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マリエルダ




復活祭の日は、マリエルダにとって特別な日であった。


朝早くから起き出して顔を洗い、夜明けの光に足元に落ちた自分の影を見付けると、たしたしと踏んでみる。


一年の内に何度かある死者の日には、こうしていつも自分の影がおかしな事になっていないかを確認して満足してから、マリエルダは、喜び勇んで森に向かった。



森の深くにあるこの家の周囲は、ほんの僅かに切り開かれた森番の土地だ。

人間の集落から隔絶されて森に住むこの家の住人は、土地の約定により、森の妖精や精霊達に傷付けられる事はないと言う。


では森番が何をするのかと言えば、深い深い森の中でひっそりと暮らし、森の奥深くに暮らす人ならざる者達からの伝言を、時折、近くの集落の者達に伝えにゆけばいい。

そんな、ちょっとした森の伝言板のような役割を担い、マリエルダは今日もこの家に暮らしている。


冬になれば雪に閉ざされるこの地での暮らしは決して楽ではなかったが、そろそろマリエルダもここでの暮らしに慣れてきた頃合いだ。

今ではもう、魔術を使って斧を振り上げると綺麗に薪割りが出来るし、井戸から水を汲むコツも掴んでいる。


ここで暮らしてきた日々が与えてくれた最も大切な贈り物は、森のどのあたりに森杏の木があって、どんな倒木の影に美味しいキノコが生えるかを知った事だろう。


何しろマリエルダは、ここで生きていかなければならなかった。

例えそう遠くない内に殺されるのだとしても、それでも、最後まで希望を持って生き延びなければならなかった。

それなら、より良い生活の為に美味しい物を手に入れる為の知識はこの上ない財産と言えよう。



「……………ただいま」


扉の前で靴の泥を落とし、念の為に沼の魔物避けの鈴を鳴らして、靴跡が盗まれていないか確認する。

万が一沼の魔物の災いを招き入れても、一人暮らしのマリエルダの家からは何も持ち去れなかったが、靴跡を盗まれた者を食べる事は出来ない沼の魔物は、そうなると怒って家を泥だらけにしてしまう。


以前にやられた時にあまりの悪臭に鼻が曲がりそうになったので、マリエルダは、あの魔物を、もう二度とこの家に招き入れるつもりはなかった。



(あ、テーブルがまた鉱石質になってきた………)


がらんとした食卓はくすんだメランジェ色の木のテーブルで、毎朝朝露で磨いていたからか、最近は少し結晶化が進んだようだ。

けれども、招く人もいない小さな家で、その変化に目を輝かせたのはマリエルダだけで、そっと指先でざらりとしたテーブルを撫でる。


こんなテーブルで居眠りしたら素敵だろうとにんまり笑うと、雨が降るであろう明日は、温かな紅茶を煎れてこのテーブルで心ゆくまで居眠りしようと考えた。


どうせ、時間はたっぷりあるのだ。

人生として残された時間は短いものの、その日までの間に、マリエルダにしなければいけない事はない。



「摘みたての黒スグリに森杏、今日はバターも残っているから、パラチンケンにしようかな」



朝食用の収穫に出ていた森から帰った後は、たっぷりと甘い果実や薬草の入った籠をテーブルの上に置く。

そうして、まずは、予め濡らして固く絞ってあった布巾で、赤く染まった指先をしっかりと拭くのだ。


これは、流水で洗っても簡単には取れない爪の間の果汁の染みをしっかりと綺麗にする為の一手間で、これをするのとしないのとでは全く違うので、忘れないように、出かける前に布巾を濡らしておくようにしている。


それが終わると、今度は洗い場に持っていった果実をざっと汲み上げたばかりの冷たい井戸水で洗う。

こちらも大事な手順で、森の系譜の魔術を帯びている収穫を、人間のお腹に入ってもいいように浄化するらしい。


それが正しい事なのかどうかを、マリエルダは知らないが、ここに移り住んだ時に乳母からそう教えられ、それ以降は必ずそうしていた。

伝わる作法には理由があり、どんな風習にもそれを必要とする背景がある。

少し大人になったマリエルダは、汚れた布巾の浸け置き洗いが出来るし、そんな世界の理について考える事も出来るようになった。



「だって、あれだけ痛い目に遭ったのだもの。私だって懲りるわ」



だからこそ今日は特別な日なのだ。

いや寧ろ、今日は数少ないこの運命を跳ね除けられるかもしれない日と言ってもいい。


残念ながら鼻歌を歌う事は出来なくなったが、冷たい水を浴びた赤い実が木製のボウルの中できらきらと光り、思わずその中の一つに手を伸ばす。

瑞々しい赤い果実を口に放り込み、その森苺の甘酸っぱさに頬を緩めながら、用意しておいた青い小皿に三つの森杏を載せると、そっと森向きの窓辺に置いた。



「森の恵みを貰う度に、こうしてお供え物はしているけれど、本当に誰かが私に守護をくれるのかしら」


そう呟きつつも唇の端を持ち上げるのは毎朝の事で、二年前に一緒に暮らしていた乳母が亡くなってからはずっと、朝の収穫の時や食事の時には笑うようにしていた。



(だってもう、一人ぼっちなのだもの)



乳母が死んだその日からはもう、誰かが、マリエルダの為に、あなたの人生に幸運がありますようにと祈ってくれる事はなくなった。

であれば、こうして自分の為に笑顔を作り、この窓の向こうに続く深い森の主に、小さく愚かな願いをかける。



(どうか誰か。私に、死に至る呪いを退けるような祝福を頂戴……………)



祝福には相応しい受け入れ方があるのだと教えてくれた乳母は、元々、マリエルダの弟がある程度大きくなったところで、あの屋敷を離れてこの森に移り住むつもりだったらしい。


この森にはそれは美しい湖の妖精が住んでいて、その妖精からの伝言を受け取る日を楽しみに、老後をこの森で過ごすのだとよく話してくれた。



(それがまさか、こうして私にお役目が引き継がれているだなんて、誰も思わなかったでしょうね………)



何しろマリエルダは、そんな乳母の働いていたお屋敷の子爵家の娘であった。

音楽の才を祝福として持って生まれ、やがては楽聖となると言われた娘だ。

それなのに今はすべての音楽の才能を奪われ、こうして森の中で暮らしている。



目を閉じると浮かぶのは華やかなシャンデリアの下で踊ったデビュタントのダンスで、その時にマリエルダの手を取ってくれていたのは、幼馴染の伯爵令息であった。


あの日の音楽の素晴らしさは、今でも胸を震わせる。

そんな音楽の中で大好きな人と踊り、同じ歳の友人達とお喋りをしたり踊ったりして、もう一度大好きな幼馴染みと踊る。

あの輝かしい夜にマリエルダは恋をしていて、恐ろしい破滅のその瞬間までは、途方もなく幸せであった。



「…………馬鹿ね。もう何年も前の事だわ。彼にはもう奥様がいるし、きっと子供だって生まれているかもしれない」



込み上げてきた懐かしさをぽいと投げ捨て、マリエルダはもう一度微笑む。

今度の微笑みはだいぶ苦いものになってしまったが、これでも、かつての婚約者にまだ心を残している訳ではないのだ。


マリエルダが懐かしむのは、その夜まで続いた穏やかで優しい当たり前の日々で、その夜に永劫に失った、愛する人たちからの笑顔である。



あの夜、向こう見ずな子供は、素晴らしい夜に酔いしれて決して言ってはならなかった言葉を口にし、夜明け前までに着の身着のままザルツの街から放り出された。


こんな事になるだなんて知らなかったのだと泣いて縋っても、両親も兄たちも、誰も助けてはくれなかった。

あの舞踏会の会場にいた人々は皆冷たい目でこちらを見ていて、大好きだった幼馴染は、それまでエスコートしていたマリエルダの手を自分の腕から慎重に外すと、二度と振り返る事なくその場から立ち去った。


あの日の彼の後ろ姿を、血の気が引いてくらくらする頭を下げ、じっと見つめていた床石に映ったシャンデリアを、マリエルダは生涯忘れる事はないだろう。

古いおとぎ話だと思って軽い気持ちで触れてしまった禁忌に、その人生の全てを奪われたのだから。



かつてのマリエルダは、チェロ奏者だった。


その技量は素晴らしく、ザルツ伯爵ですら手を叩いて賛辞を贈ってくれたほどだ。

だが、使い慣れた大事な楽器は手放さねばならず、楽譜の一つを荷物に詰める事も許されなかった。

マリエルダは、その音楽こそを奪われたのだ。

とある高位の魔物が封じた忌まわしい言葉を口にしたその瞬間から、マリエルダの音楽は永劫に奪われ、こうして命すら脅かされている。



(あの言葉を口にしてしまったせいで………)



その言葉は、今でも心の中で思い浮かべるだけで、震えが止まらなくなる、恐ろしい言葉。

けれども、たったそれだけのことなのに。

でも、それだけの事が簡単に一人の人間の一生を滅茶苦茶にするのだ。

人ならざる者達は気紛れで、人間など容易く破滅させる事が出来る。


愚かにもそんな大事な事を忘れていたのは、マリエルダに他ならなかった。



マリエルダが生まれるずっと前にザルツに持ち込まれた、この大陸から遠く離れた島国で作曲された古い音楽が連れてきた災いは、その楽譜に記された音楽の神という題名から始まる。

その曲を演奏した音楽家たちが次々と不審な死を遂げ始めたのは、統一戦争の終戦後からだと言われていた。


楽譜を持ち帰った音楽家の呪いだとか、協定を拒み、無残に燃え落ちたウィーム王宮の王族達の呪いだとか、呪いの起源については様々な説があったようだ。

けれども、その曲を演奏した音楽家は死んでしまい、いつしかそれは、音楽の神の呪いと呼ばれるようになった。


ガーウィンから高名な聖職者を招き、楽譜に宿った災いを鎮めようとしたのは、当時のザルツ伯だと言われている。

そして、災いは封じられるどころか、より悍ましい高位の魔物を呼び寄せてしまったのだ。



(…………あの、青だけど青じゃない、暗闇で光るような恐ろしい目)



マリエルダの前にも現れ、禁忌を破った子供の両手から音楽を取り上げた魔物は、その災い封じの儀式の日に、初めてザルツに姿を現したという。


儀式に参加した全ての者達が殺されてしまったその日に、ザルツとその魔物にどんな約定が結ばれたものか、ザルツではそれ以降、“音楽の神の呪い”という言葉を口にする事が禁じられるようになった。



元より、音楽の神という表現はこの大陸ではあまり馴染みのない言葉だったが、他ならぬザルツは音楽の都である。

どんな楽譜であろうと、そこに音楽がある限り弾いてみたいと願うザルツ人は多く、結果として、禁忌に触れて姿を消した者も多いという。


だからこそ、親達は子供に禁じられた言葉を口にしてはならないと言い含める。

音楽院でも、その言葉は禁忌として教本にそっと記されていた。


マリエルダも例に漏れず、口にしてはならない禁忌の文言は、音楽院に入る前のもっと小さな子供の頃から聞いていたのだ。

しかしそれは、大人たちが、中途半端な気持ちで生業を投げ出す子供を戒めようと作り上げた創作の物語だとばかり思っていた。


ただ、大事な音楽を呪うような言葉を口にしてはならないという、己への戒めを示す、それだけの事だと思っていたのだ。



『音楽の神に呪われたっていいわ。私は、今夜の舞踏会で最後まで踊っていたいの』



もう、あの直前にどんな会話があったのかは覚えていない。


幼馴染が、大はしゃぎのマリエルダを窘めようと、そんなに踊っていると明日の練習で居眠りをしてしまうよと笑い、つんとそっぽを向いてみせたマリエルダは、わざとそんな言葉を口にした。


折角のデビュタントの夜だったのだ。

子供扱いされたようで悔しくて、知る限り一番刺激的な言葉を口にしただけ。

でも、それだけでもう、マリエルダの未来は取り返しがつかないくらいに、ずたぼろになってしまった。



(…………目を閉じると今でも、その靴音が聞こえるよう)



しんと静まり返った大広間で、真っ先にマリエルダを拒絶したのは、大好きな幼馴染であった。

背中を向けて立ち去ってゆく彼を茫然と見送るマリエルダは、悪意と恐怖の入り混じる囁き声に囲まれて立ち竦む。


そんな時にゆっくりと歩み寄って手を差し伸べてくれた美しい男性に、ほっとして笑顔を向けてしまったのは仕方のない事だろう。



『音楽家がその言葉を口にするのが、堪らなく不愉快でな』


けれども、手を預けた男性がそう微笑んだ時、マリエルダにも漸く分かった。


こうして目の前に立った男性が人間ではない何か恐ろしい者である事も、マリエルダを遠巻きにしている大広間のお客達は、あの言葉にこの災いを呼び込む力があるのだと知っていた事も。


だからこそ、大好きな幼馴染みは立ち去ったのだろう。


もうマリエルダが助からないと分かっていて、罪を犯していない自分がその死に巻き込まれる事のないように。

そしてその拒絶は、禁忌を敷いた高位の者への精一杯の礼儀であったのかもしれない。



『…………ごめんなさい。知らなかったの』

『知らないという事に、どんな意味があると思う?俺は今、お前がその言葉を呟いた事が不愉快だと言っただろう』

『ご、ごめんなさい。…………ごめんなさい!』



ダンスの始まりのように、その男に手を預けたまま、マリエルダはがたがたと震えた。

にいっと笑った男は、よく見ればぞっとするような極彩色の燕尾服を着ている。

怖くて顔が上げられないが、はっとするような奇妙な青い瞳に、紫がかった白い髪をしていなかっただろうか。


そう考えかけ、マリエルダは気を失いそうになった。

目の前に立ち、マリエルダの手を取っているこの男は、白持ちではないか。


あの教本にどんな注意書きがあったのかを必死に思い出そうとしたが、災いの形はそれが過ぎ去ると誰も覚えていないとしか書いてなかった。

恐らくこの人外者は、この地に自分の記憶をあまり鮮明に残したくはないのだろう。



『だが、お前ばかりが、本当のその呪いを知らないのも不公平だろう。まずは音楽を。そして最後にはその命を。そうしてゆっくりと苦しめて殺してやろう。砂糖にもシロップにもならない役立たずめ。お前の前に禁忌に触れた男は、せめて楽聖だった。畑に撒く砂糖になるくらいの才能はあったんだがな』

『ごめんなさい…………』

『懇願すれば救われるとでも?それとも、禁忌に触れた浅慮さで取りすがり、より惨たらしい死に方に変えてみるか』

『…………君の怒りは尤もだ。だが、その子は今夜のデビュタントなのだ。彼女が触れたのは、音楽の都の禁忌に他ならない。我々にとっても許し難い罪ではあるが、同時にデビュタントの夜は無礼講でもある。………どうか、この子に機会を与えてやってはくれないだろうか』


突然割り込んだその声にのろのろと顔を上げたマリエルダが見たのは、ふさふさとした黄金の鬣の美しいザルツの守護精霊であった。


そう言えば今夜は、新しい音楽の子供達に祝福を与える為に、この大精霊も会場に来ていたのだ。

これで助かるだろうかと期待にも似た思いが心の中で震えたが、預けたままの手が凍えるように冷たくなってゆくのを感じれば、最早手遅れだろうという気もする。



『…………ふむ。であれば、一つだけ条件を付けてやろう。もし、十年以内に、この呪いを解くだけの守護を与える者を、お前一人の力で得る事が出来たのなら、命だけは返してやろう。ただし、この地の者がお前に手を貸そうとすれば、その者にも災いが降りかかるだろう。家も家族も捨て、見知らぬ土地で自分の力で生きる事も条件だ』

『…………返して?』



不思議なその言葉に、思わずマリエルダは顔を上げてしまった。


けれどもそこにはもう、先程見た美しい男性の姿はなく、バルコニーに続く扉が、たった今誰かがそこから出て行ったばかりのように開いて、ばたばたと風に音を立てているだけ。

まるで悪夢のように消えてしまった災いに目を瞬き、自分の足元を見たマリエルダは、足元に伸びている筈の影がどこにも見当たらない事に気付いた。



あの時にマリエルダは、自分は今迄のようには生きられなくなったのだと理解した。


マリエルダを手助けすれば災いが降りかかる。

長く続いた家をそうして破滅させることを良しとせず、マリエルダの家族は、ザルツから追放される娘に声をかけたり、見送りに来たりはしてくれなかった。

その代わりに、乳母が予定していた退職をひと月早め、あの音楽の守護精霊と相談の上で一工夫して、この森番の仕事と住処を与えてくれたのだ。



(もしかすると、乳母を付けてくれたのは、お父様やお母様の精一杯の愛情だったかもしれない)


だが、最後まで誰一人として振り返らなかった家族を思えば、あれは、乳母が我が身を顧みずに与えてくれた深い愛情だったのかもしれない。


呪いに触れないようにと現地集合ではあったものの、この森で再会した乳母は、どのみち病で長くない身の上ですからねと笑って、愚かに呪われたマリエルダの傍に最後までいてくれた。


マリエルダはその時に初めて、子供の頃から屋敷にいてくれた乳母が、高齢になったからではなく、余命宣告を受けての退職であったことを知らされ驚いたものだ。


家族はなく、それでも最後は、故郷の森で森番として美しい妖精の姿を見ながら死にたいと思ったのだと言う。

だから、お嬢様と一緒に過ごした最後の日々は、こんなに楽しい事はありませんでしたと涙ながらに告げた乳母の手を握って泣いたのは、今日と同じような薄曇りの日のこと。


マリエルダはここで、最初は森番の同居人として見様見真似ながらも自分の力で自分の食べ物を手に入れる術を学び、乳母がいなくなってからは、人外者達との交流のある森番の仕事をしながら、あの呪いを退ける為の術を探し始めた。


乳母がこの森であればと思ったのは、多くの人外者達と関わる仕事だからだろう。

しかし、影を失い命を魔物に預けたままのマリエルダの異質さを警戒する者が多く、なかなか上手くいかない。


元より寂しい仕事なのだ。

乳母のように、死期を知り森の住人に魅せられた者か、或いは罪人の仕事であるのだから、マリエルダが多少呪われていても彼等は気にしないが、とは言え、そんな娘に大切な守護を与えようとした人外者もいなかった。



(でも今日は、死者の日で影を取り戻せているのだもの!!)


なぜだか、死者の日になると奪われていた筈の影が戻ると気付いたのは、いつからだろう。

そしてそんな間だけは、より異質さに敏感な小さな森の人外者達もマリエルダを忌避しなくなる。


であれば、こんな日しかないのだと思い、拳を握ってぴょんと飛び跳ねた時の事だった。

くすりと笑う声がして慌てて振り返ると、窓の外に、はっとするほどに美しい青い瞳をした男性が立っている。



(……………この人は、誰?)



ぽかんとしてそちらを見ているマリエルダに、彼は、窓辺に置いた小皿から我が物顔で森杏を手に取ると、ぱくりとその果実に噛み付き、ひらりと片手に持った白い封筒を振った。




「………ま、町へのご伝言ですか?」

「ああ。森の入り口付近で、疫病の災いの予兆が出ている。こちらに飛び火しても面倒だから、早々に災い除けをして貰わないとね」

「では、急ぎ町に伝えますね」

「いや、今日は復活祭だから、こんな日は一人で森を歩き回らない方がいいよ。届けるのは明日で構わない」



この人外者は、目の前の人間が、まさに今日、守護を求めて森を歩き回るつもりだとは知らないのだろう。

なのでそう言われたマリエルダは、僅かに眉を顰めてしまった。



「おや、不満足そうだね」

「…………い、いえ。個人的な事情なのです。自由に動けるのはこんな日しかありませんから、出来れば今日は森をうろうろしたいなと」

「…………君は死者なのかい?」


そう尋ねた男性に、マリエルダは目を丸くした。

森の生き物達は良くも悪くも繊細だ。

マリエルダの背負った呪いはもう、誰でも知るくらいに有名なものだと思っていた。

でなければ、道で行き合った見知らぬ妖精が、マリエルダを見るなり走って逃げたりはしないだろう。


「まぁ、もしかするとあなたは、私の事をご存知ではない方なのかもしれませんね。私は、とある人外者に命を握られているのです。その命が戻るのは、一年で数回の死者の日しかありません。ですから、この身にかけられた死に至る呪いを解くために奔走するには、死者の日しかないのです」

「ふうん。………もしかして君は、この森では有名なのかな」

「はい。普段の命の欠けた状態ですと、森の生き物達は私を怖がりますから。ただ、今日は普通の人間のままですので、どうかご安心下さい!」


マリエルダが慌ててそう言えば、男性はまた少し笑ったようだ。


「安心出来ないのは君の方ではないのかな?ここは深い森の中で、私はこの森の理には縛られない、別の土地から来た者だ。そうして君は今、普段の守りとなっている呪いが、今日ばかりは希薄になるのだと話してしまったようだね」

「………あなたは、悪い方なのですか?」

「さてどうだろう。だが、得てして妖精の作法は、人間にはあまり優しくはないだろうね。妖精に気に入られた場合は尚更だ」

「……………となると、あなたは、私を気に入ったのですか?」

「かもしれない。人間の身で、そこまで深い呪いを身に宿す者はあまりいない。それでいて君は、その無垢さが多少の愚かさに繋がりはするものの、こちらを警戒する事もままならない無垢な乙女のようだから」



もしかするとここでは、見目麗しい男性に興味を示されて頬を染めるべきなのかもしれない。

だがマリエルダは、そんな事を言われても困惑しかなかった。



「その、………早過ぎません?たった今お会いしたばかりだと思うのですが…………」

「妖精はそのようなものだよ。でなければ、夏至祭の乙女達をああも簡単に拐いはしないからね」

「………言われてみればそうかもしれません」


首を傾げて頷き、マリエルダは少しだけ考えた。

これはまさか、振って湧いたような展開とは言え、呪いを退ける為の好機なのではないだろうか。

そう考えると胸がどきどきして、ぎゅっと拳を握ってしまう。



「あなたに気に入られたと仮定すると、具体的にはどうなるのでしょう?私は、この呪いを退けるだけの守護を手に入れられたなら、呪いから逃げられるのです。有り体に言えば、そんな機会が得られるのなら何でも構わないのですが、そうなりますか?!」

「……………物怖じしないな」


少し呆れたような声に、マリエルダはぎくりとした。

何だか美しく高位そうな人だったのでつい前のめりになってしまったのだが、そもそも、何かを取り違えているような気がする。


「……………すみません、初めての好機だったので、つい」

「ふうん、初めてだったのか」

「死者の日になると、湖に押しかけて餌などを仕掛けてみたのですが、湖の妖精に出会う事も出来ませんでした。この森の方々はとても繊細で気難しいのですよ……………」

「気難しい云々ではなく、自分達を狩りに来る人間に会いたいとは思わないだろうな……………」

「美味しい杏のパウンドケーキや、チョコチップの入ったクッキーがあってもですか?」

「……………杏のパウンドケーキか」


マリエルダがそう言えば、なぜか青い瞳の男性は少しだけそわそわし始めた。

その様子にぴんときたマリエルダは、さり気無く他のお菓子についても言及する。


「なお、今日はこれから森苺のジャムを添えたクリームたっぷりのパラチンケンを作るつもりなのです。蜂蜜をかけたパンケーキと悩むところですが、どちらがこのお天気に合うでしょう」

「……………パラチンケンだろうな。クリームは生クリームなのだろう?」

「はい。牛を飼っておりますので。もし宜しければ、寄って行かれます?」

「……………食事を分け与える行為の意味は、分かっているのかな?」

「こちらも短期決戦しかない身の上なので、ある程度は覚悟済です。食後の紅茶と作り置きのクッキーもありますよ?」


にやりと笑ってしまわないように表情筋を何とか制御しつつ、マリエルダは巧みに誘いかけた。

すると青い瞳の妖精は、少しだけまたくすりと笑うと、では誘われようかと頷く。


(何だか良く分からない展開だけど、もうどうにでもなればいい……………!)


何しろ残された時間はあと二年しかなく、その中での死者の日は数える程しかない。

マリエルダには、ここで選り好みをしている時間などはなかった。



しかし、そんな自分の浅はかさに気付かされたのは、後に伴侶となったその妖精から、最初は食べてしまうつもりだったのだとけろりとした顔で告白されてからである。



「……………それはまさか、食材的な意味合いで?」

「そのまさかだよ。森番の家に変わった人間が住んでいると聞いて、珍味になるかなと思って見に行ったんだ」

「……………珍味」

「でも君は、私が気に入るような美味しい菓子を作れたし、話している内に本当に気に入ったからね。まずは連れ帰ってしまってから、非常食にするか、伴侶にするかを決めればいいと思って」

「……………非常食」

「そんな顔をしなくてもいいだろう。こうして君は死に至る呪いを退けられた訳だし、今は最愛の伴侶だからね」



なお、妖精には、取り換え子というなかなか興味深い手段がある。


これは勿論、取り換えられた妖精にとっては堪ったものではない方法だが、あの時のマリエルダにとっては選択肢などないに等しかった。

目の前の青い瞳の妖精が、ちょうどいらない子がいるんだよねと事も無げに笑ったので、申し訳ないが取り換えさせていただくと思った次第である。


なお、そうして取り換えられた妖精が、約束の日にどうなったのかは知らない。

あの人外者は、マリエルダの運命を背負う事になってしまった美しい妖精の乙女の命を奪ったのだろうか。

それとも、入れ替わりに気付き、立ち去っただろうか。



伴侶曰く、最も手早い転属である取り換え子になった事で、マリエルダにかけられた呪いは剥離しているとの事だった。


残念ながら既に奪われている音楽の才能が戻る事はなかったが、この伴侶は杏のパウンドケーキさえ作っておけば喜んでくれるので、音楽については諦めよう。

大好きな伴侶が満足気にしているとマリエルダも幸せなので、まぁいいかと思ったのだ。



因みにマリエルダの伴侶は、何と音楽の妖精である。


あの森へは古い友人を訪ねて来ていて、たまたまマリエルダの話を聞いて、美味しいおやつになるかどうかを確かめに来たのだった。


あれだけ親しんでいた音楽の系譜に、人間を食べる妖精がいたのは驚きであった。

とは言えこうして伴侶になっているのだから、もしかしたら、あの夜にマリエルダに生き延びる機会を与えてくれた音楽の守護精霊の結んだ縁なのかもしれない。


家族にはあの夜以降会っていないが、ザルツの音楽の守護精霊には、伴侶を通して無事に生き延びる事が出来たと礼状を送っておいた。


届いた返事はマリエルダが生き延びたことをたいそう喜んでくれていたが、マリエルダの伴侶とは、楽譜の解釈について永劫に分かり合えない仲なのだとか。



今日もマリエルダは、音楽の妖精の国に溢れる美しい音楽の中に心を委ねる。


それは、あのデビュタントの夜の音楽よりも麗しい、音楽の妖精の調べ。

ただ一つ残念な事があるとすれば、マリエルダの伴侶は指揮者なので、あまり自宅で楽器を演奏しないところだ。


とは言え今日も、マリエルダはそんな伴侶の為に杏のパウンドケーキを焼く。

この手に齎された最大の祝福は、乳母が教えてくれたこのお菓子のレシピだったのかもしれない。











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