこかに、そんな要素があるのかなと思っていたので、とても慄いていたのですが………」
「いいか、人魚という命名は、川辺の石垣に腰掛けているところを見た人間が、人魚だと勘違いした事で付けられた名前だ。人型の要素はない」
「………川辺の石垣に腰掛けて……?」
またしても疑惑の扉が一つ開いてしまったが、あの青いキュウリに似ているという事は、恐らく、野菜風の見た目だろう。
ネアは、形状から判断すると、長いキュウリか牛蒡、もしくは葱類などで想像しておこうと心を鎮めようとしたが、今度は、水の幻影を湛えた森を泳ぐ葱が想像されてしまい、結局、乱れた心を整えるには至らなかった。
「むぐぐ………」
「やれやれだな。ノアベルト達は騎士棟か?」
「…………は!そう言えば、ノアとヒルドさんがまだ戻ってきていません!」
「何かを扉の前から追い出すのに、苦労しているようだね。扉から剥がれないと連絡があったよ」
「ああ、私の連絡端末にも、ヒルドから、場合によっては扉の一つが壊れるかもしれないという連絡が入っている」
「一体何がいるのだ………」
そちらはそちらで、確か、モーモーと鳴いていた筈の生き物だ。
一体どんなものが扉にへばりついているのだろうと慄いていると、やがて、なぜかずぶ濡れになったノアとヒルドが戻ってきた。
「ヒルド?!ノアベルトも!一体何があったのだ………」
ぴしゃんと水を落としながら帰ってきた二人に、椅子の上から飛び上がるようにしてエーダリアが駆け寄ったので、ネアは、思わず差し伸べた手が彷徨ってしまったが、びしょ濡れの二人が、魔術で体を乾さないのはなぜだろうという謎に気付いてしまう。
(もし、何か理由があるのだとすれば、可動域が繊細な私は、近付かないようにした方がいいのだろうか………)
はっと息を呑みディノを振り返ると、こちらの魔物は茫然と目を瞠って小さく震えていた。
おまけに、こそこそと、ネアの背中に隠れようとする。
「…………ディノ、さては何が起こったのか、分かりませんね?」
「…………ご主人様」
「濡れハンカチだな。………この敷地のどこかに、落としたまま打ち捨てられたハンカチがあったんだろう。無下にされた品物から派生する、妖精の一種だ。扉や窓から、住人が駆け付けずにはいられないような呼びかけをして、ああしてずぶ濡れにする」
「おのれ、びしょ濡れにするのが目的だったのですね!………むぐぐ、あのびっしょりは、魔術で乾かせないのでしょうか?」
「砂糖水を飲ませない事には、どうにもならないだろう。………おい、砂糖水を用意してやれ。それを飲ませてからであれば、魔術で水を払えるようになる」
扉の外にいたものに水浸しにされながらも、二人は、懸命に戦ったようだ。
何とかその濡れハンカチ的な生き物は駆除に成功したが、その代わりにこの悲劇である。
一応タオルをどこからか手に入れて、体を拭いたり髪に巻き付けたりはしているが、それでも追いつかないくらいにずっぷり濡れているので、ぽたぽたと水の雫を髪の毛や顎先から滴らせていた。
「…………ありゃ。それでいいんだ。…………僕、初めて魔術が使えなくなったかと思ったよ」
すっかり光の入らなくなってしまった瞳でそう呟いたノアは項垂れているし、ヒルドは、自分を案じて、手を伸ばして触れようとするエーダリアを、困ったように押し留めていたところであった。
幸いにも、砂糖水というヒントを貰ったエーダリアは、慌てて、自由にお茶が飲めるようにと部屋に用意されていた砂糖壺に駆け寄って行った。
「砂糖水だな!アルテア、教えてくれて助かった!」
「エーダリア様、お手伝いしますね!」
「ネアが逃げた………」
「ああ、助かる。…………砂糖水と言う事は、水に溶かせばいいのだな」
「アルテアさん、どのくらいの分量がいいのでしょう?」
「普通は、グラス一杯に対し、そのスプーンで三杯もあれば充分だろう。ノアベルトは入れられるだけ入れておけ」
「え、明らかに虐めなんだけど……!!」
「ネアが、水を手料理にする………」
「おのれ、何なのだこの忙しさは………」
ネアは、荒ぶる魔物にこれは手料理ではないと説明しつつ、使い魔に隠れて、義兄の砂糖水はシュガースプーンで四杯という一般的な分量に留めておいた。
それでも充分に甘いかもしれないし、全部が溶けきらずに何だか最後の方はじゃりじゃりしていそうだが、とりあえずこれをくいっと飲ませてしまえばいいのだ。
ぽたりと水を滴らせながらグラスの砂糖水を飲む塩の魔物は、頬や額に伝う水の筋が、何だか寄る辺なく不憫な感じがする。
ヒルドについては、濡れて首筋に張り付いた髪の毛などが壮絶な色気を引き出してしまい、何だかいけない姿を見ているようだったので、ネアは、一刻も早く乾燥させてあげて欲しいと両手を握り締めた。
「………っ、かなり甘いですね、この後で紅茶で口直しした方が良さそうです」
「体が冷えてしまっていませんか?もし、この後で温かい飲み物が必要なら…」
「いえ、私は問題ありませんよ。ネイ?」
「うん。僕も冷たい紅茶でいいや。……これ、すっごく甘いからさ」
砂糖水を甘く感じるのは、濡れハンカチの呪いなのだそうだ。
我慢してグラス一杯の水を飲み切ればその呪いが解けるそうで、それを聞いたノアは、ぐぐっと砂糖水を飲みきると、手をわきわきさせてから、しゅわんと魔術で水気を飛ばした。
ネアは、同じようにヒルドにもやってあげるのかなと思っていたが、ヒルドはどうやら自分で出来たようだ。
こちらもしゅわんと水気が吹き飛び、ネアはおおっと目を丸くする。
「…………はぁ。この甘さ、ネアの作った砂糖水じゃなきゃ、無理だったよね」
「まさか砂糖水が効果的だとは、初めて知りました。アルテア様、有難うございます」
「そいつは、前に遭遇した事があるからな………」
「まぁ、アルテアさんもびしょ濡れにされてしまったのですか?」
「俺じゃないが、同行していた部下がやられた。対処法を知っていたのは、その時の現地の住人だ」
「ふむふむ。対処法をご存知という事は、その土地ではきっと、ハンカチ事件が多かったのでしょうね」
「リーエンベルクでとなれば、何が原因だったのかは、おおよその見当がつきますがね…………」
「え、僕の方を見るのはやめて…………」
ネアは、銀狐な時の魔物がハンカチに無体を働いたのだろうなと頷き、安堵したように息を吐いているエーダリアに微笑んだ。
ディノはこのままいくと砂糖水を欲しかねなかったので、ヒルド達の口直し用に用意した紅茶に合わせて、伴侶用にも、グラスに冷たい紅茶を注いでやる。
夜雨のシロップを入れて掻き混ぜれば、真珠色の綺麗な髪の毛の魔物は、目をきらきらさせてこちらを見ていた。
「…………何かさ、べったりした牛みたいな模様の布が、扉に貼り付いてたんだよね」
「それが、濡れハンカチだったのかい?」
「うん、そうみたいだね。僕とヒルドの力でも簡単に剥がせないって、相当だと思うよ………。おっと、」
ふっと、窓の外が暗くなった。
慌ててそちらを見たネアは、目を瞠って小さく弾む。
「きらきらした、細やかな光の雪のようなものが降ってきました!」
「夏至鯨が現れたようだね。では、そろそろ夏至祭の行列も現れる頃だろう」
「あのきらきらは、祝福のようなものなのですか?もし、鯨さんの涙が混じっているのなら、落ちるところを覚えておかなければなのです!」
「鯨の涙とは別のものだよ。あの魔術の光は、夏至鯨が現れる門が開いた証なんだ。どうやら、近くに現れた個体は、禁足地の森の上に門を開いたらしいね」
そんな事を聞けば勿論、ネアは、窓の近くにててっと走ってゆき、鯨の現れる門が見えないかなと目を凝らした。
荒ぶらないようにと、三つ編みをリードにして伴侶も連れて行ったのだが、ぐいっと三つ編みを引っ張られた魔物はきゃっとなり、とても嬉しそうに目元を染めている。
(…………門、らしきものは見えないのかな……)
庭を挟んだ向こうの森は、雨の色に沈んでいてもいつもよりもぐっと明るかった。
きっと、夏至祭を楽しむ妖精達が、あの森の奥で輪になって踊っているのだろう。
そう思うと不思議な高揚感に小さく足踏みしたくなってしまい、ネアは、手の中の三つ編みをぎゅっと握り締める。
今年はまだ外に出ていないので、夏至祭の空気に触れていない。
だが、不思議なくらいに騒つく胸の奥に、見た事のない色に包まれた森を見てみたいという不思議な欲がちりりと揺れる。
「…………ふぁ、………く、鯨さんらしきものが!」
「うん。あれが夏至鯨だよ。妖精だから羽があるだろう?」
「………こうしてお家の中から見ていると、きらきらで綺麗なのですね」
空の上を、悠然と泳ぐ大きな影がある。
しかしそれは、実体化した鯨が泳いでいるというよりも、細やかな光の粒子が鯨の形になっているだとか、硝子細工の鯨を空に浮かべたとでも言った方が良さそうな儚さであった。
暗い青色の光の粉を纏い、そんな生き物はゆっくり、ゆっくりと空を泳いでゆく。
大きな妖精の羽はまるで船のオールのように動き、どこか船を思わせた。
窓に手を当ててそんな光景をじっと見つめていると、ふと、森の向こうに誰かがいたような気がして目を瞠る。
しかし、ほんの一瞬視線が重なったような気がした何かは、怯えたようにさっと木の向こうに隠れてしまった。
(ああ、私が怖かったのかな………)
なぜか自然にそう考えてしまい、ネアは眉を顰めた。
振り返ってディノの方を見ると、理由など告げずとも全てを理解したようにディノが淡く微笑む。
「うん。君は、私のものだからね」
「そうして、今日は私を守ってくれているのですね」
「だから、あちらを見るのはもういいかな」
「………む?…………は!巨大な狼さんです!!」
「狼なんて………」
「わーお。なんか見付けたみたいだぞ」
「おい、夏至狼なんぞに目をつけられるなよ?」
「おのれ、悪い魔物に目隠しをされました………」
歩み寄った使い魔に後ろから目隠しされてしまい、その掌の向こうの暗闇で、ふと考える。
ディノの資質を貰っていてもこの胸の騒めきなのだから、もし、そのままの自分で今日を過ごしていたらどうだったのだろう。
考えかけてやめたのは、なぜだか、その答えを知ってしまう事が恐ろしい事のような気がしたからだ。
何しろ、夏至祭の行列が現れるのは、これからなのだ。




