領主の休日と森の飛び魚
どこか遠くでしゃりんと魔術の祝福が揺れる。
その音の涼やかさに耳を澄ませ、また響いた音で胸の中を満たした。
なんという美しい音だろう。
この音だけではなく、ウィームのそこかしこで聞こえてくる素晴らしい音のそれぞれは、いつだってエーダリアの胸を喜びで満たしてくれる。
ここでしか咲かないような美しい花が満開になり、祝福が溢れて妖精達が笑いさざめく。
夜の森には賑わいと言っていい程の静謐な喧騒がこだまして、うっとりするような甘い香りの風が吹く。
机の上には、塩の魔物が手ずから作った高純度な塩の結晶の薔薇が置かれていて、エーダリアが触れるとしゃりりっとした魔術の光が煌めいた。
それを見る度に、唇の端が持ち上がってしまうので、エーダリアはこほんと咳をする。
(まずは、この本を……………)
机の上に置かれた小さな魔術書は、ネアが手に入れて持ち帰ったものの一つで、なぜかウィームの市場の古書店で購入したらしいが、そんな風に世に出る筈がない特別なものだった。
慌てて魔術書を見付ける前に何をしていたのか尋ねたところ、いつもとは違う道で市場に向かう途中で、不思議な標識を見付けて五分ほど見た事がない道を歩いたのだとか。
それは、パーシュの小道のようなものではなく、祝福の小道と呼ばれる人ならざる者達や土地からの恩寵とされる古い迷い道で、よりにもよってネアは、そこで休んでいた収穫のリズモを乱獲したのだとか。
恩寵の小道でそんなことをしていいのかと思わないでもなかったが、結果としてこの魔術書を買って帰ってきたのだから、エーダリアは有難く拝読するしかない。
ネアは、これを完全な自分の買い物として見せびらかした上で、無期限で貸し出すと言って渡してくれた。
(そういうところだ……………)
くすぐったいような、けれどもじわりと染み入る温もりのような。
ネアが差し出すその心地良さは、どこまでも身勝手で強欲だ。
彼女はいつも、慈しみ分け合うことは贅沢なのだと微笑み、エーダリア自身もそれが嗜好品であることを知っている。
大切な者達がいるからこそ、選択肢は増えた。
例えば、視察先で見付けた一つのボールや、毛皮で裏打ちされた室内着など。
大切な人達が喜ぶことを確信した上でそれを買って帰る贅沢さは、例えようもない喜びである。
ネアに唆されて始めてしまったエーダリアも、一度その心地良さを知ったらもう、到底やめられるものではないと諦めた。
ノアベルトやヒルドの静かな驚きや喜びの表情は何度でも見たいもので、そんな慣れない喜びを得たせいで、あっという間に抜け出せなくなったのだ。
(……………ヒルドやネアは、それを得ていた上で、唐突に奪われた…………)
であれば、無残に蹂躙された心の庭に、再び得られたこの美しい泉はどれだけの喜びか。
自分もその価値を知って初めて、エーダリアにも喪った者達の苦しみが理解出来るようになった。
だからエーダリアは、ネアが無期限で貸し出すと言ったこの魔術書を、これからも自分の部屋の書架に収めるのだろうし、ヒルドが新月の夜になると理由をつけて夜中に訪ねてきても、気付かないふりをして一緒にお茶をする。
(ヒルドは、私が襲撃されたり、暗殺されかけたりした日のことを全て覚えているのだろう……………)
あの小さな竜のぬいぐるみを、惜しむことはもうない。
それでも、いつまでも心のどこかでエーダリアにとっての宝物であり続けるのだろうが、あのぬいぐるみを手放し、生き延びる事が出来たからこそ、これだけのものを手にすることが出来たのだろう。
(……………よし、これで安心して読めるようになったな)
魔術侵食を防ぐ手袋をつけ、表紙の端をそっと撫でる。
微かな侵食魔術も拾う探索用の魔術にも何の反応も出なくなり、人体に影響のある魔術の封じ込めが終わったようだ。
これで、漸くじっくり読める状態になったのだと、喜びを噛み締めた。
明日は休日だ。
今夜はゆっくりと美しい夜を楽しみ、この夜の為に準備をしておいた魔術書を読もう。
ダナエから貰った特別な酒が残っているし、他にも、特別な夜の共に相応しい酒が幾つもあった。
新年にバンルから貰った、夜霞草の蜜漬けにした檸檬の皮が入ったザハのチョコレートもあるし、ネアに教えられた店の小さな一口サラミもある。
エーダリアは、一人でいる時までしっかりとしたものを食べながら飲むことはないが、小さな手彫りの彫刻が美しいウィーム製のグラスでほんの少しの酒を飲み、チョコレートやサラミを少しだけ齧ると堪らなく自由な気持ちになった。
もう、好きな事が出来るのだ。
それは、何の責任もない放し飼いの無責任な自由さではなく、大切なものの為に働き、こうして休日の前の夜にのんびりと好きな本を読める喜びで、尚且つ、一人の夜にだって無防備でいることが出来る自由である。
ざざんと、遠くで木の上から雪が落ちる音が聞こえた。
続いてばさばさと何かを打ち振るう音が響くので、これは竜の羽ばたきに違いない。
雪竜だろうか、それとも別の竜だろうかと考えて胸を弾ませるのは、リーエンベルクで暮らすようになってから出来た癖であった。
(こんな音は、王都では聞こえなかった…………)
あの頃、夜に窓の外で物音が聞こえたら、エーダリアはすぐに身構えなければならなかった。
部屋の中の退避出来る場所の中で、安全性よりも襲撃者が他の場所を探している間に逃げ易いところにまず逃げ込むと決めたのは、最初に探されるような安易な隠れ場所を選び、命を落とした他の者を見たからである。
窓から来るような者の場合は、えてして依頼を受けて外部から訪れる侵入者だ。
その場合は、内部からの積極的な手引きはないと考え、廊下の方に逃げることが出来る。
また、内廊下から侵入しようとする者が相手の場合には、浴室などの鍵のかかる部屋に立て籠もるか、外に逃げるしかないのだが、エーダリアは、そのどちらでも危うい目に遭ったことがあった。
(いや、……………その時のことを思い出すのはやめよう…………)
そう考えて苦笑した。
思い返す度に惨めさに苦しくなった日々も去り、今はもうあの日々をしっかりと過去のものとして思い返せるようになった。
その時間を思えば一度はずきりと胸が痛むものの、すぐに、今の自分を満たしている穏やかさに気持ちが切り替わる。
それは、なんて贅沢で誇らしい時間であることか。
けれどももう、胸の中を満たすべき素晴らしいものが、ここには他に沢山あるのだ。
「………………まだ起きていたのか」
過去になど思いを馳せていたせいかもしれない。
足に触れるものがあって机の下を覗き込めば、眠そうな目をした銀狐が咥えたボールをエーダリアの足に押しつけてきていた。
先程までは、自分の部屋に帰るようにと起こしても起きず、エーダリアの自室の机の横にも設置してある籠の中で遊び疲れて眠っていたのだが、こんな真夜中に目が覚めてしまったらしい。
こんな夜中にボールはどうだろうと、エーダリアが躊躇していれば、前足で爪先をぎゅうぎゅうと踏まれてしまった。
爪先にかかる僅かな圧迫感が、それだけ近しい存在がいる証のようで、エーダリアはまた心の中がむずむずしてくる。
「ボールか……………」
今はまだ若干眠そうに尻尾を振っている銀狐姿だが、この魔物が、あの幼い日の自分を救ってくれた誰かだったのだと、最近知った。
救われたことへの感謝は勿論だが、それが誰でもなくノアベルトであったことが嬉しいと思うのは、いつからか、この契約の魔物が大切な家族のような存在になったからだろうと、エーダリアは思う。
そう思う度に目の奥が熱くなり、じわりと涙が滲みそうになる。
惨めさや悲しさで響くものより、幸福が響く方が胸が苦しい。
そして、その苦しさを教えてくれる日々が、今は何よりも愛おしかった。
その愛おしさに心が緩んでしまい、体を屈めてボールを受け取ると、銀狐がムギーと鳴いた。
まだ寝惚けているのに慌ててしまい、周囲を走り回ってすてんと転んで尻尾をけばけにしているので、体の下に手を差し込んで起こしてやれば、はっとしたようにボールを追いかける姿勢になる。
「投げるぞ」
そう言ってボールをあまり遠くに転がり過ぎないように軽く投げれば、腰を落としたようなおかしな走り方で、銀狐がしゃかしゃかとボールを追いかけてゆく。
遠くへ投げる時には弾むように駆け抜けてゆくのだが、ボールが床を転がるような投げ方になると、こんな追いかけ方になってしまうようだ。
尻尾を振り回してボールに追いついた銀狐は、最近気に入っている三代目の青いボールを咥え、物凄い勢いで戻ってくる。
すぐにボールを渡してくれることもあるが、今夜は取れるものなら取ってみろと言わんばかりに前足をぐっと伸ばして体をそらし、ボールを受け取ろうとする手から逃げる遊びも追加されるようだ。
とは言え、投げて貰うことが一番なので、何度目かでボールを渡してくれる。
真夜中であることを考慮し、エーダリアは五回程それを繰り返し、打ち切った。
五回目にはこれで最後だと繰り返し伝え、またボールを押し付けてきた銀狐には、終了であることを伝える為に両手を広げてみせる。
余程悲しかったのか、ボールをぽとりと落として尻尾を下げると不憫な気もしたが、明日の予定があるのならそろそろ寝たほうがいいだろう。
「さて、私は夜明けの少し前まで、この魔術書を読む予定だ。部屋に帰らなくていいのか?」
読み始めると周囲に気を配れなくなってしまうのでそう言えば、なぜか銀狐は気難しい顔で首を振った。
魔術書を読む体勢に入ったエーダリアの足元に、エーダリアの足で体を止めるようにして座り込んでしまう。
そのまま横倒しになってぱたりと寝てしまったので、エーダリアはくすりと微笑んだ。
一人で自由に過ごす夜にする筈が、あのボール遊びの後だと、何だか一人になるのも寂しいようなそんな気持ちだったのだ。
これで一人ではなく、けれども伸び伸びと読書が出来る。
ぱらりとページを開くと、はらはらと黄緑色の小さな葉が散った。
まずは序章の、若葉の魔術に触れるところから、そして魔術の枝葉が芽吹いてゆく。
この魔術書の中には深い森があり、そこから汲み上げる叡智に様々な魔術が宿る。
その煌めきと奥深さ、更には潤沢な古い魔術のふくよかな香りに、エーダリアはあっという間に没頭していった。
しゃりんと音がして、ページに触れた指先で持ち上げたグラスを置けば、そのテーブルの上に淡い光が弾ける。
その光が柔らかな緑色に弾けると、アネモネのような赤い花が芽吹き、瞬き程の短い時間で見事な満開の花が咲いた。
けれどもその花は、魔術書に満ちる魔術とこの部屋の魔術が反応した残響のようなもので、花びらが落ちるときらきらと光る魔術の粒子になって消えてしまう。
魔術書を読む際には、こうした変化がある方が自然で、反応が出ることこそが、魔術の循環が健やかな証となる。
何の変化も現れないとなると、どこかで魔術の動きが滞っていたり、何らかの魔術が、展開に備えて魔術を食っている可能性があるのだ。
(そうか、………傾国の宿り木は、こうして小さな国の魔術基盤を侵食してしまうのか。手入れの行き届いていない、澱みの深く暗い森が育たないよう、注意をしなければならないな……………)
またぱらりとページを捲る。
魔術書には、森の賢者についての項目もあり、木の実の状態の森の賢者から、滅多に人間の文明には姿を見せないとされる、茂みのように木の葉に覆われた森の賢者までの説明が書かれていた。
その、殆どの魔術師達が見ることもないまま一生を終える森の賢者を知っているのだと思えば、エーダリアは嬉しくなった。
魔術書には知識の泉としての役割だけではなく、また、憧れで覗く魔術の窓でもなく、知り得ているからこその充足で開くという楽しみ方もあるようだ。
「………………森編みの獣………。これは以前にガレンの文献でも見たことがあるな。………夜鷺は、ウィームでは久しく出現報告がなかったが、ネアが見たと話していたな。……………エーデリアの原種すら残る太古の森が残るあわいの駅…………これは、………」
ここで首を傾げ、それは誕生日の日に皆で訪れたあのあわいの駅だろうかと首を傾げる。
(…………また、あのようなところに行けるだろうか………)
不思議な列車に乗り、親しい者達と見たことのない場所ばかりを訪れる小さな旅をしたのは、あの日が初めてだ。
堪らなく魅力的な駅ばかりで気持ちが焦ってしまい、二度目があるのなら、より的確に観察するべきものを観察し、得るべきものを収穫したのにという反省もある。
不謹慎ではあるが、それを思うとまた呪われてもいいと考えてしまうくらいだ。
「………………ノアベルト?」
ふと、膝の上に這い上がって来た銀狐が、前足で魔術書の一点を示し、首を振っていることに気付いた。
解説があるのなら人型に戻ってくれると助かるのだが、残念ながら狐のままで何かを伝えたいらしい。
「……………森編みの獣のことだろうか」
そう尋ねれば、耳をぴしりと立てて仰々しく頷いてみせる。
気になったものは分かったが、やはりそれ以上の問題点は伝わってこない。
途方に暮れて首を傾げていると、銀狐はエーダリアの膝の上で小さく足踏みし、森編みの獣に対しての不快感を示してみせた。
「これは、良くないものなのだな?」
そう言えば頷いているので、詳細が書かれたページを捲り、森編みの獣について調べてみた。
するとどうだろう。
森編みの獣は、美しい漆黒の狐の姿をしており、旅人や狩人達を見付けると言葉巧みに編み物に誘いそのまま逃さず伴侶にした後、長い時間をかけて獲物を森編みの獣に変えてしまう害獣だと分かった。
その上、森編みの獣は、あまりにも見事な毛並みをしており、狐種の中でも特等の毛皮と言われているそうだ。
「……………ネアが遭遇しないといいのだがな…………」
思わずそう呟いたエーダリアに、銀狐は深く頷く。
「だが、私はお前のお陰で狐に親近感を覚えるようになったんだ。狐温泉にゆくのも楽しいし、この生き物も一度見てみたいような気もするが…」
そんなことを言いかけたエーダリアは、ぎくりとして言葉を切る。
膝の上の銀狐が涙目でこちらを見ており、その毛並みは悲しみのあまりにけばけばになってしまっている。
「い、いや、…………その、」
慌てて弁解しようとしたが、釈明をするにはいささか時間が足りなかったらしい。
銀狐は、ひょいっとエーダリアの膝から床に飛び降りると、ゆっくりと仰向けに絨毯の上に横たわり、次の瞬間、ムギャムギャと足をじたばたさせての大騒ぎが始まってしまった。
「お、お前の代わりにするようなことではなくて、そのだな、…………お前が側にいてくれるからこそ、狐というものに親近感を、……………」
ちっとも説明出来ておらず、エーダリアは途方に暮れて立ち上がろうとした。
すると、開いていた魔術書からしゃりしゃりとした削り氷のような結晶がこぼれ落ちる。
目を瞠ってそちらを見ると、細やかな魔術の軌跡が幾つも円形に弾け、床に落ちた結晶があっという間に根を張り、肘から下くらいの若木に育ってしまった。
「…………っ、」
呆然としている間にもその枝が伸び、若芽が美しく瑞々しい葉に育ち、淡い黄色の蕾が膨らむのをいっそ感動しながら見ていると、ふいに横から手が伸びた。
その途端、黄水晶の槿の成長が止まる。
「……………酒との相性かな。黄水晶の槿と木漏れ日の魔術だね」
「…………ノアベルト」
そこに立っていたのは、つい今しがたまで床に転がって暴れていた銀狐だった筈の、塩の魔物だ。
はっとするような白に氷色の髪色も勿論だが、滲むような鮮やかな青紫色の瞳に落ちる睫毛の影にまで静謐な光がしたたるような白さなのが、特等の魔物らしい美貌を際立たせる。
到底床を転がる銀狐には思えないが、最近はこの姿でもボールを見せるとぎくりとするようになってしまった。
どうも、追いかけたくはならないらしいが、宝物という認識ではあるらしい。
「うん、…………これで良しと。部屋を黄水晶の槿でいっぱいにすると、またヒルドに叱られるからさ。…………あ、そうか。特等の春闇の酒だから、この匂いで中の魔術が喜んだんだろうなぁ」
「…………それでだったのか。………すまない。魔術書との繋ぎは気を付けていたつもりだったが、影響を与えてしまったらしい。回収してくれて助かった」
これでも魔術師の塔の長なのだ。
今回のものは、部屋の内装以外に影響のあるものではなかったが、これがもし生き物を損なうような魔術の展開だった場合は、うっかりでは済まされない。
エーダリアは、対処してくれたノアベルトに感謝し、きちんと不手際を詫びた。
「こういうのは、偶然の範疇だから僕もよくやるよ。ほら、影響としてまずいくらいのものは最初に封じ込めていたから、問題ないよ。………それに、ええと……………今のは僕の所為でもあるからさ…………」
「……………ノアベルト、私はいつも言葉足らずだが、お前がいるからこそ、狐というものに親近感を覚えるようになったんだ。それまでは、やはり竜の方が好きで…」
「わーお、この状態では流石の僕も、獣の狐とは張り合わないよ!でも竜の女の子とデートをする時には、くれぐれも用心して欲しいな。ほら、あの子達って、火を吐いたり竜巻を起こしたりもするからさ」
「……………それは、付き合い方の問題なのではないか?」
「……………ありゃ」
ノアベルトの手が伸ばされた先で、黄水晶の槿は成長を止め、リィンと澄んだ音を立てて魔術の光の粒子になってほどけ落ちる。
「…………ノアベルト、今の魔術の光の中に、水色の煌めきがなかったか?」
「え、…………何か混ざり込んだかな…………」
「確か、こちらに光が消えたような。……………っ?!」
「おっと、森の飛び魚だ」
物陰からぴょんと跳ねた森の飛び魚は、言葉通り、小さな小鳥のような翼を持つ小魚である。
実体を持たずに彷徨う魔術の凝りのようなものだが、部屋に棲みつかれてしまうと勝手に増えるので、万が一、土地の魔術の調整が狂わせると厄介だ。
森の飛び魚は害のないものだとは言え、リーエンベルクもまた特殊な土地である。
「………くっ、このまま見失う前に、何としても捕まえなければ」
「………………わーお、すばしっこいなぁ……………」
その後、エーダリアとノアベルトは一時間程その小魚を追いかけ回し疲労困憊してしまい、書架の下に隠れてしまった飛び魚を捕獲する為に、仕方なくヒルドを起こしてくることになった。
この部屋から出ないように隔絶しておくのは勿論だが、捕獲を先延ばしにすることで、もし、リーエンベルクの他の区画に迷い込んだら二度と捕まえられないようなことになりかねない。
さしたる害はないとは言え、森の飛び魚は本来リーエンベルクにいなかったものだ。
生態系や、魔術の均衡を崩すのは宜しくない。
「やれやれ、あなた達は、目を離すとすぐこのようなことを……………」
「すまない……………。こんな時間に迷惑をかける…………」
そう、呆れ顔でこちらを見たヒルドは、室内着姿で駆け付けてくれた。
けれどもエーダリアが謝ると、呆れてはいるが怒ってはいないと、珍しく苦笑してくれた。
「森の飛び魚は、森の系譜の魔術や術式などのどこにでも紛れ込んでおりますし、休日の前の夜くらいはゆっくりされても構わないでしょう。今迄のあなたは、ウィームに対する執着以外には、まるで我欲がなさ過ぎましたからね」
「ヒルド………………」
「私がお諌めする時の殆どは、あなたがその身を危うくしかねない事案です。森の飛び魚くらいでは煩くしませんよ。…………ただし、体に悪い夜更かしは程々になさって下さい」
「……………ああ」
幼いあの頃に見たものより格段に柔らかくなった目でそう語るヒルドに、何だか胸の奥が優しい色に染まる。
(こんな風に微笑むヒルドを見ると、彼と共にここまで来られたことを、あらためて実感出来る………)
こうしてヒルドがエーダリアをただ甘やかしてくれる夜は、かつての二人が選べなかったものが、今は満たされているからこそ得られるものなのだ。
ここで、はっとしてノアベルトの方を見ると、そんなエーダリアの心の内までを見透かすような眼差しで、塩の魔物はにんまり微笑んでいた。
しゃりんと、また森の奥の方で美しい祝福の音が聞こえた。
ヒルドが呼びかけるだけで出てきた森の飛び魚も無事に捕獲され、再び美しい夜らしい静けさの戻ったエーダリアの部屋に届いたその音は、ここが願い続け漸く戻れたウィームだと、世界が約束してくれるような美麗な響きであった。




