晩鐘の魔物と失われた大事なもの
その日の夜、翌日の騎士の祝祭に向けてただならぬ様子の騎士達が、ウィーム各地から、続々とリーエンベルクの騎士棟入りをしていた。
騎士棟には、リーエンベルクの敷地内に入れる階位の騎士達に開放される部屋があり、広いウィームの領地のあちこちから集まった騎士達の内、各地の騎士団や隊を統括する役職付きの騎士達は、本日はこちらに泊まり、領内の様々な問題における報告会を行なう。
そんな、百戦錬磨の騎士達がたいそう鋭い眼差しであるのには理由があって、本来なら昨年の夏の入りだったヴァロッシュの祝祭が、何と年明けのこの季節まで後ろ倒しにされた悲しい事情があるのだ。
「この通り、祝祭に向けて名だたる騎士達が守っている土地を離れますからね。ウィームを落とすなら、これ以上ない好機とも言えます」
「…………確かにこれだけの騎士さん達が出て来てしまうのですから、離れたところで問題が起きたら心細いですよね…………」
領主の前での御前試合もあり、名の通った騎士達程土地を離れるというのが、この祝祭の最大の難点なのだろう。
とは言え、御前試合とは名ばかりで、各地の騎士達が腕を磨き、普段は手合わせをすることのない騎士達と実力を競う競技は、それぞれの土地の威信と騎士達の嫁取りをかけた一大イベントなのである。
この日ばかりは、二番手の副団長や副隊長ではならぬと、領民達も己の土地の名誉の為に自慢の騎士を送り出したいし、騎士達も人生を賭けて挑みたい。
(本当は、有名な騎士さん達こそ、出会いなんて幾らでもありそうなのに………)
そうもいかないのがウィームで、ウィームの騎士達は、とても残念なことに、独身率と離婚率が群を抜く魔術師的な気質を持つ者が多いのだという。
その結果、かなりの高給取りで見目麗しい男性達が揃っていながら、彼等をよく知る地元の女性達からはあまり人気がないという悲しい現実がある。
そんな彼等にとって、多くの女性達が憧れの騎士を見に来たその前で、存分に自己アピールが出来るこの祝祭程に出会いに適した場もないのだろう。
また、リーエンベルク側からしても、各地の騎士達の統括者の実力をある程度見ておき、試合の様子から気質なども含めて、どの土地にどのような戦力が備わっているのかを見極めるいい機会であった。
(……………でも、ここまで暗い顔になるのは多分……………)
ネアは今、騎士棟の前のリーエンベルクの庭の小道で、ヒルドと一緒に騎士棟にある会議施設に向かう各地の騎士達の移動を眺めている。
ウィーム各地の名だたる騎士達が並んで歩く様が見られる貴重な瞬間ということで、こうしてヒルドに連れて来て貰ったのだ。
「昨年の夏は、夏至祭で大きなあわいの波が立ち、海竜の戦がありました。秋にかけては蝕への備えがあり、尚且つ蝕そのものを経て、蝕直後のあわいの扉が開き易い不安定な時期へと続いたのですから、彼らをこちらに集める訳にはいかないのは当然なのですが…………」
「………………その結果、今年のヴァロッシュの祝祭の準備期間が、とても少なくなってしまうのですね……………」
「ええ。恐らく、彼等はもう今年のことを考えているのでしょうね。明日が終われば、すぐに今年の準備に入る訳ですから」
何の準備かを、あえてヒルドは口にしなかった。
腕を競う御前試合であれば、騎士達にとってはそれぞれの本分である。
いつ如何なる時も己の実力を出せるようにと日々研鑽を重ねる彼等にとって、多少、次の御前試合までの時間が短くなろうと、さしたる懸念はないだろう。
しかし、そんな勇猛聡明なるウィーム自慢の騎士達を震え上がらせる恐ろしい時間が、明日のヴァロッシュの祝祭には控えているのだ。
(……………人形劇のことを考えると、憂鬱なのだと思う…………)
よりにもよってと言っていいものか、明日の祝祭では、騎士達による人形劇が予定されている。
これは伝統の出し物の一つなのだが、己の演じる人形までを自分達で作らねばならず、本来の自分からかけ離れた役を得てしまうと、綿密な市場調査と長い裏声の鍛練の日々などが、騎士達を待っている。
体格のいい騎士達が、王子に愛を誓う場面の裏声の練習をしながら、ちまちまと愛くるしいドレス姿のお姫様人形を作っているところなどは、決して覗いてはならない世にも凄惨な光景であると言われていた。
「………アンゲリカさんです!」
ネアは、見知った騎士の姿を見付けて小さく弾んだ。
アンゲリカは、優しい微笑みの青いサナハムの槍を持つ騎士で、かつて一緒に任務に当たったことがあるのだ。
なお、彼の持つ槍は美しい精霊の少女になると聞いているが、とても恥ずかしがり屋であるそうで、ネアの前には姿を現してはくれなかった。
「…………浮気…………………?」
「そんな悲しげな声で言わなくても、私の伴侶はディノだけなので、浮気はしませんよ?」
「………君は、騎士の装束が好きなのだろう?」
「………………む。…………むむぅ。こうして眺めていると、たいへん眼福だと言わざるを得ません………」
「ネアが騎士服に浮気する……………」
「安心して下さい、ディノ。私もなかなかに冷酷非道な人間ですが、中身より衣装を優先することはありません」
「………………本当かい?」
「なぜ疑わしげなのだ。伴侶の分別を信じて下さい……………」
魔物は、たいそうじっとりとした目で周囲を威嚇していたが、この時間は、騎士達にとっても意味のあるものだった。
離れた位置からネア達を視認させ、彼等のような者達ですら生涯目にすることがない可能性の方が高いと言われる、白持ちの魔物の姿に慣れさせる為の時間なのだ。
体のどこかに白を持つ人外者は、こちらの世界では白持ちと呼ばれる。
身にその色を持つ者であれば、例え民衆を食い荒らし街を焼くような災厄レベルの生き物であっても、その被害に遭った国家が彼等を討伐対象にすることはないと言われていた。
それは白を持つ人外者達の力があまりにも強大であり、大国の兵士達が束になっても敵わないという大前提において、より被害を少なくする為の暗黙の了解である。
尚且つ、白を持つ人外者を運良く滅ぼせたとしても、その土地は白持ちの人外者の崩壊に合わせて共に滅びるのが目に見えているし、場合によっては怨嗟や呪いで土地が穢れ、何百年も人が住めない不毛の土地となることもあるらしい。
そのような土地ばかりになっても大変なので、白を持つ人外者達が崩壊を控える場合は、終焉を司る魔物が、周囲を鳥籠と呼ばれる魔術的な覆いをかけて隔離地にしてしまい、広範囲への影響を押さえることが常だ。
であったとしても、それだけの力を持つ生き物が滅びると、その年には“蝕”と呼ばれる、大変厄介な魔術的な変動が起こってしまう。
それだけ、白を持つ生き物達はこちらの世界では厄介な存在であり、ネアの生まれた世界の神と呼ばれるものに相当する、類い稀なるものなのだ。
「……………ディノ、背後から私の羽織ものになるのか、三つ編みを持たせるのか、せめて二択にして下さい。両方もとなると、私にもいささか荷が重いのです」
「ネアが虐待する…………」
「解せぬ」
とは言え、ネアの伴侶になったこの魔物は、この世界において最も多くの白を持ち、尚且つその白が虹持ちでもあるという、言わば世界最高峰の白なのだが、残念ながらこの様子であった。
少し離れた位置で、ボールを咥えた銀狐姿で登場し、びょいんと跳ねて騎士達に遊んで貰おうとしている塩の魔物といい、この世界の高位者達の全てが、完璧な存在ではない。
「……………失礼。あれを捕まえてきます」
「義兄が、ご迷惑をおかけします…………」
「いえ、私の友人でもありますからね……」
そう微笑み銀狐の方に歩いて行ったヒルドの目は笑っていなかったので、通りがかった騎士からこっそりおやつジャーキーを貰って尻尾を振り回している魔物は、この後みっちりと叱られてしまうだろう。
「ノアベルトが……………」
「そしてやはり、ディノは、ノアが狐さん全開になると、しょんぼりしてしまうのですね…………」
「ノアベルトは、戻ってきてくれるだろうか………」
「立派な魔物さんでもあるので、きっとそのことを思い出してくれると信じています。明日のエーダリア様の護衛のお役目に支障がないといいのですが………」
「明日までに魔物に戻れるのかな…………」
「…………む、むむぅ。ノアを信じましょう…………」
ムギーと声が聞こえ、ヒルドに首筋を掴まれて持ち上げられた銀狐は、何とか自分が魔物であることを思い出してくれたようで、尻尾をけばけばにして呆然としていた。
てんてんと、咥えていた口から落ちて弾んだボールを拾った騎士の一人が、涙目の銀狐の頭を撫でてやってから立ち去ってゆく。
一介の騎士が、白持ちの公爵の魔物の頭を撫でるという、一種、異様な光景ではないか。
「……………戻ってきますよ」
「…………うん」
ヒルドに抱えられ、けばけばの銀狐がこちらにやって来た。
ネア達の姿を見つけると、またけばけば度を増し、抱き上げに変えてくれたヒルドの腕の中にさっと顔を隠してしまう。
「ノアベルト、そろそろ近くに晩鐘の魔物が巡って来るそうだから、明日は人の姿でいた方がいいだろう」
「…………ディノ以外にも、万象の魔物さんがいるのですか?」
「夕暮れから夜にかけて、鐘を鳴らす晩鐘の方だよ。ひと柱ではなく複数人存在する魔物で、もうすぐウィームにやって来るのは、一の鐘だ。夜の穏やかさを告げる鐘の魔物で、ノアベルトとは親しくしていたそうだからね」
「……………狐さんがたいそう震えていますので、何となく、どのような関係なのか分かる気がします」
銀狐姿の義兄がとても怯えているので、これは別れ方がまずくて拗れている案件だと察したネアは、素早くヒルドと視線を交わしておいた。
場合によっては、お相手の女性に刺されてしまったりしがちなのがこのノアなので、エーダリアの護衛中にそんなことにならないよう、万全の警戒が必要になりそうな案件である。
「…………穏やかな方だというのに、ノアは、拗らせてしまったのですね?」
ふかふかの首毛を撫でてそう問いかけたネアに、銀狐はふるふるしながら必死に目を背けているので、やはり、かなり後ろめたいことがあるに違いない。
ネアは、その晩鐘とやらはどんな存在なのだろうと、羽織ものの魔物に尋ねてみた。
「ディノ、その魔物さんは荒ぶると怖いのですか?」
「本来は穏やかな気質の者だよ。ただ、晩鐘の魔物は、障りを受けるとその相手の大事なものを奪うと言われているから、ノアベルト本人にしっかり対応させた方がいい」
「……………まぁ」
「………………ネイ、早く人型に戻るように」
周囲に障りがあると聞き、すっとヒルドの周囲の温度が下がった。
抱きかかえられたまま、ヒルドにとても冷たい目で一瞥されてしまった銀狐は、涙目でこくこくと頷くと地面に放たれ、冬毛でもふもふのお尻を見せながら、たたっとどこかに駆けていった。
銀狐が見えなくなると、ヒルドは小さく溜め息を吐く。
「やれやれ、ディノ様にご指摘いただかなかったら、危ういところでした………」
「ディノ、その晩鐘さんは、もうすぐ到来しますよというようなお知らせがあるのですか?」
「魔術的なさざ波のようなもので、近付いてくるのは分かるよ。それに、来訪の前夜になると、私達魔物には、前触れのような晩鐘の鐘が聞こえてきたりもするからね」
「ふむふむ。きちんとお知らせがあってから訪ねてきてくれる、礼儀正しい魔物さんなのですね………」
「そういう者だけでもないかな。晩鐘は系譜を二つ持つ魔物で、鐘が持つ数字ごとに信仰と時間のそれぞれに属しているんだ。今回の一の鐘は、時間に属しているので報せがある。信仰に属している晩鐘達は、また少し気質が違うので注意をした方がいいだろう」
(注意をした方がいいくらい、怖い魔物さんなのだろうか?)
ディノが少しだけ酷薄な気配を声に乗せたので、ネアは首を傾げてみた。
表情を覗き込めればもっと気分が分かるのだが、残念ながら今のディノは、ネアの背後で羽織ものになっているのだ。
とは言え、三つ編みがもう一度投げ込まれてきたので、危険な魔物なのだなと判断する。
「…………信仰の系譜の晩鐘の中でも、四と七の鐘は、子供を攫うので注意した方がいい。一人でいる子供を晩餐に誘い、食事が済むと殺してしまうこともある。見知らぬ者からの晩餐の誘いには、絶対についていかないようにするんだよ」
「……………とんだ不審者でした。幼児を狙うような趣味の魔物さんには、絶対についていきません……………」
「……………彼等は、子供達が夢中になるようなご馳走を用意するんだ。飴や焼き菓子で誘導することもある。振る舞われたものを食べてしまえば、信仰の系譜の支配下に入ってしまうから、くれぐれも気を付けるように。例え晩鐘以外の相手であっても、お菓子に釣られて誰かについていってはいけないよ?」
「………………むぐる。幼児相当の諸注意がびしばし来るのはなぜなのだ」
「ご主人様…………………」
既婚者に対してのその注意は、たいへん遺憾であると言わざるを得なかったが、なぜかヒルドまで真剣な顔になってしまい、お菓子を見せられても、絶対について行ってはいけないと言うではないか。
他にも、誰かの知り合いだと言われても、まずはこちらに確認するようにと言い含められ、ネアは悲しい目で遠い空を眺めた。
銀狐はそのまま戻って来なかったので、どうやらノアは、荒ぶる元恋人に会いに行ったのかもしれない。
その後、騎士達の移動を見送ってすっかり騎士服欲を満たしたネアは、部屋に帰ることにした。
騎士達の会議が終わるまでは、暫くの自由時間である。
(領内の各地から上がってくる問題を取り纏めた報告書に、ディノと一緒に目を通すことになっているけれど、困った事件が起きていないといいな…………)
それらの問題は、この後の会議で、エーダリアやヒルド、ダリルも参加して事前に審議されるのだが、その上でもなお状況が不透明なものに関しては、ディノやノアが一度目を通し、高位の魔物の目線で解決が図れるものかどうか分類するのだ。
「これからは何をするんだい?」
「私は資料を纏めますので、ディノはのんびりしていて下さいね」
「…………資料を作るのかい?」
部屋に帰ったネアは、予め作ってあった騎士メモに、先程眺めた騎士達の特徴などを書き込んで午後までの時間を潰すことにする。
勿論これは極秘資料になってしまうので、リーエンベルクの緊急避難路などをまとめた資料と共に、持ち出し禁止の覚え書きとして部屋の中で運用するしかない。
とは言え、こうして記録して時間のある時に覚えるようにしておかないと、いざという時に何度も誰かに教えを請うことになってしまう。
(自分で色々なことを考えられるようにする為に、こういう情報は必要だわ…………)
しかし、騎士服の色分けの特徴を記した小さなメモに、先程見たものや、ヒルドに教えて貰ったことをあれこれと書き込んでいたところ、伴侶の魔物が、ネアがあまりにも騎士について熱心過ぎると拗ねてしまった。
「…………でも、覚えておけば、何かあった時に判断の材料になります。なお、私には大事な魔物がいますし、騎士さん達も、お仕事柄清廉であることを求められる側面が強いので、既婚者には興味を持たないと思いますよ?」
「でも、君は可愛いから危ないだろう………………?」
「………………むぐ。その認定は吝かではありません」
ここは、そんなことはないので大丈夫だと言うべきだったのだが、ネアはとても心の弱い人間であったので、可愛いという素敵な評価は逃さず拝受させていただき、魔物はますます悲しげな目になってしまう。
「でも、例えそうだとしても、私が騎士さんに浮気をすることはありません。なぜならば、………………は!ここからは、私とディノの内緒のお話なので、こそこそっと言いますね。ディノも、これから私が話すことは、誰にも言ってはいけませんよ?」
「ご主人様……………」
ネアがそう囁き体を寄せると、魔物は目元を染めて恥らいながら、こくりと頷いた。
そんな魔物に、ネアはとっておきの秘密を教えてやることにする。
「騎士さん達は確かにとても素敵な方達ですが、実は私は、そんな騎士さん達が霞んでしまうような素敵な魔物を知っているのです。例え騎士さんであったとしても、私の伴侶な魔物には遠く及びません。よって、私が浮気をすることはないのでした!」
「ネア………………」
声をひそめて耳元でそんなことを言われてしまった魔物は、上気した頬を両手で押さえる乙女のような仕草をすると、立ち上がってふらふらと歩いてゆき、毛布を固めて作った巣の中にびゃっと隠れてしまった。
暫くはその中から、ずるいだとか可愛いだとか声が聞こえてきていたが、ネアはこれでいいだろうと男前に額の汗を拭うと、その声を気にせずに書き物机に向き直る。
漸く背後からじっとりとした目で覗き込む魔物がいなくなったので、途中になっていた作業を心穏やかに進めることが出来た。
なお、出かけていったノアは、夕暮れ前に、よれよれになってリーエンベルクに戻ってきた。
ノアが大変なことになっていると連絡を受け、エーダリアの執務室に駆け付けたネア達を待っていたのは、何とも奇妙な光景だった。
ノアの、ぼさぼさに結い上げていても綺麗な艶のあった髪の毛はぱさぱさになり、澄んでいた青紫色の瞳はとても暗い。
戸口にネア達が現われると、ノアは酷く儚い眼差しでこちらを見て、またかくりと項垂れた。
聞くところによると、魔物らしい酷薄さで、もし晩鐘の魔物がリーエンベルクの大事な家族を損なうのであれば、一の鐘の魔物をどうにかしてしまおうと思い近付いたところ、うっかり気付かれて、返り討ちに遭ったあげく障りを受けてしまったらしい。
「そうなると、ノアベルトの周囲の者が被害に遭ったりしたのかい?」
晩鐘の魔物の障りは先述の通りなのでと、ディノがそう尋ねれば、エーダリアは静かに首を振った。
幸いにも、今回、障りの影響を受けたのはノア自身のみで、誰かが巻き込まれたりはしていないという。
「でも、この落ち込みようなのですね?」
「………………ああ。それで、私もどうしたらいいのか分らなくて、困っていたのだ。そ、その、………ノアベルトが泣いているということ自体、滅多にないことだからな」
「言われてみれば、狐さんではないノアが泣いてしまうことは、あまりないですよね…………」
「思い出してみれば、きりんなどお前の武器が原因の時が殆どか……………」
「むぐぅ。それもこれも、魔物さんがあまりにも儚過ぎるからなのです………………。ところでエーダリア様、……………その、ノアが障りを受けてしまったのは分ったのですが、なぜノアは、青いボールを手に持って泣いているのですか?」
ネアがエーダリアにそう尋ねると、ノアの体がびくりと揺れた。
また悲しい目でこちらを見るので、ネアは歩いて行ってノアの隣に座ると、深い深い溜息を吐いて項垂れた魔物を丁寧に撫でてやった。
以前には、元恋人に燃やされそうになったこともある筈なのだが、今回は随分と落ち込んでいる気がする。
「もしかして、また刺されてしまったのですか?」
「ボールが全部取られた………………」
「む……………?ボール………………?……」
「ボールを奪われてしまったのかい?」
「エーダリア様、ノアは、元恋人さんの障りを受けてしまったのではないのですか?」
「その結果、ボールを奪われたらしい…………………」
「まさか、ノアの大切なものとして……………?」
「ノアベルト………………」
みんなに見つめられ、もそもそと悲しげに告白した魔物によれば、結局ノアはかつて手酷い別れ方をした元恋人に許して貰えず、大事なものを奪われるというその報復により、隠し持っていた全てのボールを取り上げられ、すっかり抜け殻のようになって帰って来たようだ。
僕のボールと呟いてまた涙を浮かべているが、ここにいるのは、かつてはヴェルリア王家を呪い、統一戦争の指揮を執ったヴェルリア王の命すら奪った、長命老獪な恐ろしい魔物だった筈なのだ。
けれども今は、お気に入りのボールをごっそりと奪われ、この世の終わりのような目をして長椅子に力なく腰かけている。
「……………で、でも、ノアにとってはボールの一つにも思い出があるのですよね?」
「そういうものは、あまり持ち歩かないようにしていたんだ。落したりすると嫌だからね。でも、ヴァロッシュの祝祭を控えて出ていた屋台の一つに、あのチーズボールを見付けて沢山買い込んでおいたんだよね………………」
「……………チーズボール………………」
チーズボールとは、あぐあぐ噛んでいると美味しいチーズの味がする、ペット達のみならず獣型の使い魔も大喜びするという美味しくて楽しいボールだ。
ノアは、それを一人のお買い上げ上限数の、七個も買い占めてしまい、大事にポケットにしまっておいたのだという。
勿論、それを奪われて意気消沈しているノアもとても可哀想ではあるのだが、ネアは、元恋人への報復として一番大事なものを奪おうとしたら、チーズボールが七個も出てきた晩鐘の魔物もちょっと可哀想だなと思った。
「…………ノア、まだそのお店は、あるのでしょうか?」
ネアがそう尋ねると、こちらを見た義兄は、公爵位の魔物らしい美貌でネアを見つめると翳っていた瞳をきらきらさせ始める。
その様子があまりにも痛ましく、ネアはついつい身内に甘くなってしまうより他になかった。
結局その日は、何はともあれまずは一度チーズボールを買いにゆくことになり、ネア達はまだ店頭に在庫のあった五つを買占めさせていただき、速やかにリーエンベルクに戻った。
新しいチーズボールを紙袋ごとぎゅっと抱き締めた塩の魔物が、もう二度とこのボールを手放さないよと誓うので、ヒルドはとても呆れていたようだ。
なお、忙しい明日の祝祭を控えたエーダリアの寝室には、その晩、涙目の銀狐がチーズボールを咥えたままこっそりお泊りしたらしい。