水路の獲物とアイスケーキ 2
「…………そうか。境界の竜なのだな。………これは、対処法の確定が難しいかもしれない。ウィームでは、出現報告の事例がないのだ」
「まぁ、となると初めての出現なのですね………」
「ああ。元々、ウィームでは境界の規約を守る者が多い。番人の必要がないのではという研究論文が出ているくらいだ。私としては、後出の論文の、番人が必要ないくらいに境界が多いからではという視点が正解ではないかと思っているのだが………っ、すまない。論点が逸れた………」
ちりりと、どこかで鈴玉が鳴いている。
境界の竜のいる水路の合流地点を離れると、周辺の街路樹や緑地に暮らす生き物達の生活音も戻って来た。
領民の往来は規制しているので、ネア達はウィリアムがどこからか取り出した木の椅子に座り、臨時作戦本部で、リーエンベルクの仲間達と議論を重ねている。
一度リーエンベルクに戻るという事も思案したのだが、興奮させてしまった境界の竜をこの場に残して立ち去る事は出来なかった。
小さな丸テーブルには、ネアが水筒で持ち込んだ冷たい紅茶を入れたグラスが置かれ、近くの木の枝からむちむちしたおまんじゅう生物が憧れの眼差しで見ている。
「ネアから聞いた姿からだと、北海の竜と雪熊が近いかな。後は岩竜の亜種にもそんな形の生き物がいるよ。ただ、姿を変えられるって事は、今の姿が本来の姿かどうかも怪しいね」
そう呟いたのはノアだ。
ヒルドは現在、ダリルと共に街の各所との連携に当たっており、騎士棟で仕事をしているらしい。
境界の竜で間違いないと報告した事で、魔術の豊かな土地だからこその調整があちこちで必要になってしまったのだと言う。
対処法の模索が難しいのであれば、やはり火力でごり押しだろうか。
ネアは、激辛香辛料油や戸外の箒、最終手段としての子守唄など、あれこれと策を巡らせ頭を悩ませていた。
きりんが使えないとなると戦力的には手痛いものの、その他の道具の有用性や魔術抵抗値を踏まえ、そして何よりも、ここで外部協力者となっているのがウィリアムとダナエであることを考えると、他の騎士に交代せずにネアが引き続き現場に残った方がいいだろうと思ったのだ。
しかし、ここでディノが、ネアが現場に残る事に異論を唱えた。
「ネア、君はこちらに戻ろうか」
「ディノ、それはいけません。………勿論、どなたかと交代する事も考えましたが、これはウィームの問題なのですから、依頼主である私が避難してしまい、ウィリアムさんとダナエさんにお任せするのは無責任です。となれば、やはり私はここにいるべきでしょう」
「ウィームの者をというのであれば、騎士達でも構わないだろう。………君は、運命の足場が悪い。境界の者に触れるべきではない」
僅かに声音を冷ややかにしたディノの言い分は、尤もである。
だが、ネアにはネアの、人間としての立場があった。
任された仕事を全うするというのは、やはり疎かには出来ない事である。
これは妥協するべき場面もあるが、あまり雑になあなあにしてしまうと、後でしわ寄せが来る可能性もあるので慎重に擦り合わせなければならない。
エーダリアがすかさず撤退を命じないのだから、ネアと同じ懸念を抱いているのだろう。
ここは、優しい家族としてのエーダリア個人ではなく、戦力的な問題を比較した上でウィーム領主として考えなければならない場面だ。
(同時に、運命的な危うさがあるとなれば、私がこの場で足を引っ張ってはならないのだ。とは言え、ウィリアムさんとダナエさんの協力を引き続きお願い出来るとなると、他の騎士さん達では弱いのではないだろうか…………)
人間の作法と人外者の作法は違うものだ。
自分でなければ彼らが力を貸してくれないと言うつもりもないが、人外者は組織ではなく個人にその叡智や力を貸し与えるのだと聞いている。
であれば、窓口となる人間を変える事は不作法ではないだろうか。
そして、この二人の人外者としての階位などを考えると、ネアと交代になる誰かでは負担が大き過ぎるような気もする。
(グラストさんは、傷が目にかかっていたから大事を取って魔術洗浄中で今は動けないし、ゼベルさんはダナエさんとはお喋り出来るけれど、ウィリアムさんとはそこまで仲良しではない印象だし…………)
「…………ディノ、ちょっと現場でも話し合いをするので、少しだけ待って貰えますか?」
「………君が、もう一度その場所に戻るという事は、許容出来ないよ」
「だとしても、代替案を受け入れて貰えるかどうかの確認をしなければなりません。ここで相談しますので、こちらの話を少しだけ聞いていて下さい」
「…………うん」
ネアは少し悩み、ここは素直に聞いてみる事にした。
ディノは不安そうだが、現状最も蔑ろに出来ないのが、もう一度あの竜への対処をお願いする二人の外部協力者への意思確認である。
椅子の上でもぞりと姿勢を変え、ネアは、同じ丸テーブルを囲んだ二人に向き合う。
「…………お二人には、ディノや私が窓口になって今回のお願いをしています。それなのに、私がここを離れる事を不作法だとは思われませんか?勿論、どなたか私と交代の方がいらっしゃいます。とは言え、それで良いだろうかと心配なのです」
おずおずとそう尋ねてみると、ウィリアムは驚いたように白金色の瞳を丸くした。
「…………もしかして、それでこの場を離れられないと思ったのか?」
「ええ。お二人は、私のようにリーエンベルクの職員という訳ではないのです。助力をお願いしている私がここから安全な場所に避難してしまい、本来ならこの問題には関わりのないお二人が危ない場所に赴くというのは、いささか筋が違うのではと考えました」
「ネア、…………そんな事は気にしなくていい。リーエンベルクと連携を取れるようにする必要はあるが、それさえ叶えば、君が危ない場所に留まる必要はないんだ」
しかし、そう言ってくれたウィリアムも、少し慎重な眼差しでダナエの方を窺うではないか。
ネアは、やはりこの辺りは本人に問わねば何が正解なのか分からない部分なのだと、そっと春闇の竜の返事を待つ。
二人分の視線を集めたダナエは、桜色の瞳をゆるりと巡らせ、小さく首を傾げる。
さらりと流れ落ちた濃紺の三つ編みは、陽光にきらきらと光る宝石質な髪色が美しい。
「………どうだろう。ネアがいないのであれば、あの竜に関わる必要はないのかもしれない。でも、棘牛は美味しいし、リーエンベルクは好きだ。それに、小さな子供を危ない場所に近付けるのは確かに良くない」
「ダナエ、であればネアは安全なリーエンベルクに戻さないか?」
「………そうだね。それでも構わないよ。ただ、怪我をするとバーレンが悲しむから、そのような無理をしてまでは力を貸せないかな」
「まぁ、それは勿論です!お二人が怪我をする危険がある場合は、他の手立てを考えていただくようにします」
最初からそこまでの負担をかけるつもりはなかったのだと、ネアは、拳を握って慌ててそう主張した。
この問題はやはり、ウィームのものなのだ。
そこに属していない二人に、怪我を負う程の負担はかけられない。
自らの意思でこの土地に属している他の魔物達と、ウィリアムやダナエでは、引き受けられる分量が違って当然ではないか。
だが、そう考えてふんすと胸を張ったネアは、一つだけ大事な事を忘れていた。
ふっと淡く微笑んだウィリアムに、いきなり膝の上に抱え上げられてしまい、目を瞬いていると、どこか魔物らしい酷薄な微笑みを浮かべたウィリアムに、まるでアルテアのようにおでこをぴしりと叩かれた。
「…………むぐ?!」
「ネア、俺は君の騎士でもあるんだろう?」
「…………は!…………はい。勿論そうなのです」
「であれば、この問題は俺の問題でもある。ここは、君が暮らす土地なんだからな。ダナエと俺の線引きは違うぞ?」
「そ、そうでした…………」
すっかりその要素を失念していたネアが露骨に視線を彷徨わせると、ウィリアムは、ぞくりとする程綺麗に、にっこりと微笑んだ。
だが、白金色の瞳はさっぱり笑っておらず、だらだらと冷や汗をかいている人間にぐいっと顔を近付け、おでこをくっつけるようにする。
「…………忘れていたな?」
「むぐ。………先程までは、過分な負担をかけてしまい、大事なお二人との関係性を損なう心配ばかりしていました………」
「そうか。近い内に、もう少し自然に俺に甘えられるよう、絆を深められる機会を設けた方がいいな」
「ウィリアムなんて…………」
通信の向こうからディノの拗ねたような声が聞こえてくるが、この場面では、ウィリアムの主張が正しい。
せっかく結んでくれた絆があるのに、それを失念したのはネアなのである。
許されていない部分まで踏み込み甘えるのも問題だが、同じように、与えられたものを粗雑に扱う事も不作法と言えよう。
「人間は、不思議な事で悩む」
「…………む、ダナエさんにも呆れられている気配がします」
「ネアが私の力を借りようとしても、ネアに失望する事はない。そのような事を不快に思う相手であれば、そもそもここにいないから」
「………はい。それも充分に理解し、そうして力を貸して下さることを、とても嬉しく思っているのです。ただ、私はやはり人間で、竜さんや魔物さんとはどこかで感覚のずれが生じる可能性もあるのでしょう。大事なお友達を失いたくないので、こちらの要求や発言に対しこれはどうだろうと思った場合は、愛想を尽かしてしまう前に、承諾しかねる言動だと教えてくれますか?」
そう言えば、ダナエが瞳を揺らした。
困惑したようにこちらを見るので、またしても何か言い方がまずい部分があっただろうかと息を詰めていると、暫しネアのことを見つめてから、はっとする程に艶やかに微笑むではないか。
「君は、そう思うんだね。…………こんなに丁寧に、友達でいられるようにしてくれた人間は初めてだ。………嬉しい」
目元を染めてもじもじする竜の姿に、失敗ではなかったようだぞとほっとしたネアもふにゃりと笑う。
ネアは、自分の社交技術の低さをよく知っている。
魔物達とは距離感の違うダナエとの交渉なので、関係を損ないたくない強欲な人間は、少し緊張していたのだ。
とは言えここで油断して甘え過ぎてもならないので、慎重に境界の竜への対応を再編して貰おう。
(知り合いへのお願いや相談とは違うのだ。これは仕事で…………、)
そしてネアは、ダナエが最初に難色を示したことを覚えている。
今は嬉しそうに口元をむずむずさせている春闇の竜は、知り合いであるネアがこの場を離れるのに自分がここに残る必要はあるのだろうかと、少しであれ、考えはしたのだから。
「ディノ、という事ですので、こちらを離れても大丈夫そうです」
「うん。すぐに迎えに行くよ。………ノアベルト?」
「ちょっと待ってシル。ネアの代わりにそちらに行くのが、誰だか決めた方がいいね。と言うか、魔術の資質が悪影響を及ぼしかねないのであれば、人間に擬態して僕がそちらに行こうかな。少なくとも、ネアよりも抵抗値の低い騎士達を向かわせるよりは安心でしょ」
「ノアベルト、…………任せてしまっても構わないか?」
「うん。そこの二人と円滑にやり取り出来る騎士となると難しそうだし、その生き物の事もちょっと気になるからね。ただ、人間に完全に擬態するから、知恵以外の面ではあまり役に立たないよ。でもまぁ、何かあった際に死なないっていうのが、一番大事だと思うからさ」
(………良かった。ノアなら、安心だわ)
リーエンベルクに属しており、ウィリアムだけではなく、ダナエとも面識がある。
そして、その二人への耐性もある。
ネアが懸念していた部分を綺麗にクリアしているので、安心して交代出来そうだ。
「ノアが交代要員だと、とても安心です…………」
「僕の妹が現場を離れるのを躊躇した要因の一つは、交代要員の人選の難しさだと思ったからね」
「ふふ、ノアにはすっかりお見通しでしたね」
「…………そうか。他の騎士達では、力を振るうウィリアムとダナエの近くにいることは、負担なのかもしれないのだね」
ディノがそう呟き、ネアは、伴侶な魔物がこの調整の必要性を理解してくれた事に安堵した。
それでも、戻ったら我が儘を聞いてくれた事にお礼を言わなければならない。
その線引きが人間とは違うのは、ディノもなのだ。
さわりと、穏やかな風が吹いた。
隔離結界で境界の竜のいる場所を覆ってしまっているので、こちらにまであの冷たい呼気が届くことはない。
この場を離れられると知り安心してしまったのか、ネアは、肌に触れた冷たさを思い出してぶるりと身震いする。
(…………確かに、アダンと言う名前だった、あの竜にも似ている…………)
ネアが竜の姿の海竜の前王を見たのは、彼が狂乱してからであったが、これまでに見た他の竜とは違う独特の姿は覚えていた。
(でも、頭部の形が違うような気がする。感じた暗さも、………もっと暗くて、…………青白い光の差し込む冬の海ではなくて、…………冷たい冷たい、冬の海の底のような…………)
どしどしと歩くと言うよりも、ぴしゃんと音を立てるぞろりと暗くて悍しいもの。
「…………あ、」
ここでネアは、漸くあの境界の竜が何に似ているのかを思い出した。
小さく声を上げたネアに、ネアを膝の上に乗せたままであったウィリアムがこちらを探るように見る気配がある。
顔を上げてそんなウィリアムを見上げると、ネアは、やっと思い出せた情報に気分を良くして、終焉製の椅子の上で小さく弾んだ。
「思い出しました!先程の竜さんに遭遇した際に、どこかでよく似たものに出会った事があるような気がしたのです。思い出せずにもやもやしていましたが、…………影の国で出会った、海からやってきた怪物さんに似ています!」
「………海から?」
「ええ。海の怪物さんなのです。ジアリノームと呼ばれてい…」
ぎくりとしたネアが言葉を切ったのは、そう口にした瞬間にウィリアムの表情が強張ったからだ。
ウィリアムは、ネアを抱え上げて勢いよく立ち上がると、まるでネアを守るようにケープで包み込んでくれる。
いきなりの展開にぽかんとしているネアは、ダナエも同じように立ち上がった事に驚いた。
「シルハーン、すぐにネアをここから離して下さい。境界の者の移動がある事自体、非常に稀な事だと思っていましたが、…………これは、前漂着でしょう」
「ウィリアムさん………?」
「おいで、ネア。リーエンベルクに帰ろうか」
「ほわ、ディノです………」
ウィリアムが口にした不思議な言葉にはっと息を呑んだのは、通信の向こう側の者達だけでなく、ダナエもであった。
一瞬で張り詰めた空気に目を瞬いているネアは、すぐさまこちらに来てくれたディノの腕に預けられる。
「…………良くないものなのです?」
「うん。どのような物なのかは、後で説明するよ。………ウィリアム、あの生き物が漂流物であれば君には近付かないだろうけれど、前漂着であれ、その気配を纏うものであれば、注意をした方がいい」
「ええ。…………ダナエ、君は、漂流物と出会った事は?」
「食べた事があるから、大丈夫だよ。でも、見境なく障る物だから、ネアは絶対に近付けさせない方がいい」
「…………漂流物を食べたのか」
(………漂流物)
それは、海から漂着する過去の世界の亡霊だという。
少し前にディノから説明を受け、出会ったものを差別なく呪う災いだと聞いていた。
けれどそれが現れるのは、少なくとも来年以降だと聞いていたのだが。
(前漂着という言葉からすると、漂流物が現れる前にこちらに流れ着く物なのだろうか………)
漂流物とはまた違うもののような言及もあったが、とは言え漂流物に関連性はあるのだろう。
ネアは、そんな生き物がいる場所に大事な人たちが向かうのだと思うと、あんな境界の竜などはどこかにぽいっと捨ててしまえばいいのにと、地団太を踏みたくなった。
だが、どうやら、そうせずにいた事は幸いであったらしい。
ふわりと転移の気配があり、ディノに続いて現れたノアが、そのような生き物への対処の決まり事を口にする。
「漂流物の予兆なら、安易にあわいに落とさなくて良かったね。適切な処理をしないと、却って漂流物を呼び込む事になる。…………うわ。自分で言っておいてだけど、そうしていたらと思うと、ひやっとするね………」
「ノアベルト、対処法を知っているかい?」
「うん。自分の意志で戻らせるか、殺すかのどちらかだよね。大丈夫だよシル。心配してくれて有難う」
思っていたよりも良くないものであったからか、残してゆくノア達が心配になったのだろう。
持ち上げたネアをぎゅっと抱き締めながらも、ディノは、ノア達がその対処法を知っているかを確認したようだ。
そんな家族だからこそのやり取りにほっこりしつつ、漸く探し物を首飾りの金庫の中から引っ張り出したネアは、手に持った薄く削いだ木を編んだ籠を、慌ててノアに手渡した。
「やっと見付けました!であれば、尚更好都合です。この籠を置いてゆきますね!」
「…………ありゃ、これ何?」
「漂流物とやらは、ジアリノームさんにとても近く、少し離れますがボジャノーイとも同じようなものだと聞きました。私がモナで遭遇したボジャノーイは、籠を窓から吊り下げておくことで追い払えるのですよ」
誇らしげに籠を持ち、ネアがそう説明すると、ノアの青紫色の瞳がゆっくりと見開かれる。
「…………わーお。もしかして今、凄いところから解決方法が導き出された感じ?」
「因みに、切れ目のない漁網なども効果があるそうです」
「そう言えば、その手の穢れに悩まされる土地では、障りのある日には籠や網紐を家の軒先に吊るすな………」
そう呟いたウィリアムが、ノアと顔を見合わせている。
ダナエは不思議そうに首を傾げ、ディノは目を瞬いていた。
「試してみるかい?」
「…………うん。ありゃ、…………これ、凄く効きそうな気がする」
「籠で追い払えるのなら、その方がいい。あれだけの境界の竜を殺すとなると、土地の魔術が荒れるだろう。美味しくないから、私が食べる事も出来ないし………」
「ノアベルト、その籠を貸してくれ。それと、似たような物が他にもあると助かる」
「うん。藤籠みたいな物じゃなくて、木の皮を編んだ物がいいのかい?」
「はい。この籠目の編み方が良いのだそうです。漁網の結び目も、籠目紋と同じ効果なのだとか」
「つまり、視認効果の災い除けってことだね」
ちょっぴり得意げになった人間から、籠の効能について説明されたノアは、ゆっくりと頷いた。
知る限りの対処法は伝えたので、ネアは、予備の武器としての激辛香辛料油の水鉄砲をノアに預け、その場から速やかに離脱する事になる。
はたはたと、ディノの纏うフロックコートの裾が魔術の風に揺れる。
刺繍に縫い込まれた祝福石が煌めき、静謐な白の色の中に、複雑な光の影が揺らめく。
淡い転移の薄闇の中で、ネアは、まだどこか不安げな目をした大事な魔物の三つ編みをしっかりと握り締めた。
「…………ディノ、さっきは心配してくれたのに、我が儘を言ってしまって、ごめんなさい。怖い思いをさせてしまいましたよね?」
そろりと話しかければ、こちらを見たディノが困ったように薄く微笑む。
「謝らなくていいよ。………今回は、君があの場に残ると言っても、そうさせてあげられなかったから」
「むぅ。ですがディノは、私がウィリアムさん達とお話をする間、待っていてくれました。それがとても嬉しかったので、今度の休日にはフレンチトーストを振舞います!」
「…………うん」
ふつりと目元を緩め、微かに微笑む魔物を見ている。
多分ネアは、あの場から強引に連れ帰られても、酷く怯えていたこの魔物に腹は立てなかっただろう。
けれど、だからこそこうして寄り添ってくれたことがとても嬉しいのだ。
そして、転移を踏んでリーエンベルクに戻った頃にはもう、水路に住み着いた境界の竜の問題は片付いてしまっていた。
「…………まぁ!もう、片付いてしまったのです?」
「ああ。お前がノアベルトに渡した籠を見せた途端、境界の向こう側に逃げ去っていったようだ。やはり、形状や種族は違えど、ボジャノーイやジアリノームと呼ばれる生き物と同じような成り立ちの存在なのだろう」
「帰ってしまったのだね………」
「む。ディノが、ほっとしたのか、くたりとしてしまいました…………」
「ご主人様…………」
大きな問題が解決し、どこか晴れやかな空気となったリーエンベルクだが、犠牲になったと思われる人々が戻って来ることはない。
このような場合は、安否不明という状態であれ、あの生き物を追っての捜索はなされない。
亡骸も戻らないまま失われる者達は、この世界では決して珍しくはないのだ。
だからこそ、決して万全とは言えない。
しかし、被害を最小に収め、次の訪れへの対処法を磨き上げるのが、この世界の生き方であった。
小さく息を吐き、領主としての落ち着いた眼差しでこちらを見たエーダリアがいる。
窓からの光に銀色の髪には鈍い灰色の影が落ち、鳶色の瞳には瑠璃色の陰りがあった。
「…………今回のようなものは、また現れるのだろうか?」
「知る限り、一つの土地に漂着する予兆は一つ限りだ。けれども、あちらの認識がどこまでを一つの土地として認識するのかは、私にも分からない。………ウィームではなくとも、国内で同じようなものが現れ、その問題の収拾が付かなければ、君の所に相談が持ち込まれるのだろう?」
「ああ。そうなるだろう。…………その場合には、また同じような対処法で効果があればいいのだが」
「この対処法で、問題ないのではないかな。ボジャノーイと今回の生き物は、種族だけでなく、属性も違うのは間違いない。それでいて効果があったのだから、海から這い上がって来る向こう側の要素を備えたものとして、或いはそれに近しい穢れを持つものとして、ひと括りでの効果なのかもしれないね」
(であれば、………この対処法は、漂流物にも効くのだろうか…………)
何となくだが、そちらはまた別のものという感じがしてしまい、ネアはむぐぐっと眉を寄せる。
そもそも、ボジャノーイはこちら側の生き物だと認識していたが、ディノの言い方からすると、あちら側の要素を兼ね備えているのかもしれない。
もしくは、海から上がってくるその日ばかりは、向こう側の何かを宿すのだろうか。
やがて、境界の竜が現れた土地の魔術洗浄などを終えたノア達もリーエンベルクに戻り、ダナエは、報酬の棘牛の解体と焼き上げが終わっている騎士棟に直接向かったようだ。
ネアは慌ててそちらに向かい、既にグラストの焼いたお肉を幸せそうに頬ばっていたダナエにまだ帰らないようにとお願いすると、ディノに乗り物になって貰って、ウィームの川沿いのお店で売られている美味しいアイスケーキを買ってきて渡しておいた。
美味しくないアイスケーキ風のものを食べてしまったばかりの春闇の竜は、棘牛焼肉の後の美味しい果物のアイスケーキをとても喜んでくれ、渡された十五個の内の二個はバーレンへのお土産にするそうだ。
棘牛の肉も持って帰ると言うので、ネアは、ディノに頼んで保温や保冷の魔術をかけて貰った。
現場での任務に当たれないのならせめてと、ダナエの報酬用の棘牛焼肉の担当になってくれていたグラストからもお礼を言われたダナエは、感謝されるという事がとても嬉しかったようだ。
グラストを傷付けた相手を追い払うのに助力してくれたと言う事で、ゼノーシュもクッキー缶を贈ったらしい。
(ダナエさんが喜んで帰ってくれたようで、少しほっとした………)
そんな事で安堵してしまう人間は、きっと、とても狡いのだろう。
だが、距離感に見合った付き合い方と礼儀はやはり必要で、強欲なネアは、一番大好きな竜であるダナエの友達の座を失いたくはなかったのだ。
「はぁ。今回の件は肝が冷えたよ。近い内に、モナでボジャノーイ関連の情報を集めた方がいいかもしれないね。同じようにはいかないとしても、今回の前漂着とボジャノーイが近いのであれば、モナには漂流物への対応策が風習や伝承として残っている可能性がある」
「…………その可能性もあるのだな。分かった。そちらは、ガレンで正式な調査班を選定しよう。…………ネア、今回はお前のお蔭で大きな被害を出さずに済んだ。感謝する」
「ふふ。あんな形になってしまい、まさかのきりんさんが不発でしたので、他の戦略を提案出来て良かったです。………ぎゃ!ウィリアムさんが!!」
「わーお。思い出したのかな………」
「ウィリアムが…………」
最後の最後で、境界の竜がきりん姿になったことを思い出してしまったらしい終焉の魔物が寝込むという事件があったが、ウィームで初めて観測された境界の竜は、こうして無事に消失確認という顛末になった。
ネア達はその夜、ダナエへの謝礼を購入した際に買っておいた美味しいアイスケーキをいただいた。
ホールケーキサイズなのでみんなで切り分けていただきながら、やはり、ぽつぽつとではあるが、前漂着や漂流物の話題も上がる。
「漂流物に関しては、海が異界の先、境界の向こうっていう認識なんだよね。前漂着ってのは、そうして海の底が動くことで、漂流物よりも海面近くにあった異物が押し上げられて現れるものなんだ。…………それにしても、モナの情報の有益さから考えると、あの土地にはあちら側の存在への対処方法を知る者がいたって事なのかも?」
「…………イブかもしれないね。彼は、体を追い出された後はあの土地に住んでいたのだろう?何らかの手段で土地の人間と言葉を交わす術を持っていたのなら、影の国への出入が可能だった彼程に、その知識に長けた者もいないだろう」
「あ、そうか。海竜の王だった訳だし、…………よく考えると、彼も、言うなればそちら側に近しい存在になっていたって捉え方も出来るのかぁ…………」
柑橘系の果実のソースがかかった、美味しいチーズケーキ味のアイスケーキをぱくりと齧る。
海の向こうから流れ着く者が、みんなあのジアリノームのように誰かを探して彷徨っている者なのであれば、それは何だか悲しい事のような気がしたネアは、そんな世界の終わりに生まれた、ディノに思いを馳せた。
この世界の理に属さない漂流物は、一度それを退けた事のある者のみ、耐性を持つのだと言う。
であれば、万象であるディノを傷付けられるものだと明確に判明しているそれが現れた場合は、ネアは、この大事な魔物をどこに隠せばいいのだろうか。
「ふむ。やはり、ダナエさんの中でしょうか…………」
「ネア?」
「漂流物めが現れ、もし私の魔物や、大事な方々に危険が及ぶような事があれば、全員をまとめてムグリスディノやちび狐やちびふわなどにしてしまい、私がその全てを抱っこしてダナエさんの春闇でくるっと包んで貰えばいいのです」
「…………え」
「そのお作法が求婚になるとは言え、危機回避に贅沢は言っていられません。いざという時は、大人しく抱っこされて下さいね」
「ネアが、虐待する…………」
「お兄ちゃんは、その提案はちょっと…………」
「…………春闇の竜の、春闇に転じた状態の中に………」
「エーダリア様?」
「………っ、ヒルド、…………いや、私はウィームの領主だからな。ここを空ける事は出来ないが………」
「やれやれ。もしもの場合は構いませんが、その場合はあくまでも避難としてですよ。私は遠慮させていただきますが、もしもの時はネア様にお任せしましょう」
「ネア?………俺の方は見なくていいんだぞ?漂流物は、終焉の気配を嫌うからな」
「…………むぅ」
うっかりわくわくしてしまったエーダリアを除き、それぞれに難色を示され、ネアはぎりりと眉を寄せる。
しかし、いざとなれば、どれだけ残虐だと謗られようとも、この全員を襲って持ち運びに長けたちび毛皮生物に変えてしまえばいいのだ。
そう考えた人間は、ここにはいない使い魔も含め、一斉に行動不能にするための道具などがあればいいなと、今後の開発を急ぐ事にしたのだった。




