月光の灰色熊と蜂蜜チーズケーキ
市場で売られている、この季節の花々の花輪の香りがここまで届いていた。
そんな香りを楽しめる季節になるとそろそろ夏至祭かなと思うところだが、ウィームはそれより前に復活祭なのである。
そんな準備に賑わうウィーム中央市場において、その日のネアは、珍しい騒ぎに巻き込まれていた。
(異世界で、初めてこの事態に………)
ネアの物語の知識の中に於いて、この状況は、異世界でまず最初に巻き込まれる事件の筆頭と言える。
即ち、街で酔っ払いの破落戸に絡まれるという事態だ。
残念ながら絡んで来たのは街のならず者ではなく、ご近所の小国から親の買い物に付いて来た貴族のお坊ちゃん達であった。
だが、なかなか身分の高い破落戸に絡まれる事例も少なくなく、そんな場合、登場人物はその場を切り抜けるのにとても苦労するのだ。
(ご婦人に絡まれたり、異国の王子様から側室にしてやるぜ的な事を言われたり、他にも色々な事はあったけれど、………素行の悪い酔っ払いと市場で喧嘩をするのは初めてだわ)
ウィームの街は美しく、魔術可動域が高く生誕時に隣人達の祝福を多く授かり生まれて来たご婦人方は皆美しい。
おまけに、食べ物も美味しくてお酒も美味しいのだ。
幸いなことにそんな楽しみを享受し尽くせるくらいにお金があったらしい彼等は、お酒も入ってすっかり気が大きくなっていたのだろう。
(更に言うと、ウィームが、ほぼ自治領かなというくらいに独立気味なのも当然ご存じないのだろう。そうなると、ウィームは所詮、敗戦国な上に地方領の一つでしかないとも言える…………)
ネアがなぜそんな事を考えているのかと言えば、目の前の、淡い金髪に緑の目をしたなかなかに美しい顔面の男性が、ウィームをそのように評価したばかりだからである。
ありかなしかで言えば、この騒ぎに気付いてこちらを死刑執行人の顔で見ているスープ屋のおかみさんに消されそうな事案なので、恐らく彼は、ネアが慈悲の心を取り戻して見逃してやっても消されるだろう。
いや、その近くにジッタがいるとなると、消されるよりも恐ろしい未来が待っているかもしれない。
ネアは、まさかのその二人が友達だった事を知ってしまい、そう言えばこの街の生まれの皆さんは、ご近所付き合いの幼馴染みな可能性が過分にあって然るべきなのだったと、恐ろしい横の繋がりに慄いていた。
これまでのネアは、スープ屋のおかみさんは朗らかで優しいご婦人だと思ってきたが、あの眼差しを見る限り、少なくとも何人かは確実に消している。
ウィーム領主を貶すような発言があったからかもしれないが、決して、心の中に闇の王国を持たない人の目ではなかった。
「………その身なりからすると貴族かもしれないが、とは言えさして高い爵位にも見えないな。従順さの欠片もない気位ばかりは高そうな女だ。もし、私の気を引こうとしたのであれば、少しの可愛げもない女は御免だな」
ネアは、とても遠い目をした。
どれくらいの遠さかと言えば、きっと森ムクムグリスの子供は可愛いだろうなとウィームを抜けた遥か遠くを望むほどに、遠くを見つめられる遠い眼差しである。
なぜ、この手の御仁は皆、自分に絡む異性は皆自分に気があると思ってしまうのだろう。
確かに見目麗しい男性であるし、充分な自信を蓄えるくらいには、女性達から望まれる事も多いのかもしれない。
多くの女性達がその寵を競えば、己の存在を如何に認識させるかは重要な課題だ。
中には、つんと澄まして冷ややかに突っかかってみて、これ迄の女達とは違うぞと唸らせる作戦に出た者がいた可能性はある。
であれば、なぜか珍しくないこの手の発言は、経験上からの推測となるのだろうが、こちらは一切の好意を向けていないので、やはり観察力はないなという結論は変わらなかった。
物語の定型かなという月並みさなのだが、この手の身分のこの手の条件設定の人物が皆同じような反応をするのは、彼等に降りかかる出来事がある程度同じようなものになり、結果としてお決まりの言動に落ち着くからなのだろうか。
(案外、そんな理由なのかもしれない………)
こちらを見る眼差しは、緑の瞳に浮かぶ嘲りのせいでたいへん残念な仕上がりだが、きっと先程までのように女性に微笑みかけていれば、魅力的な造作だと言う者も少なくはないだろう。
とは言え、見境なく女性達に声をかけて男達には乱暴にぶつかっていた言動は洗練されているとは言い難いが、それと容姿は別問題である。
しっとりした生地の葡萄色のフロックコートには、同系色の糸でふんだんに刺繍が施され、いかにも貴族の御子息ですという感じがするし、悔しいことに、手が込んでいるのになかなか上品な仕上がりだ。
そんな思わぬセンスの良さを憎みつつ、ネアは、こんな破落戸に遭遇してしまった己の運のなさを呪った。
「…………歴史には様々な面がありますから、どのように解釈するのかはご自由にと言うしかありません。ですが、そのような事を、旅先で口にされるのはあまり褒められた事ではないかもしれませんね。あなた方が自国ではどのようなご身分であれ、ここは異国なのですから」
ネアはひとまず、気がある云々ではなく、その前のウィームに対する暴言を指摘した。
にっこり微笑んでそう申せば、ご子息殿は小馬鹿にしたような嘲笑にも似た歪んだ微笑みを浮かべる。
自身にかけられた嫌疑に触れなかったので図星だと考えたのかもしれないが、良い大人は、あまりにも馬鹿馬鹿しい質問にわざわざ答えたりはしないのだ。
また、気のあるなしに触れたところで、思い込みの激しそうなこの男性の見方が変わるとは思わないので、そんな問答をする事自体が煩わしいとも言える。
なお、ひっそりと慎ましやかに生きていた筈のネアが、己の舌鋒の鋭さでこの男性が死んでも構わないと思うに至った理由は、大事な大事なムグリスディノを、肘でごつんとやったからである。
市場の飲食用のスペースでのんびりと葡萄ジュースを飲んでいたネア達は、お目当ての女性を見付けて走って追いかけてきたようなので、厄介そうな観光客に気付くのが間に合わなかった。
その結果起きた事はネアを怒り狂わせており、場合によっては、人気のない路地裏などに呼び出し、ばらばらにして用水路に捨てるのも吝かではない。
充分に一人でも対処出来そうだが、とは言え用心を怠らない人間は、既に頼もしい仲間にカードから助力要請してあった。
「キュ………」
「ディノ、本当にどこも痛くありません?」
「キュ!」
ほろ酔いでご婦人達に少し乱暴に声をかけて眉を顰められていたこの男達は、周囲の様子など、これっぽっちも見ていなかったのだろう。
袖にされた女性の悪口を言おうとして、歩きながら振り返った際に、テーブルの上でネアとお喋りしていたムグリスディノをその肘で転ばせたのだ。
突然現れた酔っ払い達に気付いたネアが慌ててムグリスディノに直撃しようとした肘を押さえようとしたが、結果としてネアは手の甲に痣を作り、ネアの大事な伴侶は、がつんとやられてぺしゃりとテーブルに突っ伏してしまった。
幸いにも、高位の魔物らしい防御策があったものか無傷ではある。
だが、怪我をしなかったからといって許せるものではないし、伴侶を守ろうとして彼の肘を押し留めようとしたネアを、なんだお前はと怒鳴りつけてきたのは、あちら様ではないか。
最初は、驚きのあまりちびこい三つ編みがへなへなになっていたムグリスディノだが、今は、男達に絡まれている伴侶が心配でならないらしい。
何しろ彼等は、ムグリスディノをべしんとやられた怒りに、思わず声を荒げて言い返してしまったネアを威嚇する為に、ネア達の使っていたテーブルをがしんと蹴った乱暴者なのだ。
さかんに、元の姿に戻って守ろうとしてくれるが、ムグリスディノがムグリスディノのままでいてくれなければと、お願いしてある。
こうして衆目に晒された市場での事件となると、小さく無垢な生き物を虐めた罪でこの男達を公開処刑にするには、ディノがムグリスのままでいてくれる事も必要なのだ。
勿論、小さなムグリスが目が眩む程に美しい魔物に転じれば、彼らの心臓を止められるかもしれない。
だが、それでは陰惨な復讐には程遠いではないか。
あくまでも、ムグリスディノには愛くるしいもふもふのままでいて貰い、この小さな生き物を不用意に脅かした罪で破滅していただいてこそ、この仕打ちに対する正しい報復だと思えた。
滅ぼすと言ったら滅ぼすのだ。
ネアは、心から怒り狂っていた。
親御さんが拾って帰る程度の骨は残してやっても構わないが、ネアはとても残忍な人間なので、浅慮な振る舞いで己の未来を閉ざした男達がどうなろうと知った事ではない。
とは言え、どう滅ぼすのかはまだ決めていないので、そちらに関してはまだ脳内会議が必要であった。
ただし、少し待ってくれ、すぐに行くと言ってくれたウィリアムが到着してしまうと、剣で一撃の運命しか選択肢がなくなる。
その前に、虫の息くらいまでは持ち込んでおきたい。
(でも、観光客であるのだし、さすがにここでは人目が多過ぎる。…………市場では、ディノにはムグリスでいて貰い、私達は、あくまでも哀れな被害者なのだと無力さを示しておこう。その後で人目のない所に連れ込んで滅ぼしてしまえばいいのだ………)
ネアの戦闘靴は、うっかり人混みで誰かの足を踏んでも殺人を犯さないようにと、持ち主の意思に応じた段階設定がある。
動けなくなる程度に爪先を踏み付けてしまい、逃げられなくしたところで、路地裏にでも引きずってゆけばいいだろう。
「成る程、貴族文化の色濃く残る土地柄からして容易く想像は付くが、そのいらない矜恃の高さがウィーム領民の気風だと言うのなら、その可愛げのなさが戦勝国の鼻についたのだろうな。………とは言え、この土地の女達はその気位の高さに見合うだけの美貌を兼ね備えている。それなのにお前は、まるで、あの灰色熊のようではないか」
「灰色熊…………」
「はは、レインカルか!ファルディン、良い例えではないか。地味な造作にきつい眼差し。おまけに可憐さの欠片もないその言動は、嫌われもののレインカルにそっくりだ」
そう笑ったのは、金髪の男性の友人らしい、赤髪の男性だ。
ファルディンと呼ばれた男性が貴族然としているのに対し、こちらは武芸にも秀でていそうな体格の男性である。
美麗と言うよりは美丈夫といった雰囲気で、こちらもそれなりに整った顔立ちをしていた。
軽薄で愚かな貴族のお坊ちゃんと言うには、少なくとも学園などは卒業しているに違いない年代に見える。
残念ながら、こんな悪さをするにはいささか年嵩ではあるが、然し乍らそんな彼等は、父親に連れられてウィームに遊びに来たというのだから、紛う事なき貴族のお坊ちゃん達には違いなかった。
「おや、レインカルを知らなかったかな」
「…………レインカルであれば、よく存じ上げておりますよ」
「はは、自分でも分かっているんじゃないか。お前にそっくりだ。そう思わないか?」
ネアがぐっと押し黙った事で、自分の立場が上だと感じたからか、ファルディンは、敢えて穏やかに微笑んで見せた。
しかし、ネアが理解しているのは、この目の前にいる御子息陣は、一人残らず消してもいいと言う事のみである。
レインカルと可憐な乙女の間には、一片の相似性もない事は、誰の目にも明らかと言えよう。
因みに、三人組なので、もう一人栗色の髪の男性がいるのだが、彼は前述の二人より爵位が低いのか、にやにやとこちらを見ながら、合間合間に二人の友人をさかんに褒めているただの太鼓持ちだ。
であるからして、まだ一度もこちらとの絡みはないが、諸共滅ぼさせていただこう。
少しも慈悲深くないネアは、罪の重さで処罰を決めるのではなく、まとめて滅してしまえと考える殲滅型の執行人であった。
「激昂した灰色熊は、それはそれは醜いものだ。お前は自分の顔を鏡で見た事があるか?さして変わらない醜さだな」
「私があなた方の振る舞いを窘めた経緯と、私の造作は何の関係もありません。こうも堂々と論点がすり替わっているのは、会話の趣旨すらご理解出来ないからなのでしょうか」
もう二度と傷付けられないように手の中に守っているムグリスディノが、伴侶をけなされてわなわなと震えている。
ネアは、すぐに抹殺するので、どうか心を鎮めて欲しいとそっと微笑みかけた。
ここでディノが人型の魔物に戻ってしまうと、後々でこの男達が失踪した時に疑いをかけられる可能性がある。
疑いをかけられた際に、こんな無力な乙女にそんな事は出来ませんのでと言い切れるようにしておかなければならなかった。
「少なくとも、お前よりは理解しているさ。汚らしい獣を同伴者代わりにしているお前の事だ。ろくに友人も恋人もいないのだろう。己の不遇に心を捻じ曲げ、誰彼構わず噛み付きたくなるような惨めな女が、獣に肘当たったくらいのことで、私を呼び止めるとはな。さして美しくもないみすぼらしい獣如き、私達とはこの世界に於ける役割も階位も違うではないか。寧ろ、そのような獣をテーブルに上げ、自分より爵位の高い者の視界に入れた事を、詫びられて然るべきだ。その獣を差し出せ。この場で処分してやる」
「……………まぁ、であればあなた方はやはり、ここが異国でお国とは作法も文化も違うのだと、そんな簡単な事すらお分かりにならないのですね」
「なぜ私達がこの土地の文化に倣う必要がある?どれだけ洗練されていても、ここは所詮敗戦国だ。建国以来一度の侵略も受けていない我が国とは、そもそもの歴史が違う」
その一言で、ファルディンという男性は、この場にいる多くの領民達の抹殺リストの筆頭に躍り出た事だろう。
ウィームの市場には人外者達の姿もちらほらと見かけられるのだが、そんな彼等の眼差しも、どこか人気のない裏通りでこの失礼な人間を引き裂いてしまおうかなというものに変わった。
通りすがりの人外者とは違い、土地に根付いた人外者達は、己の暮らす場所を深く愛している。
彼等にとってはそもそも階位の劣る人間であり、おまけに愛する土地の住人でもないのだから、このような発言が許される筈もない。
(この人達の父親は、ウィーム入領の際にサインをする同意書をきちんと読んだのだろうか。もし、人外者達を怒らせてその障りに触れても、ウィームもヴェルクレアも、一切の責任を負わないと書かれている筈なのだけれど…………)
人間の組織が観光客達の面倒を見てくれるのは、人間の管理下にある者達との揉め事までである。
あの同意書には、人間とある程度の契約や共存関係にある人外者であっても、階位上人間がその行いを諫められない者達についても補償対象外となると記されているのだ。
しかし、それは即ち、ウィーム領主の部下であるネアの凶行は許さないものでもあるのだが、邪悪な人間は、証拠さえなければ構わないと考えていた。
証拠の消し方については、ウィリアムが来てくれてから相談しようと思う。
この手の騒ぎだと呆れるくらいの反応しか示さないかもしれないアルテアではなく、敢えてウィリアムを呼んだのは、狡猾に、ウィリアムならディノが転ばされた事を怒ってくれるに違いないと考えたからである。
ネアの心は決まっていた。
先程から決まっていたが、最後のディノへの処分宣言で、もはや彼等を生きて返すという選択肢はなくなった。
(ひとまず、少し弱らせてから路地裏に引き摺っていく為に、どこかに隙があればいいのだけれど………)
そう考えたネアが視線を下げたのは、獲物の爪先までの距離を測る為である。
あまりの暴言に打ちのめされたからではなく、渾身の一撃を無駄にしないように冷静な見極めをしていたに過ぎない。
ましてや、女性である事を利用して、如何わしい謝罪方法を示唆した訳でない。
「ふん、反論すらままならないか。醜い灰色熊にも少しは羞恥心というものがあったようだな。だが、お前のような可愛げのない女が、今更、体を使って媚びてみせようと…」
きっと、ファルディンの見立ては間違ってはいない。
ネアはとても矜恃が高い、それ故に我が儘な人間である。
だが、そんなちっぽけな人間だからこそ、おかしな含みを持たされた言い方をされれば、自制心の糸はぷつりと切れてしまう。
おまけに、じろじろと胸元を見ながら言われたのは、たいへんに腹立たしい。
本日の服装は、余分な露出のないごく一般的な女性の装いなのだ。
それなのに、この流れからまさかの下世話な勘繰りをされたのだから、ネアが怒り狂うのも当然の事だろう。
だからこそネアは、ひと欠片の慈悲も必要ないと判断した。
だしんという音にぎゃーっと濁った悲鳴が響き渡り、市場の石畳の上に倒れたファルディンが悶絶する迄の時間は、思ったよりもかからなかった。
突然倒れた仲間に目を瞠った茶色い髪の男が、剣か杖かを抜こうとする。
「……………っ?!」
その刹那、ひゅっと風を切る音が聞こえた。
その音にはっと顔を上げたネアは、一切の躊躇いなく振り回された買い物袋が、栗色の髪の男性の頭を容赦なく横殴りにした瞬間を目撃してしまう。
「かつて大火で焼け落ちたこの場所で、まさか熱傷の呪いを組もうとするだなんて。ウィームを分かっていらっしゃらないようねぇ」
その声はいっそ朗らかで、にっこりと微笑む姿は優しげにすら見えた。
しかし、瓶詰めが入った布袋の凶器を振り回したスープ屋のおかみさんは、頭を押さえて蹲った男を凍えるような目で見下ろしている。
その眼差しに何を見てしまったのか、殴打された頭を押さえて武器を構えようとした栗色の髪の男性は、びゃんと体を揺らすと激しく震え始めた。
その隣に立っているジッタが、すぐにこの男に食べさせるパンを用意すると呟いているのがとても怖い。
一体、どんな効能のあるパンを食べさせられてしまうのだろう。
ちょっぴり小心者なネアは、そちらの獲物はお任せしようかなと頷き、残りの獲物に視線を移した。
「くそっ、これだから野蛮な土地の領民共は……!!」
こうも容易く仲間達が倒れても闘志を失わないのだから、この男性は、なかなかの実力の持ち主だったに違いない。
そんな赤髪の美丈夫が、目の前の可憐な乙女の手に激辛香辛料油の水鉄砲がある事を知らずに、舌打ちして剣を抜こうとした時の事だった。
ごっ、と鈍い音がした。
ひらりと揺れたのは白い白いケープで、転移の魔術に風を孕んだそのケープは、ふぁさりと落ちるのと同時に擬態を終えて漆黒に染まる。
直前までは明らかに純白だったし、黒いケープの裏地が血のように赤いのもなかなかに恐ろしい。
そして何より、軍服姿なのだ。
どうやら戦場から駆け付けてくれたらしい終焉の魔物は、色だけ擬態したにせよ、軍帽までをかぶった正式な軍装のままであった。
どうっと音を立てて倒れた赤髪の男に、ネアは、ウィリアムが剣の柄で容赦なくその頭部を殴り付けたのだと遅れて理解した。
どちらにせよ大事な伴侶を危険に晒した罪で処分するつもりであったが、こちらの獲物は、ぴくりとも動かずに転がされた様子から、その前に儚くなってしまったような気がする。
「ウィリアムさん!」
「すまない、遅くなったな。もう大丈夫だ。後は俺が……………グレアム?」
ネアはその時、久し振りに、ぎょっとしたようなウィリアムの声を聞いた。
アルビクロムの勉強会で耳にした事のある終焉の魔物の本気の狼狽の声音に、慌てて周囲を見回した。
靴音は、聞こえなかった。
集まった人々の間からゆっくりと歩み寄ってきたのは、白灰色の装いの上品な犠牲の魔物だ。
さらりと揺れた耳下の髪はさすがに擬態してあるが、その色合いが淡い月光のような金色になっていても、夢見るような灰色の瞳が浮かべた恐ろしいまでの酷薄さは緩和しようがない。
それまで、目の前の獲物を後先考えずに滅ぼすと決めていたネアですら、ぴっと飛び上がってしまうくらいに冷酷な眼差しは、グレアムが優しく微笑んでいるからこそいっそうに冷たく感じるのだろう。
「グレアムさん…………」
「キュ……………」
「ネア、シルハーンに暴行を働いた人間がいると、そう聞いてきたのだが」
「……………は、はい。こちらで爪先を失った方が、肘でごつんとやったのです。咄嗟に気付いて守ろうとしたのですが、覆いをかけた私の手ごと、ムグリスディノに打撃が届いてしまいました………」
「キュキュ!!」
「この通り、ディノは、私の手の甲の方を心配してくれる、優しい伴侶なのですよ」
「キュ!」
その説明に、グレアムはゆっくりと頷いた。
なぜか剣を仕舞ったウィリアムに、ネアはすぐさま抱き上げられ、守るようにケープの中に隠された。
危ないからなと言われ、思わず頷いてしまうくらいなのだから、グレアムは、その激昂を隠すつもりもないのだろう。
賢明なウィームの領民達はすかさず距離を取っているが、あまり影響を受けていないように見えるジッタは、友人が暴行を加えてしまった獲物がいるので、こちらの男性は証拠隠滅の為に自分が引き取ると申し出ている。
振り返ってジッタに頷いたグレアムは、踏み滅ぼされた爪先を抱えて地面を転げ回っているファルディンに、ゆっくりと視線を向けた。
「……………ウィリアム、この人間は、死者の国にもいらないな」
「うーん、俺がそれくらいは残しておいてくれと言っても、もう残すつもりがないんだろう?であれば、君の好きにしてくれ」
「そうさせて貰おう。ネア、シルハーンが心配しているから、その手はすぐに治癒をした方がいい。痛みはないか?………それと、君の獲物を奪う形になってしまうが、許してくれるかな?」
「…………は、はい!」
「譲ってくれて助かるよ」
微笑んで手を伸ばし、ウィリアムに抱えられたネアの頭を撫でてくれるグレアムの目は優しい。
だが、その視線をもう一度ファルディンに戻せば、それは、決して人間が親しみを持てるような人外者の表情ではなかった。
「ネア、………怪我をしたのは、その手だけだな?」
「ふぁい。私にあの打撃を止めきれるだけの筋力があれば良かったのですが、堪え切れずにやられてしまいました。ウィリアムさん、来てくれて有難うございます」
「そうか。となると、グレアムに手だけは譲って貰っても良かったかもしれないな」
「なぬ。手だけ…………」
「連絡をくれてから俺が駆け付ける迄には、何もされなかったか?」
「キュ!キュキュ!!」
「シルハーン?」
「……………ええ。蹴られたテーブルは避けられましたし、腕を掴まれそうになった際には、近くにいたご夫婦がすかさず遠ざけてくれました。ですが、異性として嫌な感じの発言をされた事に我慢出来ず、市場で踏み滅ぼしてしまいました。とは言え、こっそり闇に葬る予定な路地裏に連れ込むまでは生かしておかねばなりませんでしたので、控えめに踏んだのですよ?」
「テーブルを蹴ったのか。…………それに、異性として………?」
そう呟いたウィリアムが、すっと目を細めたが、ネアは、その時のことを思い出してぷんすかしていたので、終焉の魔物の微笑みがぐっと冷え込んだのには気付かなかった。
「……………グレアム、前言撤回だ。一度死者に落とした後は、俺も少し手をかけさせてくれ。どうやら、我慢のならない発言があったようだ」
「それなら、一月後でいいか?」
「そうだな。日にちを指定してくれれば、受け取りに行こう」
「……………一月後」
「……………キュ」
怒らせてしまったのが高位の魔物達であるので、その報復の残忍さと苛烈さが人間の理解を超えるのは致し方ない事なのだろう。
だが、手の中で震えているムグリスディノの様子を見ると、グレアムの報復はなかなかに苛烈な部類のようだ。
ネアも残虐な報復を考えていたが、とは言え、人知れず滅ぼす程度の事に過ぎない。
「シルハーン、今日は、駆け付けるのが遅れて申し訳ありません。厄介な野良精霊がいた為、対処に手間取ってこちらの護衛にも穴がありました。この人間は、俺が適切に処理をしておきましょう」
「………キュ」
「ウィリアム、ネア達は嫌な思いをしたばかりなんだ。何か食べさせてやったらどうだ?」
「ああ、そうするよ。ネア、何か食べたい物はあるか?」
「は!そう言えば今日は、新作の蜂蜜チーズケーキを食べに来たのでした」
「よし、それなら一緒に食べに行こうか」
「はい!」
ネアは、駆け付けてくれたグレアムと、応戦してくれたスープ屋のおかみさん、そしてジッタや手を引いて酔っ払いから引き離してくれたご夫婦にもお礼を言った。
ジッタとしては、ウィームを悪し様に罵り、ムグリスディノに危険が及んだ段階で、この観光客達を見逃すつもりはなかったのだそうだ。
なおここで、表通りの飲食店で乱暴に口説かれて泣いてしまったらしい少女の父親が伝説の雷の系譜の武器を手に討ち入りしてくる一幕もあり、娘を泣かせた愚かな貴族が既に高位の魔物の手に落ちたと知ったその父親は、両手でグレアムの手を掴んで徹底的にやって下さいと頭を下げていた。
「おのれ。私達が遭遇する前にも、悪さをしていたようです………」
「…………キュ」
「どうやら、救う余地もない人間だったみたいだな………」
「ウィリアムさん、お仕事中だったのに来てくれて有難うございました。チーズケーキは、私が奢りますね!」
「はは、それも嬉しいが、そうすると俺が奢る楽しみがなくなるな」
「なぬ………」
「今回は、俺に奢らせてくれるか?グレアムにあの人間を譲ったとなると、それくらいの取り分はあってもいいだろう」
「呼びつけた上に、チーズケーキを奢らせる人間を嫌いになってしまったりしませんか?」
「まさか。だが、ケーキを奢らせてくれないと、少し寂しく思うかもな」
「むむ。であれば、ご馳走になってしまうしかありません!」
ジッタがどんな精神操作をしたものか、一人だけ生き残った栗色の髪の男性は、錯乱状態のまま家族の元に戻ったらしい。
すっかり怯えた彼は、月光の灰色熊という言葉を繰り返しており、異国からのお客達は、高位者の多い月光の系譜に目をつけられたに違いないと肩を落としたと言う。
彼等は相当にあちこちで悪さをしたようで、二つの飲食店からの被害届けと、羽を千切られそうになった花の妖精からの嘆願書を受理していたダリルからは、そちらの賠償を毟り取ってから処分するべきだったと苦言を呈された。
しかし、処分が甘いと被害の出た花の妖精達が障りを出したかもしれなかったので、顛末としては上々なのだそうだ。
幸いにも後継の子供達ではなかったようだが、息子達を失った他国からのお客が、ウィームを訴える事はなかった。
月光の系譜の者達へと、鎮めの献上品を置いて逃げるようにウィームを出た彼等は、ウィームには月光の灰色熊がいたと信じているのだろう。
ネアは、人型に戻ったディノにしっかりと抱きしめられ、その日はウィリアムからチーズケーキを奢って貰えた。
けれども、一月後に、グレアムとウィリアムの間にどんなやり取りが成されるのかは、知らずにいようと思う。
人間には知らずにいた方がいい事も、沢山あるのだ。
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