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逃げ沼とお手入れ




「ふぇぐ。……………ふぇっく」



ネアはその時、リーエンベルクの外回廊で、一人悲しく嗚咽を堪えていた。

そして、無言で背後に歩み寄った誰かにひょいと持ち上げられたのだ。



「……………おい、何で逃げ沼に足を取られているんだよ」

「……………っく。アルテアさんです」

「シルハーンとウィリアムはどうしたんだ?」

「ふ、二人とも疲れ果てて寝ています。決して、私が逃げ沼に落ちたからではありません」

「……………という事は、これで二回目なのか?」

「……………黙秘権を行使します」



だがしかし、ネアが逃げ沼に落ちたのはこれで二度目であった。


このリーエンベルクに複数体の逃げ沼が現れているとは思えないので、恐らく同一個体ではないだろうか。

となると、同じ逃げ沼に立て続けに襲われている事になる。


そんな逃げ沼から助け出してくれた選択の魔物は、統括の魔物として動いていたからか、魔物らしく隙のない漆黒の装いだ。


しかし、逃げ沼に足を突っ込んだご主人様を運ばねばならないからか、魔術で帽子と杖、そして上着はどこかにしまってしまった。


「ったく。……………やれやれだな。足だけなら、すぐに終わるだろ。洗浄してやるから、キャルベリアと何を取り決めたのかを説明しろ」

「ふぁい。……………その前に、ディノに美味しいお水を飲ませてあげたいのです。逃げ沼の洗浄でくしゃくしゃになってしまったので、お水を飲んで貰おうとしたところ、もうお部屋のお水は飲み切ってしまっていたのでした……………ぎゅ」

「お前の部屋なら、通信端末で家事妖精を呼べるだろうが」

「……………逃げ沼洗浄でしたので、洗い場にしていいお部屋の浴室を借りていたんです。ディノとウィリアムさんは、そこで眠りに落ちたのですよ」

「………まさかとは思うが、ウィリアムに洗浄を任せていないだろうな?」



低い声でそう問いかけられ、ネアはずっぷりと泥に浸かった右足を恨めしく眺めながら、悲しく眉を下げた。


「ディノは上手に洗えないので、勿論、ウィリアムさんが洗ってくれたのです。私とて、…………今日はとても弱っているウィリアムさんには、ゆっくり休んで欲しかったのですよ。…………決して、泥洗浄をさせ、泥人形から人間に戻して欲しかった訳ではないのです」

「ほお、あいつに洗わせたのか………」

「なぬ。なぜ不機嫌になったのでしょう。もしやアルテアさんは、逃げ沼大好きっ子なのですか?」

「何でだよ」



鮮やかな赤紫色の瞳を細めてびしりとおでこを指で弾かれはしたものの、アルテアは、まずは屋外の水場でざっと泥を洗い流してくれると、先程までネアが泥人形として搬入されていた部屋に連れて行ってくれた。


おまけに、ネアが取りに行こうとしていた飲み物の手配もかけてくれ、部屋にはすぐに、冷たい雪溶け水と、冷やした美味しい季節の紅茶が届く事になる。


(良かった………!)


これでもう、目を覚ましたディノが水を欲しがっても一安心だと、ネアは胸を撫で下ろした。

そうして安堵に胸が緩むと、今度は現状の惨めさに溜め息を吐きたくなる。


「……………ここにはもう、戻らないつもりでした」

「残念ながら、すぐに戻る羽目になったようだな」

「あの、二度も私を苦しめた逃げ沼めには、激辛香辛料油を投げ込もうかなとも思ったのです。ですが、もしそこに再び落ちると取り返しのつかない自損事故になるので、何とか思い留まりました………」

「暴れられても面倒だ。やめておけ」

「ほわ、じゃばじゃば暴れたら、大惨事になるところでした……………」



さあっと、浴槽の表面をお湯が打つ音がする。

シャワーのお湯を出すと白い湯気が立ち、浴室の中をもわんと満たす。

空気の入れ替えが済み、やっと逃げ沼の泥臭さがなくなったばかりの浴室にはまた、腐臭に近い何とも耐えがたい臭いが篭った。


またしても臭い泥にまみれ、おまけにそれを洗い流すのに誰かの手を借りなければならない惨めさに、ネアはふぐっと息を詰まらせる。


ぼしゃんと逃げ沼に踏み込んだ足を洗うだけなら、ネアにも出来そうに思えるのだが、残念ながら可動域が上品なあまりにそんな作業すら出来ない。


誰かの手を借りなければいけないのだから、せめて、洗浄上がりで素足に室内履きを引っ掛けただけの装いだった事に心から感謝しよう。


あの逃げ沼で大事なブーツなどを損なった場合、ネアはもう立ち直れなかっただろう。

最初の落下の際に履いていたのは、リノアールで買ったお気に入りの室内履きだったので、今回は警戒して駄目にしてもいい銀狐に齧られ済みのものにしたのだ。


(でも、最初に落ちた時に、色々と駄目にしてしまったな……………)


リノアールで買った室内履きは、丁度革が足に馴染み、とても履きやすくなったところだったのだ。

そんな事を思えば、身勝手な心がつきりと痛む。



「この室内履きはもう捨てるしかないな。…………どうした?」

「………ふぇぐ。最初に落ちた時に、妖精さんの刺繍のある柔らかな竜革の室内履きを殺してしまいました。その時に着ていた服も、もう取り返しがつかなかったのです…………」

「今回は、裾上げだけで済みそうだがな」

「……………す、裾上げ?今回は、泥汚れは付いてないのですよ?」

「よく見てみろ。この裾の部分に泥が撥ねているだろうが。魔術洗浄をかけても、この部分に使われたレースの祝福が歪むだろうな。………おい」

「……………こ、この室内着は、裾のレースが素敵なのですよ?そ、それを、ぽいしてしまうのですか?」



震える声でそう訴え、ネアはくすんと鼻を鳴らした。

足先だけを踏み込んだ今回は、顔までが泥に覆われている泥人形状態とは緊急性が違う。

まずは重ねてシャワーで泥を流し、後はしっかりと魔術洗浄するだけなので、ネアにもこうして服や履物を惜しむ心の余裕が出てしまうのだろう。


上着を脱いでシャツの裾を捲り上げたアルテアは、ネアを浴室に置いた椅子に座らせ、持ち上げた足を屈み込んで洗ってくれている。


そして、そんな迷惑をかけている人間は、身勝手にも裾のレースが失われる事に、大きく心を折られていた。



「……………やれやれだな」

「………ふぇぐ。…………むぐ、………我が儘なので、聞き流して下さい。……………えっく」

「汚れた部分のレースだけを切り取って、同じレースを当てて直しておいてやる。継ぎ目は出来るが、同じレース工房の妖精を雇えば、目で見ても分からない程度だろう」

「そ、そんな事が出来るのです?!」

「そもそも、お前が逃げ沼を踏み抜かなければ、こんな事にはならなかったんだぞ。目を離すと、すぐに事故りやがって」

「…………ふぇぐ」

「………洗浄はこれでいいな」


やはり、足だけだと魔術洗浄も早いのだろう。

足を綺麗に洗って貰い、更にはふかふかのタオルで拭いて貰うと、ネアは、もう慣れたとどこか遠い目で告げる使い魔を乗り物にして、部屋に戻った。


浴室の臭気が室内に入らないようにしたものの、万象の魔物がその場で力尽きたように寝台にうつ伏せになっている寝室の様子を見れば、来たばかりのアルテアにも、先の戦いがどれだけ厳しかったのかが伝わるだろう。


外客用の部屋の中を見回し、アルテアは、ネアを抱えたまま、長椅子に腰を下ろす事にしたようだ。


「ウィリアムは、別の部屋か」

「ウィリアムさんは、続き間の寝室で眠っています。先にディノが倒れてしまったので、最後まで頑張ってくれました」

「……………シルハーンが先かよ」

「なぜ、いっそうに遠い目になったのだ」


そんなネアの大事な伴侶は、よりにもよって、浴室でよろめいたネアの頭が、口元にごつんと当たってしまったのだった。


その事に気付いたネアが、死に物狂いで伴侶の魔物に先に自分の顔を洗うようにと命じたが、顔は綺麗に洗えても、泥人形に呼吸器を塞がれた忌まわしい記憶は変えようがない。


その後も逃げ沼の臭気の満ちた浴室でウィリアムの洗浄を手助けし続けてくれ、ネアがようやく綺麗になったところで、ディノはぱたりと倒れてしまった。

そんな大切な伴侶の死に、ネアがどれだけ胸を痛めたのかは言うまでもないだろう。


うっかりぶつかった自分の頭の臭さで、麗しい伴侶が寝込んだのだ。

乙女にとって、これ以上の恥辱があるだろうか。


儚くなったディノの為に何か出来ることはないだろうかと、水を頼みに行きながら、ネアは込み上げてくる涙を堪えなければならなかった。

そして、二度目の悲劇に見舞われたのだ。



「因みにウィリアムさんは、今日は呪いの何かに動けないくらいの怪我をさせられ、おまけに、キャルベリアめに精一杯の求愛ぎりぎりの事をされてしまったのですよ!」

「……………何だそれは」

「目が合うとぽっと頬を染めて恥じらわれたり、どれだけ想いが深いかを突然の詩にされてしまったりと、あやつめはやりたい放題でした。なお、突然歌おうとした時にはグレアムさんが拳で黙らせてくれましたが、それでもウィリアムさんの負担は計り知れず………」

「という事は、あの魔術師は、お前には興味を示さなかったんだな?」



そんな事を真剣に尋ねられ、ネアは首を傾げた。

そう問いかけたアルテアの眼差しは鋭いほどだが、キャルベリアは寧ろ、少しも好意はないものの、清々しい程に純愛の人である。


ウィリアムの声がその契約を結べと言えば、目を輝かせて頷き、ペンをぎゅっと握ってサインしてしまう忠実な下僕ではないか。


「………そのように、ウィリアムさんが声に出した事には素直に従ってしまい、時折、拗ねたように頬を染めて反抗してみせるのですが、ウィリアムさんが無言で腕を組むと、仕方がないですねと呟いていそいそと意に従う、恋する乙女のような方でしたよ?」

「……………もういい。くそ、具体的に想像出来るような説明の仕方をしやがって………!!」

「むぐ。なぜに頬を摘まれたのだ。許すまじ」



そこからのネアは、使い魔がどれだけ几帳面なのかを思い知らさせる事となった。


まずは着ている室内着を捲り上げられ、どこからか飛び出した硝子の瓶に入ったクリームを体に塗り込まれる事になる。

きちんと魔術洗浄が出来ているかどうかの確認をされた際に、肌に潤いがない事を指摘されてしまったのだ。



「……………むぐ」

「大人しくしていろ。魔術洗浄は、ただでさえ、体の表層の祝福を削るばかりか、肌の表面の必要な油分も奪うものだ。必要な措置だから仕方ないが、とは言え保湿はしっかりとしておけと言わなかったか?」

「ふ、普段はしっかりと保湿しているのですよ?アルテアさんがお勧めしてくれた、ボディーソープを愛用しています」

「それは洗浄だ。保湿とは違うな」

「な、なぬ。あやつにも、肌を柔らかくしっとりさせる効果があった筈なのでは………」


その大いなる謎に目を瞠り、ネアは首を傾げた。

そうこうしている間にも、どこかに座らせられ、室内着の裾を捲られて足にクリームを塗り込まれてゆく。

擽ったくてもがもがすると叱られたので、その後は大人しくしていたところ、ちょっぴり眠たくなった人間はうつらうつらしてしまった。



チリリと、窓の向こうから鈴飾りの鈴の音が聞こえた。


少しだけ風が吹いてきたようで、窓の向こうで揺れる木の影をぼんやりと見ている。

どこかから低く歌声が聞こえたような気がしたが、気のせいだったのかもしれない。


しかし、その歌声を聞いた後からは、如実に体が軽くなったので、疲労回復の魔術詠唱なのだろうか。


「……………眠たいなら、俺の体にもたれていろ。首が動くと髪が引っ張られるぞ」

「…………ぐぅ。…………む。なぜ、アルテアさんを椅子にしているのでしょう」

「寄りかかるならこっちだ。いいな」

「ふぁい。……………ぐぅ」



ほんの少しだけ体を委ねた夢の中でも、先程の歌声が聞こえたような気がした。

とろとろとした心地よい眠りの中で、ネアはなぜか、美味しい檸檬タルトをお腹一杯に食べている。

何と幸せな夢だろうかと口をもぐもぐしたところ、お口の中に何も入っていない事に気付き、かっと目を開く。



(……………檸檬タルトがない)



目を覚まし、まず最初に絶望したのはそこであった。

しかしここで、檸檬タルトは夢の中のご馳走だったのだとしょんぼりすれば、いつの間にかアルテアの膝の上に乗せられているようだ。


なぜここにいるのかなと首を傾げたが、どうやら今は、髪の毛の手入れをして貰っているらしい。

恐らく、ネアが眠っていたのはほんの僅かな時間だったのだろう。


アルテアは、何だかいい香りの香油のようなものを毛先に馴染ませてくれているが、その香油は、花の香りだったりするとすぐに飽きてしまうネアにぴったりな、清しい柑橘系の果実の香りであった。



(この香りで、檸檬タルトの夢を見たのかな………)




「この髪の毛につけたものは、何でしょう?とってもいい匂いですね」

「ほお?俺が先月、髪を洗ったらつけるようにと、お前の浴室に置いておいた物と同じだが?」

「……………い、いつもつけているので、親しみを覚える香りです」

「香りそのものは、香油の成分が髪に馴染むと消える。まだ香るとなると、相当手入れを怠っていたようだな」

「きのせいだとおもいます。それはもう、つけなれたこうゆなのですよ?」

「それなら、後で残量を確認しておいてやる。さぞかし減っている頃合いだろうからな」

「ぎゃ!」



とてもぐいぐいくるが、ネアはふと、銀狐にお土産で買ってきたボールが、お気に入りの青いボールに勝てずになかなか遊んで貰えなかった時の事を思い出した。


あの時は、少し寂しい思いでいつ使ってくれるかなと何度も確かめてしまったので、アルテアもそんな気持ちなのだろう。


使い魔と一緒の二巻には、野生の期間が長かった使い魔は、獲物などを持ち帰って贈り物にする事もありますと書かれている。


これは、使い魔が主人を庇護するべき対象として認識している場合に多く、そんなお土産を貰った際には喜んで食べたり使ったりしてあげるといいらしい。

それは、使い魔からの心を込めた贈り物なのだ。



(……………髪の毛の手入れも、きちんとするべきだったかな…………)



時々綺麗な花や結晶化している木の実を持ってきてくれる銀狐の姿で想像すると、贈り物を置いてゆく使い魔を大事にしなければと思う。

しかし、ご主人様の脳内の贈り物の使用に割ける領域はとても限られており、どうしてもパイやタルトや葡萄ゼリーにその広域を占められてしまうのだ。



なお、そんな甲斐甲斐しい使い魔は、隣の部屋のウィリアムが服も着ずに寝ている事を知るととても荒ぶってしまった。

しかし、ネアを洗い上げた後に自分も入浴し、その後で疲れ果てて眠ってしまったのだから、致し方ないと言わざるを得ない。



「さすがにぱちりと目を覚ました時に、裸の魔物さんがお隣にいたので少々驚きましたが、経緯を考えれば不自然な事はありませんでしたので、寧ろ、働きすぎなウィリアムさんに胸が苦しくなりまし…………いひゃいれす!何で頬っぺたを引っ張るのだ」

「情緒が枯渇しているのはいい加減慣れたが、その危機感のなさをどうにかしろ!あいつの寝起きを知らないのか!」

「むむ、ウィリアムさんの寝起きはちょっぴり甘えたになりますね。もしくは少し魘されていたり、敵と間違えて攻撃するのかなという目をほんの一瞬だけします」

「……………前半は兎も角、後半は近付くな」 

「まぁ、野生の獣さんにはそのような事もある筈ですので、ウィリアムさんとてちょっぴり野生な感じが出てしまうこともあるでしょう。そのような時は、きりんさんをチラ見せし…………むぐ?」


そんな主張の途中で、お口には夏の果実の爽やかなギモーブが到来した。

たいへんに美味しい季節の甘味なので、ネアは、美味しさにこそ心を傾け、もぐもぐといただくことにする。



(……………あ、)


そこに、ゆらりと現れた影に顔を上げると、戸口に、起きてきたのかウィリアムが立っている。

こちらのお喋りが聞こえて目が覚めてしまったのかなと、ネアはへにゃりと眉を下げた。


「……………やれやれ、アルテアか」

「………起きたならその剣は仕舞え」

「む、起こしてしまったのでしょうか………。ウィリアムさん、晩餐迄はまだ時間があるので、どうかゆっくりしていて下さいね」


そう言えば、こちらを見たウィリアムは、優しく微笑んでくれる。


「ああ。ネアが隣にいてくれたお陰か、すっかり疲れも癒せたよ」

「おい、いい加減に上にも何か羽織れ」

「あれ、アルテアもそんな事を気にするんですね」

「こいつの情緒が一向に育たないだろうが」

「うーん、ネアを膝の上に乗せているあなたに言われても、頷きかねますけれどね」

「ほお?寝台にまで引き摺り込んだお前がか?」


(あらあら…………)


ネアは、心の中で多頭飼育の本を広げ、野生の獣達は、誰がご主人様と一番仲良しかで喧嘩をする事がありますという項目を思い浮かべた。

どちらもちびふわにしてしまってよしよしと撫で回すという手もあるが、まだ復活祭は終わってないので、気を抜かずにいたいところだ。


そんな事を考えながら、飲み物を手に取ろうと使い魔の椅子の上でもぞもぞ動いていると、なぜか顔を顰めたアルテアに鼻を摘まれるではないか。



「……ぐるるる」

「お前は、おかしな動き方をするな!」

「………おのれ、テーブルのグラスに手が届かないので、じりじりと前に出ていただけではないですか」

「アルテアは意地悪だな。こっちに来るか?」

「ウィリアム、お前はまだ本調子じゃないそうだな。もう一眠りしてこい」

「うーん、確かにまだ少し疲労感が残っているので、ネアは俺が預かりますよ」

「悪いが、こいつは、目を離すと何をするか分からないからな。今はここで充分だ」

「なぜ魔物さんを椅子にする前提でのみ、会話が進むのでしょう。私としては、自力で座面に落ち着くのが最も自然な姿であると考える次第で………みぎゃ!首を噛むのはやめるのだ!!人間を食べるくらいなら、ご主人様の分も含めてグラタンを焼くべきです!!」

「はは、困った使い魔だな。ネア、少し預けてくれれば、俺が叱っておこう」



おやつになるかどうかを確かめようとしたのか、魔物に首筋を噛まれた人間は怒り狂い、腰に回された手をべりっと引き剥がすと、素早く床に逃亡した。

朝露と花蜜に南国果実の冷たい紅茶の入ったグラスを手に取り、長椅子の端っこに腰掛けるとそれをぐびりと飲む。


こうして落ち着けば、やはり、魔物を椅子にするよりも遥かに、クッションの効いた長椅子の座面の方が優秀であると言わざるを得ない。

ウィリアムが隣に座ってしまったので体の重心が僅かにそちらに傾いてしまうが、幸いにも、端に座っているので肘置きの方に体を寄せればいいのだ。



「ウィリアムさんは、もう大丈夫なのですか?………やっと休んで貰えると思った時に、またしてもお手数をかけてしまいました」

「いや、全身となると、やっぱりなかなかに衝撃的だったが、あの手の洗浄自体は初めてじゃないからな」

「まぁ、そうなのです?」

「人間に擬態して騎士団などに所属していると、泥や沼地の系譜の人外者との交戦は少なくない。ある意味、人間の暮らしに最も近い穢れや災いの種だからな」



沼地の底や、日の当たらない地下用水路などは、秘密や絶望、そして裏切りなどの系譜の者達も好む所だ。

そんな災いの凝りやすい場所からは、当然のように人間を害する者が生まれ落ちる。

騎士をしていれば、そうして生まれた、泥や沼といった形状の物と戦う機会は少なくないのだと言う。


「………ぎゅ。騎士さんにはなりたくありません」

「沼地が殆どなく、水の綺麗なウィームでは、その手の障りや穢れの話はあまり聞かないが、本来なら最も報告が多くてもいい生き物なんだ。よく、騎士団の仲間たちが泥沼の障りを受けて、みんなで魔術洗浄したな………」


ウィリアムは少しだけ懐かしそうな目をしたが、ネアは、体格のいい騎士達が腐臭を放つような泥にまみれている光景はあまり想像してはならないと重々しく頷いた。



「で、キャルベリアは、こいつには興味を示さなかったんだな?」

「ん?………その話は、蒸し返さないで欲しいんですけれどね……………」

「あやつめは、私のことをレインカルの人型だと言ったのですよ!」

「さして間違ってないだろうが」

「ぐるるる!」

「やれやれ、ネアはこんなに可愛いのに、アルテアは意地悪だな」

「…………むぐ。なぜ、今度はウィリアムさんが椅子になってしまうのです?」

「今日は復活祭だろう?どんな危険があるか分からないからな」


にっこりと笑ったウィリアムにそう言われ、ネアはまだ裸足のままの片足に視線を落とした。

確かに、三度目の逃げ沼落ちだけは絶対に避けたい。


そんな思いでウィリアムを見上げると、こちらを見下ろしている終焉の魔物は、白金色の瞳に穏やかな微笑みを浮かべた寛いだ表情をしていた。

どこか満足げな微笑みで頭を撫でられたネアは、上に何か羽織って欲しいが、これが寛ぎのお家スタイルなら窮屈な思いをさせるのは可哀想だと思い、我が儘を言わない事にした。



「ウィリアムなんて…………」

「まぁ、ディノが目を覚ましました!ディノ、美味しいお水や冷たい紅茶をアルテアさんが貰って来てくれたので、何か飲みませんか?」

「………ネア、大丈夫かい?」



起き抜けの少しだけくしゃくしゃの髪で、心配そうに尋ねたディノに、ネアはにっこりと微笑んだ。

あんな目に遭ってしまったのに、こうして伴侶を心配してくれる優しい魔物なのだ。



「ええ。ディノとウィリアムさんのお陰で、こうして無事に人間に戻れました。先程、アルテアさんがクリームや香油を塗ってくれた際にあちこち調べてくれましたので、安心して近付いて下さいね」

「アルテアなんて…………」


またしても荒ぶってしまった魔物に、ネアはウィリアムな椅子から立ち上がると、ててっと駆け寄り手を伸ばしてみた。


あんなに頑張ってくれたのに仲間外れのようで寂しくなってはいけないので、ここは、たっぷりと甘やかさねばなるまい。


しかし持ち上げを許可すると手を伸ばしたネアに対し、なぜか伴侶の魔物は目元を染めて恥じらうではないか。



「………ずるい」

「まぁ、恥じらってしまうのですか?」

「可愛い………」

「もう臭くないどころか、クリームのいい匂いがする筈なのです!」

「うん。いい匂いだね。…………どうしよう、可愛い。凄く甘えてくる」

「……………むぅ。なぜ息も絶え絶えなのだ」



その後、嬉しそうにご主人様を持ち上げてあやしてくれていたディノの腕の中で、ネアは、すとんと眠りに落ちてしまった。


目を覚ましたのは夕刻過ぎで、その間にアルテアは、ディノとウィリアムと事件の共有を終えたようだ。

とてもお腹が空いていたので檸檬タルトなどを所望したところ、もう晩餐の時間が近いのでと断られてしまう。


腹ペコの人間は、誰よりも早くに会食堂に向かう事になった。


暫くして会食堂にやって来たエーダリアからは、ヒルドは、夕刻から自室で休ませているので、晩餐は遅めになるだろうと言われ、こくりと頷く。

特に不調などは出ていないものの、キャルベリアの事件の報告や各所への連絡が落ち着いた段階で、ここで休息を取るようにと言ったのだそうだ。



「今年は、リーエンベルクでの逃げ沼の被害が出なかったのが幸いだな」

「……………ふぁい」

「ネア?…………まさかとは思うが、逃げ沼に落ちたのか?」

「わたしからは、なにもおはなしできません」

「しっかりと落ちたぞ。しかも二回だな」

「ぎゃ!!」

「ん?もしかして、もう一度落ちたのか?」

「ネア、また落ちてしまったのかい?」

「も、もくひします!!」



呆然と見つめられ、ネアは慌ててグリーンピースの冷たいポタージュに心を傾けた。

焼き立てを切ってもらったもちもちの黒パンには、蜂蜜風味のある生ハムがとても合うと思う。









明日6/29の更新はお休みとなります。

TwitterにてSSを書かせていただきますので、宜しければご覧下さい。

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