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青い花びらと夜の分領





ひらりと青い花びらが舞う。

その青さに目を奪われ、小さく息を吐いた。


夜は深く深く沈み、澄みわたってその縁に僅かな青さを載せる。

もう二時間程もすれば淡い金色の光を滲ませて、夜明けがやってくるのだろう。


肩口を滑り落ちる薄手の毛布の感触に、頬に触れた髪を耳にかける。

こんな夜にも森の向こうが見通せるのは、この世界の夜は純然たる漆黒ではなく、どこまでも青く夜の光を宿すからだ。



(この花弁は、どこから舞い落ちているのだろう…………)



普段はない筈の不思議なものを見るのも、決して珍しい事ではない。


窓の向こうに続く夜の庭園とその先に連なる禁足地の森には、細やかな光の粒子が舞い上がり、その儚い煌めきになぜか胸の奥がざわついた。

悲しいような苦しいような不思議な感嘆が波立つのは、遠い日に育てた失望のせいだろうか。


もし、一度でもこんな風に光ってくれたなら、真夜中に一人で歩いたあの森を愛せただろうか。

そんな事を考えている内に夜明けよりも早くに目を覚ました鳥達の声が聞こえ始め、唇の端を僅かに持ち上げる。


きっと今の自分は、微笑みにもならないような歪んだ表情を浮かべているのだろう。

だが、幸福だと思える日常を得た今であれば、こんな風に眠れない夜を過ごすのも悪くはない。




(…………あの夜は、雨上がりの濡れた土の匂いと、生い茂る緑の匂いがした)



森の中の湖は静まり返って真っ暗なままで、思っていたような水の香りはしなかったように思う。

史跡にもなっている小さな石像に、古びた聖堂の輪郭が夜の中に滲んで見えただろうか。

暗い暗い夜の中を歩く人間如きの為には、あの森は、欠片も光らずにそこに佇んでいた。


多分あの日のネアは、自分と同じ名前の女神か聖人に、どうしても会ってみたかったのだと思う。

もしそこに魔法や神秘の欠片があれば、大事な家族はきっとその種の善良な物に救い上げられている筈だと、そう安堵したかったのかもしれない。


けれども夜は慎ましやかに見慣れた夜の色しか宿さず、僅かな怯えを隠して歩いた夜は、結局、美しいものも悍ましいものも映しはしなかった。



どこまでも、どこまでも。


無機質で無情な現実ばかりが、さらさらと積みあがってゆく。


これだけ不公平に孤独が押し寄せているのに、そこには物語の欠片もなく、這い上がる為の特別さもない。

ただひたすらに無残に転げ落ちてゆくばかりの未来は、きっともうどれだけ磨いても、その他の人々のようには光らないだろう。



小さな息を吐き、泣き出したいのにどうしてだか涙も流せず、暗い湖を見つめていたのは夏至祭の夜であった。



その夜はネアの暮らしていた国でも、あちこちで様々な催しがあり、おとぎ話を卒業した筈の少女達も、未来の伴侶を知る為のおまじないをしようと、花を摘む日でもある。


いつもよりも遅い時間まで動いている公共の交通機関を乗り継ぎ、その森に向かった時にはまだ、駅の近くの広場から野外劇場の賑わいが聞こえてきていた。


ゆっくりと人波を通り抜け、暗い森に入り込んでゆくのがネア一人だったとしても、夏至祭の夜は幸福な者達も少々羽目を外す夜である。


多くの人達が自分自身の楽しみに夢中であったし、ネアに気付いた者達も、特に注意をするような事は無かった。

少し離れた場所で、恋人と秘密の待ち合わせでもしているのだろうと思われるのがせいぜいという、そんな夜であった。



夜の暗闇に沈んだ深い森を小さな懐中電灯を頼りに歩き辿り着けば、そこにはやはり、一つの明かりもなかった。

夏至祭の花輪を飾られる事もなく静かに森の中に佇む聖堂には、訪れる人は誰もいないようだ。



翳りゆく太陽を繋ぎ、繁栄を祈る祝祭に、夜を宿し孤独を湛えるこの場所程に不似合いな場所もないのだろう。


ここには古くから、夏至祭の夜に森の女神の領域に踏み込むと、大切な人との縁が切れるという言い伝えがあるのだとか。



でも、あの夜のネアはそれで構わなかったのだ。



今更失うものなど何も残っていなかったし、もしかすると、一向に訪れない奇跡がここに隠れているのだろうかと考えやって来たのは、自分の名前がこの森から生まれたのだと知ったから。


もしかすると、ここでなら出会えるかもしれない。

もしかすると、この夜なら繋がるかもしれない。

しかし、そう思って訪れた先にはやはり、拍子抜けするくらいに何もなかった。



ぱたんと、物語の頁が閉じられる。


明るく優しい日々が終わり、世界には魔法などはないのだと思い知らされた暗い夜。

あの世界でのネアハーレイは、そんな愚かな希望に何回縋っただろう。





ほう、と何かが鳴いた。

梟の声だろうかと考え、そう言えばこの世界の梟は、今のところ包装紙仕様のものしか見ていないのだと目を瞬く。


では、今の声はどんな生き物のものだろう。


記憶の中の暗い暗い湖と森とは違い、ウィームの森は夜でも賑やかだ。

続き戸を開けて庭に出ただけでも妖精に会えるだろうし、軒先に置かれた鉢植えの花ですら、祝福結晶を宿してぼうっと光っているかもしれない。

そもそも、窓辺に置かれた置き物ですら、こんな風に夜の光を浴びて煌めくのだ。


魔法やおとぎ話に触れたいのなら、この部屋でも事足りてしまう。



深呼吸をすれば、心が解けるようないい香りがして、ちょっと足を伸ばせば、部屋に備え付けのポットには、まだ一杯分くらいの紅茶は蓄えられている。

空気が薄くて薄くて毎日のように胸が痛んだあの世界とは違い、ここは、何て穏やかで美しい奇妙な世界なのだろう。



この不思議で恐ろしく美しい世界を飲み込み、やっとネアは普通に呼吸が出来るようになった。



そう考えていると目の奥がひりついてきたのは、あの日の孤独が引き剥がされて、どこかに洗い流されてゆくからかもしれない。

なぜ今更そんな作業をしているのかと不思議に思うだろうが、ネア自身も、僅かに揺蕩った夢の中にあの夏至祭の夜の湖が出てくるまで、すっかり忘れていた記憶であった。



膝を抱えて寝台に座り、背後に伴侶の柔らかな寝息を聞いている。


いつもは音もなく静かに眠っている大事な魔物は、今日は顔を埋めた毛布とシーツとの角度が関係しているものか、すうすうという柔らかな寝息が聞こえていた。


伴侶になってから同じ寝台で眠る日の方が多くなったが、こうして、隣り合って眠っていても、個別包装でゆっくり眠る夜も少なくない。

ネアの優しい伴侶は、人間という我が儘な生き物の願いを叶え、たっぷりとした睡眠を育てるべく、伸びやかに休む為の個別包装を許してくれているのだ。



(それが、こんな夜は役に立つ…………)



例えば、一人眠れなくて体を起こしたくなっても、気持ちよく眠っている伴侶を起こしてしまう事はない。

構って欲しい訳でも慰めて欲しい訳でもなくて、ただ、一人で美しい夜の森を見ながら記憶を辿りたいだけなのだ。


抱えた膝に顎を乗せて呼吸を深くすれば、腕に触れた頬の温度に目を瞬く。


夜気に触れて冷えた肌の表面は、何だか自分のものではないように感じられた。

ひんやりと冷たい肌の温度と、毛布に包まり温められていた肌の温度。

剥き出しの肩を滑る髪の感触に、視界の端でちかりと揺れる森の光。



静かな静かな夜だ。


その静けさはかつての夜と同じなのに、この場所の安らかさはとろりと甘い蜜のよう。

ゆるゆると目を閉じてその夜の美しさを瞼の裏に映し、もう一度目を開くと、くあっと欠伸をした。



「…………むぐ」



感傷に浸るのはお終いだ。

体に巻き付けていた毛布を広げて体を動かすと、ぽふんと寝台に横になる。

しかし、すぐに枕の位置が気に食わないと分かり、小さく唸ってずりずりと体を移動させた。

最後に、爪先で毛布を蹴り上げて体にかかる具合を調整し、ふすんと深い息を吐く。



「…………ネア?」

「むぅ。起こしてしまいましたか?」

「…………逃げていないね」

「ぞくりとしました…………」

「怖い夢も見ていないかい?」

「………ええ。怖い夢は見ていませんが、前の世界で寂しかった夜の夢を見ました。でも、今はこうしてディノが隣にいるので、もう寂しくはないのです」

「こっちに来るかい?」

「むぐ………。腹筋と背筋を駆使していい感じに毛布をかけたばかりですので、ひとまず辞退しておきます」

「…………うん」

「その代わりに、手をちょっぴり近付けますね」

「…………可愛い」



ふうっと吐き出される安らかな溜め息の音を聞けば、寝台の中は、特別な聖域のように思えた。


誰かの体温を感じながら、安全で優しい場所でぬくぬくと眠れるという事は、どれほどの贅沢だろう。

そう考えるとどうしても頬が緩んでしまい、ネアは、これが悪徳の限りを尽くした人間の贅沢というものだとにんまりした。



「ふぐ。大事な伴侶がいて、眠るのにはちょうどいい気温で、ほんの少しだけ鳥の声が聞こえるのにこれからまだゆっくり眠れるのだと思うと、なんて幸せなのでしょう………」

「…………君がいるからかな」

「まぁ、奇遇ですね。私にも素敵な伴侶がいるのですよ?」



そんなネアの主張に、ディノは嬉しそうにもぞもぞした。


くしゃくしゃになった真珠色の長い髪に少し隠れてしまっているが、水紺色の瞳は星の光を湛えた夜の湖のようで、あまりにも綺麗でずっと見ていられそうだ。



「夢というものはあまり分からないけれど、…………私も時々、誰もいない城の中で一人でいた時の事を思い出すんだ」

「………そんな時は、いつでもぎゅっと抱き締めるので、すぐに申告して下さいね」

「…………うん。でも、君はもう、いつも傍に居るからね」

「私も、心の揺らぐような何かを思い出しても、隣にはディノがいてくれるんです。なので今夜は、その安心感を贅沢に使う事にして、敢えてじっくりと思い出してみました」

「……ネア」



こんな時、ディノはなんて悲しげにこちらを見るのだろう。

その優しさに心を上手に駄目にされてしまい、ネアはむにゅりと微笑みを深めた。


「まぁ、そんな目をしなくても、ハッピーエンドだと分かっている物語を読むようなものなのですよ?少しだけ心が揺らいでも、どこか勝ち誇った気持ちでいられる贅沢な遊びなのです。これは、以前は決して出来なかった贅沢なので、たっぷり堪能してしまいました」

「怖くはなかったかい?」

「…………怖いときは、怖かったと素直に言いますね。そうして甘えられるだけの環境を、今の私は得ているのですから。………でも今回は、………怖いと言うよりも、あの夜の失望と夜の色をただ思い出していました。………あの日に夜の森を沢山歩いても得られなかったものが、こうして今はそこかしこにあるのですから、あまりの幸せにじたばたしたくなります」


ディノが心配し過ぎないようにと、わざと爪先をぱたぱたさせてそう言えば、すぐに子供のように毛布に包まってしまうので、髪の毛もくしゃくしゃになって、毛布に顔の半分を隠してしまっている魔物が、ほっとしたような目をする。


ネアがくっつけた指先はいつの間にかディノの手の中に握り込まれていて、柔らかく包み込む温度にじんわりと心が温まる。



「沢山動いて可愛い…………」

「ぞくりとしました…………」



すりりっと顔を寄せられてにゃむむとなりかけたところで、ネアは、ふっと夜が揺らぐのを感じた。

ぱちりと目を瞬きディノを見つめると、ふうっと静かな息を吐いた魔物は体を起こして、どこか酷薄で冷たい目を背後の窓に向ける。



(…………夜の、色が変わった)



上手く言えないが、そんな気がした。


青に青さを重ねた静かで深い夜の色に、僅かだが黄緑色の燐光が滲んだような気がしたのだ。


一瞬、脳裏を過ったのは、いつかの豊穣の妖精達であった。

だが、あの訪れの裏側にあった、沁み込んでゆくような穏やかなひたむきさはなく、代わりに、ぞわりと肌の上を滑るような不快感がある。



(あの豊穣の妖精達も不穏さはあったが、その向こう側にいた妖精は美しかった…………)



でも、この気配の向こう側にはきっと、美しいものはいないのではないだろうか。

どこか歪んで壊れたものが溢れ出すような悍ましさに体を竦めると、不意にぎゅっと抱き締められた。



「ディノ…………」

「どこかで、愚かな誰かが蓋を開けたようだ。…………真夜中と夜明けの間。蓋を開けた先で、扉の魔術を動かしたのだろう」

「…………扉の魔術」



深く落とされた口づけの温度に、心を緩めている時の柔らかさはない。

だが、この魔物らしい口づけのぞくりとするような暗さと艶やかさにも心が震えるような感覚があって、ネアは、じっと水紺色の瞳を見上げてしまった。



「祝福を深めておいたが、それでも夜の揺らぎは感じるだろう。こんな夜に一人で出歩く者は、ひび割れて揺らいだ境界の魔術に迷い込むかもしれない。…………ゼノーシュが気付いたようだから、騎士達は大丈夫だろう。エーダリアとヒルドの部屋にも、ノアベルトが向かったようだね」

「…………はい。何か、土地に良くない事が起こったのでしょうか?」



あんな夢を見た後だからこそ、いっそうに抱き締めたくなるここは、ネアの大事な場所なのだ。

大きな事件に繋がるような事故なのだろうかと眉を寄せると、ディノは未だに酷薄な薄い微笑みを浮かべる。


「まだ、術者が抵抗しているのだろう。けれど、開けられた蓋が、必要なだけの対価を手に入れて閉じれば、元通りになるよ。…………アルテアが来たようだね」

「なぬ。使い魔さんが………」

「君を案じたのだろう。……このような揺らぎは、気付かずに触れるととても良くないものだからね。今夜は、君が起きていたのが幸いだった」

「眠っていたら、あまり良くなかったのですね?」

「うん。曖昧な意識でこの気配に触れると、向こう側に引き摺られかねない。蓋を開けた者とて、その扉の向こうがどこに繋がっているのかまでは制御出来ていないのだろう。そのようなものに君を迷い込ませてしまうと、探すのに時間がかかる………」



(…………あ、)



そうか、だからこの魔物は不機嫌なのだと、ネアは得心した。


しっかりと腕の中に収めてくれているディノに体を寄せ、うっかり迷子にならないように自分でも掴まった。


「では、迷子にならないように、ディノにしっかり掴まっていますね!」

「…………かわいい」

「なぜに恥じらってしまうのだ…………」



しかし、ぎゅっとされた魔物はあろうことか恥じらい弱ってしまったので、ネアが途方に暮れていると、まるで自分の部屋のように普通に入ってくる誰かがいる。


一応ここは淑女の住まいでもあるので、出来ればノックなどの気遣いをしていただきたいと半眼になっていると、すたすたと歩いてきた魔物が、そのまま当たり前のように寝台の縁に腰掛ける。



「…………ったく。馬鹿な人間が蓋を開けやがって」

「おや、人間だったのだね。それにしては、随分と深層の蓋を開けたようだ」

「自分で作った術式ではないだろうな。恐らく、道具や場所に宿っていたものか、予め仕掛けられた術式に触れたんだろう。ウィームのこの界隈で土地の仕掛けという事は考え難い。となると、道具だな。その上でこの階位となれば、洗浄をかけていない魔術書か鏡だろう。おまけに異教のものだ」



うんざりしたようにそう話してくれたアルテアは、こんな時間だがどこかに出かけていたのだろうか。

僅かに着崩した夜会服のフラワーホールには、たっぷりと花弁を蓄えた白薔薇が飾られている。

艶のある漆黒の生地に夜の光だけが落ちる陰影は、どこか艶めいた印象があった。



「アルテアさんは、心配してこちらの様子を見に来てくれたのですね…………」

「お前が事故ると、必然的に俺も駆り出されるからだろうが。………くそ、往生際が悪い術者だな」

「………この揺らぎ方からすると、鏡のようだね。困った物を持ち込んだ人間がいたようだ」

「となると、対価を取り終えた後は割れるな…………」

「そうだね。これだけのものを溢れさせてしまった以上、鏡そのものも壊れてしまうだろう。後で回収しに行く必要がないのは、せめてもの幸いだ」



(…………鏡、)



そのようなものを扉にするのだなと頷いていると、そう言えば、歌乞いの儀式も鏡を扉にするのだと思い出した。


ディノを呼び出した時に使った鏡は早々に回収されてしまったが、それは、このような危険を孕んでいたからなのかもしれない。

魔術の素養がないネアに出来る事は限られている筈だし、その時は浮気防止策かなと考えるばかりだったが、今思えば、異世界から持ち込んだ鏡がどれだけ厄介な物だったのかの想像もつく。



「…………終わったな」

「うん。無事に蓋が閉じたようだね。術者と、…………他にも数人呑み込まれたようだ」

「…………となると、エーダリア様達はこれから大忙しですね」

「いや、不安定なひび割れに、すぐには近付かないだろう。もし、すぐに調査を行おうとしたら、ノアベルトが制止する筈だよ」

「暫くは、その場所に近付かない方がいいのですか?」

「蓋が閉じて扉が消えても、土地の魔術基盤が緩んでいるからね。沢山の雨が降った地面がぬかるむようなものだ。場合によっては、どこでもない場所の狭間に沈み込んでしまう」

「…………知らずにそんな場所に踏み込んでしまったら、怖いですね…………」

「君は、今夜の異変にもすぐに気付けたから、そのような土地では、強烈な違和感や不快感を覚えるだろう。良くない場所だと感じた場合は、決して近付かないようにするんだよ」

「はい。そのような場所があったら、気を付けますね…………」



ここで少し慎重になってしまった人間は、先程まで聞こえていた夜明けの鳥の鳴き声が、本当に小鳥たちによるものなのかを確認してしまったが、そちらは特に問題はなかったようだ。


はらりと落ちていた青い花びらは、夜の系譜の妖精達の求婚の儀式なのだそうだ。

魔術としては慶事にあたり、迂闊に踏み込まなければ、良いものだと教えて貰う。



暫くすると部屋に通信が入り、ヒルドから、こちらは心配ないという一報を貰った。

エーダリア達は、転移で駆け付けたノアに抱え込まれて安全を確保され、ゼノーシュがグラストを起こし、夜勤の騎士達はすぐさまリーエンベルク内に戻されたのだそうだ。



「とは言え、近くではなかったようです。ヒルドさんに入った情報によると、現場は街外れの商館だったのだとか。現場検証などは、夜が明けてから行われる事になったそうです。たまたま、週末だからか近くの飲み屋さんにジッタさんや魔術学院の講師さんがいたそうで、その方々が素早く行動し、商館の周辺に隔離結界を張って下さったのだとか」

「ほお、人間でその判断が出来るとなれば、なかなかだな」

「うん。必要な措置を取れる者がいたのだね」



隔離結界の向こう側には、まだ、鏡の向こうに引き摺り込まれず、助けを求めている人がいたかもしれない。


商館ともなれば、建物の中にはそれなりに人がいた筈なのだ。

だがジッタ達は、そこを遮蔽する事を躊躇わず、商館の生存者は、開けられてしまった蓋が閉じてから確認すると宣言したと言う。


その迅速な対応と、冷酷にも思える線引きがなければ、開いてしまった蓋の向こうにあった扉から溢れ出した何かは、もっと広範囲に広がったのかもしれないという事であった。


ジッタ達の決定がその場の混乱を収める事が出来たのは、きっとウィームの人々がその危険を理解出来たからなのだろう。



「商館という事であれば、その鏡は品物に混ざり込んでいたのでしょうか」

「偶然という事は考え難いだろうな。蓋を開けるような儀式が行われた以上、持ち主は鏡の特性をある程度理解していた筈だ。どうせ、使い魔の捕縛や歌乞いの儀式あたりを狙ったんだろう。………あの区画の商館であれば、他領の商人や国外の商人も入って来る。土地の魔術が潤沢なウィームで儀式を行い、大物を手に入れる目算でも立てていたんだろうよ」



加減を誤ったのか、それとも鏡に何かの罠が仕掛けられていたものか。


魔物達は、小さな悪意の仕掛けがあったのではと考えているようだが、それを起点にして何かの企みが動くというような物ではなく、人外者が愉快犯的にばら撒いた危険な道具の一つだろうと結論づけられた。



「いいか。お前も、気紛れに魔術の領域を侵さないようにしろよ。風習や手遊びの中に紛れている術式は多い。夏至祭の夜に一人で水面を覗いたり、森に出かけるのも同じような事だ。窓辺に気軽に妖精の餌を仕掛けたり、指先であろうと、得体の知れない魔術書の術式陣を模倣して空をなぞるな」

「…………む。過去の行いを少し反省しなければなりませんが、こちらでは、そのような危険を冒さないように気を付けますね」

「………ほお、いつだ?」

「むぐ。…………はにゃを摘まむのはやめるのだ」



ネアは、今夜にあの夜の夢を見たのは偶然ではなかったのだろうかと考えただけだったのだが、過去にそういう無謀な行いをしたことがあると知ってしまった使い魔は、愚かな人間にお説教を始めようとしているらしい。


慌てて、この世界に来る前で、尚且つ、そのような条件を満たした上で行動すれば、何かや誰かに出会えるだろうかと考えての事だったのだと釈明したが、今度はディノまでひやりとするような不穏な気配を纏ってしまう。



「ネアが浮気した…………」

「なぬ。そもそもその頃はまだ、ディノに出会ってもいないではありませんか…………」

「どこの世界だろうが、魔術の条件を不用意に満たしやがって。名前の領域同一があったから良かったようなものの、そうでもなければ、とっくに悲惨な目に遭っていたところだぞ」


上着を脱ぎながらそう言ったアルテアに、ネアは、小さく首を傾げる。


「…………名前の、領域同一ですか?」

「そっちの世界はどうだ分からないが、魔術上、同じ名前を持つものは同一視される。大抵は、高位のものの名前を授かるとその負荷に耐えきれずに壊れるが、そうならずに名前を持ち続けていられたのなら、その名前の領域で損なわれる事はなくなるのが基本だ。その土地に何かがいたとしても、同じ名前を持つお前を損なう事はなかっただろう」

「…………むぅ。そうなると、完全に無駄足でした。とは言え、私の暮らした世界には魔法や魔術はなかったような気がしますが、もしどこかに引っ張られてしまっていたら、ここに来れなくなっていたので一大事ですものね………」

「こちらでは、二度とやるなよ。……………それと、その寝間着は何だ」

「むむ。ノアに貰った可愛らしい綿のネグリジェ的なやつです。今夜はとても綺麗な夜だったので、是非に着てみようと思ったのですが、あまりにも可憐でしたか?」

「……………肌を出し過ぎだ」

「自宅のお部屋なので、このくらいは許容範囲では………」



ネアはちょっぴりお母さん寄りな魔物にそう意見すると、毛布を巻き付けるのはやめるのだと、慌ててディノの腕の中に避難した。


心配症な選択の魔物は、今夜はリーエンベルクに泊まってゆくらしいが、この部屋の浴室を使うのはどうかやめて欲しい。



「ぎゃ!後一回分だけ残してある、とっておきのボディソープを使うのはやめるのだ!!匂いでばればれですよ!!」

「おい!浴室の扉を開けるな!お前に情緒はないのか!」

「ネアが逃げた……………」



そんな突然の事件とそれによる宿泊客のお陰で、夜の領分の残りの時間は、たいそう賑やかになってしまった。


ネアは、アルテアがやっと隣の寝室に入ってから、白み始めた空を疲れた目で睨みつつ、ぐるると唸って短い眠りにつく。

しかし、静かな夜が最後で思いがけず穏やかではなくなったものの、あちこちに大切な人達の気配がある。



目を閉じると、その安らかさに飲み込まれ、あっという間に幸せな眠りに拐われてしまった。







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