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雨の森と紫陽花の瞳



空の高い位置に強い風が吹いているのだろう。


木立の向こうに続く灰色の空には、目まぐるしく流れて姿を変えてゆく雲が見える。

肌に触れる風の温度に、雨待ち風だろうかと考え、傘を忘れた事に気が付いた。



(霧雨くらいなら構わないが、本降りになって仕入れた荷物を濡らす訳にはいかないな………)



これが街中であれば、出費を諦め傘を買ったかもしれないが、何しろここは山の中である。

深い森の出口までの距離と今の空模様を考え、まずは、出来る限り進む事にした。

とは言え、本日は雨の予報ではなかった筈なのだ。

上空の風の強さを考えると、雲の魔物あたりがどこかで悪さをしているのだろう。



「やれやれ…………」



小さくそう呟き、妖精除けの煙草に火を点ける。

淡く立ち昇った紫煙に一つ頷き、ざくりと下草を踏んだ。


背中で揺れる木箱には、高価な森結晶が収められている。

毎年この季節になると山に登り、山の中腹にある精霊達の森で森結晶を探すのだが、今年は昨年よりは少ないもののなかなかの収穫であった。

こうして採取した森結晶は立派な商品になるが、それを生業にしている訳ではない。


チャルトルは絵師だ。

この森結晶を妖精達に売り、高価な妖精絵の具を手に入れるのである。



(だが、不思議な事だな。妖精のインクや毛糸、絵の具まであるというのに、魔物や精霊のものは滅多に聞かないではないか…………)


歩きながら、取り止めもなくそんな事を考えた。

幼い頃から、毛糸やインクと言えば妖精の物であったし、人間の工房で作られる物も、その多くは妖精の力を借りて製法を安定させている事が多いと聞く。


絵師になってから触れるようになった絵の具はどれも、妖精の手を借りて作られる物ばかりであった。



(いや、…………一度だけ)



一度だけ、若い頃に旅をした異国で、魔物の絵師が描いたという絵を見た事があった。

あまりの壮麗さと色鮮やかさに見惚れてしまい、ふらりと近付いたチャルトルに、絵の管理をしている貴族は苦笑して、魔物の絵の具を使っているので触れないようにと注意していたではないか。


という事は、どこかに魔物の絵の具もあるのだろう。

ただ、人間の手には負えない物なのかもしれない。

ここで、生涯に一度くらいは使ってみたいなどという望みを持たないのがチャルトルなのだが、他の絵師達はどう思うのだろうか。


内側から宝石質な絵の具が光を孕むような作品の美しさは、人間の魂には過ぎたものだ。

背伸びをしてそんな素材を扱うよりは、仕上がった作品を鑑賞する方が得るものが大きいように感じる。

尤も、そんな作品にまたお目にかかれるのであれば、という注釈が付くが。


そんな事を考えながら、何人かの同業者を思えば、見るよりも使ってみたいと言いそうな男が一人いた。

ああ、あいつであれば指を失くしてでもいいからと、魔物の絵の具に手を出すだろうと小さく笑い、煙草の煙を吐いた。


とは言えあの男は、大事な友人でもあるのだ。

彼の素晴らしい作品を見る機会を失っては困るので、是非に魔物の絵の具とは出会わずにいて欲しい。



そんな事を考えながら、大きな椎の木の影に入った時の事だった。



(…………あ、)



ぞわりと冷え込むような独特な気配に、ぎくりと体を揺らした。


木の枝の上で鳴いていた小鳥たちが飛び立ち、茂みの中に顔を突っ込んで木の実を食べていた小さな妖精達は、慌てて木のうろの中に逃げ込んでゆく。

しかし、身を隠すような場所を持たないチャルトルだけは、茫然と森の中に立ち尽くすしかない。


せめて木に登っておくべきだろうかと思案したが、この木箱を抱えたままでは難しいだろう。

であれば、何がどこからやって来るのかを見定め、その視界に入らないように木の陰に身を隠した方がまだましだ。


(くそ、ここまで大きな気配を持つ者には出会わずにいたのに、こんな天候の日に。…………いや、このような天候の変化のある日だからこそ、得体のしれないものが現れたのか…………)



立ち止まって辺りを見回したが、異様な気配の出どころは分からなかった。

方向も定められないのであれば、やはり少し歩くしかない。


誤って距離を縮めてしまう可能性はあれど、大きな木の根の影や、小さな洞窟など、身を隠す場所を見付けられれば生き延びられる可能性が高くなる。


背負った木箱を揺らして息を吸うと、妖精除けの煙草は消してゆくことにした。

もしこの気配の主が高位の妖精だった場合、妖精除けの煙草は不敬となる。

これだけ重たい気配がひたひたと満ちている森の中で、人間を襲う余裕のある低階位の妖精もいないだろう。


足早に黒スグリの茂みを抜けると、湿った土で滑らないように斜面を下ってゆく。


この辺りは、山の中腹とは言え階段の踊り場のような殆ど平坦な森ではあるが、時折こうした斜面が現れる。

地崩しの妖精などが悪さをしたのかもしれないが、ここがまた、思っている以上に歩き難いのだ。



はあっと息を吐き、またぎくりとした。


白い白い呼気は真冬のもののようで、けれどもじっとりと汗をかくような蒸し暑さを感じている。

その異質さに背筋が寒くなり、少し離れたどこかを濡らし始めた雨音に耳を澄ませた。


その内に、チャルトルもあの雨のヴェールの中に入るだろう。

霧も出始めたようであるし、視界が効かない中で人外者と遭遇するのはあまりに危険ではないだろうか。

とは言え、この場に留まっていても、いずれは雨雲が風で流れてきてしまう。



(であればせめて、この斜面だけは抜けておこう)


こんな時は、慄き震えているのではなく、覚悟を決めねばならない。

なのでチャルトルは前に進むと決め、爪先に神経を集中させ、転ばぬように斜面を抜けた。


僅かな勾配を下り切る頃には、がたがたと震えるような寒さが骨を這い上り、けれども表皮は蒸し暑さを感じるというどうしようもない状態になる。



間違いなく、何かが近付いてきている。

そして運の悪い事に、ここでとうとう雨雲に捕まってしまった。



さあさあと音を立てて降る雨のヴェールは、あっという間に視界を悪くしてゆく。

森は青白い色に染まって白くけぶり、見慣れた景色は人間の領域ではない色彩に様変わりする。



そうして相応しい舞台を整えられたからだろうか。

そこに、このずしりと重たい気配の主である人ならざる者が現れた。




(…………人型だ、)



最初は、雨にけぶるように、人型の影がゆらり現れた。


こんな森の中ではなく、まるで街中を歩くような優雅な足取りで傘をさしている。

震え上がって物陰に隠れなければいけない筈なのに、チャルトルは、その輪郭の美しさに動けなくなってしまった。


心を震わせて目を見開き、背の高い男性が傘をさしてこちらに歩いてくるのを、ただじっと待っている。



例えば、息は止めただろうか。

それとも、跪き、不興を買わぬようにと首を垂れただろうか。


しかしチャルトルは、恐らくそのどちらもせず、いや、何も出来ぬままに、近付く人ならざる者の気配に打ちのめされる。



(なんと美しく、なんと悍ましいのだ…………)



やがて、震える体にがちがちと歯が音を立てるようになり、ひたひたと影を踏むような微かな靴音が聞こえてきた。

こんな雨の中でふわりと揺れたのは、背の高い男が羽織った黒いコートだろう。



「へぇ。………こんな山奥にも、人間がいるんだね」



ああ、ここで自分は殺されるのだ。

そう思いどこか恍惚とした恐怖を感じて立ち尽くしていると、そんな声が耳に届いた。


困惑してゆっくりと視線をそちらに向けると、目が潰れそうな程に美しい白い髪の男が立っている。



(白、…………白持ちだ…………なんてこった…………)



そんな高位の者に出会う機会を得るのは、王都に暮らす貴族達や、専門職の魔術師の中でも役職を持つ者達くらいだろう。


けれども、しがない絵師などが出会う筈もない階位の生き物が、こうして目の前にいる。

あまりにも美しくあまりにも恐ろしく、チャルトルは、はくはくと短く息を刻み、のろのろと頷いた。


その男の言葉は問いかけではなかったのだが、従順な姿勢を見せなければと、上手く働かない頭で必死に考えた結果であった。



「絵の具の匂いがするから、絵師かな。…………ねぇ、ここで、女の子を見なかったかい?僕の妹がこの辺りに飛ばされてきた筈なんだけど、雨も降っているのに見付からないんだよね。大っぴらに探して森の精霊達に見付かるとまずいから、出来れば、騒ぎは起こしたくないんだ」



どこか、飄々とした物言いであった。

しかし、所作は震える程に優雅で、紫陽花色の双眸はぞっとする程に澄んでいる。


この色は何だろう。

この鮮やかで暗く、眩しいのに儚い色合いは、どんな絵の具を用いた色だろう。

思考のままならない頭でそう考え、チャルトルは、問いかけられた言葉の内容を必死に噛み砕いた。



「…………い、…………いえ。俺が通ってきた獣道では、そのような方はおりませんでした。ですが、…………少し前に、森の鳥達が右奥の大きな木の方で騒いでいましたので、そこに誰かがいたのかもしれません」

「…………あ、そこかな。預かったカードにも、鳥と喧嘩してるって書いてあったから」



必死に考えながら返した言葉は、思いがけずこの人外者の役に立てたようだ。


ほっとして息を吐きかけていたチャルトルは、すっと伸ばされた手に、思わず飛び上がる。

背負っている木箱ががしゃんと音を立て、その音にまた心臓が止まりそうになった。



「君は僕が喜ぶ情報を差し出したから、これをあげるよ。…………どうせまた、どこかでヨシュアが悪さをしているんだろうけどさ、僕の妹の居場所を教えてくれた人間が、鉄砲水で流されて死ぬのは寝覚めが悪いからね」

「…………これは、…………転移門、でしょうか」

「市販のものだし、せいぜい、麓の町くらいまでしか飛べないけれどね。このまま森の中にいると、夜までには厄介な事になりそうだ」

「…………っ、あ、…………有難うございます」

「うん。僕はあまり人間に寛容ではないんだけど、これはさ、僕の大事な妹が繋いだ縁だからね。正当な報酬を与えておかずに、運命の魔術が歪んであの子にもしもの事があると嫌だから」



その呟きの意味の全てを理解する事は出来なかったが、チャルトルは、震える手で受け取った小さな硝子玉のような転移門を握り締め、深々と頭を下げた。


手のひらに触れる転移門はひやりと冷たく、その温度に訳も分からずはっとしていると、魂が擦り切れそうだった重たい気配が不意に消え失せる。



「…………あ、…………行ってしまわれたか」



顔を上げて周囲を見回すと、先程の人外者の姿はもうどこにもなかった。



稀有な出会いであったが、もう二度とこんな事はないだろう。


そう考えてまだ震えている指先が転移門の玉を落とさないよう、ひとまず、腰に巻いた道具入れに仕舞う。

雨は少し弱まりつつあり、このくらいの雨足の内に森を抜けられるのであれば、大事な商品を濡らしてしまう事もないだろう。



(…………本当は、この転移門は家宝にしたいくらいだが)


とは言え、あの人外者の言い方では、この辺りはその内に雨で流されてしまうようだ。

元々雨の多い季節を有する土地なので、翌年来た時に地形が変わっている事も珍しくはないが、さすがに地崩れに巻き込まれるのは御免こうむりたい。



だが、もう少し。

どうかもう少しだけ、この場で今の出会いを噛み締め、そうしたら転移門を使おう。


だから、万が一のうっかりで大事な転移門を落とさぬよう、チャルトルはそれを道具入れに仕舞ったのだ。

こんな時、物語の中の愚か者は授かった幸運を落としてしまう事が多く、そうなりたくはないと思ったのだ。


人生で最初で最後かもしれない特別な出会いの後に、そのような失態を冒す気にはなれない。



(…………美しかったなぁ。…………そして、恐ろしかった)


光を孕む白い髪には微かな青色が夕闇の翳りのように散らばっていて、何よりもあの瞳が美しかった。

だから、そんな生き物に出会ったこの森の温度や色をよく覚えておき、あの方のことをこれからの人生で何度も脳裏に思い描けるようにしよう。



そう考えた時の事だった。




「…………むぅ。お迎えが来るという事さえなければ、転移門でささっと街に出られたかも知れないのですが、落下地点からあまり離れない方がいいですよね。とはいえ、あの鳥さんにはうんざりです!」

「キュ!」

「フキュフ………」

「そしてちびふわは、いい加減に機嫌を直して下さいね。あの意地悪魔術書を久し振りに開いたのは私ですが、試してみるという部分に触ってしまったのは、ちびふわではないですか」

「…………フキュフ」

「魔術書の意地悪で擬態が解けなくなったちびふわやムグリスディノの代わりに、もちもちくまさんとの戦いに挑んで敗退し、遥か遠くの森に投げ飛ばされた事については、弁解のしようもありません。しかし、私はこの通り可憐な乙女なのです。………そもそも、可動域が千を超えるというくまさんに勝てる筈もないのでした………」

「…………キュ」

「ふふ。むくむく毛皮の伴侶が慰めてくれたので、すっかり元気になりました。放り投げられたときに、大事なディノやちびふわがどこかに転がってしまわなくて良かったです」



がさりと音がしてそちらを見ると、細やかな魔術の光を散らして現れた人影があった。


青みがかった灰色の髪の少女で、肩には小さな白い獣を乗せているようだ。

雨除けの魔術をかけているのか、傘をさしていないが濡れている様子もない。


だが、チャルトルが目を瞠ったのは、その肩の上に乗った獣の色彩である。

こんな風に立て続けに白い生き物を見るだなんてと慄きかけ、慌てて首を横に振る。



(偶然なものか。先程の方は、妹を探していると仰っていたのだ。であれば、この少女がそうなのではないだろうか…………)



どうやら、近くから転移で移動してきてしまったようだが、それはつまり、探しに来ている兄と入れ違いになっているという事なのではないだろうか。


となると自分は、あの白持ちの人外者に無駄足を踏ませたことになる。

まずいことになったぞと青ざめ、チャルトルはその場でうろうろと歩き回った。


そうなったのは、この少女が先程までいた場所を離れたからであっても、人外者の怒りは得てして理不尽なものだ。

これはもうすぐさまこの場から離脱せねばなるまいと思いかけ、チャルトルはそろりと振り返る。



(…………華奢な少女だ。肩の上の白い獣も、少女の拳くらいの大きさではないか)



この森には大きな獣もいるし、先程の紫陽花の瞳の人外者は、ここで騒ぎを起こしたくはないと話していた。

もし、見付かりたくないような相手が近くにいるのであれば、あんな儚げな少女を、一人で残していって大丈夫だろうか。


しかし、見ず知らずの、それも恐らくは人外者であろう少女でもある。


面倒に巻き込まれないように離脱し、放っておけばいいと思わないでもなかったが、チャルトルには、世界で一番可愛い妹がいるのだ。

妹という生き物が無防備に森の中に彷徨っていると考えただけで、堪らない気持ちになってしまう。




「…………あの、もし」

「…………っ、…………た、旅人さんでしょうか」

「いえ。森に素材を採取しに来ている絵師なのですが、…………あなたは、ここで兄上を待たれているのではありませんか?」



驚かせないようにゆっくりと木の影から姿を現して声をかけると、少女は、余程驚いたのかぴょんと飛び上がった。

だが、肩の上の獣は驚く様子もなく静かにこちらを見たので、チャルトルの存在に気付いていたのかもしれない。



(大人しそうな、普通の少女ではないか…………)



先程の位置からでは面立ちが良く見えなかったのだが、あの白持ちの人外者の妹というには、驚くほどに地味な顔立ちの少女であった。


あの魂が抜け落ちるような美貌と比べるなかれと言えど、チャルトルの暮らす街で歩いていても、さして目を留めないくらいの、端正だが華やかさはない造作である。

どちらかと言えばチャルトルは好ましく思う繊細さだが、やはりあの方の妹という感じは全くなかった。



「…………もしかして、兄をご存知なのですか?」



しかし、少女は目を丸くしてそう問い返す。

間違いなく先程の人外者の妹のようだ。


その肩の上からこちらを見ている白い獣の鮮やかな赤紫色の瞳に僅かに慄きつつ、チャルトルは出来るだけ優しい声音を意識した。

妹というものは可愛くて小さなものなのだ。

決して怖がらせてはならないし、大事に大事にするのが流儀である。



「先程、ここを通られましたよ。妹さんを探しておられましたので、あちらにある大きな木の方で、騒がしい物音がしていたと教えてしまったのです」

「まぁ、そうだったのですね。という事は、私は、兄が向かった先からうっかり離れてしまったようです。教えて下さって有難うございました」

「いえ、それと、…………この辺りの森には獰猛な森の精霊や、危険な影竜などがおりますので、…」

「…………む、にょろりめ!」


ここでチャルトルは、物静かで気弱そうに見えた少女が、茂みから顔を出して悪さをしようとした影竜を一瞬で狩り滅ぼす瞬間を見てしまった。


そして、少女が特別な妖精の軟膏を持っていない者はひと呑みにしてしまう恐ろしい竜を鷲掴みにして滅ぼしたところで、先程の白持ちの人外者がふわりと姿を現した。



「ネア!」

「ほわ、…………ノアです」

「やっと見付けた。転移の後があったから、…………おっと、君か」

「…………っ、」


こちらに気付いて振り返ったあの紫陽花の瞳の人外者には、不思議な事に先程の悍ましさは感じられなかった。

けれど、ずしりと重い気配は相変わらずで、チャルトルは思わず声を詰まらせてしまう。



「この方は、我々が行き違いになっているのではないかと、親切に教えて下さったのですよ。そして、重ねて教えていただいたところによると、こやつめは危険な竜さんのようです」

「…………わーお、また竜を狩ってるぞ」

「キュキュ!」

「まぁ、この竜さんはもう儚くなってしまったので、お家では飼いませんよ?」

「キュ!」

「…………フキュフ」

「さて、そろそろ大雨がくる頃合いだから、家に帰ろうか。…………君も、早くここを離れた方がいい」

「は、…………はい!そうさせていただきます!」



紫陽花色の瞳と、赤紫の瞳と。

そして、それまでは気付かずにいたが、少女の胸元にもう一匹の白い獣がいた。


その、白夜の夜のような青い青い瞳を見た瞬間、なぜかチャルトルはたいそう慌ててしまい、道具入れから貰ったばかりの転移門を取り出すと、動転したまま、麓の町の宿屋を思い浮かべる。



しゃわんと、魔術が開いて弾ける音がした。



「僕のうっかりだ。君に聞かせてしまった名前の記憶は、返して貰おうかな」



淡い淡い暗闇の中で、そう呟きこちらに手を伸ばした誰かがいる。

勿論でございますと呟き頭を下げると、なぜか小さく笑うような気配があった。


そして、馨しい夜の香りがした暗闇が晴れ、チャルトルは、いつの間にか、麓の町にある部屋を借りている宿屋の前に立っていた。



「チャルトルじゃないか!山から下りるのが間に合ったんだね。心配したんだよ」

「…………おかみさん」

「あちらの山の方で、雲の魔物が癇癪を起してるんだ。あんたが登った山じゃないけど、大雨になると、あっちの山でも斜面が流れちまうからねぇ。みんなで心配していたんだよ」

「………ええ。…………ええ、何とか間に合いました。………中腹の精霊の森で、それはそれは美しい人外者の方に出会って、助けていただいたんです」



毎年借りる宿なので、このおかみさんは何だかもう、親戚の叔母さんのような存在でもある。


先程の出会いを自分一人の秘密にしておくという選択肢はすっぽり抜け落ちてしまい、あった事をそのまま告げると、おかみさんの綺麗な小麦色の瞳が丸く見開かれた。



「そりゃあ、………滅多にない祝福を得たねぇ。そんな日は、蝋燭を焚いていい酒を飲むといいんだよ。無事に帰ってきたお祝いだ。ご馳走してやるから、それを飲んで助けてくれた方に感謝するといい」

「お、おかみさん!酒代くらいは自分で………」

「嫌だねぇ。親の代からのお得意のあんたはもう、うちの夫婦の滅多に会えない孫みたいなもんだ。そのくらいは祝わせておくれ。うちの主人なんざ、雨が上がったらすぐに探しに行くって言って、…………ああ、準備しなくても良くなったよって言ってやらなきゃねぇ」

「うわ、ご心配をおかけしました。すぐに、僕が伝えてきます。裏口の倉庫の方ですか?」

「ああ。山での事を、あの人にも話してやっておくれ。山で人外者から何かを授かるのは慶事なんだ。きっと喜ぶからね」



そう言われ、笑顔で頷いた。


先程出会った人外者への畏怖のようなものが剥がれ落ち、心の中に残ったのは、鮮やかな鮮やかな宝石のような瞳の美しさ。


そんな美しいものに出会えた事が祝福だと言われれば、まさしくその通りではないか。


たった今自分が体験したのが、物語のような不思議で尊い出来事だったのだと自覚すると、わあっと声を上げたいような弾むような気持になる。



(紫陽花と、赤紫色の山葡萄の絵を描こう………!)


綺麗な綺麗な絵の具を厳選し、売りに出す物ではなく、生涯自宅の寝室に飾る美しい絵を描こう。

その絵を見せて、可愛い妹にも今日の出会いを自慢するのだ。


そう思い、弾むような足取りで宿の裏口に向かう。


そちらに集まった男衆に帰還を喜ばれつつも、チャルトルの心は既に新しい絵の構想でいっぱいであった。







明日6/17の更新は、お休みとなります。

TwitterでSSを上げさせていただきますので、もし宜しければご覧下さい。

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