復活祭と妖精の魔術師 1
朝なのに暗いその日に、ぼうっと薄闇で揺れる炎がある。
僅かな風に揺れるその色は、復活祭の日に死者を迎え入れる家で灯す火の色だろう。
空を見上げても雲はないが、くらりと翳ったように明度を落とした色相は、今日が死者の日であるという事を教えてくれる。
ネアは、リーエンベルクの会食堂の窓から、森の向こうに歩いてゆく騎士達の姿を見ていた。
これから、森の見回りなのだろう。
珍しく三人の騎士が連れ立っている様子に、ぽとりと心の中に落ちた不安の滴がじわりと滲んでゆく。
「………やはり今年は、森の見回りも相当な警戒をされていますね」
「戻って来ると困るという死者を、よほど警戒しているのだろう」
「ええ。王都での裁判が終わってから、長らく収監された後で刑を執行された方とのことでしたが、元々はロクマリアのご出身で、亡命手続きを経てヴェルリアでの騎士籍を得たのだとか…………」
「昨晩、ノアベルトとも、その魔術師について話したよ。…………現在参加している広域での鳥籠を解けば、ウィリアムもこちらに来られるだろう。それ迄の間は、リーエンベルクの敷地内に入り込む死者がいないかどうかを都度調べておこう」
「はい。お願いします」
その一報が入ったのは、昨晩の事であった。
晩餐の後のお茶の時間に連絡を受け、顔色を変えたエーダリアとヒルドが席を立ち、真夜中にはダリルを交えて緊急の会議が開かれ、そこで示された情報がネア達にも共有された。
連絡を受けたエーダリア達の顔色からあまり良い報せではないだろうと思っていたが、一人の死者に対してここまでの警戒を促されるのは初めてだ。
基本的に死者達は、生者を損なえない筈なのである。
けれどもこの国は、それを踏まえた上で各所にその死者の名前を伝えたのであった。
かつてヴェルクレアには、キャルベリアという名前の一人の魔術師がいた。
とても優秀な魔術師で、腰までの長い黒髪をゆったりと束ね、薄く微笑む姿は妖精のような美しさであったという。
けれども彼は、いささか厄介な魔術に傾倒しており、詳細は明らかにされていないものの、王都の騎士団に捕縛される迄の間に五十人近い人間を無残に殺したのだそうだ。
(…………預かった騎士団を率いてその魔術師を捕縛したのは、私の前任者とその契約の魔物だったという)
同時にその話は、この国の陽の当たる場所に残された、アリステルの数少ない功績の一つであった。
昨晩の説明会で思わぬ名前に目を瞬いてしまったネアだったが、オズヴァルト王子の婚約者として公務に関わる事もあった人物なのだから、よく考えなくても、そのような成果が残っていて不思議はない。
アリステル派と呼ばれる人々は、そんな彼女の功績を今も尚称えている。
けれども、だからこそ彼女の功績の幾つかは、決して公にされないまま闇に葬られ、アリステル派の動きを活性化させないようにされていた。
そんな前任者の功績として残された足跡に触れるのは初めてとなるネアは、何だか不思議な気持ちになってしまう。
(何度か彼女への賛辞を聞いたし、彼女がしようとしていた事についての説明も聞いた。……………国という清濁併せ呑むべきものにとっては、彼女は厄介な棘であったのだろう………)
清廉で慈悲深く、美しく賢かった聖女。
一人の人間としてその心を紐解けば、きっと彼女は、こうしてぬくぬくと暮らしているネアなどより、余程立派な人間であったに違いない。
自分の心やその利益の為にばかり生きているネアにとって、多くの人々に働きかけ、国を変える為に行動を起こしたアリステルの思いは、全く想像もつかないくらいの領域の自己犠牲でもあった。
だからだろうか。
そんなアリステルがキャルベリアを捕縛したという場面が、どうにも思い描き難いのだ。
(と言うより、アリステルさんという方は、私に取って最も不可解な人の一人なのかもしれない…………)
「話を聞く限りは、信仰の系譜の魔術を扱う人間だったのだろう。妖精種の中に於いて、信仰の系譜の者達は少し特殊な資質を帯びる。ダリルもそうだが、多くの人間達の思想や文化を苗床にして派生した者は、本来あるべき階位や能力を超えた魔術を有する事もあるんだ」
「その方の御父上は、そのような妖精さんだった可能性があるのですね…………」
キャルベリアは、妖精と人間の間に生まれた子供なのだそうだ。
ヴェルクレアに亡命してきた彼が語った事によれば、ロクマリアの教会で守護妖精をしていた父親は、その地を穢した魔物との戦いに敗れ、命を落としたのだという。
母親についてはあまり多くを語りはしなかったが、どうやら、妖精への転属が間に合っていなかったらしく、産褥で命を落としたようだ。
「土地の信仰に応じて、その妖精がどのような魔術を持っていたのかも変わってくるだろう。どこまでのものが引き継がれているのかも分からないが、随分と信奉者が多かったという話を聞けば、精神に働きかける術式を有しているのは間違いないね」
「…………そんな方が、もし死者の国からこちらに戻って来るのであれば、こちらで何をする気なのかは、大いに気になるところですね…………」
捕縛の後に隔離金庫に投獄されていたキャルベリアの身柄を預かっていたのは、ヴェルリアの妖精裁判専門の領地に暮らす、とある伯爵家だったそうだ。
妖精の囚人は扱いが難しく、その対処に特化した土地があると言うのも、ネアは今回の件で初めて知った。
事件が明るみに出る迄の間、キャルベリアは慈悲深く高潔な人物として周知されていたらしい。
有能な魔術師である彼を慕う弟子たちも多く、その美しい容姿と柔らかな物腰から、多くの貴族達に支援も受けていたという。
その事件の発覚の要因となったのは、襲われた被害者の一人が生き延びたからだ。
しかし、証拠などが乏しく捕縛の後も裁判を必要とした程で、さしものあの国王も、減刑の署名活動が起きた程の人物を簡単に処刑には出来なかったらしい。
だからこそ、アリステルだったのだろう。
盲信的な信者を持ち、それ以外の人々の人望の厚い咎人だったからこそ、同じような領域の求心力を持つアリステルでなければ、捕縛出来なかったのだ。
そして、残虐な殺戮を憎んだ当時のヴェルクレアの歌乞いによって証拠が集められ、当初は、多くの人達が信じられないと首を振った彼の罪は詳らかにされた。
それは、アリステルの見事な功績である。
隠された罪を暴き、冤罪なのではと眉を顰めた人々の前で、キャルベリアに反論の余地がないだけの証拠を集めて裁判を有利に導いた彼女は、その一件で評価を上げ、更に信奉者を増やしたと言う。
世間の人々も、あのような証拠があるのなら致し方あるまいと納得し、高名な魔術師が、実際には人間の命を対価とする禁術に手を染めていたことが疑いようもない事実であると証明された。
そしてその結果キャルベリアは、管理者にしか開けない妖精用の隔離金庫の牢獄に、死ぬ迄閉じ込められることが決定したのだ。
(キャルベリアという人も、多くの奇跡を残して聖人のように慕われた人だったという。であればその裁判は、同じような役割りを得た二人が争ったものでもあったのだ…………)
二人の違いは、信仰の魔術を扱いながらも教会に属していなかったキャルベリアに対し、アリステルはオズヴァルト王子の婚約者としてガーウィンの支持を得ていたという事くらいだろう。
その裏でどのような思惑が動き、そして消えていったのかを思うと目眩がしそうだ。
そしてこれは、かつてヴェルクレアを騒がせた事件の、その後のお話なのだ。
今回の事の発端は、そんな罪人を任されていた伯爵家で起きた、殺人事件であったらしい。
伯爵家の姉妹を巡る恋情の縺れが大惨事となり、痛ましい顛末を迎えたと言うが、ここまでは決して珍しくはない悲劇である。
しかしその結果、妖精裁判の管理人として名高い伯爵家の後継者がいなくなってしまった。
そのことを憂いた当主が、自分が壮健な内にと、独断でキャルベリアを処刑してしまったのだ。
「妖精裁判の専門家の方が、裁判後の囚人の管理もしているのは意外でした。本当に、その全てが対妖精に特化された土地なのですね…………」
「ウィームのように、多くの者達が潤沢な魔術を有し、その対処を可能としている訳ではないからね。ウィームの封印庫で預かると言う意見も出たようだが、その魔術師に騙されていた貴族達は、彼がウィームに委ねられる事を危ぶんだらしい」
「まぁ。明かされてはまずいような秘密でも握られていたのでしょうか。或いは、その方の力がウィームに齎される事を恐れたのかもしませんね…………」
テーブルに置かれたグラスを取り、こくりと一口飲む。
爽やかな果実水の美味しさに、口の中がすっきりとした。
「そうして役割に特化した土地だったからこそ、その魔術師を殺した人間は、自分達が管理出来なければ大変な事になると、そう考えたのかもしれない」
「むぅ。だとしても、その伯爵様は、管理の継続が不可能だという判断をなされた際に、それだけの事件の犯人をご自身の判断で処刑などするべきではありませんでしたね。処刑してしまうと危ういからこそ投獄されたのだという事は、あまりよく理解されていなかったのでしょうか…………」
伯爵がどのような手段でキャルベリアを殺したのかは、明らかになっていない。
罪人の処刑を中央に報告した事で、伯爵は漸く自分の判断が早計であったことに気付かされた。
結果として、気付いてしまった罪の重さに耐えられず、なんとも無責任にあっさり自害してしまったのである。
なんという身勝手さだろうと考えるのは、ネアがその伯爵とは無関係な人間だからだ。
だが、身内の起こした事件で家族を失い、国から任された大事な役割を果たせないと感じた伯爵が、どのような覚悟を持ってキャルベリアを殺したのか、そして、どのような後悔で自分の命を絶ったのかにも、頷かざるを得ないような事情があったのかもしれない。
とは言え、数日前にその事件が発覚し、調査で本当にキャルベリアが殺されていたという事が立証されたことで、今年のヴェルクレアの復活祭は俄に重たい空気に包まれてしまった。
何しろ、相手は死者なのだ。
キャルベリアを殺したのは伯爵自身なので、まず間違いなく、まっとうな死者になっている。
となると、この復活祭にも地上に戻って来てしまう可能性があり、そうして戻った地上で彼が何をするのかは、投獄の後の処刑となっているだけに想像するだけで恐ろしい。
「死者さんは、生者を傷付けられないようにはなっているのですよね…………」
「うん。けれどもそれは、あくまでも魔術的な制約だ。どのような手段を用いても、死者が生者を傷付けることが出来ないという訳ではない。そのような事を可能とする人間だったからこそ、警戒されているのだろう」
「お話に聞いている生前の様子からすると、どうにもひと騒動起こしそうな方に思えますね。エーダリア様達に、何もなければいいのですが…………」
今日は復活祭だ。
本来なら、禁足地の森の見回りをしている筈の時間であるが、ネア達がこうして屋内にいるのには理由がある。
かつてアリステルに捕縛されたキャルベリアは、国に属する歌乞いを憎んでいる可能性が少なくない。
となると、既に当人が亡くなっていると知ってでも知らずでも、アリステルの後任であるネアに、何某かの接触を図る事も考えられた。
おまけにキャルベリアが持つ魔術特性には謎のままであった部分も多く、彼が、生前にどんな仕掛けを残していたのかも定かではない。
そのような謎が多く残されたままであったことも、王家がキャルベリアの処刑を望まなかった理由の一つなのだろう。
だから本日のネアは、伴侶の魔物の椅子の上に設置され、こうしてリーエンベルクの中で厳重に守られている。
義兄な魔物の見立てでは、かの魔術師の固有魔術には、精神操作に長けた妖精特有の浸食魔術があったのは間違いないらしい。
信仰の系譜では珍しくないものだよと冷ややかに微笑んだノアの不機嫌そうな顔を見て、ネアは、絶対にその死者に遭遇しないようにしなければならないと強く感じたのであった。
「復活祭と言えばヨシュアさんですが、今日は、統括地で何かがあったようなのです?」
「今年は、そちらの文化圏での物忌みの日のようだね。祭祀として統括の魔物も参加する、どちらかと言えば人外者側の儀式だ。恐らく、今年はこちらに出てくるのは難しいだろう」
「ふむ。本日は、お外に出る予定もありませんし、雲をどかして欲しいようなお天気でもありません。となれば、ヨシュアさんが森で逃げ沼に落ちるという事件を心配せずにいられるのは、我々にとって大きな利点です!」
「…………うん」
「まぁ、なぜしょんぼりしてしまったのですか?」
どうやらディノは、ネアが、雲の魔物という公爵位の魔物の助力を得られなくなるという事よりも、そんな魔物が騒ぎを起こしてその後始末に追われる羽目にならずに済む安堵を取ったことが悲しかったようだ。
悲しげにぺそりと項垂れてしまい、ネアの手の中にそっと三つ編みを設置してゆく。
とは言え、近年の経験から、ネアの中のヨシュアは、よく逃げ沼に落ちる魔物なのである。
外に出ないと決めていたのに、沼に落ちたヨシュアを救出に行かなければならなくなっての事故というような、物語にありがちな嫌な展開を回避出来るのは、とても重要な事だと思うのだ。
「…………むむ、アルテアさんから、カードに連絡が入りました。問題の死者さんは、見つけ次第どうにかしてくれるそうです。庭に出るのも禁止すると書かれています…………」
「アルテアは、統括の役割りで王都に出ているのだろう。彼は、今回の魔術師が、君の前に歌乞いだった人間と同じような気質だった事を考え、信奉する人間達に祀り上げられてしまう懸念を抱いているようだ」
(祀り上げられる……………?)
それは即ち、アリステル派のようなものが、彼にもあるのだろうか。
扇動されて政治不安に繋がるのであれば、確かに危うい存在かもしれない。
「…………まぁ。そのような危険もあるのですか?」
「普通の人間であれば、死者にその役割は果たせないよ。人間は、身の内に宿す魔術がないから、死後に祭壇に上がるのは難しいんだ」
「教会などで、生前の功績を称えて聖人などの称号を与えるのも、意味のないことなのでしょうか?」
「それは、人間達が区分に使う肩書だね。歌乞いを聖人とすると定めた因果の魔術とは、少し違う」
「むむむ、知りませんでした………」
「それが叶わなければ、その者の名前を認識魔術の術式にして、信仰の魔術を育む力にするのかもしれない。…………祀り上げられた者に信仰を捧げるには、祀り上げられた者に自身の中で育む魔術がなければいけないからね」
ディノの説明に頷き、ここで漸くネアも、アルテアの懸念とする事の恐ろしさを理解した。
この話の流れからすると、キャルベリアには、祀り上げられることを可能にしてしまう要素があるに違いない。
「……………もしかして、その方が、妖精さんの血を引いているからなのです?」
「それに加えて、彼が裁かれた事件から、その魔術師が父方の妖精に転属しようとしてた事が分かるんだ。…………信仰の魔術を置き換えに使い、贄に相当する同族を食らっていたのに、他に理由などない筈だからね」
「そのような事が出来てしまうのですね…………」
「ほんの僅かにでも、身の内で育てることが出来る魔術がある事が条件だよ。だから彼は、信仰で力を得る事が出来るという証明になる。………その上で、覚醒や変化を司る信仰の魔術は、転属ととても相性がいい。…………もし、その人間が生きている間に少しでも転属の変化を得ていれば、死者となった後でも、儀式で転属の仕上げをする事は可能だろう」
そうして生まれたものに狙われたりしたらと考えてしまい、ぞっとしたネアは、小さく身震いした。
妖精は良き隣人であるし、ヒルドが大好きなネアにとって、妖精は美しく優しい種族という印象も強いのだが、同時に浸食などの魔術を得意とする最も戦い難い相手でもある。
そんな厄介な人物がこの国や自分を捕縛した国の歌乞いを恨み、報復の手段などを整えていたら堪ったものではない。
「聞けば聞くほど、アルテアさんに発見して貰い、どこかにぽいしたい方ですね。…………む、」
その時、エーダリアに貰ったピンブローチの魔術通信機に連絡が入った。
ネアは一瞬、何か良くない事が起こっただろうかとぎくりとしてしまい、慌てて応答する。
「エーダリア様、何かありましたか?!」
「っ、す、すまない。不安にさせたな。…………こちらは問題ないのだが、どうやらガーウィンで陽動があったらしい」
「陽動、なのですか?」
「ああ。あちらには、ダリルの弟子がいる。彼が対処して事なきを得たそうだ。手の込んだ魔術の仕掛けではあったが、陽動なのは間違いないそうだ。それに、ガーウィンと言えばやはり、アリステル派の力の強い土地になる。事を起こすとしても、今ではないだろうというのが兄上の読みだ。………だが、陽動があった以上は、かの死者がこちらに帰って来る可能性が高くなったと言わざるを得ない。加えて、あの魔術師の信奉者達が水面下で動いていたという事も明らかになった」
「…………はい」
僅かではあるが、その魔術師がこちらに出てこない可能性もあった。
とは言え、その希望はどうやら打ち砕かれたようだ。
「いいか。今日は、絶対にリーエンベルクを出ないようにしてくれ。こちらで何か騒ぎが起こるかもしれないが、ウィームに矛先が向いた場合は、お前が標的である可能性が最も高くなる。ディノがいるので心配はないと思うが、間違ってもリーエンベルクを飛び出したりしないようにな」
「私が動いてしまい、そちらにご迷惑がかからないよう、しっかりお家にいますね。なお、先程ディノのカードに連絡が入りまして、今日はアレクシスさんがウィームに戻られていると判明しました」
「…………アレクシスが」
「はい。こちらは、お仕事が終わり次第ウィリアムさんも来てくれるようですので、街で何かがあったら、スープ屋さんに行けば知恵やスープを借りられるかもしれません!」
「あ、ああ。分かった」
声は聞こえていないが、近くにヒルドやノアもいるのだろう。
儀式会場からの通信なので、音の壁を作ったりして、周りを警戒していてくれるのかもしれない。
ネアは、心強い帰宅情報をエーダリアに共有出来、ほっと胸を撫で下ろした。
もしもの時、そこにいる誰にも出来ない事を出来るかもしれない存在というのは、なんとも頼もしい。
通信を切って椅子になっている魔物を見上げると、どこか心配そうにこちらを見ている。
ぎゅっと後ろから拘束されて不安なのかなと思い、ネアは、こんな陽光の翳る日こそ輝きが美しい三つ編みを、丁寧に撫でてやった。
「…………ネア、暴れずに我慢出来るかい?」
「…………思っていたのとは違う心配をされています」
「エーダリアの言うように、一つの陽動を起こしたのであれば、それを重ねる事も考えられるだろう。けれども、あちらにはノアベルトもいるし、ヒルドもいるからね」
「むぐぐ。何かが起きている時に、自分だけのんびりとお留守番だと思うとむしゃくしゃしますが、私は、このような問題に於いて、魔術に明るくない自分に出来る事は少ないと思っているので、大人しくお家にいますね」
「うん。不愉快だろうけれど、我慢しておくれ。………恐らく、その魔術師が扱ってきた魔術は、君との相性は悪いものだろう。それでもやはり、接触は避けたい」
「む。そうなのですか?」
思いがけない言葉に首を傾げると、ディノは、信仰の魔術の在り方を教えてくれた。
信仰の魔術の系譜は、その信仰を己にとってのどれだけの戒めとするかで浸透率が変わる。
教会などで働いていない人間でも、信心深い者や、現在の教会の役割りや教えに感銘を受けている者は、影響を受けやすい。
また、人ならざる者達が祀られている神殿では、主神に相当する人外者達への畏れなども、信仰の魔術を底上げする事があるそうだ。
「君の精神は、この世界で育まれたものではないからね。何かに感心したり心を動かされることはあっても、自分を委ねて膝を屈する事はないだろう。それに、信仰の光を際立たせる影は、多くの場合は終焉がその役目を担う。ウィリアムの守護を持った君にとっては、恐れる必要のないものだと思わないかい?」
「…………そう考えると、美味しいご馳走を司る方を祀った神殿がない限りは、私は大丈夫そうですね…………」
「…………ご主人様」
ご主人様に大きな弱点があると知ると魔物は少し荒ぶっていたが、今のところは、リーエンベルクの料理と、使い魔ご飯が一番美味しいと考えていると知り、安心したようだ。
ゴーンと、街の方から大聖堂の鐘の音が聞こえてくる。
この角度からは見えないが、会食堂から庭に抜ける硝子戸にも、黒いリボンの鈴飾りがかけられていて、耳を澄ますと、時折チリンと鈴の音が聞こえてきた。
そんな鈴飾りには銀色に塗った松ぼっくりも一緒に飾るのだが、今年は、業者が備蓄しておいた松ぼっくりをムグリスの窃盗団が襲う事件があった為に、少しだけ松ぼっくりが高騰しているらしい。
祝祭飾りという事もあり毎年買い替えるのが望ましいのだが、今年は、大きな松ぼっくりの飾りは少し割高になっている。
(…………キャルベリアという魔術師は、どんな人だったのだろう)
風にざわざわと揺れている庭木を眺め、ネアはそんなことを考えた。
転属の為に必要な贄を集めて同朋を襲っていたと言うが、もし、彼が願ったのが転属だけであったのなら、魔物達の近しさにすっかり倫理観を緩くされてしまったネアはどう思うのだろう。
アリステルと、光と影のように対にして語られるということもある一人の魔術師。
もし、この復活祭で転属を可能としたのだとしたら、妖精の羽を得た彼は、どこに行こうとするのだろう。
生まれ育った祖国から亡命してきたキャルベリアには、どこか帰りたい場所があったりはしないのだろうか。
それともただ、身に持った魔術で人々の心を集め、地位や権力のようなものを欲したのか。
そんな事が気になってしまうネアは、やはり異端なのかもしれない。
けれどもやはり、ネアの想像の中のアリステルが理解が及ばずふわっとしているように、殆どの事を知らないキャルベリアという人物についても、認識がもやっとしている。
そして、ネアがそんなことを考えていたその時、二つの事が同時に起きた。
かつんと音がしてピンブローチの通信が入り、慌てて応じていると、テーブルの上に開いたまま置いてあったウィリアムのカードがぺかりと光る。
そちらに視線を向け、ネアは息を呑んだ。
「ネア、」
「ノア、どうしました?………っ、」
「ネア?」
「い、いえ。続けて下さい」
“すまない。少し負傷をした。そちらに行くのが遅れそうだ”
ウィリアムのカードには、そんな文字が揺れている。
ネアはすかさずカードへの返信をディノに任せ、通信をくれたノアの言葉を待った。
「ヒルドが、怪我をした。そちらに運ぶから、僕達が戻るまで任せても構わないかい?」
「…………え、」
ひたりと、背中を冷たい汗が伝う。
どうしてこんな知らせが重なるのだろうと、血の気の引いた指先を握り込んだ。
しかし、事態は一刻を争うのだろう。
こうして、急ぎの通信をくれて、ヒルドをリーエンベルクに避難させなければいけない理由がある筈だ。
「…………はい。では、こちらでお待ちしていますね。どこか、寝台のあるお部屋がいいですか?」
「うん。外客棟の正門に向かう部屋にしようか。…………ごめん、不安にさせたね。それに、ヒルドを守り切れなかった。でも、少し休めば回復出来るものだし、目が覚めれば治癒も可能だから、安心してくれるかい?」
「は、…………はい!」
「ノアベルト、他に負傷者はいるかい?こちらは、ウィリアムにも不測の事態があったようだ。ウィームに来るのは、少し遅れるようだね」
「わーお。面倒な展開が続くなぁ。…………こっちは、グラストも負傷したけど、これはすぐに治癒済みだよ。それに、ヒルドが守ったエーダリアは無傷だ。例の死者絡みなのは間違いないけど、陽動っていうよりは代理戦争に近いかな。…………詳しくは、こっちが落ち着いたら説明するよ。あ、因みに、もうすぐアレクシスが来るらしいからね。観覧席にいた彼の妹が、呼びに行ってくれたんだ。…………安心したかい、ネア?」
「ふぁ、…………ふぁい」
じわっと涙目になったネアは、ノアの優しい声にもぞもぞと返事をする。
通信の裏で、ノアは誰かと会話をしているらしい。
ずがんと大きな破裂音がして、ネアは竦み上がってしまう。
「ネア、部屋を移ろうか。ウィリアムは心配しなくていい。戦場になった国の宝物庫に、少し厄介な仕掛けが残っていたらしい。その魔術に立て籠った人間が触れてしまい、鳥籠の中にあった国の王都を守る為に、ウィリアムが災いを引き受けたんだ。助けを必要とするような状態ではないそうだから、安心しておくれ」
「…………ふぇっく。そんな迂闊な誰かなど、滅べば良いのです。どこかの王都がばりんとなるよりも、ウィリアムさんの怪我の方が許せません。…………ですが、これからはヒルドさんが運ばれてきますので、めそめそしないよう、しゃんとしていますね」
「………ネア」
浅く転移を踏んでノアの指定した部屋に向かう道中、ぎゅっと抱き締めてくれたディノの腕の中で、ネアは、どこかで出会ったらすぐさま滅ぼすべきものを二つ決めた。
この世界にあるどこかの王都で、ウィリアムに怪我を負わせた仕掛けに触れた者と、キャルベリア派である。
その者達には、生まれてきたことを後悔するような目に遭わせてくれるのだと思えば、ほんの少しだけ、怖さに強張った心が緩んだのであった。




