154. 雨の夏至祭が始まります(本編)
薄くけぶるような朝霧の中を、軽やかに走ってゆく牡鹿を見たような気がした。
ざあっと降り始めた雨音に、初めて雨の夏至祭を迎えたネアは目を瞬く。
(雨……………?)
まだ眠くて目がきちんと開かないが、とは言え、どこかひやりとするような美しい音楽が聴こえてくるのは昨年までと変わらない。
(…………雨音が、少し激しくなってきたような気がする)
そう考え、まだすやすやと眠っている伴侶の腕の中から顔を出せば、二人分の体温で温まった体がひんやりとした外気に触れる。
窓の外はうっとりするような青と緑の滲んだ美しい夏色がかった灰色で、その奥行き深い色彩に心が揺らぎ、意識がどこかに吸い込まれそうな不思議な陶酔感を覚えた。
雨音は、物語のある音楽だ。
だからネアは、そうして心の奥の柔らかな部分を掻き毟る雨音がずっと恐ろしくて恋しかったし、こちらの世界に来て大事な人達を得てからは、ただその響きを音楽のように愛せるようになった。
暫くの間、夏至祭だからと引き込まれ過ぎないよう注意を払いながら雨音とその向こうから聴こえてくる音楽に耳を傾けていると、隣に寝ていたディノが瞼を震わせてからぱちりと目を開く。
「……………ネアが逃げた」
「まぁ、お隣にいますよ。今日は夏至祭なのに、雨なのですね」
「……………雨なのかい?」
ぎくりとしたように顔を上げたディノに、ネアは、目を瞬いた。
もし、その眼差しに不穏な何かの気配や予感を覚える一瞬があるとしたら、それは、見慣れてしまった伴侶の瞳に映る動揺が確かに見えたからだろうか。
「ええ。雨脚が強くなってきたようですが…………問題があるのですか?」
「エーダリア達から連絡は入っていないね。…………既に、雨封じの儀式を行っているのかもしれない。ネア、今朝は早めに支度を済ませておいた方がいいと思うよ」
「で、では、顔を洗ったり着替えたりしてしまうので、その合間に理由を教えて下さい」
「うん。そうしよう」
こんな時、理由を先に強請って時間を無駄にするよりは、まずは支度を済ませてしまった方がいい。
何しろディノが、早めに支度を済ませておいた方がいいと言うのだ。
無駄にしてしまった時間のせいで支度が間に合わないという悲劇を防ぐのも、良い淑女の嗜みである。
わさわさと立ち上がり浴室に向かうと、雨の日特有のひんやりとした青白い影の中を歩いた。
窓辺の花瓶に生けられた白ピンク色の薔薇は、夏至祭の魔術の恩恵を受けて輝くような花を咲かせている。
雨の向こうに何やら大きな影が落ちたような気がしたが、何はともあれ、今は身支度を急ごう。
蛇口を捻れば、今年もまた夏至祭らしく輝くような水が流れ出すのは変わらない。
両手で受けて顔を洗えば、胸の奥までを染め上げるような花と果実の香りがした。
(わ、いい匂い!昔、ディノのイブメリアのカードの為に作った香りに似ているかも………)
昨年までは花と森の香りであったので少しおやっと思いながらも、今日ばかりは、そんな夏至祭の香りと冷たい水を楽しみながら顔を洗ってしまう。
余談だが、ネアは、魔術効果を含んだ洗顔石鹸の泡切れの良さから普段はぬるま湯で顔を洗っているのだが、時折きりりと冷たい水で顔を洗いたくなる。
夏至祭の朝も、そんな日の一つだ。
「天候の調整で防げない夏至祭の雨天は、夏至の行列の来訪の前触れなんだ。このまま雨がやまないようであれば、今年の夏至祭は例年とは違う儀式になるだろう」
「………それは、良くない事なのですか?」
「凶兆や災いではないから、安心していいよ。ただ、街が雨に沈むと祝祭の過ごし方や作法が変わるから、エーダリア達は大変だとは思うよ」
「雨に沈む……………」
それは水害的な物だろうかと慄いたネアだったが、気象性の悪夢に似た原理であるらしい。
とは言え魔術の理を聞いてもあまり理解出来ないネアに、ディノは、街が水の底に沈むような色に染まるのだと教えてくれた。
「……………ネアが虐待する」
「むぅ。お隣でばばっと着替えただけですよ。……ディノ、その場合は、窓や扉を開けるとお家の中が水浸しになったりもするのですか?」
「幻影のようなもので、実際に水で満たされている訳ではないんだ。降っている雨に濡れる以外の面では、水に濡れる危険はないものだと考えておくれ。ただし、鯨も現れるからそのような意味での危険は大きくなるね」
(…………ウィームが、水に沈むような幻影で満たされる)
不謹慎かもしれないが、ネアはそんな景色を見てみたいと思ってしまった。
きっと、幻想的で美しいのは間違いないし、その中を歩くとどうなるのかを、是非に見てみたい。
おとぎ話の中の憧れの展開ではないかと、邪な人間は少しはぁはぁしてしまい、慌てて首を振った。
「鯨さんは、以前に影を見た大きなものですよね?」
「この日に現れるのは、夏至鯨と呼ばれる特殊な個体なんだ。君が遭遇したものとあまり変わらないけれど、今回のものは妖精種で、尚且つ終焉の系譜にあたる」
「となると、ウィリアムさんはもしや……………」
「他の土地で鳥籠が必要かどうかにもよるけれど、可能であれば、こちらに顔を出す事になるだろうね。雨の夏至祭で死んだ者達は、種族に関わりなく夏至鯨に食べられて夏至の国に連れ去られてしまうらしい。ウィリアムは、その管理をするんだ」
「まぁ、夏至の国というところがあるのですね」
「夏至祭の怪物の一部のもの達は、そこに住んでいると言われているね。魔物でも、夏に属する高位の者しか立ち入れないあわいの国の一つだ。君の親しくしている者の中では、ウィリアムとヨシュアだけが入る事が出来る。終わらない祝祭の街らしく抗い難い程に美しく豊かな土地だけれど、悍ましい歪みもある国だから、君は迷い込まないようにしよう」
「ぞくりとしましたので、絶対に迷い込みません!ただでさえ、夏の系譜の方々には受けが悪いのです……………」
夏至の行列がどんなものかと言えば、冬夜の行列に近しいものだという。
これもまた危険な美しさに違いなく、ネアは、冬夜の行列に見惚れた日の事を思い出した。
あの時に感じた引き込まれそうな美しさを思い返せば、今日は、ディノから離れないようにしていた方が良さそうだ。
「……………むむ?」
ここで差し出されたのは、一輪の小さな薔薇である。
薔薇の祝祭でディノから貰う薔薇に似た、白に真珠色の色味が入った美しいものだ。
ネアが、これをどこかに飾るのかなと見上げると、窓を背にして青い影に沈んだディノの水紺色の瞳が、じっとこちらを見る。
何度も見つめてきたこの瞳だが、今日はまたいっそうにちらちらと祝福の光が弾けるような美しさがあり、ネアは思わずじっと見てしまった。
「ネア、これを食べておいてくれるかい?ごめんね、夏至祭の形に対応させる為には、花にするしかなかったんだ」
「まぁ、こんなに綺麗なものを、ぱくりと食べてしまってもいいのですね。………では、まずは先にいただいてしまいます!」
こくりと頷いたディノに、薔薇を一口でぱくりと頬張ったネアは、思っていたような生花の苦みがなく、砂糖菓子のような不思議な甘みに目を丸くした。
じゅわりと滲む瑞々しい味わいは、どこか青林檎にも似ている。
「……………あぐ。おいしいれふ」
「夏至祭の国に攫われてしまうと、危ういからね。君の人間としての質を少し書き換える事にはなるけれど、今日限りの事だから我慢しておくれ」
「もしかして、以前にノアにちょっぴり魔物さんにして貰った時のようになるのです?」
「うん。それに近い状態だと思っていい。私の質を与えたので、今日ばかりは私の系譜や資質に引き摺られ易くなる。普段であればそれも避けるのだけれど、祝祭の魔術に抗う術はあまり多くないんだ」
悲しそうにそう告げた魔物は、ネアを書き換えてしまうという行為そのものが苦手のようだ
しょんぼりとしてしまったディノの髪をさりさりとブラシで梳いてやりながら、ネアは、特別に体が熱くなったりはしないのだなと首を傾げた。
「……………何か、不調があるかい?」
「いえ、寧ろ何もないので、これでいいのかなと思っていました」
「君には指輪を馴染ませてきたからね、反応がないのであれば、その方がいい。私の資質を受けた事で、不得手になるものもあるだろう。何か違和感を覚えたら、教えてくれるかい?」
「はい。そうしますね。さて、ディノも髪の毛を編んでしまいましょうか」
「うん」
そうして、目元を染めた魔物の髪の毛を丁寧に梳かしてやった後、編み上がった綺麗な三つ編みにリボンを結び終わったところで、アルテアが部屋に来た。
白青色という珍しい色合いのスリーピース姿は、この青く染まった夏至祭の影に溶け込むよう。
だからこそ、光るような赤紫色の瞳がどきりとする程に鮮明になる。
僅かに前髪を上げているのはお洒落ではなく、作業をしていた名残りのようだ。
「シルハーンの資質を取り込んだか。その方がいいだろうな。いいか、今日はどんな毛皮の生き物がいようが、ほいほい付いていくなよ」
「はい。ディノから、夏至祭の国とやらがとても危ういのだと聞いているので、どれだけもふふわな獣さんがいても、アルテアさんな白けものさんを後で撫でさせて貰うのだと思って我慢しますね」
「なんでだよ」
「最近あまり会えない白けものさんなので、お腹の柔らかい毛をなでなでします」
「………やめろ」
顔を顰めて一蹴されてしまったが、ネアは、とは言えその前提で進めさせていただこうと厳めしく頷いた。
やはり雨の夏至祭であることが問題視されているようで、アルテアは、そのままディノと情報の共有に入った。
ネアには話が専門的過ぎて分からないが、どうやら、魔術的な座標の変化などについて話し合っているようだ。
(………エーダリア様達からは、まだ連絡がないな。何か手伝える事があるといいのだけれど…………)
鳴らない部屋の通信端末を見て、そんな事を考える。
街が水に沈んでしまうのなら、恋人達の夏至祭のダンスはどうなるのだろう。
攫われてしまう危険はあるが、踊り切った恋人達は夏至祭の祝福を手に入れる事が出来る。
何某かの事情があり、今年に賭けているような恋人達がいないとも限らない。
(幻影だと言う事なら、浮力などの問題もないのかもしれない。湖や川からお魚が出てきてしまったりも、しないのかな……………)
水辺で焚く、妖精除けの篝火はどうなるのだろう。
妖精達にとって夏至祭は恋の日でもあるが、現れる妖精に変化があるならば、あの踊り狂いの精霊は現れないのだろうか。
「ノアベルトとは話をしてきたが、エーダリア達は、雨除けの儀式の結果を見て、そのまま夏至祭の朝の儀式に出ているので暫くは戻らないぞ。お前は、そろそろ朝食を食べておいた方がいいんじゃないか?」
「なぬ。支度を整えて、すっかりエーダリア様からの連絡待ちでいました。ディノ、まだいつもの時間よりは早いですが、朝食をいただけそうですか?」
「うん。食べてしまおうか。ネア、今年は夏至祭の朝露は集められないけれど、運が良ければ鯨の涙を拾えるかもしれないよ」
「まぁ、何だか素敵な響きです!鯨さんが泣いてしまうのです?」
あれこれと考えていたせいで、表情が硬く見えたのだろう。
ディノは、しょんぼりしているご主人様を慰めようと、鯨の涙について教えてくれた。
ここで言う鯨の涙は、鯨が落とす夏至祭の祝福結晶のことなのだそうだ。
残念ながらネアは、保有するには相性が良くないが、美しい萌黄色の雫型の結晶石はカットされた宝石のようにきらきら光るらしい。
アクスに持ち込めば高値になるのは勿論の事、エーダリア達に渡しても使い道は多いと聞けば、断然後者ではないか。
(であれば、是非に拾ってエーダリア様にあげたいな……………)
「君は、収穫の祝福を持っているからね。出会う可能性は、他の者達よりも高いだろう」
「ふふ。では、見付けたらすかさず拾いますね」
「うん。今日は、あまり君を外に出したくないのだけれど、夏至祭の行列が来てる時には、外に出る必要があるんだ。冬夜の行列とは違い、彼等は讃えられるのを好むから、せめて一度は外に出ないと、障りを受ける可能性もある」
「……………なぬ」
その場合、例えば病気で臥せっている人や、仕事で屋内にいる人はどうなるのだろう。
そう考えたネアが、おのれ夏至祭の行列めとわなわなしていると、呆れたような顔をしたアルテアがこちらを見る。
「条件指定で、病人や手を離せない仕事をしている者は除外される。病人や怪我人は、行列にとっても終焉を呼び込みかねない穢れになるし、夏至祭に、手仕事などの完成が損なわれて成就の魔術が傷付くのもあまり好まれないからな」
「ふむ。ある程度きちんと考えられているようですね………」
「ったく、青の賢者の隔離地の後は雨の夏至祭か。次から次へと……………」
「なぜ、私がしでかしたかのように見るのだ。どちらも貰い事故ではないですか。そもそも、後者は自然気象が相手なのです」
「雨回りのものは、狩ってないだろうな?」
「ディノ、アルテアさんが無実の罪を着せようとするのです……………」
「可哀想に。夏至祭が明けたら叱っておくよ」
会食堂に向かう為に扉を開けば、部屋の向こうの廊下にも窓からの雨影が落ちていた。
(…………あ、)
その青い影の中には、窓の向こうには見えない筈の奇妙な生き物の影が幾つも蠢いていて、ネアは、思わず部屋の中に後退ってしまう。
慌ててディノとアルテアの腕を掴んでしっかり間に挟まれば、魔物達が驚いたようにこちらを見るではないか。
「………まさか、雨影の怪物たちが見えるのか?」
「ぎゅむ………」
「私の資質を取り込んだ事で、見えるようになってしまったのかもしれないね」
「…………壁に映っている翼のある方は、雨降らしさんでしょうか?」
「いや、夏至祭の報せ鳥と呼ばれる者だ。雨天の時に現れる、夏至祭の行列の予兆の一つだね。あれは、すぐにいなくなってしまうよ」
「あの、弾み歩きをしている毛むくじゃら猫さんのようなものは…………」
「夏至騙しだ。金属加工をする工房勤めの者以外の前で実体化する事は滅多にないが、鉄製品を持っている場合は盗みに来る事もある。持ってないな?」
「ふぁい。…………そして、にょろにょろしたやつがいます」
「夏至蝕の竜だね。蝕というのは、君に辛い思いをさせた蝕と同じ意味の言葉を当てているけれど、夏至を欠けさせるという意味で使われている。とても獰猛な竜で夏至を齧ってしまうけれど、さして知能はないから、企みから他の生き物を傷付けるような事はしないものだ。ただし、先程話した鯨の涙を手に持っていると、食べようとして集まって来てしまうから、鯨の涙を拾ったら、私から離れないようにするんだよ」
「ふぁい………。影だけだと完全ににょろにょろするばかりなので、あまり近付きたくありません………」
(……………なんて奇妙な影なのだろう)
これが、普段は見えていないこの世界の様子なのだろうかと呆然としながら、ネアは、そろりと片足を踏み出した。
見慣れない生き物の影に触れてしまいそうでびくびくしていると、アルテアの手がどしんと頭の上に載せられる。
「ぐるる……………」
「触れても支障はないから安心しろ」
「この道中で心を損なったら、白けものさんと一緒に寝てもいいですか?」
「何でだよ」
「アルテアなんて……………」
「ディノは、会食堂に着く迄の間、ぎゅっと手を繋いで下さいね」
「……………甘えてくる」
「少し歩けば、こちらの気配に気付いて姿を消すだろ」
「まぁ。という事は、アルテアさんが先行して廊下をばびゅんと走ってくれれば、あの影を蹴散らせるのでしょうか?」
「やらんぞ。そもそも、何で走る必要があるんだよ。……………今回の天候変異の理由が分かったようだな」
ここで、胸ポケットから小さな革装丁の手帳を取り出したアルテアが、うんざりしたように溜め息を吐いた。
どうやらその手帳はネアのカードのような仕組みになっているらしく、じっと見ていると、仕事用だから覗き込むなと指先でおでこを弾かれる。
「……………むぐる」
「シルハーン、今回の雨は、夏至の要素が転んだせいだ。込み入った理由はないと見ていいだろうな」
「雨に不穏な気配がなかったのは、それでだったのだね。ネア、ウィリアムのカードには、ソルスティスが転んだだけだと書いてあげてくれるかい?」
「はい、では早速書いておきますね。ソルスティスというのは、どなたかのお名前ですか?」
「うん。夏至の魔物の名前だよ」
「……………夏至の魔物さん」
ネアは、そう言えば夏至にも、グレイシアのような、祝祭の運行を司る魔物がいたことを、久し振りに思い出した。
聞いた話では、ストレスに弱くあまり精神が頑丈ではなかったような気がするので、転んだと言うのは隠語で、その魔物が何か騒ぎを起こしてしまったのかもしれない。
「ソルスティスさんは、またお腹が痛くなってしまったのです?」
「言葉通りだ。転んで気を失っていたらしい」
「………思っていたよりも素朴な理由に、驚きを禁じ得ません」
「ソルスティスは、よく転んだり落ちたりするんだ。ここ数年は聞かなかったけれど、今年は、夏至祭の日に転んでしまったようだね……………」
「うっかりが過ぎるのだ……………」
魔物達にとっては、この夏至の魔物のうっかりは慣れたものであるらしい。
加えて今回は、夏至に入ってからの事故であるので、幸いにも夏至が遅れるような事態を避けられており、影響としては少なく済んだのだそうだ。
これがもし夏至祭の前日までに起こると、夏至祭が後ろ倒しになるというかなり厄介な事態になる。
その場合、最も被害を被るのは人間なのだそうだ。
どちらかと言えば儀式的な趣が強く、恩恵の方が大きいイブメリアと違い、夏至祭は、人間にとっては大きな危険も孕む季節の境界となる祝祭だ。
だからこそ、妖精除けの魔術が延期された夏至祭の日まで維持出来るのかどうかによっては余分な出費になりかねないし、夏至祭用に書き換えた扉の施錠魔術などは、大抵の場合はそこまでの持続性がないので、もう一度再構築しなければならない。
金銭的な被害も勿論だが、夏至祭の日の変更によって夏が短くなれば、夏の系譜が力を弱め収穫にも響く。
また、あちこちの魔術の切り替えが行われる事で土地の守りに隙が生じる事も少なくなく、結果として様々な危険を高めてしまうのだった。
「因みに、雨の夏至祭では食べられる食事が変わってくる。…………ああ、リーエンベルクではやはり用意してあったか」
「まぁ、美味しそうなヨーグルトと果物です。後はチーズと焼き立てのブルーベリーのパンでしょうか」
アルテア曰く、雨の夏至祭には親和性の高い食事があるのだそうだ。
特に、体を祝祭の魔術に馴染ませなくてはならない時間帯の朝食は、このように、酸味のある食べ物や果実類などを多く摂るのがいいそうだ。
白い陶器のボウルに入ったヨーグルトには、彩りも美しい果物がふんだんに入っていた。
お好みで蜂蜜や粉砂糖、花蜜などをかけて食べると、食事と名の付くものには塩っけのある物が必須なネアでも大満足な爽やかな朝食を演出してくれる。
とは言え、表面をこんがりと焼いたブルーベリーパンにバターを載せ、とろりとしたチーズといただくのも必須の作業である。
勿論サラダなども一緒に食べて構わないのだが、リーエンベルクでは、酸味をしっかり補う為に、ヨーグルトボウルがしっかりした大きさで出るのでと、サラダは必要であればオーダーする形式になっていた。
「ディノ、…………窓の外が青く青くなってきましたね。昨日の夕暮れも素敵でしたが、また色相の違う青い色です」
「ああ、雨の色が落ち始めたね。雨除けを断念して、このまま雨の夏至祭で進める事になったのだろう」
「そして、窓にへばりついてこちらを見ている毛玉さん達が、その境界線のところにいるので視覚的に不安な気持ちになりますね」
「………あれは、毛玉なのかな?」
「よく見ると、耳もあるような気がしますので、にゃーん的な………」
「にゃーん的…………」
「うむ。白けものさんのお仲間ですね」
「そんな訳ないだろうが。やめろ」
その後の時間は、暫し穏やかであった。
だが、普段通りの会話をしていても、ネアの心の中にはほんの少しのさざ波が立っていた。
ここは脆弱な人間らしい感性で、やはり、視界が水に沈むという感覚に慣れないのだ。
窓の向こう見えるたぷんと揺れる雨の色との境目が上がってくれば、ついつい爪先をそっと床から持ち上げてしまい小さく苦笑していると、森の向こうに大きな帆船が見えた。
(綺麗な船だわ………)
白い白い帆を張り、まるで強い風に逆らうようにして波に乗る様子は、ここではないどこかを見ているようで目を丸くしてしまう。
夏至祭と言えば、花びらが舞い散り、花輪の塔の周囲で恋人たちがダンスを踊る、奇妙で美しい妖精達が主役の祝祭だ。
それなのに今日は、見た事がないものばかりを見ているような気がする。
(…………でもそうか、水面が見えて鯨も泳ぐのであれば、船がいても不思議ではないのかもしれない)
「ディノ、あの帆船は大きいですね」
「…………船が見えたのかい?」
「ええ。白い帆を張った大きな帆船でした。………アルテアさん?」
「くそ、夏至狩りだな。……シルハーン、そちらは俺が引き受ける」
「うん。では任せていいかい?君かノアベルトが戻ってくるまでは、この子を外に出さないようにするよ」
「ああ。幸い、花輪の塔の魔術遮蔽は終わったようだな。あの維持さえ出来れば、そうそうおかしな事にはならないだろう」
「やはり、エーダリアは儀式の御し方が上手いね」
「エーダリア様が、儀式を終えられたのですね。………なお、お外に何かをしに行くアルテアさんは、きりん箱などは持っていかれますか?激辛香辛料油も沢山の備蓄がありますが………」
既に見えなくなっているが、ネアが見付けた帆船は、何か厄介な物なのかもしれない。
そう考えて提案したのだが、なぜかアルテアは嫌そうに顔を顰めるではないか。
「いらん。どんな要素に響くか分からないからな、今日は、その獣に関する物は絶対に出すなよ」
「むぅ。きりんさんは禁止なのですね…………」
「シルハーン、船の積み荷如何によっては、この土地の守護を削るかもしれないぞ」
「その場合は、声をかけてくれれば一時的に守護を下げるよ。その方が、君も手間がかからないだろう」
(…………ああ、分からないことばかりだ)
そんな会話をすると、アルテアは外に出て行ってしまった。
あの帆船を沈めるつもりなのは間違いないが、それにしても、どのような物だったのだろうと首を傾げる。
心配になったものの、手間はかかるが危険な作業ではないと言うが、それでいて沈める必要があるのだから、何かの前触れや印だったりするのだろうか。
「ディノ、あの船は怖いものなのです?」
「ごめんね、ネア。魔術に触れるといけないから、あまり詳しくは言えないんだ。ただ、私達はその顕現に気付き難いものだから、君が気付いてくれて良かった」
「今日の私はまだ、美味しい朝食を食べただけで何のお役にも立てていなかったので、ここで少しでも活躍出来て良かったです!」
「爪先を踏むかい?」
「解せぬ」
やがて、朝の儀式を終えてくしゃくしゃになって戻ってきたエーダリア達は、ネアから帆船がいたと聞いて顔色を変えたが、ディノが、既にアルテアが沈めに行っていると話すと安堵の表情を浮かべた。
どんなものに似ているのか、どんなものなのか、そのどちらも話せないのは、ネアが、あの船の標的となり得る資格を持つ人間であるからなのだそうだ。
雨の夏至祭では、街や国が雨に沈む迄の間に、大きな波が立つ事がある。
あのような船は、そんな時にどこか遠くから流されてくるものらしいと聞けば、ネアは、そう言えばあの船は異国のものに思えたなと今更に気付いた。
海繋がりで漂流物という物の事を思い出したが、そちらとは無縁の、季節の境界を彷徨えるものの一つなのだそうだ。
「花輪の塔の下に花びらが沈むまで、随分時間がかかったのは、そういう事かぁ………」
「船が来ているのであれば、小さな妖精達は怯えるでしょうね。やれやれ、まさか帆船まで現れるとは、ネア様に気付いていただけて幸いでした」
「ああ。やっと、夏至祭の儀式関連の調整が終わったばかりだったのだ。これで、船の対応までしていたら、こちらは兎も角、人手の少ない土地では、魔術師達が疲弊してしまい事故に繋がりかねない」
ぐったりと椅子に座りながら、そんな話をしているエーダリア達から、ネアは窓辺に視線を戻した。
小さな妖精達は船の気配に怯える筈なのに、そこには、相変わらず窓にへばりついて、今度はエーダリア達の朝食をじっと凝視している猫耳毛玉達がいる。
何か分けて欲しくてびょんびょん弾んでいる毛玉妖精に、ネアは、食欲というものは恐怖に打ち勝つ要素なのだなと神妙な面持ちで頷いたのであった。




