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教区の噂と暗い階段





絵画の中の聖人が一人姿を消したというのが、その日に齎された唯一の情報であった。


曇り空の精霊の血を取り込み育てられ、花を食べるという疫病の教会を守るその聖人は、重要な拠点を守る一人であったのは確かだ。



「おはようございます、アンセルム神父様」

「おはようございます、シスターマギー」

「あら、また朝食を食べ損ねたんですの?厨房に寄ればスープが残っているかもしれませんよ」

「それは良かった!実は空腹で倒れそうだったんです…………」



安堵の表情で微笑みかけたシスターは、あまり出来の良くない一番下の弟を見るような眼差しでアンセルムを見る。


愛情深くはあるが、決して年上の男性を見る眼差しとして相応しくはないだろう。


シスターマギーだけではなく、多くのシスター達はそのような目でアンセルムを見ることが多かった。

けれども彼女達は、決してアンセルムを軽視している訳ではない。


それどころか、もしアンセルムに何か問題が起これば、仕方ない弟だと溜め息を吐きながらでも団結して手を差し伸べてくれるだろう。



「スープというと、いつものジャガイモのスープか。であればそれは辞退させていただこうかな…………」



そう呟きひっそりと微笑むと、アンセルムの表情は普段の彼として認識されているものとはまるで違う、酷薄で怜悧な美貌に変わる。


銀縁の不恰好な眼鏡が酷く不似合いに思えるが、その薄い魔術硝子越しに映る淡い夜菫色の瞳に微かな翳りを落とした。

その翳りがふと、日常の風景の隅に扉を開くあわいの亀裂のような、見る者に不安を与えるような揺らぎを垣間見せる。



でもそれは、ほんのひと時のこと。

回廊に他の神父達の姿が見えるようになると、アンセルムはいつもの少し眉を下げたような気弱な微笑みに戻った。

たったそれだけのことであまりにも受ける印象が変わるので、ザンスタはぞっとした。



「アンセルム様、食堂には寄られないのですね?」

「ええ。僕は、絵の向こうの工房に戻りますが、君はどうされますか?」

「私は、猊下の訪問に備えて、準備の手伝いを申しつけられておりますので、そろそろ聖女と水仙の教会に戻りませんと」

「それは憂鬱ですね。……………ああ、シスターナシャル、おはようございます!…………え、寝癖ですか?…………本当だ。有難うございます」




アンセルムという神父はこの聖域の中で働く神父達の中でも背は高い方だが、おっとりとしていてお人好しな気質から、その長身にも威圧感はない。


尚且つ大勢いる教会関係者達の中でよりによっても一人だけ腐った卵を食べてしまったり、修繕中の階段から落ちたりするのだから、周囲からの評価は推して知るべし。


教会図書館の司書らしく潤沢な知識を持ち、育ちの良さそうな穏やかな話し方に、どんな事も嬉しそうに取り組む姿には、気難しいとされる者達も心を許す。



けれども彼は、魔術の書の異端審問官なのである。



魔術書やその他の書の中に隠されたものを読み解き、そこから教会への脅威を取り除く役目を負った、十一人の書の審問官の一人。

そしてなぜか、この不自然に迷い子ばかりが集まる土地の中で、その肩書きでありながら誰よりもこの場所に馴染んでいる。



(彼は、私の同業者ではないのだろうか…………?)



ザンスタはまだ、確証が持てずにいた。


教会勢力とて一枚岩ではない。

各枢機卿達にはそれぞれの派閥があり、教え子であるニコラウス様や、様々な教会で共に祀られる神殿の神に仕える神官達の派閥もそこに加えられる。

その数だけの思惑や画策があり、見知らぬ男とは言え目的を同じとする仲間であれば、ザンスタにとってはこの上ない収穫なのだが。


この土地の歪みや秘密を洗い出す為に差し向けられた諜報仲間であれば、お互いの主人達を繋ぎ、情報を共有して捜査の幅を広げることも出来るではないか。



(それに、彼は“審問官”だ。であれば、どう考えてもこちらの組織の内側の者ではない筈なのだが、如何せんアンセルムの言動は非常に読み取り難い…………)



ひたひたと、よく晴れた青い空が見える外回廊を歩くアンセルムの横顔をちらりと見た。

端正な面立ちだが、今はまだあの凄艶さは感じられない。


蓋をして中身を隠してしまったようにその色を変える仮面の表情に、なぜだか、ザンスタの心はずっと警鐘を鳴らし続けている。


彼が標的であれば、これ以上距離を詰めることは決してあるまい。

けれどもこの真意の読み取り難さが、仲間であれば頼もしいと考えてしまう要素でもあり、今はまだ判断しかねていた。




(部屋に招かれてお茶をしたことも何度かあるが、終ぞ意味のある会話はなかったな…………。何度かこちらからそれらしい話題を振ったこともあったのだが…………)



もしかすると、アンセルムは第三王子派なのかもしれないと考えたこともある。

この国の王子達の中でも最も我が身が可愛い我が儘で浅はかな王子で、思惑の殆どが自らの為でもあるかの王子は、それ故にたいそう行動が読み取り難いことがある。



狡猾で残忍なジュリアン王子の手駒だった場合は、また別の種の警戒が必要になるだろう。

幸い、ザンスタの本当の主人は、ジュリアン王子と表立って反発していない第五王子であるものの、ここに派遣された際には中央教会のさる枢機卿からの指示という形を取っている。


その枢機卿は、本当に自分がザンスタの主人であると考えているので、探られるとまずいような粗もない。



(もし、ジュリアン王子の駒だとしたら、そのことも報告しなければならないな。…………ロクサーヌ様はさぞかし気に入らないことだろう。だが、この教区に隠されたものの得体の知れなさを考えれば、外部の犬など可愛らしいものだ……………)




ここは、ある日突然“在った筈のもの”が増える。



記憶や記録が書き変えられるように、突然、ある日一人のシスターが増えており、その少女はなんと迷い子であるという。


大抵の場合は、その少女は一月前あたりにこの教区に迷い込んだ“ことになっており”、皆はそれを信じて疑わない。

ここが特殊な魔術が敷かれその影響下にある場所であることまでは理解しているが、これだけ多くの、それも教会業務に携わり低くはない魔術階位を持つ者達の全てを欺くとなると、かなり大規模な魔術の構築が必要な筈だ。



(だから、恐らく上層部は全て計画に加担していると見て間違いないだろう。特定の、階位の高い人外者が巣食っている可能性も指摘されていたが、その種の異質さは感じ取れなかった。そもそも、持つ属性が異なるこれだけの人間が共同生活を営む場所において、同一の精神汚染を可能にするような魔術は現存していない筈だ……………)



それに、教区の上層部も計画を推奨していると考えると腑に落ちることもある。


集められた迷い子達は、聖女候補として担当教官により育てられることになるのだが、恐らく裏で何らかの思惑を持つ者達は、そのどこから補充されるのか分からない迷い子達を、高位の人外者との契約の楔として利用せんとしている気がするのだ。



(でなれけば説明がつかない。中央や王家から目をつけられてまで、聖女を複数人育てる意味がない。…………迷い子は、飛び抜けた美貌や才能を持つことも特徴の一つ。人外者の庇護を受ける事が多いからな。アリステルのような旗印を再び作り出そうとしているのだろうが、その為の控えとしてこれだけの数を集めたのか、それとも全員を同等の駒として国内に配置するつもりなのか…………)



優秀な聖女候補の迷い子が複数人いるとなれば、政治的な思惑から、一つの土地に留めておくなかれという意見は必ず上がる。

王家としても、その教育や思想に不安があるにせよ、彼女達をここに集めておくことよりも、国内の各地に振り分けて信頼に足る者達に身柄を預けてしまい、教区の弱体化を図ることを選ぶ筈だ。



(信仰はまた別の権限を持つとされていても、この国の主導はやはりヴェルリア王家にある。その申し出が断り難いものであり、想定出来ないことではないのだから、ここの者達の目的は、聖女候補を国内に配置する事だと思った方がいい)



現に、アルビクロムとウィームには既に、その聖女候補の迷い子を派遣したいという申請がなされている。

それは王都の命ではなく、迷い子である彼女達に違う土地での学びを与えたいという教区からの申し出となっていた。



頭を下げ礼節を重んじた交渉からの提案であるだけに、ガーウィンの中央教会やガーウィン領主も頭を痛めているようだ。

こちらの教区は、至極真っ当なる正論で理由を説明しているものの、他の土地の領主達に申し出をするということは、ガーウィン自体が借りを作るという事でもあるのだから。




「そう言えば、もうすぐ中央からの枢機卿の来訪と、ウィームからの受け入れの司教様が来ますね」



そろそろお互いの行き先の分岐となる辺りでそう言い出したのは、アンセルムの方だった。


何らかの意図があってのことかもしれず、ザンスタはおやっと眉を持ち上げてみせ、興味があるのだと表情で示す。



教会での暮らしは閉鎖的だ。


外からの情報や組織の変化には、皆、思っていたよりも顕著な反応をするのが常である。

外の暮らしに慣れた者であれば警戒するような仕草が逆に当たり前だったりもするので、外部から潜入した者達は炙り出され易い。


そうなると、ザンスタのように教会内部の職員が特定の者の依頼を受けるという、特別な諜報員が必要となるのだ。



「ウィームからの受け入れは二名でしたか。正直なところ、あの土地からの受け入れは意外でした」

「僕も驚きました。確か、一人はウィーム中央からでしたよね。もう一人は、ザルツの伯爵からの推薦です。ザルツは統一戦争の時も比較的こちら寄りでしたから、ウィームの中でもガーウィン寄りの者と考えても良さそうですね」

「……………成る程。中央とは志を同じくしないという主張として、ザルツからの受け入れがあると?」

「少なくとも、こちらの殆どの者達がそう考えているようです。なお、ザルツからの受け入れがある聖職者は、音楽院の神殿の神官の一人のようですね。貴族のご子息で、穏やかで優しい方だと聞いていますよ」

「ザルツからいらっしゃる方は、…………その、あまり優秀な方ではないと噂になっていますよね」



僅かに躊躇してみせ、そう言ったザンスタに、アンセルムは目を瞠ってから小さく微笑んだ。



「いけませんよ、ザンスタ君。貴族のご子息がわざわざ神殿に入ったのですから、その方にはきっと才能だけではない真摯な願いと信仰がおありなのでしょう。きっと良い方だと思いますよ」

「……………確かに。毒にも薬にもならないからこそ、ザルツ側の主張を示す使者に仕立てられている可能性が高いですからね」



おやっと思いながら、そう返事をした。

最近は周囲に人目がない時には異端審問官としての彼の酷薄さを見てきたので、少なくともアンセルムは自分を信用してくれている、或いは信用しているという方向で近付いてきているのだと考えていた。


けれども今は、誰の目もない筈のところで、この教会や隣接する修道院の人々がそうだと信じて疑わないアンセルム神父の仮面で話しかけられている。



(となると、…………私が気付いていないだけで、どこかから監視されている…………?)




「そのような方であればこそ、僕には、良い友人になるかもしれません。何しろ、このような仕事をしていると、友人は少ないですからね。…………そうだ、ザンスタ君。僕の工房に寄りませんか?シスターパーヴェに、美味しいチョコレートを貰ったんですよ」

「……………それは、断り難いお誘いですね」

「でしょう?」



そうにっこりと微笑んだアンセルムは、見事としか言いようのない朗らかさであった。



(どうやら、友人云々は、部屋に呼ぶ為の前振りであったらしい…………)



微かな違和感を残しつつも、その為に演技が疎かになったのかもしれないと、自分に言い聞かせた。

これは、アンセルムとの距離を詰める為に必要としていた、絶好の機会になるだろう。



(…………このような任務を果たす為には警戒心はとても大切なものだが、役目をまっとうするには、一人で全てを解き明かすことなど到底無理なのだ。であれば、どこかで誰かを信じ、作業領域を増やす事もまた、必要な能力となる…………)



疑い探り、邪魔なものを排除してでも欲したものを手に入れること。

また、信じた者との信頼関係を築き上げ、自身の足場や情報網をより安定させること。



そんな、ザンスタの仕事に必要な幾つもの項目の中には、有用な情報源になるかもしれない人物を取り込み、共同戦線を張るということも含まれている。


第三王子派であった場合は注意が必要だが、少なくともこの教区の意思に染まっていない者であると分かるだけで、大きな前進となるだろう。

不本意ではあるが、アンセルムの方がここの者達との親交は深い。



「実は、一人で食べてしまうのも罪悪感がありまして。ザンスタ君と分かち合えば、鹿角の聖女様の教えにも背きません。心や体を癒すものは、多くの隣人達と分け合ってこそ。大事な事ですからね」



相変わらずアンセルムが演技を続けている理由は見当がつかなかったが、今迄は、自室に招かれたことはあっても工房に招かれたことはない。

これはもう、ほぼ、同じ目的でこの教会に潜入した者と認識して間違いなさそうだ。



胸を撫で下ろし、ザンスタはアンセルムに微笑みかける。



外回廊から見える中庭には美しい白楓の木があって、その周囲には美しい白百合の花が咲いていた。

聖域とは言え、これだけの白を揃えるのはなかなかに難しいことなので、この教会に階位の高い者がいることを示している。



もしかするとそれは、この教区に張り巡らされた奇妙な魔術を構築した者であるのかもしれない。



「ところで、新しくいらっしゃる枢機卿をご存知ですか?枢機卿自らこの教区に滞在されるというのも、随分と珍しいことだと思いませんか?少なくとも、僕はかなり驚きました」


そう尋ねたのも、アンセルムからだった。



「珍しいというよりも、ほぼ異例ですよね。ヴェルリアのご出身という事ですから、ここで教え子の報告が重なっていることを不安視されているのかもしれませんね」

「おや、ヴェルリア出身の方なんですね。アルビクロムと聞いたような気がしていたんですが、聞き違いだったみたいです」



(アルビクロム……………?)



そもそも、アルビクロム出身の枢機卿はいなかった筈だ。

意味のある問いかけだったのかもしれないが、ザンスタは目を瞠ってしまった。



「はは、やっぱり僕の聞き違いですね。あの日のミサで居眠りをしていたせいだなぁ…………」



困ったように微笑みながら、アンセルムは柱廊の一角にある一枚の絵画に指先で触れた。

隠されている入り口なら当然なのだが、特に派手な魔術が動く訳でもなく、ごく自然にかちりと音がして、その絵画の隣に美しい栗の木の扉が現れた。



ここから先の工房は、決して教区に対して秘密のものではない。

寧ろ、教会図書館で司書を務める彼の工房がこの教会の中にあることは、多くの者達が知る事であった。



それでも司書達の工房への入り口が隠し扉になっているのは、有事の際に、希少な聖書や聖遺物を隠す為の場所としても機能するからだ。


だからこそ司書達の工房は、潤沢な魔術を用いた見事な造りだと聞いている。




ぼうっと、暗い石造りの階段に魔術の火が灯る。




「少し暗いですよ。お客様がいらっしゃる時などは普通の出入り口に偽装して扉を開くこともありますから、奥に工房があると思われないように、このような入り口になっているんです」



そう言われればそうなのだろう。

だが、真っ暗な階段の向こうへ誘うような蝋燭の光には、どこか根源的な恐怖が引き摺り出されるような感覚がある。



(まさか、な……………)



とは言え怯えていても仕方ない。

ザンスタはそういうものなのですねと微笑みを返し、暗い階段に足を踏み入れた。



こつこつと、暗い階段に靴音が響く。



「足元に気を付けて下さいね。階段はとても厄介なもので、一度踏み外すともう、元の位置には戻れません。一度くぐり抜けた扉の向こうに戻る事は出来ないのだから、魔術の理とは何と厄介なものでしょう」



その言葉は天鵞絨を撫でるように優しく、けれどもあまりにも美しく、そして恐ろしかった。


ぞっとしたザンスタは慌てて背後を振り返ったが、たった数歩進んだだけの筈だったのに、そこにはもう入ってきた筈の扉の姿はなく、どこまでも続く暗い階段が伸びているばかり。




「……………アンセルム神父?」

「ご安心を、ザンスタ君。ここから先は終焉の領域です。君は教えの道を外れることはなく、人間らしいその幕を引き命を全う出来ますからね。…………けれども、その前に少しだけ僕に協力して下さいね。……………これだけ時間をかけて良いものを探しているのに、なかなか気にいる獲物が見付からないんですよ」




振り返ったアンセルムの眼差しは、暗がりで燃え上がる白紫色の炎のようであった。




ザンスタは、自分が悲鳴を上げたかどうかは覚えていない。

その後に見たのは、ただひたすらに暗い終焉の夜闇であった。












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